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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:秩序をもたらす神(創世記1:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有

今日より講解説教は創世記に入る。

「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)
ここで「神」と訳されている言葉の言語は「エローヒム」、崇高なるお方「エローア」の複数形であるが、「創造された」の動詞は、なぜか単数形で用いられている。
例えば英語で「They is God」と書けば文法ミスになるが、そのような、一見文法ミスであるかのような書き方が、わざと為されている。
それは、神は一にして三なるお方、すなわち父・子・聖霊なる三位一体の神であるからである。

また、ヘブライ語に「つくる」という言葉には3種類あり、一つ目は「バラ」(create)、無から有を創造する意味で、二つ目は「アサ」(make)、既にある材料を加工して作る意味で、3つ目は「ヤッツァー」(form)、粘土などを練り上げて形づくる意味がある。
1節の創造は「バラ」が用いられ、全くの無から有への創造であり、この「バラ」は他にも生物や人間を創る際にも用いられている。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(2節)
この節からは、非常に広大で、暗澹とした情景を思い浮かべるが、その暗闇で混沌な深淵においても、神の霊は動き、その全てを御翼で覆っておられたのだ。

そして神は、その闇と混沌に対して「光よあれ」と言葉を発された。
それまで光の無かった世界に光が提供され、神は光を「よし」として闇と区別された。

神は、天地創造の御業において、混沌状態の中から光と闇を区別されたように、混沌状態からあらゆるものに秩序をもたらし、光を「よし」として闇には「よし」と言わなかったように、何が「よし」で何がそうでないかを区別される。

この天地創造の有様は、私達が整えられる有様にもよく似ている。

私たちがまだ大いなる闇の中にあった時、神はその御翼の陰に私達を覆い、導いておられた。
私たちは以前は暗闇であったが、ある時、キリストという義の太陽があらわれ、この光なるお方によって造り変えられ、光の子とされた。
秩序である神は、以前は混沌であった私達をも、御言葉によって秩序がもたらし、区別し、「よし」の状態へと導かれた。

創造のみわざの素晴らしさを、これからますます味わって行きたい。

大麦の刈り入れの頃(ルツ記1章(1-7))
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ナオミはユダヤのベツレヘムで夫・息子二人とで幸せに暮らしていた。しかしある時、飢饉のためにパンが無くなり、家族と相談の上、モアブに移住する事にした。 パンのあるモアブに来た当初は「来て良かったね」と語り合っていたかもしれないが、結論から言えば、全ての災いの始まりであった。
ユダヤ人にとって、「神の約束の地」を捨てて外国に行く事は、神ご自身を捨て、神の民たるアイデンティティを捨てるに等しい事であり、神の賜った叱責から逃げる事は、さらなる災いをその身に招く事になる。
しばらく忍耐すれば飢饉は去ったのに、この一家は困難から逃げ出したいばかりに、安易な解決方法に飛びついて選択を誤り、 神の約束を信じて忍耐する事を捨て、取り返しのつかない事になってしまった。
困難から逃れるために、自分で編み出した脱出方法に頼るよりも、主に信頼して忍耐し、主が解決して下さるのをじっと待つ方事の方が、確実な救いへと至るのだ。(詩篇37篇)

主の民から遠く離れ、モアブの野で淋しく取り残されてしまったナオミに、神がご自分の民を顧み、食べ物をお与えになった、という、風の便りが届いた。この風の便りはナオミの心に、神の国である自分の故郷を思い起こさせ、「わたしのもとに帰っておいで」という、主の優しい語りかけとして響いたに違いない。
私達も、このような神様からの語りかけを聞いていないだろうか?聞きつつも、離れていないだろうか?
ナオミは神の国に帰るまでに10年かかってしまい、その間、夫に先立たれ、息子にも先立たれてしまった。
大切なものを全て失い、ついに、自分の拠り所は主の元にしかないのだ、とナオミに分かったのだ。
放蕩息子は、父の所には有り余るほどパンがあるのに自分はここで飢え死にしそうだ、と我に返ったが、
自分がいかに神から離れ、神の望まれる形から離れてしまったかを、見つめ直す所から、回復は始まる。

「オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。」(14節)
オルパは、自分がナオミと一緒にいる事がナオミにとって苦しみとなる(13節)事を聞いて、ナオミの元を去ったのは、大人としての「思いやり」だったのかもしれないが、帰っていったのは偶像の神の元であった。
それに対しルツは、「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」と言って、まことの神を自分の神とする「信仰告白」をし、ナオミについて行こうとしたのだ。
いつまでも真に有益なのは、大人の対応でも人間的な思いやりでもなく、信仰・希望・愛である。
ルツにとって、ナオミについて行く事には、何のメリットもないが、ナオミにとっても、ルツは重荷だったかもしれないし、ユダヤでは特に役に立ちそうもない異邦の娘だったかもしれないが、それでも互いが互いにとって、いつも一緒にいる、かけがえのない家族なのだ。「愛は自分の利益を求めない」(1コリント13:5)。

ナオミにとっては10年ぶりの帰郷であったが、それは懐かしさよりも惨めさに満たされたものだった。
かつての知人たちは、口々に「ナオミさんではありませんか」と声をかけ、色々聞いて来たが、彼女にはそれが苦痛で耐えられず、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。」(21,22節)と、自己卑下に満ちた言葉を返さざるを得なかった。
人々との交流が苦痛で仕方ない時こそ、真剣に神に向き合い、神に近づく事の出来るチャンスである。
家族やパンという「快さ」は、いつ「マラ」になってもおかしくはない。神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされ、決して無くならず、色褪せる事のない「ナオミ」へと導かれる。
彼女のうつろな帰国は、そこへ導くための祝福へのステップであり、その鍵は、ルツの存在である。
ルツは、祝福の器となって、ナオミに希望と喜びをもたらすようになり、そればかりでなく、彼女はイスラエル全体に祝福をもたらす器となった。ルツの曾孫にダビデが生まれ、イエスキリストが生まれたのだ。
新約を生きる私達は、マラでもナオミでもなく、ルツである。なぜなら、ただ信仰によってイエスを宿すチャンスが、皆に一様に与えられているのだから。
大麦の刈り入れの頃、それは過越祭の直後、ちょうど今くらいのシーズンに始まり、神はちょうど豊作の年の、落穂の拾える時期、ベツレヘム(パンの家)へと、ベストのタイミングと場所へと、導いて下さる。
ルツとして信仰告白し、家族に、国全体に、祝福をもたらす皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
苦しみのときに主に叫べ(詩篇107篇):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
3年半ぶりの雨(1列王17-18章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ1:6-12:右クリックで保存
韓国語通訳有
 

礼拝説教メッセージ音声:イエスの焼き印を帯びて(ガラテヤ6:11-18):右クリックで保存
韓国語通訳有

21回に渡って続いたガラテヤ書の講解説教も、いよいよ今回で終わりである。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(6:17)
焼印は、奴隷や将校などに捺され、その人が何に属するか示す事のしるしとなるが、パウロの体には、至る所にキリストの名の故に受けてきた数々の迫害による傷跡があった。
彼は、ガラテヤ人への手紙を、自らの手で大きな字で書いたが、それは恐らく、彼のその目、あるいは利き腕に、迫害の傷跡や疾患があったからかもしれない。

それにひきかえ、ガラテヤ人に割礼を強要して躓きへと導いた者達は、どうだったか。
彼らが自らに割礼を施したり、人に強要したのは、人の目に良くみられたいためであり、また、人々から迫害を受けたくないためであった。(6:12)

私達も、このような者達と同じ過ちに陥っていないだろうか。
近隣や家族との摩擦を恐れて、異教的な儀式を共に行ったり、福音はそのままでは一般人に受け入れ難いとして身勝手に御言葉をねじまげたり、御言葉を正しく伝えている人を、そんな事では受け入れられないと揶揄する事で自己推薦したり。
パウロは、片時もそのような者たちに屈服して譲歩する事はしなかったため(2:5)、キリストにあっていつも自由だった。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(6:14)

世と私達との間には、十字架が隔てとなって立っており、世に対して私達は死んでおり、また、私たちも世に対して死んでいる。
十字架を隔ててキリストの側にいる私達に対して、世のものは、私達のいのち(霊:pneuma)に害を及ぼす事はできず、私達がこの立ち位置にいる限り、世にあっても、置かれている状況に決して左右されない平安によって守られている。(ヨハネ14:27)

