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万軍の主の熱心が凝縮された「ひとりのみどりご」(イザヤ9:1-7)
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週報/メッセージ(説教)概要
処女がみごもってインマヌエル(主が共におられる)という男の子を生む預言は、アハズ王の時代に与えられた。彼は預言者イザヤから「静かに主を信頼しなさい」と言われていたのに、余計な右往左往して、アッシリアに助けを求め、しかもその出先から偶像の設計図を取り寄せ、イスラエルで偶像を建ててしまった。
主に頼る道を捨て、アッシリアという暴力的な力強さに頼る者は、暴力に悩まされ、頑固になまでに御言葉に聞き従わない姿勢を貫き通す者には、頑固なまでに災いが離れない事が、前回のイザヤ8章あった。
人に災いがつきまとう場合、必ず最初に人の側の罪があり、罪が彼を責め立てる口実を得たのである。
しかし主は人がいつまでも災いに苦しんでいる様を黙っておられない。それが今回の箇所で示されている。
『しかし、苦しみにあった地にも、闇がなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(イザヤ9:1)
ゼブルンとナフタリは、主を礼拝する所から離れていた故、真っ先に異邦人と和合し、罪に染まり、罪由来の災いを真っ先に受けてしまった。私達も御言葉から遠く離れているなら、真っ先に異邦の拝むものや異邦の価値観に感染し染まってしまう。だから、礼拝と聖徒の交わりから離れないように気をつけるべきだ。
『あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。』(3節) 「獲物」とは、勝利した側が敵から分捕るものだが、サタンという敵が不当占拠していたあらゆる良きもの、囚われていた人々を分捕り返し喜び楽しむ様が、ここにある。
『これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。』(4節) 御言葉に背く先には必ず汗と労苦があり、罪由来のむちと杖による刑罰が必ずともなう。しかし、悔い改めて主に立ち返るなら、彼らを打っていたむちと杖は粉々に砕かれる。
『すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。』(5節)
罪の飲み食いをし、罪の取引をする内、人の血を流して返り血を浴びたり、あるいは罪に強い者から血を流されたりする。そうして血に汚れた服や靴は、ひとりのみどりごが来る時、火のえじきとなって清められる。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(6節)
長らく全世界を覆っていた、分厚くしつこい闇と死。その漆黒の世の海に、唯一の光、ひとりのみどりごであられるイエス様が投じられた時、前章までの全ての頑固な闇は、解消される。このお方は、どういう方か。
『まつりごと(government)はその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士(Wonderful Counsellor )、大能の神( The mighty God )、とこしえの父(Everlasting Father)、平和の君(The Prince of Peace)ととなえられる。』
「まつりごと」とは、政治である。日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の政治はイエス様の肩に置かれている。大祭司はイスラエル十二部族の名を肩に負って主の御前でつとめを果たすように(出エジプト記28:9-12)、イエス様は私達の名を負って神の御前で執り成しのつとめを為される。
主は、どんなにしつこい悩みや問題も、解決不能な事さえも解決へと導いてくださるワンダフル・カウンセラーであり、力ある神である。日本の政治のように、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、何々の書類を整えなければ受理しない事も無く、ただ「イエス・キリストの名によって」いつでも、どこでも「永遠の父」に申請する事が出来、それをするなら、素晴らしい助言が与えられ、力ある神の権力が行使され、平和の君であられる、それらのあらゆる善き性質を、いつでも求める事ができるのだ。
『万軍の主の熱心”がこれをなされるのである。』(7節) 聖書の中で「主の熱心」が現れる時はいつも、人が悔い改め、自分の罪を離れる時、主がその人を助け、救おうとする場面だ。(イザヤ9:7、37:32、59:17)
熱心。それは無感情の逆であり、主は激情をもって人を愛し、人を救おうとされる。万軍の主の熱心が、究極的に形を取ったのが、ひとりのみどりごである。イエス様は、命を捨てる「passion」(使徒1:3)をもって、私達を救おうとし、十字架という実体を伴った行動をもって、その愛をあらわしてくださった。
私達には、2つの道がある。ゼブルンやナフタリのように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続け、ひたすら強い者から奪われ、搾取され、奴隷とされ続けるか、それとも、イエス様の愛の情熱を受け入れ、永遠にイエス様の政治とカウンセルと力の主権の中で歩んでいくか。イエス様の道を選び、そのとこしえの祝福の内に生きる皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
ニセ兄弟姉妹に礼拝を取り上げられ悲しむ人に礼拝の喜びを返して下さる主(ゼパニヤ書)
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- pastor 2017-12-15 20:10
神の民をさばきの火で精錬し、残された宝の民を喜び楽しんで下さる主(ゼパニヤ書)
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- pastor 2017-12-15 6:30
神の民をさばきの火で精錬し、残された宝の民を喜び楽しんで下さる主(ゼパニヤ書)
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ゼパニヤ書といえば、3章後半の慰めに満ちた言葉が有名であろう。
しかしゼパニヤ書の前半は、表向きは礼拝者でありながらその実は主を主とせず別物を彼らの主としている者達へのさばきが示されており(1章)、また、主を知らない異邦の者達で主の民を脅かし圧迫する者達へのさばきが示されており(2章)、主に聞かず反逆と暴力に満ちた者達へのさばきが示されている(3章前半)。
主の民といっても、良い麦と毒麦が混合されたような状況であるが、主は、必ず良い人には良い報いを、悪人には悪い報いを、報いてくださる。
その中で、さばきを免れる人は、1章では7節、2章では3節、3章では7−8節の行いをする人達だろう。
ゼパニヤ1:7 主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。
ゼパニヤ2:3 すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。
ゼパニヤ3:7 わたしは言った、『これは必ずわたしを恐れ、懲らしめを受ける。これはわたしが命じたすべての事を見失わない』と。しかし彼らはしきりに自分の行状を乱した」。
3:8 主は言われる、「それゆえ、あなたがたは、わたしが立って、証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、もろもろの国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを/ことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむわたしの怒りの火に/焼き滅ぼされるからである。
その事を経て、火の中をくぐって助け出されたような人達に対する、慰めに満ちた預言が、次の言葉なのだ。
ゼパニヤ3:11 その日には、あなたはわたしにそむいたすべてのわざのゆえに、はずかしめられることはない。その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者どもを除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。
3:12 わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。彼らは主の名を避け所とする。
3:13 イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない。それゆえ、彼らは食を得て伏し、彼らをおびやかす者はいない」。
3:14 シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
3:15 主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。あなたはもはや災を恐れることはない。
3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。
3:18 「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない。
3:19 見よ、その時あなたをしえたげる者を/わたしはことごとく処分し、足なえを救い、追いやられた者を集め、彼らの恥を誉にかえ、全地にほめられるようにする。
3:20 その時、わたしはあなたがたを連れかえる。わたしがあなたがたを集めるとき、わたしがあなたがたの目の前に、あなたがたの幸福を回復するとき、地のすべての民の中で、あなたがたに名を得させ、誉を得させる」と/主は言われる。
ベツレヘム=パンの家に留まる人の幸いと、離れる人の災い(ルカ2:15-16)
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- pastor 2017-12-14 22:00
ベツレヘム - パンの家(ルカ2:15-16)
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ルカ2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
この羊飼い達は、ただの羊飼いではなかった。
御使いは、
ルカ2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
と言ったのである。ダビデの町といえばエルサレムなのだが、しかし救い主がお生まれになる所は、預言書ミカに記されている通り、ダビデの生まれ故郷、ベツレヘムである。
ミカ5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。
羊飼い達は、御言葉にいつもなじみ、御言葉を理解していた。そして、忠実だった。忠実に羊達を守り、忠実に御使いから告げられた事をすぐさま実行し、急いで行ったのだ。
それに引き換え、エルサレムにいた人達、ヘロデの王宮にいた人達はどうであったか。
王宮の中の人達は、祭司や学者以外、ミカ書を知らなかったし、メシヤであられるお方がどこでお生まれになるのか、知りもしなかったし、知ったとしても恐れ惑い、あるいは殺そうとした。
ヘロデ王は下心をもって博士たちに調べて報告するよう言ったが、結局そのたくらみは主がご存知であり、博士たちにスルーされ、幼子にもスルーされ、怒ってその地方の赤ちゃんを大勢殺すような暴挙に出たが、そのすぐ後に死んだ。
このように、御言葉を常に慕い求め、主から語られた事をすぐに実行する人は、彼らが赤ちゃんであるイエス様と出会い、その胸に抱っこして、胸の中にお迎えする事ができたように、イエス様と出会い、イエス様が胸の内に宿るという幸いに与る事が出来る。
ベツレヘム、その名前の意味は、パンの家であり、パンといえば、御言葉である。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉による、と書いてある。
そして、まことのパンは、イエス様である。(ヨハネ6章)
この、パンの家を求めて行く人は、御言葉なるイエス様と出会う事が出来る。
しかし、このパンの家から離れていった人には、ろくな事が起きなかった。(士師記17:8、士師記19:1、ルツ記1:1-5)
異邦の国を離れ、御言葉のパンの家ベツレヘムへと入ったルツは、ボアズの畑へ導かれ、多くのパンを得たのみならず、王の王たる家系へと嫁ぐ幸いにあずかった。
私達も、御言葉のパンがたくさんある”ベツレヘム”、すなわち御言葉を求め、行くなら、羊飼いのように、博士のように、ルツのように、王の王であられるイエス様を胸に収める恵みにあずかる事が出来るのだ。
働き人に与えられた幸いな保証と権威(ルカ10:1-24)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ルカによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2017-12-13 23:00
ひざの上でかわいがられる神の民と、火で裁かれる神の敵(イザヤ66:10-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2017-12-13 20:00
きよくある事が要求される祭司のつとめ(2歴代誌4:1-22)
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ついで、ソロモンが神殿において主の前で祭司たちが諸々のつとめをするためのものを造らせた記事が記されている。
4:1 ソロモンはまた青銅の祭壇を造った。その長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ十キュビトである。
祭壇もまた、モーセの時代の寸法と比べると、さらに大きくなっている。(出エジプト記27章)
あの時代よりも、さらにイスラエルの人々の数が多くなったため、彼らが主に捧げる祭壇のサイズも、かつてのサイズでは間に合わないのだろう。
実際、これからこの祭壇で、おびただしい数のいけにえが捧げられて行く。
4:2 彼はまた海を鋳て造った。縁から縁まで十キュビトであって、周囲は円形をなし、高さ五キュビトで、その周囲は綱をもって測ると三十キュビトあった。
4:3 海の下には三十キュビトの周囲をめぐるひさごの形があって、海の周囲を囲んでいた。そのひさごは二並びで、海を鋳る時に鋳たものである。
4:4 その海は十二の牛の上に置かれ、その三つは北に向かい、三つは西に向かい、三つは南に向かい、三つは東に向かっていた。海はその上に置かれ、牛のうしろはみな内に向かっていた。
4:5 海の厚さは手の幅で、その縁は杯の縁のように、ゆりの花に似せて造られた。海には水を三千バテ入れることができた。
「海」という器の高さは五キュビト、180cmの成人男性がばんざいした程の高さで、厚さは、手のひらほど。
また1バテは23リットルなので、46000リットルの水がその「海」に入ったという事は、20000リットルのタンクローリー3台以上分である。
これは全部、青銅製である。青銅の器としては、かなりの大きさだ。
これら、神殿の調度品のために用いられた青銅の分量は、はなはだ多かったため、ソロモンは分量を計らなかったし、ずっと後、エルサレムがバビロンによって陥落した時、神殿の柱や「海」をカルデヤ人は破壊してバビロンへ運び去ったが、その青銅の分量はあまりに膨大だったため、彼らも計る事をしなかった。(2列王記25:13-16)
4:6 彼はまた物を洗うために洗盤十個を造って、五個を南側に、五個を北側に置いた。その中で燔祭に用いるものを洗った。しかし海は祭司がその中で身を洗うためであった。
旋盤はいけにえを洗うため、そして海は祭司がその中で身を洗うためのものだった。
主がモーセに幕屋建設を命じた時、祭司が聖なる所で務めに入る前には、水で洗いきよめるよう命じており、そのために、洗盤を造るよう指示されている。
『あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。』(出エジプト記30:18-21)
祭司が祭壇での務めをする前に、手足を水で洗い浄める事は、「永遠のおきて」として定められている。
だからソロモンも、祭司たちのために、これらのものを造らせたのだ。
祭司たちが務めの前に水で洗い浄める理由は、「死なないため」だと主は言っている。
祭壇や幕屋での奉仕は、それ程までに聖なる務めであり、清めないまま聖なる奉仕をする事は、主の怒りを招く事である。
今、私達も、主の務めを為すにあたって、かの祭司たちのように、清められた状態であるべきである。
1コリント6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
6:11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。
私達がキリストに繋がっていないのなら、主の御前に何も出来ないし、しようとしてはならない。
だから信仰が無い人が、いくら楽器の演奏が巧みだからと言って奏楽奉仕に任じてはならないし、会計やマネジメント力があるからと言って、教会運営を任せたりしてはならない。
正しい信仰、すなわち、いつもイエス様を前に畏れ敬ってへりくだり、自らをきよくしようと志す者であるべきであり、そうしない者、世の汚れをきよい所へ持ち込む者は、死の危険がつきまとう。
詩篇24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。
24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。
24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ
さらに聖所には諸々の祭具が置かれる。
4:19 こうしてソロモンは神の宮のすべての器物を造った。すなわち金の祭壇と、供えのパンを載せる机、
4:20 また定めのように本殿の前で火をともす純金の燭台と、そのともしび皿を造った。
4:21 その花、ともしび皿、心かきは精金であった。
4:22 また心切りばさみ、鉢、香の杯、心取り皿は純金であった。また宮の戸、すなわち至聖所の内部の戸および拝殿の戸のひじつぼは金であった。
主の前にはいつもパンが備えられ、ともしびが灯され続けるべき事が記されている。
現代の私達も、常に、自分自身を神に受け入れられる、きよい、生きた備えものとして捧げる者であり、いつも御言葉のパンを備え、いつも祈りのともしびを、聖霊の油をもってともし続ける者である。
そして御前に出る時には、かつての祭司たちが、汚れた状態で出たら死ぬかもしれないという恐れをもって出たように、私達も恐れ敬う心をもって御前に進み出るべきである。
敵の手を通して広い所へ導いておられた主(創世記26章)
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26:1 アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。
26:2 その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。
26:3 あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。
イサクの場合、アブラハムと逆で、父の家に「とどまる」事が、祝福の約束だった。
アブラハムの場合は、偶像礼拝と汚れに満ちた父の家から離れる事が神の領域へと進み行く事だったが、そのような信仰の父の家で生まれたイサクの場合は、信仰の家にとどまる事が祝福の源であるからだ。
26:4 またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
イサクは、父アブラハムによって、祭壇の上で捧げられた時、父の信仰に同意し、既に自分を捧げていたのだ。
その時、父アブラハムはおよそ125歳、イサクはおよそ25歳、腕力では当然父をしのいでいたはずなのに、父に縛られるままに縛られ、父が刀を振り上げた時さえ、抵抗しなかったからである。
26:6 こうしてイサクはゲラルに住んだ。
26:7 その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。
イサクはこの時、世の中の権威者と罪深い者の力を恐れ、このように偽った行動を取ってしまったが、主は、弱い信仰者をフォローし、その誤った道から正して下さるお方である。
主がフォローしてくださってもなお正しい道に戻らない事を続けるなら、列王記に記されている歴代の王達のように、災いにつぐ災いにまみれてしまう。
26:12 イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、
26:13 彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、
26:14 羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。
ペリシテ人からすれば、この、たまたま異国から流れてきたイサクの一家が、それまで自分が味わったことのない祝福、種を蒔けば100倍の実りを結ぶような有様を見て、妬みの心に満たされたのだ。そこで、嫌がらせをする。
26:15 またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。
26:16 アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。
水の少ないこの地方では、井戸はいのちそのものである。
それを、わざわざ重労働をして、ふさぐ。
神の民がする事はただいのちのわざであるが、主を知らない者がする事は、ただ、破壊である。
26:17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。
26:18 そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。
26:19 しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、
26:20 ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。
彼は、ペリシテ人から祝福を妬まれて、父アブラハムが掘った井戸を塞がれ、アビメレクからも「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言われ、事実上、追い出されてしまった。(16節)
アビメレクは父アブラハムと平和条約を交わしたが、それに対する明らかな違反をしたのであり、イサクは、その強くなった武力をもって争っても、あるいは法的弁論によっても争う事が出来、そしていずれの方法を取ったにしても、勝てたはずである。
しかし彼は、そういう事は一切せず、大人しくその場所から移ってしまう。
26:21 彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナ(敵意)と名づけた。
一度ならず二度も争いを仕掛けられた、となれば、明確な敵意があったと言えるだろう。
しかし彼は、手荒な事はせず、下手な争いごとに巻き込まれるような事を避けて、それらの井戸はくれてやり、黙って立ち去った。
これは、弱さとは言わない。
真に強い人とは、こちらに力があり、相手の方が弱いにもかかわらず、あえて武力や弁論などに頼らず、ただ神の御言葉ゆえに、相手にゆずってやる事のできる御言葉への従順と心の広さを持っている人の事である。
26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテ(広い場所)と名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。
やる事なす事があまりに祝福されるイサクに、ついに敵の側も恐れたのだ。それでイサクと争う事をあきらめ、ついには敵の側からイサクに平和条約を結びに来る。(26-31節)
真に怖い人とは、柔和な人である。
しょっちゅう怒っている人は、ある程度、ここまでしたら相手はこの声色で、この強面で来る、というのが想像できるが、柔和な人は、それが想像できないために、かえって恐れを抱かれるものであるし、何より柔和な人は、神様に祝福され、そして彼に良くない事をするなら、いつも神様が仕返しをして、彼は何をしても栄えるからである。
26:23 彼はそこからベエルシバに上った。
26:24 その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。
26:25 それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。
イサクは、広々とした所へと導かれた。
一見すると、敵の手によっていいようにされたかのように見えていても、実は主は、彼にもっと広い所を相続させ、そこに住むようにと、敢えてイサクが奪われるままにして導かれた、と言える。
ダビデもまた、主が「広い所」へと導かれた事を、詩篇18篇で詠んでいる。
「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり、わたしを”広い所”に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」(詩篇18:17-21)
この詩篇18篇は、彼がサウル王から救われた時に詠んだ詩篇であるが、彼は、自分のいのちを付け狙うサウル王を、自らの手で殺せるチャンスが2回も訪れたのに、自分の手でなす事はせず、正しく裁いて下さる主に全てお委ねした。
彼もイサクのように柔和な対処をしたため、主が彼の敵を裁いてくださり、結局枯れは王位を受け継ぎ、祝福され、栄えたのだ。
まさにイエス様が言われた通りである。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)