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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の罪と脱出方法(1コリント10:8):右クリックで保存
韓国語通訳有

姦淫とは、本来愛すべき夫あるいは妻がいるのに、別の男あるいは女へと走ってしまう行為です。
神様はよくイスラエルに、お前たちは姦淫の女だと言う箇所がありますが、それは、本来愛すべき夫たる神を捨てて、他の神に走るからであり、それは霊的には姦淫です。
さて、8節の、姦淫をした故に1日2万3千人死んだという記事は、民数記25章の記事です。この箇所を見て行きましょう。

イスラエルの人達の中に、モアブの娘達が入り込んで誘惑したのは、悪い預言者・バラムの仕業によるものです。
民数記24章までに、バラムがバラクに雇われてイスラエルを呪おうとしたものの、神がそれを許さなかった記述があります。

バラムはバラクからお金を受け取ったものの、結局、イスラエルを呪うことはできませんでした。
というのも、イスラエルが神様に従順している以上、イスラエルは神様に祝福されていて、呪いようが全く無いのです。
しかし、このバラムが蛇のようにさとい所は、イスラエルが神に不従順であればイスラエルは呪われる事を知っているため、モアブの娘達を送り込んでイスラエルを姦淫へと導き、このような災いを招いたわけです。
人というものは、外から力で攻めてくる敵にたいしては、立ち向かって抵抗することに難しさを覚えませんが、このように、一見美しく、か弱い女からの誘惑には、抵抗するのが困難なようです。

バラムはバラクに教えてイスラエルの人々に躓きの石を与えて、不品行を行わせました。(黙示録2:14)
結局の所バラムはイスラエルの民に剣で刺し殺されることになり、イスラエルへの罰は祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスの行動によって止みましたが、この神罰で死んだ者が2万4千人あったと9節にあります。
ちなみに、第一コリントでは「一日で」死んだ者の数が2万3千人とありますので、一日2万3千人が死に、後日死んだ者がもう1千人いた、という事でしょう。

姦淫の結果待っているのは、滅びです。
姦淫の誘いが向こうから来た時は、誘惑に勝てると思ってはなりません。
逃げるに限ります!
ヤコブの子ヨセフはそのような時、逃げて、姦淫をすることから逃れられました。
彼はその逃げられた女の讒言によって、一見、災いがふりかかったように見えますが、その事からも神様は導きによって救い出し、後にはエジプトとなる栄誉を与えて下さいました。

箴言5:1-4にあります通り、そのような女についていくと、最終的に行き着く先は、陰府です。
異国の女を大量に召抱えてしまったソロモンは、つくづく言っています。
あなたの道を彼女から遠ざけよ、その家の門に近づくな、と。
姦淫の誘いには逃げる、近づかない。これが、一番の事前防止策です。

さて、姦淫に陥ってしまい、災いが起きてしまった場合の、脱出の道は何でしょうか。
ホセア書にそのヒントがあります。

ホセア書では、ホセアは姦淫の女を妻としなさいと神様から語られ、ホセアはその通りにして、3人の子供を産んだのですが、それにもかかわらず、この女はホセアの元を去って行ってしまいました。
神がホセアに姦淫の女をめとりなさいと言った理由は、イスラエルのやっていることが、どんなにひどい姦淫であるかを、示すためでした。

神様の目から見れば、私達キリスト者は、キリストの花嫁です。
そんな私達も、まことの夫であるキリストを離れて、別のものを神として慕って行って、結果、ひどい目に遭ったり散々な目に遭ったりという事があるかもしれません。

この女は、ホセアに愛されていながら、別の男の所に走り、そして、どうなってしまったか。
ホセアは再び彼女を買ったと書かれてある事から、彼女は市場で売られる程、落ちぶれてしまったようです。
しかしホセアは、再び彼女を買い取り「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」(ホセア3:3)と言ってくれます。
主はこれと同じ言葉を、私達にも言っておられます。

