メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:最も大切ないましめ(申命記6:1-9):右クリックで保存
今回の箇所は、イスラエルに与えられた戒めの中でも、最も重要な掟である。
『これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。』(申命記6:1)
この重要な一連の命令の中で、繰り返し命じられている事は、「聞きなさい」「子孫達に教えなさい」「守り行いなさい」である。
この、聞く事、子に信仰を受け継がせる事、守り行う事は、今日のクリスチャンにとっても大切な教えであり、それを守り行うなら、以下に記されている御言葉の通り、幸いを得、長く命を保つ事が出来、乳と蜜の流れる地で、大いに増え広がっていく事が出来る。
『これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。』(申命記6:2-3)
「乳と蜜の流れる地」は、モーセ五書では良く聞く言葉だが、乳は、聖書の他の箇所では御言葉をあらわし(1ペテロ2:2)、蜜もまた、御言葉をあらわす。(エゼキエル3:3、詩篇119:103、黙示録10:10)
御言葉に親しめば親しむ程、それは蜜のように甘く、乳のように滋養に富んだものである事が分かり、ますます豊かな養いを得て行く事になる。
それ故、私達・神の民にとって大切な事は、御言葉に聞き従い、甘く味わい、喜び、御言葉を教え継がせて行く事である。
『イスラエルよ聞け(ヘブライ語:シェマー・イスラエル)。われわれの神、主は唯一の主である。』
この、申命記6章4節の言葉は、ユダヤ教の朝夕の祈りの中心的言葉であり、ユダヤ人にとって最後に言う言葉、両親が子供に夜寝る前の言葉として教えるという伝統がある。
『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。』(申命記6:4)
続くこの言葉も、福音書に何度か出てくる言葉で、イエス様も「律法の中で最も重要な戒め」とした。(マタイ22:37、マルコ12:30、ルカ10:27)
それ程、聖書の中で重要な言葉である。
私達もそれを忘れる事なく、誰かから「聖書の中で最も大事な戒めは何か」と聞かれた時は、すぐにこの言葉を答えられるよう、心がけているべきであり、またキリスト者であるなら、それを日々、実際的に守っていくべきである。
『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。』(申命記6:6-7)
御言葉を子供に教える事、これも大切な事である。
今の日本では、子供の信仰については親は関与しなかったり、また、子供を生みたがらない親さえ多いが、それは聖書的ではない。
聖書の示している「子育て」の中で、最も優先すべき事は、御言葉を教えることであり、御言葉を寝ても覚めても、家の中でも家の外でも口ずさむ事である。
皆さんは、子供に習い事をさせたり、受験させたりする事以上に、御言葉を教える事に心砕いて来ただろうか。
御言葉を昼も夜も口ずさみ、守り行わせるのであれば、学業も自然と祝福され、優秀になって行く。
実際、ユダヤ人は世界の人口の0.25%しかいないのに、そのユダヤ人がノーベル賞の20%を獲得しているのは、小さいころから御言葉を昼も夜も口ずさませているからだ。
『わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります。わたしはあなたのさとしを守るので、老いた者にまさって事をわきまえます。
わたしはみ言葉を守るために、わが足をとどめて、すべての悪い道に行かせません。あなたがわたしを教えられたので、わたしはあなたのおきてを離れません。あなたのみ言葉はいかにわがあごに/甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。』(詩篇119:99-104)
礼拝説教メッセージ音声:御言葉の先にある分かれ道(申命記5:22-33):右クリックで保存
主が、大きな火の中から十戒を授けられた時、民は恐れ、モーセに言った。
『およそ肉なる者のうち、だれが、火の中から語られる生ける神の声を、われわれのように聞いてなお生きている者がありましょうか。あなたはどうぞ近く進んで行って、われわれの神、主が言われることをみな聞き、われわれの神、主があなたにお告げになることをすべてわれわれに告げてください。われわれは聞いて行います。』(申命記5:26-27)
主が圧倒的な臨在の中から御言葉を語られる様は、とても恐ろしく、人は無事に立ちおおせるものではない。
預言者イザヤも、エゼキエルも、ダニエルも、使徒ヨハネも、その圧倒的「聖」を前にして倒れ、死人のようになった。
人がそのままで主の御前に立つなら、主のあまりにも「聖」なる有り様に打たれて死んでしまうのだ。
しかし、いずれの聖徒も、死ぬことはなかった。
むしろその時、主は「恐れるな」と言って、立ち上がらせて下さり、御言葉の深みへとさらに導いて下さった。
モーセも民に「恐れるな」と言った。しかし民は恐れ、近づこうとはしなかった。(出エジプト記20:18-21)
