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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:男子は年に三度、祭りにのぼる(申命記16:9-17):右クリックで保存

続いて、「七週の祭り」についての指示である。
『また七週間を数えなければならない。すなわち穀物に、かまを入れ始める時から七週間を数え始めなければならない。そしてあなたの神、主のために七週の祭を行い、あなたの神、主が賜わる祝福にしたがって、力に応じ、自発の供え物をささげなければならない。』(申命記16:9-10)
この七週間は、ちょうど穀物の収穫の時期に相当する。
すなわち、この七週が始まる除酵祭は、大麦の収穫の時期であり、七週の祭りの時期には、小麦の収穫の時期である。

そして、ここで命じられている事は、それらの収穫を、家族や身寄りのない人、主の働き人達と一緒になって、主の前で喜び楽しむ事である。
『こうしてあなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。あなたはかつてエジプトで奴隷であったことを覚え、これらの定めを守り行わなければならない。』(申命記16:11-12)

七週の祭りは、春〜初夏にかけての穀物の収穫祭であるのに対し、秋の果物の収穫祭は、「仮庵祭」である。
『打ち場と、酒ぶねから取入れをしたとき、七日のあいだ仮庵の祭を行わなければならない。その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:13-15)

この祭りは、イスラエルの祭りの中では、最も盛大に行われる祭りで、民数記29章を見ると、その7日間に捧げられる捧げ物の総数は、かなりの数にのぼる事が分かる。
この祭りの7日間、イスラエルの民は仮小屋を作り、その小屋の中は、あらゆる果物や地の産物で飾る。
その香りを嗅ぎながら、主に感謝を捧げつつ、兄弟姉妹たちと小屋の中で過ごすのだ。
聞いているだけでも、わくわくするような祭りであるが、どういうわけか、ヨシュアの時代からバビロン捕囚後までの長い間、この祭りは、ずっと疎かにされていたようだ。(ネヘミヤ記8:13-18)

やはり、人が神から離れる時は、献金など「主へ捧げ物」を真っ先に投げ出してしまうのかもしれない。
しかし、人が喜んで捧げるのであれば、主は喜びと祝福を大いに増し加え、押入れ揺すり入れして与えて下さる。
『主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:15) と記されている通りである。

『あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。』(申命記16:16-17)
年に三度、イスラエルの男子が皆、エルサレムに集中してしまうと、その間、男手は各地から無くなってしまう。
その間、敵が攻めて来たらどうするのか、という心配があるかもしれないが、主は、その心配をも払拭しておられる。

『わたしは国々の民をあなたの前から追い払って、あなたの境を広くするであろう。あなたが年に三度のぼって、あなたの神、主の前に出る時には、だれもあなたの国を侵すことはないであろう。』(出エジプト記34:24)
これらの祭りを、しっかりと忠実に行っているのであれば、敵が狙って攻めてくる事は無い、と、主ははっきり約束しておられるのだ。

日本には、江戸時代に「参勤交代制」があったが、それは、国のトップが、自分の配下の者を貧しくさせる事によって、反逆する意欲を削ぐためだった。
主は、その真逆をされる。
イスラエルの男子が、年に3度、主が定められた所で、礼拝をする事によって、イスラエルはますます祝福され、喜びに溢れ、また、敵に勝利したように、主は私達をも、ますます富ませ、喜ばせ、勝利させるために、しっかり礼拝するよう命じておられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:アビブの月の祭り(申命記16:1-8):右クリックで保存

申命記16章では、イスラエルの祭りについての指示が与えられており、今回はアビブの月(ユダヤの第一月、太陽暦では三、四月)に行われる祭りを見て行きたい。

『あなたはアビブの月を守って、あなたの神、主のために過越の祭を行わなければならない。アビブの月に、あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出されたからである。』(申命記16:1)
イスラエルの祭りの中で、最も重要な祭りが、過越の祭りである。
この祭りは、血潮のしるしの内に匿われていたイスラエルには、滅びが「過ぎ越し」、ただ主がエジプトが打たれた出来事を覚える祭りであり、アビブの月の十四日の夕暮れに、小羊をほり、その血を、家のかもいと門柱にしるしとしてつけ、家の中で、そのほふられた小羊を食す。

この、ほふられた子羊は、イエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)

なぜ、ほふられた小羊が、このように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。
それ故、この祭りは、イスラエル民族だけでなく、私達も含む、全被造物にとって、重要なものである。

