メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:奴隷と自由人の分岐点(ガラテヤ4:21-31):右クリックで保存
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律法の下にいる事は、徹底的な奴隷状態である事を、パウロはアブラハムの二人の子の母、すなわち奴隷女ハガルと、正妻であり自由の女であるサラを用いて語っている。
女奴隷ハガル(名の意:離脱、移住)の子は、肉の力によって生まれ、奴隷であり、相続を受ける事は出来ず、やがて離脱し移住して行く。
それに対しサラ(名の意:王女)の子は、肉の力には一切拠らず、約束によって生まれ、自由であり、アブラハムのあらゆるものの相続者である。
「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。
他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(25-26節)
この手紙が書かれた時代のすぐ後、エルサレムは滅ぼされてしまったように、肉の力による者は、やがて滅ぶ。
しかし、約束を信じる信仰によって行きる者達に用意されているのは、天のエルサレムであり、それは永遠に存続する。
約束の子イサクの系統の人たちは、肉の力によって頼らず、主から着せられるいのちの力によって生きる。
事実、アブラハムとサラはそれぞれ100歳と90歳、肉の力が尽き果てた時に、あらかじめ約束されていた子が与えられた。
また、アブラハムの(単数形の)子孫であるイエス様も、十字架の上で一切の自分の力を捨て、三日目に全能者によって着せられたいのちによって高く上げられ、永遠に続く王座が与えられた。
「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」(4:29)
約束の子達は、肉による子達によって迫害を受けるが、信仰を捨てずに主を信頼し続けるなら、肉に拠らない、全く新しいいのちが与えられ、人の力では到底不可能な圧倒的な救いが与えられる。
そして、神の約束から離れて、肉の力に頼り、自分の好き勝手に行きたい者は、決して祝福を受け継ぐ事は出来ず、追い出され離脱して行くのだ。
『聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。』(30節)
肉によって歩むのではなく、信仰によって、御霊によって歩み、自由の子として、相続者として、天のエルサレムに属する者となる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:キリストが形造られるまで(ガラテヤ4:12-20):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロがそれまで、ガラテヤ人に語気荒く戒めるような内容を書いてきた理由は、彼らを情熱をもって愛し、良くなって欲しいと本気で思っているからであったが、本日の箇所では幾分、嘆願するような語調へと変化している。
「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。」(12節)
パウロが堂々と「わたしのようになってください」と勧める事が出来たのは、彼は元々誇り高き律法を持つユダヤ人であったにもかかわらず、キリストにあって自由な者として模範を示し、少しでもガラテヤ人を救おうとして、ガラテヤ人のようになったからである。
彼がガラテヤに福音を伝えた理由は、パウロが弱かったからと13節に書いている。
恐らく彼は元々、ガラテヤに留まるつもりはなかったのに、たまたま何らかの疾患に罹ってしまって留まる事となり、その病状ある体のまま、そこで福音を伝えた所、いのちの広がりを見せたようである。
主は実に、人の理解を超えた導きをなさる。
パウロの病気は具体的に何であったかは分からないが、14節によると、それは人が見たら試練となるような、また軽蔑の対象となってもおかしくないような症状であったようだ。
にもかかわらず、ガラテヤ人はかえってパウロを御使いのように、キリスト・イエスご自身であるかのように迎えてくれた。
ガラテヤ人に当初あったその愛情は、人間的な博愛や道徳によるのではなく、彼らの内に形造られたキリストの故であり、彼らの中に形作られたキリストご自身 にあって、そのような状況のパウロを喜んで迎え入れ、御使いやキリストそのもののように扱い、目をえぐり出して与えたいとさえ思ったのである。
しかし彼らは、そのはじめの愛、はじめの喜びから離れてしまった。
何によってか。それは「熱心な人々」によって惑わされたからである。
その者達が熱心だった理由は、ガラテヤの人達を自分に対して熱心にしたかったからであって、ガラテヤの人たちをキリストに対して熱心にさせたいからでは決してなかった。(17節)
ガラテヤの人達を自分たちに熱心にさせ、上に立って支配するようになり、そうして、ガラテヤの人たちをキリストにある恵みから締め出してしまったのだ。
かつては、目をえぐり出して与えたい程までパウロを愛してくれたガラテヤ人が、かの者達に惑わされ、そこをパウロが真理を語ったがために、パウロの敵になってしまうとしたら、どれほどパウロにとって辛い事だっただろうか。
「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)
パウロが心血注いで苦心したのは、ガラテヤの人達の内にキリストを形作る事だった。
私達が歩むべきは、立派な行いの追求ではなく、人道的・博愛的な人間になろうと頑張る事ではなく、キリストが形作られ、そのキリストによって歩む事である。
ますますキリストがはっきりと形造られ、キリストの身丈にまで成長していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