姦淫は、するべきものではないです。
そのような誘惑に陥りそうな時は、まず逃げるべきです。
もし陥ってしまって、ひどい目に遭ったり、災いに遭ったのであれば、真の夫であるキリストのもとに帰り、そこから離れないようにしましょう。
迷い出て姦淫したりすることなく、いつまでもこの、真の夫キリストに留まり続ける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。アーメン。

最近、バイブルメッセージの文体が「である調」から「ですます調」になったのに気付かれた方もおられるかと思います。

それは、最近教会で奉仕を始めて下さった働き人・中祖兄弟が、メッセージをテキストに起こす奉仕をして下さっており、彼はこの文体で起こしておられるためです。

彼はメッセージを音声で聞きながらテキストに起こす事によって、たくさんの恵みを頂いているようです。

彼がますます働き人として整えられ、祝福されるようお祈りに覚えていただけたら幸いです。

礼拝説教メッセージ音声:偶像崇拝(1コリント10:7-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

出エジプトの記述は、今の私達への戒めです。
私達が気を付けるべきことが4つあります。偶像崇拝、姦淫、主を試みる事、呟く事です。
私達への試みに対しては、しっかりと脱出の道も備えられております。
いずれも大切な戒めですので、今日は偶像崇拝について、詳しくお話しします。
偶像崇拝については、出エジプト記の32章1節から6節に記されています。

1節で民が言っている言葉に注目してください。
まず、民達はエジプトから自分達を連れ出したのは、モーセだと言っており、神が連れ出したとは言っていないことに注目してください。

偶像崇拝の定義をご存じでしょうか、いわゆる仏像全般を拝むことだけが偶像崇拝ではありません。
偶像崇拝とは、真の神以外を第一とすることです。
神様よりも、自分、お金、あるいは旦那さん、会社などを優先して、信仰の対象としているなら、それは立派な偶像崇拝です。

民は、あのモーセがどうなったかは分からない、だから、神を作ってくれと言いました。
つまり、神は我々が作るもの、という認識があったようです。

おそらく、民衆がアロンのもとに押し寄せ、暴動が起こりそうだったので、アロンは民衆に従ったのでしょう。
アロンは、人々から耳輪を集め、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造りました。
鋳像というのは簡単に作ることができます。
アロンは急ごしらえの鋳像の子牛を、みんなの前にお披露目したとき、民衆は「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言いました。
この鋳像はかなりお粗末なものであったと思われますが、それでも民衆は満足したのです。

要は、目に見える信仰の対象さえあれば、なんでも神になるのです。
ここまで来たら民衆をコントロールすることは不可能でした。
アロンは「明日、主の祭りを行う」と、さらに民衆を満足させる方向へと、言葉を進めてしまいます。

一見彼らは、神の名を口にして、祭りを行っているようですが、それは、座って飲み食いし、立っては戯れる行為にすぎないのです。
大声を出していればいいというものではありません。
ヨシュアは遠くからそれを聞いて戦の声だと勘違いしたのですが、モーセは、それは、勝利の声でも敗北の声でもなく、歌を歌う声だと聞き分けます。
このように、人を恐れると罠にかかります。

人間というのは目に見えるものに、信仰の対象を置きやすいものです。
偶像崇拝をする者に定められているのは、滅びです。
この時、民は滅ぼされなかったのですが、それは、モーセのとりなしのおかげです。
モーセは神様の御言葉を盾にとって、執り成しました。

しかし、イスラエルの民は結局、この自分でまいた偶像崇拝の種を刈り取ることになります。
モーセは、偶像を焼いた灰を川に投げたため、民はその水を飲まなくてはなりませんでした。
民がほしいままに振る舞っていくのを留めもせず、秩序が乱れたまま放っておくと、敵の物笑いになってしまい、後には、兄弟が兄弟を、肉親が肉親を殺さなくてはならなくなってしまいます。
それは人の目には厳しく見えるかもしれないのですが、自分の中で悪が芽をだして、それが根をおろして、実を結んでしまうと、それを刈るのは非常に困難になってしまうのです。
そして、自分の感情よりも御言葉を優先させた人達が、後の祭司となりました。

