メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
天声では、早天礼拝や祈祷会など合わせると、1週間に10メッセージほどしております。
その全てをテキストに起こして配信する事はできませんが、先週行ったメッセージや証などの中で、配信しきれていない分の音声ファイルを以下に紹介します。
証「赦さない事、即ち地獄宣言」
http://voice.of.christ.yokohama/media/3/other/120529o_akashi_yurusanaikoto.mp3
証「イエスがいるから明日は恐くない」
http://voice.of.christ.yokohama/media/3/other/120529o_akashi_iesugairukara.mp3
賛美(導き:川合姉妹、ピアノ:パスター)
http://voice.of.christ.yokohama/media/3/other/120601o_syunoaigaima.mp3
祈祷会メッセージ:人を見るなかれ(ヨハネ21:15-22)
http://voice.of.christ.yokohama/media/3/kitoukai/120601k_hitowomirunakare.mp3
祈祷会メッセージ:真に収まるべき所(ヨハネ7:38)
http://voice.of.christ.yokohama/media/3/kitoukai/120530k2_osamarubekitokoro.mp3
祈祷会メッセージ:1ペテロ2:18-25
http://voice.of.christ.yokohama/media/3/kitoukai/120530k1_1pet2_18-25.mp3
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人を見るなかれ(ヨハネ21:15-22):右クリックで保存
韓国語通訳有
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
真に収まるべき所(ヨハネ7:38):右クリックで保存
韓国語通訳有
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ2:18-25:右クリックで保存
韓国語通訳有
礼拝説教メッセージ音声:神の導き方(創世記11:10-32):右クリックで保存
韓国語通訳有
イスラエルの歴史は、セムの系図からはじまり、セムから10代目の子孫にイスラエル民族の父・アブラム(後のアブラハム)が生まれた。
アブラムの父・テラは、カルデヤ人のウルに住んでいる時に3人の子、アブラム、ナホル、ハランを生んだ。
カルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝や不品行が盛んな町であり、ヨシュア24:2によると、アブハムやナホルとの父テラは元々、そこで他の神々に仕えていた。
神に召される者達は、以前の状態は重要ではなく、真の神と出会った時、その神に服従するか、それとも自分勝手な道をえらぶかが大切である。
「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。」(創世記11:31)
アブラムの父テラは、カルデヤのウルから出てカナンを目指したものの、彼は、目的地であるカナンに足を踏み入れる事なく、途中のカランまで進むと、そこに留まってしまい、それ以上の事も出来ないまま、そこで死んだ。
そして神は、テラの子・アブラムに現れ、父の家を出て示す所へ行くように、と、指示された。
神様の導き方は、はじめから終わりまで全ての道順を細かに示すのではなく、次に行くべき所だけを示され、人がそれに従順してその所まで来たら、その次の道が示される。
もしアブラムに初めから先々の将来も教えておられたら、どうだっただろう。
彼は将来、100歳になってからやっと子供が与えられ、その子は神に捧げなくてはならず、また、彼が生きている間は、マクペラの畑にある洞穴しか土地が与えられない、と、全行程が最初に示されていたら、彼もまた、カランから出ないままだったかもしれない。
アブラム、後のアブラハムは、神様から次に行くべき所を示され、そこへ行って、また次に行く所を示され、という従順を繰り返し、最終的には大いなる祝福が与えられ、彼は、彼の腰から出た子孫だけでなく、全て信仰によって救われる者達の父となった。
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)
御言葉は足元しか照らさないので、時に心許なく見えるかもしれないが、それでも神の導きは最善であると信じ、自分の願いではなく、神の願いを選択して進みゆく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:バベルの塔の呪い(創世記11:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有
全地が一つの話し言葉であった頃、東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
