• カテゴリ 礼拝メッセージ説教音声配信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

パスターになってからは、恵み続きの幸い続きです。

もちろん富や権力・名声といった幸いではなく、イエス様の実わざを間近で見る事の出来る幸いです。

自らを養う能力や資質が無くても、主ご自身が御腕を動かされて必要を満たして下さった。

以前はどうしようもなかった人が、どんどん良くなって行った。

イエスの名によって祝福すれば、ちゃんと祝福の実が生った。

イエス様が身近にいて生きて働かれる幸せは、あたかも、力強い勇士が私の前を進み盾となって戦ってくれて、私たちはその戦利品を獲得するだけ。そしてその勇士は私たちのすぐ前にいて、私たちはその背中を見ながら安心しているような幸せ。

こんなに幸せが続いていいんだろうか?もしかしたらワナが待ち受けているんではないか?と恐れた時期も一時期ありましたが、主は「いいんだよ、わたしはいつでもあなたの傍にいるよ」と答えてくださっているようで、そういう不安も無くなってきました。

礼拝説教メッセージ音声:アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ(ヘブル11:17-23):右クリックで保存
韓国語通訳有

アブラハムは100歳にしてやっと息子イサクが与えられたのに、全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた。
その時アブラハムはどんな心境であったのかは記述が無いが、彼は命じられた翌日、すぐに準備してイサクを連れ、命じられた所へ言った。(創世記22章)
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」(同5節)
わたしと息子は一緒に戻ってくる、と言った言葉に、アブラハムの信仰が見える。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブル11:19)
アブラハムはイサクを、主にあって失った。そうしたら、何倍にも祝福された形で得た。
これこそ死と復活の型であり、私達も主にあって失うなら、何倍にもなって得るのである。

イサクは従順だったため、井戸を奪われてもつぶやかずに主に信頼し、次から次へと井戸を見つけて行った。
「信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。」(ヘブル11:20)
実際の所、彼はエサウを祝福したと思っていたのだが、ヤコブが祝福を騙し取った。彼は息子にさえも騙されたのだ。
しかし、この箇所の趣旨は、家族内の騙し騙されるサスペンス劇ではなく、祝福しようとしたイサクの信仰に対する賞賛である。
皆さんにも、「この人を祝福したい」と思って祈ったり支援をしてきたのに、実は騙され、祝福は別の者に横取りされ、結局自分の望む形で祝福が与えられなかった、という経験はあるだろうか。
しかしそのように、たとい望む形でなかったとしても、神様は私達の「祝福したい」という信仰を良しとされるのである。

ヤコブが人生の中で最も賞賛されている場面は、子供達を祝福し、杖によりかかって礼拝する場面である。(同21節)
彼は神と格闘している間は、祝福は与えられなかった。
しかし、もものつがいを打たれ、力が無くなった時、彼は神の使いを掴んで離さず、ただ寄りかかるしかなくなった。
その時、彼に祝福と新しい名が与えられた。
私達も、神に打たれて自分の力が尽き、もはやイエス様に寄りかかるしか無くなった時、祝福と幸いが与えられるのである。
彼は自分の力や騙しテクニックによって世を渡り歩いて来たが、神様から賞賛されたのは、生涯を閉じようとする時に、わずかな力を振り絞って為した、子供達への祝福と礼拝であった。

ヨセフが人生の中で最も賞賛されている場面は、臨終の時、自分の骨について指示した場面である。(同22節)
彼はエジプトに来て既に100年近く経ち、エジプトで2番目の高い地位に就いていたが、臨終の間際に彼が指示した事というのは、子孫の代でエジプトを脱出するからその時に自分の骨を故郷まで届けて欲しい、というものだった。
人生で何に心の重点を一番置いてきたか、というのは、遺言に如実に現れる。
彼の100年近くの日々で、心に最も重きを置いてきたのは、エジプトの富や地位、名声などではなく、神様の約束された地、生まれ故郷だった。
だからその信仰を賞賛されたのだ。

この世の人生の旅路は仮の宿に過ぎず、私達には天にまことの故郷がある。
彼らが賞賛されたのは、地上での住まいよりも神様の備えて下さる天の住まいを望んでいたからである。
天のまことの故郷に至る歩みが、この地上の歩みである。

いつ死ぬか分からないような情勢の元で住んでいる今日、一日一日の歩みを、天のまことの故郷に向かう歩みとして尊く生きる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:いのちへと至る道(ローマ7:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

人は、禁じられたら逆にそれをやりたくなってしまう、という習性がある。
ある子供は「コンセントにハサミを入れたらダメ」と言われ、その言葉にきっかけを得、コンセントにハサミを入れたいという欲望が生じ、結果、実際に入れてしまった。
「罪は誡めによってきっかけを得て、私のうちにすべての欲望を生じさせたのである。なぜならば、律法がなければ罪は死んでいるからである。」(8節)
私達には、ダメと言われたら逆にやりたくなる衝動に駆られる性質が、エバの時からあるのだ。

律法は私達を拘束し、キリストが解放させて下さったものであるなら、律法は罪であると言うのだろうか?(6,7節)
そうではなく、聖いものであり、善いものである。(12節)
律法は神によって与えられ、それを守ればあなたがたは生きる、と言われた。
それなのに、「生命へと至る〔はずの〕誡めそのものが、死へと至る誠めであることを、私は見いだしたのである。」(10節)
律法は全て守りきれるものではないため、私たちには死以外には無い事しか見出せないのである。
律法そのものはいのちを与えない。それなら律法とは一体何か?