この偶像崇拝からの脱出の道は、どうしたら良いでしょうか。

コロサイ書3章5節に、貪りがそのまま偶像崇拝であると書いてあり、貪りの元の意味は、より多くの物を持とうとする所有欲です。
偶像崇拝とは、神以外のものを信仰の対象とする行為でした。

つまり、真の神を第一とせず、お金や持ち物などのほうを信頼しているから、偶像崇拝なのです。
私達が、この貪りから解放される方法は、死です。

ローマの6章6節、7節に。「 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。」とあります。
死んだ、つまり過去形です。
イエス様を信じたものは、死んでしまったのです。
私達は、一見古い人に対して生きているようですが、キリストを信じた時点で、神の視点においては、死んでしまったのです。

では、全く生まれ変わっていないかのような自分があるのは、なぜかといいますと、それは信仰によって切り分けをしていないからなのです。
11節に、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と、あります。
ここで、考えなさい、とありますが、より忠実に訳しますと、仕訳をしなさい、ということです。
つまり、罪に対しては死に、神に対して生きているのだと、信仰によって仕訳がなされるべきです。

借金を返したからには、借金地獄の嫌な気持ちからは解放されて然るべきですが、古い借金地獄だった頃の、行動パターンや思いの恐れが焼きついてるために、借金を返した後も、借金地獄だった頃の夢を見るようなものなのです。
もはや全て借金を返した、罪に対しては死んだと、皆さんの中で仕訳をしてください。

12節に、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」とあります。
ここで、罪の支配に委ねるか、真の神に従うかの決定権は、誰にあるのでしょうか。
明らかに皆さんの側にあります。

どうか、皆さんの意志をもって罪の体に支配を委ねず、御霊に委ねる皆さんでありますように。
そして偶像礼拝ではなく、真の神を礼拝する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

昨日は立て込んでおりましたため、メール配信が出来ませんでした。

その代わり、しっかりと勝利がありました。

それにしても、K姉妹は不思議な賜物を持っています。

昨夕、ある聖徒達が相談をしたいという事でしたので、会合を持ったのですが、
「どのような相談でしょうか」と言う事も、「実はこれこれで、、、」という説明も一切なく、一同が席に座った時からK姉妹がずっと話ししていて、
しかも、あたかも全てを見て知っていたかのように、その方々の状況を正確に指摘し、そして的確な助言をしていました。
彼女が話し終えると、その方々は詰まりが取れたように、とても満足したようにしていました。

私は一切口を開く事が無かったので「これでいいのかなあ」と思いつつも、その時与えられた御言葉を宣言し、終わりました。

後で「これで良かったですか?」と聞きましたところ、、、それで良かったようです。

エリザベツがマリヤの説明を一切聞く事無く、聖霊によって全てを悟って喜び溢れたように、聖霊の光に照らされると、説明はいらないみたいですね。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の恵み(1コリント10:1-6):右クリックで保存
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今日の箇所は、第一コリント10章1節から6節です。

第一コリント10章のキーワードは、偶像礼拝に気を付けなさいということです。
パウロはまず、彼らの先祖、モーセと共にエジプトから出た民の話をします。

モーセと共に歩んだ荒野の民は、キリスト者とよく似ているところがあります。
彼らは、エジプトにおいて奴隷状態でした。そこから、モーセによって引き出され、荒野を通り、約束の地へと至ります。
エジプトとは、この世を表しており、彼らはその時、奴隷状態でした。
そして我々も以前はこの世において、奴隷状態であり、そこからイエス様によって召し出されて、この世から引き出されました。

引き出されるとき、まず通るのが雲と海、即ち水のバプテスマです。
3節、4節に「 皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。」とあります。
これは、後の聖餐を意味しているのですが、荒野の民はこのように、超自然的な方法によって、日々養われることになりました。

皆さんもこの人生という荒野を旅するときに、今に至るまで生き延びてきたのは、間違いなく神様の憐みだったのではないでしょうか。
人生において、もう先が見えないかのような危機の時も、しっかりと主が養いを与え、助けを与えておられた事かと思います。
荒野の民は、マナを食べたのですが、皆さんは日々、御霊の食べ物として、御言葉を頂いております。
御言葉は朝ごとに新しく、日々の養いを与えてくださいます。

