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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

祝福の流れ

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-5-17 20:50

ブティックはこの数日、連日売り上げが祝福されていますし、今朝も早天に初めて参加された方がおりましたし、また、別のある姉妹も教会に繋がるかもしれません。

教会のある女性は、一歩間違えれば日常生活から追い出されてしまう程の突然の危機から救われました。

彼女は主日が近づく度に中にいる霊が騒ぎ、主日の心ぞなえの邪魔をされていたのですが、主は今回の事によって憐れみと戒めを示して下さいました。

 

11日のメールで、神様は大きな霊的詰まりからの開放を私達に用意されておられるのかもしれない事を書いておりましたが、早速いろいろな方面で詰まりが取れて、祝福が流れているようです。

私達には、もっと祝福されて欲しい困難続きの聖徒達がおります。

主が彼らを祝福し、幸いを得させてくださいますように。

礼拝説教メッセージ音声:反目は痛い事(使徒15:36-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

使徒教令を持ち帰った数日後、パウロはバルナバに、主にあって兄弟姉妹とされた者達に会いに行って、彼らがどうしているか見て来よう、と言った。
バルナバはマルコも一緒に連れて行こうと思っていたが、1回目の伝道旅行の途中で離れてしまった彼をパウロは連れて行くべきでない、と考え、激しい衝突となった。
ついに別れ別れで行動する事となり、バルナバはマルコと共に最初の旅行と同じ海路を取り、パウロはシラスと共に地中海沿いを西に向かう陸路を取って出かけた。

彼らの対立の原因は、福音に反したとかイエスを捨てたとかいったものではなく、マルコという一人の兄弟に対する評価の違いによるものだった。
パウロは伝道ミッションへの熱心から、途中投げ出したマルコと同行する事が耐えられず、バルナバのほうは「慰めの子」故に、マルコが突き放されるのが耐えられなかったのだ。
主は同じと言えども、主に対する熱心の現れ方の違いによって、衝突してしまう事はある。

主は確かにそのような人間的な対立も益として下さるが、自分の信念や熱心を固持した本人達は、辛く痛い所を通らされる。
パウロは行く先々の兄弟姉妹から当然聞かれ続けられただろう。
「おやパウロさんお久しぶりです。ところで仲の良かったバルナバさんがいないようですが、どうしましたか?」
兄弟姉妹達から聞かれる度に苦く痛い思いをし、バルナバも全く同じ状況だったのではなかろうか。
そして行った先々の兄弟姉妹達は、パウロとバルナバ双方から別々に言い分を聞き、和解を促したのではなかろうか。

ずっと後に書かれたパウロの手紙には、バルナバやマルコと和解をしたように思われる記述がある。
パウロはバルナバを、パウロと同様に結婚もしないで宣教に打ち込んで自ら稼ぎながら宣教している、と、コリントの聖徒達へ評価している。(1コリント9:1-7)
また、コロサイの聖徒達への手紙で、次の事を書いている。
「私の捕虜仲間アリスタルコスが、そしてバルナバの従兄弟のマルコがあなたがたによろしくと言っている。このマルコについてはいくつかの要請をあなたがたは受け取ったことと思う。彼があなたがたのところに来たら、彼を迎え入れるように。」(コロサイ4:10)
一時は伝道旅行を途中で破棄した奴、と考えていたかもしれないが、苦く痛い思いを通る内に、また兄弟姉妹達から促される内に互いに和解し、コロサイ人に同じイエスを信じる者として「よろしく」と書くに至ったのではなかろうか。

信仰が若く未熟な頃は、兄弟姉妹と争い、自分が絶対正しいと主張するものだが、主張を固持し続けるならするほど、痛い思いをする。
それでもイエス様は、その事を益として下さり、彼らは別行動を取ったお陰で、パウロは1回目に行った地域よりもさらに向こう側へ行く事となったし、またバルナバも、パウロが行かなかったキュプロス島の聖徒達を訪問し、バルナバにしか出来なかった役割を果たす事が出来たのである。

パウロとバルナバは一度は激しい対立をし断絶したが、同じ主に繋がり続けていたため、痛い経験の後、再び主にあって繋がった。
その人間の弱さや反目さえも益として用いてくださる主に、栄光が豊かにありますように。
イエス様の名前によって皆さんを祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:使徒教令 - エヴァンゲリオン(使徒15:22-35):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

エルサレム使徒会議の決議事項は手紙として記され(いわゆる使徒教令)、その知らせが届いた所には喜びと開放がもたらされた。
福音(エウァンゲリオン)とは勝利と開放のよき知らせの意味で、実際そのようなもののはずだが、歴史を追うごとにキリスト教は束縛が増し加えられて行ったのは、どうした事だろう。

