メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
韓日讃頌歌396番「主イエスのみ名高く」の賛美は、音声メッセージ中にあります。
音声メッセージを聞くには、パソコンやスマートフォンから上記URLへアクセスして下さい。
音声メッセージ中の賛美で、私がおりかえし部分を
「わがくちびるが メッセージする時に 主は指揮者となり導きたまえ」
「わが銀行口座が なくなる時に 主は指揮者となり導きたまえ」
などと言っているのが聞こえますが、正しくは
「わがたましいが戦うときに 主は指揮者となり導きたまえ」
です。
ちなみにさっき、「谷川の流れをしたうカニのように〜」と歌っていたら、即座に「鹿のようにでしょ!」とK姉妹につっこまれました。
礼拝説教メッセージ音声:カニのように(ヘブル12:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
人生は戦いの連続だが、罪と戦って血を流すまで抵抗した事はあるだろうか。
危害を加えに来る敵と戦うのは分かりやすいが、気持ちよくさせる誘惑者と戦うのは、難しい。
韓日讃頌歌396番「主イエスのみ名高く」の賛美は、そうした戦い方の大きなヒントが得られる。(賛美は音声メッセージ参照)
誘惑が来た時は自分で戦うのではなく、主イエスの御名を褒め称えるほうが、誘惑は逃げて行く。
負けてしまうと罪の奴隷にされたり、悪しき束縛され、その下でこき使われ、したくない事をさせられ続ける事になるが、立ち返って主に求めるなら鎖は解き放たれる。
負け続ければ負け続けるほど、立ち返るのは困難になるので、最初の時点ですぐに勝利した方が良い。
海の岩場に、小さなカニが沢山いるのを見た事があるだろうか。
波が来るとカニは素早く隙間に入り込み、波が打ち付ける時にはカニは岩の隙間で守られている。
まことの岩はイエス様であり、私達はその岩陰で戯れる蟹のようなもので、どんな人生の荒波が押し寄せようとも、まことの岩なるイエス様の隙間にすぐに隠れれば安全は守られ、イエス様の内に隠れた私達を攻撃する者は、イエス様を攻撃する者となる。
イエス様は死と悪魔に打ち勝ち、悪魔は足の下に踏みにじられているため、私達もイエス様の内にあれば共に勝利しており、悪魔は足の下で踏みつけられ、陰府の力は届かない。
何事も勝利するコツとは、実は非常にシンプルで、誰にでもできる。
それはすなわち、イエス様を主とし、イエス様の内に入る事。
人生の荒波にみくちゃになっている原因は、100%と言い切っていい程、イエス様から離れているからだ。
敵はいつもこのイエス様という守りの岩からエサでおびき出そうとしており、おびき寄せられ岩の外に出ているなら、人生の荒波と苦難が尽きない。
私達は主イエス様にあってより良くなるために、訓練を受ける事や、むちを加えられることもある。(ヘブル12:1-7)
世の人が楽しそうにしているのに、自分がそっちに行こうとすると道がふさがれ鞭打たれる経験は、クリスチャンならあるのではないだろうか。
それは、神は私達を子として扱っているからだ。
親であれば子を特別扱いするもので、他の子が遊び呆けていても何とも思わないが、自分の子には、より良い将来を与えるために特別な訓練を与えたり勉強させる。
罪の楽しみはせいぜい100年も続かないが、主は、ちっぽけな100年よりも遥かに優れた永遠の祝福を楽しませたいがため、私達が世に向こうとすると、鞭を加えられるのだ。
短い人生、主から打ちたたかれるばかりでは、損である。
自分のはかりや天秤を握り締めて歩む人生は、打たれっぱなしの苦々しい思い出しか無いが、主に人生の重荷も全て委ねて歩む人生は、はるかにラクである。
自分のはかりや天秤はすぐにイエス様の元に投げ出し、イエス様にいつでも隠れ、運んで頂く。
そんな安全でラクな人生を過ごす皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
今日、また一つ峠を越えました。
詳しくは書けませんが、一歩対応を誤れば、今病で苦しんでいる多くの人達を回復させる望みが絶たれてしまう所でした。
しかし主が守ってくださり、また今回の事で色々な不明点が明らかにされ、これからは正々堂々と活動できるようになりました。
K姉妹は今朝、聖なる所を汚している霊的ゴミを捨てる夢を見たそうですが、その通りになったようです。
主は日々生きておられ、良き御わざをなされます。ハレルヤ!
