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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

パウロのすすめ:きよくなる事、兄弟愛を持つ事、外部の人に品位を保つ事(1テサロニケ4:1-12)
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1テサロニケ4:1 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。

1テサロニケ2:4 かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。

1テサロニケ4:2 わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。
4:3 神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、
4:4 各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、
4:6 また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。
4:7 神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。
4:8 こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。

ダニエル1:8 ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。
1:9 神はダニエルをして、宦官の長の前に、恵みとあわれみとを得させられたので、

ダニエル1:14 家令はこの事について彼らの言うところを聞きいれ、十日の間、彼らをためした。
1:15 十日の終りになってみると、彼らの顔色は王の食物を食べたすべての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた。
1:16 それで家令は彼らの食物と、彼らの飲むべき酒とを除いて、彼らに野菜を与えた。
1:17 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。
1:18 さて、王が命じたところの若者を召し入れるまでの日数が過ぎたので、宦官の町は彼らをネブカデネザルの前に連れていった。
1:19 王が彼らと語ってみると、彼らすべての中にはダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤにならぶ者がなかったので、彼らは王の前にはべることとなった。
1:20 王が彼らにさまざまの事を尋ねてみると、彼らは知恵と理解において、全国の博士、法術士にまさること十倍であった。
1:21 ダニエルはクロス王の元年まで仕えていた。

1テサロニケ4:9 兄弟愛(フィラデルフィア)については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、
4:10 また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。

黙示録3:7 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
3:13 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

1テサロニケ4:11 そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。
4:12 そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。

1テモテ3:2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、
3:3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、
3:4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。
3:5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。
3:6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。
3:7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。

愛される花嫁の性質(雅歌2:8-17)
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8節は女性の歌で始まる。

雅歌2:8 わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。
2:9 わが愛する者はかもしかのごとく、若い雄じかのようです。見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている。

かもしかは、がけや丘など人が通るのに難儀な所も、平気で飛び跳ねて、元気に乗り越えて、行き来しているが、そのように、男性は、愛している女性の所へは、どんな山も飛び越え、どんな困難も飛び越えて行くもである。
花婿にとっての慰めは、花嫁である。イサクは、リベカを自分の天幕に引き寄せて、慰めを受けた(創世記24:67)。
だから花婿は、どんなに山や崖が横たわっていても、それらを若い鹿やかもしかのように飛び超えて、愛する花嫁のところに勇んで帰って来る。
そして彼女の元に帰ってきたら、憩いを得、慰めを受けるのだ。

サムソンは、憩ってはならぬ異邦の女の膝元で憩い、そして、決して手放してはならぬものを、すなわち、神に捧げれた者の印であり力の源である「髪」を明け渡してしまった。
それで彼は、力を奪われ、人生の終わりを残忍な者の手に渡してしまった。

箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

キリストは、私達・花嫁である教会を「わが愛する美しいひとよ」と愛の言葉をかけ、窓の隙間や格子越しからのみならず、天から、至る所から、四六時中、うかがっておられる。
だから私たちは、イエス様の目に「慰め」となるために、いつでもイエス様の好まれる飾りを身に帯びるべきである。
私達がイエス様の好まれる飾りを、すなわち、御霊の実である愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を「飾り」として身に帯びるのであるならば、彼は私達を格子窓の隙間からうかがい、「わが愛する者、美しいひとよ、出ておいで」と言われる。

雅歌2:10 わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。
2:11 見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、
2:12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。

私達は、雨の季節や冬の季節を、通って行かなくてはならない時がある。
この世界は1度、ノアの時代の大洪水によって滅びた。そしてその雨が過ぎ去った後、オリーブの若枝が萌え出て、鳩が飛んだ。

私たちもまた、古い、以前の性質は全部、水によって過ぎ去らせなくてはならない。以前の、肉欲に従って歩んでいた生き方、また、罪深い性質を。それが、水のバプテスマである。このような「冬の季節」雨の季節」を通った後に、主は私達に「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」と呼びかけられる。
主にあって、麗しい、甘い実を結ばせるようになっていく。

雅歌2:13 いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。

ノアの洪水の時、雨が止んでから、「方舟から出てきなさい」と呼び出したのも、主だった。

主が「出て来なさい」というタイミングがある。「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」と。
その時、主の呼び声に応じ、主の所へと出ていくべきである。

雅歌2:14 岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。
2:15 われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。

私たちの人生は、いつもが順風満帆とは言えない。
危険な時もあるし、悪い者がはびこっている時もある。そういう時こそ私たちは、岩の裂け目に宿るのだ。

私達が鳩のように、危険の最中で岩の裂け目からうめく時、それがどんなに小さい声であっても、聞いてくださる。
どんなにか細い声でも。鳩が岩の裂け目にいるのは可愛らしい姿であるが、私達がキリストと言う岩の裂け目に囲まれている時、主は愛の守りの中で、かくまってくださる。
そして山々を乗り越え、若い鹿やかもしかのように丘の上をはねて、私下のところに飛び込んできてくださり、躍り上がるような力をもって、敵を打ち倒して下さり、危険が過ぎ去ったなら、「さあ岩の裂け目にいる私のはとよ、出てきておくれ」と、呼び出して下さるのだ。

2:15 われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。

ぶどう畑を荒らす狐や子狐をとらえる分が、私たちの側にある。
狐や子狐は、花盛りの時に来て荒らす。それは単にお腹がすいていて花を食べたいからではなく、実を実らせないようにするための、嫌がらせ目的であり、それはまさにサタンの性質である。
私たちは、それを捕えなくてはならない。そして私たちの葡萄畑は、しっかりガードするべきである。それは、花婿がそうしなさいと言われたからである。

雅歌2:16 わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの。彼はゆりの花の中で、その群れを養っている。
2:17 わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください。

