• カテゴリ 礼拝メッセージ説教音声配信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:異言と解き明かし(1コリント14:20-25):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロが再三、異言について注意を与えている所を見ますと、コリントの教会では、異言に何か華々しさやステータスのようなものを感じていたのでしょう。
異言を語る人は、霊が何かを言わせているようだけれど、何を言っているかは分からない。
何だか良く分からないけれど、とにかくすごい事が起きているぞ、と。
しかし、もし初心の方が教会に来てみて、列席者が全員、意味の分からない他国の言葉や御使いの言葉で一斉に祈っているのを見たなら、当然、彼らが気が変になっていると見なしてしまいます。
パウロは20節で、ものの考え方において子供であってはならない、と戒めていますが、コリントの人たちは、一般人に自分達がどう写るかも考えられない程、考え方において子供だったのです。

異言とは、信じる者のためのしるしではなく、信じていない者のためのしるしです。(22節)

パウロはそれを説明するために、21節でイザヤの御言葉を引用しています。
その引用元、イザヤの28章の11節から13節までを見てください。
「確かに、主はどもる唇と異国の言葉で、この民に語られる。主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。」

イザヤの時代、イスラエルが不従順で頑なになった時、主は、異国人(アッシリア)を使って、主に立ち返るようにされました。
しかし残念ながら、イスラエルの民は異国の唇をもってしても、頑なな心をさらに頑なにし、不信仰をさらに不信仰にして、悔い改めることをしなかったため、彼らは預言どおり、後ろざまに倒れることになってしまいました。
イザヤ書においては、この「異国の言葉」すなわちアッシリヤが、イスラエルの不信者たちへのしるしとなったわけです。

心頑なな人には、たとえ同国語のわかる言葉で説明したとしても、その人の心には届かず、結局、外国のよくわからない言葉と同じになってしまうのです。
イエス様も、パリサイ人や律法学者の人たちにたとえ話をするのですが、彼らはたとえ話を理解せず、せっかくイエス様が話した言葉も、異国の言葉になってしまったわけです。
彼らには霊的な耳がないため、真理を聞いても悟る事はできませんが、弟子たちは幸いなことに、イエス様から解き明かしを聞く事ができます。(マタイ13:10-17)

このように、異言は、信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。
そのため、コリントの人たちが朗々と自慢げに異言を語っているのは意味が無いと、パウロは言っているわけです。
異言は、神に話し本人自身の徳を高めるため、一人で行う分には大いに結構ですが、イエス様が弟子達にたとえを解き明かしたように、解き明かしの出来る人がそこにいなければ、他の人には無意味です。

教会では、秩序正しく異言や預言や解き明かしがなされるべきです。
どうか、秩序をもって礼拝を守り、さらに、徳を高めあっていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

土曜は久しぶりに路傍伝道に行きました。

まず横浜スタジアムの横で賛美し、それから山下公園まで行って賛美しました。

大空の下で主に向かって賛美すると、天が開けて喜んでいるようで、とても気持ちが晴れやかになります。

光を放て(イザヤ60:1-3)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」(イザヤ60:1)
今は暗闇に覆われているような時代であるが、主は私達の上に光をともして下さり、光の子として下さった。
そして私達には光を放つよう命じられており、しかも国々は私達の光の内に歩み、王達は私達の輝きに照らされて歩むというのだ。暗闇の世に光を照らし出す者となるためには、どうすれば良いだろうか。

まず忘れてはならないのは、主イエス・キリストこそ、まことの光であり、全ての人を照らし出す光の源である。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリ3:18)
つまり私達はまず、まことの光なるキリストからたっぷりと照らされる必要があり、照らされた主の栄光の光を、鏡のように反映させる事によって、世に光を届けるのである。
鏡が光をよく反映させるには、でこぼこな面は平らにされ、磨かれる必要がある。だから荒野で叫ぶ者は「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」と叫んだのだ。(イザヤ40:3-5)

