メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ2:9-17:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
聖霊を受ける準備(使徒1:3-5):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:神の後悔(創世記6:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有
神は、人が罪を犯したらすぐに滅ぼすことはせず、戒めと憐れみを与え、人が悔い改める事を意思によって選択し、行動するのを待っておられる。
しかしカインの子孫は、その憐れみの機会を悔い改めには用いず、やられたら何倍にもして仕返しするという価値観の元、結束して暴虐の子孫を増やして行くだけだった。
この時代、主の御名を呼び求めるセツの子孫も増え広がっていったが、「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(2節)
「神の子ら」という言葉は、御使いを指して言う事もあるし、神に従う者たちを指して言う事もあるが、一つ、ここから分かる事は、私達キリスト者を含む「神の子ら」が、人の娘が美しいからと好き勝手に選んで妻にしてしまうと、良くない事が起こる、という事だ。
その結果、神の霊はその人にはとどまらなくなり、単に肉に過ぎなくなくなり、齢も縮められてしまう。(3節)
神の子が、人の娘と結婚した結果、生まれるのは、ネフィリムという巨人、力強い勇士、名のあるものである。
人の価値観では、より強い、よい大きい、より名のある、より美しいのは、望ましい事であるが、神から離れたそのような価値観において、それらを追求する結果、引き起こされるのは、人の悪が増大する事、人の心に思い量る事はいつも悪いことに傾く事である。
その結果、この世代はノア以外は神の目に適わぬほどにまで、全員が堕落してしまった。
神は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(6節)
『主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」』(7節)
せっかく自らの手で造った人なのに、神はなぜ、人を創造した事を後悔し、拭い去ろうと言うまでになってしまったのだろうか。
もし皆さんの顔写真が悪用され、皆さんの顔によって暴力や不品行が行われているコラージュ画像や動画などが大量に出回ったとしたら、そんな画像や動画を直視していられるだろうか。
神は人を創造された時、神に似るように、神のかたちに創造され、天地万物の全てが整って、その中にご自身の似姿である人間が収まった時、はなはだ良かった、と喜ばれた。
その、神の似姿として、良い行いをするために造られたはずの人が、暴力や不品行に満ち、創造された良き物を破壊し始める事は、神にとってどれほど残念で悲しむべき事だったろう。
「しかし、ノアは主の好意を得た。」(8節)
全被造物は、ノアの故に、滅ぼし尽くされなかった、と言っても過言ではない。
もし一人の義人が、その町に、その国に、その世界、その宇宙に一人でもいるなら、神はそれを滅ぼすことを、なさらない。
ノアの名前は慰め、新しい希望という意味である。
ノアがその世界にとって慰めとなり、滅ぼさない事の原因となったように、私達も信仰によって、その地域、その国にとって慰めとなれるし、新しい希望となる事が出来るのだ。
ノアが信仰によって、古い世界から新しい世界へと生きのびたように、私達も、信仰によって来るべき世へと移行して、御国を継ぐ事が出来るのである。
礼拝説教メッセージ音声:系図に秘められた福音(創世記5:1-32):右クリックで保存
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創世記5章は、アダムの子セツ以降、人類が一旦滅びるノアの時代までの系図である。
人名にはそれぞれ意味があるが、面白い事に、アダム系図の名前の意味を順に列挙して行くと、ある意味が浮かび上がって来る。
アダムは「人、土」という意味があり、セツは「約束の、授けられた、定着した」という意味で、エノシュは「脆い、致命的、悲惨」、ケナンは「悲しみ、哀歌」、
マハラルエルはマハラル「祝福」とエル「神」の合成で、「祝福の神」という意味、エレデは「降りてくる」、エノクは「教える、始まる、ささげる」、
メトシェラは「彼が死ぬ時、何かが起きる」、レメクは「嘆き、悲しみ」、ノアは「慰め、新しい希望」という意味である。
これらの名前をつなげると、次のようになる。
「人は、定着した(約束された)。脆さ、致命的、悲惨、悲しみが。祝福の神は、降りてきて、捧げた(教えた)。彼が死ぬ時、次の事が起きた。嘆き悲しみは、慰められた(新しい希望となった。)。」
これは、キリストを如実に表していないだろうか。
系図の中には他にも、福音がちりばめられているのを見る。
「エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。・・・エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:22-24)
