メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
教会の最初(使徒2章) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
あなたに宿りたい(ルカ19:1-10) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
ザアカイは取税人であるが、イスラエル人にとって取税人はローマの手先、裏切り者であり、罪人の最右翼のように考えられており、彼はお金を得るために名誉を捨て、律法の正しい事を知りながらせず、したくない悪を行い、心に反する日々を送ってきた。
そんなある日、イエスが傍を通られるといううわさを聞いた。
群集の邪魔を押しのけ、何としてもイエスを見ようとし、恥も外聞も無く葉の生い茂った木に登った。
イエスはザアカイを見上げ、何と自分の名を呼び、「あなたの家に泊まりたい」と申し出た。
自分の名前を知っていたという事は、自分の素性も知っていた。
素性を知っていたとは、ザアカイにとって何という驚きと恥ずかしさであったろう。
そしてそれを知りながら自分の家に宿りたいとイエスが言って下さった事は、何という喜びだっただろう。
財産を貧しい人に施しなさい、と言われて悲しんで去っていった金持ちもいたが、人間の力で善行を行うのは、らくだが針の穴を通るようなものである。
しかしイエスに声をかけられ、愛の心で受け入れられる嬉しさによって、人間にはできない事もできるようになるのだ。
イエスは彼が、アブラハムの子だった事を知っていた。
立ち返らせるのに、何時間もの説教は必要ない。「あなたの家に泊まりたい」という言葉だけである。
イエスが心の扉を叩く時、開いて受け入れるなら、イエスは入り、共に食事をしてくださり、その愛の交わりのうちに人にはできない事が出来、救いを得るのである。
永遠に賛美する(黙示録7:9-12) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
この世の諸要素はいずれ焼け崩れるが、その後も永遠に残るものがある。
古今東西、あらゆる種族・国の内でイエスを主として信じた者達は、世の改まった後、主と共に永遠に共に生き、黙示録のこの情景を体験する。
天国は罪ある私達には聖く素晴らしすぎて、本来、一時も居れないし、居てはならない。
それでも居る事ができる恵みが素晴らしすぎるので、冠を御前に投げ捨てて、永遠に主を賛美しつづけるのである。
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救い主を呼び止める(マルコ10:46-52) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
バルティマイは人通りの多い道端で物乞いしていた。
彼は盲人であり頼れる身内がいなかったからである。
多くの人達が彼を見下ろし、過ぎ去って行く日々の中、彼は普段と違う町の様子から、ナザレのイエスが通られると知ると、「ダビデの子イエス」すなわち救い主として彼を認め、呼び止めた。
私達も人生の途中でイエスが通られる時「ダビデの子」と呼んで彼を呼びとめ、彼と具体的に言葉を交わして関わらなければならない。そうするなら彼は癒し、必要を満たし、祝福して下さる。
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世の支配と御国の支配(マルコ10:35-45) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスが自分の死と復活を予告した時の悲しみや呻きを弟子達は知らず、彼らは偉くなりたい、出し抜いてでも地位を得たい、と考えていた。
この世の支配・被支配の関係は優劣の関係で不平等、怒りを生じさせるが、御国の価値観は全く逆で、進んで仕え、自らを差し出す愛を基にした関係であり、そこに不平等も怒りも無い。
主が自ら犠牲となられたのは、彼が多くの人々の身代わりとなり、血で汚れたエルサレムを、新しい花嫁として立て直すためであった。
私達が主に習い、皆に仕える者、皆の僕に進んでなるのであれば、その群れは天国のような交わりとなる。
ああエルサレム(マルコ10:32-34) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスがまっすぐエルサレムを目指すさまに、弟子達は驚き恐れた。
彼はこれから鞭打たれ唾かけられ、十字架に架かり死ぬ、という肉体的苦難だけではなく、世の始まる以前から御父の懐におられたその御父から捨てられ呪われるという、耐え難い霊的苦難を受けるのだ。
それだけでなく、彼はエルサレムを、呻いて涙を流すほど愛しておられ、雌鳥が翼の陰に集めるように、幾度も預言者を遣わして救い出そうとされたのに、その預言者達を拒否し、殺して来た。
そして、これからご自身を殺そうとしている都に、これから行こうとしているのである。
弟子達といえば、いかに高い地位に上ろうかと考えてばかりである。
この時の主は、どれほどの心境であっただろうか。
私達は主と、幸いだけでなく、呻きも共にする者でありたい。
狭い所を通るらくだ(マルコ10:17-31) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスが金持ちに示したのは十戒のうちの後半6戒だった。これらは人間関係についての戒律で、金持ちは幼い時から守っていると自負したが、より大きな命令である「憐れみ」をおろそかにしていた事に気付いていなかった。
イエスは別の箇所でパリサイ人に、ぶよは濾すが、らくだは無意識に飲み込んでしまうと言い、些細な決まり事は細かく気をつけるが大きな守るべき事はおろそかにしていると指摘し、肝心の正義、憐れみ、誠実が無いと咎めた。
らくだが針の穴を通るのは人には出来ない事、しかし神には何でもできる。イエスの歩む道について行っていれば、らくださえも無意識のうちに針の穴を通って行く事ができるのだ。
