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礼拝説教メッセージ音声:早速の叱責(ガラテヤ1:6-10):右クリックで保存
韓国語通訳有
「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(6節)
パウロの他の手紙で1章6節といえば、まだ賛辞や挨拶が続いているはずであるが、ガラテヤへの手紙に限っては、早速叱責へと移っている。
キリストは、私達の罪のために命を投げ打って救ってくださったというのに、そのキリストを早くも離れ、ほかの福音に乗り換えつつある事を、パウロは驚愕したからである。
敵は私達に与えられている自由を妬んで、私達から自由を取り上げ、束縛の奴隷へと落ち込ませようとして、忍び込んできている。
「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。」(ガラテヤ2:4)
もし私達が、兄弟姉妹や牧師などの話を聞いた時、心に汚れた思いや束縛感が増し加わるなら、それが御言葉の真理から来たものか、すぐに照らし合わせる必要がある。
真理は私達を自由にするものであり、聖霊は清い御霊であるから、たとい、御言葉が私達の行動を制限するとしても、その制限の内に健全で自由な霊が増し加わるものだからである。
「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(8節)
「呪われるがよい」という言葉「アナテマ」は、神の庇護から離れ地獄へ堕ちよ、と言うほどの、とても厳しい言葉である。
ことに、つまづきを与えて人の信仰を貶めるような者に対しては、主も同じように厳しく言っている。(マルコ9:42)
つまづかせる者は、それほど災いなのであり、たとい、御使いのような者であっても、また、御使いであっても、災いである事には変わりない。
一体ガラテヤ人達は、なぜ一たび自由にされたのに、律法の束縛に戻ろうとするのか。
それは、「すがるな、味わうな、さわるな」といった教えは、あたかも賢いもののように人には見えるからであり(コロサイ2:20-23)、また、そのような困難を自分に課した事で、自分を誇る罠に陥り易いからである。
しかし、一時的な自己顕示欲を満足させるために十字架を覆い隠すような事があってはならず、キリストというお方の栄えを差し置いて「私達」の栄えを押し出してはならない。
私達も、十字架の福音語らずキリストを覆い隠そうとするなら、この偽使徒達のように、呪われるべき者となってしまう。
救いに至る道は唯一、主イエスの十字架であり、その他に救いの道は無く、私達も十字架以外に誇りとするものは決して無いのだ。
譲ってはならないキリストにある自由(ガラテヤ1:1-5)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ガラテヤ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2012-3-13 20:58
礼拝説教メッセージ音声:譲ってはならないキリストにある自由(ガラテヤ1:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有
ガラテヤ人への手紙は、いつ、どこで、また、ガラテヤのどこに書かれたかはあまり定かではなく、状況的な手がかりを書面から余りつかめない程、パウロは本質だけをこの手紙で簡潔に書いている。
この手紙は全体的に論駁的で、それは福音の本質である「キリストにある自由」を侵害する者に対するパウロに怒りと、その者達によって欺かれてしまったガラテヤ人へのうめきに満ちているため、2コリントよりさらに情熱的な論調である。
イエスを信じる信仰によって救われる、というシンプルな福音に混ぜ物をし、割礼を受けさせる等、律法の行いをしなくては救われないと主張して、キリストにある自由を侵害する事を、パウロは決して赦す事ができなかった。
だから彼は1章1節の最初から、自分の使徒としての権威は人間からのものではなく、イエスキリストにある神から出たものである事を宣言し、そして4節では、キリストはあなたたたちを悪から救い出すために、いのちを投げ出して下さったという真理を宣言している。
あたかもキリストの贖いは不完全で、それに人間が何かを付け足す事によって救いを完成しようと思っているガラテヤ人を、パウロは真っ向から牽制したが、私達も同じ過ちに陥っていないだろうか。
キリストがただ一度、いのちを投げ出して提供して下さった十字架の救いは、完全であり、自分の何か頑張りも添えて完成させよう、などと思うのは、謙遜ではなく傲慢である。
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)
いよいよ2コリントの講解説教が今日で終わりです。
ローマ、第一コリントと違って、教義的な内容は少なく、一教会へのプライベートなメッセージで、パウロのコリントに対する押し迫るような愛が篭った手紙でした。
明日の早天からは、ガラテヤ人への手紙の講解説教に入りたいと思います。
主がどのように導いて下さるのか、楽しみです。
キリストにあって完全な者となれ(2コリント13:7-13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 2コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2012-3-12 20:46
礼拝説教メッセージ音声:キリストにあって完全な者となれ(2コリント13:7-13):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロの願いは、自分が不適格のように見えても、自分が弱くても、コリントの人達が不品行など止め、正しい行いをするようになる事だった。(7,9節)
「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」(8節)
私たちが何事も出来る根拠である真理とは、まことのぶどうの木なるキリストであり、このお方を離れては、何もする事ができない。(ヨハネ15:4-6)
キリスト抜きで何かをした、例えば事業で成功した、と思っても、それは神の前にあるものではなく、やがて消え去る霧、火に投げ込まれてしまう類のものである。
「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」(9節)
そして、完全な者になるとは、キリストの満ち満ちた身の丈まで達する事であり(エペソ4:13)、それには、聖徒達が互いにキリストにあって立て上げる働きをする事以外にはありえない。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エペソ4:16)
それ故、聖徒達がキリストにあって一つとなり、平和を保つ聖徒の交わりが大切である。
「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(11節)
いよいよ手紙の最後の挨拶に入るが、その中で、真っ先に勧められている事は、「完全な者になりなさい」である。(「喜びなさい」と訳したギリシア語の字義は「さようなら」という挨拶の意味もある。)
完全な者になるとは、キリストの満ち満ちた身丈まで成長する事であり、それが大切であるので真っ先に勧められ、その次は「慰めを受けなさい」である。
キリストの力は弱さのうちに完全に働くものであり、私たちが弱さを身にまとうなら、同時にキリストにある慰めも与えられ、それによって、私達はいかなる状況下でも強くなる事ができる。
続いて「思いを一つに」「平和を保ち」これらはエペソ書でも見たように、聖徒達がキリストにあって一つとなり、平和を保ってこそ、完全へと進む事の近道であるためパウロは勧めているのである。
「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。」(12節)
ボアズは、雇い人達と日常的に祝福の挨拶を交わしたため、彼は災い多き時勢にあっても有力者となる事が出来た。(ルツ2:4)
同じように私達も、聖なる挨拶を交わし、互いに祈り合う事によって、ますます祝福され、艱難の世にあっても有力者となって行く事ができるのである。
そして最後に祝祷である。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(13節)
三位格なる神の恵みがあるよう祈る際、真っ先に持ってくるべきお方は、子なるキリストである。
このお方こそ唯一神と人との仲保者、聖霊を与えて下さる保障なるお方である。
キリストの血潮の助けを得てこそ、おりに叶った助けを得るために大胆に御父の前に出る事が出来、キリストの息吹によって私達は聖霊を受け、大胆にキリストを証する働きが出来るのである。
どうか、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、皆さん一同と共にありますように。アーメン!
的を射た歩み(ルツ2:1-16)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
本日は震災からちょうど一年目、日本の至る所で追悼式が行われるが、私たちは今日、何をもとにして歩むべきか。
私たちは、的を射た歩みをすべきである。
罪(ハマルティア)とは「的外れ」という意味であり、的を外した歩みは、余計な労働に掻き回される上、何も有益なものを残さない。
的を射た歩みとは、決して動かされる事の無い岩、すなわちキリストを土台として人生を建てあげていく歩みであり、このお方を除いた歩みは、砂の上に建てた楼閣にすぎない。
神への不従順とその報いである災いが満ちている世にあっても、しっかりと力をつけていき、栄えた男がいる。
「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。」(ルツ2:1)
当時のイスラエルは、律法に従順するのではなく、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っており、イスラエルが神から離れる度に、神は外敵を用いてイスラエルを懲らしめ、それでイスラエルは神に立ち返り、神は憐れんでさばきつかさを用いてイスラエルを救い、そうして束の間の平和が訪れ、しかし、後の代になると再び神から離れ、神は再び外敵を用いて懲らしめ・・・というサイクルが、当時続いていた。
そんな災いの中でも着実に有力者になって行き、後には王族の家系を生み出した男が、ボアズである。
彼の父はユダ族のサルモン、母はかつてカナンの城塞都市エリコで遊女をしていた、あのラハブである。
サルモン(名の意:平和を好む)はヨシュアがエリコを探らせた二人の斥候の一人ではないか、という説もあるが、どのような馴れ初めで結ばれたにしろ、あの異邦人や不品行に厳しいイスラエルの中で、妻ラハブや息子ボアズを養う時、世間からの理不尽な偏見や妨害もあったであろう事は、容易に予想できる。
しかも、当時イスラエルは不従順の故、外敵の攻撃やききんによって、不安定な生活を強いられていた。
そのような災い多き世情、そのような家庭事情の中であっても、着実に力を伸ばして行けた秘訣は、一体何だろう。ボアズの言動から、その秘訣を探っていきたい。
『ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。』(ルツ2:4)
この短い一節から、彼は身内との挨拶に「主が共におられるように」という祈りと、「主が祝福して下さるように」という祝福を、日常的に交わしていた事が伺える。祝福の挨拶を交わす事は、有力者の第一歩である。
ボアズはルツに、よその畑に落ち穂を拾いに行かず、この畑で拾うよう勧め、また、ルツが落穂を拾うのを若い者が邪魔をしないようきつく命じ、喉が渇いたら汲んである水を自由に飲むよう、勧めた(2:8-9)
当時、落穂拾いをする人は、いじめられるのが常だった(2:22)が、ボアズは主の方法をよく心得ていた。
申命記24:19によると、穀物の束を畑に置き忘れたら、取りに戻らぬように、なぜなら、それは在留異国人ややもめのものであるから、そのようにするのであれば、主は祝福して下さる、と書いてある。
神は在留異国人ややもめを憐れみ、養ってくださるが、しかしボアズは、束を「わざと」落とすよう指示して(2:16)神の憐れみの業を自分のわざとし、神の思いを自分の思いとした。
有力者の行動パタンは、弱い者を憐れみ、神のご性質をよく知り、神の働きを、自分の働きとする事である。
ルツの信仰を導いた義母ナオミは、全能者が自分をひどい目に合わせたから自分をマラ(苦しむ)と呼ぶよう人々に言ったが、ボアズは主を「報いて下さるお方」「翼の下でかくまって下さるお方」と認めていた。
『どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。』(2:12)
ボアズの生きた世情、生まれた家庭環境を鑑みるに、彼は神に対し、ひねくれて育つ要素は十分あったが、彼はあくまで、主に対するポジティブな見方を変えなかった。それもまた、有力者の思考パタンである。
またボアズは、自分のはやる思いに走らず、目上の人への礼儀を重んじ、世の中のルールに従順した。
ルツにせまられた時も、自分よりも近い買戻しの権利のある親類を置いて自分勝手には出来ないと告げたし(3:12-13)、その翌日、当の親類を10人の長老と共に呼び集め、彼らの前で正式に買い戻しの手続きを行い、ルツを公にめとり、結果、ボアズは長老達から、ナオミは女達から、公に祝福された。(4:11-15)
ボアズのように、主に対してポジティブな信仰を持って、祝福の挨拶を交し合い、主の御思いを自分の思いとし、自分のはやる思いに走らず、主にある兄弟姉妹や目上の人への礼節を重んじて、この災い多い世情においても、有力者となって栄える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
a voice(ヨハネ1:1-5):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
立ち直ったら(ルカ22:31-34):右クリックで保存
韓国語通訳有
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ5:1-6:右クリックで保存
韓国語通訳有
ある兄弟の導きで、主日礼拝の後、聖書を輪読する会が、先週から始まっています。
今日はマラキ書全部を読みましたが、いやあ、改めて読むとすごいですね。
マラキ3章の十分の一献金の勧めは良く開かれますが、2章には主に栄光を帰さない祭司への戒めがあり、もし主に栄光を帰すことを心に留めないなら、顔に糞を撒き散らす、と書いてあります。
祭司たる者、3章から十分の一献金の勧めをする以前に、2章の祭司に対する戒めをまず自分に当て嵌め、主に栄光を帰しているかを十分吟味しなくては、と思いました。
聖書をそのまま素読するだけで、多くの恵みが溢れてきます。
本日、ゴスペル・ア・ボイス初の活動を行い、内外から10数名参加しました。
ここはいわゆるブラックゴスペルをパワフルにソウルフルに歌って気分爽快になる所ではなく、ことばなるキリストを丁寧に大切に賛美し、想い、キリストに触れ、そして癒しや解放が沸き起こる所です。
今日参加された方たちは、主イエス様を徹底して主役としている事を、見たかと思います。
今後、主がさらに栄光のために用いてくださるようお祈りします。
ゴスペル・ア・ボイスの主旨:
http://blog.goo.ne.jp/gospel_a_voice/e/7ccfce4d2c1770fffa91acae23357c99