このシンアルの地は、神の前に(敵対的に)力をつけたニムロデが、バベルの町を建造した所である。(創世記10:8-10)
ノアに祝福されたセムの子孫は、東の高原地帯に住んでいた(10:30)が、その彼らがシヌアルの地に移動して来て、ハムの子孫と共に定住し、『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」』(4節)
本来彼らが主体にすべき神は、脇に置かれてしまい、「われわれ」主体となってしまっている。
(欽定訳では、4節は「us(われわれ)」という言葉が4回も登場する。)
神のノアに対する祝福は、生んで増えて、地に満ち、あちこちへと増え広がる事であったが、彼らはそれを好まず、人間同士が結託し、力を合わせて高くなろうとした
しかし、人間が高くなろうとして結託する結果、神からもたらされるものは、混乱(バラル)である。
人間が高い建造物を作りたがる背後には、自らが高くなりたいという高慢と、洪水への恐れがある。
かつて不従順のために洪水が起こった、だから神に従順しよう、という発想ではなく、だから高い建造物を造ろう、という発想になるわけである。
この、自らが高められたいという欲求は、サタン由来である。
サタンは、真に高められるべき神を差し置いて、自らが高い所に座をしめようとした結果、地に投げ落とされた。(イザヤ14:12-15)
同じように、バベルの時代の人間も、自分たちが高みに登ろうとしたものの、その野望は、ことばの混乱によって砕かれた。
彼らは言葉が通じなくなったため、全地に散っていく事となった。
せっかくノアを通して、人類が神と共に歩む新しい希望が生まれた、と思ったら、早速人類は、神に敵対し、混乱と離散が起きてしまった。
創世記を11章まで学んできたが、そこまでに人類は既に幾度も神に敵対し、被造物を台無しにし、どうにもならない所まで来る度に、神の介入が入って来た。
さらに旧約聖書を読み進めて行くと、人の神に対する不従順と、罰と、悔い改めのくり返しを、幾度も見る事になる。
今回も、人類は不従順のために神の介入が入ったが、神はそれでもめげずに、人類を救済するご計画を立てられる。
それは、エベルの子孫からアブラハムを立て、このアブラハムの子孫を通して、人類を救済する方法である。
旧約聖書の大部分は、このアブラハムの子孫の歴史である。
私達が今回、この箇所から学ぶべきは、高慢になってはならない事である。
本来、主とすべきお方を差し置いて、自分が高くなろうとすると、それはへし折られ、混乱が起き、散らされるのだ。
自らはへりくだり、主であるキリストを高く上げ、そして聖霊をいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ノアの子孫たち(創世記10章):右クリックで保存
韓国語通訳有
創世記10章は、ノアの3人の子、セム・ハム・ヤペテの系図と歴史が記されてある。
ヤペテは白色人種の祖父であり、その子孫はヨーロッパに進出して、次のノアの預言が後に成就した。
「神がヤペテの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。」(創世記9:27)
ヤペテの子孫は旧約時代までは異邦人として神の約束から離れた民であったが、新約時代以降は福音が最も普及し、結果、セムからの恩恵を最も受けた民となった。
それに対し、ハムの子孫は、聖書では悪名高い民族が多数生まれ出る。
「クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。」(8節)
ここに登場するニムロデの名は「反抗」という意味で、9節には「彼は、主の御前に勇敢な狩人であり」とあるが、この「御前に」の原語には敵対的な意味も含まれており、つまり、彼は神に敵対して高慢になった最初の勇士であった。
彼が建造したバベルの塔は、神抜きで人間が高ぶって名声を得ようとして建造したものであり、バベルは後にはユダヤ人を捕囚した、あのバビロンとなる。
また、11節のニネベは、後に北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリヤの首都であり、13節のミツライムは、ユダヤ人を奴隷として苦しめたエジプトであり、また14節にも、イスラエルを長きに渡って苦しめたペリシテ人が登場する。
15節以降20節までは、ノアに呪われたカナンの子孫の系図である。
ソドムとゴモラは、性的不品行により神の前に怒りを積み上げ、硫黄の火によって滅ぼされた。
カナン人らは神の御前に罪を積み重ね、ついに、アブラハムの4代目の子孫を通して滅ぼされるにいたった。(創世記15:16-21)
21節以降は、セムの子孫の系図である。
「エベルには二人の息子が生まれた。ひとりの名は、その時代に土地が分けられた(パラグ)ので、ペレグといい、その兄弟はヨクタンといった。」(25節)
エベルはすなわちヘブル人の祖先である。
ペレグの時代に民族部族が分けられて行き、そしてペレグの後の子孫に、アブラハムが出、ダビデから続く王族が出、イエスキリストが出た。
このように、ある民族は神に敵対し、世に悪をはびこらせ、また、ある民族からは神に従順で有用な民族が別れ出たが、我々も含めた全ての民族は、義人ノアから出ている事には代わりはない。