律法とは、約束が与えられる子孫が来るまで、私達に違反がある事を示すために付け加えられたものであり(ガラテヤ3:19)、いのちを与える事の出来るものではない。(同21節)
律法とは、キリストへと導くための養育係であり(同24節)、キリストへと導くからこそ、律法は命へと至る道なのである。
イエス様もユダヤ人に言っている。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)

つまり、いのちへと至る道は、?律法によって人に罪がある事が示され、?自分には救いが必要であると渇望が生じ、?キリストの救いへと導かれる、というステップがある事を見出す。
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → だから救いが必要だ、これが正しいステップのはずだが、
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → しかしそれは不可能だから、嘘も方便、善い嘘もある、
といった、人間の勝手な解釈や教えを混ぜ込む事によって、救いからはあさっての方向へと逸れてしまう。
「この御言葉はこう言っているけれど、実はこれこれの解釈があるのだ」などと言って人間的な解釈を加える者は、的を外した歩みによって、どんどん救いから遠のいてしまうのだ。

御言葉はそのままが一番、混ぜ物せずにそのままいただき、日々イエス様に救いをいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:古きは死の向こう側へ(ローマ7:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

ローマ7章をよく読むと、1-3節と4-6節とでは、「夫」「死んだ対象」がそれぞれ違う事が分かる。
まず1-3節に出てくる夫とは、前章の関連からすると「古き人間(ローマ6:6)」であり、この「夫」がキリストと共に十字架につけられて死んだため、私たちはその古き連れ合い(夫)から解放されている。
そして4-6章では、今度は死んだのは「私たち」となり、私たちはキリストの体を通じ、過酷な要求ばかりする夫(律法)に対して死別させられている。(ローマ7:4-6)
ローマ7章後半で学ぶが、「古き人間」と「私」とは、別物である事に注意する必要がある。

私達は2重の意味で死に明け渡されており、私たちを良くない行いばかりに仕向けてきた古き連れ添い(古き人間)は死んだため私たちは解放され、また、私たちに過酷な要求ばかりして縛ってきた夫(律法)に対しても、死別させられたのだ。

「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤャ6:14,15)

古い自分も、世も、律法も、呪いも、私たちにとっては十字架の死に明け渡され、十字架の向こう側へと、逝ってしまっているのである。
そして十字架のこちら側、私たちの側にはイエスがおられ、愛によって結ばれ、共に新しい創造として歩んで行けるのである。

私たちが既に新しい創造であるなら、それらしく歩む続けるべきである。

焼き鳥屋

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-9-1 20:07

教会の数名が、協力して新しく焼き鳥屋をはじめようとしています。

野心的な理由は全く無く、本当はもっと別に打ち込みたい働きがあるのですが、色々と止むを得ない事情が重なって、そうせざるを得ない所に辿りついた感じです。

その集まりにはわくわくする心と希望があり、これから主がどう導いてくださるのか楽しみです。

礼拝説教メッセージ音声:誰の奴隷になるか(ローマ6:15-23):右クリックで保存
韓国語通訳有

我々は、イエス様によって罪が覆われ恵みの下にいるのだ、神は赦しの神だ、だから罪を犯し続けても問題ない、と言う者がいるが、はたしてそうだろうか。

「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」(ヘブル10:26)
罪の赦しをいただいたのに「ことさらに(口語訳、新改訳)」「故意に(新共同訳)」罪を犯し続けるのであれば、それは「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する」行為であり、重い刑罰が待っている。(ヘブル10:29)
ヘブル書ではそのように警告しているが、ロマ書6章では、それは「罪の奴隷状態」になる事で、その結ぶ実は死であると警告している。

奴隷には主人がいて、その主人に対して自由意志は通用せず、主人の命令には好むと好まざるとに関わらず、従わざるを得ない。
私たちは、何の奴隷となるかによって、結ぶ実も違ってくる。
例えば、たばこを止めたい時にいつでも止められるなら、たばこに対しては自由だが、自由に止められない人は、たばこの奴隷状態であり、その奴隷になり続けるなら、肺ガンなど健康障害という死の実を結ぶ。
同様に「あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマ6:16)

もし罪の奴隷にあれば、ガラテヤ5:19-21の実を結び、それらは恥じるべきものであり、それらの終局は死である。(21節)
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(22節)

