メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
最近、焼き鳥屋の話が出ていなかったと思いますが、実はここ数ヶ月の間、ゴスペルや聖徒達の養いなど、主の働きが忙かったため、休業しておりました。
しかし、お店のために素晴らしいクリスチャンの働き人が与えられ、韓国バンチャンカゲ(おかず屋)として新装オープンする事になり、私も今日、大工係のお手伝いをさせていただき、そして祝福を祈りました。
お店の名前は「いっさく」、アブラハムの子イサクから取っています。
お店が、イサクのように生んで増えて地に満ちる祝福、植えた種が100倍実を結ぶ祝福が与えられ、主の働きのために、また働き人のために、大いに用いられるお店でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:善い方にあって自由とされた(ガラテヤ5:13-18):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロは、キリストと出会う以前は律法に縛られ、異邦人と食卓を共に出来なかったが、キリストにあって開放されてからは出来るようになり、ある種の食物を食べられなかったのが、食べられるようになった。
しかし、その与えられた自由を、単に自分だけの楽しみのために用いるのではなく、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになり、それによって、一人でも多くの人達をキリストへと導き、いのちを獲得しようとした。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(13節)
私達はキリストにあって、自由が与えられたが、それは、何でも好き放題にできる自由ではなく「好き放題にしたら滅びに至ってしまう肉の性質」からの自由であり、御霊にある自由である。
一人の男がイエスに近寄って「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と訪ねた時、イエス様は「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われた。(マタイ19章)
彼は、律法を幼い頃から守ってきた、と思い込んでいた。
しかしイエス様から示された「隣人を愛する」事のレベルは、財産を全て投げ出すまでの程度である事を示された時、悲しみながら去って行った。
主は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたが、金持ちであったザアカイはどうだったか。
彼は、善いお方イエス様を受け入れた結果、別に頑張りもせず、むしろ喜んで、貧しい人に財産を投げ打った。
貪欲で頑強な、らくだのようなザアカイであっても、イエス様にあって楽々と「針の穴」を、通れたのである。
神に不可能は無いのだ。
律法を守り通すような力も愛も無く、善い事など元々出来ないのが、人間の実情である。
大切なのは「善いこと」ではなく「善い方」であり、このお方は、何も善いものが無い人間を、善いものへと造り変えてくださるお方である。
かの青年には、律法には従えない、善い事が出来ない、という「不自由さ」があった。
しかし人は、御霊によってそうした「不自由さ」から、自由とされるのだ。
唯一の善いお方であるイエス様によって造り変えられ、御霊によって歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
復活の主を巡る人間模様(ルカ24:1-12)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イエス様は十字架上で、ヨハネやマリヤ達の目の前で、はっきりと死んだ。動かなくなり、槍で突かれ、血と水が流れた。十字架から降ろされ、没薬とアロエを混ぜ合わせたものと共に亜麻布で巻かれ、葬られた。
