メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
ああエルサレム(マルコ10:32-34) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスがまっすぐエルサレムを目指すさまに、弟子達は驚き恐れた。
彼はこれから鞭打たれ唾かけられ、十字架に架かり死ぬ、という肉体的苦難だけではなく、世の始まる以前から御父の懐におられたその御父から捨てられ呪われるという、耐え難い霊的苦難を受けるのだ。
それだけでなく、彼はエルサレムを、呻いて涙を流すほど愛しておられ、雌鳥が翼の陰に集めるように、幾度も預言者を遣わして救い出そうとされたのに、その預言者達を拒否し、殺して来た。
そして、これからご自身を殺そうとしている都に、これから行こうとしているのである。
弟子達といえば、いかに高い地位に上ろうかと考えてばかりである。
この時の主は、どれほどの心境であっただろうか。
私達は主と、幸いだけでなく、呻きも共にする者でありたい。
狭い所を通るらくだ(マルコ10:17-31) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスが金持ちに示したのは十戒のうちの後半6戒だった。これらは人間関係についての戒律で、金持ちは幼い時から守っていると自負したが、より大きな命令である「憐れみ」をおろそかにしていた事に気付いていなかった。
イエスは別の箇所でパリサイ人に、ぶよは濾すが、らくだは無意識に飲み込んでしまうと言い、些細な決まり事は細かく気をつけるが大きな守るべき事はおろそかにしていると指摘し、肝心の正義、憐れみ、誠実が無いと咎めた。
らくだが針の穴を通るのは人には出来ない事、しかし神には何でもできる。イエスの歩む道について行っていれば、らくださえも無意識のうちに針の穴を通って行く事ができるのだ。
私達は些細ま決まり事を守る事に砕身し大きな大切な事をおろそかにするのではなく、イエスについて行く者でありたい。
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あなたは誰と戦っているのか(2コリント10:3-6) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
ある映画において、見えない敵から攻撃を受け、混乱してやみくもに同士討ちしている所に、上官が
「落ち着け、敵はどこだ、おまえ達は一体誰と戦っているんだ」と言うシーンがある。
私達も、見えない敵に攻撃されて混乱に陥り、やみくもに兄弟姉妹を傷つけ、平和であるべき日常に無駄な争いを持ち込み、無駄な時間やエネルギー、お金を注ぎこむような事が無いだろうか。
まず、戦うべき相手を正確に補足し、正しく攻撃する知識を身につけなくてはならない。
敵は、目に見える兄弟姉妹ではなく目に見えないサタン
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
権威も支配も諸霊も目で見ることができないが、私達が格闘すべき相手は血肉(人間)ではなく、そうした見えない存在である事が、この御言葉から分かる。
サタンは物陰から矢を射掛けて人を攻撃しては隠れ、攻撃を受けた人は振り向いた時たまたまそこにいた人を攻撃し、攻撃された人は訳も分からず攻撃されたのでやり返し、、、といった、本質から逸れた空回りの内紛を私達兄弟姉妹に起こさせる。
もし今、誰か具体的に兄弟姉妹へ憎しみを募らせているなら、あるいは、穢れた思いに囚われているなら、目に見える兄弟姉妹ではなく、物陰から矢を射掛けて来た悪しき者の存在に留意すべきであり、攻撃の大元である支配や権威といった、見えないものにこそ目を注ぐべきである。
攻撃の矢を防ぐことができるのが信仰の大盾であるが、ただ防いで耐えるだけでは能が無いので、攻撃の武器として御言葉の剣を取り、矢を射てくる元を攻撃して、沈黙させるべきである。
戦いの場は「思い」
罪への誘惑は「思い」に対する攻撃であり、エバはそのようにして惑わされた。
私達も御言葉どおりでない別のイエスをのべ伝えられたり、異なった霊、異なった福音を受けたりする事によって思いが汚されることがある。(2コリント11:3,4)
敵の誘惑方法は、まず「思い」の中に肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という種を蒔き、それを掻き立ててて思いの内を膨らませ、肉を疼かせ、意思で決定するよう促し、結果罪の行動をさせる。(創世記3章)
この「思い」の中に蒔かれた時点で対処しないと、後にはもっと対処が困難になる。
対処方法は2コリント10:3-6にある通り、全てのはかりごと(思い)を虜にしてキリストに服従させる事である。
「今のこの思いはイエスキリストの名にふさわしいか?」と常に点検し、そうでなかったら敵が蒔いたものだから、キリストの名によって破棄し、どうしようもない程虜にされてしまう前にキリストのことばを豊かに満たす事である。
御言葉によって養われた者は、経験によって見分ける感覚を身につけられる。(ヘブル5:14)
サタンに嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には
サタンにまんまと嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には、柔和な心で正しい道に立ち帰らせ、彼らを憎むのではなく、自身も誘惑されないように自分に気をつけるべきである。(ガラテヤ6:1)
兄弟姉妹を諭す場合は、まず二人だけの所で、聞き入れなければ複数人で、それでも聞かなければ教会が諭し、それでも聞き入れなければ異邦人として扱う、というのが順序である。(マタイ18:15-20)
いきなり罪に定めて突き放すのは聖書的ではない。
忍耐を持ってその人の内にいる悪しき者を御言葉によって切り、主へと取り戻すべきである。
何よりも日々、「きょう」と言われている間に兄弟姉妹の間で互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにするべきである。(ヘブル3:12,13)
見える兄弟姉妹ではなく、見えない敵であるサタンに対抗し、そのはかりごとを見抜き、戦って勝つ皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
奉仕と献金について(2コリント9章)礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
私達の奉仕や献金は「愛による動機」こそがかぐわしい香りとなり、評価される、奉仕の内容や献金の金額は全く関係無い。
人と比べる事はナンセンスであり、一人一人がそれぞれに与えられた分に応じて捧げれば良い。
神は私達を常にすべてのことに満ちたり良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方であり、それは私達があらゆる点で豊かになって「惜しみなく与えるようになり」神への感謝を生み出すためである。
らくだと針の穴(マルコ10:17-31) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-29 6:10
らくだと針の穴(マルコ10:17-31) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
ある金持ちがイエスに「どんな善い事をすれば」と尋ねたが、イエスの答えは「善いお方」であった。主は、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうが易しい、と言われた。
らくだはこぶに水を溜め込み遠距離まで行けるが、針の穴は通れない。
針の穴を通るには、自己の行いは何の関係も無く、ただ善きお方の前に全てを降ろし、サイズを小さくしていただかなければならない。
イエスを置いて行く者でなく、自己を置いて行く者でありたい。
子供のように(マルコ10:13-16) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-28 5:54
子供のように(マルコ10:13-16) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
弟子達は子供をイエスにさわっていただこうとした者達を叱ったが、イエスはそれを憤られた。
神の国は、子供のような者達のものであり、成熟した大人達のものではない。
子供は素直で、あまり疑わず、難しい事を考えない。感情を自由に表現し、小さく、弱い。
私達も主の御前では子供のように、自由に生き生きとした交わりを持ちたい。
礼拝メッセージ音声: 唇を守る(詩篇39編1-3)
ダビデは唇で罪を犯さないよう気をつけたが、良い事にも口を閉ざしたため内に炎が燃え上がったように苦しみが増し加わった。
我々は偽りに対しては口を閉ざし、真理については口を閉ざしてはならない。
離縁問答(マルコ10:1-12) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-27 6:47
離縁問答(マルコ10:1-12) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
神が一つ軛に合わせられたものは本来、人間は離してはならないものである。
離縁状を渡して良いのは不貞があった時であり、人間が好き勝手に引き離して良いものではない。
主は姦淫や離婚を憎まれる。不貞に満ちている現在にあって、創造主から与えられた結婚の本来的な祝福を、存分に享受できる皆さんでありますように。
地の塩(マルコ9:49,50) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-26 6:29
地の塩(マルコ9:49,50) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
塩は良いもので、料理には欠かせず、味を引き立たせる役割や防腐作用もある。
主は私達を「地の塩」と言われた。私達はこの世に味付けをする事に欠かせず、味気ない世の味を引き出し、腐っていくのを防ぐ役割を果たす者達であるはずである。
もし私達が塩の良い役割を果たさなければ、投げ捨てられ踏みつけられるだけである。
人は試練の火によって塩味をつけられ、私達の交わりは塩味の利いたものとして和合するべきである。
つまづきを与える者(マルコ9:42-48) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-25 5:54
つまづきを与える者(マルコ9:42-48) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
つまづきとは、道、真理、いのちから、離れさせる事である。
イエスはつまづきを与える者がいかに災いであるかを強調した。
43節以降は、もしキリストの体のある部分(者)が、体全体をゲヘナに導くようなら、切り離してしまうほうが良いという事を言っていると思われる。
真理ではない異物を持ち込む手、正しい道から離れさせる足、いのちを見させない目は、痛みを覚えながらでも切り離すべきであり、切り離された後は、全体は良い状態となるのである。