私の愛する方は、私のもの・・・これは、私達のイエス様に対する呼び声でもある。

男女の間で、本当に相手を愛しているのであるならば、「私はあなたのもの」「あなたはわたしのもの」と言い合う時、本当に喜びとうるわしさを伴う言葉である。
パウロが言っている。夫婦の間柄は、自分の体に関する権利は自分にはなく、伴侶が持っている、と。
だから、私たち教会の所有権は、全部、イエス様にあって、私達教会の目的も動機も全部、イエス様の喜びのためになるべきである。
そうするなら、イエス様は私たちのものであり、イエス様もまた私たちのものであると宣言して。イエスさまとの愛と喜びの麗しい関係をますます築き上げて行くのである。

雅歌2:17 わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください。

彼女は、日が落ちて夜になる前までに帰ってきて下さい、と言う。
私たちも、あの方が帰ってくるまでに、しっかりと、この心と体を整えておかなくてはならない。

賢い花嫁とは、花婿が来る前に、いつ来ても良いように、灯を燃やし油を整えて、用意しておくものである。
しかし主はまだ来るまい、と思いこんで、子狐を放置しておくと、愛する方が来た時、慌てふためく事になってしまう。

どうか、キリストとの関係が、新婚の若い男女のように、うるわしく、喜びに満ちた関係でありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

新しい契約の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 7/9:エレミヤ31:31 (エレミヤ31:23-40)
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新しい契約は、イスラエルの家とユダの家とに立てる、と言っている。
モーセを通して与えられたイスラエルの民への「旧契約」と、教会との間に結ばれた「新契約」とは、互いに「別個の」「無関係」のものではない。

31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。

ここでエレミヤが言っている言葉は驚愕である。新契約は、イスラエルの家とユダの家と結ぶ??
それでは、私達異邦人には、新契約は関係ないのか?

その疑問に答えるのが、次の聖句である。

ローマ2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

コロサイ2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。


だから、
「ユダヤ人 対 異邦人(私達)」
という外面的な考え方で見るのではなく、むしろ、
「神の民(私達キリスト者。ユダヤ人も異邦人も関係なし) 対 異邦人(キリストを受け入れないユダヤ人、その他諸々)」
という霊的な見方で見ると、わかりやすい。

つまり、イエス・キリストを通してアブラハムの子孫へと加えられた私達にも、旧契約に記された祝福の法則・呪いの法則は、そのまま引き継がれる。
もちろん、救いはイエス・キリストによるのみで、旧契約をいくら守り行った所で、救いには関係ないが、、、しかし旧約の祝福の法則は、私達・神の民が生きるべきスタンダードとして生きるようにと記されており、呪いの法則は、その道に歩まないようにと警告の意味で受け取るべきなのだ。

1コリント10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

31節で「新しい契約」と訳された単語、ベリット・ハダシャーは、旧約とは全く違った、斬新な契約である。
ギリシア語で「新しい」には2つある。
1,ネオス:若い、新鮮な、生じてから時間的にさほど経っていない。
2,カイノス:これまでになかった、今までに経験したことのない、目新しい、新奇な。
「新契約」とは、このカイノスに当たる新しさであり(ルカ22:20、ヘブル9:15,10:11-22)、新契約は、古いものをアレンジする類のものではなく、全くもって新しい、斬新な契約だ。
新天新地もまた、今までに存在したものの上塗りではない、全く新規な、目新しい世界なので、うまく説明できないものである。

エレミヤ31:23 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、「わたしが彼らを再び栄えさせる時、人々はまたユダの地とその町々でこの言葉を言う、『正義のすみかよ、聖なる山よ、どうか主がおまえを祝福してくださるように』。
31:24 ユダとそのすべての町の人、および農夫と群れを飼って歩き回る者は共にそこに住む。
31:25 わたしが疲れた魂を飽き足らせ、すべて悩んでいる魂を慰めるからである」。
31:26 ここでわたしは目をさましたが、わたしの眠りは、ここちよかった。

エレミヤは今までずっと災いのメッセージしかして来なかった。しかしイスラエルがエレミヤの警告を一切受け付けず、無視し続けたため、その時代に、イスラエルの破壊が確定してしまった。
「旧契約は、人々が破ってしまった」、という主の宣言が、エレミヤ31:32にある。
しかし、これが確定してしまった直後、時を移さずに主が発せられた約束が、この新契約が与えられるという約束である。
ちょうどアダムとエバが堕落してしまった直後、時を移さず、女の子孫が蛇を破壊する預言を発せられたように。

エレミヤ31:27 「主は言われる、見よ、わたしが人の種と獣の種とをイスラエルの家とユダの家とにまく日が来る。
31:28 わたしは彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし、悩まそうと待ちかまえていたように、また彼らを建て、植えようと待ちかまえていると主は言われる。

旧契約は、主が目を皿にして破らないか、破らないかを見張っているかのような恐怖があったかもしれないが、新契約は、いのちを植え、建てあげようと、待っておられる。

エレミヤ31:29 その時、彼らはもはや、『父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく』とは言わない。
31:30 人はめいめい自分の罪によって死ぬ。すっぱいぶどうを食べる人はみな、その歯がうく。

主の約束は、本人自身がその報いを受けるものである。

エレミヤ31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

旧契約は、契約者と契約書は、別存在であるが、なんと新契約は、契約者と契約書が同一である、というのだ。
これは聖霊によって心の板に書き記されるからである。(2コリント3:3)

31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

旧契約は、頭で文字を記憶して、脳に刻みつける必要があったが、新契約は、聖霊によって主を「知る」のである。

新約聖書には、この新契約の記述が何箇所も登場し、特にヘブル書にその記載が多くある。(ヘブル8-10章)

ヘブル10:11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
10:12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
10:13 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
10:14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
10:15 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、
10:16 「わたしが、それらの日の後、/彼らに対して立てようとする契約はこれであると、/主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、/彼らの思いのうちに書きつけよう」/と言い、
10:17 さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。
10:18 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
10:21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。