私達は些細ま決まり事を守る事に砕身し大きな大切な事をおろそかにするのではなく、イエスについて行く者でありたい。
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あなたは誰と戦っているのか(2コリント10:3-6) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
ある映画において、見えない敵から攻撃を受け、混乱してやみくもに同士討ちしている所に、上官が
「落ち着け、敵はどこだ、おまえ達は一体誰と戦っているんだ」と言うシーンがある。
私達も、見えない敵に攻撃されて混乱に陥り、やみくもに兄弟姉妹を傷つけ、平和であるべき日常に無駄な争いを持ち込み、無駄な時間やエネルギー、お金を注ぎこむような事が無いだろうか。
まず、戦うべき相手を正確に補足し、正しく攻撃する知識を身につけなくてはならない。
敵は、目に見える兄弟姉妹ではなく目に見えないサタン
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
権威も支配も諸霊も目で見ることができないが、私達が格闘すべき相手は血肉(人間)ではなく、そうした見えない存在である事が、この御言葉から分かる。
サタンは物陰から矢を射掛けて人を攻撃しては隠れ、攻撃を受けた人は振り向いた時たまたまそこにいた人を攻撃し、攻撃された人は訳も分からず攻撃されたのでやり返し、、、といった、本質から逸れた空回りの内紛を私達兄弟姉妹に起こさせる。
もし今、誰か具体的に兄弟姉妹へ憎しみを募らせているなら、あるいは、穢れた思いに囚われているなら、目に見える兄弟姉妹ではなく、物陰から矢を射掛けて来た悪しき者の存在に留意すべきであり、攻撃の大元である支配や権威といった、見えないものにこそ目を注ぐべきである。
攻撃の矢を防ぐことができるのが信仰の大盾であるが、ただ防いで耐えるだけでは能が無いので、攻撃の武器として御言葉の剣を取り、矢を射てくる元を攻撃して、沈黙させるべきである。
戦いの場は「思い」
罪への誘惑は「思い」に対する攻撃であり、エバはそのようにして惑わされた。
私達も御言葉どおりでない別のイエスをのべ伝えられたり、異なった霊、異なった福音を受けたりする事によって思いが汚されることがある。(2コリント11:3,4)
敵の誘惑方法は、まず「思い」の中に肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という種を蒔き、それを掻き立ててて思いの内を膨らませ、肉を疼かせ、意思で決定するよう促し、結果罪の行動をさせる。(創世記3章)
この「思い」の中に蒔かれた時点で対処しないと、後にはもっと対処が困難になる。
対処方法は2コリント10:3-6にある通り、全てのはかりごと(思い)を虜にしてキリストに服従させる事である。
「今のこの思いはイエスキリストの名にふさわしいか?」と常に点検し、そうでなかったら敵が蒔いたものだから、キリストの名によって破棄し、どうしようもない程虜にされてしまう前にキリストのことばを豊かに満たす事である。
御言葉によって養われた者は、経験によって見分ける感覚を身につけられる。(ヘブル5:14)
サタンに嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には
サタンにまんまと嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には、柔和な心で正しい道に立ち帰らせ、彼らを憎むのではなく、自身も誘惑されないように自分に気をつけるべきである。(ガラテヤ6:1)
兄弟姉妹を諭す場合は、まず二人だけの所で、聞き入れなければ複数人で、それでも聞かなければ教会が諭し、それでも聞き入れなければ異邦人として扱う、というのが順序である。(マタイ18:15-20)
いきなり罪に定めて突き放すのは聖書的ではない。
忍耐を持ってその人の内にいる悪しき者を御言葉によって切り、主へと取り戻すべきである。
何よりも日々、「きょう」と言われている間に兄弟姉妹の間で互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにするべきである。(ヘブル3:12,13)
見える兄弟姉妹ではなく、見えない敵であるサタンに対抗し、そのはかりごとを見抜き、戦って勝つ皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
奉仕と献金について(2コリント9章)礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
私達の奉仕や献金は「愛による動機」こそがかぐわしい香りとなり、評価される、奉仕の内容や献金の金額は全く関係無い。
人と比べる事はナンセンスであり、一人一人がそれぞれに与えられた分に応じて捧げれば良い。
神は私達を常にすべてのことに満ちたり良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方であり、それは私達があらゆる点で豊かになって「惜しみなく与えるようになり」神への感謝を生み出すためである。
らくだと針の穴(マルコ10:17-31) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-29 6:10
らくだと針の穴(マルコ10:17-31) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
ある金持ちがイエスに「どんな善い事をすれば」と尋ねたが、イエスの答えは「善いお方」であった。主は、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうが易しい、と言われた。
らくだはこぶに水を溜め込み遠距離まで行けるが、針の穴は通れない。
針の穴を通るには、自己の行いは何の関係も無く、ただ善きお方の前に全てを降ろし、サイズを小さくしていただかなければならない。
イエスを置いて行く者でなく、自己を置いて行く者でありたい。