そもそも今回の事は、エルサレムから来た幾人かが、イエスを信じて救われた異邦人もモーセ律法を守らなければ救われない、と主張して混乱させ、パウロ達との対立が起こり、それではエルサレムで決着をつけよう、というのが事の発端だった。
エルサレムには「異邦人にも割礼受けさせよ」と主張していたパリサイ派から入信した数人がいた(5節)。
エルサレムでは、この少数のうるさ方達の主張がまかり通っており、彼らの主張が序じよに広がって、アンテオケにまで伝染したという事だ。

ペテロもヤコブももしかしたら、何となく彼らの主張はおかしいと思いつつも対処を先延ばしにしていたのかもしれないが、会議において彼らは、神が為された事と御言葉を盾にして弁明し、反対意見を沈黙させた。
こうして根本解決に至り、聖徒達を束縛する諸々はそこで砕かれた。

ここまで大事に至ってしまったのは、人間的な教えがはびこった最初の段階で妥協し、解決を後回しにしていたからだ。
それはキリスト教の歴史でも同じ事が言える。
福音に混ぜ物し、真理の自由を束縛する「人間の教え」に対して、私達は断固として妥協してはならない。

「彼ら偽兄弟たちは、私たちを彼らに隷属させるために、私たちがキリスト・イエスにあってもっている自由に狙いを定めて、入り込んだのであった。
この彼らに対して私たちは、ほんのわずかの間すらも譲歩して従うことはしなかった。それは、福音の真理があなたがたのところにいつまでも留まるためである」(ガラテヤ2章4-5)

にせ兄弟達は、キリストにあって持っている自由をつけ狙い、不自由にするために働きかける。
しかし信仰によって救われた私達は、奴隷の恐怖に至らせる霊を受けたのではなく、子とされ、自由に至らせる霊を受けた。(ローマ8:15)

私達を不自由に陥れようとするものは、不自由にしようとする人間の教えに限らず、日々私達に迫ってくる病や貧しさ、死など、キリストにある私達にはもはや関係の無い呪いもそうである。
そのようなものが迫って来た時、イエスキリストにあって、死からいのちへと、呪いから祝福へと名義変更された立場を主張し、パウロのように、少しも譲歩してはならない。

私達が用いる武器は、使徒達が用いたものと同じことば、すなわち、神が私達になさった事実と、御言葉である。
死も病も、貧しさも、呪いも、御言葉には何と書いてあるか、神が私達にどんなに素晴らしい事を為してくださったかを、信仰を持って宣言するなら、それらは逃げていく。

自分の所有でない死や病、貧しさ、呪いが入り込もうとした時には、主イエスにあって決して譲歩しない皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

今日の礼拝と、聖書の学び会では「人間の熱心」と「イスカリオテ・ユダ」を気をつけるべき事として、図らずも一致していました。

また、金曜の祈祷会で私は「バベルの塔」のメッセージをして、神の御心をほったらかして人間が積み立てたものは神が散らす事を話したのですが、それも今日の学び会で一致していました。

人間中心ではなく神中心、ヒューマニズムではなく、キリストニズム(?)に立つようにと示されている気がします。
 

礼拝説教メッセージ音声:鶏の鳴く時(ルカ22:31-34)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは「立ち直ったら(エピストレフォー:向き直る、転向する)」、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)
人が力を込めて言う言葉は、自身の弱さの前に何の保証も無く、死の覚悟も、サタンの前には無力である。
しかし大祭司なるイエス様は、私達が裏切る前から、いや、私達が「あなたを裏切りません」と力を込めて言う以前から、既に、私達が裏切った後も信仰が無くならないよう、あらかじめ取り成して祈っておられた。
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:33,34)
イエス様のために牢に入ったり死んだりする程に、ついて行くなら、イエス様に認められるのだろうか?
結局、12弟子の全てがイエス様を裏切ったのだが、その中で唯一、死して主にお詫び申した者がいた。
日本人の価値観では彼を潔い、立派だと思うかもしれない。しかし、滅びに下ったのは彼一人だけ、他の生き恥を晒した11人は、後に聖霊を受け、主のために大胆に造り変えられた。
滅んだ一人と、造り変えられた11人との違いは、主イエス様の集まりを止めたか、止めなかったかである。
人間的な美学に勝手に従って一匹狼で行動し、イエス様の名の下から離れる事は、滅びに至る道である。
例え生き恥を晒しても、主の名の集まりから決して離れない者こそ、聖霊によって造り変えられる者である。