また、4節を見ますと、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」このようにある通り、彼らに岩がついてきて、その岩こそキリストだというのです。
このように日々、私たちも、御言葉と、真の飲み物であり、命の水の源であるキリストによって、荒野でいつでも死にそうであるかのような状況においても、養われています。

出エジプトの民は、神様からの養いを頂いていたにもかかわらず、大部分が滅ぼされてしまいました。
それらの事が起こったのは、私たちへの戒めのためなのです。
荒野の民が滅びたのを見て、私たちと関係ないと思ってはなりません。
彼らがマナと岩からの水を侮ったら滅ぼされたように、私たちも、御言葉の養いとキリストを侮るなら、このように滅ぼされてしまうのです。

イスラエル人に加わっていた雑多な他国人が、飢えと渇きを訴え、彼らにつられて、イスラエル人もつぶやいたのです。
彼らがどのように貪ったかは、民数記の11章に記されています。

彼らはエジプトから脱出してきたにもかかわらず、エジプトを再び懐かしんで、マナを軽んじてしまいました。
キリスト者もこのように、巧妙に混じりこんでくる者に対しては、気をつけなくてはなりません。
彼らがつぶやいても、私たちがそれに倣ってつぶやくことが、ないようにするべきです。

神様は恵み深いお方で、すぐに滅ぼすことをせず、まず、モーセに重荷が負わされ過ぎないようにされました。
神様は、イスラエルの長老70人に、モーセに授けた霊の一部を取って、彼らに授けるというのです。
私たち一人に重荷が負わされないように、主は重荷を分担させてくださいました。

そして、うずらを与えて、民の不満を解消しました。
しかし彼らは、肉が歯の間にあるうちに、激しい疫病によって死にました。
このように、御言葉や、真の命の泉であるキリストを、ないがしろにする者は、肉を口の中に入れはするのですが、それは自分のものとなる前に、このように打たれてしまうのです。

そのことが起きた、キブロト・ハタアワという地名は、貪欲の墓という意味です。
私たちの中でも、欲望にかられて貪る者は、荒野に埋められ、そして主の民は彼らを置いて前進して行ってしまいます。
この出エジプトの記述は、私たちに対する戒めです。
戒めとしてこう書いてある以上、私たちもこの戒めに真剣になって取り組んで、主をないがしろにしないようにするべきです。

御霊の食べ物である御言葉を、しっかりといただいて、また、命の水の泉であるキリストから飲んで、祝福を受ける皆さんでありますように。
そして、いまもし試練の荒野を通っておられるなら、これらの霊的な食べ物によって養われ、約束の土地へと至る皆さんでありますように。

イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

 

 


 

本日も礼拝後、伊勢佐木モールにクリスマス賛美しつつ、路傍伝道しました。

今年は来週の主日12/25がちょうどクリスマスで、今年最後の礼拝となり、元旦が主日で最初の礼拝となります。

例年通り、24日は19時半よりイヴ礼拝を行い、31日は夜22時から年越し祈り会をします。

教会としてのイベントが目白押しな年末年始となりますので、楽しみにしていて下さい。

主の道を整えよ(ルカ1:57-66)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ヨハネは父ザカリヤや母エリザベツにだけでなく、多くの人にとって喜びとなる、と予め預言されていた。
その喜びとは、単に子がいない一老夫婦を神が慈しみ、子が与えられる、という事に留まらない。
それは人類が久しく待望した、人類全体に注がれる神からの慈しみであり、喜びである。
生まれて来るヨハネは、人々を主の元に立ち返らせ、主に先立って進み、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する者となるのだ。(ルカ1:16,17)

