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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

凝り固まって中々消せない心の黒板の落書きに対処する術(2コリント10:4-6)

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昨日、私達の心に、心の「黒板」がある事を、学びましたね。
今日は、その続きです。
 
この、私達の心の黒板には、ガードがありません。鍵は、ありません。
気づかないうちに、傍らの人が、チョークを持って入って来て、
好きなことを書いていける――そんな黒板です。
 
親や友だちが好き勝手にかけますし、
先生や上司や、兄弟姉妹も、ぐさぐさ刺さるような事を、書いていきます。
たとえば、こんな感じです。
 
「それ、向いてないんじゃない?」 「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「みんなに迷惑かけるって、わかってるの?」
「あなたは、愛されるタイプじゃないよね。」
「どうせ続かないよ。」  「期待しないほうがいいよ。」
 
こういう、一言です。
しかも、心の黒板の落書きって、チョークの粉が、凝り固まって残るんですよ。
黒板消しで消しても、薄く残るんです。
しかも、残った粉の上に、また次が書かれる。
それで、黒板はいつの間にか、他人の文字でぎっしりになる。
 
そして、厄介なのはここからです。
書かれた言葉が、いつしか“自分の声”になってしまうこと。
 
誰も言っていないのに、朝起きた瞬間から聞こえてくるんです。
耳元で、ささやいてくるんです。
「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「今日もだめだよ」 「また迷惑かけるよ」
 
あたかも、黒板の文字が口を持って話しかけてくるみたいに。
 
それで、LINEをしても、既読にならないだけで、胸がざわつく。
“あれ?嫌われた?”って、勝手に結論が出る。
 
職場で名前を呼ばれただけで、わなわな、わなわな、なってくるんです。
 
川合先生が、まだ怒っていないのに、
ああっ、怒られる!! が先に来て、身が硬直するんです。
 
そばの人が、タメ息をついただけで、反射的に、わたし、嫌われてるのかな?って思うんです。
 
何でもないのに、突然、過去の失敗がフラッシュバックするんです。
もう過ぎたはずなのに、心の中が、“現在進行形”で痛いんです。
 
これが、黒板が落書きで埋まりすぎている状態です。
こうなってくると、
「本当の自分」がどこにいるのかわからなくなってしまうんです。
 
神さまが造られた創造本来の姿よりも、
誰かに貼られた落書きのほうが、濃くなってしまっているんです。
 
みなさん―― その落書き、
あなたじゃないです!!
それはあなたの本質ではないし、あなたの性格でもないし、あなたの運命でもない。
 
それは、心の黒板に書き込まれた言葉が、積もって、固まって、
“要塞”になってしまったものです。
 
要塞って何か。
中に敵が潜んで、タイミングを見て攻撃してくる場所です。
普段は静か。でも「きっかけ」があると急に動き出す。
 
たとえば――
ちょっと注意された。それだけなのに、
「ああ! やっぱり否定された」
「やっぱり私は価値がない」 「やっぱり嫌われる」
たとえば――
家族に一言言われた。
ほんの小さな言い方が刺さった。
すると、昔の傷が全部連れて来られる。
 
それで、涙が出るほどちぢこまったり、腹が立って怒りが止まらなかったりします。
それでいて、自己嫌悪が来るんです。
 
違うんです!
それは、あなたではない。
あなたの中に“住み着いた要塞”、言葉の城なんです。
 
今日のテーマは、ここです。
要塞は、壊せる。
みなさん、言いましょう!
要塞は、壊せる。
黒板は、書き換えられる。
 
そしてそれは、気合いや根性ではありません。
聖書は言います。
 
 10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
 10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
 10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
 
こで「思弁」とでてきました。これは、「ロギスモス)」と呼びます。
「相手が悪い、だから私は正しい」
とか、一見すると論理的で、筋が通っている。計算が合っている。
だからこそ厄介なんです。
 
そして次に、その理屈が大きくなると、心の中に「高い塔」が建ち始める。
“私はこういう人間だ” “私はこうする所存です”
 
それが「障害物(エパイロー)」――高慢という名の“高台”です。
高台に立つと、見晴らしがいい。自分が強くなった気がします。
 
さらに、その高台の中で「思い、これを(ナイマ)といいます」――
この思いというのは、はかりごと、とか、所存とか、心の企みが育っていく場所です。
 
これは、自分の中で、会議室をつくって、心の中の“自分王国”が政策を決めていくんです。
「こう反応すべきだ」 「こうやって人を判断すべきだ」
「こうやって自分を守るべきだ」
 
そうして、気づいたら、心の中に“要塞”が完成しているんです。
そして、その要塞の中から、敵が時々顔を出すんです。
些細な一言で爆発するんです。
 
 
だからパウロは言うんです。
私たちの武器は、肉のものではない。
神のためには、要塞さえ破壊する力がある、と。
 
ここで大事なのは、聖書が「あなたは努力で心を整えなさい」と言っているのではないことです。
“神から来る武器”があるんです!
つまり、戦い方が違うんです。
 
そして、その戦い方が、衝撃的な表現で描かれています。
 
「それを、逮捕して、キリストへと連行せよ!」
思いを、逮捕する。
感情を、逮捕する。
理屈を、逮捕する。
 
みなさん、神に逆らってたついものは、逮捕です。
自分の思いかどうか、怪しいものは“手錠をかける”んです。
 
「はい、あなたは今、ここで主権者ではありません。」
「あなたは真理ではありません。」
「あなたは私の人生の王座に座れません。」
そして連行して、キリストの前に引き出すんです。
 
ここまで来ると、私たちは気づき始めます。
「あれ…これ、私の本音だと思ってたけど、違う。」
「これ、私の性格だと思ってたけど、違う。」
「これ、真実だと思ってたけど、“要塞の声”だった。」
 
ダビデがよくやったのは、これです。
彼は自分に言い聞かせました。
「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と。
面白いですよね。
ダビデは、心が自然に主をほめたたえるのを待っていない。
たましいが暗いとき、たましいがふてくされているとき、たましいが傷だらけのとき、
彼は“たましいを相手にして”語りかけた。
つまり、私たちも同じです。
心が勝手に言うことを、そのまま採用しなくていい。
たましいが勝手に走ろうとする方向に、ハンドルを渡さなくていい。
「その思い、いま逮捕。」
「そして、キリストに服従。」
これが、御言葉の戦い方です。
 
 
ですから、今日、もし心の中が騒がしいなら。
理屈が止まらないなら。
高台から降りられないなら。
こう祈ってください。
 
「主よ、この思いを逮捕します。
私の計算を、あなたの前へ連れて行きます。
私の高慢を、あなたの光にさらします。
私の所存を、キリストに服従させます。
私は王座を明け渡します。あなたが王です。」
 
この!
服従が“完全になる”とき――
つまり、心の中で主が王座に座ることを私たちが選び続けるとき、
要塞は音を立てて崩れ去ります。
敵は居場所を失います。
 
ですから、みなさんの人生は、みなさんの理屈が守るのではなく、
キリストの御言葉が生かすのです。
この「いのちのことば」を、今日いっしょに握りしめましょう。

心の黒板の落書き(マタイ 4:1-4)

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今日、扱うテーマは、「ことば」です。
みなさんは、今まで生きてきた中で、色々な「ことば」が、自分自身の心や思いに刻み込まれていると思います。
 
たとえば、親や先生が言った言葉が、ずっと記されている事でしょうし、
子供の時にみたテレビ番組や、漫画とかの内容も、書き込まれているでしょう。
あるいは、昨日見たYoutubeとか、インターネットの情報が、心のことばに新たに書き込まれているかもしれません。
 
このようにですね、私たちの心や思いには黒板があるんです。
そしてこの黒板には、誰もが落書きをすることができるんです。
 
そこには、自分以外の誰か他人が落書きすることがありますし、
また、私達自身も、自分の黒板に、自分で書き込みをする事ができます。
そして、悪霊やサタンも、私達の心の黒板に、書き込みをすることがあります。
 
みなさんの中に、今、もしかすると、
何かのことばがずっと心に刺さりっぱなしで、その心の傷からずっと血を流しっぱなしの状態の方も、いるかもしれません。
 
特にですね、悪魔やサタンは、
「お前はダメだ」とか「失敗者だ」とか、
ぐさっと刺すようなことばを書き込んで来るんですが、
やっかいな事にですね、そういった言葉を投げて来たのは、悪霊やサタンだと思わないんですね。
 
実際に覚えているのは、そのことばを放った、あの人この人の顔です。
 
あるいは、特に、これは夜に多い事ですけれども、
みなさんが夜、フトンの中に入った時、
むかし言われた、あのことばが、強烈に頭の中に巡ってきて、
ああ、あの時のあいつ、憎たらしいな、とか、
あの時わたしはどうして、ああいう風にしてしまったのだろう、とか、
どうしてわたしはこうなのだろう、とか。
 
あるいは、将来の事とか、経済の事とか、社会情勢の事とか、
いろいろな事が、頭の中を堂々巡りして、
そうやって自分で自分の黒板に、たくさん落書きしてしまう、
という事がありますが、
実はそれ、悪魔サタンが、そういったネタを飛ばして来るんです。
 
でも私達は、その由来が、悪魔サタンだとは思っていないんですね。
飛ばしてきたのは、あの人この人とか、自分自身だと思ってしまいますが、
でも、すべて人を闇にさせる言葉は、悪魔サタンが飛ばしてくるものです。
 
 
まず知っておくべき事は、真実・本来の自分は、神様の前でどんな姿であったのか、ということです。
 
まことの真理の「ことば」である聖書は、私達について、どのように記しているでしょうか?
 
私達は本来、神様によって、神の似姿に創造された存在です。
けれども、悪魔が、最初の人であるアダムとエバの心の黒板に、まことの真理のことばである神のことばとは、真逆の内容を落書きしてしまって、
それで彼らは、神様のおことばどおりにはしないで、悪魔のことばどおりに、実行してしまったのです。
 
昨日のメッセージで学びましたね。
いちばん大切な事は、神様のおことばどおりに実行する事だ、と。
 
サタンのやり方は、いかに神様のことばから離れさせよう、という方向に、働きかけることです。
私達は、そうした悪魔の策略を知って、それに対抗して勝利する術を身につける必要があります。
 
幸いなことに、イエス様は、悪魔サタンのことばに対抗する術を、私達に実演してくださいました。
 
 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
>イエス様のミニストリーの最初は、悪魔のことばを打ち砕く事!
モーセもそうだった。パロの前で、放った蛇をつかむ事が、エジプトという牢獄から脱出するための最初のしるしだった。
 
 4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
>サタンは「石」を「パン」に変えてみなさい、と言って来た。
石をパンに変える?
そんなのは、当然、神の法則に叶っていない。
イエス様ならともかく、そもそも私達人間には、そんな事できないから、誘惑になりようがない。
 
けれども、この、石をパンにかえる、という誘惑は、
ヘブライ語でみると、霊的な意味が見えてくるのです。
どういう事か。
 
ヘブライ語で「石」はエベンと言う。
これを分解すると、「アブאב+ベンבן」になる。
すなわち、父(アブ)と子(ベン)の関係として読み取ることができる。
この、私達と神様との関係、父と、子の関係を、
パンに変えてみなさい、と・・・
 
 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
イエス様は、神であられるのに、「人は」とおっしゃった。
神としての圧倒的力を用いず、あくまで「人」の立場を貫いて神の言葉によって勝利するコツを、私達・「人」に開示してくださった。
 
人は、肉欲を満たすパンだけで生きるのではない。
真に人を生かすのは、「神の言葉というまことの食物」である。
 
 私達が、パンにおいて飢えた時、あるいは金銭において不足が生じた時など、主が許可していない手段や、サタンが好むようなやり方で、得ようとしてはならない。
ただイエス様というまことのパンを選び、まことの食物である御言葉に聞き、不安な心に対し御言葉を信じて口ずさみ、誘惑してくるサタンを、御言葉で叩き返すことです。
 
今日、みなさんに覚えておいていただきたい事は、
心の黒板消しは、神さまのお言葉だ、という事です。
 
世の中は、色々と、不安にさせるような、ことばを投げかけてきます。
その中には、私達の尊厳を傷つけてくるようなことばもありますが、
それに対しては、イエス様がしたように、
聖書には、なになにと書かれてある!
と宣言して、偽りのことばを、真理のことばで、上塗りする事です。

 

今にも死にそうな貧しいやもめが偉大な預言者を3年も養った話(1列王記 17:13-14)

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1列王記 17:13-14
 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
 
今日は、ある、一人のやもめのお話をしたいと思います。
彼女は、シドンのツァレファテという町に住んでおりました。
彼女は、やもめです。夫を失い、守り手を失い、収入を失いました。
そしてその時は、とても大変な時代でした。
神様を恐れる敬う人があまりにもいなくなったので、天から雨が降らなくなってしまったのです。
空はひたすら青くて、雨は降りません。
土は乾いて、手に入るものはどんどん減って行きます。
 
人々は噂します。
「もう何ヶ月も雨が降らないよ。パンの値段もどんどん上がっていく。
これからどうやって家族を養おう。」
人々はそれぞれ、自分がおがむ偶像の神々に頼みますが、なんの効果もありませんでした。
 
そんな中で、彼女は、イスラエルの神、主に祈っておりました。
「神様、どうか助けてください。
もう、台所には、一回分の食べ物しか残っておりません。
神様、どうか助けてください。
せめてこの子だけでも、生かしてください。」
 
母親の心は、不思議です。自分が食べないことには耐えられても、子どもが食べられないことは刺さるのです。胸が痛むのです。
 
彼女は、祈ってから、最後の食事を料理するために、たきぎを拾いに行きました。
彼女は、町の門のところでたきぎを拾っています。
もう、料理をするためにたきぎを拾うのは、これで最後だろうか。
そんな風に思いながら、拾って今したところ、
そこに、ひとりの男が近づいてきました。
その男性は、毛の衣をまとっていて、革の帯を締めておりました。
その男性の名は、エリヤです。
彼は、神さまから預かった言葉を、そのまま伝える預言者でした。
 
彼女は、その男性の成り立ちや雰囲気から、直感的に、この人は神の人だ、と感じました。
実際彼女は、彼とは初対面だったのに、彼が神様のことをよく知っている人であるかのように接します。
 
その男性は、彼女に言いました。
「ほんの少しの水を持って来てください。」
 
水。。。
このような時代、水は命です。
そんな貴重な水は、できれば子供のためにも取っておきたい。
けれども彼女は、彼のために取りに行こうとしました。
ここに、彼女の、高貴な品性が垣間見られました。
 
自分が苦しくても、神の人は、大切にする。
たとえ持っている全財産が、ほんのわずかであっても、それを神の人のために用いる。
このような品性を持つ信仰の人を、神様は天から見ておられ、しっかりと、覚えておられるのです。
 
でも彼は、彼女に、さらに追い打ちのような言葉を言うんですね。
彼は言いました。
 
「一口のパンも持って来てください。」
 
彼女はそれを聞いて、胸が、ぎゅっと縮む思いがしたことでしょう。
彼女は、正直に答えます。
 
「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。
ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。
ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、
帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
 
彼女は、「あなたの神、【主】は生きておられます。」という言葉で、語りはじめました。
ここに、彼女が信仰者であったことが窺われます。
さらに、この言葉からは、この男性が、神の人であるとうすうす感づいていたこともわかります。
 
彼女は、正直に、全てを彼に打ち明けました。
そこで、彼は言います。
 
 
「恐れてはいけません。」
 
恐れてはいけません。。。
 
この言葉は、軽い気休めで出た言葉ではありません。
神様の、根拠がある言葉です。
 
神様は、この
「恐れてはいけません」
という言葉を、全ての、“恐れて当然”な状況にいる信仰者に対して語られます。
 
 
さらに、彼はこう続けて語ります。
 
「行って、あなたが言ったようにしなさい。
しかし、まず、私のために小さなパン菓子を作り、持って来なさい。
それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」
 
これは、とても理不尽に、そして冷酷に聞こえたかもしれません。
しかし、彼がそのように言ったのには、理由がありました。
 
それは何も、彼が、彼女たちから強制的に最後の食料を取り上げるためではありません。
そうではありません。
神ご自身が、彼女のことをよくご存知であり、
預言者エリヤのほうも、この町に来たのは、他の誰でもなく「彼女に」会うために来たのだからです。
そして神様は、彼女を通して、神の預言者を
長い間、養うようにするために、エリヤを、この街の彼女のところに遣わしたのです。
 
一体どうしたら、今にも死にそうなほど貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
 
 ここ、大事なところです。
 
一体どうしたら、今にも死にそうなほど貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
 
それは、他でもありません。
神様の、おことばを信じて、そのとおりに、する事です。
 
神様のおことばを信じて、その通りにする、という性質は、何よりも素晴らしい性質です。
それがある人は、たとえどんなに貧しくても、どんなに弱い立場のやもめでも、
神様に用いられて、神様のために素晴らしいお手伝いをする事ができるのです。
 
エリヤは、さらに言葉をつづけます。
「イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。
『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、
そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
 
 
彼女はこの言葉を、イスラエルの神、主が、他でもない、自分に向かって仰せられたお言葉、として受け止めました。
信じました。
 
そうすると彼女は、一抹の希望を持つことができました。
いつも祈っているイスラエルの神様が、こんな私に目を留めてくださった、と言う嬉しさと、
そして、この瓶の粉は尽きず、油もなくならない、と言う言葉に対する希望が、ほんのわずかではありますが、芽生えたのです。
 
それで、彼女は、その2、3本の薪を家に持ち帰って、いつものように、粉に残っていた最後の油を、料理台の上に出しました。
そして、油のツボを傾け、もう本当にわずかな糸のように滴る、少しの油を、最後の1滴まで、その粉の上に注ぎつくしました。
 
お腹を空かせ息子が、その様を見ています。
あぁ、最後の粉と油が、今料理されている、と息子にもわかります。
母は、そんな息子の視線に気づいて、彼を見ます。
息子は、求める目で母親を見つめます。
母親は、そんな彼に向かって、言いました。
 
「あの方が先よ。」
 
その母の表情は、神様を信頼しきって笑顔だったでしょうか?
それとも?
9割は心配で、希望は1割しかない。というような表情だったでしょうか?
 
どちらにしてもですね、彼女がどのような心持ちであったのかは、実は重要ではありません。
重要な事は、彼女が、神様のお言葉に従った、という事実です!
 
神様のお言葉に従ったという事実!
それが、その後の明暗を、くっきりと分けるのです。
 
こうして、1つの小さなパン菓子が、焼き上がりました。
彼女はそれを、預言者のところに持っていきます。
預言者は、それを神様に感謝していただきました。
 
そして預言者は、彼女とその息子に言います。
「ほら、台所に行って、みてみなさい。
神様がお言葉通りにしてくださったかどうかを。」
 
二人は台所に行って、見てみると、本当に、神様が言った通り、空っぽのはずの、かめの粉は尽きておらず、壺の油は、なくなっておりませんでした。
これで彼女たちは自分たちの分も焼いて、食べることができました。
こうして1日分、彼らの命は、つないだのです。
 
この奇跡は、1日限りの奇跡ではありませんでした。
彼女の従順によって、その翌日も、そのまた翌日も、瓶の粉は尽きず、油はなくなりませんでした。
こうして、預言者エリヤと、この一家は、神様が雨を降らせるその日まで、長らく、命をつなぐことができたのです。
 
今日、皆さんに伝えたい重要なことは、1つです。
先ほども言いました通り、
神様のお言葉に従う性質が、何よりも重要だと言うことです。
その性質を持ってる人が、困難な時代を神様に助けられて生き延びます。
そればかりでなく、神様の重要な働きをその時代に、するようになるのです。
 
神様の働きをするのは、大きな力や、持ち物がなくても、いいんです。
ただ神様のお言葉に従う信仰をいつも持っていて、困ったときには神様に助けを求めるなら、神様は、その人に助ける人や物、事を遣わしてくださいます。
さらには、皆さん自身が、偉大な神の預言者を養うと言う、永遠に残る素晴らしい働きをするかもしれません。
 
主は、生きておられます。
そして、みなさんを見ています。
みなさんが養っている子供を見ておられ、必要を見ておられ、
毎日の、小さな従順を見ておられます。
そして、皆さんのその従順こそが、この時代を神様の働きを通して、大きく動かすことになるのです。
 
困難な時代の中でも、神様のお言葉に従う従順によって守られ、必要が満たされ、養われ、そして神の偉大な預言者を養うほどの働きをする皆さんでありますように
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

見たこともないような全く新しいことをしておられる主(イザヤ43:19)

第一礼拝 Youtube動画

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週報/メッセージ(説教)概要

 

1月の御言葉 イザヤ43:19

 

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:19)

 

 今年最初のニューイヤーズ・イブ礼拝で、新年が明けた時のメッセージで示された御言葉は、アブラムに対する主の言葉、「恐れるな、(アブラム)よ。わたしは(あなた)の盾であり、(あなた)への、はなはだ大いなる報酬である。」(創世記15:1 逐語訳)でした。 主を自分の盾とし、主を自分の相続とし、報酬とする人が受ける報いは、非常に大きい! その報いの第一弾は、「主は全く新しくしてくださる」、です。

 

今月の御言葉、イザヤ43:19をより詳細に訳すと、以下のようになります。

「見よ。わたしは(今まさに)行っている。(これまでになかった全く)新しいことを。

今、芽生えているではないか。あなたはそれを知ろうとして行かないのか?

わたしは置く。荒れ地に道筋を、また乾いた地に川々を。」

 すなわち、神ご自身が、今まさに行動を起こして新しいことが芽生えておられ(進行形)、しかも神は、
「あなたはそれを知ろうとしていないのか?」と、問いかけておられます。すなわち私達に、受け身で観察をするのではなく、信仰による洞察と応答を自分から積極的にしなさい、と、促すニュアンスになっています。 

主は、主がなさろうとしている新しい事を積極的に知って行こうという姿勢を私達に求めておられるのです。

 

 最近、1189テフィリンでは、伝道者の書を暗唱していますが、ソロモンはそこで真逆な事を言っています。

すべてのことは物憂く、日の下に新しいものは一つもない。これは新しい、と言われるものがあっても、それははるか先の時代に既にあったもので、それはもう記憶には無く、これから起こることも後の時代の人々の記憶には残らない。。。全てはむなしい、と。 私達はソロモンの言葉に同意するでしょうか?それとも??

 忘れてはならない事は、これは、神様から段々離れて行ったソロモンが晩年に書いたもので、つまり、神から離れた人間が叡智を極めた結果、最終的に行き着く思想が、この伝道者の書である、という事です。

 神様を「抜き」にして、世の知恵、世の富、世の楽しみを味わい尽くす者の行き着く先が、伝道者の書の思考ですが、それに対し、「主こそわたしの報酬」としている人に、主が準備しておられる報いは絶大です。

主に望みを置く人の行き着く先は、黙示録21-22章に記された永遠のいのちの喜びと、新しい希望です。

 

 主は、言っておられます。これまでになかった全く新しいことを、今、まさに構築中だ、と。今、それが芽生えているではないか、と。外の桜は、今は枯れ枝のように見えますが、見た目はそうでも、その中では芽生えの準備を着々と進めています。 それと同じで、たとえ今、主がなさろうとしておられる事が見えず、枯れているかのように見えても、主は着々と、見た事の無いようなものを準備しておられ、それはある時、華やかに開花します。主は「あなたはそれを知ろうとして行かないのか?」と、私達の積極性を求めておられます。

 

 主は言われます。「わたしは置く。荒れ地に道筋を乾いた地に川々を。」と。 荒れ地は道なき所ですが、主は、そこに「道(デレク:道筋、方法、通り道)を設けてくださいます。どんなにめちゃくちゃで、道筋も方法も見いだせないところでも、私達の報酬であられる主は、そこに道筋を、方法を、通り道を置かれます

 また、乾いて生命なき所に、豊かさや命の象徴である川々(複数形)を置いてくださいます

続く20節では「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」と書いてあります。たとえジャッカルのように荒々しく、弱いものを集団で食い物にするような者でも、あるいはだちょうのように、知恵も愛情も無い者であっても、主を知り、主をあがめるようになる、と書いてあります。 これこそ、主に望みを置く者の受ける報いであり、それは今までに一切なかった、全く新しいつくりかえが、主によって為されるからです。

 しかし、世のものや、過ぎてしまった過去など、神ではないもの、すなわち、すたれるべきものに見入って、目を留め続けているなら、新しいものが来ても気づかないものです。ソロモンのように、神を除外した自分だけを見つめ続けていると、堂々巡りから脱出できません。 しかし、主を自分の「報い」とした人は、主が用意してくださる新しい命、新しい歩みの中を進むことができます。主を自分自身の「報い」として定め、今まで見たことも聞いたこともないような、全く新しい報酬を得ていく今年の皆さまでありますように!

主日礼拝

熱いスピリットを起こす秘訣(マタイ5:3-6)

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週報/メッセージ(説教)概要

 この度、韓国各所に起こされているIMのセンターを視察するため、韓国をほぼ一周して来た。行った先々で、共通して言われた事は、このIMのシステムおかげで、次世代だけでなく大人もどんどん変えられ、その変えられた彼らの様に驚いた人々が次々と加わり、さらに増え、さらに変えられている。今は今までで一番幸せな働きをしている。日本のために喜んで助けに行くのでぜひ、うちのセンターに頼んで下さい、と。
実際、それぞれのセンターの子どもたちは共通して、素晴らしく秩序があり、礼拝においても賛美においても、ワーシップダンスにしても、伝道にしても、一切の迷いなく、はつらつと行うので、閉塞的だった子供も大人も、ともにイエス様を祝う喜びの渦へと巻き込んで行った。子供たちの学びの場や生活の場も見させて頂いたが、びっくりしたのは、彼らの時間管理と、空間管理の、規律正しさである。とにかく無駄が無い。
そして彼らは、御言葉を暗唱してからでないと、夕食にあずかれない。若い時からそのような習慣が身についているからには、今回、第一期生がアメリカの一流の大学に次々と合格したのも、うなずける。
 
 私達はリバイバルをこの地にもたらすために、強いモチベーション(動機づけ、やる気)が必要である。
ネヘミヤは、エルサレムが廃墟である事に対する深いうめきがモチベーションとなって彼を動かし、わずか52日で城壁を完成させた。ダビデも、神の陣営が40日もなぶられていた事に対する強い憤りに突き動かされて、巨人をたった一つの石で打ち倒した。パウロは福音を伝える事について、返さなければならない負債(ローマ1:14)、どうしてもしなければならない事、もししなかったら災いだ(1コリント9:16)、とまで言った。
 この地にリバイバルをもたらしたい、次世代を起こしたい、といった「モチベーション」が無いとするならそれが私達にとって一番の深刻な問題である。それはつまり、熱いスピリットが無い事を意味しているからだ。
 どうしたら、それを奮い立たせる事ができるだろう。それは自分で奮い立たせられるものではないし、叱られたり、急かされたりして沸き起こるものでもない。これを湧き起こす鍵は、イエス様の山上の垂訓にある。
 
 『心の貧しい人達は、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:3) 「心の貧しい人」とは、原文的には、「霊で自分の貧困を意識する者たち」「自らの霊性で、自分が神の前に無一物、乞食同然であることを知る人々」である。また、「天国」と訳された語は、原文的には「天が支配する領域」である。
 つまり幸いな人とは、自分は霊において自分は何もない、無一文な者だ、自分は乞食のようで、もし恵みを受けられないのなら、生きられない!と自覚する人々の事である。そのように自覚している人こそ天からの援助を受けられ、天の支配が、自分自身へと導入される特権が与えられる、という事を意味しているのだ。
 自分は富んでいる、教えらなくてはならない事など無い、諭されなくてはならない事も一切無い、と思っている人こそ、じつは霊的に麻痺状態で、みじめで、何も持っていないのだ。自分は霊において貧しい者である、次世代が面している危機をうめく心が無い、リバイバルを求める心において自分は貧しい、自分は愛において、親切において、人を顧みる心において心無しで貧しい、自分にはビジョンが無い、主の働きのために必要なものがない…そういった「貧しさ」を涙を流して悲しむ所から「偉大な働き人」への道が始まる。
 
 『悲しんでいる人達は、さいわいである、彼らは慰められるであろう。』(4節) ここの「慰められる」とは「パラカレオー」の受動態で、励まされる、元気づけられる、熱心に説かれる、勧告される、訓戒される、等の意味もある。だから、自分は霊において貧しい!と悲しむ人こそ、それが与えられ、慰められ、励まされ、あるいは慰め主である聖霊(パラクレートス)から、熱心に説かれ、あるいは勧告され、また訓戒される。
 そして、「柔和である事」(5節)こそ、重要である。もし私達が、リバイバル化された日本を、相続したいのなら、柔和さを身につけるべきだ。柔和でない人には、「神の国」化された日本を、相続させてもらえない。
 そして「義」に飢え渇く心も、重要である。自分の中を見、また世の中を見るに、義が無い状況について主に「飢えています!」「渇いています!」と訴える人にこそ、充分に満足する程、与えられるのだ。
 次世代を起こす働きも、この国にリバイバルをもたらす働きも、強いモチベーションが無いなら不可能だ。
それを自身にもたらすには、まず自分が霊において貧しい者である事を自覚し、悲しみ、主の前で涙し、うめき、求めるのである。そうするならパウロのような、ダビデのような、ネヘミヤのような熱いスピリットが与えられ、この時代に立ちはだかる巨人を倒し、霊的な城壁を回復させ、福音のためならいのちをも惜しまない栄光の建て上げ屋になって行く。熱いスピリットをもってこの時代を建て直して行く私達でありますように!
 

 

 

 

主日礼拝

主に向くなら(イザヤ43:18-20)

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週報/メッセージ(説教)概要

 1月のカレンダー聖句は、『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』である。今年は「メタモルフォー」、すなわち反転、逆転、変貌、反撃、ひっくり返しの年として、新年が始まったのだが、今月の聖句も同様に、「荒野に道」「荒れ地に川」という反転・逆転が示されていた。全ての事は二人または三人の証言によって確定する、と書いてあるからには、主は今年、全く新しい、良き方向へ導いて下さるだろう。
 
 主のメタモルフォーに与れるかどうかの鍵は「主に向く事」であると、第2コリント3:16-18から学んだ。
そこは原文的には、「人が主に振り向く時はいつも、その覆いは取り除かれている」、つまり、主に向き続けている状態なら、いつでも、栄光を遮断する覆いは取り除かれた状態で、逆に、主に向いていない状態なら、いつでも覆いに覆われてしまった状態、という事である。もし主の栄光が見えない、という事なら、主ではないもの(自分、現実、心配事など)に、目が向き続けている、という事だ。しかし主に向くなら…、覆われていた覆いは取り除かれ、主の栄光があらわになり、その栄光の輝きを通して、物事が起きるようになる。
  だから私達は、主のなさろうとする御旨に乗っかって行くべきである。主の御旨をさておきして、自分が思った通りにして欲しい、願い事を叶えて欲しい、と主に突きつけ、拝み倒す「異邦人の祈り」は、実は、主の栄光を邪魔する「覆い」で、自分自身を覆ってしまう事なのだ。もし私達が、物事に自分の手練手管を混ぜ込むなら、それは、その物事に「罪」を交ぜる事になる。 モーセは若い時、たった一人のユダヤ人を自分の方法で助けようとした結果、殺人者となり、ヒーローになるどころか、追われ逃げ隠れる犯罪人となった。
彼は結局、たった一人のユダヤ人さえ助けられず、大いに非難を浴びてしまった。 主が願われる道ではなく、自分の「はかりごと」によって物事を通して行こうとするなら、それ相応して「額に汗」しなければならず、生えてくる茨やあざみへの対応に追われ、ついには「ちり」にかえらなくてはならない(創世記3:17-19)。
 しかしもし、「主に向き続けている状態」であるなら、御霊が与えられる。そして御霊と真理がある所には、自由がある。閉塞感や束縛感にあふれている人こそ、真理なる主に目を向けて、御霊を求めるべきだ。
その人は、覆いが取り除けられた顔で、鏡に映し出されるかのように、主の栄光を見続ける。そうしてその人は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ続けて行く(メタモルフォーの現在形受動態)。
 
 だから主は言われる。先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな、と。そういった、以前のものや、現状のもの、将来のもの、自分のもの、他人のものにではなく、「主に向くなら」、主は新しい事をされ、反転をなさる。道の無い荒野に、道をもうけ、渇き切った荒野に川を設ける。野の獣も、ジャッカルも、だちょうも、主をあがめる、と書いてある。いかにジャッカルのような荒々しく、人を喰いものにするような者も、主をあがめるようになる。だちょうは、自分が産んだ卵を砂の中に埋めて、砂に温めさせる。自分ではどこに産んだのかすら忘れ、自分の足で卵を踏み潰しても何とも思わない。 また、猛獣が目の前に現れると、砂の中に自分の頭を埋める。そうするとダチョウ的には、猛獣が見えなくなるので、猛獣から逃げおおせた、と思い込んでいるのだが、単に猛獣の前に無防備に大きな図体を晒し続けて、じっとしているだけなのだ。
そのように知恵がなく愚かであっても、また、愛情のかけらが無い者でも、主に向くなら反転させて下さる。
ダチョウのような愛情が無い、愚かで、浅はかな自分に、嫌気がさしているだろうか。ジャッカルのような自分に嫌気がさしているだろうか。道が見えないだろうか。渇いているだろうか…。私達が主に向くなら、主がそれを反転させ、逆転させ、メタモルフォーの造り変えをして下さり、道を設け、川を流して潤して下さる。
 
 主はいつも、何もできない人、絶望している人を逆転・反転させて用いられる。イエス様の弟子達は、大した地位があったわけでもないし、知恵があったわけでもなかったが、神は知恵ある者をはずかしめるために、あえてこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた。それは、神の御前でだれをも誇らせないため、ただ主だけを誇るようになるためである(1コリント1:27-30)。
 主は私達を、イエス様の働きへと招いておられる。イエス様が建て上げて行かれる、神の国の栄光の働きに加わるように、と。その働きの向こうには、ただ栄光しかない。イエス様に不可能な事は無く、倒せない敵は存在しない。主に向いて、今までのあらゆる古い覆いを取り除いていただき、人生が良い方向へと反転して行く経験をするこの年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

 

主日礼拝

メタモルフォーの年(2コリント3:16-18)

ニューイヤーズ・イブ礼拝 〜 カウントダウン 〜 新年礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 22年暮れから示され続けている一連の言葉群がある。反転、逆転、変貌、反撃、覆し、ひっくり返し・・・。
古い上着を脱ぎ捨て、全く新しいものを着る。防戦から攻勢に転じる。世の医者が12年治せなかった病が完治する。38年も寂しく病の床にあった人が一瞬で癒やされ、床を担いで歩き出す。生まれつき足が萎えていた40歳の人が一瞬で癒やされ、跳んだりはねたりしながら、憧れていた神殿に入って礼拝する。これらは、私達の主イエス様が実際に為された事で、私達に対して為される事である。主こそ、逆転の主である。
死をいのちに、呪いを祝福に、弱い者を強いものに、貧しい者を富む者に「逆転」させられる。これらを一言で表すギリシア語が「メタモルフォー」である。メタモルフォーを多く体験するこの新年でありますように!
 
 そのためには、主には、全てがおできになると信じ、今までの人生で培ってきた思い込みや固定概念というバリヤを破る必要がある。その向こうには、限りない自由、開放、無限の可能性が、天のように開けた世界がある。『しかし主に向く時には、その覆いは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。私達は皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に「変えられていく(メタモルフォー)」。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)
 メタモルフォーとは、変貌山において、主の姿や形が全く変わった、あの「変貌」である。その時、主の顔は太陽のように輝き、御衣は、世のさらし屋では到底できないほど白く輝いた(マルコ9:3)。主の霊に浸しこまれるなら、日々メタモルフォーして行く。世のさらし屋で消せない汚れはきれいに消えて白く輝き、世の医者では治せない病も癒やされ、臆病だった心は勇士の心にされる。だから主の霊を求めるべきである!
 新幹線と衝突すると体がばらばらになってしまうように、主の霊が圧倒的に臨むなら、自分の意固地な感情、悲しさ、卑屈さ、恐れ、不安、絶望といった、主のものでない感覚は、ちりぢりばらばらにされる。そして、主の「わたしの子よ!」という愛に溢れた意図に圧倒され、細胞の隅々にまで浸透し、神の子にされたという確信によってどんな状況でも揺るぎない平安、喜びが来、そしてどんな事でも主にあって熱心になれる。
 神様の方法は、いつもそうだ。神様が神の国を立てあげる時、力が無い小さい者を、力ある者に反転させ、何もできない人、絶望している人を、主の力で充満した者に逆転させて用いて下さり、私達を通して、イエス様のビジョン行わせて下さる。イエス様は、私達が考え出すビジョンに力添えするお方ではない。私達をイエス様のビジョンの中へと入れ、揺るぎない神の子に引き上げて行って下さる。イエス様に招かれ、イエス様に建て上げられて行くからには、立ちはだかるものがゴリヤテであろうと、どんな病や貧困、また不可能に思える事であろうと、全き平安の内に導かれていく。イエス様が平安の息を吹きかけられたからだ。
 
 しかし、せっかく油注ぎを受けても、取り上げられてしまう人もいる。サウルがそうだった。サウルから神の霊が離れると、彼は凡人になってしまい、自分の王座を固持するあまり、あれこれもがいて悪を重ね、恐れ悩んだ挙げ句、死んでしまった。もし神の霊が無いなら、凡人となって、悩みに悩んで命を終えるしか無い。
神の霊とは接点なしに人生を終える人とは、自分の思いを世に嵌めたまま、思いを刷新しない人である。
 『この世の鋳型にはめ込まれてはいけません。かえって、あなたがたは、何が神の御心か、すなわち、何が良いことで神に喜ばれ完全かを識別するために、自分の「思い(ヌース)」の刷新によって、「変えられ続けていきなさい(メタモルフォーの現在受動態命令形)」。』(ローマ12:2 ギリシャ語新約聖書インタリニア)
 私達は、スマホなどを経由して入ってくる、世の側が提供してくる情報、世のスタイル、世が仕掛けてくる「鋳型」に、嵌め込まされてはならない。同化させられてはならない。新しいぶどう酒は、古い皮袋に入れる事はできない。もしそんな事をしたら両方だめになってしまう。私達は、考え方や心構え、意見、決心を刷新し、「新しい皮袋」になるべきである。そうするなら聖霊の新しいぶどう酒に充満され、日々メタモルフォーが推進して行く。たとえ何かが立ちはだかっても、その辺に転がっている石ころ一つで、ダウンさせられる。
 
 全く経験した事の無い領域に入って行く事に、不安を覚えるだろうか。ダビデは、未だかつて経験した事の無いような巨人が立ちはだかっても、主の陣が40日もなぶられた事に、聖なる憤りに充満され、恐れは一切なかった。主の霊に臨まれるなら、恐れも粉微塵になって、主の栄光を表す働きを、何でも出来る!
今までのあらゆる古い覆いを取り除き、あらゆる方面で反転を経験して行く、この新年でありますように!

 

 

主日礼拝

祈りという捧げ物を猛禽から守り続けよ(創世記15:7-11)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先週、マイケル宣教師を通じてインターナショナルミッション日本センターが立ち上げられ、日本本部としての特権が私達に与えられた。以来、韓国プサン・トーブチームの中高生16人が、主イエスの恵み教会を拠点に学習と宣教の活動をしている。彼らは日頃から御言葉を暗唱し、宣教師としての訓練を受けているため、道行く若者に声をかける事に、全く躊躇が無い。初めての相手にもすぐに打ち解け、惹き込んでいく。そんな彼らは、天才にならざるを得ない。事実、第1期生は、世界200位以内の大学に次々と合格している。そのような素晴らしい教育システムが、突然、向こうから来た。今まで祈り求めて来た事が本当に答えられたのだ!
 
 これからは、今まで慣れ親しんできた生活サイクルを脱出し、全く新しい領域へ、進もうとしている。その際、真っ先に立ちはだかる敵は、「変化に対する拒否反応」「先回りした心配・恐れ」である。出エジプトした民は、そうした拒否反応や恐れを「固持」したゆえに、荒野で40年さまよって死んでしまった。サウル王も、心配のあまりに勝手ないけにえを捧げてしまったため、王として固く立てられる機会を、逃してしまった。
 地図を開いたなら、まず現在地と方向を特定するのと同じように、今、私たちは「主が祈りに応え、導いておられる」という「現在地」を確認し、方向性を主に求めていくべきだ。私達の信仰の父・アブラハムは、主から「本土・親戚・父の家を出よ」という言葉を受けた時、行き先は分からなかったが、75年も生活してきたその地を離れた。拒否反応や心配は、あっただろう。それでも主の言葉という「現在地」を確認し、そこを出た時、次の方向はその都度示され、そうして彼は、信仰の子々孫々を建てあげる栄光の道を一歩一歩、進んで行った。私たちも彼にならい、先が見えなくても信仰によって進むなら、必ず次が示されるのだ。
 
 主は確かに生きておられ、信仰を手放さない者には力強く働かれる事を、最近体験した。私は半年ほど前から、左腕や首筋のしびれと痛みがひどかったが、マイケル先生の集会で、イエス様の血潮による癒しの祈りの時間があって、私も「癒やしてください、痛みを取り除いてください」と祈っていたのだが、祈りの最中、気付かされた。そうした祈りは、「もしおできになるものなら」(マルコ9:22)という、不信仰が込められている、と。「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんな事でもできる!」(同23節) そこで祈りを変えた。
「イエス様の名前によって、今晩、必ず癒やされて帰る!!」 信仰によって、そう宣言し続けたが、状況は全く動じず、痛みは変わらず残り続けた。だんだん祈り疲れ、祈る事に飽きて来たりもした。やっぱりだめかな、という思いも来たが、それでも口で宣言を続け、自分のたましいに言い聞かせ続けた。集会が終わっても、痛みは残っていたので、ますます否定的な思いがよぎった。しかし、アブラハムが主の約束を確かめた時、捧げ物を狙って来た猛禽を追い払ったように、私も主と出会うまでは、そうった「猛禽」を追い払い続けよう、今晩、必ず主と出会い、癒やされて、主の偉大な力を人々にこれから伝えていく!と宣言し続けた。
 結局、頭の中にひっきりなしに巡ってくる、否定的な「はかりごと」や「思惑」、そして「いいわけ」が、信仰という捧げ物を食い散らかす猛禽だったのだ。そうした、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ、従順が完全になる時、あらゆる不従順を罰する用意ができる!と書いてある(2コリント10:5-6)。そうしてあきらめず続けると、ついに帰りの車で癒やされた!
 
 結局、癒やしも、必要の満たしも、先行きが見えない際の導きも、本当に、本気で信じているかどうか、そして「しつこく」求め続けるかどうかの問題だったのだ。『少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』(ヤコブ1:6-7) 主は、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを、教えられた(ルカ18章)。
 先回り的な心配性や、不信仰、主に逆らって立つはかりごとや思惑、いいわけ、そうした諸々は、イエス・キリストの御名によって縛り、退去命令を出す!そういう「霊的戦い」を、しつこく、しつこく続ける。それこそ、癒やしを体験しキープし、力強い証人になるためのコツなのだ。
 痛みも、病も、経済的不足も、あらゆる不安と思えるような事も、その他、あらゆる立ちはだかる障壁も、全て主に本気で願い求めて、実際に主の偉大な力を、その身に、その人生に働いた経験をたくさん積む皆様でありますように。そうして、ヨシュアのように、ダビデのように、主にあってどんな事でもできる!という確信を身につけ、恐れなく大胆に、祝福と希望に満ちた将来を勝ち取っていく皆様でありますように!
 

 

主日礼拝

恵みの大雨が降る時(ヨエル2:23)

第一礼拝 Youtube動画

English Service:The graceful rain of The Spirit(Joe2:23) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 
 今回、マイケル宣教師を通してインターナショナルミッション日本センターが立ち上げられ、しかも、日本本部としての権限が、私達に与えられた。 彼は当初、縁もゆかりもなく、福音を鉄板のように跳ね返す日本を訪問する際、一体どうしたらいいでしょうか、と主に祈った時、主から言われた。日本には既に用意された人達がいる、と。
 彼は今回の訪日で、私達と出会った時、主が言われた事は本当だった事が確認できた、と言っておられた。つまる所、私達は、日本福音化のために「主に用意された人たち」なのだ!
 確かに私達は、普段から祈って来た。栄光の次世代を建てあげる仕組みを下さい、そのために必要な土地、建物、経済、人を与えてください、と。主はこんな小さな交わりで祈られて来た祈りを、聞いておられた。
 同じ時期に主は、韓国でマイケル宣教師を起こし、次世代教育を起こし、私達日本に必要なシステムや人材、教材は、既に彼らを通して用意され、そして、ついに時が満ちたこの時、日本と韓国の群れを一つにし、聖徒達の祈りを、折にかなって答えて下さったのだ!まことに主は素晴らしいお方である!
 
 今月の箇所・ヨエル2:23に書いてある。「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」 主はまさに、豊かな実りをもたらす雨を降らせてくださるが、さらに後の箇所には、どの世代に対しても聖霊が与えられ、全く新しくされる約束が、記されている(28-32節)。
 マイケル先生がよく引用しておられたのは、ダビデに油を注がれた箇所である。『サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。この日から後、主の霊は、激しくダビデの上に臨んだ。』
 聖霊の油が注がれると、主の霊が圧倒的に臨んで充満され、心が全く新たにされる。それまで世の中の思考で生きていた者が変えられ、天の思考で生きるようになる。その思考は、不安に覆い被されたものではない。壁に囲まれて閉塞したような思いではない。万軍の主が共におられる!という確信から来る、開かれた天のような、無限の可能性を秘めた希望から来るワクワク感に満ちた思いであり、主にあっては何でもできる!という確信が、泉のように湧き上がって来るものである。それを今回、感じただろうか。
 
 ダビデはどうして、イスラエルの王として神様から選ばれたのか。それは彼に能力があったからではないし、知恵があったからでもない。事実、彼は、家族の中で一番見下げられていた末っ子であった。彼は、偉大な預言者サムエルを家に迎える、という、エッサイ家にとっては重要な時に、羊の面倒を見る事が命じられたが、神は実に、彼が誰からも顧みられなかった時、既に彼を王として見出していたのである(1節)。
 主が事をなさる時、人のわざは、何も役に立たない。主のわざを為すのに必要な能力も、知恵も、権威も、経済も、天地を創られた全能の主から来るからだ。主は弱いものを勇士とし、貧しいものを富ませてくださるお方である。事実、ダビデも、マイケル先生も、元々は何もなかった。ただ王としての性質は備えていた。
 偉大な王の性質とは何か。それは、主の全能性を信じて疑わない事だ。主には何でもできる!という信念が誰よりも強い人を主は用いる。偉大な王としての性質とは、主の全能性を信じて疑わない事である!
 
 私達に主のわざが起きる事を邪魔しているものは、一体何だろう。それは、私達の中の思い込みである。
自分の頭で構築した手段を考案し、第2プラン、第3プランを考え出し、そのレールから外れた事を言われたり、されたりすると、怒ったり、拒否反応を起こしたりし、「無理」「できない」とカテゴリ分けしてしまう。
 その、「できない」という口から出た言葉、あるいは、思考の中で巡らされた言葉が、神様のわざがなされる事を、最も邪魔して来たのである。私達は、ダビデのように、主の全能性を信じ切る必要がある。主は無限なるお方である!と、ダビデのように思考する「偉大な王」の器を持っている人を、主は探しておられる。
そのような人が一人いるなら、主は、この時代に回復のわざを為されるきっかけを得る事ができる。
 
 主は、穀物が無理なく育つように、はじめの雨と後の雨を降らせてくださる。それと同じように主は、私達が無理なく主の働きができるように、必要な主の霊を降り注がせてくださり、そして新しい心を与えて下さる。
 この時代、ダビデのように、主は全ての事がおできになるお方だと信じ切る王の性質を身につけ、主のわざをこの時代、この日本へと導入して行く私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

メガスの信仰と、テラスの奇跡を起こす器(ヨハネ6:28-29)

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週報/メッセージ(説教)概要

 いよいよ今週、マイケル・ジョー宣教師をはじめ、インターナショナルミッションの一行が来日し、諸々の活動を行う。彼の教育法の素晴らしさに、多くの教会や教育者が感銘し、現在、世界70カ国から講演依頼が殺到しているが、先週、韓国コーエンに参加した祭、もう一人の素晴らしい器に、主は出会わせて下さった。釜山ビジョン教会のキム・ソングァン牧師である。キム・ヒョンジョン博士は8年前、キム・ソングァン牧師の招請でウガンダの首都カンパラにて、現地の牧師500人にテフィリン講義をしたのだが、それが種となって今、教会がなんと1221箇所も建設され、さらにキリスト教学校の初等学校、中高校、大学が、40も建てられたのだ!
 彼らのような大きな働きをする器に、共通している点がある。それは、神様は無限なるお方である、と信じ切っており、与えられたみことばに対して「無理」と言った事がない点である。周りから「そんなの現実ではムリ」と言われても、神様には限界が無い、と信じて、実際行動したら、ムリと思われていた事が次々と実体化し、出来上がって行ってしまうのだ。主はいつの時代も、そのような器を通して、大きな働きをされる。
 
 信仰には、大きさがある。御言葉を、そしてイエスキリストを、どれだけ大きく信じてそれにかけたか。それによって生じる神様のわざの大きさが、違ってくる。ツロ・フェニキヤの女は、イエス様から冷たいように思われる言葉に対しても、優れた信仰告白をしたゆえに、『女よ、あなたの信仰は見あげたもの(メガス)である。あなたの願いどおりになるように。』と言われた(マタイ15:21-28)。イエス様は、彼女の信仰はメガス(百万、巨大)だ、と言われた。モーセも信仰が百万(メガス)に成長した時、パロの娘の子として儚い罪の楽しみを受けるよりは、神の民とともに苦しむ事を選び取った。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富とし、その報いはより優れたものだ、と信仰によって受け取ったのだ(ヘブル11:24-26)。 
 「偉大な信仰」とは、神様をどれだけ大きく見るかによって決定づけられる。もし私達が、神様を1で見るなら、1の結果しか帰ってこないが、百万で見るなら、百万の結果で帰ってくるのだ!
 聖書を見ると、信仰によって、百万よりもさらに偉大な結果で帰ってくる事がある。それは、テラスである。
メガスの値は1,000,000であるが、テラスは1,000,000,000,000、1兆である!それは人には一生かかても数え切れない数字、という事で「奇跡」と訳される、人間には到底できない、ただ神のみができるわざである。
それはイエス様の専売特許ではなく、神には限界が無いと信じ切った信仰者によって行われるものである。
 事実、テラスという語は、4福音書には計3回しか出てこないが、使徒行伝には9回も登場する。信じた人はイエス様のわざを行うのみならず、もっと大きなわざをも行う、と言われた通りである。(ヨハネ14:12)
 
 神のわざには、限界が無い。無限大である。無から有が創造される・・・闇だった所に、光が存在するようになる・・・むなしく茫漠とした所に、愛の意図に満ちたいのちが溢れる・・・。これらは全て、はじめからあったみことば、はじめからおられた神のことばによって成就した。この世に満ちている被造物は全て、はじめに神がことばによって、創造された。『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。』(ヘブル11:3)
 人間は唯一、そのわざに参加できる存在である。神に似た者として、神のかたちとして。闇に光をもたらし、むなしい所に愛といのちで満たすわざに。それがキリスト者の仕事である。そのわざに参加する方法は、イエス・キリスト、すなわち神のことばを信じる事である。( 神のわざ = 神のことば(キリスト) × 信仰 )
 『そこで彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、私達は何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神が遣わされた者(イエスキリスト)を信じる事が、神のわざである」。』(ヨハネ6:28-29)
 
 主には、おできにならない事は、何も無い。その信仰に立つ時、神の無限大のわざが為される。一番の敵は、私達の中の「それは無理だ」「どうせ出来ない」「現状のままでいい」といった思いである。主が用意しておられる無限な将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。主のビジョンを、ケチケチしてはならない。今、主は、主は無限なるお方であるとする人の現れを待っておられる。主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人が実に少ない。今、私達求めるべきである!信仰によって、望んで活用するなら、必ず成功の報いがある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに稼ぎ、優れた支配をしていく私達でありますように!

 

 

 

 

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