イエス様は「ともし火をともして、それを穴蔵(kruptos:秘めた所)の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」(ルカ11:33)と言われた。
火をつけたろうそくを、秘密の場所に隠したり、升で覆うといった、そんな無駄で危険な事をする者など、はたしているのだろうか。 霊的にそういう事をする者が、実際いるのだ。
升は器であり、器とは人(2コリ4:7、2テモテ2:20)であるが、光なるイエス様が来られたというのに、その光を自分の心の奥底に隠したままだったり、自分という器がしゃしゃり出て、このいのちの灯を覆ってしまう、という事が、大いにあるから、主は注意されたのである。
主は無限なるお方であり、私達の小さい頭に収まりきるお方ではない為、私達という器で覆ってはならない。
このお方が存分に光輝き、光を求めて入ってくる全ての人に見えるよう、燭台に置くべきなのであり、教会こそ、キリストの光を輝かせる燭台である。(黙示録1:20)

私達は、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主イエスキリストだけを、宣べ伝えるのである。(2コリ4:5-7)
私達は土の器に過ぎないが、「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さった。
この並外れて偉大な力は、当然神からのものであって、私達から出たものでない事は明らかである。
私達という器で制限してしまうと、主も、御業を制限されてしまって、働く事はできない。
主が郷里で存分な働きが出来なかったのは、郷里の人達は、なまじ人間として30年を過ごされたイエスを知っており、そのイメージに彼を閉じ込めてしまったため、彼を救い主として受け入れられなかったのだ。
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:16-18)
これらは信じる者に与えられるしるしであって、信じない者には与えられない。

結局、私達が人に出来る最善は、人を、まことの光なる主イエスキリストへと導く事である。
人が主の元に導かれる時、主はその人の内で光となり、苦しみの闇はなくなり、はずかしめを受けていた人は栄光を受ける。
闇の中を歩んでいる者を大きな光で照らし、死の陰の地に住んでいる者達を、暖かい愛の光によって、照らして下さるのである。(イザヤ9:2)

このまことの光を届ける者として、世の光となって輝き渡る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:異言とは(1コリント14:1-19):右クリックで保存
韓国語通訳有

昨日の箇所、コリント13章は、愛についての非常に有名な箇所で、結婚式や礼拝説教など多くの機会で用いられているのに対し、本日の箇所14章は、異言についての箇所で、さほど説教で用いられる章ではありません。
それなのに、前章の3倍のボリュームを割いて、パウロは異言について説明しております。
異言といえば御霊の賜物では一番最後に位置する賜物ですが、パウロはなぜこのように、愛についてよりも紙面を割いて、詳しく説明しているのでしょうか。
おそらく、異言という賜物は、ことさら注意を要するものだから、と思われます。

13章においても、真っ先に異言の賜物を引き合いに出している所を見ると、コリントの教会には異言を話す人が結構多かったと思われます。
異言と言う賜物が活発であるのは、一見良いように見えますが、しかしそこに、愛と秩序がなかったようです。
現代でも、異言が大いに盛んな教会や個人が、持ち上げられるような所もありますが、その賜物が秩序正しく用いられていないのなら、かえって害になってしまいます。

異言とは、2節にある通り神に話すのであって、自分の霊で奥義を話すものですが、その欠点は、普通の人が異言を聞いても、何のことを言っているのか分からない、という点です。
もちろん4節にある通り、異言を話す者は自分の徳を高める、という効果はあるのですが、人の徳を高めるものではありません。

異言に限らないことですが、公の場で祈ったり御言葉を朗読したりする時、明瞭な言葉を発しない人もおります。
他人に分からない言葉で祈ったり祝福しても、他の兄弟姉妹達はその言葉にアーメンと応じることが出来ませんし、人の徳を高めるものでもありません。
例えば、明瞭でない祈りを10分するなら、その10分の間、他の人達は何も聞こえずにじっと目を閉じているだけですので、眠くなったり、他の事を考え出したして、礼拝の時間を無駄にするばかりか、秩序が無くなる事への手助けをしてしまう事になるのです。
このように、教会という公の場で、明瞭な言葉で語らない事には、色々な弊害があるわけです。

そういうわけで「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。」と13節で勧めておりますし、また、1節でも「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」と勧めているわけです。
18節を見ますと、パウロ自身、誰よりも異言を語るようですが、彼は「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」と、19節で言っております。

祈りや勧めをする場において、口下手だから自分の伝えたい事がうまく言えなかったり、あるいは過去の深い傷などのために何かを言おうとしても混乱して言葉が出てこないような事も、あるかもしれません。
そのような方のためにも、明瞭な言葉で語ることができるように祈りなさいと、パウロは13節で勧めているのではないでしょうか。

