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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝音声: いのちから遠ざける「人の言い伝え」(イザヤ28:9-13)主日礼拝


週報


バプテスマのヨハネも、イエス様も、パリサイ人を「まむしの子」と呼んだ。(マタイ3:7、23:33)

まむしとは噛まれれば死に至る毒蛇であるが、なぜパリサイ人達は「まむしの子」と呼ばれたのか。

まむしはサタンを意味する最たる動物だが、彼らは人を福音から遠ざける事に、非常に役立っていた。

彼らは膨大な良い悪いの基準を押し付け、安息日が安息の日でなく重苦しい日、重荷の日と思わせるほど、色々な「言い伝え」によって付け足してきた。



律法の要求するレベルは誰にも到達し得ない。

律法は神の要求には人間は誰も答えられない事を教え、そうしてキリストへと導く養育係のようなものである。

それなのにパリサイ人達は、律法を全て守りきれない事の言い訳をするために、神様から求められてもいない別の戒めや規則を「言い伝え」として作り、それを一生懸命守り行う事によって、全ての律法を守りきれない「やましさ」を補填している。

イザヤ28:9-13 には戒めに戒めを加える者達の様が書かれてある。

彼らは乳離れした子、乳房を離された子に教えようとしているのか、と主は質問しているが、純粋なみことばの乳(1ペテロ2:2)を離れて、戒めや規則の迷路に迷い込んではならない。

主は人にいこいを、疲れた者には休みを与えたかったのに、それでも戒めや規則に迷い込もうとする者はうしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕らえられてしまう。(13節)



パリサイ人は、人間の言い伝えによって逆に御言葉から人を遠ざけて人間中心の教えへ誘い込み、結果イエスからも人を遠ざけさせ、滅びに至らしめるから、イエスやヨハネに「まむし」呼ばわりされたのである。

人は「言い伝え」や「言い訳」を大々的に喧伝し、神の要求を守れない事の「しょうがなさ」へと持っていこうとするが、神が目を留めるのは、あくまで御言葉を「守ったか、守っていないか」である。

律法を守り切るのは人にはできない。しかし、神にはできない事は無い。

律法を妥協したり意識的に逆らうのではなく、律法を守れない自分を認め、救いが必要である事を告白し、律法を成就された主イエスを信じ、そのイエスの内に入れられ、全く新しいいのちを歩むべきである。



宗教という言葉の響きに窮屈さ、いかがわしさといった不健全なイメージが付きまとうのは、宗教を信じている人達が、何らかの理想を固守し、いのちの望むまま生きる事ができない事例を多く見ているからだ。

キリストを信じた者達は、キリストを信じた事により、生まれながらの古いいのちが死んで、全く新しいいのちに生まれ変わった、神の子としての新しいいのちの内に歩む者達である。(ヨハネ1:12,13)

古い命では本能的に罪を犯してしまい、良い事は努力しなくてはできなかったものが、新しいいのちでは、罪を犯す事を本能的に嫌がり、ごく自然に良い事をしてしまうようになる。

それは、信じる者にはキリストのいのちが種のように蒔かれ、キリストの性質を帯びるようになるからである。

そのいのちは宗教者的不自然さ、無理矢理さは無く、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに育つ。

どのようにしてか、人は知らないが、苗となり、穂を結び、実が熟する。(マルコ4:26-29)

神の国は自分の生来的な力の頑張りでは決して育たず、ただキリストのいのちの原動力によるのである。



主イエスが来られたのは、疲れた者、重荷を負っている者を休ませてあげるためであって、さらに重荷を負わせ難しい事を要求するためではない。(マタイ11:28)

もしイエスを信じた事によって重荷を負っているような感覚、難しい事を要求されているような疲れを覚えているなら、宗教的・人間的な頑張りをしていなかったか、自分の歩みを振り返る必要がある。

イエスは心優しくへりくだっているが、自分の力で神の要求する歩みを為そうとするのは、傲慢である。

イエスとくびきを負い、イエスと歩調を合わせて一緒に歩めば、たましいに安らぎを得る事ができるのである。

主と共に負うくびきは負いやすく(χρηστόςクレーストス: 快い、楽、恵み深い、優しい)荷は軽い。(11:30)



イエスと共なるいのちの歩みは、軽く、快く、ラクで、恵み深く、優しいのである。

礼拝音声: まむし呼ばわりされた人達


パリサイ人やサドカイ人はバプテスマのヨハネや主からまむし呼ばわりされたのは、悔い改めにふさわしい実を結んでいないから。

悔い改めの実とは実際に行動に現れるものであり、究極には、イエスを主として信じる事である。。。続き


過去の定期祈祷会


2010/8/20以前の定期祈祷会

メッセージ音声: 神の言葉を反故にする「人の言い伝え」といういいわけ(マルコ7:9-13) 한국어예배



イエスは、パリサイ人達が固守しかつ人に強要する「言い伝え」が、神の言葉を反故にしている事を、「父と母を敬え」という十戒を一例にして非難した。

御言葉を守れない事の言い訳は「言い伝え」となり、御言葉に妥協あるいは逆らう事を助長する。

人はその言い伝えや言い訳に目を留めるが、神が目を留めるのは、あくまで御言葉を「守ったか、守っていないか」である。

律法を守るのは人にはできないが、神にはできない事は無い。

律法を妥協したり意識的に逆らうのではなく、律法を成就された主イエスにあって歩むべきである。


早天祈祷会メッセージ音声


2010/8/27以前のメッセージ音声

メッセージ音声: 偽善者の外側の清めと信仰による真の清め(マルコ6:53-7:8) 한국어예배



信仰を持ってイエスに近づく病人は、例え服の房に触れたとしても癒され、清くされた。

パリサイ人達がイエスに偽善者と呼ばれたのは、その心が御心から遠く離れ、主が望んでもいない事、すなわち人間による膨大な言い伝えによって人々を束縛し、身勝手に人をきよい・きよくないという判断をしていたからである。

主が望んでいるのは、信仰を持ってイエスに近づく心である。。。続き


早天祈祷会メッセージ音声


2010/8/27以前のメッセージ音声

黙示録1:6-8の分かち合い


少人数だったため黙示録1:6-8をよく噛み締めつつ皆でシェアしております。

メッセージというより対話的なシェアになっております。


 

メッセージ音声: 信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか(マルコ6:45-52) 한국어예배



イエスを陸に残して船出した弟子達は、湖の真ん中で逆風に苦労する。

イエスは湖の上を歩いて近づいてゆくが、悪霊を何匹も追い出した弟子達もそれを見て恐怖に覆われる。

イエスが働かれる時、このように尋常でない方法で近づかれる事があるが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけて下さり、私達という船にイエス様をお入れした時、風は止み、無事に目的地へと導かれる。。。続き


早天祈祷会メッセージ音声


2010/8/27以前のメッセージ音声

メッセージ音声: 5千人以上でも必要を満たし余らせる主(マルコ6:30-44) 한국어예배



少年の持っていたわずかなお弁当によって、1万人以上の必要を満たし、働き人の分までいっぱいにしてしまう主が、私達の内に生きておられるとは、何という恵みだろうか。

必要を満たして余りあらせる主のみ技を体験するには、まず主の元に必要を訴え自分達には何も出来ない事を告白し、主に祝福していただいたものを受け取り、それを人々に持っていく事である。。。続き


早天祈祷会メッセージ音声


2010/8/27以前のメッセージ音声

メッセージ音声: 聖なる預言者を好き勝手する者達(マルコ6:21-29) 한국어예배


洗礼者ヨハネは人の中で最も偉大な人と言われたが、宴会の余興として殺された。


このように聖なるものが人の好き勝手によって殺される事は、実は御心であり、イエスもそのように殺されたが3日後によみがえった。


黙示録11章に登場する二人の証人も一度は殺され晒されるが、後にはよみがえらされ、栄光のうちに上げられる。


世にあっては艱難があり、惨めな死を経るかのように見えるが、その後には栄光が待っている。。。続き


早天祈祷会メッセージ


2010/8/27以前のメッセージ

本日は機械の具合が悪く韓国語メッセージを流せなかった為、急遽、林が第3礼拝メッセージを行いました。


主日第3礼拝メッセージ音声:アビナダブ(2サムエル6:1-5) 主日第3礼拝 한국어예배


2サムエル6:1-5より。


サウル王以前から長らくアビナダブの家に置かれていた契約の箱をダビデは携え登ろうとしたが、驚くべき、酷いと思えるような事が起こる。


満場一致で人々の支持を得て決定したはずであるが、ある重大な間違いをダビデは犯していたのだ。。。続き

礼拝音声: 味噌からにじみ出た愛(1コリント12:18-27) 第1礼拝全体音声

第2礼拝音声:(メッセージのみ、韓国語通訳つき) 한국어예배


週報


先週、静岡の姉妹から天声の兄弟姉妹に、と、サムジャンという合わせ味噌をいただき、賞味した。


ゆでたキャベツにごはんを乗せ、その味噌も乗せて食べるという韓国風の食べ方があるのだが、シンプルであるがとても旨く、野菜もおいしく摂れ、身も心も温かく幸せな気持ちに包まれつつ頂いた。


その幸せさは、高級レストランなどお金を積む事では決して味わえない、「聖徒を思う愛」という、世の何物よりも尊い「素材」から来るものだ。


今、この世で生きていて、聖徒の為に愛を込めて料理を作ったり、作ってくれたものを味わうことが出来るのは、「生きていて良かった」と思えるほどの幸せがあり、天における愛に満ちた交わりの前味わいである。


聖徒達の心の篭った捧げものは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物である。(ピリピ4:18


御父が求めるいけにえは、高級食材でも膨大なお金でもなく「心」の込められたものである。


御父は何よりも富んでおられるお方なので私達がいかに富を積んで捧げたところで、たかがしれている。


主が人を間違いを犯さないロボットとして造らず、間違いを犯すかもしれない自由意志を持った「人」としておつくりになったのは、「心から」主を主を選択し、愛し、敬う者を、求めておられるからだ。


天の御国は、確かに高級素材に満ちたリッチな所ではあるが、むしろ、愛の篭った贈り物でいっぱいの、心が暖かくなる所である事の方が「売り」であり、私達に喜ばしく楽しみである事なのだ。


まことの食物はキリストであり(ヨハネ6:55)、その食物にはどれほどの愛が込められているか。


それは命を捨てるほどの愛が込められており、その食物は決して無くなる事無く、乏しくなる事も無い。


5千人以上にパンを与えた奇跡において、主は、その奇跡の源、愛の源であるイエスキリストを本来求めて欲しかったのだが、大勢の群集が求めたのは、実に、食物のパンであり、彼らが主を探して来たのは、食べて無くなる食物のパンを食べ、満腹したからだ。(ヨハネ6:26


どれほど主は寂しい思いをされたであろうか。


私達は無くなるパンではなく、まことの食物である愛の篭ったイエスを、心から感謝しつつ頂くべきである。


サムジャンで食事しながら与えられたもう二つの事は、味噌がおいしいからといって、味噌「そのもの」が脚光を浴び奉られてはならず、味噌の作り主こそ感謝されるべきである事。


そのおいしい味噌を使い切ってしまうのを恐れるよりも、味噌の作り主に作り方を聞くべきである、という事。


その時々に与えられた人、いただいた恵みなどがなくなる事を恐れる傾向があるが、それは無くなるパンをいつも与えてくださいと求めて来た寂しい人々のようなものであり、その恵みを下さった根源なるお方により頼み、そのお方が愛をもって、無尽蔵に与えてくださる事に信頼すべきである。


私達は、キリストのからだであり、それぞれは器官であるが故、誰か特別な人だけが作り主を差し置いて大きく取り上げられてしまうのは良くない。


体はどこかをケガした時、そこに血小板や白血球が集まるが、血小板や白血球は普段何のために役に立つのか分からなくても、ケガをした時、これらはそこに引き寄せられるように真っ先に集まり、血小板は傷を塞ぎ、白血球は進入して来た悪いものを殺すために、機能する。


どこの器官が無くなっても、体はやってゆけないし、どこかだけが大きくなったり増えたりしても病んでしまう。


キリストの器官は愛の機能体であり、その内の誰か一人でも欠けてしまったら、大変であり、また、その誰かが傷ついてしまったら、周りの器官が全力を持ってそこをいたわり、癒す事に全力を注ぐ。


一切の賜物の源であり、愛を持って一つとしてくださるキリストこそ、全ての栄光を受けるに相応しいお方であり、この方のために私達は在るのである。

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