• カテゴリ 礼拝メッセージ説教音声配信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ4:11-17:右クリックで保存
韓国語通訳有

第2礼拝で少し触れてましたが、今日は何故か知らないけれど、色々と事が起こりました。

でも、それだけ妬まれているという事は、大きな祝福が待っているという事です。

主がどんな祝福を用意しておられるのか、楽しみです。

P.S.
サタンざまぁwwwww

礼拝説教メッセージ音声:キリストの僕の誇り(2コリント11:22-33):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロは、生まれも学歴も、実績からしても、人間的に誇れる所は多くあったはずです。
しかし彼が誇ったのは、彼自身がキリストの名の故に受けてきた、労苦と困難でした。

パウロは22節で、ユダヤ人である事やアブラハムの子孫である事は彼らと同様であると語っていますが、自分が「キリストのしもべであるかどうか」という事に関しては、狂ったように、彼ら以上にそうであると、絶対に譲れないかのような勢いで強調しております。(23節)

私達はミニストリーをする時、何を誇りにしたいでしょうか。
有名神学校を出る事を誇りにしたいでしょうか。
社会活動の実績を積んで、有名な慈善活動家になる事を誇りたいでしょうか。
あらゆる知識や奥義に通じ、預言や奇跡を成す事を誇りたいでしょうか。
パウロはそういった事は一切話題に出さず、自分は「キリストのしもべである」事を、狂ったように誇ったのです。

23節から27節までを読むと、パウロはキリストの故に、本当に多くの苦難を経てきた事が分かります。
四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度あり、難船したことが三度、一昼夜海上に漂った事もあるなど、使徒行伝に記録されたパウロの苦難は、ほんの一部だったようです。
なぜパウロは、鞭打たれた事とか難船した事などを誇る材料としたのでしょうか。
人を承服させるためには、むしろ、生まれや学歴、為してきた実績を根拠に出す方が、説得力があるように見えます。

では質問ですが、主に仕えるビジョンがあって、人に誇れる程の有名神学校を出たとしても、一体、どこまで、そのビジョンを捨てないでいる事ができるでしょうか。
鞭打たれても、石打にされても、難船しても、捨てないでいれるでしょうか。
四十に一つ足りない鞭打ちとは、死刑に等しい重い刑罰で、ショック死する人も出た程です。
幾度もの死刑に等しい苦しみを前にして、捨てずにいる事は出来るでしょうか。

しかしパウロは、キリストの愛の広さ高さ深さを深く味わってしまい、永遠の救いと滅びの道を前にして、この救いを伝えない事は災いであるとして、そのような困難を前にしても、伝えずにはいれなかったのです。
そしてパウロが経験して来たのは、それら外的な苦難ばかりではありません。

 「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(28節)
誰かが躓いて、福音から離れてしまったり、あるいは福音を伝えきれないまま死んで行ってしまった人達を思って、どれほど悩み、苦しみ、涙を流して来たでしょうか。
このような心労が重なってダウンしてしまう牧師も多くおります。

一体私達は、血を流すまでに罪に抵抗した事はあるでしょうか。
どんなに些細な事で怒ったり、どんなケチな自尊心を鼓舞するために誇って見せたり、キリストに習うと言いつつ、どれほど聖徒達の事を気遣って来れたでしょうか。
パウロを思うと、全く私達の方が恥じ入るばかりです。

結局の所、私達には何一つ誇れるものは、存在しません。
「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(30節)
皆さんは、弱いでしょうか。
どうか、弱さの内に働いて下さるキリストを誇りとしてください。
また、自分で何かやろうとしているのであれば、それは投げ捨てるべきです。
キリストに委ねる以外に道が無い時、私達は幸いです。なぜならキリストご自身が弱い私達を通して働き、御業をなして下さるからです。

キリストに全てを委ね、キリストの力を大いに体現する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:愚か者は愚かになって救い出せ(2コリント11:16-22):右クリックで保存
韓国語通訳有

コリント人がパウロを量ったように、どうしても人間的・肉的な評価でしか人を判断できない人はいる。
例えば、あの牧師はどこの神学校を出て、誰先生の下で学んだのか、預言や癒しは出来るのか、等といった、表向きの事に気を取られるあまり、その牧師の口から語られる言葉が、どれほど御言葉に立っているのか、その真理の純度はどれほどのものなのかが判断出来ず、表向きな事を誇張している偽使徒や偽兄弟達に、多くの時間やお金、エネルギーを、泥棒されていたりするのだ。

