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礼拝説教メッセージ音声:定められた歩みで(ヨハネ21:18-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ペテロは3度、主イエス様に「ほれこんでいる(フィレオー)」と告白し、主はペテロに「私の羊たちの世話をしなさい」と使命を託した。
「アーメン、アーメン、あなたに言う。あなたは若かった頃は、〔自分で〕あなた自身の帯を締めていたし、自分の望むところを歩いていた。だが、年をとれば、あなたは両手を拡げ〔るだけで〕、ほかの人があなたの帯を締め、あなたの望まないところへ連れて行くことになるだろう」(18節 岩波訳)
イエス様にほれこんで、ついて行きたいと思う働き人は、まさしくこの姿になってゆく。
信仰が若ければ若いほど、自分のやりたい事をしたく思い、自分の望む所へ行きたいと思うが、信仰が成熟すればするほど、自分は単に両手を広げるだけで、あとは主の導かれるまま、聖霊にうながされるままになって行く。
自分の望む事ではなく主の望む事に委ねれば委ねるほど、また、生まれながらの魂が死ねば死ぬほど、主に栄光を帰する事となって行くのだ。
主がペテロに「私について来なさい」と言ったとおり、私達も従うべきである。
ペテロは、ヨハネはどうか、と主に尋ねた。
人はどうしても、他人の事も気になるもので、事実、他の弟子達も、ヨハネは死なない、と、イエス様の言葉を誤解して噂を立てるほどだった。
しかし、人がどうこう思うかは関係ないし、主がどう"願って"いるかさえも、関係ない。(22節)
ただ御父が定められた通りの御心が成っていく。
例え主が死なない事を"願って"いたとしても、死ぬ事が定められている人は、死ぬのであり、それぞれに量り与えられた運命を両手を広げて受け入れ、御霊の帯に委ね、導かれるまま生きていけば良いのである。
ある者は平穏な人生、ある者は病気、ある者は牢、ある者は殉教が定められているかもしれないが、自分の運命も、他人の事も心配するには及ばない。
各々にしか背負う事の出来ない使命が量られ、道のりを一日一日を感謝しつつ、聖霊に導かれながら歩んで行くなら、安らかに歩んで行く事が出来る。
それは自分の魂の望み通りではないが、単に両手を広げて委ねているだけのラクな生き方であり、委ねれば委ねるほどその生き方が麗しく、甘くなって行き、後には神に栄光を帰する形で御国に凱旋する事が出来る。
主の証しは真実であり、これらの事を書き記したのはこれを読んだ者が主の交わりに入るためだ、とヨハネは書簡に書いた。
ヨハネが書物を持ってイエスを証ししたように、一人一人もイエス様の事を証するべきである。
イエス様のわざが一つ一つ書き記されるとすれば、その書き記されるはずの書物は、この世さえも収めきれないだろう、とヨハネは記したが、決して誇大表現ではない。
この世はこのお方によって創られ、このお方によって成り立っているからである。
世の中は広く、福音によって埋まっていない所がまだまだ多い。
だから惜しみなく、安心して福音を広める皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
早天礼拝で主に使う聖書は「岩波書店新約聖書翻訳委員会訳」(略して岩波訳)です。 これはリベラルな方々が訳したものですが、原語に徹底して忠実で、日本語的にヘンに聞こえるほどです。 しかし、神学的な意訳や、聞こえの良い人工装飾も混ぜ込んでいないため、ロゴスとしての言葉を説明する際に、非常に役立っています。 今日の箇所は、その岩波訳の威力が発揮されている所です。 ちなみに主日礼拝や、早天で旧約を引用する際は、新共同約を使っています。 私が30年来使って一番馴染んでいる聖書は新改訳ですが、著作権の関係で公には使用しません。
礼拝説教メッセージ音声:主は知っておられる(ヨハネ21:15-17):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
※ 聖書は岩波書店新約聖書翻訳委員会訳を使っています。
ペテロはイエス様の所に、わざわざ服を着てから湖に飛び込み、イエス様のところへ泳いで行った。
イエス様が弟子達に暖かい炭火焼きの魚とパンでもてなし、満腹させ、一息つかせた後、シモン・ペテロに個人的に関わられた。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人達にまさって私を愛しているか」
ヨハネには「人」という意味があり、またシモンには「聞く」という意味が込められている。
すなわち「ヨハネの子シモン」は「人の子よ、聞け」という意味にも取る事ができる。
また、このイエス様の「愛しているか」という言葉には「アガペー」という完全な愛を表す言葉が使われている。
イエス様は、人間の子に聞かれる。
完全な愛し尽くす愛は、あなたにはあるのか?