エノクは信仰によって神と共に歩み、死を経験しないよう天に移された(ヘブル11:5)が、エノクは、信仰によって永遠の死から免れる、現代の私達の雛形である。
また、エノクはカイン系列の不信心な者たちに預言した。
『アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」』(ユダ14,15節)
彼は、邪悪な世代に対し、やがて主が来られて全ての人を裁かれる事を公に言った。
私達もまた、世に対して福音を伝え、義と裁きと救いについて伝えるべきである。
エノクは自分の子の名にメトシェラ(彼が死ぬ時、何かが起こる)と名付けたが、実際、メトシェラが死んだ年に、洪水が起こった。
(メトシェラが187歳になったとき、レメクを産み、レメクが182歳になった時ノアが生まれた。この時、メトシェラは187+182=369歳。
ノアが600歳の時に大洪水が起こり(7:6)、この時メトシェラは369+600=969歳、5章27節の彼の死んだ歳と一致している。)
メトシェラ自身の名前は、そのまま預言だったのである。
神は、前触れもなく突然裁きを起こすことはなさらない。
必ず預言の御言葉を人々に示し、そのとおりに事を行われるお方である。
私達もエノクやノアのように、邪悪な時代にあって御言葉を世に示し、伝え、信仰にあって生きていくのである。
このノアの時代に一旦人類は滅びたのだが、ノアは神とともに歩んだ信仰によって、滅び去る世から、次の新しい改まった世へと生きながらえた。
私達も、信仰によって次の世へと生き長らえるのである。
礼拝説教メッセージ:カインの子孫と神を呼ぶ子孫(創世記4:8-16)
※ 本日の録音は不備がありましたため、テキスト配信のみとなります。
神はカインの乞い願う憐れみに応え、だれもカインを撃つことのないようにと、しるしを付けて下さった。
彼はその施してくださった憐れみの故に悔い改め、へりくだって生きるべきであったが、そうではなかったようである。
彼は主の前から去って、町(城)を建てて住み、子や孫、ひ孫、玄孫、来孫を生んで行った。(17,18節)
カインの来孫にあたるレメクは、二人の妻をめとり、家畜を飼う者の先祖・ヤバル、笛と竪琴を巧みに奏する者の先祖・ユバル、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛治屋の先祖・トバル・カインを産んだ。
地が呪われ、農耕をする事はできなくなったカインは、代わりに、町を立てて集まり、畜産や芸術、技術などの文明を発達させ、神に頼るのではなく、結束して自らの力に頼って生きるようになった。
しかし、それは主から離れた生活、神なき文明であり、代を下るごとにその暴虐さは増して行く。
カインの子孫がどのような価値観であるのか、レメクの言葉から見る事が出来る。
『レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」』(創世記4:23-24)
カインは、やられたら七倍の復讐だったが、レメクの代ではそれが七十七倍に増加しており、少しでもやられたら相手を殺した事を妻たちに、しかも、誇らしげに自慢している。
このように、やられたら何倍にもして返す生き方、相集い、文明を発達させる生き方を続けて行くと、地は堕落し、暴虐に満ちて行き、神が心痛めるまでになるのである。(6章)
神はなぜカインを生かしておいたのか。それは、憐れみである。
人は、すぐにでも滅ぼせば良かったのに、と思うかもしれないが、もし神がそうだとしたら人は誰も残っていなかっただろう。
しかし神は、主に従う子孫も備えて下さる。
「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(26節)
アダムに再び子が生まれた。
その子はセト、セトの子はエノシュで、このエノシュの代から、主の御名を呼ぶようになっていった。
バアルにひざをかがめない七千人のように(1列王19:18)、世の中がいかに不信仰に満ちようとも、主は、主の残された民を、備えておられるのである。
人はカインの子孫になりたがる。
しかし、私たち主に呼び出された者達は、主の御名を呼ぶ事をやめてはならない。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
アベルとカインの捧げもの(創世記4:1-7):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:カインの性質(創世記4:8-16):右クリックで保存
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神こそ主であり、敬われるべきお方である。
それなのにカインは、自分流の礼拝方法が受け入れられないと怒り、神にたしなめられそれでも悔い改める事をせず、彼はアベルを野に連れて行き、殺してしまった。
人類史上初の「死」は、血の繋がった兄の手による殺人であり、その動機は、神への捧げものに関するねたみであった。
このカインのような性質は、現代を生きる私達の内にも、存在する。
自分流の礼拝を行って、それが神に認められない事を怒り、また、御心に沿った歩みをして祝福されている兄弟姉妹を妬み、憎しみの炎を燃やし、心で殺人を犯すような性質が存在する。
そのような性質は治めるべきである。
すなわち、自分の方法を降ろし、神の方法である御言葉を優先させ、適用させるべきである。
カインはそれをしなかった。
その結果、彼は怒りに身を任せ、弟アベルを殺してしまった。
主はカインのした事をご存知だったが、彼の口で告白させるために、「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と語りかけたが、カインはまず「知りません」と答えた。
カインの特徴の者は、自分が手を下して動かなくなったアベルを見ても何とも思わず、自分がどんな事をしたのか目にも留めず、全能者の前におそれる事をせず、うそをつく。
そればかりでなく「わたしは弟の番人でしょうか。」と、たてをつく言葉さえ吐いた。
神はそれで「ああそうですか、それじゃ次を当たります」などと退くような方ではないし、侮られるようなお方ではない。
自分の為した結果と、神の前で告白した言葉の報いは、きっちりと、受けるのである。
カインが流した血は、神に向かって叫んでいる。(4:10)
カインは土を耕す者だったが、その土地はカインにとって呪われたものとなってしまい、もはや彼が耕しても産物を出さない。
不当に流された血も、支払うべきはずなのに支払われていない賃金も、神に向かって叫んでいる。(ヤコブ5:4)
その神への叫びによって、そのような事をした者の仕事は呪われてしまい、そして、義人アベルからザカリヤまで、流されてきた義人たちの血は、心頑なに自分流の考えに凝り固まって、義人を蹂躙する者たちの上に、返ってくるのである。(マタイ23章)
『カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。』(4:13)
この言葉には少しだけ、神様憐れんでください、という意図が見えるが、続く言葉は、これから待ち受けている呪いへの悲嘆とつぶやきに満ちている。
それでも神は、そんな彼の少しばかりの憐れみを乞う願いに応え、憐れみを施してくださり、出会う者がだれも彼を撃つことのないようにと、カインにしるしを付けて下さった。
カインはその憐れみの内にへりくだり、悔い改めるべきであったが、彼はそうではなかった。
次回に詳しく見ていきたい。
毎朝早天の後、教会の扉にイエスの血を塗る祈りをして、滅ぼす者が過ぎ去るように、また扉を出入りする聖徒が清められ祝福されるようにと祈っているのですが、昨日、聖徒達が、ある危機的状況から守られました。
その聖徒達と夜、サムギョプサルを共に食しました。
イエスの血に守られて、その祝福の扉の中で肉を食べて、なんだか過ぎ越し祭みたいだね、と共に笑いました。
イエスの血塗られた門の外側は混乱と呪いに満ちていますが、内側はいのちと喜びに満ちています。
礼拝説教メッセージ音声:受け入れられる捧げもの(創世記4:1-7):右クリックで保存
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カインはアダムのように土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となった。
ある時彼らは神にささげものをしたが、神はアベルの捧げ物に目を留められ、カインの捧げ物は目に留められなかった。
神はなぜ、そのような差別をしたのだろうか?
忘れてはならない事は、神こそ主であり、敬われるべきお方であるという事だ。
神の御前には、人が身勝手に考え出した礼拝方法を神に押し付けてはならず、神の側が提示された方法に、人が従うべきである。
アベルの捧げ方は、神様がよしとされる方法に則っていた。
神様のよしされる方法、それは、犠牲である。
アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、人間の考え出した取り繕いは、神の目には、何も覆われていないも同じだった。
神様が彼らの裸を覆うためには、動物を犠牲にして皮の衣を作って、彼らに着せてやり、それによって彼らの裸は覆われた。これが神様の方法である。
また、捧げる時の心や思いも大切である。
カインは単に「土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」としか書かれていないが、アベルは、彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持って来た(創世記4:4)と書かれてある。
彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、神に最良のものを捧げたからこそ、神様は目を留められたのだ。
「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。」(詩篇51:16-17)
このように書いてあるからには、たとえアベルがどんな焼き尽くす捧げ物をささげても、彼の心が砕かれていなかったなら、その捧げ物は受け入れられなかったのだろう。
カインの捧げ物が神に認められなかった時、彼は憤り、顔を伏せたが、この結果は明らかに、彼は、自分の我を神よりも高い所に置いている事を示している。
彼に「もし正しく行っていたら、、、」と神は言ったが、彼はつまり、神の前に正しく行っていなかったのだ。
自己流の方法の押し付けを、神は決して受け取らない。
もし私たちが正しく行っていないとしたら、また、思い通りに行かない事で怒りが込み上げてくるとしたら、罪は戸口で私達を慕っている。
その時、私達はそれを治めるべきである。
治めるとは、自分のしたい事、うずく自分のやりたい方法を降ろし、神の方法を優先させ、適合させる事。
もしそれをしなければ、どうなるか。
それは次回詳しく見ていきたい。
荒野の査定と永遠の報酬(ヘブル3:13−19)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「ヘブル 4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」
神の安息に入るには、どうすれば良いか。それは実にシンプルで、信じる事である。
安息に入った者は自分のわざ、自分のやりくりを終えて、神の為された創造のわざの内に、ただ安息する。
(ヘブル4:10)しかし、安息の地に入れず落伍して行く者もいる。それは、つぶやく者、不信仰の者である。
モーセの時代、出エジプトした群集全体は、安息の地へと導いて下さるという神様の約束を信じ、進んで行ったが、その民は、ヨシュアとカレブの二人を除いて全員、約束の地に入る事が出来なかった。
彼らは主のすばらしい御業を体験し、逆らう者に対する裁きの恐ろしさも、まじまじと見ながら、それでも自分の思い通りに行かないと、不平不満を言い、つぶやいたからだ。
「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では私達の唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで何もない。」(民11:4-6)
この不平をつぶやいたのは、途中、多く入り混じった雑多な外国人で、神の民は、彼らにつられてしまった。
人数が多ければ良いというものではない。不純な者達が雑多に入り混じってしまうと、彼らは余計な事を言って、余計な怒りやいらぬ欲望を駆り立たせ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまう。
しかし神は、彼らを決して神の国の祝福にあずからせる事はせず、荒野で篩い分け、ふるい落とし下さる。
彼らが貪欲に駆られ、「食べたい」と 豚のようにうるさく呟いたのは、薬味が強いもの、肉欲をそそるもので、それを食べた事のある大人はその味を思い出し、味を知らない子供達にはエジプトをあこがれさせ、神が日々下さるマナが、あたかもつまらないものであるかのように仕向けた。
豚が真珠を踏むように、神様の尊い憐れみを踏みにじり、兄弟姉妹の心を挫いても何とも思わず、彼らの善意にいつまでもブラブラぶら下っているような者は、死骸として晒されたまま荒れ野に置いて行かれる。
主は、彼らの汚い貪欲にもかかわらず、望みどおり、おびただしい程の肉を、飽きる程送ってくださった。
しかし、この貪欲な者達は、切望した肉を取って口まで持って行きはしたが、食べる事は出来なかった。
肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は彼らを激しい疫病で打たれたからだ。(民11:33)
このように、神の恵みを忘れさせ、肉に駆られてつぶやく者は、望んだ物を手にしても食べられない。
主が約束して下さった祝福を軽んじる者も同様、祝福を見ても、食べる事は出来ない。(2列王7:16-20)
彼らはどんどん落伍して行くが、神の民は、減る事はない。
出エジプトして2年目の人口調査では、成人男性は603550人(民1:46)、カナンに入る直前に行われた2回目の人口調査では601730人(民26:51)、その差はわずか、1820人の減少である。
最初の人口調査は、編隊を組んで荒野を旅する便宜のためだったが、2回目の調査は、相続地をくじで割り当てる上で、多い部族には多く、少ない部族には少なく、割り当てる情報収集のためである。
荒野において、ある部族は半分以下に減り、ある部族はほぼ変わらず、ある部族はかなり増えた。
このように、荒野においては、信仰が査定され、誘惑に耐えて信頼し続ける者の子孫は着実に増えて行き、永遠に変わらない約束の相続地も増し加えられるが、そうでない者の子孫や相続は、減らされる。
豚のように不平を鳴らし、兄弟姉妹の信仰や神様の憐れみを踏みにじるような者達は、荒野に死体として置いて行かれ、最初の信仰をしっかりと貫く者は、約束の地に入り、そこで栄え、永遠に名を残すのである。
皆さんは荒野に死骸として置いてけぼりにされる者達だろうか? それとも、安息の地に向かって一歩一歩前進し、やがて安息と栄光を勝ち取る者達だろうか?
皆さんは荒野の時期にしっかり信仰に留まり、子孫を増やし、やがて継ぐ天の王国にて多くの領土を頂けるだろうか? それとも信仰に立つ時間よりも不信仰の時間を多くして、いのちを減らしてしまう者だろうか?
それは、皆さんの信仰次第である。
日々、信仰に歩み、安息の地に入れる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!