十字架の前の人間模様(ルカ23:13-27)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
本日は棕櫚の主日で、イエス様が十字架に架けられるためにエルサレム入城をしたのを覚える日である。
群集はロバに乗って通られるイエス様の行く道に、棕櫚の葉を切って敷いたり、自分の服を脱いで敷いたりして、「ホサナ」(ああ救い給え)と叫びつつイエス様を迎えたが、群集はイエスがどういうお方かを知らず(マタイ21:1-11)、 一週間もしない内に今度はイエスを「十字架につけろ」と叫ぶ側へと一転した。
十字架へと向かうイエスを中心に、色々な人物が登場し、色々な人間模様が展開されるが、私達は彼らを歴史上の人物として第3者的にどうこう批評するのではなく、私達はキリストの一体「何」で、キリストの十字架に関わる登場人物の内の、誰に該当するかを、意識するべきである。
「ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」(ルカ23:24-25)
ポンテオ・ピラトは使徒信条でマリヤに次いで出る程、キリスト者にとって重要な人物である。主が苦しみを受けられたのは祭司長や律法学者、ローマ兵の元であり、ピラトはむしろイエスさまを3度もかばっていて一見良い人物にも見えるのに、なぜ使徒信条では「ポンテオ・ピラトの元で苦しみを受け」なのか。
祭司長や律法学者達など、イエス様を最初から否定し、否定して終わるような者達には、主は目も留めておられないが、主に目を向けようとする者達にこそ主は目を留められ、特別に扱われるのだ。
ポンテオ・ピラトは、総督として、イエス様を十字架につける権限もあれば、十字架から守る権限もあった。
実はキリスト者は、ポンテオ・ピラトと実によく似た立場にあり、人間(自分も含め)の意見を突っぱねてイエス様を解放する選択を取るか、それとも、人(自分も含め)の意見に妥協してイエス様を拘束し、内にいる暴動と人殺しのバラバを解き放つか、という権限が、いつでもある。
それ故、あなたも人の意見に妥協してイエス様を退ける時、主は「あなたの元で苦しみを受け」られるのだ。
ヘロデ・アンティパスはイエスを見ると、非常に喜んだ。それは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。(ルカ23:6-12)
しかし彼は興味本位で色々と質問するだけで、それに対してイエス様は、一言も言わず黙っていた。
イエス様を単に興味本位で質問し、派手に飾り立てたり茶化したりして見て、イエス様から何も反応が無いと、なぶりものにして送り返すような者達に対しては、イエス様は始終、何の反応もされないのだ。
イエス様はピラトの前で多くの鞭を打たれ、多量の出血をしていた為、十字架を最後まで運びきる事が出来なかったため、たまたま通りかかったクレネ人シモンが徴用され、イエス様の十字架を運ぶ事になった。
彼はたまたまその場に居合わせ、血まみれで十字架を運ぶイエス様を野次馬のように見ていただけだったかもしれず、そこを突然徴用された為、とんだとばっちりをもらったと思ったかもしれない。
しかし、かの死刑囚はどうも邪悪ではなさそうで、しかも、大勢の女達が泣きながら彼に従っていた。
彼女達は「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられさえされない程、数に入らぬ、取るに足らぬ存在だった。
恐らく女性達は「本当は私達があなたの役割を果たしたかった」「でも、力が無いので出来なかった。」「助けてくれて本当にありがとう」と、シモンに声をかけただろう。
彼はアレキサンデルとルポスの父で(マルコ15:21)、そのルポスがローマ16:13の人と同一人物であるとしたら、彼は後のキリスト者の集まりで「主にあって選ばれた者」として有名人物となったのだろう。
クレネ人シモンはある日偶然、ぼろぼろのイエス様と出会い、半ば暴力的に一緒に十字架を背負う助けをし、女性達はただ泣いてついて行くしか出来なかったが、そうする事で主と共に十字架を背負ったのだ。
クレネ人シモンはやがて十字架を肩から下ろす時が来て、そして主は大勢の人の身代わりとして十字架にかかる。それはイエス様しか出来ないが、シモンや女性達のように、私達も主と共に負える十字架がある。
私達は十字架の主を前に、祭司長達に扇動された人々にも、祭司長にも、ペテロにも、イスカリオテ・ユダにも、ポンテオ・ピラトにも、ヘロデにも、クレネ人シモンにも、名も無き女性達にも、なり得る。
自分を捨て、自分の十字架を負い、その上で主について行く皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ロバと群集(マタイ21:1-11):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の心人知らず(マルコ14:31-42):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ1:1-5:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:花婿ならぬ花婿の影を慕う花嫁(ガラテヤ4:8-11):右クリックで保存
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ガラテヤ人達は救われる以前、神ではない偶像の神々の奴隷で、その点は日本人と良く似ている。
仏式の葬式を経験された方はご存知の通り、諸々の法要や○周忌など、多くの気遣いやお金、労力がかかり、そうした事が発端となって、兄弟や親類とトラブルが発生し、関係が悪化する事も良くある。
神ではない人間や企業、あるいは誰かの作った搾取システムなどを「神」の座に据え、その仕組みに乗っかってしまうと、束縛の中を生きざるを得ないのだ。