新契約の締結は、主イエス様が流された血潮によってであり、イエス様の十字架で裂かれた肉体を通して、私達は新契約に入り、天国へと入っていく事ができるのである。

ルカ22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

幸いの地に入ったなら為すべきこと(申命記6:20-25)
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申命記6:20 後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。
6:21 その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
6:22 主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、
6:23 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。
6:24 そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。
6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。

出エジプト記13:8 その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。
13:9 そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。
13:10 それゆえ、あなたはこの定めを年々その期節に守らなければならない。

13:11 主があなたとあなたの先祖たちに誓われたように、あなたをカナンびとの地に導いて、それをあなたに賜わる時、
13:12 あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。
13:13 また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。
13:14 後になって、あなたの子が『これはどんな意味ですか』と問うならば、これに言わなければならない、『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。
13:15 そのときパロが、かたくなで、われわれを去らせなかったため、主はエジプトの国のういごを、人のういごも家畜のういごも、ことごとく殺された。それゆえ、初めて胎を開く男性のものはみな、主に犠牲としてささげるが、わたしの子供のうちのういごは、すべてあがなうのである』。
13:16 そして、これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとしなければならない。主が強い手をもって、われわれをエジプトから導き出されたからである」。

人の富が増し加わるとなぜ恐れが生じるか? - その貧乏ぐせと奴隷根性に対する勝利(詩篇49篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌
49:1 もろもろの民よ、これを聞け、すべて世に住む者よ、耳を傾けよ。
49:2 低きも高きも、富めるも貧しきも、共に耳を傾けよ。
49:3 わが口は知恵を語り、わが心は知識を思う。
49:4 わたしは耳をたとえに傾け、琴を鳴らして、わたしのなぞを解き明かそう。

この詩篇もコラの子たちによる教訓的な歌だが、その教訓のターゲットは「もろもろの民、すべて世に住む者」「低きも高きも、富めるも貧しきも」である。
これは神の聖徒達も、そうでない人にも、全ての人に当てはまる事である。

49:5 わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。
49:6 彼らはおのが富をたのみ、そのたからの多いのを誇る人々である。

この詩篇のテーマとして、富んでいる人が、その富をもって弱い人達を虐げる、どの時代や国においてもありがちな問題に対する教訓にはとどまらず、もっと、主にあって普遍的な真理を私達に示している。

この詩篇の結論は、20節である。

49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。(理解するところが無ければ)滅びうせる獣にひとしい。
49:20 A man who is in honor, yet does not understand,Is like the beasts that perish.

人は、「理解するところ(understand)」があるか、無いかによって、大いに違う。
この「理解するところ(understand)」のヘブライ語はビーン、この箇所ではQal(能動態)が用いられている。

ビーンは特に箴言によく出てくる重要なキーワードである。その詳細な意味は、「知覚する、認識する、理解する、知る(心で)、観察する、マークする、注意を促す、区別する、考慮する、分別、洞察力、理解を得る」であり、これらのものを「能動的に」求めない人は、滅びうせる獣に等しい。
実際、人の気持ちを理解しようとしない人、ものの道理を観察し知ろうとしない人、神の言葉に対して耳を閉ざし、心を閉ざしているような人、勉強において「どうしてだろう」という気持ちが起こらない人、学習意欲がない人、物事を注意しない人など、ビーンを積極的・能動的に求めない人は、すべて、社会的な地位を得られず、上にあがれず、滅んでいくパターンに陥っているのではないだろうか。
その逆に、積極的なビーンを持っている人は、どんどん能力が開かれ、成長がはやく、人との間でもどんどん重んじられた者になっていくし、年老いても頭脳明晰だが、学ばない人、同じ失敗を何度も繰り返す人には、それが無い。

49:7 まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
49:8 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
49:9 (8節に合節)

人のたましいは、高価すぎて、誰にも買い戻すことはできない。それは真理である。
イエス様のたとえ話で、罪の借金を負った者にたとえられた金額は、一万タラント(およそ18万年分の給料)という、人には到底支払いきれない額だった。(マタイ18:22-35)
しかし、私達には希望がある。イエス様の十字架の贖いによって、神は永久に私達の魂を買い戻してくださった。
だから私達は、富を誇りとする彼らを恐れる事は無い。

49:14 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。
49:15 しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ

結局、この世の資力・財力では、自分を救えない。
大事なのは、贖って下さるお方であり、私達を購って下さるお方・イエス様は、力強い。
エレミヤ50:34 彼らをあがなう者は強く、その名は万軍の主といわれる。彼は必ず彼らの訴えをただし、この地に安きを与えるが、バビロンに住む者には不安を与えられる。

49:10 まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。
49:11 たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである。
49:12 人は栄華のうちに長くとどまることはできない、滅びうせる獣にひとしい。
49:13 これぞ自分をたのむ愚かな者どもの成りゆき、自分の分け前を喜ぶ者どもの果である。〔セラ
・・・
49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。

この詩篇の中では、幾度か、人の富が増し加わっても恐れてはならない、と書いてあるが、そもそも、誰かの富が増し加わった事を聞いたり、お金持ち達の集まりの中に入れられたりすると、なぜ恐れが沸き起こってくるのだろう。
それは、ひがみや奴隷根性、貧乏ぐせがついているためだ。

民数記13:27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。
 13:28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。
 13:29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。

イスラエルの民が、いよいよ約束の地を目前にした時、この報告を受けて、反応は真っ二つに別れた。

民数記13:30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。

カレブは、自分達は必ず勝ってその神様が約束して下さった地を獲得し、その素晴らしい地を自分のものにして行く気で満ち満ちていた。

民数記13:31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。
 13:32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。
 13:33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。

この、マイナス思考で勘定した者達は、「彼らはわたしたちよりも強い」と言った。
つまり彼らは、自分と相手を比較したのである。彼らと共におられる主を、全く度外視して。
これが、ひがみ精神、奴隷根性、貧乏ぐせである。

