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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:待ち望んでいた安息(使徒3:17-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

今回の癒しの徴は、かなりインパクトがあった。
およそ20年以上も毎日神殿の門前にいて施しを求めていた、神殿に行く者達にとってはいわば目印のような者が、癒されたのである。

今回のペテロのメッセージもペンテコステの時と同じで、預言者に予め語られていたキリストが中心である。
モーセは自分のような預言者が神によって立てられる事を示し、その彼に聞き従うよう命じた。
変貌山において天から語られた言葉も、モーセでもエリヤでもなく「彼(イエス)に聞け」と言っている。
モーセ以降、全ての預言者達が語っていた事が、キリストにあって実現した。
アブラハムの子らである私達は、信仰によって不完全なからだは完全にされ、罪は拭い去られ、主の御前から安息の期間が来る。

かの癒された者は、40年もの間、不完全な体のため、美しく装飾された「美しの門」の前に20年毎日運ばれても、決してその中に入ることは出来ず、捧げ物をする事も禁じられていた。
ずっと安息できていなかったが、イエス様を信じる信仰によって安息を得た。
イエスの名によって癒され、ペテロと一緒に門を入っていったその喜びは、いかほどであっただろうか。

第7日、すなわち安息日の祝いは、私達のために残されている。(ヘブル4:9-11)
安息に入るのは信仰の故であり、安息に入れない者は福音に信仰を混ぜない故である。(ヘブル4:2-5)

この足の不自由だった者は、創造のみわざが再び完成する必要があった。
みわざの完成は、イエスを信じる信仰によって成る。

不完全さは、キリストの名によって完全にされなくてはならない。
病は、キリストの名によって癒されなくてはならない。
貧しさや不足は、キリストの名によって満たされなくてはならない。

信じて、創造のみわざを完成させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

1/29配信分に、1か月分の給料ほどのお金をなくしてしまった方についてちょっとだけ書きましたが、その後の事を聞いてみました所、その金額どころではない程の助けをいただいたそうです。
メルマガの過去の配信分をご覧になりたい方は、まぐまぐへのリンクからバックナンバーをご覧いただけます。

喪失した所は必ず満ち溢れ、攻撃された所には必ず祝福がある。
最近、結構そういう経験をしています。

礼拝説教メッセージ音声:足なえも踊る(使徒3:1-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

生まれつき足の不自由な男がいた。
彼は産まれてこの方、自分の足で立った事は無く、神殿の美しの門へ毎日運びこまれ、施し物をいただきながら暮らしていた。
律法ではこのような者に施すよう言われているし、毎日運んでくれる者もいたため、結構「稼いで」いたと思われる。
彼は40歳を越えており、長い間そうして来たため、神殿に通っている人達にとって「ああ、あの男か」と分かるような、目印のような存在だったであろう。

ある日、ペテロとヨハネが神殿に入って行くと彼に出くわし、彼は何年も何千人にも繰り返してきたように施しを求めた。
普通であれば、双方あまり意に介さず、暗黙的にお金を落とし受け取る事が多い中、この二人は「私達を見なさい」と言った。
彼は当然、何かもらえるものと思って二人を見る。
ところが彼がまず聞いた言葉は「銀や金は、私達には無い」であった。
私達を見よ、と言っておきながら、お金は無い、というのだ。
しかし彼らが提供できるものは、金銀よりもはるかに優れていた。
「ナザレのイエスの名によって」「歩きなさい」
手を取って立たせてもらうと、
すると足とくるぶしは強くされ、完全な体となり、歩き始めた。

産まれてこの方40年、自分の足で立った事が無かった或る日突然、自分の足で立ち、飛び跳ねる事が出来るようになったので、どれほど驚き、どれほど嬉しかった事だろう。
足が萎えている者は神のパンを捧げる事は出来ず(レビ21:18)、美しの門までは運んでもらえても、中に入る事は出来なかった。(2サムエル5:8)
彼はの喜びは、どれほどのものだっただろうか。

ただ座っているだけで稼いでいたかもしれないが、ラクして多く稼げる人生が幸せなものではなく、自分の足でしっかり立って働き、自分の足で礼拝に行く人生こそ、より優れた生き方である。

大勢の人達は彼を長らく見て知っているので、彼が癒された時、大勢が詰め掛けて来て大騒ぎになり、ペテロ達をあたかも聖者であるかのような目で見つめていた。
ペテロは「なぜこの事について驚くのか?」と言った。
、、、いや、十分驚いて然るべきである。
生まれつき足の萎えている者で40歳過ぎた人が突然、完全な体になったからだ。
しかし、こんな事で驚くなかれ、これからもっと凄い事を語るぞ、という意味で言ったのである。
生まれつきの足の萎えている者が完全に癒されるよりも、遥かに凄い話とは、ナザレ人イエスの話である。