さて、ザカリヤに喜びの知らせが告げられた時、彼は御使いの言葉を信じず、口が利けなくされてしまう。
マリヤとザカリヤの御使いに最初に答えた言葉は、見比べてみると似ている気がするが、心は大いに違う。
マリヤは、処女である自分が身篭るという、絶対有り得ない事、むしろ状況的に絶対起こって欲しくない事を密かに告げられ「どうして起こり得ましょう」と言ったのに対し、ザカリヤは公の祭司という立場にあり、老夫婦に子が生まれるという、滅多に起こらない、むしろ望ましい、彼自身が長年祈り求めて来た事が、やっと叶えられる、というお告げに、「何によって」「わたしは」「知ることができるか」と、神の聖所で要求したのだ。
それで彼の口は利けなくされ、御使いの言葉が成就するまで、人に話す事が出来なくなったのだ。
御言葉に従順できない人にとっての最善は、口をつぐむ事。それは周囲にとっても益である。
思い描いていた幻想が、主によって打ち砕かれた時は、哀歌に書いてある通り、黙っているのが良い。

ザカリヤが口が利けるようになったのは、公に「その名はヨハネ」と書いた時だった。
人々がそうだったように、ザカリヤ自身も、待ち望んでいた赤子に自分の名前をつけたかっただろう。
しかし彼も、エリサベトも、人々や自分の望みを押し切って、主に言われた通りの名前を二人で公に示したとたん、ザカリヤの口が利けるようになり、そして真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美だった。
懲らしめの最中は口をつぐみ、自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行う時、主の素晴らしさをさらに知り、賛美の口は開け、それも、真っ先に賛美したい程に、心が整えられるのだ。

ヨハネという名前には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。
神は、ザカリヤに好きな名前をつけて良い、とは言わず、わざわざ人も不思議がる「ヨハネ」という名前を指定したのは、このヨハネという人物を通じ、神が贈られた最高の賜物、すなわちイエス様へと、人々を導くためではなかろうか。ヨハネという名が有名になるにつれ、神の賜物であり、神の恵み深さの現われである、イエスキリストへ向かうようにと、人々の心は整えられて行ったのである。

ヨハネが女から生まれた人間の中で最も偉大だと、主から呼ばれたのは、なぜか。
それまでの律法や預言者は、メシヤを断片的に示して来たのに対し、ヨハネはメシヤの現れに備えて人々を整え、イエスこそメシアであると直接的に示し、最終的に人々をイエスへと導いたからではなかろうか。
律法と預言者はヨハネまでであり、聖書全体の主人公は、このイエスだ。
天における人の偉大さの尺度は、大きな事をする事ではなく、いかに人や自分をイエスへと導くか、である。

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』(ルカ3:5)
主をお迎えするには、まず自分自身が整えられなくてはならなず、心に高ぶりや卑屈さなどのでこぼこがあったまま、主をお迎えしようにも、ザカリヤのように口を塞がれてしまう。
母エリサベツは、マリヤの胎で受胎して間もないイエス様でさえ「主」と呼ぶ程、既に整えられていた。
バプテスマのヨハネは、そうして生まれる前から整えられ、母の胎にいる時に、主との出会いを喜んだのだ。

このアドベントの時、心の中にある山や谷は埋められ、でこぼこ道は平らにされ、そうして整えられて主を待ち望む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:義の栄冠をめざして(1コリント9:24-27):右クリックで保存
韓国語通訳有

競技場で走るもの、競技をする者にキリスト者がたとえられていますが、当時もオリンピックのようなものが、2年に1度、コリントの郊外で開催されておりました。
パウロも信仰者を、よく競技者にたとえて話しております。
スポーツ競技というものは非常に単純明快で、賞を受けるのは一番高い数字を出した者です。

優れた能力を発揮する者が参加するものの、その競技者は当然、自由が与えられていて、その競技について練習する自由も、しない自由もあります。

キリスト者には、全てのことが許されてる自由はあります、しかしすべてのことが益であるとは限らないのです。

競技する日が、何月何日と決まっているのに、自分の好き勝手に飲み食いして、練習も怠る自由もあるのですが、そんなことをしている者が競技で賞をもらえるわけがありません。
競技をする者は、あらゆることについて自制します。
自分のベストを尽くしますし、なおかつ、自分自身のコンディションを最善に保つように、自ら管理します。