信仰生活は、イエス様のために死ぬ覚悟を決める所から始まるのではなく、私達がまだ罪人であった時から既に私達を愛し、私達の罪のために死んで下さったイエス様の愛に気付く所から始まるのであり(1ヨハネ4:10)、自分には主に従い尽くす愛も力も信仰も無い、と、徹底的に示されるような最も暗闇の時、すなわち「鶏の鳴く時」が原点である。
イエス様は復活の後、ペテロ達が一晩中漁をしても魚一匹さえ取れない日の明け方に現われ、たった一言のアドバイスによって、人の経験や知識を遥かに越える結果を示し、生活に必要なものを溢れるばかりに与えただけでなく、暖かい炭火を熾してパンと魚を焼き、香ばしいかおりを漂わせつつ待っておられた。
主はこのように、お腹を満たし、肉的な必要を満たし、心をほぐして下さる。(ヨハネ21章)
イエス様はペテロに3度「あなたは私を愛しているか?」と聞いたが、ペテロは「あなたは私に完全な愛は無い事を知っておられます」と、イエス様に「知っていただく」しか無かった。
信仰が若ければ若い程、情熱と血気によって自分のやりたい事をし、自分の望む所へ行くが、人はイエス様に従い尽す事が出来ない事を思い知る「鶏の鳴く時」が来る。
そこを通った者は、自分のわざを終えて安息し(ヘブル4:10)、信仰が成熟すればするほど、自分は単に両手を広げるだけで、あとは主の導かれるまま、聖霊にうながされるままになって行くのである。

その数ヶ月後、ペテロは再びイエスの名のために大勢の前で尋問される時が来たが、その時彼は大胆にイエスを告白し、それを聞いた権力者達は何も答える事ができなかった。(使徒4:5-14)
この力の源は聖霊に満たされていたからであり(使徒4:8)、聖霊に満たされるコツは、主の集まりから離れない事である。
無学な普通の人である事は何の問題も無く、イエスと一緒にいた者(使徒4:13)である事が大切である。

全てを知っておられる主の前に、まな板の上の鯉となって全てを明け渡し、そして、新しいいのちを息吹いていただく「復活」に入ったなら、ペテロのように大胆に証できるのである。
私達が立つのは、私達の力や意地ではなく、私達のためにとりなし祈っておられるお方と共に十字架につけられ、共に死に、共に復活し、新しいいのちを息吹かれる故である。
主の憐れみと慈しみの中に育まれ、何度倒れても、イエスの名の下に立ち直る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します!

最近、ブティック「詩篇128」が祝福され、主の用事のために店を開けられない時でも主が開けておられるかのように、お客さんが次々と入っているようです。

また先ほども、コロンビア出身の女性がたまたまブティックに来て、この近辺に教会は無いかと、訪ねて来たとの事だったので、私も合流させていただきました。

彼女はとても敬虔なキリスト者で、お互い主の導きによって出会えた事を喜びました。

主が祝福の窓を大きく開いて下さっているかのようです。

礼拝説教メッセージ音声:エルサレム使徒会議2 - 神は人を自由にする(使徒15:12-21):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

信仰によって救われた異邦人に「割礼を受けなければ救われない」と主張した者達は、自分達はこれこれに従って歩んできた、だからあなたも、、、という、自分の価値観を押し付ける考え方だった。
そもそも律法は、当のユダヤ人達も先祖達も追いきれなかった、重いくびきだった。
にもかかわらず、自分達は律法を持っていると言って誇るものだから、彼らは頭が固く主張の強い、あまり係わり合いを持ちたくない種類の人達だった。
会議という場で、そのような人達が操作や駆け引きによって支配すると、他の人々を束縛する諸々の規定が定められてしまう。

しかしこのエルサレム使徒会議は逆で、人の野心や主張ではなく、神の御心に沿って行われ、人を束縛する事ではなく人を自由にする事が決定された。
真理のある所には自由があるのである。(ヨハネ8:32)

ペテロやパウロ、ヤコブは、神は何をなされ、御心はどこにあり、御言葉には何と書かれてあるか、という、神の価値観を主張した。
この事から私達が学ぶべきは、教会の運営は、人の習慣や知恵、経験を押し付けるのではなく、神がどういう御心を持っておられるのか、神はどういうことをされて来たのか、御言葉には何と書いてあるのか等、神中心に運営されるべきである。

真理は自由だと言って何でもかんでもOKというものではなく、主が嫌われ、呪いを招くものは、避けるべきである。
「ただ、偶像に供えた穢れたものと、不品行と、絞め殺したものと、血とを避けるようにと、彼らに手紙を書くべきです。」(20節)

ペルガモンにある教会(黙示録2:12-17)は、邪悪な場所の真っ只中にある教会で、殉教者が出た時さえ信仰を捨てなかったにもかかわらず、バラムの教えを奉ずる者がいる事を非難されている。
バラムの教えとは神の民を神から逸らしてしまうための罠、すなわち、偶像に備えた肉と不品行である。
まことの神以外を拠り所とする「偶像」にも、ニコライ派という「人間中心の教え」にも、「まぁいいんじゃない」と言って妥協したり譲歩してはならない。
教会は信仰による自由や開放は確かにあるが、何でもかんでも受け入れてよいというものではない。
神以外のものに逸れて行ってしまうものについては、力の限り見張っていなくてはならない。

イエス様を信じた者は彼と一つ霊とされた者、それに相応しく、ますます純粋・純真な皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

入院していた姉妹は土曜に退院する事になりました。

その姉妹も不思議な夢を見たそうです。

汚いぼろをまとった霊的存在が彼女を群がって追いかけるのですが、そいつらは彼女に追いつけない。

そういう夢を続けて見ていたそうですが、入院中、御言葉にとどまって祈りをした所、夢の中では彼女は花畑の中に入っていて、その霊的存在は彼女の所に行こうとするのですが、花畑の内側には絶対に入れなかったそうです。

霊的空き家状態になると、悪い奴は入り込もうとするのですが、御言葉で満たしていると、奴らは決して灰って来れないのです。
 

礼拝説教メッセージ音声:エルサレム使徒会議1 - 法を行わなければ救われない?(使徒15:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ある人たちがユダヤからアンティオキアヘくだって来て「モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、あなたたちは救われない」と兄弟たちに教えていた。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じ、この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(使徒15:1,2)
いわゆるエルサレム使徒会議である。

会議という場において、意見の強い者の思惑によって議論が進む場合、その人の意図が通される事によって他の人を束縛する方向性で、物事が決まる事が多い。
しかし教会における会議では、人間の経験や知識ではなく御言葉には何と書いてあるかを、人の思惑ではなく神の御心を、優先させるべきである。

ペテロは立ち上がり、神がなさった事実、すなわち、イエスを信じた者には聖霊が下った事、そこには異邦人もユダヤ人も何の差別も無かった事を伝えた。

「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(15:10,11)
主が為さった完全な救いがあるのに、なお人間的に固執してきた思い込みやしきたりを人に押し被せようとするのは、神を試みる事である。

そもそも、律法の行いによって人は義とされるのだろうか?
「人は律法の業によっては義とされず、イエス・キリストヘの信仰によってのみ〔義とされる〕ということを知って、私たちもまたキリスト・イエスを信じたのである。それは私たちが、律法の業によってではなく、キリストヘの信仰によって、義とされるためである。というのは、律法の業によっては、いかなる人も義とされないであろうからである。」(ガラテヤ2:16)
例え律法のチェックリストが100あったとして、100全て守ったとしても、義もいのちも与えられない。(ガラテヤ3:21)

では、律法とは何か。
それは、人に違反を示すため付け加えられたものであり(ガラテヤ3:19)人をイエスキリストへと導くための養育係である。(3:24)
人間は、とても律法を全て守れるものではない。
そういうわけで、人間にはどうしようもない罪という「違反」があるという事を示される。
そこで救いが必要だという渇望が起こり、そこからキリストへと導かれる。
そういうわけで「律法の**を守らなければ救われない」と言うのは、的外れである。

しかし律法は当然良いもので、律法を守るなら律法における守りによってその人は守られ、律法のもたらすあらゆる祝福を享受できる。
ただし、救いの条件は律法ではなく、イエスキリストを信じる信仰である事に変わりは無い。
イエス様は律法を成就するために来た。(マタイ5:17)
イエス様を信じることによって、律法も神の要求も全て全うされたイエス様のいのちが、私達のいのちに適用されるのだ。

律法を成就されたイエスキリストといのちを共有する者として相応しく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

最近、Facebookを始めました。
私のプロフィールは以下です。(Facebookアカウントでログインしないとご覧いただけません)
http://www.facebook.com/profile.php?id=100002256571728

沢山の人が登録していて、それまで疎遠だった昔の友人とも繋がる事が出来ました。

アカウントをお持ちの方は、ぜひつながりましょう。
 

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