ペテロは言った。
私達の信仰深さや力がこの人を癒したのではない。
あなたたちが拒んだ、あのイエスの名前を信じる信仰が、この人の足を強くし、完全なからだにしたのである。
イエス様というお方こそ、この癒しの奇跡よりもはるかに重要である。
なぜならイエスこそ、癒しの源、必要の満たしの源だから。。。

ペテロとヨハネは「イエスの名によって歩きなさい」と言って手を取っただけで、この人が癒されたのは、彼にイエス様の名前を信じる信仰があったからであり、ペテロやヨハネの信心や力ではなく彼の信仰による。
ベテスダの池で38年寝込んでいた者が癒されたのも、イエスの「寝床を取って歩きなさい」という言葉に従い、その通り実行したからである。

病人にとって、38年や40年という年月は絶望的に長い。
生活も、価値観も、固まってしまっていたかもしれない。
しかしイエスの名は、人間の何十年という時間や価値観よりも、はるかに力強い。
どんなに固まってしまった価値観や、固まってしまった体が動かないようであっても、義の太陽なるイエスの名の故に行動を起こす者は、彼のいやしの羽の中で癒され、牛舎の子牛のように飛び跳ね喜ぶのである。

この力あるお方の名を信じ、固まってしまった価値観や、固まってしまった体を癒していただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:初代教会の状況(使徒2:42-47):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステの日、ペテロのメッセージによって3千人ばかりの人たちが交わりに加えられた。
彼ら初代教会の者達は何に熱心であったか、42節と46節に記されている。

1、使徒達の教え
使徒達の教えとは、彼らの口を通して語られる御言葉であり、新約聖書の大部分はそれによって成り立っている。
彼らは日々、御言葉に対して熱心だった。

2、交わり
交わり(コイノニア)の真ん中にはイエスキリストがいて下さる故、その集まりは実に麗しく楽しいものである。
信じている者たちお互いの不足の補い合いといった機能的な事ばかりでなく、主に在って心をもひとつとする行為である。

3、パン裂き
彼らは、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にしていた。
たかが食事、されど食事、わざわざ書かれてあるからには「共に食す」のは重要である。
ルカは聖餐も同等の意味で使っており、エルサレム教会においては聖餐も愛さんも同じであったようである。

4、祈り
彼らは日々熱心に祈っていたため、奇跡としるしが行われ、それによって、皆の者に恐れの念が生じた。

5、毎日一致して神殿に通い、賛美していた
神殿に行くのは普通、安息日か年毎の祭りの時のみであるが、彼らは熱心に、毎日通い賛美していたのは、主を身近に感じていたからであり、主を愛していたからである。
主の交わりは何も神殿、教会でしかできないというものではなく、各々の家々でパンを裂き、食事を共にし、礼拝ができるのである。


信じた者たちは一切の持ち物を共有し、貧しい者が誰一人いなかった。
共有していたのは物質的な物に限らず、精神的な面でも同じで、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と共に泣いていた。
それは一人の喜びが全体の喜び、一人の悲しみが全体の悲しみであり、コイノニヤの一人ひとりこそ、キリストの各器官だからである。

彼らはそのような毎日を送っていたため、全ての民に好意を持たれていた。
この集団が周囲から孤立している集団ではなかったのは、当然、彼らが出て行って好意をもたれる事をしたからである。
私達の交わりは、自分たちだけが清らかであったり、周りから断絶するものではない。

人々をこの交わりに加えたいから伝道を頑張る、というのは、順番違いである。
主が麗しいから、自然と交わりやパン裂き等を為し、主が真ん中におられる魅力につかれた者達がコイノニヤに加えられるである。
それはまさに、主がなさる事である。(47節)

初代教会の者達がしていたように、御言葉、交わり、パン裂き、祈り、礼拝への集い、賛美を為し、主ご自身が働かれるのをたくさん見るみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

雪です

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-2-15 16:20

昨晩、横浜は結構雪が降り、積もっていました。

それを見たある姉妹は、皆が早天礼拝に妨げ無く来れるために、止みますように、と祈っていました。

私は、雪が積もっているのを皆が見ても、礼拝に行く心が妨げられず、かえって隠れていた思いと信仰が実体化する機会となるように、と祈りました。

結局、雪は雨に変わり、道路の雪は大方溶け、いつものメンバーは皆、休まずに来て下さいました。

寒く雨で来づらい中、礼拝に対する思いと信仰を実体化して見せた彼らを、主が豊かに報いて下さいますように

礼拝説教メッセージ音声:悔い改め、聖霊をいただく(使徒2:36-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペテロのメッセージは、神がキリストとし主とされたイエス様を、「あなたたちが十字架につけた」と宣言して終わる。
そこにいた人達は、色々な国出身で、イエス様が十字架に架かったその時、むしろイスラエルにいなかった者の方が多かったはずである。
それなのに何故「あなた達が十字架につけた」と言ったのか。
イエス様を十字架につけた者とは、イエス様が王様になって欲しくない者、自分の好き勝手に生きたいと願う者の事であり、それは私達にも当てはまる。
3千人ほどの者達はそのメッセージで心抉られ、「どうしたら良いか」とペテロ達に聞いた時、与えられた言葉は「悔い改めなさい」であった。

「悔い改め」の原語「メタノイヤー」は人生を180度方向転換する「回心」の意味だが、ルカやマタイがこの言葉を使う場合、「悔いる」というニュアンスを同時に込める事も

多い。
イエス様の十字架を聞く時、心抉られ、悔いる体験は、深く感覚として主を知るために貴重な経験である。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、それは今までの自分を死に明け渡し、キリストへと道を整える役割を果たしていた。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、新しいいのちに生まれ変わり、イエス様と同様、死に束縛される事は無く、罪の赦しに至り、そして賜物として聖霊をいただくバプ

テスマである。

ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」と薦めた。
生まれながらの人として、この世の霊から邪悪な影響を受けていた者達が、その束縛から解放され、イエス様の愛のご支配へと移る事が出来るのだ。
この古い創造は悪しき者の手に委ねられており、全ての富も悪しき者の支配下にあるが、新しく生まれ変わった者は、新しいいのちの君なるキリストの支配下に置かれる為、

悪しき者は手を触れる事ができない。

さて、この時3千人が悔い改めたが、必ずしもこのように大成功するとは限らず、悔い改めとは逆の反応を示す者達もいる。(使徒4:16,17)
ステパノは、素晴らしいメッセージをしたにもかかわらず、誰一人、悔い改めに至らないどころか、憎悪し、ステパノは命を奪われる事になる。
しかし、彼は御使いのように輝いた表情で、自分に向かって石を投げる群集を執り成しつつ、眠りに入った。
そのように、状況とは全く裏腹の安らかな眠りに入ったのは、聖霊に満たされていた故である。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、賜物として聖霊をいただく事ができ、死の恐怖や他人の罪からも解放されるのである。

聖霊に導かれる私達は、どのような人生となるのか、どのような最後を遂げるのかは心配するには及ばない。
状況如何に関わらず、安らかに導かれ、安らかに眠りに入るからである。
私達は頑なになる者ではなく、打ち砕かれ、悔い改め、信じる者としてキリストの内にバプテスマされ(浸し込まれ)、邪悪な世代から救い出され、聖霊を頂いて安らかに導

かれていく者達である。
そのような皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:死に束縛されない主(使徒2:25-35):右クリックで保存

韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステのペテロ説教の前半は、起きている出来事についてヨエル書から説き明かし、そして今日の箇所である説教後半部分は、イエスは死に束縛されない、永遠に生きておられるお方である事を、詩篇を元に説き明かしている。

主は天に上げられて以来、神様の右の座に着座された。
ダビデはいつも主を目の前に置いていたため、心は楽しみ、喜び、希望のうちに生きていた。
彼は預言者であったため、彼の子孫をとこしえに王座に着かせる事を示されていた。
私たちも同じように、既に挙げられ御父の右の座から統べ治めておられる主の守りの内に、楽しみ、喜び、希望の内に生きていくのである。

「主はわが主に言われた、『私の右に座せ、私がお前の敵をお前の足下に据えるまで』」(使徒2:34)
この箇所は詩篇110編からの引用である。

なぜダビデは、その子孫であるキリストを主と呼んでいるか。
それはキリストこそダビデよりはるかに優れて偉大な王であり、メルギゼデクに等しい永遠の祭司であり、死に束縛されない、とこしえに生きておられるお方だからである。

キリストは敵であるサタンも、死をも、永遠に足の下に踏みつける事になる。
ダビデは死に、私たちもいずれ第一の死が訪れるが、キリストは死とハデスを滅ぼし、硫黄の燃える池に投げ込まれる。
これが第2の死であるが、キリストにある私たちには、第2の死はむしろ救いの時である。
信仰の子孫である私たちも、ダビデやキリストとともに王座に着座し、とこしえに統べ治めるのである。

