メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
レカブ人 - 約束を守り行う人の受ける幸い(エレミヤ35章)
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自らをきよく保つ人を通して世界に神の栄光を知らせる主(ダニエル1章)
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ダニエル1:1-21
イザヤ42:6 「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、
ダニエル6:28 このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。
神の言葉の秩序が破壊される時(哀歌2:11-22)
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哀歌は、エレミヤが記した。
バビロンがエルサレムを攻め、エルサレムが陥落した後に。
バビロンが攻めて来て、城壁も神殿も破壊され、多くの人々が虐殺され、また捕虜として連れていかれた。
こうなる前に主に立ち返るよう、ずっと警告し続けてきたエレミヤがうたった歌が、哀歌である。
哀歌は、1章から5章まですべて22節(3章は22の3倍の66節)である。なぜか。
22といえば、ヘブライ語のアルファベットの数であるが、哀歌は、1-4章はそれぞれの節の冒頭が、ヘブライ語のアルファベット順に並んでいて、1節はアレフ、2節はベートと、アルファベット順のそれぞれの言葉ではじまり、そして最後の22節は、ヘブライ語最後の語・タヴの言葉によって始まる。(3章は1,2,3節がアレフ、4,5,6節がベート、、、64,65,66節がタヴ)
しかし、5章ではこの秩序が崩壊する。22節あるのだが、アルファベット順ではないのだ。
なぜ5章は、せっかくアルファベット数の22節あるのに、アルファベット順ではないのか。
それまで、ヘブライ語のアルファベット順という、神の言葉の秩序どおり進んでいたのが、最後の5章で崩壊し、災いとうめきに満たされる。
主の秩序通りに歩んでいくならば、祝福があり、幸があり、秩序の乱れは一切無いが、しかし人間の好き勝手によって崩壊する時、哀歌の内容の悲惨が生まれるのだ。
バビロン捕囚はなぜ起きたか。
人が神の言葉を破り、神の言葉の秩序を崩壊させると、あなた方は破壊され、捕虜とされる、と、はるか昔・モーセの時代から言われていた。
けれども、彼らが、神の秩序をあえて破壊してしまった故に、哀歌に記されている悲惨が起きたわけである。
申命記28章に記されている通り、神の民は、神の秩序通りに歩んでいるなら、とてつもない祝福がある。
しかし、神の秩序をあえて破壊するなら、驚くほどの落ちぶれ様が、破壊され様が、また、驚くほどの悲惨が待っている。
その悲惨は、特に、子供たちや若者たちに深刻である事を、今日の箇所から見ることができる。
2:11 わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに/息も絶えようとしているからである。
2:12 彼らが、傷ついた者のように町のちまたで/息も絶えようとするとき、その母のふところにその命を注ぎ出そうとするとき、母にむかって、「パンとぶどう酒とは/どこにありますか」と叫ぶ。
この世界に送り出されたばかりの命たち、幼児や乳飲み子が、母親に訴える。
パンとぶどう酒とは、どこにありますか、と。
幼児や乳飲み子が、パンやぶどう酒を求める。どういう事だろう。
パンとぶどう酒は、ただの食料ではない。レビ記では、礼拝で捧げられるべき捧げ物であり、また新約では、主イエスの死を覚えつづけるために執り行われる聖餐式において分配されるものである。
この世に送り出されてきたばかりの命たちが、その母親に、穀物とぶどう酒はどこにあるのかと叫ぶ様は、神がこの世に送り出した命たちの、切実な叫びである。
礼拝は、どこにあるのか?
神に捧げるべき捧げ物は、どうなっているのか?
命は、訴える。
神との関係はどうなっているのか、と。
なぜ悲惨な状況になったのか、それは、主の道から外れたからに他ならない。
13節と14節に、こうなった理由が記されている。
2:13 エルサレムの娘よ、わたしは何をあなたに言い、何にあなたを比べることができようか。シオンの娘なるおとめよ、わたしは何をもってあなたになぞらえて、あなたを慰めることができようか。あなたの破れは海のように大きい、だれがあなたをいやすことができようか。
2:14 あなたの預言者たちはあなたのために/人を欺く偽りの幻を見た。彼らはあなたの不義をあらわして/捕われを免れさせようとはせず、あなたのために人を迷わす偽りの託宣を見た。
アハブは預言者を400人も集めて、自分に都合の良いことを言ってもらうための”預言集会”を開いた。
イスラエルはなんでこんなにも傷ついてしまったのか。
それは、虚しい、ごまかしばかりの”預言ごっこ”をして、罪を暴こうともせず、惑わす言葉だけを預言したからだ。
預言者とは、もし人が罪を犯したのであるのであれば、それを暴くべきであるが、偽預言者たちは暴こうともせず、むしろ、聞く人に耳障りの良い、実体の無い”預言ごっこ”にうつつを抜かしていたからだ。
叱責をいただいたときは、むしろ幸いだと思うべきである。
しかし、主の言葉を頑に突っぱね続けるならば、この哀歌の状態になってしまうことを、覚えておくべきだ。
哀歌の1-4章が、なぜアルファベット順に並んでいるのか。それは単なる語呂遊びではない。
テフィリンする上で、暗唱しやすくなっているから、覚えやすくなっているから、これを覚えて暗唱しなさい、決してこの内容を忘れないように、という事である。
2:15 すべて道行く人は、あなたにむかって手を打ち、エルサレムの娘にむかって、あざ笑い、かつ頭を振って言う、「麗しさのきわみ、全地の喜びと/となえられた町はこれなのか」と。
2:16 あなたのもろもろの敵は、あなたをののしり、あざ笑い、歯がみして言う、「われわれはこれを滅ぼした、ああ、これはわれわれが望んだ日だ、今われわれはこれにあい、これを見た」と。
ここには、敵の嘲りがある。
なぜ、神の民が、敵によって滅ぼされたのか。それは、主が許されたからに他ならない。
なぜか。それは彼らが、主の言葉に従わず、むしろ恩知らずな事を主に対して続けていたからだ。
このような災いが起きると、警告を受けたのは、モーセの時代、はるか昔からである。
2:17 主はその計画されたことを行い、警告されたことをなし遂げ、いにしえから命じておかれたように、滅ぼして、あわれむことをせず、あなたについて敵を喜ばせ、あなたのあだの力を高められた。
申命記28章には、祝福と呪いの言葉があるが、15節以降、呪いの言葉が68節まである。
呪われるためのコツは、主の御声に聴き従わず、その命じる命令を守り行わない事だ。
2:18 シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、夜も昼も川のように涙を流せ。みずから安んじることをせず、あなたのひとみを休ませるな。
2:19 夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて/息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。
エレミヤは、ぼんやりしてはならない、と言う。
主に向かって叫ぶ事をやめてはならない、この崩壊し罰を受けた都のために、そして、弱りはて死んでいく幼子のために、心を主に向かって注ぎして祈り、と訴える。
この国もまた、主の道から外れてしまっている。
15歳から39歳までの死ぬ確率は、交通事故でもなくガンでもなく、自殺が、死因のトップである。
若者達のみならず、全ての人が、将来に希望を見いだせないまま生きている。
彼らは、自分にはパンとぶどう酒が、すなわち神と関わりを持つべき礼拝が全人類に必要である事が分からず、いや、一体何がこんなに自分の心を飢え渇かせているのか、訳も分からないまま、もだえつつ生きている。
私達は、祈るべきである。
この国が、主を離れ、礼拝から離れ、主の道から外れた生き方をしている故に。
2:20 主よ、みそなわして、顧みてください。あなたはだれにむかって/このように行われたのですか。女は自分の産んだ子、その大事に育てた幼な子を食べるでしょうか。祭司と預言者が主の聖所で殺されていいでしょうか。
2:21 老いも若きも、ちまたのちりに伏し、わがおとめも、若人も、つるぎで倒されてしまった。あなたは、その怒りの日にこれを殺し、これをほふって、あわれむことをされなかった。
祭司や預言者が主の聖所で殺されている、
しかし祭司や預言者が、民の咎をあばこうともせず、惑わす言葉を預言したから、虐殺されてしまったのだ。(14節)
『望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。』(箴言19:18)
まだ望みがある内に、懲らしめ、戒めるべきなのだ。
母が大事に育てた子を食べてしまうような、深刻な事態に至らない内に。
エレミヤは、こんな事があっていいのか、と訴えたが、主を軽んじ続け、御言葉に向き合わない事を続けるなら、この事が起きてしまうのだ。
2:22 あなたは、わたしの恐れるものを、祭の日のように四方から呼び集められた。主の怒りの日には、のがれた者も残った者もなかった。わたしが、いだき育てた者を/わたしの敵は滅ぼし尽した。
祭りの日は、本来、主を礼拝する人々が神殿へと集まってくるものだが、礼拝をしないで居続けるなら、神殿を破壊する者達が集まって来る。
なぜ、こんな悲惨な事が起きるのか。
それは、昔から行われていた事だった。
もし主の道からそれて好き勝手な事をし続けて改めないなら、深刻なききんに陥って、母がその子の肉を食べる、という内容までも、昔から警告されていた。
だから、御言葉に立ち返るべきである。
望みがある内に、御言葉によって懲らしめるべきである。
イスラエルは、バビロン捕囚によって、懲らしめを受けた。
しかし、主は、殺す気はおこしていない。
ちゃんと残されるべき民を残しておられた。そしてイスラエルは、再び、テフィリンによって立ち上がっていく。
テフィリン教育は、バビロン捕囚の故に、生まれた。
御言葉を正確に伝え、祝福の道を歩んでいくみなさんでありますように!
妻が先か?夫が先か?(エペソ5:22-33)
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5:22 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
5:30 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
5:31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
5:32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
5:33 いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
しみやしわやそういった類の一切無い花嫁となるために(雅歌書4:1-8)
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前回は、いよいよ花嫁は花婿の豪華な車に迎えられ、花婿の家へと嫁いでいく様子が記されていた。
神が教会に求めておられる事(1テサロニケ5:12-28)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1テサロニケ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2019-3-6 23:10
神が教会に求めておられる事(1テサロニケ5:12-28)
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主との約束を反故にする者の災い(エレミヤ34章)
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主を恐れることによって人は悪を免れる(箴言3:1-12)
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箴言3:1 わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。
3:2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3:3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
3:4 そうすれば、あなたは神と人との前に/恵みと、誉とを得る。
3:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
3:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
3:8 そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。
3:9 あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。
3:10 そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。
3:11 わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。
3:12 主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。
箴言16:1 心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
16:3 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
16:4 主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。
16:5 すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。
16:6 いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。
盲目に生まれついたのは神のわざがあらわれるため(ヨハネ9:1-7)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヨハネによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2019-3-5 7:18
盲目に生まれついたのは神のわざがあらわれるため(ヨハネ9:1-7)
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ヨハネ9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神の「みわざ(エルゴン)」が、彼の上に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたの「わざ(エルゴン)」を、昼の間に「しなければ(エルガゾマイ)」ならない。夜が来る。すると、だれも「働け(エルガゾマイ)」なくなる。
ヨハネ6:28 そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
6:29 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。
ルカ16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし「行い(エルゴン)」がなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:17 信仰も、それと同様に、「行い(エルゴン)」を伴わなければ、それだけでは死んだものである。
ヨハネ9:5 わたしは、この「世(コスモス)」にいる間は、「世(コスモス)」の光である」。
9:6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
創世記2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
9:7 「シロアム(「つかわされた者:アポステロー」、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
マルコ3:13 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。