一見、イエス様の完全な敗北であり、祭司長や律法学者達は勝ち誇って、弟子達は絶望し恐れ隠れた。
ところが、主があらかじめ言っていた通り、主はきっちりと三日目に復活された。
復活の主に真っ先に対面できたのは、ゴルゴダの道を泣きながらついて行くしか出来なかった女達だった。
11弟子達は、イエス様が逮捕され、十字架につけられ死んだという現象面だけを見て絶望し、閉じ篭った。
しかし彼女達が内密に、親しく主と合間見えたのは、主が無力に十字架を負って歩んでいる時も、葬られた時でも、いつでも「主を慕って」いたためである。
この終わりの時代においても守られ、イエス様と真っ先に対面できる人は、ただ泣いてついて行く事しかできないほど力が弱くても、いつもイエス様を慕い、イエス様の名を否まない人である。(黙示録3:8-10)
彼女達が墓に行ったのは、復活を見るためではなく、油を塗りに行くためで、道々、あの墓を塞ぐ大きな石をどう対処するかを心配していた(マルコ16:3)が、その心配は実にちっぽけで、全く無用だった。
行ってみると、墓の番をしていた兵士達は死人のようになっており(マタイ28:4)、主の使いによって封印は破られ、大きな石は脇へころがされており、そもそも、イエス様は復活して、もうそこにはいなかったのだ。
石が転がされたのは、彼女達の小さな心配を取る為ではなく、復活のいのちの大いなる力を示す為である。
女達は御使いに言われた事を伝えるために走って行った時、途中でイエス様に出会って「おはよう」と声をかけられた。(マタイ28:9) 復活の主のただずまいは、劇的なものではなく、あまりにも普通、主だと中々気付かずにいた者もいた程で、私達も、主を慕う心が無いと、復活の主に中々気付かないかもしれない。
弟子達はユダヤ人を恐れ、一つ所に集まっていたが、女達の報告を聞いても、たわごとと思われ、信じなかった。(ルカ24:11) 主が三日後に復活する事は聞いていたが、イエス様があまりにもはっきりと死んだため、誰もそれを思い起こさなかったし、主と会ったと聞いた時さえ、信じられなかったのである。
人は、絶望的な出来事を目で見、陥っている状況に頭がいっぱいになる時、主が「こうなる」と約束して下さった事を、忘れがちになり、その約束の兆候を聞いた時さえ、信じられないものである。
しかし、復活の主は、二人でも三人でも主の名の下に集まる所におられ、また、イエス様のご性質について話し合われている所にご自身を現して下さり(ルカ24:15,36)、ご自身について書かれてある御言葉を、心を開いて解き明かして下さる。(ルカ24:27,45-47)
一方、祭司長達は兵士達の報告を受けた時、彼らに金を握らせ、うその噂を流させた。(マタイ28:11-15)
祭司長達は、兵士たちに御使いが現れ、イエスがよみがえって墓が空になった事を、信じたようである。
なぜなら、もし信じていないとしたら、弟子達が女達の言う事をたわごととしたように、兵士の言う事などたわごととした筈なのに、わざわざ金を渡し、口裏をあわせ、公にならぬように協議したからである。
弟子たちが信じないで、祭司長達の方が信じたというのも不思議だが、彼らもうすうす、イエスがメシヤである事に気付いていて、それを知った上でイエスを十字架につけ、預言通り甦っても、隠そうとしたのである。
イエスの敵は相集い、協議し、金と権力でいのちを押し潰そうとするが、闇は光に勝てないように、復活のいのちは、サタンや人がいくらもみけそうとしても、決して押しとどめられず、必ず生え出でてくるものである。
第一の人・アダムから脈々と続く人類の子孫は、呪いの内にあり、罪と死に支配されているが、主はそんな人の有様を救うため、ご自身を身代わりとして死に明け渡し、三日目によみがえり、死に対して勝利された。
イエスの復活のいのちは大波のように押し寄せ、圧倒的に死を飲み込み、いのちで溢れさせるのである。
(1コリント15:54-57) その復活の主を祝うイースターのこの時、死も、呪いも、病も、貧しさも、あらゆる問題も、全て復活の主のいのちで飲み込む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ニコデモとアリマタヤのヨセフ(ヨハネ19:38-42):右クリックで保存
日本語のみ
礼拝説教メッセージ音声:バージョンアップしたペテロ(ルカ22:54-62):右クリックで保存
韓国語通訳有
今日は受難日、十字架にかかられた主を覚える日である。
主が十字架にかかられた日の夜明け頃、イエス様は大祭司の庭で尋問を受け、ペテロは少し離れて中庭で火に当たりつつ成り行きを見ていた。
ペテロはその数時間前、最後の晩餐の席で、主から躓く事を予告されていた。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(31-32節)
この「立ち直ったら」とはエピストレフォー、転向し以前よりも優れた状態になる事を、バージョンアップする事を、意味する。
つまりペテロはこの時まだバージョンアップ前だった訳であり、それは、イエス様から「人間を獲る漁師にしてあげよう」と呼び出された時から、その時に至るまで、ずっとそうだったのである。
事実彼は、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と力を込めて主張したのに、その夜が明け切らない内に、彼は人前で、イエスを知らないと三度言い、呪いをかけてまで誓ってしまった。
鶏の鳴く時、ペテロはイエス様と自分との関係を、徹底的に探られたのである。
シモンはイエス様に人間を取る漁師にしてもらい、イエス様と寝食を共に活動するようになって以来、多くの地方を回り、多くの病や悪霊をイエスの名によって追い出し、多くの人達から感謝され、前の漁師生活よりも遥かに充実していただろう。
彼はイエス様に命がけで仕えて来た、と思っていたかもしれないが、結局、以前よりも活躍している自分、充実している自分を存続させるために、イエス様に着いて来ていたに過ぎない。
キリスト者の中にも、その時のペテロのように、自分のために仕えたり、賛美したり、活動したりする人もいる。
キリスト教という「業界」の中で、前よりも充実している「自分」、賛美したり演奏したりして注目を集めている「自分」、世では受け入れられなかったけれど、この優しい人達の集まりの中で受け入れられている「自分」が好きで、なんとなくキリスト業界の中にいるのであれば、やがてペテロのように、イエス様に仕えて来た動機が暴露される「鶏の無く時」が来る。
鶏が鳴いた時、イエス様は振り向いて、ペテロをじっと見つめられた。
イエス様のその眼差しで、じっと見つめられた時、私達は自分の中の主に対する愛の無さ、弱さ、罪深さが、光の下に晒し出される。
その時、私達もペテロのように、思いっきり泣くべきである。
泣くのが激しければ激しいほど、自分の愛の無さ、弱さ、罪深さ、ふがいなさを思い知り、そうしてますます、イエス様と親密になれるからだ。
そしてペテロは再び、復活の主と出会う。
その時、主の御前に「自分には完全な愛で愛し尽くす事はできない、それでも自分はあなたを親っている」と告白するなら、後には聖霊に満たされ、バージョンアップし、力強い証人として、造り変えられる。
それまで自分中心にしか生きられなかった人間が、イエス様中心に生きられるようになり、全世界に出て行き、福音を伝え行く者へと変えられるのだ。
ペテロはその半年も経たない後、もっと大勢の、もっと権威ある人々の前で、イエス様を大胆に証する事になった。
議院や祭司長たちに対し「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト」こそ救い主であり、このお方以外に救いは無いと、大胆にあかしし、その一漁師のあまりな大胆さに、彼らはうろたえた。(使徒4:1-14)
ペテロはイエス様を三度も知らないと言っていたが、そんな口で「あなたがたが十字架につけた、、、」などと、言えるのだろうか?