パウロとしては、そのような罠に陥っているコリント人達を、汚れの無いキリストの花嫁に仕立てたいと願っているために、敢えて彼自身も愚かな次元に降りて、彼らを説得させようとした。

箴言には、以下の言葉がある。
「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな/あなたが彼に似た者とならぬために。愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。」(26:4-5)
もし愚か者と同じレベルで対処するなら、愚か者になってしまうが、パウロは敢えて自分もそのレベルに降りてくる事によって、いかにコリントの人達が愚かな判断をしていたのかを、思い知らせようとしたのである。

どれほどコリント人は愚かだったか。
「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。」(11:20)

自分達の上に立って指導してくれる王を欲しがる人達は、パウロのように、愛と知恵に溢れている人よりも、むしろ声が大きくて暴力的であっても、行動や意志が明確な人についていきたがる習性がある。
たとえ、そのリーダーの為す事が、愚かだな、と思ってはいても、その人の明確すぎる意思や行動に、つい委ねてしまい、そうして彼らは、そのような偽使徒の愚かなリードに従って、奪われたり食い物にされたり、暴力をふるわれたりして、めちゃくちゃにされてきた。

「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。」(18節)
普通、誇るのであれば、自分は何名を救いに導いたとか、どこで誰に学んだか、どんな不思議をして来たかなど、いかに自分が大きな事をしてきたかを誇るだろう。
そういう事なら、パウロはいくらでも誇る所はある。
彼はガマリエルの元でパリサイ派の教育を受け、教会をいくつ建てたか分からない程だし、自分の前掛けを病人に置くだけで病人は癒され、悪霊を何匹追い出したか分からない。

しかしパウロが誇ったのは、なんと、弱さだった。
そして、キリストの故に、いかにこの身に苦難を負ってきたかを、誇った。

『イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』(ルカ22:25-26)

人間的な何かを誇って自分が大きくなるのではなく、自分を低くし、キリストにあって高く上げられ、キリストの力を帯び、キリストに働いていただいて、キリストのわざが大いになされる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:みずぼらしかった理由(2コリント11:7-15):右クリックで保存
韓国語通訳有

今日の箇所は、パウロの反対者達が、パウロのみずぼらしさや困窮している様を攻撃材料としている事えの、パウロの抗弁である。
パウロはなぜ、コリントにおいて金銭面で困窮していたのか。

まず彼は、コリントでの伝道活動を、コリントから一切報酬を受ける事無く行い(7節)、伝道のための必要な資金はコリント外の教会が、すなわち、マケドニヤの教会が補ってくれていた。(8,9節)
また、本日の箇所には言及すらされていないが、使徒18:3を見ると、パウロはコリントにおいて天幕作りの仕事をし、得た収入を伝道活動に投入していた。

パウロは、福音伝道の報酬を得る権利は、当然あった。(1コリント9章)
しかしその権利をコリントにおいて用いなかったのは、福音伝道に少しの妨げもあってはならないためだと、同12節に書いている。
恐らく、コリントの人達から金銭援助を得る事は、彼らにとって何らかのつまづきとなり、福音伝道の妨げになると判断していたのだろう。

パウロは、自分が金銭的必要を覚えている事を、一切公表しなかったし、コリントの人達に要求もしなかった。
しかし、コリントの人達は反対者に惑わされ、彼が貧相だとか、困窮している様子を逆に攻撃材料としてしまったため、このように「低レベルな話」をしなくてはならなくなってしまったわけである。
それでもパウロがコリントに金銭的負担をかけない事を、今後もし続けると言っているのは、偽使徒たちが誇ろうとする機会を断ち切ってしまうためである。(12節)
コリント人達も偽使徒達も、パウロのこの状況を聞いて、恥をこうむるべきである。

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(13-15節)
このような偽使徒、偽兄弟達は、サタンの使いで、働き人を装って教会に入り込む事を、よく覚えておきたい。

偽使徒・偽兄弟の見分け方は、その結ぶ実を見る事によって、可能である。
ガラテヤ5章に、肉の行いの実のリスト(19-21節)と、御霊の実のリスト(22-23節)が出てくるので、そのリストと照らし合わせれば良い。

例えば、その人が来た事によって、分裂や分派、敵意などがは広がったとしたら、それは偽兄弟だとわかる。
二人または三人によって幾度か戒めても改善しないようなら、交わりから排除すべきである。
しかし、もしその人が来た事によって、愛や喜び、平安が溢れてきたなら、その人は御霊にあって働く、正しい働き人である。
このように、結ぶ実によって働き人を見極める事が出来る。

御霊によって歩み、よき実を結ぶ働き人として大いに用いられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:清いキリストの花嫁として(2コリント11:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」(1節)
彼は、雄弁な言葉や誰彼から受けた推薦といった、人間的な根拠を元に、自分は誰々先生よりも優位である、などといった比較や、自己推薦は、愚かである、と、前もって伝えていた(10章12節)。
しかし、コリントの人たちの目があまりに塞がれているため、彼らを納得させるためには、敢えてそのような愚かな土俵に立たないといけないと感じ、これから自分も使徒としての正当性を主張する「愚か」を我慢してもらいたい、と、前もって断ったわけである。

その前にパウロは、コリントの人達をいかに深く愛しているかを伝えた。
「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(2節)

ここの熱心という言葉は、妬むほどに、とも訳せる。
妬む、という言葉で思い出すのは「わたしは妬む神である」という旧約の言葉である。
神の愛は、言葉だけの絵に描いた餅のような愛ではなく、激しい感情を伴った、実際的な愛である。
神は人を愛しているからこそ、滅びに向かっているようであれば懲らしめてでも取り戻す神である。
パウロはそれと同じように、熱情を持ってコリント人達を愛したからこそ、コリントの人達をほうっておけないのである。

またパウロは、キリストを伝えた霊的父親として、コリント人達を、キリストの花嫁として整えていた。
当時の父親は、娘を、嫁ぐ花婿にふさわしからぬところが無いよう、純潔に育て上げていた。
父親は花嫁に、別の男と肉体関係を持って良いなどとは教えないし、嫁ぐべき相手を差し置いて、何でも好き放題にして良い、などとは教えない。
世の中の男性も、「夫は優しいから、妻が別の男の所に行っても赦す」とか「夫は優しいから、夫を放って置いて自分は好き放題できる」などと思い込んでいる女性とは、普通なら結婚したがらないように、キリストもまた同じように、他の神に走る者は赦さないし、夫たるキリストをほったらかしにして好き放題する者を、主は必ず取り扱われる。

コリントに来た偽使徒達は、別のイエスを伝えたと4節にあるが、たとえば、イエス様以外でも救いがあるとか、何でもかんでも自分の好きな事をして良い、などと、御言葉に反する内容をイエス様の名を使って語っているとしたら、それは別のイエス、別の福音を伝えているわけである。

コリントの人達をキリストに嫁がせる花嫁としているパウロは、彼らがそのように思いが汚されキリストへの純潔を失っている様が、耐えられなかったのである。

私達もパウロのように、霊的な息子・娘がいるのなら、キリストに嫁がせる清い花嫁として育み、どうすればキリストは喜ばれ、どうすればキリストは嫌われるかを、きっちり教えるべきである。
そして私たち自身が、キリストの清純な花嫁として、自らをさらに清めるべきである。

そのように、ますますキリストの花嫁として整えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:許された範囲で(2コリント10:9-18):右クリックで保存
韓国語通訳有

サマリヤ人が福音を受け入れなかった時、ヤコブとヨハネは「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言いましたが、イエス様は戒められました。
私達は、与えられている権威を、自分の感情にまかせて乱用すべきではなく、主に許された範囲で行使すべきです。
パウロは、コリントの人を戒めた時、威嚇的な態度を取る事はしませんでした。
結果、ある人達はパウロのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10節)と言うようになってしまいました。
パウロは、人を威圧するような外見ではなかったし、話し方も雄弁で力強いものではなかったようです。

私たちが権威を帯びるようになるには、人間的な強さを鍛えるのではなく、御言葉に従順する事によります。
御言葉に服従し、信仰を混ぜ込んで唇から語られた言葉は、大きな力があります。
私たちの戦いは肉のものではないのです。

パウロの反対者達は、人間的な標準でパウロたちを揶揄しましたが、パウロは、そうした評価や比較の応酬をするような土俵に上がる事はしない、と言っています。
それは、全く愚かな事です。
「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」(12節)
彼らのような者達は、真理という土俵へと引きずり出して、御言葉で戦うべきです。