『種を入れたパンをそれと共に食べてはならない。七日のあいだ、種入れぬパンすなわち悩みのパンを、それと共に食べなければならない。あなたがエジプトの国から出るとき、急いで出たからである。こうして世に生きながらえる日の間、エジプトの国から出てきた日を常に覚えなければならない。その七日の間は、国の内どこにもパン種があってはならない。また初めの日の夕暮にほふるものの肉を、翌朝まで残しておいてはならない。』(申命記16:3-4)

ここは、過越の小羊がほふられる日を起点に7日間行われる「種入れぬパンの祭り(除酵祭)」についての指示である。
この祭りの最初の日、家の中からはパン種を徹底して取り除き、続く七日間、どんな仕事もしてはならず(その食事を作る事以外)、種を入れぬパンを食べながら安息する。
パン種は、聖書では良くない意味として用いられる。
なぜなら、パン種は生地を発酵させて外見を膨らまし、純粋さを失わせるからだ。

このパンは、「悩みのパン」と呼ばれており、苦菜が添えられて食べる。
イスラエル民族は、この祭りの期間、純粋な「悩みパン」のみを食べ続ける事によって、純粋な御言葉のみによって養われる事を学び、自分達も、かつてエジプトの地で「悩んで」いた事を、そして、主が大いなる救いによって救って下さった事を、覚えるのである。
また、この「悩みのパン」を食べる時期は、ちょうどキリストが苦難を受けられた時期とも一致しており、苦難を受けられたキリストをもあらわしている。

『あなたの神、主が賜わる町の内で、過越の犠牲をほふってはならない。ただあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、夕暮の日の入るころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越の犠牲をほふらなければならない。そしてあなたの神、主が選ばれる場所で、それを焼いて食べ、朝になって天幕に帰らなければならない。』(申命記16:5-7)

過越の犠牲をほふれるのは、主がゆるされた場所のみであり、それは後の時代、エルサレムという場所と定められた。
また、過越の犠牲をほふる時刻は、ヨセフスによれば午後三時を常としていたようであり、それは、イエス・キリストが十字架上で、御父に霊をお渡しになった時刻と一致している。

私達の身代わりとなって下さったお方は、唯一、あの十字架上でほふられたイエス・キリストのみであり、それ以外に、救いは無い。
『あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。』(使徒4:10)-12

礼拝説教メッセージ音声:初物は主のもの(申命記15:19-23):右クリックで保存

『牛、羊の産む雄のういごは皆あなたの神、主に聖別しなければならない。牛のういごを用いてなんの仕事をもしてはならない。また羊のういごの毛を切ってはならない。あなたの神、主が選ばれる所で、主の前にあなたは家族と共に年ごとにそれを食べなければならない。』(申命記15:19-20)
動物も人も、全て「男の初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる。
だから、初物を主に捧げた事によって、それに属する全ても「主に捧げられた」とみなされるのである。

罪は、人類全ての代表選手であるアダムによって入り込み、こうして、一人の人を通して、人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
しかしキリストは、人類全ての身代わりとなって、十字架上で罰を受け、死んで下さった。
そのキリストを、私達の主とし、私達の「代表選手」とする事によって、キリストが受けられた罰も、死も、よみがえりも、全て私達も「した」と、御父の前でみなされるのである。
そればかりでなく、キリストが成就して下さった律法も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と見なされるのだ。

また、初子であっても、傷物は主に捧げてはならない、と、されている。
『しかし、その獣がもし傷のあるもの、すなわち足なえまたは、盲目など、すべて悪い傷のあるものである時は、あなたの神、主にそれを犠牲としてささげてはならない。町の内でそれを食べなければならない。汚れた人も、清い人も、かもしかや、雄じかと同様にそれを食べることができる。』(申命記15:21-22)

私達は、総理大臣や大統領に対して、傷物のものや、賞味期限切れのものを、プレゼントできるだろうか。
私達は、目に見える人間は普通に敬えるのに、目に見えない神は、あたかもいないかのように思ってしまい、無意識的に軽んじやすい。
しかし、主こそ総理大臣や大統領よりも大いなる方であり、何よりも恐れ敬うべき方である。
『わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。ところがあなたがたは『われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか』と言い、汚れた食物をわたしの祭壇の上にささげる。またあなたがたは、主の台は卑しむべき物であると考えて、『われわれはどんなふうに、それを汚したか』と言う。
あなたがたが盲目の獣を、犠牲にささげるのは悪い事ではないか。また足のなえたもの、病めるものをささげるのは悪い事ではないか。今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。』(マラキ1:6-8)

神はいない、と、みなしている人にとって、神に捧げる一連の行為は、単なる体裁の取り繕いに過ぎず、自分の資産のプラスマイナスで見るなら、マイナスの行為であると見なすものだ。
だから彼らにとって、きず物や無価値のものを神に捧げるほうが、エコで効率的、という事になり、傷のない良いものは自分のために残そう、という事になるのだ。

しかし、あいにく、神は生きておられ、私達を創造された聖なる尊きお方であり、決してエコで省けるようなお方ではない。
私達の一挙手一投足を見ておられ、心の動機も見ておられる、全能なるお方である。
だから、主を軽んじた捧げ物は、主に忌み嫌われ、その人の身に呪いを招く事になってしまう。

主を軽んじるような捧げ物を、主は「糞」と呼び、それをあなたたちの顔面に投げ返す、とさえ言っている。
『祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。』(マラキ2:1-3)

私達は、物やお金に限らず、礼拝や奉仕においても、「残りカス」を捧げてはならない。
世で遊ぶ事に疲れて、肝心の礼拝を休んでしまったり、礼拝の時は居眠りしてしまうとしたら、「残りカス」を捧げているのだ。
私達は、しっかりと自分を管理し、最も力のみなぎった自分自身という「初物」を、きよい供えものとして、主に捧げるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:神の民に搾取されっぱなしは無い(申命記15:12-18):右クリックで保存

『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)

主は、人がいつまでも人の奴隷である事を、良しとしない。
六年仕えたなら、第七年には自由にしてやらなければならないと命じておられる。
そして、彼らを自由にした時には、必ず彼らが自立して家庭を築き、家族をしっかり養っていけるようにしてやるべきであり、その手元に何も残さずに出すような事はしてはならない。

だから、現代日本のように、6年以上働いても、家を買うどころか、結婚して子供を生む事さえままならないような労働条件は、奴隷以下であると言える。
そのように、人の弱みにつけ込んで不当に搾取をする事は、「ほふられる日のために災いを積み上げる」事である。
『見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。』(ヤコブ5:4-5)
という事は、今日本は、何千万人という人々の未払い賃金が、主に向かって叫び声を上げている事になる。
日本に次から次へと災いが降りかかるのは、偶像崇拝など主の忌み嫌われる事を幾つもしているからだが、その理由一つに、この「不当な搾取」がある事は確かだ。

神の民は、搾取されっぱなし、やられっぱなし、という事は無い。
エジプトで400年間奴隷だったイスラエルに対し、主は、エジプトからはぎ取るよう命じられ(出エジプト記3:22)、事実、その通りになった。
ヤコブも、ラバンの元で7年間ラケルのために、さらに7年間レアのために、さらに6年間、一人立ちするための財産を得るために、ラバンの持ち物の面倒を見たが、ラバンはヤコブが何をしても祝福されるので、彼を去らせる事を嫌がり、また、彼に報酬を与える事も惜しんで、何度も報酬の条件を変えた。
しかし主は、ヤコブがいいように搾り取られる事を赦さず、ヤコブのために弁護して下さり、ヤコブは祝福され、多くの物持ちになって、無事、ラバンの元を去る事が出来た。(創世記31章)

『あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主があなたをあがない出された事を記憶しなければならない。このゆえにわたしは、きょう、この事を命じる。』(申命記15:15)
イスラエルはかつて奴隷であった事を、いつも覚えていなくてはならない、と、命じられているのは、奴隷を雇うまでに祝福された時、彼らにきつく当たらせないためである。

自分の元にいる奴隷が、とても有能であるなら、ラバンがヤコブを去らせなかったようにしたくなるのが実情であるが、それは主の命令に反する事である。
奴隷を自由にしてやった後の、自分の家や事業の心配は、全く無用である。なぜなら、次のように、祝福の約束があるからだ。
『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)

日本には奴隷制度は無く、一見、日本には奴隷は一人もいないように見えるが、実は、人は誰しも、何かしらの奴隷である。
『あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(ローマ6:16)
皆さんは、何の奴隷だろうか。
私達キリスト者は、キリストの奴隷であるべきである。

『その人があなたと、あなたの家族を愛し、あなたと一緒にいることを望み、『わたしはあなたを離れて去りたくありません』と言うならば、あなたは、きりを取って彼の耳を戸に刺さなければならない。そうすれば、彼はいつまでもあなたの奴隷となるであろう。女奴隷にもそうしなければならない。』(申命記15:16-17)

それまで仕えて来た奴隷が、いつまでもその主人の元にいたい、という場合、その奴隷の「耳」を、きりで戸に刺し貫いて打ち付ける、というのは、実に興味深い。
皆さんは、主人であるキリストの元を去りたいだろうか?
去りたくないのであるなら、皆さんの「耳」は、キリストの家の扉へと、打ち付けるべきである。
主の宮において、いつも主に耳を開き、いつも主の門にいて耳をすましているなら、皆さんは、いつまでも主の門で仕える主のしもべなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹を助ける事の祝福(申命記15:1-11):右クリックで保存

主は、困っている兄弟姉妹には、惜しまずに貸し、そして7年ごとの「ゆるしの年」には、その負債を免除しなくてはならないと命じている。
『すべてその隣人に貸した貸主はそれをゆるさなければならない。その隣人または兄弟にそれを督促してはならない。主のゆるしが、ふれ示されたからである。外国人にはそれを督促することができるが、あなたの兄弟に貸した物はゆるさなければならない。しかしあなたがたのうちに貧しい者はなくなるであろう。(あなたの神、主が嗣業として与えられる地で、あなたを祝福されるからである。)』(申命記15:2-4)

「ゆるしの年はもう近い」と考えて、貸す事を惜しむなら、貧しい人がその人を主に訴えるなら、その人は罪と定められてしまう。(9節)
しかし、惜しまずに貸すなら、以下のような祝福の約束がある。
『あなたの神、主が約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国びとに貸すようになり、借りることはないであろう。またあなたは多くの国びとを治めるようになり、彼らがあなたを治めることはないであろう。』(申命記15:5-6)

だから、「これを貸して、もし戻って来なかったら、自分は損をして、もっと貧しくなってしまうのではないか」という心配は、無用である。
逆に、他の国々に沢山貸すまでに物が祝福され、多くの国を支配するまでになるのだ。

「他を支配するのは良くないのでは」と思う方もいるかもしれないが、そう思う背後には、圧政したり搾取したりという「悪い支配」の事例を、世の中で数多く見て来た経験がある。
しかし、神の御心に叶った「正しい支配」というものがあり、神を恐れ、御言葉に忠実な人が行う「正しい支配」は、多くの人を幸いにする。
実際、エジプトの宰相となったヨセフは、世界中がききんの時、憐れみ深い政策を取り、当時の世界の人々は、喜んでヨセフの支配下に入った。
(創世記47章 詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1139&cid=23)
だからむしろ、神を敬う神の子達が、悪い者が支配している世から支配権を奪回し、正しく支配するべきなのだ。

『貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない。』(申命記15:11)
貧富の差というものは、必ず出てくるものだ、と、主は言われた。
確かに、人は罪の故に貧しくなる事はあるが、ヨブのように、主が何かを学ばせるために、敢えてその人を低くする場合もある。
もし兄弟姉妹が貧しくなり、困った場合、私達は彼らを助けるべきである。
なぜなら、私達の主・キリストがそうされたからだ。

『あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。・・・それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく、持ち物を等しくするためである。すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。』(2コリント8:9-13)
だから私達も、キリストにならうべきである。
もし兄弟姉妹を助けられる程の祝福を頂いているなら、惜しまず、助けるべきである。

「交わり」のギリシア語・コイノニアとは、兄弟姉妹が当たり障りなく談笑するだけのものではなく、寄付や援助などの、具体的な相互援助も意味している。
皆さんは、兄弟姉妹の「交わり」の中から、金銭的・物質的援助を、除外して考えてはいないだろうか。
『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、「いのち(プシュケー:感情や意志、思い)」を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。』(1ヨハネ3:16-22)

働かずに他人からの援助で生きていこうとするような怠け者に対しては、自分の手で骨折って働くよう戒めるべきであるが(2テモテ3:12)、もしその人に自立する気があって、たまたま貧しくなってしまったような場合であるなら、惜しまず援助するべきである。
それをするなら、さらに豊かに祝福され、ますます豊かに与えるまでになる、という、以下の約束が伴っている。

『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。
種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(2コリント9:6-12)

礼拝説教メッセージ音声:十分の一を捧げる事の祝福(申命記14:22-29):右クリックで保存

『あなたは毎年、畑に種をまいて獲るすべての産物の十分の一を必ず取り分けなければならない。そしてあなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一と、牛、羊のういごを食べ、こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない。』(申命記14:22-23)
主が人に十分の一を捧げるよう命じられたのは、全地は元々主のものであり(詩篇24:1、詩篇95篇)、主が恵みによって人々を養っておられる事を、思い起こさせ、主を恐れることを学ぶためである。