言えるのである。
十字架にあって、以前のものは過ぎ去り、全てが新しくなったからだ。
十字架のこちら側とあちら側では、全く違う者へと創り変えられているからだ。
皆さんも、鶏が鳴いた経験があるだろうか。
十字架の死によって、造り変えられただろうか。
ただ十字架の主の前にひれ伏し、主にあって造り変えられ、力強い証人となって歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:躓きを与える者の災い(ガラテヤ5:1-6):右クリックで保存
救いに至る道を妨げる者、人を福音から遠ざける者は、どれほど災いであるか。
小さな者の一人でも躓かせるなら、むしろ石に結わえられて海に沈められたほうが、その者にとって良い、と主は言っているし、パウロも「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」(ガラテヤ5:12)とまで言っている。
割礼とは、包皮の一部を切り取る儀式だが、それをガラテヤ人に勧め、せっかく受けた救いをかき乱し、躓きへと陥れるような者は、いっそ、不具者になってしまえ、と言う程の強さで、パウロはそのような者を忌み嫌っているのだ。
「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(1コリント5:6-8)
悪意と邪悪を振りまくパン種のような者から、私たちは一切影響を受けない、だからそのような者も同じ集いに留めても問題は無い、と思っていたら、それは傲慢である。
キリストがわたしたちの過越の小羊として十字架上で屠られたからこそ、私たちはパン種の入っていない者とされたのである。
そこに、古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を混ぜて、聖なる集い全体を汚してはならない。
過越祭は旧約の祭儀だが、この屠られた子羊とは、十字架につけられたキリストを表している。
その流された血潮によって、私達の内にあった罪や穢れというパン種は、一切消毒されたため、もはや律法を行う必要はなくなった。
そのキリストが命がけで提供して下さった完全な救いを、あたかも不完全であるかのように見做し、人間が律法の頑張りなどによって、キリストの達成できなかった分を補完しようなどと思い込むのは、傲慢の極みである。
キリストの十字架の贖いは完全であり、流された尊い血潮の効力は完璧である。
それに、人が何か付け加えたりしては、決してならない。
十字架の贖いに何も付け加える事無く、迷い出る事無く、尊い救いに留まり続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
今日は、午後の聖書学び会の後、洗礼を希望されている方のために、第一回目の洗礼準備会を開きました。
洗礼を受けたいと希望しておられるのは彼女だけですが、他に、学びの恵みを共にいただきたいという方も参加し、合計四人で行いました。
キリスト者として最もベーシックな事柄を、御言葉を根拠に学んでいきますので、硬い食物を時間をかけて噛み砕いていくような淡々さはありますが、真理を知れば知るほど、主がどういうお方かを、知れば知るほど、喜びが増し、信仰が増し加わって行く恵みがあります。
礼拝説教メッセージ音声:だまされて束縛されない方法(ガラテヤ5:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(1節)
もし、主イエスを信じる前より、信じた後の方が束縛されている感じが大きいなら、それはガラテヤ人のように罠に陥り、間違った歩み方をしている。
なぜなら、真理は人を自由にするものであるからだ。(ヨハネ8:32)
私達が真理の自由の中を歩み続けるには、無防備のままでいてはならず、堅く立つ必要がある。(2節)
なぜなら敵はいつでも、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来るからである。(ガラテヤ2:4)
私達の戦いは肉弾戦ではなく、思いの中に汚れを吹き込む暗闇の支配者や、天にいる諸霊に対してであり、その戦いの武具は、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして、御言葉の剣である。(エペソ6:11-17)
しっかり立つ事をせず、まんまと敵に偽りを吹き込まれてしまったガラテヤ人は、自由が揺るがされてしまい奴隷のくびきへと繋がれてしまった。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(2-3節)
この御言葉から、簡単な国語問題を出題する。
キリストが、あなたにとって何の役にも立たない存在とならせるには、どうしたら良いだろうか。
答えは「割礼を受ける」である。
割礼などの行いで義と認められようとするなら、律法全体を守り行うという義務もついて来てしまうため、割礼に限らずどんな律法の行いによっても、義とされる事を目指すなら、キリストから離れて恵みから落ちてしまったのである。(4節)
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(6節)
たとい、山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛がないなら、天においては何の値打ちも無い。(1コリ13:2)
行いの伴わない信仰は死んだも同然であり、愛の無い信仰も値打ちが無い。
愛と信仰が撚り糸のように紡ぎ合わされて、それに伴う行動が発せられこそ、信仰生活は意味を成すのである。
実体のある生きた信仰生活をしていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
あるブティックを経営している方が、それまで十分の一献金を捧げていたのを、主に示されて、十分の三捧げられました。
十分の一は今までどおり主に、残る十分の二は働き人のためにと捧げて下さったため、押入れ揺すり入れして祝福が注がれるように祈りました。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:38)
引き続き、御言葉どおりの祝福が注がれるよう、祈りに覚えている所です。