主は、惜しみなく皆さんの心の内を、願いを聞いてくださいます。
ますます優れた賜物が与えられ、教会の徳をますます高め合っていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:いつまでも残るものは、信仰、希望、愛(1コリント13:1-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

前回まで、色々な賜物や働きがある事を学んで来ましたが、それらよりも遥かに優れた道があります。
それは、愛です。

何ら人を建て上げる事の無い、ひたすら不愉快な異言や祈り、というものが存在しますが、それは、その中に愛が無いからです。
異言の中に愛が無いのであれば、ただの騒がしいどら、やかましいシンバルと同じで、それは預言にしても、山を動かすような信仰にしても、身を火の中に投げ入れるような奉仕にしても、愛が無くては、何の値打ちもありません。(1-3節)

4節から7節までを見ると、私達が愛を基にして行動しているかどうかの、指標が出てきます。
愛から出た行動なら、妬みや、自慢や、高慢といったものが、一切無いはずですし、自分の利益を求めませんし、礼儀に反することもしません。
また、愛は人のした悪を思いませんし、不正を喜びません。

イエス様は、パリサイ派や律法学者の人達を、責めました。
一見、責めない事が愛だと勘違いしてる人もいますが、しかし、真実の愛は、不正を喜びません。
イエス様がパリサイ派の律法学者を責めたのは、むしろ、愛なるお方だからです。

人が人生を終えようとする時、自分の人生を振り返ってみて、宝のように輝いているのは、愛し、愛された記憶ではないでしょうか。
きっと、大きな事業を為したり、お金をたくさん得た事を思い返してみても、それと引き換えに失ったものの方が多いので、むしろ後悔するのではないでしょうか。
なぜもっと愛していなかったのだろう、なぜそんな廃れるものを追い求める事で人生の時間を使ってしまったのだろう、と。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13節)

では、私達の愛が豊かになるには、どうすれば良いでしょうか。

まず、知っておかなくてはならないのは、元々、私達には愛は無い、という事です。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:10)

私達が愛の篭った行動をするためには、まず、私達自身が愛され、愛とはどういうものかを、知らなくてはなりません。
神は、愛です。
神を知れば知るほど、愛を知って行きます。

神は、どれほどの愛を、私達に示して下さったのか。
それは、一人子を世につかわし、その方によって私達に命を得させてくださったほどの愛です。

私達は、愛されているのです。
それも、命がけの愛で。
どうか、この愛をますます知ってください。

愛されていると知れば知るほど、その幸福感によってますます人生が支配されていくようになり、ますます平安が生まれてゆき、その平和の土台に立っている時、私達も真に人を愛し、愛を基にした行動をすることができるようになっていくのです。

ぜひこの真の愛なるお方、イエスキリストの内に留まる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

ティッシュ

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2012-1-5 20:50

この教会に初めて来られたある方は、どうして礼拝堂の随所に、ティッシュ箱が置いてあるのだろう、と不思議に思われたそうです。

ところが礼拝に出てみて、その理由が分かりました。

主に触れられて、涙が出てしまうのです。

その方はそれまでの人生、滅多な事では涙を見せない方でしたが、礼拝の中に、賛美の時に、祈りの時に、涙が抑えられなくなってしまうのです。

礼拝にいつも出ている私達は、日常的にティッシュで涙を拭き、無くなれば普通に補充しておりますので、気付きませんでしたが、ティッシュが沢山置いてあるのもこの教会の特色のひとつなのかもしれません。

礼拝説教メッセージ音声:優れた賜物とは(1コリント12:21-31):右クリックで保存
韓国語通訳有

私達はキリストの体であり、一人ひとりは各部分、各器官です。(27節)
「一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と26節にあるように、キリストの体の各部分、各器官は、互いにいたわり合い、あるいは喜んだり、悲しむ、というような、感覚的・感情的な面もあり、分裂が起こらないように互いに配慮し合っています。(25節)。

キリストの体、即ち、私達教会は、互いにいたわり合うべきです。
転んで足に怪我をした時、痛さを体全体で表現するように、キリストの体なる教会の誰か一人が痛めば、教会全体が痛み苦しみを表現するものであり、「キリストの体」の一部であるからには、社会組織のような人間主体の集まりではなく、「キリストそのもの」の組織の部分部分の集合体です。
キリストというお方を表現し、キリストというお方を建て上げるために、私達は召しだされ、賜物が与えられたわけです。

「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(28節)
ここには九種類の職制が出てきますが、この「第一に」「第二に」という順番が大切です。

世の中の価値観からは、使徒や教師になるより、奇跡を行ったり癒しを行ったりする能力のほうが、欲しいかもしれません。
しかし、神の国において最も大切な職制は、キリストの代行して権威を行使する「使徒」です。
「使徒」はギリシャ語ではアポストロス、すなわち、あるお方から権威を委ねられ、その方の代理に権威を行使する者、という意味です。
イエス様には十二使徒がおりますが、彼らはイエス様から病を癒したり悪霊を追い出す権威が授けられ、その権威を代行して実行しました。

第二の「預言者」は、未来を予知する者ではなく、その漢字が示す通り、神から言葉を預かって、伝える者です。
第三に「教師」が出て来ますが、何を教える者かと言いますと、当然、神の言葉を教える者です。
自分の徳しか高めない「異言」を語る者は一番ビリで、世で言う所の社長や支配人にあたる「管理する者」は、なんと、ビリから二番目です。

ここから分かる事は、神の国での評価基準は、どれだけ自分を捨てているか、どれだけキリストに捧げ尽くしているか、という事です。
会社組織など、世の中で評価される基準は、何が出来るか、どんな能力を持っているか、ですが、神の組織、キリストの体において評価される基準は、まったく逆です。
世の中の価値観を、教会に持ち込んでしまうと、とんだ間違いを起こしてしまいます。
世の価値観と神の国の価値観は逆転している事に気付いていない教会は、世の組織にも神の国にも属し切れず、中途半端な状態のままで、前進がありません。

31節には「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」とあります。
私達は、より優れた賜物を求めるべきです。
奇跡や癒しの賜物を求める事は、悪いことではありませんが、そうした能力を求めるよりも、自分を捨て、いかにキリストを表現する者となるかを求めるほうが、より優れた事を求める事になります。

ますます優れた賜物が与えられ、ますますキリストを力強く証する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

新年に入ってから、主の導かれ方、御言葉の解き明かしの与えられ方が、すごい事になっています。

実は、年末年始の深夜礼拝でも、年末最後の時間にヨブ記から、年始最初の時間に出エジプトから、計2つのメッセージを準備していたのですが、その場面になって、人の立てたプログラムとは全く別へと主が導かれ、私も準備していたメッセージは捨て去り、その場に与えられた別のヨハネ福音書から、全く別のメッセージを語らされました。

何時間もかけて準備したメッセージ2つを手放し、その場で全く別のメッセージを語りだすなんて、普通は考えられないですが、今日の夜礼拝も同じように、ザアカイの話を準備していたはずが、講壇に立ってから全く別のはメッセージ、漁師ペテロの導かれ方の話を語らされました。

主がなさる事は人の思いを越えておりますが、ますます自分の経験や努力を手放し、主に導かれる者となって行きたいと思います。

礼拝説教メッセージ音声:貴い器となる(1コリント12:12-20):右クリックで保存
韓国語通訳有

御霊の賜物の大きな特徴は、与えられている一人ひとりが、体の各器官のように、互いに補い合い、有機的に機能する事です。
私達はキリストの体の各部分であり、御心のままにキリストの働きをするべきです。

体の各部分は、互いに有機的に組み合って初めて機能し、生き生きとすることが出来ます。
もし聖徒が独立し、群れから離れてしまうのであれば、単細胞生物のように単純かつ下等な行動しかできませんし、もし、体全体が手だけ、足だけであるなら、ただの化け物になってしまいます。

野球のある球団では、他の球団からエースと言える選手を、お金で引き抜いて集めた事がありました。
結果、その球団が他のどの球団よりも強くなったか、というと、そうではなかったようです。
その球団は、一人一人の能力は確かに高いのですが、それぞれが与えられた立ち位置になじめず、うまくプレイできなかったのです。

野球とは、チームプレイのスポーツです。
エースとは、陰でフォローしてくれる人がいたからこそエースとなれたのですが、フォローされる事に慣れ切ってしまった人たちだけが集まった結果、機能不全に陥り、弱くなってしまったのです。
むしろ、一人一人の能力が弱いとしても、全体が有機的に機能する集団のほうが、断然強いのです。