礼拝説教メッセージ音声:真に高貴な者とは(使徒17:10-15):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
テサロニケでのユダヤ人による混乱のため、パウロ達は夜陰に乗じてベレヤの方へ送り出された。
「この町のユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも「まとも(エウゲネス:生まれの良い、高貴な)」で、御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた。」(11節)
ベレヤの人達は、なぜ「高貴」と記されたか。
それは、「御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた」からである。
つまり、神の目から「生まれの良い者」「高貴な者」とは、メッセンジャーから受けた内容を、はたしてその通りかどうかを御言葉からじっくり調べる者である。
御言葉が気に食うか気に食わないかではなく、御言葉を伝えるメッセンジャーが気に食うか気に食わないかではない。
一番望ましいのは、私達一人ひとりが日々聖書を調べ、神様から直接御言葉を頂き、頂いた御言葉の恵みを兄弟姉妹の間で流し合う事である。
※ 天声教会から日々配信しているメッセージも、はたして御言葉の通りかどうかを確かめ、もしそうでない所がありましたら遠慮なくご指摘頂ければ幸いです。
ベレヤの人達は毎日聖書を調べ、熱心さをもって受け入れた結果、多くの人達が信仰に入った。
それなのに、テサロニケで反発したユダヤ人達は、はるばる80kmの道のりを超えて来てベレヤまで来て、群集を騒動させ、そのためパウロはシラスやテモテ達と別れ別れになり、一人アテネへと導かれる事となってしまった。
御言葉を伝える者を「自分の気に入るか、気に入らないか」というはかりにかける者は、「霊的生まれの良くない者」であり、自分の何かではなく御言葉から熱心に調べる者こそ「霊的生まれの良い者」である。
永遠に残る書物に「生まれの良い者」「高貴な者」と記されたベレヤの聖徒達のように、御言葉を熱心に調べる皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
私はひげを生やしているのですが、髭トリマーなるものを注文したのが今日届きました。
今日から髭を簡単に整えられるかと思いきや、初期不良だったので返送しました。
ネットショップで仕入れたものが初期不良で返品したのは、今年で2度目です。
ネットで仕入れたものは初期不良率が高いと思うのは私だけでしょうか。
礼拝説教メッセージ音声:マケドニアの模範達(使徒17:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロ達はピリピを離れてテサロニケまで行き、ユダヤ人の会堂で3週間に渡って聖書に基づいて論じ合い、ある者はイエス様を信じ、別の者は反発して暴動を起こした。
反発したユダヤ人達は、パウロ達を「カエサルの勅令に背いて『イエスという別の王がいる』と言っています」と訴えた。
しかし、そう言う自分達も、王とすべきまことの神を差し置いて「カエサルを王」と告白する事によって自己矛盾に陥っている。
彼らの行動の動機は嫉妬であり、訴え内容も矛盾しているが、彼らのやかましい主張のお陰で、パウロ達はまたしても別の町へ行かなくてはならなくなってしまった。
そんな中で、福音の種が撒かれたテサロニケの聖徒達はとても優れた信仰の持ち主であった。
彼らはやがてマケドニア・アカイア全体に聖徒としての模範となり、彼らを通して主の言葉がマケドニアやアカイアへと広まった事が、テサロニケへの手紙から分かる。(1テサロニケ1:6-8)
さらに彼ら自身、神様から直接に互いに愛し合うよう教えられ、実際にそのことをマケドニア州全地にいるすべての兄弟たちに対して実行している。(4:9-10)
パウロの最初の訪問の時は、ヤソンが捕らえられ、パウロもわずか3週間にして他の町へと散らされる艱難は確かにあった。
しかし例えパウロと一緒にいた期間がわずか3週間であっても、「多くの患難の中で、聖霊のもたらす喜びをもって福音の言葉を受け容れることによって、私たちと主とに倣う者になった」(1テサロニケ1:6)ため、多くの実を結ぶ事となったのである。
テサロニケの人達の、目を見張るような成長の秘訣は何だろうか。
「あなたがたは私たちから聞くことによって神の言葉を伝えられた時、それを人間の言葉としてではなく、むしろ ――真実にそうであるのだが ――神の言葉として受け容れたからである。その神は、あなたがた信ずる者たちのうちにあって、まさに働いておられる。」(1テサロニケ2:13)
預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、義人を義人として受け入れる人は、義人と同じ報いを受ける。(マタイ10:41)
御言葉を語る者の口から出た言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言葉として受けるなら、御言葉がその人の信仰どおりになって生きて働き、このテサロニケ人のように他の聖徒達の模範となり、兄弟愛に満ち溢れるのである。
御言葉を伝える者の御言葉を、そのまま神の言葉として信じ、テサロニケの聖徒達のように、御言葉からの報いと実を沢山いただく皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:もし生きるならキリストのため(使徒16:35-40):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」」(16:37)
パウロ達が鞭打たれ投獄されたのは、女奴隷から占いの霊を追い出し、その主人達が金儲けの望みが無くなった事で逆恨みされ、濡れ衣を着せられたためだ。
訴えた者達も政務官も、自分達はピリピのローマ市民で彼らはユダヤの野蛮人、だから何しても良い、といった考え方だったかもしれない。
パウロ達もローマ市民であったのに、その事を確かめずにさっさと鞭打って牢に入れてしまったのは、明らかに政務官の怠慢だった。
パウロは「ローマ市民権都市」であるタルソスに生まれ、生まれながらのローマ市民だった。
ローマ市民には諸々の特権があり、例えば被支配民とは違って裁判無しにいきなり鞭打ちにされる事は許されていないし、訴訟事件の際には皇帝にまで上訴する事も出来る。
もしパウロ達が、解放されてそのまま何も言わず去って行っていたなら、パウロ達の側に何らかの非があった、という疑念が、福音を伝えた看守長や牢の中の人達、紫布商人のリディア達など兄弟姉妹に残ったままになってしまい、せっかく伝えたキリストの名が廃ってしまう。
人からの虐げを無条件に受け入れてニコニコするのがキリスト者の態度だと思ったら間違いで、人間の薄汚い欲望によって不当がまかり通って、そのままではキリストの名が潰れるといった場合は、看過してはならない。
パウロのように毅然とした態度で不当な扱いには不当だと主張すべきである。
しかしパウロにとって、キリストの名の故に苦難を受ける、という場合なら話は別だったようである。
彼は後に、エルサレムに行けばユダヤ人達に捕まる事が明らかに示されていたのに、敢えて行って縛られ、牢に入れられる事を甘んじた。
それは、彼が法廷で弁明する事によって、キリストの名をローマの総督や王達、最終的には皇帝にまで、広くあかしするためであった。
パウロは自分の立場、すなわちパリサイ人でありローマ市民である立場を、キリストのために最大限に利用した。
生きるにしても死ぬにしても、全てはイエス様のため(ピリピ1:20,21)であり、たとえ、ピリピの兄弟姉妹が捧げる礼拝で自分の血が供え物となってもそれを喜ぶ、とまで言っている。(ピリピ2:17)
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)
ピリピ書簡も牢の中から書かれたものだが、投獄されてなお喜んだり賛美したりできるのは、キリストの名が前進するのであれば大きな喜びとなるからで(ピリピ1:17)、その喜びば自分が投獄された事さえネタと思える程小さな事になってしまうものだ。
全ての事の動機はキリストのためと、パウロのように喜んで言う事の出来る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
朝と昼の聖書メッセージをした後すぐにバイブルスタディに入り、それから、亀を売っている所を苦労して探し回った後やっと入手し、教会に帰ったらそのまま夜の礼拝メッセージをし、その後このバイブルメッセージのテキスト起こしをしたら、すっかり遅くなってしまいました。
そうです。カメです。
教会の女の子(小5)が、その日中に銭亀(♀)を手に入れなくてはならない事情が起きまして、長老とパスターが苦労して探し回りました。
長老は魚屋を探し回ったのですが見つからず、私は近所のペットショップを3軒回ってもどこも見つからず、結局はるばるマイカル本牧まで自転車で行きました。
この子は以前も「大変、すぐに来て」と言われたので、家まで行ってみると、おたまじゃくしを台所から流してしまったから助けて欲しい、という事だったので、排水トラップにひっかかっているおたまじゃくしを救い出した事もありました。
そういう事もパスターの仕事のようです。
携帯各社では、どんなにメールやネットを使っても4千円ほどで済むプランがありますが、最近私は携帯でネットを使わないように極力しています。
それでも天声教会メルマガやその他広告メールを受信していると、どうしても料金は3千円ほどになってしまうみたいです。
私はじきiphoneを入手して、外出先でのネット接続は全てWifiで統一する事によって料金節約しようと考えております。
携帯からのメール受信料金が月5千円を超えてしまうという方は、月4千円ほどのメールし放題のプランに入る事をお勧めします(やり方はそれぞれの携帯ショップへお問い合わせ下さい)。
もうこのメールを携帯に送って欲しくない、という方は、以下のアドレスをクリックして下さい。