今や、私達はどの民族から出ているかは関係なく、「どなたを主として信じているか」が大切である。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)
イエスを信じるなら、国も血筋も関係なく、神の子として、天の国籍を持つ者として、新しく生まれた者である。
礼拝説教メッセージ音声:言い触らす者の呪いと覆う者の祝福(創世記9:18-29):右クリックで保存
韓国語通訳有
ノアは、改まった世界以降、農夫となってぶどう畑を作り始め、出来上がったぶどう酒を飲むと酔って、天幕の中で裸で寝ていた。
酒に酔う事は王たる者のする事ではない、と、箴言にある。なぜなら、さばきを曲げるといけないから(箴言31:4-5)であり、また、そこには放蕩があるから(エペソ5:18)である。
事実、あの義人ノアでさえ、酔った事によってさばきを曲げてしまった。
「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(22節)
この「見る」のヘブル語(ra^'a^h)は、じっくり見る、楽しみつつ見る、等の意味がある。
ハムは敬うべき父の天幕に入り、そこで見つけた父の裸を、じっくりと見、楽しんで見、そして天幕から出て、兄弟たちに言いふらし、来て見るよう招いた。
敬うべき人の裸を、指さしてあげつらえ、罪を指摘して中傷するのは、サタンの道である。
ノアはその事を知ると、ハムの子カナンを呪った。
「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」(25節)
事実、カナンの子たちは、ノアの呪ったの通りの歴史となっている。
エブス人やエモリ人、ソドムやゴモラ等のカナンの子孫たちは、偶像崇拝や不品行、暴虐に満ち溢れ、セムの子孫であるユダヤ人を通して神に滅ぼされる対象となってしまった。
そして、ハムは黒色人種の祖先であると言われているが、世界歴史はノアの呪い通りである事を示している。
我々が学ぶべきは、父、あるいは祝福を授ける立場の者のプライベートへ踏み込み、露わな様をじっくりと見て楽しみ、周りの兄弟たちに言いふらし、一緒に来て見るように招いたりするような者は、確かに呪われ、罪と滅びを招いてしまい、その子孫も呪われる、という事である。
「セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。」(23節)
敬うべき人が裸をあらわにしていたら、そこから目をそむけ、覆ってあげる事こそ、祝福される者の道である。
「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。」(26節)
事実このとおり、セムの子孫からアブラハムが出て、神の民イスラエルとなり、カナン人を追い出し、さらには、全人類の救い主イエスが出た。
「神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。」(27節)
ヤフェトはヨーロッパ系の白色人種の祖先であると言われており、以降の歴史では異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及した民族であり、「セムの天幕に住まわせ」という預言が実現した。
兄弟姉妹の裸を覆い、裸の恥から目を背ける者は、栄誉を受け、祝福を受けるが、敬うべき人の天幕に入り込み、そこで見た裸をあざ笑い、言いふらすような者は、奴隷となり、呪いを産み、滅びを刈り取るのである。
ハムのようではなく、セムやヤフェトのようになって祝福を受け継ぐ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:虹のしるし(創世記9:8-17):右クリックで保存
韓国語通訳有
神は、全ての生き物との平和の契約を、目に見える形で定められた。
「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(13節)
虹が雲の間に現れる時、主は、もはや水によって人類を滅ぼし尽くさないという、平和の契約を思い起こされる。(16節)
聖書の他の箇所で、虹は、エゼキエル1:28や黙示録4:3に出てくるが、いずれも、不従順な人や不敬虔な民を罰する直前に「虹」という言葉が現れる。
神は罰する前に、人々に平和の契約を思い起こさせるために、また、滅ぼし尽くさないという憐れみをも示すために、虹を現したのであろう。
神をあざける者は「昨日も今日も何も変わっていない、これからもそうだろう」と思い、欲望のままに歩むかもしれない。
しかしこの不従順に満ちた世界が、現在も保たれているのは、神の恵みと憐れみによる、という事を忘れてはならない。
「当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。」(2ペテロ3:6-7)
人は思うかもしれない。
神はいつまで不条理に満ちた世界を、そのままほうって置かれるのか、いつまで暴虐な者達を好き放題にさせておられるのか、と。
しかし「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(同9節)
今や、救いはイエス様にある。
