メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ2章14-18節:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ2章1-13節:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ1章19-27:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ1章1-8:右クリックで保存
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教会では、金曜夜祈祷会から交わりに花が咲いています。
昨日、さっきと、地震で揺れましたが、なんのその。
主の交わりがある所にはいつでも喜びといのちで満ちています。
今日は路傍伝道の後、関内にある技能会館に行って、音楽室を予約しました。
来週の金曜13時より18時まで音楽室を借り、賛美の集会を開こうと思います。
本当にたまたま立ち寄って、促されるままに場所を予約しただけですので、主がそこで何を予定しておられるのかは、まだ分かりませんが、楽しみにして望みたいと思います。
あと本日、新潟の聖徒達への手紙の発送が終わりました。
20人ほどの聖徒一人ひとりに、じっくり時間をかけて導きと御言葉を求めて書きましたので、結構大変でしたが、主が愛された一人ひとりへの愛と養いがこれからどのように実を結んで行くのか、これから楽しみです。
礼拝説教メッセージ音声:人から離れキリストへ(2コリント1:23-2:4):右クリックで保存
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表立った指導者が、現場に行かないほうが、かえって良い事があります。
人の上に立っている人は、何かと人を指導したり支配しようとしがちですけれど、パウロは、そうではありませんでした。
彼はこの時、なぜコリントに敢えて行かなかったのかというと、コリントの人たちは既に、信仰に基づいてしっかり立っていたからです。
パウロ抜きで信仰にしっかり立っているのであれば、わざわざ行って、余計な支配をするのは、弊害が大きい可能性が大です。
「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。」(24節)
しかし信仰に固くたっていない時、パウロは厳しい態度で臨み、信仰を回復しようとしました。
それは、第一コリントの手紙を読めば明らかで、パウロはその人たちを厳しくリードし、良くない信仰や不品行から救い出そうと、それこそ必死です。
それはパウロが「あなたがたの喜びのために協力する者」だからです。
2章はじめで言及されている、パウロが悲しませた人とは、おそらく、第一コリント5章の、不品行の人の事と思われます。
第一コリント5章を読みますと、かなり厳しく、恐ろしいことが書いてあります。
はたして今日の教会で、信徒を主イエスの権能によって裁いたり、サタンに引き渡したりするような牧会者など、いるでしょうか。
しかし、パウロは怒りの感情に任せて、このような事をしたのではありません。
「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。」と書いている通り、彼は悩み、涙を流しながら、そうしたのです。
「それは、あなた方を悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(2コリント2:4)
つまりパウロがそのような事をした動機は、怒りではなく、愛からです。
信徒をサタンに引き渡したい牧会者など、恐らくいないでしょう。
しかしパウロは愛の故に、「主の日に彼の霊が救われるため」(1コリント5:5)、敢えてしました。
サタンに引き渡された人は当然、色々な苦難や呪いを受けます。
もしかしたら後悔して、もうそんな苦しみは嫌だ、不品行などしないでイエス様にたちかえっていた方がよかった、という思いが湧き起こり、主に立ち返ることに、パウロは賭けたからです。
私達が人を戒める時は、確かに悲しみが沸き起こりますが、その悲しみを乗り越えた向こうには、喜びが湧き起こります。(2コリント2:3)
私達は肉体に束縛されている人間である以上、今ある聖徒の交わりが、いつまでも続くとは限りません。
いつ誰が交わりから離れるとも分かりませんが、一つ確かな事は、キリストこそ、いつでも一緒におられ、決して離れる事も間違える事も無い、真のリーダーです。
ですから私達は、聖徒達をいつまでも囲ったり支配したりするのではなく、パウロのように、どんどんイエス様に委任して行くべきです。