モーセも「わたしは震える」と言った程、恐ろしかったのだが、それでもモーセは、民を残し、一人、主の御元に近づいて行った結果、彼は死ぬ事なく、誰よりも主と親しく交わり、主から直接の御言葉の養いを受けた。
イスラエルの民のように、直接主に近づこうとせず、モーセなど霊的指導者に「あなたが代わりに行って下さい、わたしは聞き従いますから」と言うような人の信仰には、やはり、脆弱さがある。
その証拠に、イスラエル民はその後、わずか40日後に、早速偶像を作って、その前で座しては食い飲みし、立っては戯れた。
主があれだけはっきりと、圧倒的な臨在の中から「わたしの他に神があってはならない」「偶像を作ってはならない」と戒められたというのに。
しるしや現象ばかりを追求し、いかに多くそれらを経験しても、御言葉に直接向き合おうとしない者は、すぐ御言葉を忘れ、主を怒らせる事をしてしまうものなのだ。
御言葉の剣が立った時、私達には、二つの道しか無い。
聞き従って、いのちを得るか。それとも、従わずに死へ向かうか。
御言葉を元に祝福と呪いの道を示したのに、どちらを取るとも言わず、5分も10分もただ沈黙してやり過ごそうとする人達を見て来たが、そういう人は、御言葉に聞き従う事は嫌、でも、聞き従わない結果の災いも受けたくない、という、どっちつかずの人だ。
そのように「御言葉に沈黙する人」が刈り取ってしまう実は、「手足を縛られ、外の暗闇に追い出され泣いて歯ぎしりする」という実である。(マタイ22:12)
主の願いは、人が常に、主に対する恐れと敬意を持ち、御言葉を守り、そして、子々孫々と永遠に幸いを得る事である。
『ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。』(申命記5:29)
私達は「守り行え」と言われる時、ある種の窮屈さを覚えるかもしれない。
しかし、主の御言葉を守り行った先には、必ず幸いがあるのだ。
『それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。』(申命記5:32-33)
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第十戒(申命記5:21):右クリックで保存
十戒の第十戒は、『あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない。』(申命記5:21)である。
ここの箇所も、出エジプト記の記述と若干違っている。
見比べてみると、出エジプト記では、主は「隣人の”家”をむさぼってはならない。」と始まるのに対し、申命記では、「隣人の”妻”をむさぼってはならない。」と始まる。
モーセが四十年、イスラエルを指導したり観察し続けて来た結果、「隣人の家」より「隣人の妻」を気をつけるべきだと気付き、そこを強調したのかもしれない。
現代日本でも、浮気、というと、そんなに珍しいものではなくなっているが、それ程に、人が陥りやすい罠である。
隣人の妻、それは、手を出してはならない禁断の実であり、それに手を出したら、両者の家族を、もろとも破滅へ突き落としてしまうものだ。
この箇所の「むさぼる」あるいは「欲しがる」と訳されたヘブライ語「カゥマド」は「好ましく思う」、「あこがれる」等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は、大抵の国にあるだろうが、隣人のものを欲しがったり、あこがれたりしてはならない、という法律は、とても珍しい部類に入るかもしれない。
しかし、この「他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心」こそ、自分の身ばかりでなく、自分の周り全体をも滅びへと導いてしまう根源である。
この「カゥマド」という言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには「好ましい(カゥマド)」と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木に手を伸ばして、人類全部に罪と死を導入してしまった背景に、この、「好ましい(カゥマド)」があったのだ。
もう一つ、多くの人を滅びへと導いた事例の中に、ヨシュア記のアカンがいる。
『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、「ほしくなり(カゥマド)」、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20-21)
彼は、手に入れてはならぬ「聖絶すべきもの」を欲しがり、それを自分の中に導入した結果、イスラエル宿営全体を「聖絶すべきもの」としてしまい、それが明るみに出された暁には、彼自身だけでなく、彼の家族をも滅びへと導いてしまった。
この、自分の分ではないものを、欲しがったり、あこがれたりする心こそ、自分だけでなく、自分の家族をも滅びへと導いてしまう根源である。
なお、聖書の他の箇所を見ると、カゥマドする事が、大いに推奨されるべきものもある。