溺れている人に浮き輪を投げ、その人が浮き輪を掴んだら救われるように、私達がイエスキリストを誰かに伝え、その人がイエス様を信じて受け入れたら救われる。
浮き輪の信ぴょう性を疑って掴まなかったり、あるいは投げ入れた浮き輪ではなくワラなどを掴んだりしたら溺れてしまうように、イエス様以外に救いを求める者も、滅んでしまう。
今は恵の時、救いの時。
救い主イエスを一人でも多くの人に届け、多くのいのちを救い出す皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
聖霊降誕日(ペンテコステ)礼拝「炎の舌によって」(使徒2:1-4)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
聖霊が臨む時、力を受け、全世界に対し、主イエスの力強い証人となる。(使徒1:8)
主のその言葉どおり、五旬節の日、聖徒達がひとつ所に集まっていると、激しい風の響きが起こり、炎のような分かれた「舌」が一人ひとりに留まり、聖霊に満たされ、聖霊に促されるまま、異なる「舌」で話しだした。
ペンテコステにおける聖霊充満の、最も特徴的なしるしとは、「舌が変えられる事」である。
もし、聖霊に満たされている、と自認している人が、相変わらず自分由来の知恵や知識を語り、キリストにではなく自分に栄光を帰そうという動機で話しているとしたら、聖霊に満たされているとは言えない。
既に何度も語っている通り、聖霊はイエスキリストを栄光化する霊であり、聖霊充満の目的はイエスを大胆に証しし宣べ伝えるためである。聖霊に満たされるなら、以前は自分由来のものしか語れなかった者が、聖霊に促されるまま自分の知りえない「神の大きなみわざ」(使徒2:11)を語るようになり出すのである。
神の大きなみわざを語るには、まず、くちびるが聖なる炎によって、清められなくてはならない。
ペテロは聖霊に満たされる前、唇でよく過ちを犯した。変貌山では、自分でも良く分からない言葉を口走った(マルコ9:6)し、イエス様に「生ける神の子キリスト」と素晴らしい告白した直後、言葉で間違いを犯して「下がれ、サタン」と叱られ(マタイ16:23)、また、十字架の日、たとい一緒に死ぬ事になるとしても主を知らないなどとは決して言わない、と言っておきながら、その夜が明ける前に、三度も「主を知らない」と言った。
そんなペテロでさえ、聖なる炎の舌によって清められ、大胆にキリストを証するようになった。
また、預言者イザヤも、祭壇からの炭火を唇にあてがわれ、人間のことがらは全て聖なる火によって焼き清めていただいて、はじめて神に遣わされる者、神の言葉を伝える者となった。(イザヤ6:1-8)
人は、主の栄光に触れられると、いかに自分が汚れており、その汚れの源は「唇」である事が分かる。
いかに御前に相応しくないか示され絶望するが、主は祭壇で燃える炭火を唇に触れさせ、聖めて下さる。
聖霊を受けると、光が当てられ、明らかにされる事が3つある。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハ16:8)
まず「罪について」。人は罪と聞くと普通、盗むとか姦淫を犯すとか、悪い事を想像するが、罪の根本とはイエス様を信じない事である。(同9節)
次に「義について」。義と言えば普通、何か正しい事だと想像するが、義とは、主が御父の元に行く事によって得られる(同10節)。なぜなら、人には元々、神の御前に義とされる要素は一切なく、ただ、主が人の身代わりとなって十字架につけられ、御父の元に行った事によってのみ、義が提供されたのである。
そして「裁きについて」であるが、裁きの本質とは、この世を支配する者、即ちサタンがさばかれた事である。
人は元々、神の似姿として罪無き存在として創られたが、サタンの惑わしによって罪と死が入ってしまった。
その神の似姿を汚したサタンこそ、裁かれるべきものであり、人が裁かれる事は、神の本意では無いのだ。
聖霊が与えられると、ますますそれらが明らかになって行く。キリストを信じない事こそ罪であるとますます分かり、義は自分由来でなく御元に上られた主から来るものであるとますます分かるようになり、人を裁く事は主の御旨ではなく、サタンこそ真の敵であり、真に憎むべき存在であると、ますます分かるようになる。
そして、御霊はキリストの栄光を現し、また、キリストのものを受けて、私達に知らせる。(同14-15節)
私達も聖霊に満たされるよう、求め、探し、叩き続けるべきである。(ルカ11:9-13)
弟子たちは、主の言葉どおりエルサレムを離れず、一つ所に集まって、祈りつつ約束を待ち続け、時が満ちた時、炎のような分かれた舌がそれぞれに留まり、約束通り聖霊に満たされ、力に満たされた。
私達も弟子たちのように、神の都から離れず、聖徒達と共に集まり、熱心に祈って聖霊を求めるべきである。
聖霊の炎によって人間由来の罪が焼き尽くされ、唇が聖められ、罪と義とさばきについてますます理解が与えられ、また、聖霊の力に満ち溢れて力強くキリストを証しする者となる。
主イエスの名によって、悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒す事によって、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