ペテロは「はい、主よ」と言ったものの、少しうなだれた。
何日か前、イエス様の事を3度も「知らない」と公に言い、呪いをかけてまで誓ったから。
そこでペテロは「アガペー」の言葉を変え
「私があなたにほれこんでいること、それはあなたにはわかっています。」
と言った。
「ほれこんでいる」とはギリシア語で「フィレオー」、家族や友人など親しむ愛を表す言葉である。
つまり完全では無いけれどもイエス様を親っている事は、あなたはご存知ですよね、と答えるしか無かったのである。
そこでイエス様は「小羊たちの世話をしなさい」と言われた。
世話をするとは、食べさせ養うという意味である。
再びイエス様は、全く同じ質問をする。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人達にまさって私を愛しているか」
シモンからすれば、あまり質問されたくない事だったが、再び質問された。
シモンはうなだれつつも、再び同じ答えを答えるしか無い。
私がフィレオーしている事は、あなたはご存知である、と。
所詮、人間の子には、どんなに叩いてもアガペーの愛は出てこない事を思い知った事だろう。
イエス様は「私の羊達を牧しなさい」と言われた。
「牧す」とは「世話をする」よりも大きな意味があり、食べさせ養うだけでなく、訓戒しつつ面倒を見る意味がある。
さらに大きなチャレンジを受けたのである。
イエス様は再び質問する。
「ヨハネの子シモン、、、」
ペテロには、自分には愛が無い事は分かりきっている。
さらに心がしなえただろう。
しかし主の次の言葉は
「あなたはわたしに、ほれこんでいるのか?」
つまり、私を完全な愛では無いけれど、慕っているのか、と、ペテロの不完全な愛のレベルに降りてこられた。
ペテロに出来ない「アガペー」を3回要求する事は無く、さらに大きなチャレンジを与える事もしなかった。
あたかも、小さい子供が悪い事をして泣こうとしている所へ、大人がしゃがんみ、子供と同じ目線に来て、なだめてくれるかのように、ペテロに接して下さった。
彼の不完全な愛のレベルに降りてきて、同情するかのように、「あなたはフィレオーなのか」と尋ねて来てくださった。
ペテロは3度目の言葉がフィレオーの言葉を使ってきたので、悲しくなり、
「あなたは私のすべてがわかっています」
と言った。
ペテロの最初の2回のイエス様への返答で、あなたは私を「わかっている」と言ったが、この「わかっている」の原語は”オイダー”、すなわち、主観的に知っているという意味である。
例えば「女は地図が読めない、男は話を聞かない」事を、私達も少しイライラな感覚と共に「わかっている」。
そして3回目のペテロの返答には、ペテロは”ギノスコー”すなわち「客観的に知っている」という意味で、イエスに訴えたのだ。
女は地図が読めない、男は話を聞かない事は、脳の構造の違いであり、男も女もそう出来ている、という事を、学者達は客観的に「知っている」。
ペテロはイエス様に、人の子には完全な愛なぞ元々無い、いつでもまた裏切るかもしれないあやふやな存在として成り立っている事を、あなたは「知っている」でしょう?
そう訴えたのだ。
主は私達の事を全てご存知で、どこまでが大丈夫で、どこまでが無理なのかを知っている。
「あなたを愛す事がきます」「あなたを裏切りません」などと言っているようでは、まだまだなのだ。
人間の頑張りや自我の強さは、主は喜ばないし、満足もしない。
なぜなら、完全な愛は無く、従いつくす事は出来ないからである。
私達もペテロのように、主の前に
「あなたは私がすぐに罪に走ってしまう事を感覚として知っておりますし、また、私達の成り立ちとして罪があり完全な愛は無い事を、客観的にも知っておられます。」
と訴えるしか無い。
傷ついた道のあるかないかをイエス様に見ていただき、全ての面でケアしていただけるみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:繊細かつ圧倒的に(ヨハネ21:1-14):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
弟子達にとっての福音の働きの原点は、イエス様の言葉どおり行動したら、自分の経験や努力などあざ笑うかのような大漁であった出来事と、「人間を獲る漁師にしてあげよう」というイエス様の言葉であった。
十字架の復活の後のイエス様から、息を吹きかけられ、聖霊を受け、権威が与えられ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」とイエス様に言われていた。
しかしそのうち彼らが始めたのは、イエス様と出会う前にしていた仕事、「漁」であった。
漁に出た日、元漁師が少なくとも三人いたのに、夜通し働いても何も獲れなかった。
そんな時、イエス様は現れ、声をかけて下さった。
「幼子達よ、パンと一緒に食べるさかなが無いのだろう。」
この「さかな」は、原語的にはパンと一緒に食べる副食物の事である。
イエス様はパンだけを食べるには口が寂しいから、漁をしているのだろう、と声をかけ、弟子達はそれがイエス様かどうか知らないまま「ええ。」と答える。
イエス様は「舟の右側に網をおろしなさい」と言い、その言葉通りに弟子達がすると、網もやぶれんばかりの多くの魚がかかった。
弟子達は、彼らの福音の働きの原点を思い出し、そしてその声の主は主だと気付いた。
この場面においてイエス様の示された、ご自身のご性質とは。
「人が何年もかけて培ってきたプロフェッショナリティを遥かに越える力を静かに示し、生活に必要なものを溢れるばかりに与えてくださる」という性質である。
彼らが漁をしていた理由は、単にパンに添えるわずかな魚がその時欲しかっただけかもしれないし、あるいは、本格的に元の職業に戻ろうと、プロとして漁をしていたのか、分からない。
どちらにせよ、彼らが御声に従って引き揚げたのは、153匹の大きな魚という圧倒的な結果であり、それでも網は破けず、船も沈まなかった。
復活の後のイエス様の現れ方は直接的な言葉ではなく、静かに、繊細に、ご自身のご性質を現される。
主はかつて、5千人を満たした時、何籠パンが余ったか、4千人を満たした時、何籠パンが余ったかを思い出して見よ、日々食べるものについては心配しなくても良い、と言われた。
この湖の場面においても、「わたしがイエスだ」とか「なぜ人間を獲る漁師ではなく魚を獲る漁師をしているのだ」となじる事はされなかった。
春から初夏にかけての寒い夜、一晩中網を打っても一匹も取れなかった状態だった彼らを、イエス様は暖かい炭火をおこし、パンと魚を焼いて、こおばしい香りを漂わせて迎えていた。
主は「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われ、主のアドバイスに従って彼らが獲る事の出来た魚を用い、焼かれた。
主のこの一連の振る舞いは、どんなに心がほぐれる事だろう。
主はこのように、お腹を満たし、肉的な必要を満たし、心を開かせて下さる。
生活の必要は圧倒的に満たされ、その上で福音の仕事が存分にできる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:
第一礼拝全体(日本語) メッセージ:バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存
第三礼拝メッセージ説教(日本語・韓国語)バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要
ベルシャツァルがバビロン最後の王だった。
王は宴会を開き、宴もたけなわの時、聖なる神殿にあった金銀の器を用いて、妾たちと酒を飲もうとした。
本来、聖なる場所にあって聖なる事に用いられるべき器が、悪い王とその取り巻きの娯楽のために使われ、さらに彼らは金や銀、鉄など、色々な材料で作られている神々を褒め称えた。(ダニエル5:1-4)
この聖なる器は、今の終りの時代においては、私達キリスト者になぞらえる事ができる。
黙示録17章において、バビロンを象徴する大淫婦が登場し、彼女は獣にまたがり、杯に聖徒達の血を注いで酔いしれる情景が出てくる。
バビロンにおける神々は、金や銀など黙示録18:11-13 における様々な商品が取引されて築き上げられる富であり、やり取りされる商品には人間さえも含まれているが、いずれ大淫婦は滅ぼされ、取り巻きの商人達も富を失って泣く日が来る。
ダニエルの時代、聖なる器物がはずかしめを受けているその時、超自然的な指が現れ、堕落した世にあって、まことの神に忠実に仕えたダニエルにしか読むことの出来ない字が記された。(ダニエル5:5-9)
その字の中の「メネ」は数えるという意味で、「テケル」は量りにかけられるという意味である。
私達は人生の歩みを数えられ、神様に量られたいのちの時間を生かされている。
いのちの量りが満ちた時、神様の目方に足りるか足りないかを、査定される。
ベルシャツァル王は量られた結果、足りないと見なされ、パルシン、すなわち王国は分裂し引き裂かれてしまい、彼はその夜のうちに殺されてしまい、同じ日にダニエルには偉大な位が与えられた。
今の時代は、有形無形の様々なものが売り買いの道具としてやり取りされ、人の労働時間は切り売りされ、一部の金持ち達は、恋愛も忠誠心も全て金で買えると思っているような、人間が商品として扱われている時代である。
ノアの洪水やカナンの聖絶も、バビロンの滅亡も、人間の高慢がこのように、極みに達した時に来た。
邪悪な者が、聖なる者を蹂躙する期間は、いつまでも続かず、時が量られている。
「メネ、メネ・・・」は、高慢な者や時代の王だけに来る言葉ではなく、全ての人達に、あてはまる事である。
もし私達が数えられ、量られたら、絶対に足りず、裁きの座において裂かれるしか無い。
しかし、イエス様が我々の代わりに、罪人に数えられ(メネ)、邪悪な者に銀で量られ(テケル)、十字架上で裂かれ(パルシン)て下さったから、その裂かれた肉体を食べた私達は、まことの命を得る事ができた。
私達は元々、命の木から分離していたが、イエス様の裂かれた肉体を通していのちの木を得る事ができた。
主の内にいる私達は、決していのちの木から分離される事は無く、裁かれる事もない。
しかし、信じない神に逆らう悪の大盤振る舞いの人達には、メネ、メネは、そのままの言葉であり、王は、その通りの死を遂げた。
私達は、ベルシャツァル王になり得るし、王の取り巻き商人にもなり得るし、ダニエルにもなり得る。
裁きの日は思いがけない時に来て、主イエスの名を持っていない者は、裁きにあう。
主にある者でも、いつまでも主は来ないと思って、聖徒達を打ち叩いたり、酒を飲んだりして、どんちゃん騒ぎをしているようなら、思いがけない時に主は来られ、そのような者達を厳しく罰する。(ルカ12:42-46)
終りのしるしが現れている今、私達は常に目を覚まし、私達の身代わりにメネ、テケル、パルシンされて下さったキリストにしっかり留まるべきである。
主が戸口に近づいている事をますます意識して、ダニエルのように忠実に日々を過ごし、かの時には栄光を受け、バビロン王の滅びを見る皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
昨晩(今朝)はサッカーのアジア杯決勝を、教会員の経営しているブティックのテレビで見ていました。 延長の後半で決めましたね! 見終わった後も、礼拝準備をしていたので、ちょっと今眠いです。
教会のある方が、1か月分の給料ほどのお金をなくしてしまいました。 しかしその方は、他の人を損させる形でなくさなかった事、祝福を受ける前はこのような試練を神様は許される、という事で、先取りの感謝を捧げていました。 今は何事も無かったように、キレイさっぱりしています。 ・・・間違いなく祝福を受けるでしょうね。 祝福を受けたら、可能な範囲で分かち合いたいと思います。
礼拝説教メッセージ音声:大きすぎて理解できない恵み(ヘブル2:1-4):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
太陽は地球に比べるとはるかに大きく、恒星は太陽に比べると遥かに大きい。
また、地球から恒星までの距離は、1秒で地球を7周半するほど速い光が行くにしても、何百年もかかる。
詩篇8編によると、月や星などの天は指のわざと書かれてあるが、星を見るに、私達人間がいかにちっぽけであり、宇宙がいかに壮大であるか想像すらできないほどである。
しかし、宇宙広しといえども、御子を使わされたのはちっぽけな地球の、ちっぽけな人間に対してであり、神の似姿として創られたのも、宇宙のどの種族でもなく、地球の人間のみである。
私達の身代わりとなって血を流された御子は、万物を創り、万物はその方のために存在し、万物はそのお方によって成り立っているほどのお方である。
考えれば考えるほど大きな救いであるが、私達は大きな事よりも小さい事にやっきになりがちである。
主は大いなるお方であるのに対し、我々人間は蟻よりも小さな存在に過ぎない。
にもかかわらず、主はへりくだり、高き所から降りてこられ、蟻のような人間となって共に生活し、人間のために命を投げ差された。
私達が主に仕えるこの勤めは、いかに尊厳に満ちたものであろう。
それ故、救いの福音は注意して聞くべきであり無頓着であってはならない。
しかしながら、人は実に小さくどうでも良い事に心捕らわれがちである。
ここ関内近辺の道路は一方通行が多く、道も狭いため、車を運転する者にとっては非常にやりづらい。
路面はどこも駐車禁止で、少しでも車を路駐するとすぐに見回りが来てしまうし、駐車料金も高いため、車を停めにも一苦労である。
道路の世界で運転する者は道路での規律を、会社で働く者は会社が望む事を、当たり前のように意識するものだ。
道路の罰金は細かく気にするが、この世と来るべき世に関する法や、その時払うべき罰金、この世もあの世も創られた方の望む事を意識する事は、実に稀である。
契約書に自分と相手の名前を書いて判子を押した紙は、効力と威厳がある。
御言葉は世を創られた主の息吹が込められており、福音の言葉には主の血による判子が押してある。
どんなに尊い契約書であろうか。
しかし、私達はこの大いなる救いに対して、無頓着なものである。
なぜか。
それは、罰則を受ける人や、罰金を払っている人は巷でよく見るが、永遠の罰を受けている者はこの世において見る事が無いからである。
それは、主が大いなる恵みによって、私達の罪を見逃しておられ、立ち返る事を待っておられるからである。
しかし、私達がこの世で好き放題できなくなり、この世を取り締まる者はいずれ来る。
福音をないがしろにしたまま空き放題やっていたとしても、生きている間にその故に罰せられる事は無いが、捕まってしまう日はいずれ来る。
その時の罰はいかなるものであろうか。
天地万物の源であり作られた方が、その血をもって買い取って下さった証文が、聖書であり福音である。
世の人はあたかも神様がいないかのように生活しているが、キリスト者は、人生のある場面で主と出会った。
キリストの証文の効力に与かった我々は、この世における保障だけでなく、来るべき世の保障も与えられている。
そして、罪の赦しという免罪と、永遠のいのちという特典をいただける福音を、委ねられている。
神様から特別扱いを受けた私達は、日々、その尊い福音をないがしろにしないようにするべきである。
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:信じる者になりなさい(ヨハネ20:24-29):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有
主イエス様が蘇られ、弟子達の所に現れた時、トマスだけが、何かしらの用事でそこにおらず、トマスが帰って来た時、弟子達は「私達は主を見た」とトマスに言った。
主がリアルに現れ、「シャローム」と言われ、息を吹きかけられた次第を、きっと彼に話した事だろう。
もし、兄弟姉妹の交わりから離れて何か用事をしている間に主が現れ、すばらしい事をなされた、と、兄弟姉妹から言われたとしたら、私達はどう思うだろうか。
強烈な「置いてけぼり感」、「取り残された感」にとらわれるだろう。
トマスは、指をイエス様の手に突っ込み、脇腹に入れてみない限り信じない、と言った。
他の10人も、女達も「見た」と言っているのに、自分だけ決定的なその場にいなかった。
きっとトマスは、ああ言ったものの、実はうすうす信じていたのではなかろうか。
次の主日、トマスもその場にいる時、イエス様が現れ、全く同じようにシャローム(あなた方に平和)と言われた。
8日後と書いてあるが、当時ユダヤでは該当日も含めてカウントするため、正確には7日後の主日である。
私達は日曜、主日に礼拝しているが、主が蘇られた日、主が現れた日を記念して集まるのだ。
トマスはこの時、その場に立ち会う事が出来た。
トマスが1週間前「信じない」と言った時、その場に主はいなかったはずなのに、なぜか主は、トマスの言った言葉を知っていて、覚えていた。
主は、私達が不信仰な言葉を言った時も、主はいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、ちゃんと共におられて、私達のその時の言葉を聴き、私達の感じたその時の感じも、全て知っておられるのだ。
トマスはイエス様の手や脇腹に指を突き刺してみなければ信じないと言った。
言ってみれば、再びイエス様を刺し貫くかのような言葉を言ったのである。
私達も「置いてけぼり感」から思わずイエス様を突き刺すかのような言葉を口走ってしまうが、「あなたの指をここに入れなさい」と言って手や脇腹を示されるのである。
肉と骨を持ったイエス様が実際に目の前に迫って来て、しかも穴の開いた手を差し伸べて「入れてごらん」と言ったら、私達はそのような事が出来るだろうか。
頑なな自分を悔い、主の愛に涙しつつ「私の主、私の神」と言う他無い。
「信じないままでいるのでなく、信じる者になりなさい」
信じない者とは、イエス様を突き刺す者である。
それでも、信じない人の前に現れ、傷のある手を差し伸べ、
「信じないのか?
指を突き刺して信じるのなら、そうしてごらん」
と言って下さるのである。
復活の後のイエス様の現れ方は、繊細に、強制的ではなく、愛によって、繊細な行いによって、私達の頑なな心を溶かして下さり、私達はその愛によって降参するしかないのだ。
十字架の後の時代を生きている私達は、イエス様を見てはいないが、信じている。
私達も、当時の弟子達のように、イエス様を見てみたいだろうか?
当時の弟子達よりも私達は幸いである。なぜなら、見ないで信じているからである。
世にあっては艱難があり、目に見えるもの、手でさわれるものに頼りたいものだが、そのような場合でも目に見えないイエス様に頼る事は、天において非常に栄誉のある事であり、見えなくても信じる信仰は、朽ちてゆく金よりも尊いのだ。(1ペテロ1:6-9)
信じない者ではなく、信じる皆さんでありますように、
主に喜ばれ、顔と顔を合わせて主とまみえる日、主から「よくやった」と栄誉を頂ける皆さんでありますように、
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:世のものならぬ平和(ヨハネ20:19-23,マルコ16:14):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有
復活の主イエス様が弟子達の所に現れた場面は、マルコ、ルカにおいては弟子達の心の頑なさをまずお叱りになられた。
そしてご自分の手と足の傷跡を示され、肉と骨がある事、霊ではない事をはっきり示し、魚を皆の面前で食された。
これによってイエスの復活は、霊的な形の無い体ではなく、肉や骨のある肉体のよみがえりである事が分かる。
イエスは復活の初穂であるので、それに続く私達も、時間や空間、死に束縛されない、栄光の体をいただく事が出来るのである。
ヨハネの並行箇所では、叱りの言葉は記していないが、一致しているのは主の第一声が「あなたがたに平和」という点である。
イエス様は確かに叱られたかもしれないが、ヨハネにとってはそれは恐い叱り言葉ではなく、愛の篭った言葉として印象に残ったのだろう。
主は、閉ざした部屋の中に、また、恐れや不安、疑いによって閉ざしてしまった私達の心の内に入って来て下さり「平和があるように」「なぜ疑うのか」と愛を込めて言って下さる。
そして息を吹きかけ、聖霊を与えてくださり、その聖霊を受けた者は世ならぬ平安が与えられるばかりでなく、天においても地においても権威が与えられる。
主は予め、聖霊を与えて下さる事を約束されていた。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:26-27)
世においては恐れや不安、納得できない疑問もあるかもしれないが、私達が主から息を吹きかけられ、聖霊が与えられる時、主が話されたことばを、また、主のご性質を思い起こさせてくださる。
恐れや不安や疑問は主に委ねれば良いのであり、委ねる時、助け主聖霊が与えられ、世のものでない平和に包まれるのである。
弟子達が戸を閉ざしていた時、とても平和とは程遠い状況であったが、それでも主は中に入って来て「平和があるように」と声をかけて下さり、不安を息吹によって吹き飛ばして下さった。
世の平安は、目に見える、あるいは手で触れるような後ろ盾がなければならないものだが、主の平安は、たとえ後ろ盾は見えずとも、決して揺るがされるものでも、なくなるようなものでもない。
世においては艱難があるが、主は世に打ち勝った。(16:33)
扉を一歩外に出れば危険があったかもしれないが、主は扉の外においてもセキュリティも確保して下さるのである。
心の内に、不安や恐れ、疑いがあるのであれば、主にゆだねれば良い。
主ご自身から息を吹きかけていただいて、世のものではない平安が与えられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!