「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節)
偶像の神々は明らかに無力で頼りにならないが、それまで一度も守っても見なかったくせに、律法の教えを有り難がって新たに守ろうとする事もまた、無力、無価値な支配する諸霊の下に逆戻りする事なのである。
「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。」(ヘブル10:1-5)
パウロにとって、彼がキリストへと導いた人々は皆、キリストへと嫁がせた花嫁である(2コリ11:2)はずなのに、その花嫁たちが、嫁いだ先の本体・キリストを離れて、キリストの影である律法に仕えるようになってしまった事を、彼は嘆いている。
例えば、女性が男性その人を愛するのではなく、男性の「影」を恋い慕うような、あるいは、3次元世界でいのちを持って生きている人間よりも、2次元世界のみに存在する命の無いアニメキャラなどを愛するような事をしているのだ。
キリストという実体ではなく、キリストの影である律法を求める行為は、そのようなものである。
『キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。』(5節)
ここでは、私達のために備えられたのは「体」と書いてあるが、この引用元である詩篇40編は「体」ではなく「耳」であると書いてある。
神様が私達に備える「体」に匹敵する重要な器官は、耳である。
人はうわべを見るもので、目に頼ると惑わされやすく、例えば律法の行いや、目に見える儀式などを見ると、それを自分も行いたくなる。
しかし、目を使うのではなく、耳を使って御言葉が何を言っているか聞いて従えば、大体間違える事はない。
「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。」(1サムエル15:22-23)
見えるものに拠らず、信仰によって歩み、祝福を得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
今日、ある聖徒の金銭的な事が解決されました。
午後3時までに一定の金額を入れなければ、どうしようもない状況になっていたはずで、実際、今朝までどう振り絞っても、無いものは無かったのですが、ある人からたまたま電話があり、ギリギリ救われたそうです。
この事は私達に、非常に大きな慰めでした。
エリヤが7たび祈り、手のひらほどの雲が湧き起こったのを見て、3年半降らなかった大雨が来るしるしとしたように、この事は私達にとって、大きな恵みの雨の予兆として受け止めました。
主は生きておられる方。
金銭だろうと、病気だろうと、主キリストに拠り頼む者に、解決されない問題はありません。ハレルヤ!
礼拝説教メッセージ音声:アッバ父と呼べる関係(ガラテヤ4:1-7):右クリックで保存
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高貴な家柄に娘が生まれた場合、後見人や家庭教師をあてがわれ、成人して嫁ぐまでに、様々な花嫁修行をする事になる。
同じように、イスラエル民族には「律法」という家庭教師があてがわれ、食事のマナーや、どのような人と付き合っていいか悪いか、結婚した場合はどうすべきか、礼拝する時のマナーなど、神からの直接的な高等教育を受けた。
イスラエル民族はことさら、罪や穢れに陥らないようにと、礼拝規定については事細かに教育されて来た。
それは嫁ぐべきお方のためである。
娘がいよいよ成人し、親が良しと見た時、家庭教師の管理から解き、しっかりした花婿に嫁がせるが、同様に神様も、花婿なる御子イエスをイスラエル民族に示し、彼へと嫁ぐようにされたが、イスラエル民族の多くはなんとその花婿を拒否してしまい、家庭教師である律法から離れようとしなかった。
娘は嫁ぐまで、親元でしっかり家庭教師の言う事を聞いて花嫁修業するが、嫁いだ時は、嫁ぎ先の主人に従うものである。
しかしガラテヤの人達は、イスラエル民族が犯してしまったように、嫁いだ花婿キリストを差し置いて、以前の家庭教師である律法に戻るような過ちを犯したわけである。
今、私達はキリストを花婿とし、父なる神をアバ父と呼ぶ事の出来る御霊が与えられている。
アバとは、子供が父親に親しみを込めて言う「お父ちゃん」のような呼び方である。
父を敬う事が行き過ぎて、「御座い天の父なる御神様(ございてんのちちなるおんかみさま)、、、」と言うような、異様に畏まった祈りをする人もいるが、今や、父なる神様と私達との関係は、子とする霊にあって、奴隷と主人のような差別的上下関係ではなくなっているため、そのような親しみの無い祈りは、本来的ではない。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)
私達は、キリストに対しては妻、父なる神に対しては義理の娘としてアバ父と呼べる関係となり、キリストとの共同相続人とされた。(ローマ8:17)
もはや家庭教師に従うのではなく、新婦として、花婿なるキリストに全面的に頼るのが、本来的である。
子とする霊にあって憐れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
昨日、ある聖徒と話していて分かったのですが、御言葉を取り次ぐ者は、シェフみたいなものですね。
食材はそのままで食べるよりも、切ったり焼いたり味付けしたりして、よりおいしく食べれるように、御言葉という硬い食物も、取り次ぐ者が色々な御言葉から厳選し、消化しやすいように教えるからです。
ある程度は御言葉という硬い食物を調理して口に届けやすくする者も必要ですが、最も良いのは、それぞれ一人ひとりが、御言葉から直接養いをいただけるようになる事です。
私としては、牧師依存者を増やすのではなく、キリスト依存者を増やす事を目指しております。