それに引き換え、カレブは、確かに他の斥候達と一緒に、あの巨大な、力強く戦いに長けたアナク人達を見てきた。その者達が守っている城壁の町々も見てきた。
しかし、カレブの評価は「必ず勝てる」であった。
彼は神がエジプトに対して為された10の災いと、そして紅海の水を割り、イスラエルの民は渡らせ、エジプトの軍隊は水に飲み込ませた様も見た。
その神様と、あのアナク人達を見比べて、必ず勝てる、と評価したのである。

主は何故に、エジプトに10もの災いをもって、これでもか、これでもか、と災いを示されたのか。
イスラエルの民に、この力強い主がおられるのだから恐れてはならない、と教え込むためではなかったか。
なぜ水のない荒野で、マナをもって養われたか。主が彼らの水も食料も全て備えて下さるお方だと教え込むためではなかったのか。
私達は、主のご性質と教えようとする心を、積極的に理解し汲み取らなくてはならない。

もし主から約束の御言葉があたえられたのなら、人間の節穴の目のままでは、偵察にさえ行ってはならない。
もし私達が本当に富んだ者になりたいのなら、奴隷根性や貧乏ぐせをまずとりこにして、キリストへ服従させ、カレブのように、神の御言葉に自分をしっかり当てはめ、約束を握りしめ続けて行くべきである。

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「得る人・持って行かれてしまう人の法則(申命記6:10-11)」
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 前回、自分が建てたものでない大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、植えたのでない畑を得るという神の民への約束(申命記6:10-11)について、それを実際に得るための条件、および、実際にそれらを得た場合に気をつけるべき事を学んだ。得るための条件とは、直前の4-9節のシェマー本文、すなわち、自分の中に御言葉を溢れるまでに存在させ、昼も夜も御言葉について語り、子供によく教え込み、自分の手(行い)に結びつけ、家の柱に刻みつける事だった。そして、それらの祝福を得た時に気をつけるべき事が、12節以降の警告、すなわち、主を忘れたり、裏切ったり試みたりしてはならない事だった。

 これらの条件をクリアする人こそ、自分で労さなかった実を得るに値する人となるのだが、そのような人がいる一方で、自分が労して得た実や自分が投資した利益を、他人に持っていかれてしまう人もまた、同時にいるわけである。それは運ではなく、御言葉による一定の法則性がある。その法則性とは一体何か。

 

 「あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ」この申命記6:10-11で言う「あなた」とは、イスラエル人(神の民)であり、その町々を建てた人々とは、カナン人である。カナン人は何百年も前からずっとその地で実り豊かさを得ていたのだが、その特別な祝福を悪辣な事に用いて来たため、ついに主は、その国々をアブラハムの子孫達によって滅ぼさせ、そこを彼らに受け継がせるに至ったのだ。(創世記15:16)

 大きな富や力が委ねられた人には、それだけ大きな責任が伴う事を前回学んだが、それに値しない事を続けているなら、主はその者から取り上げ、別の、もっと主に忠実な人に、それを受け継がせてしまう

 

 サムエル記には、このような例がいくつもある。大祭司エリの息子のホフニとピネハスは、祭司としての務めをないがしろにし、祭司職の特権を乱用して、聖徒の捧げものを横取りし、神に仕える女性に手を出し、神を軽んじた結果、この一族は祭司職から絶たれてしまった。神と人との間に立つ、栄えある職務であるにもかかわらず、そこに安住し、肉欲のために特権を乱用したからだ。そこで主は、彼らに代わってイスラエルを霊的に指導する者として、サムエルという優れた指導者を立てられた。(1サムエル記2-7)

 サムエルは一生の間イスラエルをさばき、イスラエルが主への感謝と従順をやめさせないために、年ごとに各所を巡回し、霊的指導を続けた(7:15-17)。この働きは、派手さはないかもしれないが、このように人々の信仰を守るために巡回するという忠実な働きは、どんな戦いに勝利するより、はるかに偉大である。

 サウル王は、イスラエルの最初の王として任命されたのに、主の御言葉に二度も背き、神ではなく人を重んじたため(13-15)、主は彼から王権を除外された。彼は「王座」に固執し、新たに王として油を注いだダビデを殺そうと長年追い回した結果、とても悲惨な最後を遂げてしまい、それで王座は、ダビデという、より優れた人へと譲られて行ってしまった。『神はそのしもべダビデを選んで、羊のおりから取り、乳を与える雌羊の番をする所からつれて来て、その民ヤコブ、その嗣業イスラエルの牧者とされた。(詩篇78:70-71)

 ナバルは裕福であったが、頑迷で行状が悪く、多くの部下達は、言っても聞かない彼から離れて行った。

 ある時、彼はダビデ達からの恩を、仇で返した事が決定打となり、彼は主に打たれる事となってしまう。ダビデは、彼の悪辣さに怒り、一族全員を討とうとしたが、主は、ナバルの妻・アビガイルという、信仰の優れた、聡明で美しい女性をダビデに送ってその思いを留め、ダビデが王になる前の汚点となる事をしてしまうのを防いだ。ナバルは主に打たれ、彼の美しく聡明な妻アビガイルも、彼の富も、全部ダビデのものとなった

  ダビデに王としての任職の油が注がれたのは、まだ誰もかえりみない少年の時だったが、彼はいつも主を賛美し、弱い者を顧み、どんな背景を持っている人でも受け入れては、羊飼いとしてよく面倒をみた

 主は天からあまねく人々を見回し、主の働き人として相応しい人を探し求めておられ、見つけたなら、その人を特別に扱い、その人をあらゆる災いから守り、また敵でも味方でも「人」を送ってその人を鍛え、整える。

 もし、主から特別扱いを受ける者になりたい、と願うなら、シェマー本文にある通り、御言葉を溢れるまでに存在させる者になり、昼も夜も御言葉を語り、子供によく教え込み、御言葉を手に行いに結びつけ、自分の家を御言葉を土台に据える者、となるべきである。主は、主から与えられた役割に対し忠実な人には、さらに大きな事へとその人を委ね、導いて行く。神の国の忠実な経営者として、託されたタラントをさらに何倍にも増やしていく、良き忠実な主のしもべでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

永遠の救いのやぐらであられる主(詩篇48篇)
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詩篇42篇から始まった詩篇第二巻の主題は「開放と贖い」で、トーラーの「出エジプト記」に相当するが、詩篇第二巻はまさに、出エジプト記の内容と同じような進行の仕方で進んでいる。
最初の42篇は、礼拝を妨げる敵によって苦しみに遭っている人の、主に対する渇きの祈りで、また43篇では、その敵に対して正当な裁きを求める祈りであった。
それが44,45篇へと進んでいくにつれ、徐々に、救いと開放の喜びの歌へと変わって行き、この48篇は47篇と同様、主が敵に正当に報復して下さった事の喜びの賛美に満ちている。

コラの子の歌、さんび
詩篇48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。

エルサレムは海抜790mの高さにあり,3つの丘からなっている.その北の丘に神殿があり,シオンの丘は西側にある.(実用聖書注解)
彼ら主の民、すなわち、主を礼拝する民は、主によって敵から救い出される。
その拠り所とする所が、彼らが麗しいとほめ讃えるシオンの丘、すなわち、主を礼拝する所である。

詩篇48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを/高きやぐらとして現された。

やぐらとは、高く建てられている見張り台のような建物で、矢や武器をもって敵に対し強硬に対抗できる所であるが、聖書の中では特に、見張りに立つ所、逃げ込む所として記されており、ダビデも好んで主をわがやぐらと言って告白している。
神は、聖徒たちが礼拝を捧げる場所において、自らを「高きやぐら」として、ご自身を示された。
私達も、主を礼拝の場所に行って主に求める時、主は私達の「やぐら」としてご自身を示され、主の民にとっては力強き助けであり、主に敵対する者には恐るべきものであると示される。

さらに4節から8節では、神の民に敵対する地の王達が来た際の有様が記されている。

詩篇48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。

主の敵・サタンに属する者達は、主の民が、やぐらと城壁に囲まれた中で、主を正しく礼拝している有様を見ると、おののいて逃げ出す以外に道はない。
逆に主の民の城壁がくずれていて、主を正しく礼拝していない様をみると、我が物顔で出入りして、好き放題にぶんどったり虐げたりする。
ネヘミヤが来る前のエルサレムがちょうどその状態だった。(ネヘミヤ1章)
主の民の敵は、まだエルサレム城壁が崩れっぱなしだった時、城壁の破れ口から出入りして、分捕り放題だったのが、ネヘミヤが来て以降、城壁が速やかに出来て、がっしりとした門が立てられたのを見て大いに面目を失った。

詩篇48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。〔セラ

主は「タルシュシュ」の船を東風をもって打ち破られたと告白している。
タルシュシュは地中海の向こう側の国で、現在でいうスペインだと思われているが、ツロとの海洋貿易で大いに繁盛し、富み、力を増した国である。(イザヤ23章)
しかし、エゼキエル書28章のツロに対する預言の中では、ツロはサタンの象徴として示されており、彼らの商売が繁盛した時、傲慢になった故に神が彼らを打たれる様が出てくる。

エゼキエル28:16 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から/汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを/火の石の間から追い出した。
28:17 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。
28:18 あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によって/あなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前で/あなたを地の上の灰とした。

タルシュシュはツロと取引して繁盛するが、サタンのように不正な流儀で富と権力を得て弱者を虐げるような者達は、主が東風を起こして取り除かれる。

詩篇48篇に記されているように、主の敵にとって、主が、主の民のやぐらとなられている様は恐ろしく、驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去る以外に無い。
しかしそれは、聖徒にとっては、救いと喜びのしるしである。

詩篇48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちで/あなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。

主の宮の中に入り、主を思う時、それは麗しい時、喜び楽しみの時だ。
そして主のさばきは、不正な者、主の敵に対しては恐怖の一時であるが、義に飢え乾く者にとっては、慰めの時である。
ナホムの名前の意味は「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は、名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。
実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのか?
アッシリヤは、残虐さを売り各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。
一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、イスラエルの神に挑戦するまでになった(イザヤ36-37章)。
それで神はアッシリヤを裁かれる。
アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は皆、手を叩いて喜ぶ。それは、誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたからだ、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。

詩篇48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。

私達もここに書いてある事にならって、主を礼拝する場所を歩きめぐり、主ご自身の救いであられる「やぐら」を数え、「城壁」に心をとめ、調べるべきである。
今まで生きて来た中で、御言葉がなかった時、やられっぱなしになっていた所に、主がやぐらとなり、防護壁となって戦ってくれた。
その主の恵みの数々を、数えるべきである。

私達は主の恵みを数え、そして主を礼拝する事によって、どんどん城壁が、やぐらが、神殿が、建てなおって行く。
私達が数えるべきは、それであって、決して過去の自分や今ある弱さではない。そんな事をしていると、再建は進まないどころか、サタンはその自己卑下した所を突いてきて、ますます破れがひどくなってしまう。
やぐらは防備をする所と同時に、見張りをする所である。
しっかり自分を見張って、過去の自分に思い耽る事や、敵が投げかけてくるあざけりや責め立てから、自分を守るのである。
あるいは教会の中で、凛として立っている「やぐら」のような人を見て、数えて、わたしもああいうふうに主が立たせてくださるのだ、と、ますます主に信頼するのである。

詩篇48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。

主は世々限りなく、とこしえに導かれる神。
私達は、この御方のためにこそ働き、この御方からとこしえに変わることのない完璧な防備を得、完璧な必要の満たしを得るのだ。

ヨハネ 6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。
(Do not labor for the food which perishes, but for the food which endures to everlasting life)