もちろん、ある程度の成長を遂げるまで、付き添う事は必要ですが、いずれは人間の指導者から離れ、まことの羊飼いなるイエス様へと繋げる事が、ミニストリーの最終目標です。
どうか、信仰の創始者であり完成者であるキリストから目を離さず、ますますキリストに似た者とされ、完成を目指していく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:聖霊の導きに従う(2コリント1:12-22):右クリックで保存
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「このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。」(15節)
パウロが当初、コリントに行きたいと書いた動機は、真実な心からでした。
ところが、その通り行かなかったのです。
パウロはアジアで大変な目に遭い、コリントを通らずに撤退せざるを得ませんでした。
それでコリントの人たちの中に、パウロは私たちの所に来ると言っておきながら来なかったではないか、と、つぶやく者達がいたようです。
パウロは最初の手紙の最後に「主がお許しになるのであれば」あなた方の所にしばらく滞在したい、と、書いておりました。(第一コリント16章7節)
私達は色々な計画をたてますが、かならずしも、その通りになるとは限らず、全ては主のご支配にあります。
また私達は不真実であり、御言葉に対して「然り」と同時に「否」と言う事もあります。
しかし、主イエス様は「然り」と同時に「否」と言うような事は、なされないお方です。
「 神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。」(20節)
そして主は、私達に聖霊の油を注いでくださいました。(21節)
コリントの中には、パウロがエルサレム教会で按手を受けてない事を理由に彼の使徒性を疑い、パウロは正統ではないと、言う者もおりました。
しかし、パウロの力強さや、いかなる困難でもなおキリストを伝えている「行いの結果」を見るに、明らかに、キリストから与えられた聖霊による事が分かります。
私達が神様から任職の油を受ける時、それは神様から来るのであって、人間から来るものではありません。
人間的な力でミニストリーをやろうとしても、続かないのです。
聖霊は、私達を助けてくださる助け主であると同時に、私達が御国を受け継ぐ事の保障です。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エペソ1章)
今、私達に与えられている聖霊は、助け主であり、御国を受け継ぐ事が保障されている事の手付金であり、天の王国の前味わいです。
車のナビゲーションどおりに進めば目的地に着くように、天の王国に入りたいのであれば、主が与えてくださった聖霊の御声に従って歩んで行けば、ラクに着くのです。
しかし聖霊の声を無視し、思い込みや沸き立つ「我」によって、御声を上塗りしてしまうなら、当然のように、変な所へたどり着いてしまいます。
どうか、御言葉と御霊によって歩み、ますます天の王国、天の支配へと近づいて行く皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:死の苦しみの向こう側(2コリント1:8-11):右クリックで保存
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「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8:35)
この御言葉は、自分を省みず福音のために滅私奉公せよ、という意味ではありません。
ここで使われている「いのち」はギリシア語でpsyche、サイコロジー(心理学)の語源です。
つまり、自分の心理(思いや意志、感情など)を救おうとせず、イエス様と福音を優先させるなら、むしろ自らを救う、という事です。
たとえば、思いや意志・感情としては、赦したくないような人がいる時でも、イエス様の「赦しなさい」というお言葉の故に、自分の「心理」を降ろして御言葉に従うなら、十字架から復活させた神の力が働き、自分にはどうしても出来なかった「赦し」が、何の苦労も要らず出来てしまうのです。
そうして今までその人を憎んでいた苦しみや時間、束縛から解放され、結果、「心理」を救う事になるのです。
キリストは、神の御姿であられるのに、仕える者の姿を取り、死に至るまで、従順でした。(ピリピ2:6-11)
世界には、”いわゆる”救い主や神は数多くいますが、そのどれよりもイエス様がすごいのは、彼はまず、従順に仕える者の姿を取られ、しかも、死に至るまで御心に従われた事です。