教会という集団の一人一人が、たとえ社会的に弱くても、また見栄えが悪くても、その頭であるお方が、名監督であるなら、世のどの組織よりも強いのです。
教会の監督、教会の頭なるお方はキリストです。
野球の球団が強くなるためには、選手一人一人がしっかり監督の命令に従わなくてはならないように、私達も、頭なるイエス様にしっかりと聞き従わなくては、キリストの体である教会は、機能不全に陥ってしまいます。

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)
教会に一般の方が来ると、非常に不思議な所に来たな、と思うようです。
なぜなら、普通に生きていれば、絶対に接点がないであろう人たちが、互いに親密に交わっているからです。
いかに聖徒達の社会的立場や国籍が違っていようと、キリストというお方にあって、兄弟姉妹として一つとなる事が出来るのです。

私達がさらに貴い御用に用いられるには、ますます清められ、不義から離れなくてはなりません。
第二テモテ2章の20節から22節に、こうあります。
「さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。
、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

この箇所では、一人ひとりの聖徒たちが、大きな家の中の一つ一つの器にたとえられております。
ある物は卑しいことに、ある物は貴いことに用いられますが、尊いことに使われる器となるためには、自分自身を清め、不義から離れなさいと勧められております。
他の箇所でも「あなた方はより優れた賜物を求めなさい」と書いてある以上、より優れた賜物が与えられる望みは、確実にあるのです。

皆さんはキリストの体の各器官であり、各々主からいただいて託された賜物があります。
お互いがキリストのからだの各器官である事をわきまえ、おごり高ぶったり卑屈になったりする事無く、与えられている賜物がますます磨かれ、さらに優れた賜物が与えられるようにと、主に願ってください。

さらに優れた賜物が与えられ、さらに貴い器として用いられる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:御霊の賜物(1コリント12:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

11章ではコリントの教会に秩序がない事をパウロは叱責しましたが、12章では、与えられている賜物を誇ったり、また他の人を見下したりするような人々に対し、御霊の賜物とは何かを示し、また、その賜物の正しい用い方を示しております。

コリントの街は偶像崇拝が盛んで、そのために、悪霊による不思議な現象も色々起きていたことでしょう。
そのような中において、どの霊がキリストからのもので、どの霊がそうでないかを、見分ける必要があります。
その見分け方は、一言で言えば、イエス・キリストを証しているかどうか、です。

ヨハネ16章の7節と8節をご覧下さい。
御霊は助け主であり、その方が来ると、義について、罪について、裁きについて、人に知らせますが、悪霊はむしろ、罪や義、裁きを、あやふやにしてしまいます。
続いて、14節を見ますと、御霊は、イエス様の栄光を現すものだと分かります。
すなわち、御霊の賜物が与えられる理由は、ひとえに、イエスキリストというお方の栄光を現すためであり、そして教会の益となるため(1コリント12:7)です。

たとえ奇跡を行う賜物を持っている人がいるとしても、その奇跡を行う人自身が名誉を上げるような用い方は、正しくありません。
賜物が与えられるのは、あくまで、キリストというお方を栄光化するためであり、また、教会の益となり、ますます教会が建て上げられていくためです。

この箇所を見ますと、御霊の現われ方が合計9つありますが、その源は、同じ霊です。
奉仕にも色々なやり方がありますが、その奉仕をする対象であられるお方は、同じ主です。
また、働きもいろいろありますが、それら全ての働きをなさるお方は、同じ神です。

兄弟姉妹それぞれが助け合い、キリストの体を建て上げてこそ、賜物は有効な力が発揮できます。
例えば「異言を解き明かす力」は、異言を話す人がいなければ何の役にも立ちませんし、異言を話す人だけがいても、その異言が他の人を立て上げる事は出来ません。
そのように、ある聖徒の賜物の現われを、別の聖徒が有機的に補う事によって、2人または3人が、20人または30人分の働きをする事になります。

ですから聖徒は孤立するべきではありませんし、誰かが弱いとか役に立たないからと言って、切って捨てたりして良いものではありません。
後で学びますが、弱いと見られる人こそ、かえって大切だからです。
何より、御霊の現われの存在理由は、イエスキリストというお方に栄光を帰すためです。

どうか、みなさん一人一人に与えられている賜物を、私達の主キリスト・イエスのために、秩序正しく発揮されますように。
そして、さらに優れた賜物が与えられ、より主の栄光を現していく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest