メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
詩篇講解説教
主に正しいさばきを求めるべき神の民(詩篇94篇)
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94:1 あだを報いられる神、主よ、あだを報いられる神よ、光を放ってください。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という、主への呼びかけの反復によって始まる。
悪がまかり通っていて、その者たちがして来た悪に対しては何の報いも受けないまま、のさばっている現実に対して、主に「復讐の神」として現れて下さる事を求めている。
復讐、というと、抵抗を感じるクリスチャンは多いかもしれない。
しかし、クリスチャンは、無抵抗主義であるべきではない。
ただし、復讐は、私達が遂行するものではなく、主がしてくださるものである。
私達がすべきは、義をもってさばいてくださる主に、願い求める事だ。
ローマ12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
イエス様が言われた「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という言葉は、無抵抗であれ、という意味ではない。
イエス様はその言葉の前に、「悪い者に手向かってはいけません」と、言われている。
すなわち、右の頬を打たれた時、左の頬を差し出す事よって、相手は「悪い者」であると認定し、そして、自分は悪い者をさばく事を自分ではせず、主のさばきにすべて委ねるものである、と、態度で表明するのだ。
だからもし、兄弟姉妹と言われている身内の中で、暴力を平気で行うような性質が芽生えているなら、左の頬を差し出している場合ではない。
神のさばきがその兄弟姉妹に及ばないよう、きっちりと戒めるべきなのだ。
94:2 地をさばかれる者よ、立って/高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
94:3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
悪者どもはレシャーイーム、1:1の「悪者」と同語である。
そこを見ると、悪を行う者たちは、風が吹き飛ばすもみがらのように散らされ、それに引き換え、主のおしえを喜びとし、昼も夜も御言葉をくちずさむ人は、水路のそばに植えられた木のように栄えて、廃れる事は無く、何をしても栄える、という法則が書かれてある。
4節以降に、この悪者どもは、何をして来たのか、どういう性質であるのかが、具体的に列挙されている。
94:4 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
つまり彼らは、悪い事をするのに、一切の躊躇が無い、どころか、悪びれもせず、その悪をしている事をむしろ自慢するのである。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
彼ら神の民を打ち砕き、主の嗣業(ナハラー:相続)の内に生きる人を、狙い撃ちにして来る。
94:6 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
94:7 彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
彼らは、ヤコブの神、と言っている。
つまり、まことの神について、キリスト教について、ある程度知っていながらにして、まことの神をあざけり、その民に対して暴挙をしている、確信犯である。
そのような者の、反キリスト敵な言動は、放置してはならない。
放置するなら、その者の悪事に同意している事になってしまう。
私達は、それに対して、「神の御言葉はこうである」、と宣言するべきであり、本人を前にそれを言う勇気や立場が無いとするなら、この詩篇の作者のように、主に義のさばきを訴え、主の報復が成る事を祈り求めるべきである。
94:8 民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
「鈍き(バーアル)」は、元は、火が燃え上がる、食い尽くす事の意味で、「愚か者(ケセイル)」は、元は「太った」「脂肪づいた」という意味である事から、「鈍い」「おろか者」、という意味となる。
つまり彼らは、火が燃え上がるような貪り食い尽くすような者で、なおかつ、心に分厚い脂肪がついたかのような、良心が鈍い者である。
彼らの貪りの行いによって、悲鳴を上げている人々を、彼らが見ても、聞いても、そんな事を何とも思わない者たちだ。
そのような者に対しては、「気づけ」「悟れ」と言う。
そう、気づかせるべきである。
何を気づかせ、悟らせるべきか。
それは、すべて正しいさばきをされる、全能の神について、である。
94:9 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
94:10 もろもろの国民を懲らす者は/罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
94:11 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
ここで彼は、宣言している。
神は人をつくられ、そのはかりごとを、心の隠れた隅々まで知っておられる、という事を。
そして、主は、全世界のさばき主であられる、という事を。
クリスチャンは、罵詈雑言は言うべきではないが、黙っているべきではない。
もし黙っているなら、何も動かない。
主は、いかなるお方であるのかを彼らに宣言するべきであり、そして、神に訴えるべきなのだ。
そうするなら、物事が動き出す。
どう動き出すかが、12節以降に記されている。
94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
94:13 あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまで/その人に平安を与えられます。
12節に、私達のするべき分が書かれてある。
すなわち、主のおきてによって教えられ、時には主から懲らされ、そうして、主の道を歩む事である。
そうするなら、13節にあるとおり、災いから逃れさせ、平安が与えられ、かつ、その間には悪者のために穴が掘られるのである。
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
94:15 さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
「さばきは正義に帰り」とはどういう事か。
主は、この世を、義によって固く建てられた。
世は、形状記憶合金のように、義へと戻るように造られているのである。
だから、いかに悪者がさばきを曲げ、法律を変えようとも、結局は義へと帰るようにできているのである。
94:16 だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。
94:17 もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
もしも、と、仮定法が使われている、という事は、結局最後は、主が助けとなって下さり、たましいは救いを得、さいわいを得た、という事である。
94:18 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。
94:19 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
彼は祈り、そして宣言した。
「足がすべる」と思った時、主のいつくしみが支えて下さった、と。
ここの「支える」は未完了形で、すなわち、今まで支えて下さった、のみならず、これからもずっと支え続けてくださる、という告白である。
また、思い煩いが満ちる時、主の慰めが、魂を「喜ばせ(シャァアー)」た、と告白しているが、シャァアーは、かわいがる、あやす事の意味があり、これも、ここでは未完了形である。
つまり、思い煩いが満ちて主に求めるなら、その都度、主はあやして下さり、かわいがってくださる、今までそうだったし、これからもずっとそうである、という告白である。
94:20 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は/あなたと親しむことができるでしょうか。
94:21 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。
「定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者」は、法律を自分に都合がいいように改定する、悪どい者である。
しかも、「彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告」する。
そのような者に対し、主は、決して親しむ事はなさらない。
94:22 しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。
94:23 主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。
この詩篇は、主こそ自分にとっての守りであり、そして主は、彼らの不義は彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされる、という宣言で、終える。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という呼びかけの反復で始まり、最後は「主は彼らを滅ぼされる」という宣言の反復で終わった。
こうして、この事はたしかに成就する、と、印が押された。
私達も、世においてまかり通っている悪を見たなら、この詩篇のとおりに、主に義のさばきを願い求め、また、主の復讐の日を宣言するべきだ。
詩篇講解説教
主の主権を強調し賛美する詩篇たち(詩篇93篇)
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この詩篇は、詩篇100篇に至るまで続く、神様の主権と支配を告白し賛美する一連のグループのはじまりで、特に、神の王権と支配を、ヘブライ語の繰り返しによる強調表現を駆使して賛美している。
93:1 主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。まことに、世界は堅く立って、動かされることはありません。
1節で、繰り返しによる強調は、「主はまとう」である。
まとう(לָבַשׁラバシュ)は元々巻きつけるという意味で、そこから、覆う、着る、という意味になる。
主は、何をまとわれるのか?
それは、みいつ(尊厳、英語ではmajesty、גֵּאוּתゲウト)であり、この表現によって強調された動詞は、主が「王として治めている」事である。
日本語は「王となり」と訳されているが、これは「王(メレク)」という名詞ではなく、「王として治める(マーラク)」という動詞である。
93:2 あなたの位はいにしえより堅く立ち、あなたはとこしえよりいらせられます。
この節では、同じ語による繰り返しはないが、「いにしえ」「とこしえ」という似た意味が繰り返されて、主の御座が「固く立つ(クンכּוּן)」事が、強調されている。
主は、とこしえからとこしえまで、御座におられ、そこから、主の統治を発される。
93:3 主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。
93:4 主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです。
3節では、「大水は声をあげました。」、という言葉が、3回も繰り返されている。
「大水は声をあげました。」とは、どういう事だろう。それが3回も繰り返されたのは、どういう事か。
「大水(ナーハールנָהָר)」は、川という意味のほかに、流れ、洪水、海の意味があるが、ナーハールは特に、エジプトのナイル川や、アッシリヤのユーフラテス川を指す事が多い。
また、「声をあげている」と訳された語ナーサーנָשָׂאは、持ち上げる、掻き立てる、という意味である。
エジプトやアッシリヤといった、主を知らず、主の民を圧迫する大国の、文明の源と言える川さえも、主によって創造されたものであり、主によって掻き立てられ、主によって平定されるのだ。
主を知らず、主に逆らう大国も、結局は、主の支配の下にあるのだ。
そして4節では「まさって力強い(アディールאַדִּיר)」が繰り返されている。
アディールは、広い、大きい、という意味から、力強い、という意味となった。
主は全世界を、王として統治され、主を知らない人が多い、この日本をも、主は掻き立て、また平定される。
93:5 あなたのあかしはいとも確かです。主よ、聖なることはとこしえまでもあなたの家にふさわしいのです。
この節には、繰り返しによる強調表現はないが、メオド(とても)という言葉によって、「あかしが(エダーעֵדָה)が、確か(アーマンאָמַן)」である事が、強調されている。
アーマンは、アーメンの元となった語である。
私達は、聖書という主の「証言」によって、たましいが生き返り、賢くされ、喜びを感じ、見えていなかったものが見えるようになって来る。
それによって、主は確かに生きて働かれる、という事を知ることができる。
また、この天地万物の主の御手のわざからも、主はおられる、という「あかし」を、私達は見て取る事ができる。
主のあかしは、まことにアーマン、すなわち、確かなのだ。
詩篇19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
まことに、主の御言葉は、それらは金よりも好ましく、はちみつよりも甘い。
人を生き返らせ、物事を見えるようにし、また目を輝かせる。
御言葉によって戒めを受け、またそれを守るなら、報いは大きいのだ。
詩篇講解説教
安息日を大切にする人への祝福(詩篇92篇)
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表題には、安息日のための歌、と、書いてある。
主は、安息日を特別扱いしなさい、と、十戒で定められた。
なぜなら安息日は、主の創造のみわざが完成し、主がその日に休んで安息した日であるからである。
ユダヤ人は、安息日を中心に1週間を過ごしている。
なぜなら、主が命じられた事は、六日間は働いて仕事にいそしみ、第七日目は、主の安息をおぼえて、どんな仕事もしてはならない、と、十戒において命じられたからだ。
主は、六日間働いて、全てのものを造り、七日目に、休まれたからだ。
安息日にするべき事が、1-2節において、3つの動詞で、示されている。
92:1 いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
92:2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、
92:3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。
3つの動詞とは、
1,感謝する(ヤーダー)
元々は「手を使う」事で、投げる、弓を放つ、といった意味となった。
主に向かって投げるべきは、感謝であり、賛美であり、私達自身の冠である。
2,歌う(ザーマル)
ザーマルの意味は、「歌う」の他、賛美する、楽器を奏でる事の意味である。
表題の「歌(ミズモール)」は、ザーマルの名詞形である。
3節では、色々な楽器を用いて主に賛美を捧げる事は、良いことだ、と書いてある。
だから礼拝では、極力、色々な楽器を用いて賛美を捧げた方が良い。
3,あらわす(ナーガド)
意味は、告げる、知らせる、教える、言い表す、を意味する。
すなわち、口でもって、表明するのだ。
何を表明するのか。それは、主の恵み、主の真実を、である。(2節)
それらは、良いこと(トーブ)である。
トーブとは、パーフェクト、ビューティフル、グッドである。
主を覚え、主を安息するべき日に、主に感謝し、賛美を捧げ、また信仰を口で表明する事こそ、パーフェクト、ビューティフル、グッドなのだ。
92:4 主よ、あなたはみわざをもって/わたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。
この詩篇の作者は、主のみわざを喜んでいる。
全て、神の民は、主がなさった創造のすばらしいわざと、その完成を喜ぶものであるが、同時に、主の聖徒一人一人は、おのおのの人生に主が降りて来て下さった事、主が不完全で欠けた私達を、癒し、不当な虐げを強いてきた敵を裁き、満ちたらせ、やがては完全なものとさせて下さる事を、喜ぶものである。
92:5 主よ、あなたのみわざは/いかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、
92:6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。
「鈍い者(バアル)」は、元々は「食べ物」を意味するが、そこから、家畜のような愚かさ・残忍さなど、聖なる性質の一切無い、肉欲の現れである。
「愚かな者(ケシール)」は、太ったもの、鈍い者の意味である。
すなわち、世の楽しみや諸々の心配事によって、心の脂肪がついて、霊的感性が鈍感になってしまった人、また、家畜のように食べ物や残忍さしか求めない、肉欲だけで生きているような人は、主が大いなるみわざを行った事に対して、何の感動も、感謝もない。
彼らは、主に対する期待も、邪悪な者に対するさばきも、一切関心が無い。
私達の中から、そのような「鈍さ(バアル)」や「愚かさ(ケシール)」は、イエス様の名前によって踏みつけ、取り除くべきだ。
92:7 たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。
92:8 しかし、主よ、あなたはとこしえに/高き所にいらせられます。
92:9 主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。
7節を見ると、悪人がもうじき滅びる前兆とは、悪人が「繁栄している事」である事が分かる。
エステル記や詩篇73篇も、そのパターンであった。
だから悪人がはびこっているのを見た時、私達は、その先が短い事を知り、エステルのように見を慎んで祈り、詩篇73篇のアサフのように、主の聖所に入って祈るのである。
そうするなら、次の事が起きる。
92:10 しかし、あなたはわたしの角を/野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。
92:11 わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの/破滅を聞きました。
92:12 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
主は、礼拝すべき日には礼拝を遵守し、主の御業に思いを馳せて信頼する者を、このように守り、高く引き上げて下さる。
さらに、
92:13 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
主の家に植えられる、とは、主の目が常に注がれた特別な地に移し変えられ、特別保護の中で栄えるのである。
92:14 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
92:15 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
年老いてもなお実を結び、生気に満ちている、とは、誰もが望む所である。
実際、アブラハムも、モーセも、カレブも、年老いてなおそのようだった。
私達も、安息日を覚えてこれを聖とし、主を大切に覚え、礼拝から離れないなら、そのような尊厳に満ちた生涯を送る事ができるのだ。
詩篇講解説教
病や攻撃、災いから守られる保証(詩篇91篇)
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詩篇91篇には、あらゆる病疫や災い、攻撃からの、とても強力な守りと保証が宣言されている。
91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
主からの強力な保護をいただける人とは、いと高き方の隠れ場に住む人、全能者の陰に宿る人、主に対して「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と信じ宣言する人である。
ダビデは巨人ゴリヤテと対峙した時、宣言した。
『「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。』(1サムエル記17:37)
主は、どんな強い戦う相手からも、また、行く先のどんな災いからも、救い出す事がおできになる。
イエス様は、「あなたが信じた通りになれ」と言われた。
私達・主を信じる者は、真実であられる主が言われた事を、そうなると信じて宣言するなら、その通りになる。
2次世界大戦中、イギリスのウイットルゼイ大佐もまた、この詩篇91篇を、部下全員に暗唱(テフィリン)させ、毎日祈らせたところ、なんと5年間、銃弾や爆弾が飛び交う戦場で、部下の一人も死ななかった。
まさに主の御言葉は、信じて宣言した者の勝ちである。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
主は、あらゆる罠から、恐ろしい疫病から、完璧に守る事がおできになる、という根拠が、ここに記されてある。
災いは、誰にも彼にも降される、というわけではない。
主から守られる人というのは、たとえ、パンデミックの中心地にいたとしても、無事に守られる事が、聖書の中にもいくつか例がある。
サタンがダビデをそそのかして自国の兵士の数を数えさせた時、イスラエル全土では、7万人もの人々が疫病で倒れた。
その時、災いの中心地では、御使いが、エブス人・オルナンの打ち場に立って、抜き身の剣をエルサレムの上に差し伸べていた(1歴代誌21章)。
人々が激しい疫病で、次々と倒れていく中、その、災いの中心地であるオルナンの打ち場にいた、オルナン自身は、何の害も受けず、その傍らで、自分の仕事をしていた。
そこに、自分の主君であるダビデ王が来た時、彼はすぐに出て来て、ひれ伏した。
オルナンは、たとえ病禍のさなかでも、仕事に忠実で、また、主が立てられた権威に忠実であっただけでなく、彼はいつでも、主に全てを捧げる心備えを持っていた(22節)。
主は、そのような人をこそ、災いの最中でも守って下さる。
私達は、災いの時世、祭司として執り成し祈るべきである。
取りなし祈る事は主のみ心であり、そして主は、執り成し祈る祭司には、守りの保証をも与えて下さる。
モーセの時代、人々が主に逆らった故に、疫病が起こり、人々がばたばた倒れて行く中、大祭司アロンは、祭壇から火を取って、走っていき、死んだ人達と、生きている人達の間で祈りの香を焚いた時、疫病は止んだ(民数記16:41-50)。
この時、アロンは、生きている人と死んだ人の間に立ったにもかかわらず、病は一切、彼を害する事はなかった。
私達も、祭司として、取りなし祈る役割を、行く先々で負うべきである。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
コロナが蔓延しはじめた2020年初頭、コーエン仲間で、中国宣教をしていたある働き人の報告によると、武漢は、2019年、教会迫害が最もひどく、48の地下教会を強制的に閉鎖させられた。
そこは、中国宗教規制政策の、模範地指定までされており、その年末には、ほぼ、全てのキリスト教宣教師が追放されていた。
しかし、全てのキリスト教宣教師が追放された直後、武漢肺炎が爆発的に広がり、宗教規制を実行する部門で最高位だった、キリスト教弾圧を指揮した、その当人が、真っ先に亡くなったという。
8節にある。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである、と。
この度、マイクロソフトを創始したビル・ゲイツ氏は、コロナウイルスよりも格段にたちの悪いウイルスのパンデミック到来を警告し、各国政府に次なる世界規模の感染拡大に備えるため、数十億ドルを拠出するよう呼びかけている事を、フィナンシャルタイムズが報じた。
(https://jp.sputniknews.com/20220120/9986239.html 2022/01/20のニュース)
彼が、どういう経緯で、そう断言しているのかは分からない。
しかし、もし、人為的にウイルスパンデミックを作り出して、いたずらに人を殺している者がいるとするなら、人に耳を植えつけられたお方、目を造られたお方、国々を戒めるお方、人に知識を教えるそのお方が、お責めになる事を宣言しておく。
箴言26:27 穴を掘る者は自らその中に陥る、石をまろばしあげる者の上に、その石はまろびかえる。
イザヤ28:15 あなたがたは言った、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。
28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。
28:17 わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。
28:18 その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される。
28:19 それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである。
主を避けどころとし、その翼の陰に宿る人を、主は、あらゆる道において、守られる。
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
その人は、主に守られるだけでなく、獅子やコブラを、踏みつける者となる。
ローマ人への手紙16章20節
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足(の下)でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
パウロは、宣教ゆえに捕らえられ、カイザルの裁判へと護送されて行った先で、まむしに噛まれた。
しかし彼は、何の害も受けず、むしろ、まむしを火に払い落とし、よけいに福音が行く先々で広まった。(使徒28章)
私達は、コロナパンデミックの中でも、働きに出ていかなくてはならない。
だから、行く先々で、全能の主の翼の陰にやどり、ダビデのように信じて宣言すべきである。
信仰の先人たちを、獅子や、熊から、まむしから、激しい疫病のパンデミックから、守ってくださった主が、このわたしと、わたしの家族を、またわたしのチームを、守られる!と。
14節からは、人称が2人称へ変わり、主が私達に直接語りかける形となる。
91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。
14節の「愛して離れない(ハーシャク)」とは、「(喜んで、愛して)しがみつく」という意味である。
幼子が母親をしがみつくように、また、女性が愛してやまない男性に喜んでしがみついて行くかのように。
そのように、主を喜んで、愛して、しがみつきに来る人を、主は、助け出し、高く上げ、呼ぶ時に応え、苦しみの時にともにいて、救い、ほまれを与え、ながいいのちで満ちたらせ、救いを見せて下さる、と書いてある!
この、病疫がはびこる時代、オルナンのように、与えられた仕事と権威に忠実になり、主から守られる皆さんでありますように!
また、アロンのように、死と生のはざまで苦しんでいる人達のために、とりなし祈り、主から護られつつ、祭司として、神と人との間に和解の務めを果たしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇講解説教
諸行無常、色即是空を乗り超えて永遠に輝く神の民(詩篇90篇)
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詩篇90篇表題『神の人モーセの祈』
詩篇90篇より、詩篇の第四巻が始まる。
この詩篇第四巻(90‐106篇)は、おもに彷徨いと苦難について記されており、それはまさに、民数記の内容である。
その冒頭の詩篇が、荒野でのさまよいと苦難を最も経験した、モーセがしるした詩である。
90:1 主よ、あなたは世々われらのすみかで/いらせられる。
90:2 山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
モーセは真っ先に、主が、私達の「すみか(マーオーン)」でいらせられる、と宣言した。
マーオーンというヘブライ語の意味は、宿る所、住む所、逃げ込む所。
この詩篇90篇は、諸行無常的な、色即是空的な内容がフォーカスされがちではある。
しかし、モーセの最初の宣言、すなわち、永遠から永遠に生きておられる主が、わたしの住まいである、という信仰の宣言によって、虚しい色合いは、一気に、永遠の希望の色合いに変化する。
その変化を味わえるかどうか。
それは、一人ひとりが信じる、信仰の対象にかかっている。
90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
90:4 あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
帰る先が、単に「ちり」であるとするなら、確かに、全てのものが虚しい、諸行無常の響きに聞こえる。
しかし聖書を読むなら、主が言われた「帰れ」の先は、「ちり」よりも遥かに栄光ある「先」である事が分かる。
90:5 あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
90:6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
ここの「ひと夜の夢(シェナー:眠る)」とは、死を意味しており、人が、朝には咲いても、夕べにはしおれる花のように、たとえられている。
そこで終わるなら、色即是空の世界観であるが、しかし、「眠り(シェナー)」と表現されているからには、「目覚め」の希望もあるという事だ。
確かに人は、罪を犯したゆえに、その報いとして、ちりに帰る存在となってしまった。
しかし、人は、ちりに帰って終わりではない。
肉体がちりに帰ると共に、その霊は、永遠なる神の元に帰るのだ。
その永遠の先を、楽園、すなわちパラダイスで生きる人がいる。
それは、神と和解し、神の救いを得た人である。
新約時代の今、その人達とは、「彼は救い」という名の救い主・イエス様を信じた人達であり、その人達こそ、永遠の楽園(パラダイス)で、神とともに生きる人達だ。
イエス様は、人の罪の身代わりとして十字架にかかり、ひとたび「眠った」。
しかし、三日目に「目覚め」、復活し、死を打ち破って、こうして、死の呪いの下にある全ての人々の救い主となられた。
彼を信じる人は、神と和解が成立し、もはや、単に「ちり」に帰る存在ではなくなり、神の子という特権を得て、栄光の栄光に満ちた天国で、まことの花婿イエス・キリストと共に、永遠に喜び楽しむ者となるのである。
それが、福音である。
90:7 われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。
90:8 あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
90:9 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
確かに、モーセの時代、イスラエルの民は、神の「怒り」「憤り」を引き起こした。
そしてモーセは、そのような彼らが、荒れ野で次々と死んでいくのを見た。
主の御怒りの前で、人の年が尽きるのは、ひと息のようである、と、モーセは表現した。
しかしその一方で、荒野で死ぬことなく、約束の地に到達した人々もいた。
ヨシュアとカレブである。
主の御怒りを引き起こして死ぬ人と、生きながらえて御国を相続する人の違いは、一体何だろう。
神の怒りを引き起こして、荒野で滅んだ人々は、神様の言葉を信じず、従わなかった人々である。
ひるがえって、約束の地に到達した人々は、神様の言葉を信じて、従った人々であった。
神様の言葉に従わない人は、9節にある通り、主の激しい怒りの中に沈み行き、自分の年を、ひと息のように終わらせてしまう人生である。
しかし、主の御言葉を握りしめ、聞き従った人々は、約束の地に入り、すばらしい相続地を得た。
カレブなどは、85歳であったにもかかわらず、日常の出入りや、戦争にも耐えるほどに、健康体で、誰もが恐れる強者が住んでいたヘブロンを奪還し、その土地に、彼の子々孫々を住まわせた。
主に信頼する者は、鷲のように若々しく力が与えられ、翼をかって登って行くのである。
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
この人生を、単に、労苦とわざわいに満ちた、80年ほどでちりに帰ってしまう人生にしてしまうか。
それとも、カレブのように充実した栄光の人生にするか。
それは、主を正しく知り、正しく「主の時」をわきまえるかどうかにかかっている。
90:11 だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがって/あなたの憤りを知るでしょうか。
90:12 われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
モーセは、自分の日を正しく数える事を教えて下さい、知恵の心を得させて下さい、と祈り求めた。
私達は、主の御怒りの恐ろしさを、聖書から正しく知るべきであるが、それ以上に、主が下さる莫大な祝福、莫大なしあわせをこそ、求め、知るべきである。
主の莫大な祝福を得る鍵は、主の御声に聞き従い、その言葉を守り行る事。
この、実にシンプルな事であった。
モーセは12節で、自分の日を正しく数える事ができるように、と、求めたが、私達も、自分の人生の日々を、いかに主にあって正しく生きるかを、求めるべきである。
人は何かと、自分の人生がこれからもずっと、変わらず続いていくもの、と思いこんでいるが、人生を80年として、自分の年齢を引き算し、日数を計算するなら、自分の日数は、意外と少ない事がわかる。
しかも、80歳まで生きられる、などと、誰も分からないどころか、そのわずかな日々は、10節にある通り、ほねおりと悩みに満ちている予感しかない人が多い。
だから私達は、「きょう」と呼ばれる日に、主の御声に聞き従い、主の嫌われる事を止めるべきなのだ。
90:13 主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください。
90:14 あしたに、あなたのいつくしみをもって/われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。
90:15 あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災にあった多くの年とに比べて、われらを楽しませてください。
13節以降、モーセは主に祈っている。
いつまでお怒りになられるのですか、あわれんで下さい、人生の日々を恵みで満ち足らせ、喜び歌い、楽しむようにしてください、と。
今までの人生、悩んで来たかもしれない。
災いに遭ってきたかもしれない。
それは、正しく主に祈り求めなかった日々だけで、もう十分である。
モーセのように、祈り求めるべきである。
90:16 あなたのみわざを、あなたのしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。
90:17 われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に/栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。
モーセは最後に、われらの手のわざを栄えさせてください、と、繰り返し祈っている。
手応えのない日々を何十年も送り、手のわざが何も残らないままちりに帰って、やがて存在していた事すらも忘れ去られてしまう、そのような人生が、耐えられないのだろう。
しかし、私達の存在を確かなものとし、永遠のものとして下さるお方は、主である。
そして、永遠なる主のために捧げた事だけが、永遠の記念として残るのである。(マタイ26:13)
モーセは、いのちが取られる直前に、イスラエル12部族を祝福した後、いよいよ最後に言った言葉が、以下である。
申命記33:26 「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、/威光をもって空を通られる。
33:27 とこしえにいます神はあなたのすみかであり、/下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、/『滅ぼせ』と言われた。
33:28 イスラエルは安らかに住み、/ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、/ひとりいるであろう。また天は露をくだすであろう。
33:29 イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、/あなたの威光のつるぎ、/あなたの敵はあなたにへつらい服し、/あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。
モーセは、イスラエルに「エシュルンよ」、と呼びかけている。
エシュルンは「まっすぐにする」「正しく考える」という意味である。
神の民の本来は、まっすぐな神の言葉どおりに歩むものであり、神をすみかとするものであり、その力強い神の御腕の下で敵から守られ、安らかに住み、地の豊かな産物を喜び楽しむ、誰にも比べうるものの無い、しあわせな民族のはずである。
私達は、神の民として、まっすぐな神の言葉に歩み、祝福としあわせの人生を全うし、この肉体はちりに帰ったとしても、霊は永遠の天国で、永遠のしあわせを神とともに生きる者たちである。
結局、まことの神を知らず、求めず、神ぬきで生きる人間、すなわち、80年ほどでちりに帰る人間が、やっと到達できる叡智が「諸行無常」「色即是空」「全ては虚しい」、のたぐい以外には無い。
しかし、永遠なる主とともにあゆむ人は、その向こう側に行く事ができる。
すなわち、永遠の喜びに溢れたいのちを、まことの花婿・イエス・キリストと共に、永遠に楽しむのである。
モーセは、この詩を残し、約束の地に足を踏み入れる事なく、ちりに還ったが、それで終わりではなかった。
新約を見ると、モーセがちゃっかりと、イエス様と共に約束の地の「こちら側」にいて、神様の栄光の内に、永遠のいのちを生きていた事が分かる。(マタイ17:3)
イエス様にある信仰者には、永遠の栄光と喜びがある事を、決して忘れてはならないのだ。
詩篇講解説教
主のタイミングで主の御旨を実行せよ(詩篇89:19-52)
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この詩篇89篇は、永遠であり普遍なる神が、ダビデと契約を結ばれた事、そして、その契約を結ばれた主は、はじめから終わりまで真実であられた事を歌っている。
主は永遠に真実なお方であるのに対し、人の側は、誠実な時もあれば、不実な時もある。
人が誠実な時には、主は誠実への報いとして大きな祝福を与えられるが、不実な時には、懲らしめとして苦難を与えられる。
この詩篇の後半は、将来のダビデの子孫たちが不従順ゆえに災いに遭っている姿を見せられたエタンによる、とりなしの叫びである。
そのような叫びが出来るのは、主は義であると同時に、憐れみ深く、恵み深い方である事を、彼が知っていたからだ。
18節までは、王の王であられる神の栄光を賛美していたが、19節以降では、特に、ダビデ契約の性質を詳しく示している。
89:19 昔あなたは幻をもってあなたの聖徒に告げて/言われました、「わたしは勇士に栄冠を授け、民の中から選ばれた者を高くあげた。
神はダビデを選んで、その王国を固く建て、その子孫に、永遠の支配をゆだねられた。
その子孫とは、イエス・キリストである。
さらに20節以降に、主がダビデに与えてくださった真実と恵みの数々が、記されている。
89:20 わたしはわがしもべダビデを得て、これにわが聖なる油をそそいだ。
89:21 わが手は常に彼と共にあり、わが腕はまた彼を強くする。
89:22 敵は彼をだますことなく、悪しき者は彼を卑しめることはない。
89:23 わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、彼を憎む者どもを打ち倒す。
89:24 わがまことと、わがいつくしみは彼と共にあり、わが名によって彼の角は高くあげられる。
89:25 わたしは彼の手を海の上におき、彼の右の手を川の上におく。
89:26 彼はわたしにむかい『あなたはわが父、わが神、わが救の岩』と呼ぶであろう。
実際、ダビデは、神に助けられ、サウル王やペリシテ人から守られ、そしてサウルに代わる王とされた。
そうして向かうところ敵なしの状態となって、イスラエルに敵対していた国々を平定した。
それは、26節にある通り、ダビデは神を父とし、「わが神」「わが救いの岩」としたゆえであった。
続く節で、神は応答される。
89:27 わたしはまた彼をわがういごとし、地の王たちのうちの最も高い者とする。
89:28 わたしはとこしえに、わがいつくしみを彼のために保ち、わが契約は彼のために堅く立つ。
89:29 わたしは彼の家系をとこしえに堅く定め、その位を天の日数のようにながらえさせる。
神はダビデを「ういご」として扱われた。
実際、ダビデの子孫、イエス・キリストは、全て神に召された者たちの長子である、と、ローマ8:29に書かれてある。
ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
そう、召し出された私達・教会は、全ての事が働かされて、益とされる者たちである。
たとえ世の中が、どのような情勢となったとしても。
なぜなら神は、召し出された人々を、御子キリストと同じ姿へと、あらかじめ定められていたからである。
詩篇89篇30節以降には、もし、ダビデの子孫たちが、神様の真実に対し、「不真実」で返したら、どうなってしまうのか、あらかじめ警告されていた内容が示されている。
89:30 もしその子孫がわがおきてを捨て、わがさばきに従って歩まないならば、
89:31 もし彼らがわが定めを犯し、わが戒めを守らないならば、
89:32 わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。
89:33 しかし、わたしはわがいつくしみを/彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。
89:34 わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
89:35 わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。
89:36 彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
89:37 また月のようにとこしえに堅く定められ、大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ
確かに、主との契約を破って、主から離れるとするなら、懲らしめと刑罰が待っている。
しかし同時に、主は、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない、と言われた。
「わたしは決して捨てない」という、素晴らしい主の恵みが、あらかじめ表明されていたのだ。
確かにダビデの王家は、代々、主に逆らってきた。
にもかかわらず、主は、ダビデの家を覚えておられ、その子孫から、救い主イエス・キリストをお建てになった。
38節以降を見ると、エタンが見せられた刑罰の厳しさがわかる。
89:38 しかしあなたは、あなたの油そそがれた者を/捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られました。
89:39 あなたはそのしもべとの契約を廃棄し、彼の冠を地になげうって、けがされました。
89:40 あなたはその城壁をことごとくこわし、そのとりでを荒れすたれさせられました。
89:41 そこを通り過ぎる者は皆彼をかすめ、彼はその隣り人のあざけりとなりました。
89:42 あなたは彼のあだの右の手を高くあげ、そのもろもろの敵を喜ばせられました。
89:43 まことに、あなたは彼のつるぎの刃をかえして、彼を戦いに立たせられなかったのです。
89:44 あなたは彼の手から王のつえを取り去り、その王座を地に投げすてられました。
89:45 あなたは彼の若き日をちぢめ、恥をもって彼をおおわれました。〔セラ
ここの「彼の若い日を短くし」とは、エホヤキン王の事を指すと思われる。
彼は18歳(2歴代誌36:9のヘブル語本文では8歳)で王となりエルサレムで3か月間王であった。
ソロモンの時代を生きていたエタンは、そのような暗い遠い将来を、「琴と立琴とシンバルをもって預言する者(1歴代誌25章)」として、預言の内に見せられ、この詩を書いたのだろう。
46-51節は、その悲惨な状況に対する主への叫びである。
89:46 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか。あなたの怒りはいつまで火のように燃えるのですか。
89:47 主よ、人のいのちの、いかに短く、すべての人の子を、いかにはかなく造られたかを、みこころにとめてください。
89:48 だれか生きて死を見ず、その魂を陰府の力から/救いうるものがあるでしょうか。〔セラ
89:49 主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた/昔のいつくしみはどこにありますか。
89:50 主よ、あなたのしもべがうけるはずかしめを/みこころにとめてください。主よ、あなたのもろもろの敵はわたしをそしり、あなたの油そそがれた者の足跡をそしります。わたしはもろもろの民のそしりを/わたしのふところにいだいているのです。
悲惨な現状が到来してしまう原因は、ほぼ、私達の側にある。
私達・神の民が、主の御旨に沿った管理を、し損ねると、管理しなかった分の解決すべき問題の山々が、こちらを強制的に支配しにかかって来る。
すなわち、管理しなかった人間関係、管理していなかった勉強時間、管理していなかった、その他もろもろが。
それらがやがて、牙をむいて、こちらを強制的に支配しにかかって来るのだ。
それは法則ではあるが、しかし主は、「無感情な法則」のようなお方ではなく、恵み深いお方である。
それだからエタンは訴えているのである。
私達も、個人的に主に訴え祈ることができる。
エタンは、そのような訴えをしはしたけれども、最後は頌栄と、アーメン、アーメンでこの詩を終え、詩篇第三巻を閉じた。
89:52 主はとこしえにほむべきかな。アァメン、アァメン。
私たちの生活も、もしかすると、エタンが見たような葛藤の中にあるかもしれない。
しかし、人の目に見える時間があると同時に、人の目には見えない「神の時間」がある。
私達が見える時間は、政治家、社長、株主など、この時代の強者が支配している。
しかし神は、見えない時間を管理しておられ、神の民に、神の時を告げ知らせ、神の経営を実行させるために、御言葉を下さる。
私達は、その「時」を悟り、時にかなった事をする「時間マスター」になるべきである。
私達が、主のタイミングで主の御旨を実行するなら、主の大いなるわざをもたらす「歴史の主人公」となれる。
しかし、もしそれが与えられているにもかかわらず、実行しないなら、大きなチャンスをみすみす逃すだけではない。
エタンが見せられたように、後々の自分や子々孫々へと、大きな災いを残してしまう事になる。
今、私達は、与えられている時間を自分の好き勝手にする時間としてではなく、主の御旨を悟り、主が仕組んだ時間として正しく管理し、主の御旨を実行させるために、用いられるべきである。
詩篇講解説教
神の民による永遠の賛美(詩篇89:1-18)
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詩篇89篇表題:エズラびとエタンのマスキールの歌
この詩篇の作者はエタンで、彼は、前章の作者・ヘマンと同じく、ソロモンと比べられる程の知恵者で(1列王記4:31)、また、聖歌隊指導者の1人として記されている。(1歴代誌15:19)
エタンの名の意味は、「永遠の」「恒久的な」で、その名前どおり、彼はこの詩篇において、永遠的に主の栄光をあらわしている。
この詩篇では、特に、神様がダビデと結んで下さった契約において示された主の恵みと真実を賛美している。
エタンはまず、1-2節において、彼の信仰を告白し、宣言した。
詩篇89:1 主よ、わたしはとこしえにあなたのいつくしみを歌い、わたしの口をもってあなたのまことを/よろずよに告げ知らせます。
詩篇89:2 あなたのいつくしみはとこしえに堅く立ち、あなたのまことは天のように/ゆるぐことはありません。
いつくしみ(ヘセド)は「恵み」、まこと(エムナー)は「真実」とも訳されるが、それらキーワードがこの詩篇で繰り返され、神様の恵みと真実が強調されている。
詩篇89:3 あなたは言われました、「わたしはわたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓った、
詩篇89:4 『わたしはあなたの子孫をとこしえに堅くし、あなたの王座を建てて、よろずよに至らせる』」。〔セラ
ここは、2サムエル記7章にて主がダビデと結ばれた契約を指している。
主はダビデに、「あなたの子孫(単数形)」をとこしえに堅くし、王座を建てて、よろずよに至らせる、と約束された。
その、ダビデから出る「単数形の」子孫は、私達の救い主イエス・キリストである。
私達はなぜ、エタンが言ったごとく、「永遠に」主を賛美できるのか。
それは、ダビデの子孫として来られたイエス・キリストの、十字架の贖いのゆえである。
イエス様が、私達の身代わりとなって処罰を受け、私達のいのちを買い戻して下さった。
それを信じる者は、聖別され、永遠のいのちが与えられる。
それゆえに、私達・聖徒は、とこしえに主を褒め称えるのである。
5節以降には、主が為して下さったくすしいわざへの賛美が捧げられている。
詩篇89:5 主よ、もろもろの天/にあなたのくすしきみわざをほめたたえさせ、聖なる者のつどいで、あなたのまことをほめたたえさせてください。
そう、天は、主を賛美しているのだ。
太陽も、月も、星々も。
そして、御使いたちも。
そして、地においては、「聖なる者のつどい(直訳:聖なる集会)」の中で、賛美が捧げられている。
聖徒の集会における賛美は、天における御使い達の賛美に匹敵する、すばらしい体験なのである。
詩篇89:6 大空のうちに、だれか主と並ぶものがあるでしょうか。神の子らのうちに、だれか主のような者があるでしょうか。
詩篇89:7 主は聖なる者の会議において恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって/大いなる恐るべき者です。
詩篇89:8 万軍の神、主よ、主よ、だれかあなたのように/大能のある者があるでしょうか。あなたのまことは、あなたをめぐっています。
そう、天でも、地でも、私達の主に、比べうるものはいない。
啓示録においても記されている。
天の御使いが、こぞって賛美する、のみならず、天と地と、地の下と、海の上の、あらゆる造られたものが、さらに、その中に生息している全生物が、賛美するのだ。
黙示録5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
この、天的な賛美においては、父なる神と、ほふられた小羊とに、賛美が向けられている。
神の小羊キリストが、その十字架の血潮をもって、全被造物を贖って下さったからである。
9-13節においては、被造物に見られる主のみわざの栄光が、賛美されている.
詩篇89:9 あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められます。
詩篇89:10 あなたはラハブを、殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある腕をもって散らされました。
ラハブは、前章でも見たように、エジプトを象徴的に表している。
エジプトは、神の民イスラエルを束縛し、奴隷化し、虐げた。
しかし主が、それを打ち砕き、神の民を解放して下さった。
同じように主は、神の民である私達キリスト者を束縛し、奴隷化し、虐げるような、あらゆる勢力を打ち砕き、そこから解放して下さる。
詩篇89:11 もろもろの天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、世界とその中にあるものとは/あなたがその基をおかれたものです。
詩篇89:12 北と南はあなたがこれを造られました。タボルとヘルモンは、み名を喜び歌います。
詩篇89:13 あなたは大能の腕をもたれます。あなたの手は強く、あなたの右の手は高く、
ここに、2つの山がでてくる。
1つ目のタボル山は、いわゆる変貌山と呼ばれる山で、また、アブラハムが戦争で勝利した際、メルキゼデクが彼に現れ、アブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げた山である。
現在、メルキゼデクの記念碑と、イエス様の変貌記念教会がある。
2つ目のヘルモン山は、豊かに水をもたらす山としてよく聖書に出てくる。
2000m級の非常に高い山々で、サタンはイエス様をそこに連れて行って、全ての国々の栄光を見せた所(マタイ4章)、また、人間を捕獲し、バベルの塔を建てた、ニムロデの城が発掘されている。
しかし主は、悪い者に高慢な事に用いられた所であっても、変わらず、力ある御腕を現して下さる(13節)。
詩篇89:14 義と公平はあなたのみくらの基、いつくしみと、まことはあなたの前に行きます。
義(ツェデク)と公正(ミシュパート)は、主のご性質である。
しかし、私達・罪ある人間は、義と公正なる主の前に立てない。
しかし、主が「恵みとまこと」(ヘセドとエメス)を先立せて下さった。
それで私達は、おりにかなった助けをいただくために、大胆に御前に進み出る事ができるのだ。
15-18節には、主を賛美する民の幸いが語られている。
詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、
詩篇89:16 ひねもす、み名によって喜び、あなたの義をほめたたえます。
「主の御顔の光」は、主の恵みと平安の祝福である。(民数記6:21-27)
主を賛美する民は、その祝福の中を歩む。
詩篇89:17 あなたは彼らの力の栄光だからです。われらの角はあなたの恵みによって/高くあげられるでしょう。
詩篇89:18 われらの盾は主に属し、われらの王はイスラエルの聖者に属します。
主のご恩寵によって、私たちの角(力と勢いの象徴)が、高く上げられる。
そして、ダビデもよく言っているように、主が、私達・主の民の「盾」となって下さるから、私達は守られる。
それゆえ私達も、とこしえに、主を賛美するのである。
詩篇講解説教
鬱々としてオチが無い詩篇、か?(詩篇88篇)
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この詩篇88篇は、はじめから終わりまで、鬱々として暗い雰囲気に終始しており、他の詩篇のように、「しかし」つきのV字回復や、感謝、賛美なしに終わる。
暗い雰囲気で始まる詩篇は沢山あるが、ほぼ、「希望のオチ」で終わる。
けれども、この詩篇には、そうした「オチ」が無い。
世のブルースや演歌は、はじめから終わりまで恨み節、という曲は多いが、しかしこの詩篇が、それらと違うのは、はじめから終わりまで、主を呼び求める「祈り」で終始している事である。
人生の価値は、順境か逆境か、楽しいか苦しいか、喜んでいるか悲しんでいるか、などで計れるものではない。
「主と向き合っているか、いないか」
それによって、計られる。
どんなに順境で、楽しく、喜びの毎日であっても、主と向き合っていないなら、その人生には価値は無く、逆に、どんなに逆境が続いて、苦しくて、悲しんでいても、主と向き合っているなら、偉大な価値を持った人生なのだ。
いつも喜んでいなさい、と書かれてあるけれども、悲しむべき事が降り掛かってしまう時も、人生の中では、ある。
だから、絶えず祈りなさい、と書いてあるのだ。
絶えず主に祈るなら、どんな場面でも、どんな状況でも、いのちの主、光の主、そして、全てを益と創り変えて下さる主と、出会うことができるからだ。
詩篇88篇表題:聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
この詩篇の作者はヘマンである。
彼は、預言者サムエルの子孫で(1歴代誌6:33)、またダビデの時代、琴と立琴とシンバルをもって預言する者とされた。(1歴代誌25章)
彼の名前の元のヘブライ語は「エムナー」、その意味は、忠実、誠実、堅実、安定、また信仰。
それが、彼の性質である事は、この詩篇のはじめから終わりまで終始されている祈りの中から分かる。
88:1 わが神、主よ、わたしは昼、「助け(イエシュア)」を呼び求め、夜、み前に叫び求めます。
88:2 わたしの祈をみ前にいたらせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
彼は、昼も、夜も、主の御前に「祈り」をもって向かっている。
まさに、主を待ち望む「アドベント」の人である。
そして彼は、主を「イエシュア(救い)の神」と呼んでいる。
イエシュア、すなわちイエス様の御名を呼び求める者は、その救いにあずかる事ができるのだ。
88:6 あなたはわたしを深い穴、暗い所、深い淵に置かれました。
88:7 あなたの怒りはわたしの上に重く、あなたはもろもろの波をもって/わたしを苦しめられました。〔セラ
彼の祈りは、ヨナを彷彿させる。
ヨナのように、深淵の底に降り、また、波が次々と襲いかかっているかのような状況である。
ヨナは、魚の腹の中から主に祈った。
「救は主にある(イエシュアーター・ラ・アドナイ)」と。
ヨナは、「救(イエシュア)は主にある」と言って、イエシュアの名を呼ぶと、三日目の復活を経験し、多くの人々を主に立ち返らせる偉大な働きをした。
私達の希望はイエシュア、イエス様であり、彼に向き合い続けるなら、三日目の復活を私達も経験するのである。
88:8 あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9 わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10 あなたは死んだ者のために/奇跡を行われるでしょうか。なき人のたましいは起きあがって/あなたをほめたたえるでしょうか。〔セラ
彼も、ヨブのように、友人からも難癖つけられているが、しかし少なくとも、彼は日ごと、主を呼んでいる。
主に向かって両手を差し伸べている。
彼は実に、その名のとおり、誠実また忠実である。
主は、主に向かって誠実を貫いて、いつも主に手を差し伸べているる人には、必ず、報いて下さる。
88:11 あなたのいつくしみは墓のなかに、あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。
88:12 あなたの奇跡は暗やみに、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13 しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
(NKJV: And in the morning my prayer comes before You.)
彼には、希望がある。
その根拠は、彼は日夜主に叫んでおり、また、朝明けには、自分の祈りは、あなたの御前に行く、と、信仰をもって宣言している所である。
ユダヤ人の世界観は、「夕があり、朝があった」である。
それにひきかえ、世の中の思考は、「朝」があって「夕」になる、である。
はじめは希望、後には絶望。
それが、世の思考であるが、神の民は、絶望の後に、永遠の希望があるのだ。
イエス様も、復活の「朝」の前に、十字架という闇夜を経験した。
しかしイエス様は、復活の朝を迎え、今や、光に満ちた天において、永遠に統治しておられる。
私達も、イエシュア、すなわちイエス様にあって、そうなのである。
88:14 主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15 わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。あなたの脅かしにあって衰えはてました。
88:16 あなたの激しい怒りがわたしを襲い、あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。
88:17 これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、わたしを全く取り巻きました。
88:18 あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました。(新共同訳「わたしに親しいのは暗闇だけです」)
彼は、若い時から苦しみ続けていた。
主の脅かしや怒りに、ずっと襲われ続けているかのようだった。
友人たちも、彼から遠ざかり、親しいのは、暗闇だけ。
こうして、この詩篇は終わる。
「希望のオチ」が、一切無い。
一見すると。
しかし、彼の人生は、そこで終わった訳ではない。まだまだ続く。
私達も、「今」という瞬間、暗闇と絶望のどんぞこで、「光のオチ」が永遠に無いかのような状況が、あるかもしれない。
もしかすると、若い時から、今まで、ずっとそうだったかもしれない。
では、ヘマンは一体どこに落ち着いたのか。。。
実は、他の箇所から、彼が落ち着いた先を探る事ができる。
彼は、ソロモンと比べられる程の知恵者となり(1列王記4:31)、
次のように呼ばれるようになる。
「神がご自身の約束にしたがって高くされた王の先見者ヘマン」
また神は、彼に、男の子十四人、女の子三人を与えられた、と記されている(1歴代誌25章)。
彼の誠実も、彼の祈りも、全部主に聞かれ、神様は彼に大いに報いられた、という事である。
主は、いつまでも責めておられるわけではない。
主は、祈り求める民には、必ず、闇から光へ、悲しみから喜びへチェンジさせて下さる。
イエス様は言われた。
Joh 16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
Joh 16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
Joh 16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
Joh 16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
Joh 16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
「救い(イエシュア)」であられるイエス様を呼び求め続ける者は、やがて、イエス様の十字架の御手によって、全ての涙はすっかり拭われ、もはや死もなく、悲しみ、叫びの無い、永遠の光と喜びに満ちた天国で、彼と共に住むのである。
詩篇講解説教
全世界の救われた人々の本籍地シオン(詩篇87篇)
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コラの子の歌、さんび
詩篇87:1 主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。(NKJV: His foundation is in the holy mountains.)
詩篇87篇は、シオンが全世界の本籍地になるという預言的なシオン賛歌であり、シオン(צִיּוֹן)とはエルサレムの別名で、特に、神殿のある町、聖なる神の都を意識する時、この呼び名が用いられる事が多い。
本篇の1節では、この都を「聖なる山」と呼び、3節では「神の都」と呼んでいる。
主はシオンを、イスラエルの他の町々よりも、特別扱いし、もろもろの栄光ある事を、語られた。
87:2 主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
87:3 神の都よ、あなたについて、もろもろの栄光ある事が語られる。〔セラ
シオン、すなわち、エルサレムの城門を通って、諸国の人々や王たちが都へと入って来る事が、黙21章にも記されている。
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
確かに、全世界にとって、イスラエル十二部族は「門」であり、十二使徒は「土台」である、といえる。
なぜならイスラエルを通して、この世界に神の法則(律法)が入って来たのだし、また彼らを通して、イエス・キリストがこの世に送り出され、そして使徒たちを通して、福音が全世界へ伝えられたのだから。
神は、イスラエル十二部族の名が記された「門」を愛され(詩篇87:2)、そして、イエス・キリストの十二使徒を、愛しておられる。
私達も、福音を宣教し、救った人達にとって「使徒」となるなら(1コリント9:2)、主は私達を「救いの門」とし、主からこよなく愛され、その宣教の働きを守り、導いて下さるのだ。
詩篇87:4 わたしはラハブとバビロンを/わたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。
ラハブとは、エジプトの事である。(イザヤ30:7、51:9)
これらの国々は、以前はイスラエルの敵として、罪深い者として、歩んできた。
しかし神は、そんな彼らとも和解し、「神の都で生まれた者」として数え、「ここで生まれた者」として登録し、市民権を得させて下さる、というのである。
それはまさしく、イエス・キリストの福音である。
主は、諸々の国民に対して、和解の手を差し伸べるが、シオンについては、特別扱いされる。
詩篇87:5 しかしシオンについては「この者も、かの者もその中に生れた」と言われる。いと高き者みずからシオンを堅く立てられるからである。
87:6 主がもろもろの民を登録されるとき、「この者はかしこに生れた」としるされる。〔セラ
この者も、かの者も、シオンで生れた、と言われるようになる。
すなわち、シオンが、全世界の母のような存在となることを表している。
それは、「シオン」という名のヘブライ文字から、霊的意味を導き出すと、納得できる。
シオンのヘブライ語はצִיּוֹןであるが、最初の字のツァディצは「釣り針」、次のユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、最後のヌンןは「魚」を意味する。
すなわち、シオンの霊的意味は、イエス様の十字架の「釘」打たれた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、意味する。
イエス様の十字架という釣り針に引っかかった魚たち、、、それはまさしく、私達キリスト者の事である。
エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
ただし、この都には、誰も彼もが無条件で入れるわけではない。
入る権利のある者が、黙示録22:14にあり、そして都から追い出されてしまう者が、黙示録22:15にある。
黙示録22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
いかに以前は罪深い者であったとしても、イエス様を信じ、自分の着物を洗った者、すなわち、その行いをきよくした人々を、主は「この民はここで生まれた」(詩篇87:6)とし、天国の市民権に登録されるのだ。
ヘブル12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
詩篇87:7 歌う者と踊る者はみな言う、「わがもろもろの泉はあなたのうちにある」と。
泉(マヤーン)は、「源」とも訳せる。
救われた人にとって、喜びと幸いの源は、神の都にある。
私達も、救われた者にふさわしく、天のエルサレムに入る日、すなわち、キリストの花嫁として小羊の婚姻に入る日まで、自分の行いという「着物」をきよくし、多くの人々を十字架の釣り針で、釣って、救いへと入れて行くべきである。
黙示録19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
エゼキエル書講解説教
祝福の相続地を得る人の性質(エゼキエル47:13-23)
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エゼキエル書43章13節以降には、イスラエル12部族の新しい相続地が示されている。
エゼキエル47:13 主なる神は、こう言われる、「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、嗣業として土地を分け与えるには、その境を次のように定めなければならない。ヨセフには二つの分を与えよ。
まず、相続地について、真っ先に宣言された事は、ヨセフには、二倍の領分が与えられた事だった。
二倍の相続地を得たヨセフは、柔和で、正直で、不正や悪を行う者に対して腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養った。
まさにイエス様が言われた、地を相続する人の性質である。(マタイ5:5)
ヨセフは、そのような性質だったから、父ヤコブに愛され、そして、神から愛された。
それで父ヤコブは、臨終の時、ヨセフに素晴らしい祝福を与えている。
創世記49:22 ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。
創世記49:26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
ヨセフは、父の祝福のとおり、垣根(境界)を超えた領土を得、他の兄弟にまさる祝福を得た。
ヨセフの偉大な点は、エジプトの宰相(総理大臣)になった事、ではない。
総理大臣という地位は、最終目標ではなく、手段に過ぎない。
最終目標とは、神の国を建て上げる事。
すなわち、70名ほどだったイスラエル一家が、一つの国家へと成長するために、彼らに肥沃な地・ゴシェンの地を備え、そこで、安心して大いに産んで増えて行くための「システムづくり」を、彼にさせるため、神様はヨセフを総理大臣にしたのだ。
エジプトの総理大臣という役職は、たまたま、与えられたに過ぎない。
ちり一つ拾うような奉仕さえ、イエスキリストのために為すなら、神の国の建てあげの尊い奉仕である事には変わりない。
ヨセフのように、尊い事に用いられる器もあれば、卑しい事に用いられてしまう器も、厳然として存在する。
自らをきよい器として整えるなら、尊い事に用いられ、汚れに任せたままなら、卑しい事に用いられてしまうのだ。
だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
この地において、莫大な経済や地位を得る事が第一ではない。
神の国とその義が為される事を、まず第一に求め、日々、柔和と誠実を養うべきだ。
エゼキエル47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。
神はアブラハムに、この地を永遠に得させる、と、約束しておられた。
その実現を、主は、今回の幻で見せておられる。
続く節では、具体的に領地の境界が示されている。
エゼキエル47:15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、
エゼキエル47:16 ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。
エゼキエル47:17 海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
エゼキエル47:18 東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。
エゼキエル47:19 南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。
エゼキエル47:20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。
エゼキエル47:21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。
これはおよそ、ダビデ・ソロモンの時代の領土に相当する。
相続地は、無条件に与えられるものではない。
その領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いを続けているなら、かつて土地がイスラエルを吐き出したように、吐き出されてしまう。
この、新しく示された相続地では、意外な人々も相続が許可されている。
エゼキエル47:22 あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。
エゼキエル47:23 在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。――神である主の御告げ。――
なんと、異邦人にも、領土が割り当てられるのだ。
それはモーセ五書では考えられない事で、新約的といえる。
しかし、この主が聖別された領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
エゼキエル書40章以降で、示されていた事は、人間のものさしで計る事ではなく、神が示された聖なるものさしではかる事、そして、聖なる立ち位置を堅固に守り(40章)、聖と俗とをしっかり区別し(42章)、主の聖にならって、聖なる者となり(43章)、礼拝を中心としたきよい生活を送る事(45-46章)だった。
そうするなら、生活の中央に位置する神殿から、いのちの水が川となって流れ出した。(47:1-12)
だから、相続地が与えられ住む事のできる異邦人とは、きよい信仰を持っている異邦人だけである。
実際、エゼキエルがこの幻が示された後の、エズラ・ネヘミヤの時代、その土地に住んでいた外国人達は、排斥された。
なぜなら、ネヘミヤ記を読めば分かるが、そこの外国人たちは、信仰を持った「きよい異邦人」でなくて、イスラエルの神を拝む、と口では言いつつも、実際に行った事といえば、神殿再建を邪魔し、不正や汚職をイスラエルの指導層に持ち込んで、イスラエルを悩ました事だった。
その、異邦人と混じり合って産まれた子どもたちは、ユダヤの言葉がわからなかった。(ネヘミヤ13:24)
ユダヤの言葉が分からない、という事は、律法が読めない、という事であり、早速その代から霊的な汚れが入り込んで、かつての、バビロン捕囚へと突き進んでしまった先祖の、二の舞になってしまう。
それを大いに憂いたエズラやネヘミヤは、痛みの改革を断行し、彼らを追い出した。
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の民に加えられた。
それに安住する事なく、神が聖であられるように、私達も、聖を保つべきである。