そして彼は、御父はどんな苦しみからも救って下さるお方であり、死からも救って下さるお方だ、というほどの信頼がありました。
イエス様がそのように歩まれたからこそ、私たちも、彼の歩まれた道に習い、仕える者の姿を取り、従順になる事ができるのです。
パウロはアジアで、死ぬ以外は何も考えられないような状況から救われましたが、このように、もはや自分からは何の手出しもできない、まな板の上の鯉のような状況へと置かれる事が、私達にもあります。
それこそ十字架の経験であり、そのような時こそ、実は幸いです。
十字架上のイエス様の死と同一になり、自分で握り締めていた「私」の存在の保証を自分から手放し、救いは、天地を創られた全能なる神から来る、という事を、実体験として知る事ができるからです。
自分が今まで支配していたその領域を、完全に自分から手放して神様に明け渡す時、その領域は神様の支配に移り、自分ではどうしても出来なかった解決がなされ、しかも、自分の小さい頭で考えていた解決よりも、はるかに素晴らしい最善が、その領域でなされるのです。
自分を降ろし、イエス様と福音を優先させる事によって、イエス様をよみがえらせた、あの復活のパワーにあって強められ、いのちに満ち溢れて生かされる皆さんでありますように。
主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:苦しむ事の意味(2コリント1:3-7):右クリックで保存
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人は苦しみに遭うと、真っ先に何を考えるでしょうか。
なんでこんな苦しい目に遭わなくてはならないのか、自分は何か悪いことをしただろうか、あるいは、自分がこんな苦しみに遭うのは不当だ、と訴えるかもしれません。
しかし、私達が苦しみにあう事には、大きな意味があります。
まずその第一の意味は、神を知る事ができる、という事です。
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩編119:71)
神を知る事こそ、どんな祝福にまさる祝福です。
なぜなら、あらゆる良き事の源であり、全ての祝福の源は、神だからです。
ヨブは正しく生きていましたが、サタンの唆しを神が許され、ある時、立て続けに災いに遭って、全てを失いました。
ヨブの友人達は、ヨブが何か悪いことをしたからこんな苦しみに遭っているのだ、と、何の疑いもなくヨブを戒めましたが、ヨブはそんなことはないと、あくまで、自分の義を主張し、最後には、自分をこんな目に遭わせるような神が間違っている、神と議論したい、とまで言い出しました。
そしてついに神が現れ、圧倒的な御技をヨブに示し、そうして彼は、神を知るに至りました。
人にとって幸いとは、何でしょうか。
初期のヨブのように、金持ちになって子宝に恵まれる事でしょうか。
ヨブにとって何よりの幸いは、災いを通して、全ての祝福の源なる神を知った事でした。
苦しみに遭う事のもう一つの意味は、同じ苦しみの内にある人々を思いやることが出来るようになり、その人達を慰める事が出来るようになる事です。
「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」(第二コリント1章から16節)
最も意味のある苦しみを受けられたお方が、イエス様です。
イエス様は天上でふんぞり返って、人間を見下ろして支配するような神ではなく、天から降りて来られ、人として同じく共に生活し、人として苦しみを受け、人として罪を処罰され、人として死に、そして、蘇ってくださった神です。
だから私達は文句なしに、このお方こそ主であり、このお方こそ私達の救い主であると告白する以外に、無いのです。
イエス様は人として誘惑に遭われ、神としての力は使わず、あくまで「人の子」として、御言葉をもって誘惑に打ち勝ち、私達に勝利の道を示してくださいました。
私達の大祭司イエス様は、私達の弱さに同情できないお方ではありません。(へブル4:15-5:2)
全ての点において、彼は私達と同じ人間となられ、肉体を持たれ、試みを受けられ、弱さを体験されたからこそ、私達に心底同情し、執り成す事が出来る事が出来るのです。
神は、どのような苦しみの中からも、私達を慰める事ができるお方です。
もし皆さんの内に苦しみがあるのであれば、それを通して神を知る事が出来ます。
そして神は、どのような苦しみの中にある皆さんをも、慰め、助け出すことが出来るお方です。
ぜひこのお方により頼み、苦しみを乗り超えてさらに神を知り、より深みのある人へと成長する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