ペテロは福音を告げ知らせる者となり、それを聞いた者達はそれを世界中に告げ知らせ、そして後には、私たちにも届いた。
福音とは、勝利のよき知らせである。
何に対しての勝利か?
それは死に対して、サタンに対してである。
私たちも、死に対し、サタンに対しての勝利を告げ知らせる者達である。

ペテロように勝利の良き知らせを伝え、死に、サタンに勝利した者として相応しく、多くの分捕りをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

念願のノートPCを買いました。

ThinkPadで赤いデザインが気に入っています。

かつてIBMに5年ほど出向していましたが、IBM製品は確かに頑強でしたね。

ノートPCをハイヒールで踏んでも壊れなかったというエピソードもあります。(でも踏まないで下さい。)

レノボになった今はどうか分かりませんけれど、、、ThinkPADを選んだ理由はそれです。


これでどこからでもメッセージ準備をしたりコンテンツを更新したりできます。

礼拝説教メッセージ音声 御心とは(ヨハネ6:26-35) :右クリックで保存

受験や就職、結婚など、人生の節目節目でクリスチャンは御心を仰ぐ。
今、自分が最も気になっているこの事は、はたして成功するだろうか失敗するだろうか、あの道を進むべきか、それともこの道にするべきか、一体何が御心なのだろうか、と。
一体、御心とは何だろうか。

目先の事について、何が御心であるのか分からない時は、何であれ、ベストを尽すべきである。
例えパンを川に流すような事であっても後に見出すかもしれないし、風向きを気にすれば種は蒔けない。
「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」(コヘレト(伝道者)11:1-6)
御心を探るとは、口を開けてじっと木の下で待っている事ではなく、積極的に求め行動するべきものである。

主が求める御心については、御言葉に明快に書いてある。
実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。(1テサロニケ4:3)
「聖なる者となる」とはἁγιασμός(ハギーアスモス)、清める、不純物を除く、という意味がある。

また、主イエス様が5千人以上にパンを与える奇跡を行った後、イエスを追いかけて来た群集が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いた時、彼は答えて言われた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:29,30)

また主は、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39,40)と言われた。
人が「神の業を行うにはどうすれば良いか」と聞く時はきっと、大いなる事、難しそうな事を考えるかもしれないが、答えは実にシンプルで、「神がお遣わしになった者を信じること」である。

以上の事から、主の御心とは「私達が聖なる者となる事」で、そのためには、「神がお遣わしになった者を信じること」、その結果、信じる者が皆永遠の命を得、終りの日に復活する事が、御心である。
そういうわけで、人生の節目節目において進路を仰ぐ際、どちらがより聖なる者となれる道か、どちらがより清められる道か、どちらがより不純物を除かれる道か、どちらが主の栄光となり、人がよりいのちを得る道であるか、という基準で見れば、御心に添った道が見えてくる。

しかし神様抜きで生きてきた人は、御心の道が示されると、その道は損をするような気がするものである。
聖なる道や清い道、不純物がより除かれる道というのは分かるのだけれど、イコール、損したり貧乏になったり、不名誉になったりすると思うもので、だから、自分で考え出した道を神様に示し「この通り進ませて下さい」という祈りをしては、答えられずに失敗を繰り返すクリスチャンは多い。
主に委ね切れず、自分が時折茶々を入れるような、中途半端なクリスチャンは、苦労が尽きないものである。

御心どおり行っていれば、実は良い事づくしなのだ。我々は、損な人生から脱出するべきである。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-13)

しかし主の御言葉は、天からの雨が必ず地を潤して物を生えさせ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与えるように、決して空振りする事は無く、私達は喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。

例えパンを水の上に投げるような事であっても、後の日にそれを見出す。
(コヘレト11.1)

私達には何が最善か分からないが、全てをご存知であるお方に、委ねていれば良い。(詩篇139:2-18)

私達が座るのも立つのも知り、遠くから私達の計らいを悟っておられ、暗闇に隠れた所も、私達が胎児であった時さえも、見つめておられた主に、一切を明け渡して、ラクになる皆さんでありますように!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

金曜夜の祈祷会で「御心って何なのか、詳しく知りたい」という要望がありました。

御心という言葉をクリスチャンは良く使いますが、いざ「御心って何なの?」と聞かれると、結構分かりづらいものですね。
そういうわけで、今回、御心についてのメッセージを準備させていただきました。

尚、準備した内容と,語った内容は結構違います。(御言葉はそのまま同じです)

準備した内容は週報の説教概要を、語った内容は以下メール本文をご覧下さい。
週報PDF(パソコンで見れます):
http://voice.of.christ.yokohama/media/2011/WeeklyNews/Syuho/110213s_mikokorotoha.pdf

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