私たちが留まるべきは、キリストが罪の奴隷から解放して下さったという立場である。
「 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(17,18節)
もし私たちがキリストの僕(奴隷)となるなら、カナの婚礼でイエス様に使えた僕のように(ヨハネ2章)、イエス様の密かな御技を見る事が出来るばかりでなく、イエス様が用意された極上のぶどう酒を味わう事が出来、それを人々に届けて人々にいのちを与え、喜びに満たす働きをする事が出来るのである。
 

礼拝説教メッセージ音声:債務整理の相談なら(ローマ6:9-14):右クリックで保存
韓国語通訳有

イエス様は人類の罪を、自らの体を身代わりとして死に渡す事によって、罪そのものを罰し、滅ぼして下さった。
イエス様が死なれたのはただ一度、罪に対して死んだのであり、他方、彼が生きる生命は、彼は、神に対して生きている。

「あなたがたもまた、一方で自分たちが罪に対して死んだ者である事を、他方でキリスト・イエスにおいて神に対して生きる者である事を、認めなさい。」(11節 岩波訳)

この「認めなさい」の原意は、会計用語の「仕分け」の意味で、客観的に成っている事を当てはめなさい、という事である。
すなわち、キリストを信じる信仰によって、罪に対しては「死んだ」として仕分けし、神に対しては「生きる」として仕分けなさい、という事だ。

私達がかつて重大な過ちによって莫大な債務を背負ってしまったのを、イエス様が借金を肩代わりして全て払ってくれたため、私達の貸借対照表にある罪の債務は「支払済み」として仕分けするのが、在るべき姿だ。
そんな事はない、私にはまだ怒り癖がある、怠け癖がある、などと、罪の借金が依然としてリアルな支配力を持ったままだと信じている人は、罪に対しての「死んだ」という仕分けが為されていないのである。

日本の将棋では、敵駒を取ったら自分の手駒(武具)として、好きな時に出す事が出来るが、私達の肢体を神の陣営の駒とするか、それともサタンの陣営の駒とするかは、私達の自由意志に委ねられている。(13節)
「それゆえに、罪があなたがたの死ぬべきからだを支配して、その結果、その〔からだの〕欲望にあなたがたが服従することがないようにしなさい。」(12節)

私達はかつて、自らの体を不義の武具としてサタンに捧げ、神に敵対する陣営の奴隷生活をしていたが、イエス様は私達を罪の奴隷から解放して下さった。
イエス様が自由として下さった私たちの肢体を、欲望に委ねて罪の手駒とするのではなく、イエス様に支配していただく神の武具として用いていただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

子供の頃はやった漫画に「北斗の拳」というのがありました。

主人公は拳法の達人で、指先ひとつで敵をダウンさせるのですが、その時の名セリフが「お前は既に、死んでいる」でした。

ローマ6章のキーワードは、これです。

私たちはキリストの十字架によって、既に、世に対して罪に対して死んでいるのですが、自分で自分を救おうとバタバタして、もがき苦しんでいるクリスチャン(クルシ・チャン)が多いのです。

イエスがすべての人のために死んだ以上、すべての人が死にました。

死人が鏡で自分を見て、何か希望が見える訳がないですし、十字架のあちら側へと逝ってしまった「世」を眺めて一喜一憂しても意味がないです。

死人は死人らしく安楽し、十字架のこちら側、つまり、私の側におられるイエス様を眺めていればいいのです。

礼拝説教メッセージ音声:あなたは既に死んでいる(ローマ6:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有

罪が増し加わった所に恵みがさらに溢れたのなら、恵みが増すように、さらに罪の中に留まるべきだろうか?
断じてそんな事があってはならない。
イエス様が自らの尊い命を捧げつくして与えてくださった恵みを、敢えて踏みにじるような事など、して良いはずはない。

それ以前に、イエス様にあって罪に対して死んでいる私達が、敢えて罪のうちに留まり続けるなどというのは、できない。
キリストの新しいいのちが息吹かれた者は、罪の内を歩み続けていると、苦しくなるからである。

「それともあなたがたは、キリスト・イエスヘと洗礼を受けた私たちすべては、彼の死へと洗礼を受けたのだ、ということを知らないのか。」(3節)
洗礼(バプテスマ)とは浸し込むという意味で、漬物が漬け汁を染み込むように、私達にはキリストに浸しこまれ、キリストのありとあらゆる性質が染み付いている。
そればかりでなく、キリストの死にも浸しこまれて、キリストのよみがえり、キリストの新しいいのちにも結び付けられ、私達の体内、魂内、霊内にキリストが息吹かれているのだ。

それ故、私達は罪に対して死んでいるため、罪から解放されているばかりでなく、世から来る艱難や生まれながらの呪い、そして死に対してさえ、キリストにあって死んでいるのである。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

新政権

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-8-29 21:24

野田氏が新代表になる事が決まりましたね。

私は彼がどのような政治家であるのか良く知らないのですが、いつもどおり祭司として上に立てられた権威のために祈りたいと思います。

政治家達が知恵においても行動においても祝福され、日本国民がより幸せになるために良い政治を為し、日本がより発展してゆくように。

また、もし今政治の場に上に立つべきでない者がいたら、その全てが速やかに権威の座から下ろされるように。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest