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礼拝説教メッセージ音声:三度目は無い(2コリント13:1-6):右クリックで保存
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コリント人の中に相変わらず、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあったりしないか、汚れと不品行と好色を悔い改めていないかを、パウロは心配していた。(12:20-21)
「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。」(13:1)
パウロは過去2度の訪問で、そのような者達を戒めていたが、もし今度訪問する際にも改めていないなら、容赦しないと2節で言っている。
容赦しないとは、具体的にどうするのだろうか?
兄弟姉妹が罪を犯した場合、二人また三人が戒め、それでも聞かないなら教会が戒め、それでも聞かない場合は、その者を異邦人や取税人のように扱うよう主は定めている。(マタイ18:15-17)
つまり、聖徒の交わりという祝福された神の囲いから、その者を罷免し、裁きを神に引き渡すのである。
二人また三人のキリストにある集まりには、地上で罷免するなら、天においても罷免される程の権威が与えられている。
このすさまじい権威を、兄弟姉妹をさばくためではなく、建て上げるために用いたいとパウロは願う。(2コリント13:12)
コリント人は、パウロに2度戒められた時、悔い改めるよりもむしろ、パウロがキリストによって語っているのかどうかという証拠を見せよ、と言っていたようであるが、それに対しパウロは、自分がキリストのご性質に沿って来た事を示し(4節)、自分がキリストによって語っている事を伝えた。
キリストは、人を圧倒的な強制力で無理やり従わせるのではなく、愛と憐れみによって自由に仕え愛するようにと、して下さった。
人々の中には、キリストが無抵抗なのを良い事に、つけあがり、あざけり打つ者もいたが、主はその人さえ憐れみでもって救いたいが為に、打つ者に頬や背を委ねられた。
しかしキリストが再臨される時、与えられた憐れみの期間に悔い改めておらず、行状を改めなかった者には、圧倒的な力で臨んでその者を裁く事になる。
パウロも1度・2度目の訪問の時には「弱々しく」見えるほど柔和に諭したが、三度目に訪問する時には毅然として権威を行使するのだろう。
さらにパウロは、自分達が信仰に立っているかを吟味せよ、と促した。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」(13:5)
他人の事をとやかく言ったり、さばいたりする者の座に着くのではなく、まず自分をキリストにあって吟味し、自分をさばくべきである。
「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(1コリント11:31)
もし私達の内に、争いや、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるとしたら、それはキリストの性質ではない。
即刻悔い改め、キリストに向き直って純度を保つべきである。
礼拝説教メッセージ音声:パウロの期待(2コリント12:19-21):右クリックで保存
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「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」(2コリント12:19)
コリントへの手紙には、パウロが自己弁護しているかのように見える所があり、コリント人はそれを見て、パウロが自分達に媚びて、評価してもらいたいと思っていた節がある。
コリント人は、自分達は評価する側、パウロは評価される側と見なしていたかもしれない。
流されやすい人は、誰かから面接官のような態度で押し込まれると、おどおどしてしまう事もあるが、パウロはおよそ人間の評価を小さな事としていた。
「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」(1コリント4:3-4)
人の目を気にしてしまう傾向を改善するには、キリストにあるアイデンティティを、すなわち、罪赦され、神の子とされ、キリストの懐にしっかりと結び合わされ、キリストと共に天の王座に共に座らされた者であるという事をしっかり確立すれば、改善され、人のどんな罵詈雑言を受けても、なんとも無くなる。
裁くのは主であって、人ではないのだし、もし誰かが我々を攻撃するとすれば、その者はキリストを攻撃している事になる。
しかし、愛する人がこちらの愛を理解せず、その人からあらぬ誤解を受ける場合、心にダメージを受ける。
パウロは父親のようにコリント人を愛し、一人の清純な花嫁として育て上げていたため、コリントの人から心にダメージを受けた。
「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。」(20節)