3:14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教に「つかわし:アポステロー」、
3:15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
ローマ10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 「つかわされなくては:アポステロー」、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
ローマ10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
神を尋ね求める者を救われる主(詩篇53篇)
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詩篇53篇表題「聖歌隊の指揮者によってマハラテのしらべにあ わせてうたわせたダビデのマスキールの歌」
53:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
愚かなもの(ナバール)は、不純なこと、悪辣な事をあえてする人で、そんな彼らの根底に流れている人生観が「神はいない」である。
神を敬う人であるなら、たとえ一人でいる時でも、悪と見られる事に躊躇を覚える。
どこでも見ておられ、全てを知っておられるお方を敬っているからだが、愚かな者たちは何の呵責もなく悪を為し、利得をむさぼり、破滅の海原へと躊躇なく飛び込んでいくが、それは勇気や強さではなく、愚かさと無知の故だ。
「腐りはて」と記されている語「シャカァス」は自己破滅の状態で、まさに洪水前の世界の状態である。
創世記6:11 時に世は神の前に乱れて(シャカァス)、暴虐が地に満ちた。
6:12 神が地を見られると、それは乱れていた(シャカァス)。すべての人が地の上でその道を乱した(シャカァス)からである。
6:13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう(シャカァス)。
上記合計3節で4回も「シャカァス」が登場する。
すなわち人が破滅の行いをし、神の目に破滅状態で、そして世は、破滅した人によって破滅されてしまった状態であった。
これが「神はいない」の価値観を持った人間が増殖してしまった世界の、成れの果てである。
53:2 神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。
神は、天から、じっくりと、見ておられる。賢い者、神を尋ね求める者がいないかを。
ここで「賢いもの」と訳された語「サハール」のヒフィル(使役)態は、じっくり見る、注意を払って観察する、洞察力を持っている等の意味である。
神が私達にもとめておられることは、自らすすんでじっくりと神を尋ね求め、神を観察する事である。
ノアの時代の以前、ノアとその家族以外の全ての人々が腐れはて、憎むべき不義をおこなった。
53:3 彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。
神は当時、目を皿のようにして地をご覧になられ、ノアを見出し、そして彼らを救って新しい世代を起こされた。
53:4 悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物(レヘム:パン)食うようにわが民を食らい、また神を呼ぶことをしない。
彼らは神の民を喰らい尽くす事において、パンを食べるがごとく、躊躇もなく、良心のとがめもない。
しかしあいにく、彼らが食う「神の民」は、パンとは違い、祈る民、神に言いつける民である。
神の民が神にむかって叫ぶ時、神が働かれる。
そこで神が彼らのために動き出し、彼らを救い、悪人にはさばきをもたらされる。
53:5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。
この出来事の典型例が、ヒゼキヤ王の時代に起きた事だろう。
かの時代、アッシリアが台頭し、セナケリブ王がイスラエルへと攻めてきて、神の民と、そしてイスラエルの神である主をなじった。
2歴代誌32:10 「アッシリヤの王セナケリブはこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。
32:11 ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリヤの王の手から私たちを救い出される。』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。
・・・
32:15 今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」
このように豪語した者はどうなったか。
2歴代誌32:20 そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。
32:21 すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮にはいったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。
32:22 こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。
まさに詩篇に記されていたとおり、彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れ、このよこしまな者たちの骨を散らされ、彼らは神をなじった故に大いに恥をこうむった。
神は確かに生きておられる。
たかだか100年ほどしか生きられない人間が、どんなに神はいないと吠えようとも、永遠に生きておられる神は、その高ぶる者たちを倒し、そして悩む民が主に呼ばわったとき、その声を聞かれ、実際に働かれたお方。
53:6 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。神がその民の繁栄を回復される時、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。
私達ダビデのように救いを求め、回復と繁栄を求め、全て主の民が喜び楽しむことを、イエス・キリストの御名によって求めることができる。
なぜなら私達にはイエス・キリストがおられ、おりにかなった助けを得るために大胆に恵みの御座へと近づく事ができるからだ。