みんなで手をつないで、同時にゴールしてみんながそれぞれ一等賞だということは、来たる世においてはありえないことです。
そんな幻想を抱いて日々不摂生している者は当然、賞を受けるべきではありません。
また、競技をするとき、ルールに従って競技をしなければ、栄冠を得ることはできません。
自分流を押し通そうとすれば、退場させられます。
サッカーでゴールにボールを入れると得点をもらえるからといって、ボールを手でつかんで、ラグビーのように走っていくような者は退場させられてしまいます。

ただ主よ、主よ、と言うものが、天の御国に入れるものではないということが、マタイ7章に書いてあります。
大勢の人が主よ、主よ、あなたの御名を使って、預言をし、しるしを成したではありませんか、と言う者は大勢いるのですが、しかし、その日主は、私はあなた方を全然知らない、不法を成すもの、出ていけ、と言われます。
不法を成すものというのは、法に則らない者という事です。
主が与えてくださっているルールがあります。御心を行うということです。
自分に則るのではなく、イエス・キリストに則る者だけが、その賞を得ることができるようになるのです。

26節に、
「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」とあります。
決勝点がどこか分からない、それほど無駄な走りはありません。
私たちは何を目指して走るべきでしょうか。
私たちが目指すゴールはイエスです。信仰の創始者また、完成者なるイエスを目指して私たちは重荷と、まとわりつく罪とを捨てて、走るべきです。

また、皆さんはローマの8章28節には、何が書いてあるかきっとご存じかと思います。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
この御言葉を、そらんじることができる人はたくさんいます。
しかし、その次の節をそらんじる事が出来る人は、少なくなってしまいます。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」

神が全てのことを働かせて、万事益としてくださるのは、この29節にかかってきます。
キリスト者にとって益というのはどのようなことでしょうか。
今は苦しいけれど、後で思い通りになるとか、後で楽ができる、とかいったように、28節を受け取っていなかったでしょうか。
肝心なのは29節です。御子の姿に似たものとするために、神様は全てのことを働かせてくださるわけです。
つまり、自分にとっての益ではなく、キリストにとっての益ということですので、皆さんの望み通りでないという可能性も大いにありえます。
むしろ、みなさんの内にキリストが形作られるまで、大いに苦しむ可能性もあります。
ですから、私たちは決勝点を見誤ってはなりません。

ゴールというのは皆さん自身が望むあの自分、この自分ではなく、ゴールというのはキリストであって、私たちがますますキリストが形作られること、それがゴールに近づくということです。
私たちは、空を打つような拳闘を、してはいけません。
打つべきは空中ではなく、自分の体を打ちたたいて従わせるべきです。

どうも私たちは、空中を打ちたたいて、満足しているようなことが多いかもしれません。
例えば、祈りの中で、あの人が癒されますようにとか、教会がますます発展しますように、という祈りをしますが、わたしのこの罪あの罪を許してください、という悔い改めの祈りを全くしない者は、空を打つような者です。

神様が義と認めた祈りは、私は十分の一を捧げてますとか、自分が隣にいる取税人のようでない事を感謝します、といった祈りではなく、自分の胸を打ちたたいて、こんな罪人の私をお許しくださいと、言った取税人の祈りのほうを、神様は受け入れられました。

空を打つような拳闘をするのではなく、むしろ自分を打ちたたいて、決して朽ちることのない冠を受けるために、そのようにするべきです。
競技をする者は、朽ちる冠を得るために競技するのですが、しかし、私たちには朽ちない冠が待っています。
その称賛は、単にテレビで30分ほど放映されるようなものではなく、主から永遠に頂き続ける栄誉です。

あらゆることに自制し、そして自らを打ちたたいて義の栄冠を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
 


 

礼拝説教メッセージ音声:本当の自由(1コリント9:19-23):右クリックで保存
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キリストを伝える者達が報酬を受け取る権利を、パウロも持っていたのですが、彼はその権利を行使しませんでした。
今日の箇所は、そのキリスト者が持っている自由についてです。
パウロ自身は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。

自由であるはずのキリスト者が奴隷になる、とは、どういうことでしょうか、それは、世に対しては自由ですが、キリストには奴隷となることです。

ユダヤ人を獲得するために、ユダヤ人のようになる。
一見、人に縛られてるようですが、それはユダヤ人を獲得するために、あえて、自らを束縛のもとに置いていくのです。

パウロ自身は、キリストを信じる信仰の故に、律法から自由とされた者になっていると自覚していたのですが、しかし、ユダヤ人を一人でも多く獲得するために、例えばテモテに割礼を施したり、あるいはユダヤ人達に躓きを与えないために、ユダヤ人の祭りをしっかりと守り行いました。
こんな祭りに意味がないと思いながら、しぶしぶ行っていたのでしょうか。
そうではなく、このユダヤ人の幾人かでも、キリストへ導くために、という心持があれば、それは苦痛でも束縛でもなかったはずです。

さて、律法を持たない人々に対しては、パウロもあたかも、律法を持たない者のようになりました。
例えば、パウロは幾度も、異邦人達と食事を共にしたのですが、もし、パウロが異邦人と食卓を共にするのは、律法にかなわないと言って、食事を共にしなければ、異邦人を一人も獲得できなかったでしょう。
異邦人と食事を共にしたからには、律法で禁じられている食物、例えば豚やイカなども出されたことでしょう。
律法に厳格に育てられた、パリサイ派のパウロのようなバックグラウンドを持つ人にとっては、最初にそのような物を食べるのは嫌だったと思いますし、屈辱的だったかもしれませんが、彼はそれを、異邦人と一緒に食べたのです。
それは、一人でも律法の下にない者を獲得するためです。

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
「もし肉を食べることが信仰の弱い人たちの躓きになるのであれば、私は今後一切肉を食べません。」と、パウロはかつて言っており、神は唯一で、偶像の神々というものは存在しない、ということをパウロは知っていたのです。
そのような行動が、信仰の弱い人々の躓きになるのであれば、そういった物は食べない、ということを彼は選択したのです。

このように、キリスト者というのは全てのことを許されているのですが、しかし、全てのことが益ではありません。
もし私は肉が好き、ということで、肉を食べれば躓くような人の前で、肉を食べるようであれば、自分のプライド、自分の自我の奴隷だということです。
そうしてパウロは23節、「私は全ての事を福音のためにしています。それは私も福音の恵みを共に受けるものとなるためだ。」と言っております。

ある人の前では肉を食べ、他の人の前では食べないというのは、カメレオンのように、自分のアイデンティティーを持っていない者と思われる方もいるでしょうか。
そもそも、人の前で態度をコロコロを変える根本的な原因は、人目を気にしたり、人に嫌われたくないという、思いからであります。

対して、パウロがしている事の動機は、全ての人を獲得するため、福音のためであり、決して人目を気にするとかいった動機ではないのです。
いわゆるカメレオンとは、自分の名声を救うためにそうするのに対して、パウロは他人の永遠の命を救うために、そうしているのです。
パウロは律法の下にあるのではなく、むしろキリストイエスにある自由の律法の下にあるものです。

ガラテア2章の11節から16節までを読みますと、年上の先輩のケパに対しても公然と叱るほど、芯のしっかりした人でした。
そのパウロが異邦人の前では、異邦人のように振る舞い、ユダヤ人の前ではユダヤ人として振る舞うような自由は、いったいどれほどの自由だったでしょうか。
この自由は、人目を気にしていては、決して得ることのできないものです。
パウロの人間的な誇りは、キリストにあって、もはや捨て去っており、彼のアイデンティティーは自分にではなく、もはや天にありました。

どうか、パウロのように、人目を気にするのではなく、御国を気にする者として、真に自由なものとなる皆さんでありますように。
そして、一人でも多くの魂を救う皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

 