もし人が、主が支配しておられる自然界からの恵みを下さる事に感謝せず、主を覚えもせず、ただむさぼり食っているとしたら、それは「ただ食い」であり、主のものを盗んでいる事になり、そういう人は、呪われる。
『人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。』(マラキ3:8-9)

だから私達も、恵みによって養って下さる主に感謝し、十分の一を捧げるのならば、全てを支配しておられる主が、さらに恵みを増し加えて下さる。
『わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。』(マラキ3:10-12)

また主は、貧しい人達や、主の働き人であるレビ人達にも、十分の一によって恵みの分かち合いをするよう、命じている。
『町の内におるレビびとを捨ててはならない。彼はあなたがたのうちに分がなく、嗣業を持たない者だからである。三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、町の内にたくわえ、あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記14:27-29)

モーセは再三、レビ人を、すなわち、主の働き人を養うよう、命じている。
すなわち、三年ごとに十分の一を町の内に置き、レビ人や在留異国人、孤児ややもめのための食料とし、彼らを満足させなくてはならない、と。
なぜなら、それをする事によっても、その人は祝福されるからである。

『わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。』(イザヤ58:6-8)
断食とは何も、食を断つ事だけではない。
いかに食を絶ったとしても、困っている人や貧しい人を虐げたり、肉親を世話しない等、主の忌み嫌われる事をしているなら、それはただ単に「食べない」だけであって、主の御前には、何も残らない。

主が喜ばれる断食とは、悪の束縛を振りほどき、人を虐げる事や、不当に人を支配する事を、止める事である。
そして、貧しい人や飢えている人を満足させる事、困っている人を見てみぬふりをせず、肉親もしっかり助け養う事であり、そのような人は、主を呼ぶ時に主は答えて下さる。
『もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。』(イザヤ58:10-11)

礼拝説教メッセージ音声:きよい性質と汚れた性質の切り分け(申命記14:1-21):右クリックで保存

『あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。死んだ人のために自分の身に傷をつけてはならない。また額の髪をそってはならない。あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。』(申命記14:1-2)
主はイスラエルを「主の子供」「主の聖なる民」、ご自分の「宝の民」とされた。
イエスキリストによって贖われた私達も、キリストにあって神の子とされ、聖なる国民、王族の祭司とされ、宝の民とされたのだ。

「宝」は、他とは区別された尊く大切なものであり、それなりに手厚い扱いをする。
ビー玉よりも真珠の方が尊く、よりきめ細やかなケアが必要なように、主は、ご自身の宝の民である私達を、丁重に特別扱いし、きめ細やかなケアをされる。
故に、他の人が平気やっている事を、私達がするのは絶対許さない事もあるが、結局それは、他の人には決して与かれない特別な栄誉と祝福を与えて下さるためだ。
そうであるからには、私達は自らを聖別し、罪の世から自らを分離して、聖なる趣きに傷や汚れを受けぬように、努力し続けるべきである。

『忌むべき物は、どんなものでも食べてはならない。』(申命記14:3)
「食べる」、という行為は、その対象のいのちを採り入れ、それを自分の血とし肉とし、一体化する行為であるが、ここでは、食べてよい動物と食べてはならない動物、一体化してよい動物と、一体化してはならない動物の区別が、示されている。
その区別を知る事によって、私達は、どのような性質を目指すべきで、どのような性質を捨て去るべきかも分かる。

地上に住む生物の内で、きよい動物の性質は、「ひずめが分かれたもの」(申命記14:4-6)、また、水棲動物できよい性質とは、ひれがあり、うろこがあるものである。(同9-10節)
地や海底に這いつくばったりしせず、ひずめで直接地に接する事をせず、うろこ等で外界に対して一線を画し、自らの足で立って歩み、ひれを使って泳ぐ。この、地(あるいは海底)に、直接接しない性質は、きよい。

地は、世を表している。「地につくもの」は肉に属するもの、悪魔的なものであると、ヤコブ書3章で記されているからだ。
サタンは「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」(創世記3:14)、「地を行き巡り、そこを歩き回る」(ヨブ2:2)性質であるが、そのように、世を這いつくばって行き来するが、それは、神から呪われた性質である。
私達にとっても、世とは一線を画し、地に属さぬよう、信仰によって立ち、信仰によって歩むのが、きよい性質である。

また、「反芻(よく噛んで食べる)」する動物はきよい動物、そうでない動物は、きよくないとされている。
きよい動物は、概して草食動物であり、草は、主が全ての動物が食べるようにと、食物として与えて下さったものである。(創世記1:30)
私達も、主が与えて下さった食物、御言葉を、よく噛んで咀嚼し、よく味わい、よく消化するなら、それは主に喜ばれる性質である。
それに対し、主が与えて下さる食物を反芻せず、味わいもせず、何でもかんでもそのまま鵜呑みにしてしまう「豚」のような性質は、主に嫌われる性質である。

神が世を創造された当初、全動物は、主が食物として与えて下さった草を食べており、その時、人も、神が結ばせて下さった、あらゆる良き実だけを食べて生きていた。
その頃は、他の動物のいのちを奪って肉を食べる、などという事は、しなかった。
肉食、すなわち、ある動物のいのちを取って、そのいのちをいただく行為は、罪が入った結果、始まった事であり、他の動物を鉤爪で引き裂いたり、牙で噛み付いたりして、むやみに血をながす性質は、サタンの性質である。
だから、それをする猛獣や猛禽類は、汚れた性質とされている。

まことのいのちをもたらす唯一の食物は、イエスの肉であり、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。』(ヨハネ6:53-57)
私達も、この御方の肉を食べその血を飲む事、すなわち、主の聖餐にあずかる事よって、この御方と一体化し、それによって、まことのいのちと一体化するのである。

『すべて自然に死んだものは食べてはならない。町の内におる寄留の他国人に、それを与えて食べさせることができる。またそれを外国人に売ってもよい。あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。』(申命記14:21)
自然死したものを食べる事は、確かに衛生上良くないが、死は、罪から来る報酬である。(ローマ6章)
私達は、世の人々と同じように、自らの罪が結実した「死」を飲み食いして、罪や死と一体化してはならない。

『子やぎをその母の乳で煮てはならない。』(申命記14:21)
子は、新しく生まれたいのちで、大切に育てていくべきものであり、母は、自らのからだを開いて新しいいのちを生み出し、それを自らの乳でもって養い、守り、育てていくものである。
その、母と子の両方のいのちを奪って、いのちの養いである乳で煮る行為は、いのちへの愛情を、いのちの養いを踏みにじる行為である。

私達は、世とサタンからは分離して生きるべきであり、聖と俗と切り分け、いのちと死とを切り分け、聖なる者として、いのちにあって歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声:滅ぼされるべき者であるのに(申命記13:12-18):右クリックで保存

まことの神から離れさせ偶像礼拝へと向わせる動きが、町ぐるみで行われている場合、すぐに滅ぼす、という事はせず、よく調べ、よく問いただしてから、判決を下さなくてはならない。
そして、そのような憎むべき事が行われていた事が明らかとなった場合は、その町の住人ばかりでなく、家畜も、全て剣で滅ぼしつくす事が命じられており、しかも、その町から何のぶんどりもしてはならず、徹底的に破壊し焼き尽くした後は、そこを忌むべき所として、二度とそこを再建してはならない、とまで命じている。(申命記13:12-17)

しかしながら、列王記や歴代誌を見ると、町ぐるみどころか、国ぐるみで、まことの神から離れさせ他の神々へと向わせる動きが幾度もあった。
モーセの命令がそのまま正確に実行されたならば、イスラエルは全て、とうの昔に滅ぼされ、二度と再建されなかったはずである。
それなのに、イスラエルは滅ぼし尽くされず、今も生かされている。

なぜ生かされているのか。
それは、主の憐れみによるものであり、悔い改めて主に立ち返る民を、主が残しておられたからである。
主は憐れみ深い。主は人が悔い改めて立ち返るなら、ひと度発した滅びの宣告を、思い直されるお方である。(ヨナ3章)

主は、人が罪の内に滅んでいく事を、願っておられない。
「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。」と。彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」』(エゼキエル33:10)

主は、人を好き好んで罰するようなお方ではなく、むしろ、人が悔い改めて悪の道から立ち返り、いのちを得て生きる事を、望んでおられ、悔い改めて主に立ち返る人にはあわれみを施し、豊かに赦して下さる。
『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』(イザヤ55:6-7)

義人は、いない。一人もいない。
律法を完全に実行できる人も、いない。
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただ、信仰による。

『人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ「キリスト・イエスを信じる信仰(ピスティス・イエーソゥ・クリストゥ:イエスキリストの信仰)」によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、「キリストを信じる信仰(ピスティス・クリストゥ:キリストの信仰)」によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

多くの日本語訳では、ここは、キリストイエスを信じる信仰によって義と認められる、と、訳されているが、「その人の(イエスを信じる)信仰」によるのではなく、「キリストの信仰」によって、義と認められるのだ。
事は、人の何かによるのではない。
イエスの信仰、イエスの愛、イエスの憐れみによって、私達人間は、ようやく立っていられるのだ。

私達は、モーセの律法のままに裁かれるとしたら、とうの昔に、罪のゆえに処罰され、滅んでいたはずだった。
しかし私達キリスト者は、今、なんと赦され、生かされている。
それは、キリストが、私達の身代わりとなって処罰され、十字架上で死んで下さった故である。
私達は、真理の上では、既に死んでおり、父なる神の御前には「処罰され済み」とされている。

『わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた「神の御子を信じる信仰(神の御子の信仰)」によって、生きているのである。』(ガラテヤ2:19-20)
ここも正確には、「私達人間が神の御子を信じる信仰によって生きている」のではなく、「神の御子の信仰によって私達は生かされている」のである。

結局、人間が誇れるべきものは、何もない。
「すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」(ローマ3:27)
私達はただ、イエス様にひれ伏して、この御方にあって生きるのみだ。

礼拝説教メッセージ音声:永遠的殺人罪(申命記13:1-11):右クリックで保存

人は、目に見えるしるしや奇跡に、なびきやすく、目に見えない神から、離れやすいものである。
それでモーセは、まことの神・以外から来る預言やしるし、奇跡などに惑わされないよう、注意を促している。

『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)
そうした、しるしや奇跡が起こるのは、まことの神以外に別の神がいるから、ではなく、悪霊がそれをさせて、まことの神から離れさせようとしているからだ。
そして、それが起こる時、その人は、主から試されている。
果たしてその人が、心をつくし、精神をつくして、神である主を愛するかどうかを。

キリスト者の中にも、主のしるしを見たい、奇跡を体験したい、と言う人がいるが、奇跡を見たり、体験したりすれば信仰がレベルアップすると思ったら大間違いであり、むしろ、しるしや奇跡がなければ信仰を保てないようでいては、その人の信仰は、かなりレベルダウンしている。
聖書中、主のしるしや奇跡を、最も多く見、最も多く体験した、荒野の民六十万の内、一体何人が、約束の地に入れただろうか?
ヨシュアとカレブの、わずか二人だった。
この事からも、主のしるしを見れば良いというものではない事が分かる。

『同じ母に生れたあなたの兄弟、またはあなたのむすこ、娘、またはあなたのふところの妻、またはあなたと身命を共にする友が、ひそかに誘って『われわれは行って他の神々に仕えよう』と言うかも知れない。・・・しかし、あなたはその人に従ってはならない。その人の言うことを聞いてはならない。その人をあわれんではならない。その人を惜しんではならない。その人をかばってはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、あなたがまず彼に手を下し、その後、民がみな手を下さなければならない。』(申命記13:6-9)
この命令は、現代の日本人の感覚からは、とても厳しいように、そして、非道いかのように見える。
なぜモーセは、そこまで徹底するよう命じたのか。

ここで私達は、思い返すべきである。
「永遠がある」という事を。
私達が、永遠という視点に立つ時、まことの神から人をそむけさせ、他の神々へと導く行為は、放火や虐待、殺人などより、遥かに重い罪である事が、分かるはずだ。
なぜなら、まことの神から引き離す行為は、その人を永遠の地獄の刑罰へと導く行為であり、また、この世においても祝福を断ち切らせ、呪いへと導く行為なのだから。

申命記をここまで読んできた皆さんは、次のようにモーセが言うのを、耳にたこが出来る程、繰り返し聞いてきたはずだ。
すなわち、もし主に聞き従って御言葉どおり行うなら、その人は祝福され、敵に勝利し、畑の産物も祝福され、子孫も多くなり、齢を長くし、栄える事が出来る事を。
そしてもし、主に聞き従わず、主にそむいて他の神々に走るなら、その人は呪われ、敵に負け、虐げられ、畑や家畜などの産物は出さなくなり、子孫は捕らえ移され、いのちは短くなり、落ちぶれてしまう事を。
そして、まことの神である主を捨てる人は、地獄での刑罰に永遠に苦しめられてしまう事を、聖書は言っている。
たとえ人を火で焼き殺すとしても、その人にとっての苦しみは、死ぬまでのわずかな時間であろう。
しかし、その人をまことの神から引き離し、地獄へと導くとしたら、その人がゲヘナで焼かれる苦しみは、永遠に続けさせてしまう事になってしまう。

つまり、まことの神から引き離すように人を誘惑する行為は、その人を、自分の手を汚さず敵の手で葬らせるも同然の行為であり、その人の畑や家屋など資産に火をつけるも同然の行為であり、その人に毒を盛って寿命を縮めてしまうも同然のであり、そして、その人の「永遠のいのち」を奪うという、通常の殺人より遥かに重い罪と言える。
御言葉を差し引きせずに見るなら、そういう事になるのではないだろうか。

多くの国では、殺人は罪に問うけれど、まことの神から引き離す事には、何の罪状も無い。
だから残念な事に、人は、まことの神から引き離す事が、そんなに大それた罪だとは、思えないのだ。
しかし、誰かをまことの神から引き離す罪は、永遠のいのちを殺してしまう「永遠的殺人罪」である。
だからモーセは、その罪から人々を救い出そうとして、あのような厳しい命令を下したのだろう。

礼拝説教メッセージ音声:きよい生活をキープせよ(申命記12:29-32):右クリックで保存

主が与えられる地で、聖なる、新しい歩みを始めるためには、まず住むべき地の”きよめ”からはじめ、次に、家族や奴隷、レビ人と共に、主が定められた所へ行って礼拝し、主の前で喜び楽しむよう、命じてられていた。
そして、生活が安定して来たなら、清められた生活をキープし続けるようにと、モーセは命じている。

『あなたの神、主が、あなたの行って追い払おうとする国々の民を、あなたの前から断ち滅ぼされ、あなたがついにその国々を獲て、その地に住むようになる時、あなたはみずから慎み、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らにならって、わなにかかってはならない。また彼らの神々を尋ね求めて、『これらの国々の民はどのようにその神々に仕えたのか、わたしもそのようにしよう』と言ってはならない。』(申命記12:29-30)

イスラエルがカナンに入り、先住民と偶像を滅ぼし尽くし、産物が祝福され生活も安定して来た時こそ気をつけるよう、モーセは注意喚起している。
以前そこにいたカナン人の罪深き行いを、掘り返して調べたり、それに習ったりしないように、と。

私達も、キリストに出会う以前は闇であり、神でないものを崇拝し、罪深き生活をしていたが、今やそれらの中から救い出され、光の子となった。
そうであるからには、以前の罪深き生活をなつかしんで逆戻りしたり、世の中で今なお闇を歩んでいる人々に習ったりしてはならない。
『あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。』(エペソ5:5-8)

ひと度、約束の地に入ったら、それで信仰生活はおしまい、というものではないし、その後は何でも欲しいままに振る舞って良いものでもない。
先住民や異邦の国の悪い行いを掘り返して、それに習ったりしないよう、モーセが命じたように、キリストにあって新しく生まれ変わった私達も、以前の悪い習慣や、考え方に戻らぬよう、清い生活をキープし続けるよう努めるべきである。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(ローマ8:1)
この御言葉は、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、次のようになる。
「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩むキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」

つまり、ひと度キリストにあって救われた人は、未来永劫罪に定められることは無い、という事では決してない。
もしそうなら、「キリストにあって救われて、もはや自分は罪に定められる事は無いのだから、安心して罪を犯し、肉に従って歩もうではないか」という事になってしまう。
そうではなく、継続的に肉に従う事を拒否し、日々御霊に従って歩む人が、罪に定められる事は無いのである。

私達は救われた以上、御霊を悲しませてはならない。
以前の古い生き方は捨て去り、御霊に従って歩み続けるよう、日々努力すべきだ。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。』(ガラテヤ5:16-18)

私達がもし罪を犯しても、イエスの血によって清めていただく事が出来る。
もし自分を吟味するなら、自分が罪人である事は、明らかに分かるはずだ。
だからこそ主は、そんな私達のために身代わりとなり、血を流し、肉体を割いてくださったのだ。
私達は断然、イエス様の流された血を、また、裂かれた肉を感謝しつつ受け止め、清めていただくべきなのだ。
なぜなら、イエスの血によって清められない罪は、無いからだ。

『あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。』(申命記12:32)
モーセがここで言っているように、そして、黙示録の最後でも命じられている通り、御言葉は付け加えたり、減らしたりしてはならない。
エデンの園で、蛇は、御言葉を巧妙に取り除いてエバを欺き、エバは、御言葉に付け加えをして罠に陥り、パリサイ人は、御言葉に身勝手な解釈を付け加えて、人々からいのちを遠ざけてしまった。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)

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