私達は朽ちる食べ物やなくなるお金のために労するのではなく、永遠に残る働きをするべきである。

人目に隠れた王達 - 主をほめ讃える民(詩篇47篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌
詩篇47:1 もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ。
47:2 いと高き主は恐るべく、全地をしろしめす大いなる王だからである。

「しあわせなら手をたたこう」という有名な歌があるが、それは、この詩篇47篇が元になってできた歌である。
この歌の作詞者は、木村利人さんというクリスチャンで、彼がフィリピンの農村でボランティアとして働いた1954年、第二次世界大戦で日本兵により親や家族を殺された経験を持つ人達がまだ多く、冷たく厳しい態度を木村さんに向ける人達が多くいた中、唯一、友好的な態度をとってくれていたランディという青年との交わりを通じ、国のした悪に関わりなく、全ての国民は主に向かって手をうち鳴らし、喜びの声をあげよ、という御言葉が元で生まれた歌だった。

私達が、人のした悪を思わず、自分の国という概念を超えて、同じ主を喜び、褒め称える時、奇跡が起こされる。
この曲はやがて日本で有名になり、東京オリンピックの時には世界的に有名になり、多くの国の言葉で歌われるようになって行く。
たとえ、国同士では敵対関係にあっても、同じ主に共に向かい、主の御胸である「愛し合う事、赦しあう事」を、態度をもって示して行った時、人が行った悪のわざは薄れ、ただ主の栄光が大きくなって行く。

詩篇47:3 主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。

私達は、神と人との間に立つ者、全ての国民をこの神へと引き寄せるべき王であり、祭司であり、預言者である。
私達が国の指導者、上に立てられた権威のために祈る結果、悪しき統治者達は降ろされ、良き統治者が与えられ、それによってもたらされる神の国の良き統治が及んで行く。
その時、「主はもろもろの民をわれらに従わせ」という言葉が成就する。

詩篇47:4 主はその愛されたヤコブの誇を/われらの嗣業として、われらのために選ばれた。〔セラ

ヤコブといえば、押しのける者、かかとを掴むものとして生まれてきた。
しかし彼は、やがて、主と格闘した時、主から「去らせなさい」と言われても「去らせません、祝福して下さるまでは」と言って去らせず、ついに、イスラエルという名をいただいて祝福を受けた。
どんな状況にいるとしても、祝福をいただくまでは去らせません、と、強い意志をもって祝福を勝ち取る。それが、主が愛されたヤコブの誇りである。
そのヤコブの誇りを持つ聖徒たちに、主は、嗣業を量って与えられる。

詩篇16:6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。
16:7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
16:8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
16:9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。

私達が受けるべき嗣業、すなわち私達が受けるべき仕事、家庭、行くべき道は、主が測りなわをもって測っておられ、私達の準備が整えられた時に与えられる。

詩篇47:5 神は喜び叫ぶ声と共にのぼり、主はラッパの声と共にのぼられた。

主は賛美の中におられ、人々の喜びの賛美と叫びと、楽器の音の中、共に上って行かれる。

イエス様がエルサレム入城する時、弟子たちは大声で神を賛美した。

ルカ19:37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、
19:38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
19:39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。
19:40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

人々の賛美と共にイエス様は上って行かれたが、パリサイ人たちはそれに憤慨し、賛美した人達を叱るように言ったが、イエス様が言われたのは、もし彼らが黙れば、石が賛美する、と言った。
賛美は、神の似姿として創造された人の口にこそふさわしい。しかしもし人が賛美しないとしても、太陽は、地球は、星々は、主を褒め称えている。(詩篇19篇)

それ故、6節以降は、賛美で満ちている。

詩篇47:6 神をほめうたえよ、ほめうたえよ、われらの王をほめうたえよ、ほめうたえよ。
47:7 神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。

まことに賛美は、聖徒たちに相応しい。
もし聖徒たちが賛美を止めてしまったら、石が主を褒め称える。神の子が主を褒め称えるのではなく石が褒め称えるとしたら、神の子として恥である。

詩篇47:8 神はもろもろの国民を統べ治められる。神はその聖なるみくらに座せられる。
47:9 もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。地のもろもろの盾は神のものである。神は大いにあがめられる。
(The princes of the people have gathered together,The people of the God of Abraham.For the shields of the earth belong to God;He is greatly exalted.)

英語の聖書(KJV)では、私達アブラハムの神の民は「地の王子達(あるいは王女達)」と言っている。

事実、私達はイエス様を信じた事によって、アブラハムの子孫とされ(ガラテヤ3:29)、王族の祭司、聖なる国民とされた。(1ペテロ2:9)
その身分である私達が、イエス様と共に治める故に「主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。」と書いてある。
世においては、国民の上に立つ王や統治者があるが、しかし霊的には、私達が、王であり、祭司であり、預言者、そして神の目には、そのような者達のほうが、権威的には上なのだ。
神は若きエレミヤを召し出した時、言った。

エレミヤ1:5 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
1:6 その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。
1:7 しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。
1:8 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。
1:9 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
1:10 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。
・・・
1:17 しかしあなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。
1:18 見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。
1:19 彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。

神がエレミヤに与えた権威は、なんと、「万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」というものだった。
さらに、「この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と言われた。

一見すると、エレミヤは一人で活動する預言者のようであっても、万軍の主がついておられ、主の言葉を忠実に伝えたエレミヤに対して、それを良しとしない者達によって諸々の陰謀が計られたが、エレミヤはその全てから守られ、また、一見すると彼が今にも死にそうになっても、必ず救われた。
それにひきかえ、エレミヤを通して語られた主の言葉に逆らった王達、偽預言者達は、ことごとく滅んで行った。

権威が与えられた者に要求されるのは、最上の権威であられる主への忠実さである。
私達は与えられた権威を、主の御胸に従って行使し、地の権威者達をとりなし、祈り、あるいは、主の御胸を忠実にそのまま語るべきであって、決して職権乱用してはならない。

結局、神から尊い者とされるのは、世の首相や総理大臣、大統領ではなく、私達・主から王として、祭司として、預言者として任命された者達であり、その私達こそ、人には見えない首相や総理大臣、大統領なのだ。

あの方の喜びとなるために(雅歌書2:1-7)
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ここは、互いに愛し合っている男女が、相手の麗しさ、慕わしさを喜び讃え合っているところ。

2:1 わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。
ここは男性が言ってるのか、女性が言ってるのか、意見が分かれているが、はっきりしている事は、イエス・キリストはまことに私たちにとってのシャロンのサフランであり、谷の百合である。
ゆりの花、サフランは香りを放つ。キリストの香りを放っている。
本当にこのお方のもとにいつまでもいたい、実側近くで香りをいつまでも描き続けていたい、と言う、慕わしさを持って、キリストの御側近くへと近づくものである。


2節は、男性が女性を褒めそやしている。
2:2 おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。

前回の1章で、この女性は、パロの戦車の雌馬になぞらえられ、またカスタムメイドの飾りをもって、飾られた。
男性は、愛する女性を、美しい飾りで飾らせてあげよう、と、さらに美しいしつらえ品を作らせる。
その飾りは、男性が好む飾りであり、女性の好む飾りではない。
女性が男性が贈った男性好みの飾りを身に付ける時、その女性は、娘たちの間にいるとしても、周りの娘たちは、いばらに見えて、自分の愛する女性だけが、百合の花のように、際立って慕わしく、美しく見えるのだ。
棘はキリストの頭を刺したが、世の者達はキリストにとって、とげとげしている。しかし、私達は、キリストの飾りを身に帯びるなら、私達こそ茨の中の百合になるのだ。
私達も、キリストが与えて下さる御言葉の飾りを、あるいは、時には試練という飾りが与えられる時があるが、それも受け入れて身に帯び、しっかりと自分のものとして、主とともにいくなら、キリストの目には、ますます、いばらの中の百合の花のように見えていく。
イエス様を愛していない人は、イエス様がくださる飾りを好まない。でも、本当にイエス様を愛しているなら、その人はどんどんどんどんキリストがくださる飾りをもっと身に纏いたい、あなたの喜びになりたい、と思うようになっていく。

さらに乙女の言葉が続く。

2:3 わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。
2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。

私たちは、大きなものの陰に宿る時、安心感を、居心地の良さを感じるが、女性にとって、男性は大きい存在で、女性の方が体のサイズが小さい。
主がそのように造ったのだが、彼女は、愛する方は林の木の中のリンゴの木のようです、と言っている。
りんごは体に良く、病気になっている人は、りんごを食べる。おいしくて、甘い、そして少しすっぱい。私にとって、相手の男性は、この、おいしくて、甘くて、少しすっぱいリンゴのようだ。その木陰に座って、直射日光から守られ、甘酸っぱい実を得たいと願っている。

イエス様が私たちに与える良きもの、イエス様が私たちに送ってくださる言葉は、私たちの口に甘い。
詩編91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。

詩編は格調高く聞こえるが、雅歌書のほうはそれにプラスして甘さが、麗しい感情が込められている。
盾の中の盾、やぐらの中のやぐらである私達の主は、リンゴの木のよう。うるわしく、慕わしいお方。その全能者は、私たちをいばらの中の花のようだと見てくださる。

イエス様が私たちのことを、いばらの中の百合の花のようだと言っていただくためには、条件があった。
それは私達が、キリストが飾らせてくださる御言葉を、身に飾ること。
もし身勝手な飾りを身に帯びるなら、イエス様は見向きもしてくれない。しかしイエス様がくださるものを、その身に帯びるなら、女の中で最も美しい、いばらの中にいる百合の花の上に見えると言ってくださる。

ゼパニヤ3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。

もし私たちが、イエス様が送ってくださる飾り、試練の飾り、私が皆さんにこうなって欲しいと言う通りに、自分が飾られるママに飾られるのであれば、上は喜び楽しみ、高らかに歌って、喜ばれる。
このゼパニア三章の後半は、本当に素晴らしい愛の歌であるが、一章から三章の中盤までは、実は、懲らしめに満ちている。
3章1節では、懲らしめという飾りを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近付こうとしなかった事を責め立てており、それ故、強制的に懲らしめが与えられ、7節において、あなたはただわたしを恐れ、懲らしめを受け入れよ、そうすれば彼らが行った悪事にもかかわらず滅ぼされるような事はしない、と。そうして9節以降、幸いな預言へと切り替わる。
だから私達も、主の前に「懲らしめ」という飾りが与えられたなら、受け入れるべきである。
そして主の御胸のままに身を委ねるのであれば、さらに素晴らしい飾りを飾らせて下さり、その時、主は高らかに歌って喜ばれる。

2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。キリストの旗印は、愛。
旗印、とある。イギリスの王家がどこかに行くときには必ず端を持っていく。だから、林の木陰に置いて、バンケットを持つときに、イギリス王家の旗を掲げて、ここにはおうがおられる、と示しその領域は王が宿る所だ、と示すのだ。
キリストは、荒野においても宴を設ける時がある。私たちのために酒宴の席へと導かれる時、旗を掲げられる。ここは、キリストの王子王女がおられると。そしてその旗印は、愛である。


ルツはボアズの衣の裾をまくって、その中に入った。
あなたは、家を絶やさない責任のある方です、どうか私を買い取ってください、と求めた。私たちも同様に、キリストの愛の旗印の下に、足のまくって入り、キリストの下にぴったりとよりそって入るべきだ。
そしてわたし達が愛の旗印の下に宿るならば、イエス様が守り、私たちも潤っていく。


2:6 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。


女性は求める。本当にこの麗しいお方の、懐深くに宿り、彼の腕の中に抱きしめられ、守られる、ということを。
私たちも、ルツのように、キリストの懐に飛び込んで、愛の旗印に包まれて、その腕の中に宿ることを、求めるべきだ。
そのように慕い求めていくなら、どんどんキリストとの愛の関係に入り込んでいく。

さらに、この6節から、聖書的な男女のポジションがわかる。
女性は、男性の左の腕の下で、男性の右の手で抱っこされる事を求めた。

女性はもともと、男性の脇腹のところに収まっていた。(創世記2章)
だから女性にとっての本来の居場所は、男性の心臓の所に、男性の腕にくるまれている状態であり、女性はそれを求めている。

これをイエス様との関係に適用するなら、私達は、男性女性に限らず、本来いるべき場所は、キリストの懐の中である。
そこは、十字架上で、槍が突かれた時、水が流れていた。
キリストが、十字架上で死んだ時、私たちも一緒に死んだ。そして復活の時、私達もキリストにある永遠の命が生まれた。
アダムは、深い眠りに落ちていた時に、脇腹から骨がとられて、神さまに整えられて、そしてアダムのところに連れてこられたのと同様である。
私たちも、そのホームポジション、キリストの脇腹のところを求めて、そこに宿るなら、詩篇91にあった通り、昼くる矢を恐れず、夜歩き回る疫病を恐れず、1000人、10000人が右手左手に倒れようとも、恐れることはない。
ルツのように、イエス様の贖いの衣をまくってその中に入り、その中で守られ、ますますキリストの慕わしさ、麗しさの中に浸しこまれて行く皆さんでありますように。
イエス様のお名前に行って祝福します!
 

ガールズソプラノによる力強い信仰告白
(詩篇46篇)
Youtube動画

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詩篇46:1 聖歌隊の指揮者によって女の声のしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

コラの子達は、この詩篇46篇を「女の声のしらべに(アラモテ)」合わせて歌わせた。
男声がない、ガールズソプラノであるが、この詩篇の内容は、世界的な戦争を前にしても動じないという力強い信仰告白があり、また、黙示録をも思わせるかのようなスケールの大きな事件も言及されている。
このような内容は、男声にこそ相応しく思われるかもしれないが、主が助けてくださるのは、人間の、男性的な力強さによって、ではない。
たとえ、かよわい女性であっても、主を避け所とする人をこそ、主は助けて下さる、というのが、この詩篇が示す所であり、主の救いが美しい女声ソプラノで歌われ、力強く美しい主の栄光が讃えられる。

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

主は私達の「何」であるのか、私達は主を、どのように評価するのか。
主は、その個人個人の、主に対する評価、すなわち信仰を受け取って下さる。

詩篇18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

その結果、主はまことにダビデが宣言したとおりに助けてくださり、力を帯びさせてくださった。

詩篇18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実(ツァラァフ)です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。
18:33 神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、
18:34 わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。
18:35 あなたはその救の盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしをささえ、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。
18:36 あなたがわたしの歩む所を広くされたので、わたしの足はすべらなかったのです。

主の言葉はツァラァフである、と言っている。ツァラァフは(金属などを溶かして)純化させた、ためした、純粋な、という意味である。
私達が救われる根拠は、神の完全さであり、主の言葉の純粋さである。
その御言葉の純粋さこそが、戦いにおける鋭さであり、私達の歩みを助け、私達に力を帯びさせ、安全にし、敵に勝利させ、そして、終わりの日に私達を守るのである。

詩篇46:2 このゆえに、たとい地は変り(KJV: the earth be removed)、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
46:3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ

これ以降の箇所は、あたかも、黙示録を思わせる内容だ。
黙示録には記されている。やがて聖なる都はサタンの勢力によって取り囲まれ、しかし主はその勢力に天から火を降して滅ぼし、そして地は取り除かれ、山は移される。聖徒たちは新しい天と地に入り、永遠にいのちの水の流れによって養われる。
この地上においては確かに戦争のうわさがあり、主に敵対する者達の武力によって強制的な統治がなされる事がある。
しかし、純粋なる御言葉を拠り所とする私達は、恐れることは無い。たとえ黙示録のように、天も地も巻き去られようとも。
天地は滅び失せても決して変わる事の無い御言葉により頼む者は、安全なのだ。状況がどんなに変わろうとも、あるいは、良くない状況がいかに変わろうとしないとしても、純粋なる御言葉により頼んでいる人達は、守られ、養われ、そして救われる。

詩篇46:4 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
46:5 神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。

セラで区切られた後、「川」、が登場する。
川が、神の都を潤す有様は、エゼキエル書にも黙示録にも出てくるし、黙示録にも登場する。

黙示録22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

この川の源は、神と小羊との御座だ。
主を拠り所としている人は、水路のそばに植わった木のように、いかに旱魃のような状況でも潤され、時が来れば実が実り、その葉は枯れず、何をしても栄える。
それは、主の御座からこんこんと途切れなく流れてくる、いのちを潤す水によっていつも養われているからだ。

詩篇46:6 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

終わりの時代、神に逆らって立つ国々が起こり、武力や経済力をもって聖徒に戦いを仕掛けるようになって行く。
しかし、主を避け所とするなら、決して揺るがされない。
黙示録20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

以下、聖徒が為すべき事が示されている。

詩篇46:8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。

聖徒たちが為すべき事は、まず「来て」、そして「見て」、学ぶ事だ。
主は、良くない人、事、モノには、荒廃をもたらし、「こうなるぞ」と示され、そのような主と主の言葉に逆らった者達が荒廃した様を見て、わたしを覚えなさい、と。

詩篇46:9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
46:11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

主は、世と聖徒を分けられる。
世は、弓や槍、戦車で強くなろうとして行くが、私達信仰者は、それよりも遥かに強力な武器、御霊の与える御言葉の剣を持っている。
そして、万軍の神、主が軍配を上げて下さるのは、必ず、主の御言葉に聞き従う人に対してである。

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