礼拝説教メッセージ音声:天に富を積む:(1コリント9:11-18):右クリックで保存
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コリント9章を見ると、コリント人のある者達は、教会設立の大きな功労者であるパウロに向かって、言葉使いが弱々しく、なっていないと批評したり、使徒として認めなかったり、また、彼自ら世の仕事をして、生活費や伝道のための資金を稼いでいるというのに、彼を物質・経済の面で援助する、という発想すら沸かなかったようである事を、垣間見る事が出来ます。
コリントの人達は、パウロに福音のための報酬は与えなかったのですが、しかし12節を見ると、どうやらコリントの人達は、他のいわゆる「働き人たち」には、報酬を与えたようです。
しかしその「働き人たち」は、どうもコリントの人達に良くない影響を与えていったようです。

第二コリントの11:18-23節を開きますと、その「彼ら」というのは、肉的なことによって誇り、コリントの人達を奴隷にし、食い尽くし、騙し、威張り放題されている、にもかかわらず、コリントの人たちはそれをこらえていたようです。
また彼らは、ヘブル人であって、アブラハムの子孫だったようです。
そして、その彼らというのは、パウロより、遥かに苦労をしていなければ、迫害も受けていないようでした。
コリントの人達は、そのような人たちに報酬を支払っているというのに、彼らを心遣い、愛し、日夜祈っているあのパウロに、そう、コリント教会設立の張本人であり、最も尽力した、あのパウロに対し、そのように、恩知らずな事をしていたのです。

皆さんにも、日夜祈りに覚えられて祈っている牧者や兄弟姉妹、家族はいるでしょうか。
そのような兄弟姉妹を身勝手に陰口を言ったり、福音の為に実際骨折っているのに、物質的・経済的援助を惜しんではいないでしょうか。
私達は決して、そのような恩知らずになってはなりません。

福音を述べ伝える者がその福音によって生活の基を、支えを得るということは、それは旧約聖書からも明らかなことです。
13節には、神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかれる事が書かれてありますし、14節 にも、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されたと書かれてあります。

その通りなのですけれど、しかしパウロは、その当然たる権利を、敢えて用いませんでした。
私たちが見ればパウロこそ、コリントの人達から真っ先にもてなしを頂いて然るべきと思うのですが、パウロが敢えてそうしなかったのは、16節「そうせずにはいられないことだからです。」
もしコリントに福音を述べ伝えなかったなら、私はわざわいだ、とパウロは示されていたからです。
つまり彼からすれば、そうせずにはいられずに行ったのですが、他の人から見たら、もしかしたら彼は気違いのように思われたかもしれません。

そんなパウロに、報いはあるのでしょうか。
彼は、自らの受けた報いは「福音を述べ伝えるときに、報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ、自分の権利を十分に用いないこと」だと言っています。
なんと、これが「報い」だというのです。
しかし実は、それは人には計り知れない報いなのです。
一体、それの、何処が「報い」になるのでしょうか。

マタイ福音書の6章では、偽善者のように人前で善行をしたり、祈ったり、断食したりしないよう、主が命じています。
人に見てもらおうという動機で、それらをする時、彼らは既に、報いを受けているのです。
もし、人目を求めてではなく、主を慕ってそれらの事をするのであれば、隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださるからです。
つまり、福音の働きや祈り、善行などは、人に見られる目的で為し、人から賞賛を受けてしまった時点で、天からはもう何も受け取れないというのです。
私達が神の国の働きをするのであれば、この世の富や名誉といった、そういったことは期待するべきではないのです。

むしろ私達は、盗人やしみ、さびが決して入り込めない、天に、宝を蓄える事に専念すべきです。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。  富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)

もし皆さんの宝が、人々からの賞賛であるならば、それは廃れてしまいます。
皆さんの宝が、お金であるならば、それはいずれ無くなります。
もし皆さんの宝がそういった世に属する事にあるのであれば、それが少しでも傷つくと、怒ったり、気がきでなかったり、あるいは、人を傷つけたり、あらぬ噂を流したりと、罪を犯してしまうことさえあります。
皆さんが宝を蓄えるべきは、パウロのように、天に積み上げるべきです。

朽ちない宝を天にいっぱい積み上げて、そして、かの日には天の父なる神様から豊かな富をいただける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

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