私たちが誇りとするべきは、肉に由来する何かではなく、この十字架のみである。
この十字架によって肉に対して死んでいるため、割礼には何の意味も無い。
しかし、ガラテヤ人達を躓かせている人達は、肉にあって誇りたいがために割礼を強要し、キリストの十字架を空文にしてしまい、あたかも肉に属し律法の奴隷であるかのように人々を躓かせているから、パウロは厳しい文面で彼らを責めて来たのだ。

キリストの十字架にあって死に、新しい創造とされた者は、霊の原理に従って生きていく者であり、さらには「神のイスラエル」とされた者達である。(6:15-16)
キリストにある私達のアイデンティティは、黙示録21章に登場する、神の元から下って来た新しい聖なる都、まことの夫・キリストのために着飾った花嫁である。

パウロはその身にイエスの焼印を帯びていたが、主イエス様ご自身も、私達のために傷を負い、その手の平に私達を刻んで下さった。(イザヤ49:16)
それ故、私達も雅歌に登場するおとめのように、主に申し上げる事ができる。
「りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。」(雅歌8:4-5)

私達も、主のために、霊的な子達を産んで増えていくために、産みの苦しみをするべきである。
そして主に申し上げるのだ。
「わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。」と。

皆さんも、イエスの焼印を帯びているだろうか?
イエスの懐深くにかくまわれ、イエスのしるしを帯び、イエスとの夫婦関係にあって、イエスのいのちを生んで増えて地に満たして行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:分かち合い=交わり=相互援助(ガラテヤ6:6-10):右クリックで保存
韓国語通訳有

「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」(ガラテヤ6:6)
この「分かち合い」(コイノネオー)とは、交わりを意味し、また、物質的・経済的な相互援助を意味する。

キリストにある共同体の最たる特徴は、「分かち合う事」である。
使徒行伝2:42-47には、初代教会の有様が書かれてあるが、この短い節の中だけでも「共有」「ひとつに」「いっしょに」「共に」という「分かち合い」に関連する言葉が、いくつも出てくる。

全ての良きものは、神から出ており、与えられる祝福は当然、神に由来している。
それらは神の国のために捧げ、主にある兄弟姉妹と分かち合うために、与えられるのであって、自分という囲いの中のみに用いるものではない。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:7-8)
神を抜きにして、自分だけが栄えたり気持ちよくなろうとする全てのわざ(肉のわざ)の行き着く先は、滅びである。
しかし、御霊にあって神のために働く人は、神に喜ばれる実を豊かに結び、永遠に残る実を刈り取ることになる。

結局、自分のいのちを救おうとする者は、それを失い、キリストのために福音のためにいのちを捨てる者は、いのちを救うのである。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(2コリント9:6-12)

与えられている賜物を、与えられているあらゆる良き物を、神のために、聖徒達のために用い、分かち合い、さらに与えられ、祝福されていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:重荷を負いあって(ガラテヤ6:1-5):右クリックで保存
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もし私たちが、兄弟姉妹の誰かに対する憎しみや苦々しい思いによって、しつこく付きまとわれているとしたら、御霊によって歩んでいない。

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(1節)
もし誰かが過ちに陥っているなら、御霊にあって歩んでいる者らしく、その人の過ちを凝視するのではなく、かえって罪に陥っているその人の弱さを覚え、柔和の霊でその人を正してあげるべきである。
私達は、その兄弟姉妹が遭ったような試練に、たまたま遭わずに守られていたかもしれないし、あるいは以前、同じような過ちに陥っていたかもしれないし、また、いつ陥るとも分からないからである。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)
この2節の「重荷」(baie)は、本来進むべき歩みを邪魔させるような重荷を意味し、5節の重荷(phortion)は手荷物、船荷など、本来的に負うべき荷物を意味する。
もし兄弟姉妹の人生の歩みに、重荷となっているものを見出すなら、兄弟愛をもって互いにそれを担い合い、助け合うべきである。
キリストの律法とは「互いに愛し合いなさい」という、新しくも古からある戒めであり(ヨハネ13:34)、隣人を愛するという一言によって律法はまとめられるからである。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(3-4節)

私たちが自分の行いを思い返す時、人には言えないような恥ずかしい失敗などのひとつやふたつは、必ずあるはずであり、決して自分は誇れるものはない事が分かる。
今、私達が立っていられるとしたら、それはただ恵みによるものであり、私たちが主から召されたのも、私達が格別良いからでも何か優れている所があるからでもなく、主からの一方的な憐れみによるものであって、主から与えられていないものは、何一つ無い。
それ故、「めいめいが、自分の重荷(phortion)を担うべき」である。(6節)

兄弟姉妹を裁く事無く、互いに重荷を負いあい、主の命じられた「互いに愛し合う戒め」を守り行いつつ、愛という御霊の実を豊かに結ぶ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

横浜は強い雨が降っていて、桜が満開でしたのでおそらくこれで散ってしまうでしょう。

今年はまだ桜を見に行けていませんが、それは、4月になって以来、色々な祝福の桜が咲き乱れて、そっちを手入れしたり、愛でたりするのに忙しいというのが、その理由です。(笑)

昨日からはじまった韓国おかず屋は、来る人来る人みんな「おいしい」と言って結構大量に買っていくようです。

向こう1週間ほどは半額セールしておりますので、近くに来られた方は、ぜひお立ち寄り下さい。

韓国バンチャンカゲ「いっさく」:045-567-2962
231-0045 横浜市中区伊勢佐木三丁目107 Kビル伊勢佐木1F

礼拝説教メッセージ音声:肉の実と御霊の実(ガラテヤ5:19-26):右クリックで保存
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御霊によって歩む者と、肉によって歩む者の、具体的な結ぶ実が、今日の19節から23節に、詳細にリストアップされている。
例えば、ある働き人が来た時、もしその人が来た事によって、敵意や争い、分裂や分派など、19-21節の実が増え広がったら、その人がいかに有名であろうと、肉の人であり、肉の頑張りによって行動していると分かる。
しかし、もしその人が来た事によって、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22-23節)などが増え広がったら、その人は、御霊によって働く人だと分かる。

では、どのよにしたら、御霊の人となれるのか。
それは「御霊によって歩む」(16節)事によってであるが、それには都度、御霊に委ねるか、それとも肉に委ねるかを、自らの意志によて選択する必要がある。

例えば、皆さんが実印を持っているとして、それを善い人に渡すか、それとも悪い人に渡すかによって、結ぶ実が違って来るようなものである。
もし実印を善い人に渡せば、その人は知らない内に良いビジネスをして資産を増やし、いつのまにか皆さんの評判も良くなっていく。
しかし、もし悪い人に渡すなら、知らない内に借金だらけになっていて、いつのまにか色々な人から憎まれるようになっている。
同様に、皆さんの意志という実印を御霊に渡し続けているなら、内におられる御霊は、知らない内に皆さんを造り変え、どんどん良くなって行く。
しかし、いつも肉に渡し続けているなら、肉はいつも皆さんを滅びへと導き、どんどん悪くなって行く。

真理の上では、キリストにある者の「罪の肢体」は、無力となっている。(ローマ6:6)
しかし、私達の内にありありと罪が生きているかのように感じるのは、以前の罪の記憶が条件反射的に残っているからである。
例えば、皆さんが梅干を思い出す時、そこに梅干が無いのに、あたかも塩吹いた梅干があるかのように唾が出る。
同じように、罪の肢体はキリストにあって既に無力となっているのに、以前の肉にある罪の経験や記憶が鮮明に残っているから、そのように感じてしまうのである。

それはどう対処すれば良いか。それには、ローマ6章11節の、仕分けをする事である。
「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考え(原意:仕分け)なさい。」
「仕分け」は会計用語で、客観的事実を、単にそのまま適用する事である。
だから私達は、罪に対しては死んだ事、神に対してはキリストイエスにあって生きた者である、と、しっかり仕分けし続ける必要がある。

キリストにあって生きた者であるといつも仕分けし、いつも御霊に実印を渡し、御霊にあって歩み続け、御霊の良き実を豊かに結び続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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