「わたしたちは、限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」
パウロの反対者達は、パウロが働いてアポロが水を注ぎ、神が育ててくださった、コリントという畑を、我が物のようにして食い荒らしたのです。
私達には、神様から与えられている働きの領域があり、そこから出て何かする事は、越権行為です。
委ねられた領域でしっかりと権威に従い、自分由来の肉的な強さを誇る事なく、権威を与えて下さる主を誇るべきです。
「誇るものは主を誇れ。」(17節)

主から委ねられた権威を忠実に実行し、主の仕事を為していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

父のそばで放蕩した兄息子(ルカ15:25-32)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

放蕩息子の譬えは元々、罪人と一緒にいるイエス様をなじったパリサイ派や律法学者達に対して語られたものであり(ルカ15:1-3)弟息子はイエス様に立ち返った罪人達を、兄息子は彼ら宗教指導者を指している。
弟息子は「罪を犯しました」と告白したが、弟が告白した「罪」とは、具体的に何だろう。
そして、弟息子がしてきたあらゆる事を「しなかった」兄息子には、果たして何の罪も無かったのだろうか?

「罪」のギリシャ語「ハマルティア」は「的外れ」という意味であり、本来あるべき姿から外れている様を意味する。罪とは神に対して背を向ける事であり、神はいつでも向きを変えて帰ってくる事を望んでおられる。
兄にも弟にも共通している事は、二人とも素晴らしい父のそばにいながら、その愛も富も全く味わう事も、楽しむ事をせず、あたかも、父のそばは居心地の悪い所、窮屈な所と感じ、心が離れていたていた事だ。
兄も弟も、父と親子の関係にありながら、本来あるべき父との人格的な交わりも実体も、無かったのである。

兄息子は「私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」と言っているが、果たしてそうだっただろうか。12節を見ると、兄も身代をの分配を受け取っているのである。
そして「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と御父は言っている。
兄息子は、既に受け取った莫大な相続財産を忘れ、御父のそばにいながら、いつでも享受できるはずの恵みの機会をずっと無駄に過ごし、ずっと注がれてきた御父の愛を、いつも放蕩してきたのだ。

兄の「長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」という言葉から、彼にとって父が喜ぶ事とは、戒めを破らない事であり、そしてそれに喜びは見出せなかった事も分かる。
弟も同じように感じていたため、そんな窮屈な父や兄の所からさっさと出て行きたかったのである。
兄や弟の父に対する誤解はまさしく、宗教指導者達が陥った事であり、そして私達も陥りやすい罠である。
皆さんは、礼拝に出る事、イエス様に仕える事に、喜びを感じるだろうか。窮屈さを感じていないだろうか。
兄も弟も、父がどれほど素晴らしい愛で愛しているか、どれほどの英知で彼らを見守っているか、分からなかったが、弟息子が放蕩し尽くし散々な目に遭って帰ってきた時、その愛が明らかにされた。

弟息子が散財してどうしようもなくなる事を、父は初めから分かっていたし、弟が帰ってきた時、兄息子が父の対応を不服に思うであろう事さえ、全能なる父であるからには、当然分かっていた。
分かっていながら弟を送り出し、あたかも放任主義のように振舞われたのは、これら全てを乗り越えた向こう側で、息子達は真実に御父を知るようになり、心から親子の愛の関係に入る事を、見ていたからである。
全て御父からの祝福は、自分の十字架の向こう側、自己の死を経て復活した領域において、得るのである。

与えられているものの価値が分からず、それへの感謝も無く、思いの中が自分のやりたい事によってパンパンに満ちている時、私達は、与えられた相続財産も、御父の懐にいる事の恵みも、放蕩する以外に無い。
大切な事は、弟息子のように物質的なモノをいただく事ではなく、兄のように嫌々ながら仕える事でもない。
御父とのいのちの交わりこそ大切であり、そして、兄弟姉妹との喜びの交わりを回復するべきである。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1:3)
その交わりこそ、自由意志に拠る、何のわだかまりも窮屈さも無い交わりであり、御父が「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と言って心底喜び、望まれた、命の交わりである。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)
隷属する霊ではなく、子としていただく御霊を受けた者らしく、御父の愛の広さ、高さ、深さを知り、真に自由な交わりを存分に楽しむ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エゼキエルの日(エゼキエル37:1-14):右クリックで保存
韓国語通訳有

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
目からウロコ(使徒9:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest