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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:神の戦いにおいて最も邪魔するもの(申命記20:1-9):右クリックで保存

申命記二十章は、戦いに出る時のおしえである。
『あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。』(申命記20:1)
私達にも、日々、諸々の戦いがある。病や貧困、将来についての問題や課題、超えるべき壁など。

戦いに際して、真っ先にアドバイスを伺うべきは、将軍ではなく、祭司であると、モーセは命じているが、私達も同様である。
私達が真っ先にアドバイスを伺うべきは、まことの大祭司、イエス・キリストである。
『あなたがたが戦いに臨むとき、祭司は進み出て民に告げて、彼らに言わなければならない、「イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである。」』(申命記20:2-4)

人は、軍勢の多い事によって救われない。馬や装備などによっても、救われるものではない。主は、馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。ただ、主を恐れる人と、御恵みを待ち望む人とを、主は喜ばれる。(詩篇147:10-11)
だから、あらゆる戦いの勝利の鍵は、いかに主を喜ばせているか、である。
数は多いけれど主の御心に反している軍と、人数は少なくても主の御心に適っている軍とが、戦った場合、必ず後者が勝つ。(創世記14章、民数記31章、士師記7章、1サムエル14章、2歴代誌20章、他多数)
神の民にとって、戦いは、人数や知恵、力よりも、主にまっすぐにより頼んでいるかどうかが大事なのだ。

それ故、戦いに際して排除しなくてはならないものは、「恐れ」であり、「未練」である。
『次につかさたちは民に告げて言わなければならない。「新しい家を建てて、まだそれをささげていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれをささげるようになるであろう。ぶどう畑を作って、まだその実を食べていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれを食べるようになるであろう。
女と婚約して、まだその女をめとっていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人が彼女をめとるようになるであろう。」』(申命記20:5)

神の国の戦いにおいて、最も邪魔するものは、この、気後れしている者、恐れている者、おくびょう者である。
手勢の少なさや、装備の無さは、主の戦いの妨げとなるものではない。
むしろ、気後れや恐れ、おくびょうこそ、有害である。

イスラエルが荒野で40年も回り道をしてしまった原因は、何だったか。
それは、わずか十名の斥候の、「恐れ」が発端だった。(民数記13-14章)
十人の恐れが百人の恐れとなり、千人の恐れとなり、万人に、そして六十万人にまで膨れ上がって、収集がつかなくなってしまった。

地獄の火の池で永遠に苦しむ者の、筆頭たる者は、どんな者かご存知だろうか。
それは、「おくびょうな者」である。
『しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙示録21:8)
人殺しや姦淫を行う者より、なぜ、おくびょう者や、信じない者のほうが、地獄を受け継ぐ者の筆頭に来るのか。
それは、イスラエル六十万を荒野の四十年へ導いたのは、人殺しや姦淫を行う者ではなく、おくびょうな者や信じない者だったからである。

『つかさたちは、また民に告げて言わなければならない。『恐れて気おくれする者があるならば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、兄弟たちの心が彼の心のようにくじけるであろう。』(申命記20:8)
恐れは火のように飛び火すると、多くの人の心を汚染してしまう。
それは「気後れ」も、「不信仰」も、「なまけ心」も同様である。
だから私達は、信仰の戦いにおいては、まずそのような心を、まず取り除かなくてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:不正な者に対抗される主(申命記19:14-21):右クリックで保存

『あなたの神、主が与えて獲させられる地で、あなたが継ぐ嗣業において、先祖の定めたあなたの隣人の土地の境を移してはならない。』(申命記19:14)
受け継ぐ事の出来る相続地の広さは、荒野での第二回目の人口調査の時の部族の人数によって、永遠に決定づけられ、この時に決定された相続地の境界線は、後代もずっと変えてはならないと、主は定められた。(申命記27:17、箴言22:28、23:10)
荒野で過ごした期間は、いかに良き地を継げるか、という、査定期間のようなもので、その期間、主に喜ばれ祝福されるように過ごした部族には多くが与えられ、主の怒りを買って人数を減らしてしまった部族には、少ししか与えられなかった。

同じように今、私達が生きているこの人生は、天の国という永遠の相続というボーナスを得るための、ボーナス査定期間みたいなものだ。
天には、キリスト者が永遠に住まうマンションが、相続地として用意されており、いかに良いグレードのマンションに住まう事が出来るかというのは、この、地上での人生という査定期間にかかっているのである。(2コリント5:10)

『どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。』(申命記19:15)
約束の血において、不正な事が行われた場合、それを罰すべき罪として定めるには、必ず二人以上の証人がいなければならない事は、既に17章で学んだ通りであるが、この制度を悪用する者が出てくる事も、当然考えられる。
証人が二人以上いれば、それで罪定めが成立してしまう、という事は、偽りの証人を二人立てるなら、無実の罪を着せる事も可能である、という事だ。

『もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。』(申命記19:16-17)
もし、証人が偽りを言っている疑いがある場合は、係争中の二者は主の前に出て、この事を時の祭司と裁判人の元に持って行かなくてはならない。

『その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。』(申命記19:18-21)
このように、偽りの証人に対しては、その者がたくらんだ訴えた罪状に対する処罰が、そのままその者に返される。
相手の財産を取るための偽りの訴えなら、その金額をそのまま相手に渡す事となり、相手を亡き者にしようという偽りの訴えなら、その者が、亡き者とされてしまうのだ。

ダニエルを陥れるために、「王以外を礼拝する者は死刑」という法律をわざわざ作り、潔白なダニエルを亡き者にしようとする者達があった。
そしてダニエルは「主を礼拝した」かどで捕らえられ、ライオンの穴に投げ込まれたが、主は御使いを送り、ライオンの口を塞いで、主ご自身が、ダニエルの潔白を証明して下さった。
それで、ダニエルを陥れようと企んでいた者達が、自分達が計ったとおりに計り返され、妻子もろともライオンの穴に投げ込まれる事になり、彼らが穴に落ち込む前に、ライオンに食い尽くされた。
このように、主の御前に、いつも正しく歩もうとする人は、主ご自身が潔白を証明され、守って下さるのである。

聖書の考え方に、現代蔓延している「言った者勝ち」という概念は無い。
むしろ、訴える事はサタンのする事であり、不当な「訴え」をする者には、それ相応の報いがそのまま返って来るものだ。
聖書はむしろ、「主に委ねた者勝ち」なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:のがれの町(申命記19:1-13):右クリックで保存

申命記19章では、モーセは再び「のがれの町」について指示をしている。
主がイスラエルにカナンの地を得させて、そこに住むようになった時には、あやまって人を殺してしまった人が逃れるための「のがれの町」を備えるよう命じている。
その町は、どこからでも行きやすい距離とし、その町への道も備えるようにしなければならない。(申命記19:1-3)

この町に逃れる権利があるのは、人を殺してしまったのが「意図的ではない場合」であって、故意に、殺意をもって人を殺してしまった場合は、そこに逃れる権利は無く、たとえ、その町に逃げて来たとしても、その者は復讐者の手に強制的に戻される。
『彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流したとがを、イスラエルから除かなければならない。そうすればあなたにさいわいがあるであろう。』(申命記19:11-13)

逃れの町に関する主の指示は、民数記35章で詳細に見ることが出来る。
この町は、専属的に主に仕える奉仕者・レビ人達の町のうちから選ばれるものであり、誰かが意図せずして人を殺めてしまった場合、時の大祭司が死ぬまでその町の中にいるなら、復讐者の手から守られるよう保証されているが、大祭司が死ぬ前に、その町から出歩いているのを復讐者に見つけられた場合、その復讐者に殺されても仕方ないとされている。
しかし、大祭司が死んだ後にはその人は自由となり、自分の所有地に帰ることが出来るようになる。(民数記35:25-28)

この「のがれの町」は、イエス様のご性質をよく表している。
のがれの町には、意図せずして人を殺めてしまった者が逃げ込むべき町であるが、私達も、意図せず人を傷つけたり、知らない間に罪をおかしたりしてしまうため、何らかの保護措置が無いと、自らの罪のゆえに、滅ぼされてしまう。
イエス様は、そんな私達のために「のがれの町」となって下さった。

人はイエス様を、寄ってたかってばかにし、傷つけ、十字架につけたが、それがどんなにおそろしい罪か、わかっていない。
もし霊的な目が開かれたなら、神の子である聖なるお方をばかにし、傷つけ、一切の罪なきお方を十字架刑に処するなど、どれ程重い罪であるかを知るだろう。
しかし、イエス様は次の祈りをされ、御父に執り成して下さった。
『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。』(ルカ23:34)

イエス様は父なる神に、彼ら(私達人間)は意図してその罪を犯していない、と、主張された。
だから私達は、「のがれの町」へ逃れる権利を得たのだ。
私達は皆、罪人であり、私達の全員がイエス様を十字架につけたようなものである。
それなのに私達は、イエス様の執り成しの祈りによって、救われたのだ。

誤って人を殺した殺人者が、神の働き人であるレビ人の町へと逃れ、レビ人の食事によって養われ、レビ人の集いで共に交わり、開放の時までかくまわれた。
同じように私達も、元々は邪悪な者であったのに、イエス様というのがれの町へ逃れ、主の働き人の集いで共に食事し、共に養われ、開放の時までかくまわれるのだ。

イエス様こそ、真の「のがれの町」である。
イエス様に留まり続ける限り、安全であるが、イエス様から、のこのこと外に出てしまうと、私達を罪定めする者・サタンに対して無防備となり、サタンに捕らえられたなら、あっけなくえじきとされ、永遠の死へ至ってしまうのだ。
のがれの町に居続けていなければならないのは、大祭司が死ぬまで、と定められている。同じように私達も、世が改まるまで、あるいは私達が死ぬまで、キリストに留まり続けるべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:偽預言者の見分け方(申命記18:20-22):右クリックで保存

『預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない。』(申命記18:20)
私達は、偽預言者には気をつけなければならない。
異教の神々の名によって預言する者もいれば、まことの神である「主(エホバ)」の名を用いて偽の預言をするも、そして、主イエスの名を用いて偽の預言をする者もいる。
一体、本物の預言者と偽預言者とは、どのように見分ければよいか。

預言者を見分ける第一の鍵は、その預言がちゃんと成就するか、しないか、である。
『あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が「主(エホバ)」の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。もし預言者があって、「主(エホバ)」の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは「主(エホバ)」が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。』(申命記18:21-22)
「この事が起こる」と預言しておきながら、それが起こらないような”預言”を頻発させる者は、レベルの低い偽預言者であり、その者を恐れる事はない。

しかし、偽預言者や異教の預言者の中でも、しるしや奇跡を示して、それを実現させる者もある。
終わりの時代には、にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとする。(マタイ24章)
そういった場合は、どのように見分ければよいか。

偽預言者を見分けるもう一つの鍵は、その預言者が「イエス様をあかしするかどうか」、である。
『愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。』(1ヨハネ4:1-3)

使徒ヨハネは、霊は何でもかんでも信じる事をせず、「ためしなさい」と勧めている。
ある人が、イエス様の名前は乱発するけれど、どうも、イエス様の品性とはかけ離れているような、何かおかしい、と感じたなら、その人に聞くと良い。
あなたが言っているイエス様は、どんな方ですか、と。

もし、それを聞かれてあたふたしたり、曖昧な事を答えたりするなら、その人の内のイエス様が曖昧だ、という事である。
もしその人が、イエス様が「肉体をとってこられた事」を告白しないなら、すなわち、使徒信条にあるように、イエス様が人として来られ、十字架につけられ、死んで三日後に復活し、昇天し、全能の父なる神の右に座され、生きている人と死んだ人とを裁かれるお方である、という、イエス様のご性質と品性が一切無いようなら、その人からは離れたほうが良い。

預言者は、その人自身を証するのではなく、イエス様を証しするものである。
『そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。』(黙示録19:10)
あの、使徒ヨハネでさえひれ伏そうとした御使でさえも、「自分はあなたと同じ僕仲間である」「自分ではなく神を拝みなさい」と告白したのだ。
ましてや、イエス様より自分が高められて喜ぶような偽預言者に、一体何の分があるだろうか。
預言の霊は、イエスのあかしであって、決して、預言者本人を栄光化するようなものではないのだ。

また、預言者を見極めるもう一つの鍵は、その預言者に「秩序」があるかどうかである。
『預言者の霊は預言者に服従するものである。神は無秩序の神ではなく、平和の神である。』(1コリント14:32-33)
預言者の霊は、預言者に服従するものであって、決して、その人の意志を乗っ取って、見境なく無秩序にさせるものではない。
もし、ある預言者が介入した事によって、そこの礼拝の秩序を乱したり、兄弟姉妹の交わりを混乱させるようなら、疑ったほうが良い。
神は無秩序の神ではなく、平和の神なのだ。

一体、偽預言者たちは、何を好きこのんで、偽預言をするのか。
それは、実につまらないもののためである。
『人の子よ、心のままに預言するあなたの民の娘たちに対して、あなたの顔を向け、彼らに向かって預言して、言え、主なる神はこう言われる、手の節々に占いひもを縫いつけ、もろもろの大きさの人の頭に、かぶり物を作りかぶせて、魂をかり取ろうとする女はわざわいだ。あなたがたは、わが民の魂をかり取って、あなたがたの利益のために、他の魂を生かしおこうとするのか。
あなたがたは少しばかりの大麦のため、少しばかりのパンのために、わが民のうちに、わたしを汚し、かの偽りを聞きいれるわが民に偽りを述べて、死んではならない者を死なせ、生きていてはならない者を生かす。』(エゼキエル13:17-19)

彼らは、少しばかりのパンを得るために、または、二束三文の名誉欲のために、主の御名を用いて、人の人生を左右するような言葉を言おうとするのだ。
自分は普通と違う能力を持っているぞ、と、霊的に見られたいがために、あるいは、霊的指導者として人々を思うまま支配したり、あがめられたりしたいがために、そのようにしているのだ。

偽預言者の報いは、死である。
『預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない。』(申命記18:20)

そして、偽預言者の霊の、行き着く先は、永遠の火による苦しみの場所、ゲヘナである。
『そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:10)
主の御名をみだりに用いて、主の栄光を横取りし、人の人生を身勝手に介入したり、ほしいままに操ったりしようとする者へのさばきは、非常に大きいのだ。

私達は、しっかり真理を見極め、騙されることなく、まっすぐに真理を歩んで行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:一人の預言者の言う事を聞け(申命記18:9-19):右クリックで保存

『あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国々の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記18:9-12)

主は、主以外の神を拝んだり、伺いを立てたり、占いや口寄せをする事を、忌み嫌われる。主の他に神は無く、それ以外の神を拝んでいるとしたら、その者は悪霊を拝んでいるのだ。
今の日本は、偶像礼拝は生活の一部となっている所が多く、また、占いについては、テレビや雑誌、インターネットなどで、簡単に目にする事が出来る。
この国は本当に、主の前に災いを積み上げている。
私達キリスト者は、この国を執り成さなくてはならない。

キリスト者は、そのような表立った偶像礼拝や占いはあまりしないであろうが、そうした表向きの偶像礼拝より、「本質的な偶像礼拝」こそ、気をつけるべきである。
「本質的な偶像礼拝」とは、御言葉に聞き従わない事、主の御声にそむく事である。
『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』(1サムエル15:22-23)

サウル王は、表面上は占いや口寄せを国内から取り除いたが、主の御言葉どおりに行わず、御声にそむいたため、王位から退けられてしまった。
御声に聞き従わないで、あくまで自分の思うがままにし続けるなら、そのうち、どんなに主に求めても主は答えて下さらなくなってしまい、サウルは最後には、自分が追い出した霊媒を呼び寄せ、死んだサムエルに導きを求め、ついには、無残な最後を遂げるに至ってしまった。(1サムエル28-31章)

私達が唯一、導きを求めるべきは、まことの預言者であるイエス・キリストである。
『あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』(申命記18:15)
モーセは、彼の後の時代に現れるひとりの預言者に聞き従うよう命じた。
この「ひとりの預言者」こそ、イエス・キリストである。(使徒3:22)

神様が、神と人とを仲介する預言者を立てるのは、人は、聖なる神の前に直接立てないからである。
『これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわちあなたは『わたしが死ぬことのないようにわたしの神、主の声を二度とわたしに聞かせないでください。またこの大いなる火を二度と見させないでください』と言った。主はわたしに言われた、『彼らが言ったことは正しい。わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。』(申命記18:16-18)

人が、全能なる主の聖なる有り様に直接触れてしまうなら、死んでしまう。大祭司でさえ、自らを贖う血を携えずに至聖所に行くなら、打たれて死んでしまった。
だから、神と人との間に立つ仲保者が、必要なのである。

神は、イエス・キリストをその役割とするために使わされた。
『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)

「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とは、贖いの蓋の事であり、贖いの蓋とは、契約の箱(アーク)を覆っている蓋である。
インディー・ジョーンズの映画の中にもアーク(契約の箱)が登場したが、箱に蓋が被さっている間は何の害もなかったのに、蓋が取られた時、そこにいた人は打たれて死んでしまう、という場面が、映画の中にあった。
それと同じように、罪ある人間は、主の「聖」に直接触れるなら、死ぬしか無い。
そこでイエス様は、人が神の聖に打たれて死ぬという事の無いように、「贖いの蓋(ヒラステリオン)」となられたのだ。それが、ローマ3章23-26節の説明である。

イエス様は、神と人との間の覆いとなられ、それで私達は、キリストにあって、神の御前に出る事が出来るようになった。
もしイエス様抜きで御前に出るなら、死ぬしかないのだ。

『彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。』(申命記18:19)
私達も、神が認証された預言者であるイエス様に聞き従わないとしたなら、神に責任を問われる。
結局、私達は、キリスト抜きでは御前に何も出来ないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主の働き人としての分(申命記18:1-8):右クリックで保存

『レビびとである祭司すなわちレビの全部族はイスラエルのうちに、分も嗣業も持たない。彼らは主にささげられる火祭の物と、その他のささげ物とを食べなければならない。彼らはその兄弟のうちに嗣業を持たない。かつて彼らに約束されたとおり主が彼らの嗣業である。』(申命記18:1-2)
レビ人や祭司は、相続地を受けてはならないという”禁止命令”が出ている。(民数記18:20)
彼らの相続は、主ご自身であり、全イスラエルの代表(身代わり)として、主の奉仕に専念しなくてはならないからだ。(民数記3:49)

彼らには土地などの目に見える相続は無いが、その代わり、一般の人々が主に捧げるものの中から、受けるべき分がある。
『祭司が民から受ける分は次のとおりである。すなわち犠牲をささげる者は、牛でも、羊でも、その肩と、両方のほおと、胃とを祭司に与えなければならない。また穀物と、ぶどう酒と、油の初物および羊の毛の初物をも彼に与えなければならない。あなたの神、主がすべての部族のうちから彼を選び出して、彼とその子孫を長く主の名によって立って仕えさせられるからである。』(申命記18:3)
現代も同様に、牧師や宣教師など主のために専念して働くフルタイム献身者がおり、彼らも、聖徒たちが主に捧げる捧げものの中から、受ける分があるが、彼らは金銭を得る事を当てにして働くのではなく、ただ「キリストの福音のために」働くのである。(1コリント9章)

パウロは「献金によって生活する権利」があるのに、人々の福音を伝える妨げられぬように、そして、人々には自らの手でしっかり働く事を示すために、その権利を手放し、自らの手で働きつつ、福音の働きをした。(1コリント9:11-12)
パウロは聖なるプライドの故に、その権利を投げうったのだ。(同15節)

献身者を目指す人の中には、厳しい社会で揉まれるのが嫌だから、比較的「優しい」人達が集うキリスト教業界の中から糧を得、ぬくぬくしようと、逃避的な動機で献身者を目指す人も、中にはいるが、世の働きという「小さな事」さえまともに出来ないよう人は、神の国の働きという「大きな事」を担うべきではない。
神の国の働きは、一般社会での働きよりも、より大きな信仰が必要であり、より多くの主に対する服従と忍耐が求められるし、世の事業における責任よりも、永遠のいのちに携わる責任のほうが大きいからだ。

世で働くキリスト者は、主への捧げ物をないがしろにしたり、主のために専念して働く働き人を、ないがしろにしてはならない。
これをないがしろにしてしまうと、あらゆる事がうまくいかなくなってしまうからだ。
『あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた。』(ハガイ書1:9)

私達はフルタイム献身者でないとしても、主イエスにあって、王族の祭司であり、守り行うべき務めがある。
守り行うべき務めとは、週ごとに守るべき礼拝であり、周りの人々に福音を伝える事であり、子どもや家族に信仰を継承して行く事である。
この、自分の家という”聖所”のつとめをないがしろにしてしまうと、あらゆる事がうまく行かなくなってしまう。

『あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。』(ハガイ1:6-11)

しかし、再び主に立ち返り、家の中で崩壊してしまった信仰を建て直すなら、その後の栄光は、以前の栄光に、はるかにまさるものとなるのだ。(ハガイ2章)

礼拝説教メッセージ音声:王たる者のすべき事、してはならぬ事(申命記17:14-20):右クリックで保存

『あなたの神、主が賜わる地に行き、それを獲てそこに住むようになる時、もしあなたが『わたしも周囲のすべての国びとのように、わたしの上に王を立てよう』と言うならば、必ずあなたの神、主が選ばれる者を、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞のひとりを、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。』(申命記17:14-15)

教会やクリスチャンホームなどの、神様を第一とする集いにおいて、支配者を立てる場合、人間的な判断で選んではならず、主の御心を求めなくてはならない。
また、神を恐れない外部の者を、自分達の支配者として立ててはならない。

現代の民主主義国家は「民主」の名の通り、民が主であるから、「選挙」という多数決の原理で、上に立つ権威を選出しているが、教会やクリスチャンホームなどの、神を主とする集いにおいては、そうではない。
常に神様の御心を求め、主を第一とし、それで家庭や教会を運営して行くのである。

モーセは、神をおそれる国の王たるものが、してはならない事を、3つ示している。
『王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。』(申命記17:16-17)

王たる者がしてはならない事の、まず一つ目は、自分のために馬を集める事である。
馬は、戦争で用いる動物であり、当時の軍事力の指標であるが、神を主とする国の王たる者は、軍事力を積み上げる事に、やっきになってはならない。
実際、ダビデも自国の兵力を数えるという罪を犯し、イスラエルに災いを招いてしまった。
力を頼みとする者は、おごり高ぶったり、神をないがしろにしかねないのだ。

また、してはならない事の二つ目は、妻を多く持つ事である。
それによって心迷うからであり、また、主は元々、人を男と女とに創造され、「ふたりは一体となる」と言われた通り、多くの伴侶を持つのは、本来あるべき姿ではないのだ。
実際、聖書を見ると、多くの妻を持っている家庭は必ずと言っていい程、争いがあり、子育てに失敗している。

してはならない事の三つ目は、金銀を多く蓄える事である。
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』(1テモテ6:9-10)

力、女、金。
それらを追求するのは、世の男の常であり、多く持つ事がステータスであるが、しかし、神の民がそれらを追求しすぎると、主から離れ、災いに遭ってしまう。
実際ソロモン王は、最も主に愛された父親を持ち、最も知恵が与えられたにもかかわらず、それらによって主から離れてしまった。(1列王記10-11章)
ソロモンの所に入ってきた金は、年間六百六十六タラントもあり、また彼は、エジプトから戦車や馬を大量に輸入した。
また彼には、七百人の妻と、三百人のそばめがいた。

そうして彼は堕落し、主の怒りを買い、彼以降のイスラエルは分裂してしまい、争いが絶えなくなってしまった。
『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。』(1列王記11:11:9-11)

続いてモーセは、王たるものが、するべき事を示している。
『彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。』(申命記17:18-20)

王たるものがしなくてはならない事、それは、御言葉を手元に置き、いつも手放さない事。
御言葉に記されている事をいつも読み、主をおそれることを学び、それらを守り行う事である。

現代、私達キリスト者が、キリストにあって王であり、祭司である。(1ペテロ2:9)
私達も、力や金、女を追求してはならず、御言葉に記されている事を学び、それを守り行うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:神の民を指導者する人は(申命記17:8-13):右クリックで保存

『町の内に訴え事が起り、その事件がもし血を流す事、または権利を争う事、または人を撃った事などであって、あなたが、さばきかねるものである時は、立ってあなたの神、主が選ばれる場所にのぼり、レビびとである祭司と、その時の裁判人とに行って尋ねなければならない。彼らはあなたに判決の言葉を告げるであろう。』(申命記17:8)

安息の地に入った後、難しい事件が起こり、その町のさばきつかさでは手に負えないような事案が発生した場合には、主が選ばれる場所にのぼり、レビびとである祭司や、その時の裁判人に聞かなくてはならない、と定められている。
レビ人である祭司は、律法に通じており、主に伺いを立て、主から知恵を受けるからであり、また時の裁判人も「主の前に立って仕える人」であり(12節)、彼らは人間的な知恵や経験によって裁きをするのでなく、主の御言葉に照らし合わせ、主に伺って裁きを行うからだ。
だから、神の民の指導者は、人間的な知恵や経験によって裁くのではなく、御言葉にのっとって、主に伺いつつ、裁くのだ。

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。』(ヘブル13:17)
主にある指導者は、主の前に立ち、一人ひとりの霊的状態を見張り、主にその人のために申開きをし、執り成す、と、ヘブル書の記者は記している。
彼らは、群れの霊的状態をいつも見守っている故、ある人には時に心痛い言葉で諭す時もあるし、懲らしめをする事もある。

ただ、その指導者も、弱さを持った人間である。
彼らが聞き分けのない群れを嘆きながら主に訴えてしまうような事は、避けなければならない。
むしろ、その人が、主にあって喜んで群れを見守り、執り成す事が出来るように、いつも尊敬をもって、従順に聞くべきである。
『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。』(1テモテ5:17-19)

人の上に立つ人は霊的な指導するわけであるから、誰もがなって良い、というものではない。
『監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――』(1テモテ3:2-5)

人の上に立つ人は、自分を制する人でなくてはならないし、自分が気に入る・気に入らないによって裁くような者であってはならない。
また、酒飲みの人や、暴力でものを言わすようなものであってはならない。
まして、単に「人に命令したいから」「上に立って尊敬されたいから」という理由で、安直になってはならない。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。』(ヤコブ3:1)

霊的な指導者や監督は、確かに栄誉ある職ではあるが、同時に、責任も大きいのである。
私達は、そのような責任を負って労を負っている指導者には、二重の尊敬に値する人として、敬うべきであり、また、そのような役割が与えられたのであれば、御言葉に照らし合わせ、主に伺いつつ、その任を負って行くよう、常に注意を払うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:恐れと慎みをもって、主の聖なる集いに入れ(申命記17:1-7):右クリックで保存

『すべて傷があり、欠けた所のある牛または羊はあなたの神、主にささげてはならない。そのようなものはあなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。』(申命記17:1)
主は、欠陥の捧げ物を平気で捧げるような、主を軽んじる者を、忌み嫌われる。
それ故、私達が礼拝を捧げる時、賛美や祈り、献金を捧げる時は、主に対してする事を忘れてはならない。
主は、私達自らの体を、きよい、生きた供えものとして捧げるよう命じており、それこそが真の、霊的な礼拝だからである。

また私達は、主の忌み嫌われるものを抱えたままで、主の御前に出るべきではない。
『主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。』(箴言6:16-19)
礼拝者や奉仕者を量るような、高慢な目を持ったまま礼拝に参加する事は、主に嫌われる事である。
偽りを言う舌や、悪に走る足手を改めないまま、何事もないかのように御前で賛美したり祈ったりするとしたら、それらは主に忌み嫌われる事である。
悪い事を思い計る心や、兄弟姉妹同士を敵対させるよう仕向ける心を持ったまま、御前に出るとしたら、その人の賛美や祈り、奉仕を、主は吐き出される。

捧げ物を捧げる時、新鮮な物と傷んだ物の二つが手元にある時、もし、誰も見ていないと思って、傷んだ方を捧げるとしたら、その人は、献金や奉仕を、自分の資産の「マイナス」として考える人であり、主を信頼する心も、主に対する恐れも無い証拠である。
主は生きておられ、実際に「在る」お方である。
主に捧げる事をマイナスとして計るなら、主はマイナスで返されるが、主に捧げる事をプラスとして考える人には、主はさらに増し加えて下さるのだ。

『あなたの神、主が賜わる町で、あなたがたのうちに、もし男子または女子があなたの神、主の前に悪事をおこなって、契約にそむき、行って他の神々に仕え、それを拝み、わたしの禁じる、日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、その事を知らせる者があって、あなたがそれを聞くならば、あなたはそれをよく調べなければならない。
そしてその事が真実であり、そのような憎むべき事が確かにイスラエルのうちに行われていたならば、あなたはその悪事をおこなった男子または女子を町の門にひき出し、その男子または女子を石で撃ち殺さなければならない。』(申命記17:2-5)

もし、死刑に処するべき罪(出エジプト記21章、レビ記19章)が発覚した場合は、まず、よく調査しなくてはならない。
死刑に処するには、二人または三人の証人が必要である。
「二」は、証人の数であり、二人の御使がソドムの罪を目の当たりにして、主はソドムを滅ぼしたし、また、イエス様が復活された時も、二人の御使いによって、あかしされた。

『ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。』(申命記17:6)
ふたりの証人または三人の証人の証言によって物事が確定するのは、新約の教会でも同じで、イエス様も、パウロも言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)

兄弟姉妹が罪を犯すのを見た場合、いきなり、教会や大勢の人達の面前でそれを糾弾するという事を、してはならない。
その人を立ち直れなくしてしまう事になりかねないし、また、早とちりして間違った訴えをしてしまうなら、その人本人の恥となってしまうし、兄弟姉妹の平和に波風を立てかねないからだ。
だから、そうした事を見たなら、まず、行って、「二人だけの所で」戒めるべきである。それでその人が悔い改めたなら、兄弟を得たのである。
しかし、もし本人が意図的に罪を犯し、好き好んでやっていて悔い改めないなら、さらに、もう二人三人を連れてきて戒めるのである。
それでも聞かないなら、教会で公に戒め、それでも聞かないのであれば、「主にある兄弟姉妹」の扱いからその人を解くのである。
それが、教会における戒めとさばきの手順である。

『よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。』(マタイ18:18-20)
イエス様の名のもとに集まるなら、そこに、イエス様がいるのだ。
イエス様は、確かに生きておられ、私達の内におり、そして二人また三人の主の名による集いにおられる。
そして、教会がつなぐ事は、天でもつながれ、教会が解く事は、天でも解かれるのである。
だから私達はそのつもりで、教会での交わりを、恐れと慎みをもって為すべきであり、至る所で主イエスの名による集いを為すべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:トップたる者の人選(申命記16:18-22):右クリックで保存

約束の地に入った暁には、それぞれの町の長を任命する事を、モーセは命じている。
『あなたの神、主が賜わるすべての町々の内に、部族にしたがって、さばきびとと、つかさびととを、立てなければならない。そして彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたより見てはならない。また賄賂を取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからである。ただ公義をのみ求めなければならない。そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜わる地を所有するにいたるであろう。』(申命記16:18-20)

モーセの言う”長たる者”を選ぶ際の選考基準は、「正しい人」であり、さばきを曲げたり、人をかたより見たり、賄賂を受け取ったりする事を禁じている。
普通、人々の上に立つ長を選ぶ際は、知識や経験があったり、有名な人や、人を統率するのがうまい人などを選ぶものだが、モーセは、能力的な面よりもむしろ倫理的な面のほうを強調している。
なぜなら、かつてモーセは、長たる者の人選で、痛い目にあっているからだ。

エジプトを出てまだ間もない頃、モーセのしゅうと・イテロが来て、モーセが何もかも一人で背負い込むのを見て、民の長を立てるようアドバイスした。
『モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。
また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。』(出エジプト記18:17-22)

イテロのこのアドバイスは、実に理にかなっている。
そして、民の長を選ぶ際の選考基準は、「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」だとしている。

それなのにモーセは、イテロのアドバイス通りに選考しなかった。
『そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。 』(申命記1:15)
モーセは、神を畏れる人でもなく、誠実な人でもなく、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」を取ったのだ。

その結果、民は、神に信頼せず、神がおられる事を度外視して、自分で出来うるベストな方法を模索したり、八方塞がりな状況になると、モーセに当たり散らしたり、しまいには、神様が「行け」と言っている約束の地を目前にしながら、「自分にはそんな力が無い」と、エジプトに帰ろうと言い出し、信仰によって進もうとしているモーセやヨシュア達を、石で撃ち殺そうとまでした。(民数記14章)
また、モーセが上に立つのを気に食わなかったコラと共にモーセに反逆したのは、”名のある者たち”二百五十人だった。(民数記16:2)

私達は、組織の人選をする上では、”神を恐れる人格者”よりも、多少不正をしようとも、”出来る人”のほうを選びやすい。
世の社会ではそれで良くても、神の国の事柄を為すトップとすべきは、真っ先に、”神を恐れる人”でなければならない。
なぜなら神の国の事柄は、力や効率よりも、霊的純粋さこそ大切だからである。
実際、初代教会でも、トップの選考基準として「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人(行状が良い人。「有名」という意味ではない)」を提示している。(使徒6:3)

現代の教会の、分裂や、不毛な”働き”の乱発など、多くの問題の原因は、トップに据えるべきでない人を、トップに据えてしまっている所にある事が多い。
教会などミニストリーの奉仕者に据えるべきは、御霊の実(愛、喜び、平安、、、誠実、柔和、自制など。ガラテヤ5章)をしっかり結んでいる人で、御言葉の知恵に満ちた人、社会においても行状が良い事で評判の人である。(使徒6:3)
モーセはかつて、長たる者の人選に誤り、荒野の放浪の元をつくってしまった。
私達は、奉仕者の人選を、世と同じにしてはならない。

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