d0001242611@mobile.mag2.com
メールが起動しますので、そのまま「送信」すれば、メールを届かなくする事が出来ます。
礼拝説教メッセージ音声:獄中の賛美(使徒16:25-34):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
本日の箇所は、普通に読んで行けば「あれ?どうして?」と思える所が沢山ある。
まずパウロとシラスはその時、着物を剥がれ、鞭打たれ、ひどく傷を負い、獄屋の一番奥へ入れられ、足枷まではめられているというのに、賛美しつつ祈っているのだ。
その賛美と祈りを、他の囚人達は、真夜中なのに文句も言わず、聞き入っているのだ。
しかもなんと大地震が起きて、獄舎の全ての扉が開いたばかりでなく、鎖も全て解けてしまったという。
監視長は扉が開いているのを見て、自殺しようとするが、パウロは、「皆ここにいるのだから自害してはならない」と言う。
そう、牢の扉が開かれ足枷も全て解けてしまったというのに、囚人達は誰一人逃げなかったのだ。
そして、見張っている側の看守長が、見張られている側の二人にひれ伏し、真っ先に発する言葉が「主よ」「救われるにはどうしたらいいでしょうか」である。
普通に読めば「なんでそうなる?」の連続である。
あたかもこの二人には、神から特別に使わされた聖なる者達であるかのような刷り込みが、真夜中までに為されていたかのようである。
パウロとシラスは、牢屋にぶち込まれた時から真夜中になるまでに、囚人や看守長を問わず、福音を伝えていたのではなかろうか。
囚人達は福音を聞き、罪人であった自分を悔い改め、監視長も、牢の向こうから漂ってくる声から「主」「救われるには」という言葉を何となく聞いていたのだろう。
そうして賛美している内に、なんと地震が起き、扉も鎖も全て解けてしまったわけである。
囚人一同はこれら一連の事を見、この二人を前にして、とても逃げるどころではない、この二人はまことに神に守られ愛されている者達だ、と改めて驚いたのではなかろうか。
当時、牢獄を見張っている者は、見張られている者が逃げたなら、その者と同じ罰を受けなくてはならない事になっていた。
看守長は囚人を見張っているようで、実は、ローマの制度という「牢獄」の囚人だったわけである。
そういうわけで看守長は、囚人全員が逃げていたとしたらどんな恐ろしい罰が待っているだろうと悲観して自殺しようとしたのだが、しかしなんと誰も逃げておらず、パウロは大声で「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と叫んだ。
牢内で話していたパウロ達の「福音」は決して絵空事ではなく、信じる者は確かに神に愛され、このような不思議を起こし、そればかりでなく牢に入れられている罪人をも造り変えるのだ、と、おののき平伏したのではなかろうか。
看守長はこの二人に「主よ」と呼びかけた。
もしかしたら二人を神の人、あるいは神そのものと思ったのかもしれないが、パウロはまことの主、イエスを紹介した。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
この言葉は、私達が大いに適用すべき事である。
家族がああなればいいのに、こうすればいいのに、と、他人を何とかしようとするのではなく、この看守長のように、まず自分が主イエスを信じる事。その上で家族の所に行って、主イエスを紹介するのである。
看守長はまだ夜であったのに、二人を引き取って打ち傷を洗い、パウロ達は、看守長と家族を水のバプテスマによって罪を洗った。
そして共に食卓で交わり「神様を信じる者となった事を、家族全員で喜んだ。」(34節)
24節までの話だけであれば、パウロ達は何とついていない、運が無いと思えるのだけれど、この一晩だけで劇的な不思議と救いが起こり、人々の解放と喜びが沸き起こったのである。
私達に何か困難が起きる時、それは祝福が備えられているというしるしである。
困難があった時、がまんして無理やり賛美すれば、牢屋が開いて逃げられる、という短絡的なものではない。
主は、牢に繋がれている者、監視している者の双方を縛る肉体的・精神的・制度的な「牢獄」から開放するため、敢えて、私達もその牢獄へと導く事があるのだ。
主のなさる事には何一つ無駄は無く、いかなる事も最善へと導いてくださるお方として信頼する者なら、どのような暗闇の牢獄でも、賛美は止められないのである。
そして信頼して賛美する時、牢は開き、足枷は解けるが、それでも敢えてその中に留まり、縛られている者・縛る者双方を救いへと導くのだ。
私達もこの暗闇のご時勢において、日々、肉体的・精神的・制度的な「牢獄」に縛られている。
それら全ての中にあっても、信頼して賛美し、目を覚まして祈り続ける皆さんでありますように。
そうして皆さん自身の鎖を解いていただくだけでなく、その場で苦しんでいる縛られている者・縛る者の双方を救いへと導く皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!