聖徒の交わりの内に、争いやねたみ、怒り、党派心などがある場合、偽兄弟が入り込んで掻き回されているのであり、キリストの花嫁として汚された状態にある。
パウロはコリントの人達がそのような状態になる事が我慢ならないほど、父親としてコリントの人達を愛していた。
交わりの内から争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などを取り除き、清純なキリストの花嫁として、純粋な交わりを保つ皆さんでありますように。
そしてパウロのように、心から兄弟姉妹を愛する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:求めるのは、あなた(2コリント12:14-18):右クリックで保存
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「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。」(14節)
パウロのコリントの人達への愛は、父親のような強く熱いものである。
同じく、教会における交わりは本来、打算的なものではなく、家族的なものである。
もし牧師や聖徒が、教会の人数や大きさ、献金額、名声など、「人」ではなく「物」を第一に求めているとすれば、表面上は聖徒と優しく接するにしても、もし役に立たないと見なしたら、平気で切ったりする事もありうる。
しかし主の愛は、あくまでモノではなく人に対するものであり、主も、一人の罪人が悔い改めたら、天で大きな喜びが沸き起こる事を、3つのたとえを用いて詳しく説明された。(ルカ15章)
コリントの人達の一部は、そんなパウロの心を悪意へと取りかえ、パウロが金銭面で負担にかけなかった事さえ「実はパウロは悪賢くてだまし取っていた」と吹聴する者や、それを真に受ける者もいた。(16節)
真実なの愛を悪意を持って受け止め、恩をあだで返すような事は、往々にして有り得る事柄である。
それはパウロとコリント人の関係に留まらず、世の親と子の関係も、そして、キリストと人との関係も、まさしくそうである。
「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」(15節)
このパウロの心情吐露は、そのまま、キリストの心である。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:10-12)
キリストの尊い愛を軽んじる者、その愛を受け入れない者は、既にさばかれており、そのまま自分の罪の闇の内に滅びるが、キリストを受け入れる者は、光にあって滅びる事なく、永遠のいのちを保つのだ。(ヨハネ3:16-21)
パウロがここまでも艱難に耐え、大きな事を為し、捧げる愛に満たされていたのは、キリストがパウロの内に宿り、彼の内で働いていたからに他ならない。
私達の内に、元々愛は無い。
しかしキリストに満たされる時、私達はキリストのわざを為し、キリストの愛を流し出すのだ。
打算によってではなく、キリストの愛によって交わりを保ち、キリストの愛を流し合う皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
今日は春らしくて暖かく気持ちの良い日でしたので、教会のテラスにPCとコーヒーカップを持ち込んで仕事をしました。
大通公園に面した所の2階ですので、目の前は公園の木々が見えますし、すぐ下は通りを行きかう人々や車も見えます。
こんなにも気持ちいいのは、寒い日々の中に、突如暖かい日が現れたからで、人が気持ち良いよ思うのは、温度や季節の変化があるからですね。
「あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。」(申命記11:11)
アップダウンがあるからこそ、味わいも楽しみも増すものです。
礼拝説教メッセージ音声:肉体のとげ、サタンの使い(2コリント12:7-13):右クリックで保存
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パウロは素晴らしい啓示を披露し、その直後、弱さを誇っている。
「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(7節)
この「とげ」が何を意味するのかには色々な説があり、彼の目の病ではないか、あるいは「サタン」から来る絶え間ない試練や誘惑、あるいはパウロを邪魔して止まない誰か人ではないか、など言われている。
第三の天にまで上げられ、多くの人を癒し、多くのサタンのわざを砕いてきた、あのパウロが、病か何か「サタンから送られた使い」に苦しみ、しかも主に3度願っても、主はそれを去らせてくださらない。
この矛盾にも見える事の意味は、一体何だろう。
この「とげ」が与えられた事の理由は、まず「思い上がることのないように」(7節)である。
また9節、『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』
つまり、キリストの力の表れとは、木や石で出来た偶像が人間の力によって立て上げられ担がれるのとは真逆で、キリストが弱い人間を建て上げ、担ぎ上げ、そうしてキリストの力が、弱い人間を通して働かれるのである。
人が徹底的に人間由来の力をあきらめ、全てをキリストに委ねる時、キリストの力が大いに働くのである。
私達にも、常に何らかの形で痛めつける「とげ」が刺さっているかもしれない。
それは病かもしれないし、誘惑かもしれないし、名前を挙げられる誰か人かもしれないし、与えられた環境かもしれない。
これさえ無ければ私はもっと自由になれるのに、もっと活躍できるのに、と思うかもしれない。
しかし、それらが与えられている理由は「思い上がることのないように」「キリストの恵みが弱さの中で十分に発揮されるために」「キリストの力がわたしの内に宿るために」である。
病が癒されるとしたらキリストの栄光のため、病が与えられるとしてもキリストを頼りとするためであり、キリスト抜きの病は意味の無い苦しみ、キリスト抜きの癒しは大いなる機会損失でしか無い。
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(10節)
パウロは多くの弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを体験して来たが、それでも彼の命が長らえ、キリストへの信仰も守られてきたのは、それらを受けるたびキリストへと持って行き、キリストが働き、パウロ個人の人間業では決して出来ない救いが都度、キリストから与えられてきたからである。
結局、全てはキリストへと向かう事によって、意味を為すのだ。
日々キリストに全てを委ね、キリストを体現し、人々にキリストをあらわす皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
月曜はオフの日、ある聖徒が教会の近くに引っ越すという事で、その物件の寸法を測ったり、みなとみらいの家具屋に行って品物を選んだりして来ました。
地元ながら、みなとみらいの建物群はすごいなといつも思わされます。
こういう所の高層マンションには、1ヶ月くらい住む分にはいいかもしれませんが、ずっと住むのはちょっと・・・と思います。
礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい神秘的な体験の意味(2コリント12:1-6):右クリックで保存
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パウロは自分の弱さを誇った後、第三の天に行くという奇跡的な体験を初披露した。
「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれない」(12:6)
もしパウロが体験してきた、奇跡的・不思議な体験に焦点を当てて、沢山披露したとしたら、人々はパウロをカリスマ教祖のよう扱うかもしれない。
しかしながら、そうした数々の奇跡的体験も、多くの苦難に耐えて来られたのも、全て、自分の努力によるではなく、神様からの一方的な力添えと、憐れみによるものである為、彼は決して誇る事は出来ない。
パウロは2節以降で、第3の天にまで引き上げられた事を第三者的に書いているが、それは、パウロにとってあたかも他人事のように思えるからだ。
本当にキリストにあって生きている働き人は、自分の関わってきた働きそのものが、あたかも他人事のように、第三者的に見えるものである。
なぜならその働きは、自分のものではなく主の為してくださったものだからである。
確かに自分がその働きをした事には間違い無いのだが、あたかも、自分ではなく他の強く大きな方がそれをして下さって、自分はそれに手を添えていただけ、という感じがするものであるため、その業について、自分は誇りようが無いものなのだ。
彼は14年前、パラダイスにまで引き上げられ、人には語る事が出来ないほどの、素晴らしい体験をした。
どの場所でその体験をしたのかには色々な説はあるが、その一つに、パウロがルステラで石打に遭った時ではないか、という考えもある。
「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。」(使徒14:19-20)
人々から石を当てられ、死んだかのようになっても尚生きているのは人間業ではないが、もっとすごいのは、その直後、自分を石打にした人達のいる町の中へと、再び入って行った事だ。
人には語ることの出来ないほどの素晴らしい事が天において用意されている、その光景をこの時見てきたのではないか、というのも、うなずける。
ルステラでこの体験をしたかどうかは分からないが、ルステラの事に限らず、彼は、四十に一つ足りない鞭打ちという死刑にも等しい重い刑罰を5度も受け、幾度も死線をさまよっている。
それでもパウロがキリストを告白してやまないのは、彼はそれらを遥か上回る、素晴らしい恵みや慰めを受てきたからではないだろうか。
そのような神秘的な体験が与えられる理由は、決して誇るためではなく、私たちが大きな艱難を乗り越えられるようにという、神様からの慰めではないだろうか。
私にはそうした体験は無いが、それは今までそのような苦難から守られていたため、必要が無かったからと思う。
もし私達が、死に至るまで証を守り、殉教する分があるのなら、その時は、パウロやステパノのように、圧倒的な主の栄光を、パラダイスにおいて備えられた慰めの大きさを示され、殉教さえも、余りある喜びへと変えられるであろう。
主からの慰めが無ければ、誰もそのような艱難に耐えうる人間はいないだろう。
いずれにせよ、自分には殉教など艱難が待っているのだろうか、という心配は無用である。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリ10:13)
そして、明日のための心配は無用である。明日のことは明日が心配し、労苦はその日その日に、十分あるからである。(マタイ6:34)
日々キリストに全てを委ね、キリストを体現し、人々にキリストをあらわす皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
らくだが針の穴を通るには(マタイ19:16-26)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
『さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」』(マタイ19:17)
永遠のいのちを手に入れるにはどんな事を、という質問に対して、イエス様は「善い方」をお答えになった。
これは、質問への答になっていないようで、実は、真に答えである。
私達はこの青年のように、とかく「善いこと」を模索するが、大切なのは「お方」である。
彼は「善いこと」をさらに追求した結果、イエス様から到底出来ないような事を示された。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。(21節)
イエスは彼が去っていくのを見て言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(23-24節)
金持ちになったら、自動的に天の国に入れなくなる、という訳ではないし、イエス様は金持ちが嫌いという訳でもない。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあるように(マルコ10:21)、イエス様は、この金持ちの青年を慈しまれ(loved him)、救われて欲しいと願っておられた。
それにしても一体、自分の積み立ててきた財産を一切投げ出して、貧しい人に施せる者など、どれほどいるだろうか? 一体、らくだが針の穴を通る方法は、あるのだろうか?
誰もが認める金持ち悪人だったのに、財を投げ打って施すまでに変えられたザアカイから、ヒントを見たい。
ザアカイは取税人の頭で金持ちだった。(ルカ19:1-10)当時の取税人は、忌むべき支配国ローマ帝国のために、しかも、取り立てるべき税額を水増しして取り立てていたため、売国奴同然に嫌われていた。
そんなザアカイだったが、彼は群集に邪魔され、それでも、木に登ってでも、イエス様を見たいと思った。
するとイエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われた。
ザアカイは喜んでイエス様を自分の所に迎え入れ、そして、財産の半分は貧しい人に施し、だまし取った物は4倍にして返す、と言う程に、彼の人格も人生も、わずかの間に変えられた。
イエス様の一言「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じただけで、らくだが針の穴を、通ったのである!
変えられるコツとは、ザアカイのように、木に登ってでもイエス様を求め、そしてイエス様の「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じて、喜んで自分の中にイエス様をお迎えする事である。(黙示録3:20)
青年はイエス様を「善い先生」と呼び、善い事について教えを求めたが、完全な者になるための善い事を教えられたものの、しかしその内容は人には到底不可能な内容で、イエス様を置いて去るしか無かった。
対してザアカイは、イエス様を「先生」ではなく「主よ」と呼び(ルカ19:8)、イエス様を喜んで自分の所に迎え入れた結果、言われてもいないのに、喜んで貧しい人のために財を投げ打ち、喜びの内に救いを得た。
イエス様をどなたと見るかは、大切である。イエス様を「善い先生」と見るなら、人には到底辿り着くことの出来ない高みを見せられ、絶望するしかない。しかしそれでもイエスを主として呼び求め、自分の中に迎え入れるなら、人には到底出来ない事が、ラクに、喜んで出来るように、なるのである。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)大切なのは事ではなくお方である。
私達はとかく、砂漠のような世でも、多くを積んで逞しく運んで行く「らくだ」のようになりたがる。
しかし神の国に入る門は狭く、余計なものは門の前に置いて行かなくては、入れない。
イエス様を置きざりにして重荷を背負って砂漠の世を行く者ではなく、自己を置きざりにして砂漠の世をイエス様におぶって行ってもらう皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!