『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。』(詩篇19:7-11)
主のおきて、主のあかし、主のさとし、主の戒め、主へのおそれ、主のさばき。それらは、大いにあこがれ求めて良いものである。
それらの良さ、麗しさが分かると、ますますそれらを純金よりも慕わしく、蜜よりも甘く慕わしいものとなり、ますます祝福され、大きな報いを受けるようになるのだ。
また、もう一つ、慕い求めて良いものがある。
『わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな「喜び(カゥマド)」をもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。』(雅歌2:3-4)
皆さんの伴侶も、慕わしく求めて然るべきものである。
そして私達にとって、慕い求めるべきまことの主人は、キリストである。
自分の領分に入れてはならない禁断のものは、手に入れてしまうと、自分だけでなく、周囲をも滅びへ突き落とす。
私達はそうではなく、御言葉を、伴侶を、そして真の主人であるキリストをこそ、慕い求めるべきなのだ。
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第八、第九戒(申命記5:19-20):右クリックで保存
十戒の第八戒は、『あなたは盗んではならない。』(申命記5:19)である。
盗むとは、勝手に他人の領域に侵犯し、他人の所有物を自分のものとする事であるが、これこそ、サタンの性質である。
神は、私達人間を、神の子として召されたのだから、私達はサタンの性質を帯びてはならない。
サタンは元々、神をたたえる天使であったのに、自分のおるべき所をよしとせず、神の栄光を盗もうとして、神の領域である栄光の座に侵入して来た。
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
このように、自分のおるべき領分を守らず、侵犯し、他人のものを奪うサタンのような者を主はさばき、地の底へと落とす。
『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ6節)
主のご性質は、盗人や強盗とは真逆である。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:7-11)
盗人は、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする。それに対し、主は私達にいのちを得させ、それも、豊かに得るようにさせて下さる。
そしてよき羊飼いであられる主は、私達羊のために、いのちを捨てて下さった。
サタンはいのちを奪い、主は、いのちを与える。
だから私達は、盗むという性質を捨て去るべきである。
十戒の第九戒は、『あなたは隣人について、偽証してはならない。』(申命記5:20)である。
「隣人に」とあるが、それでは隣人ではない人には偽証しても罪にならないのだろうか?
答えは否である。神は真実な御方であり、神の性質に「偽り」なるものは無い。
偽りは、サタンのアイデンティティとも言える性質であり、その性質は私達の内から滅ぼし尽くすべきものだ。
『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
ここは「人が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら、彼の父もまたうそつきだからです」とも訳せる。
悪魔の欲望は殺す事であり、偽りがその本性である。
私達は誰に対しても、「偽り」というサタンの性質に染まってはならない。
神は、善人にも悪人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さる真実な御方であるが、同じように、神の子とされた私達も、全ての人に対して真実であるべきなのだ。
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第五〜第七戒(申命記5:16-18):右クリックで保存
十戒の第四戒までは神と人との関わりについての戒めであったが、第五戒からは、人と人との関わりについての戒めとなる。
その人間関係における第一の戒めは、以下である。
『あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。』(申命記5:16)
この世のあらゆる関係は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に服さないと、権威構造で成り立つ世界・全てに敵対してしまう事になる。
例えば、罪を犯した指名手配犯は、警察や人の目から逃げるようにして生きなくてはならず、心落ち着かず、国や世間からの恩恵にも預かれないが、それと同じように、神の権威に服さない人は、神からの恩恵に預かれないまま、神の処罰を恐れて生きなくてはならず、平安も無く生きなくてはならない。
しかし主イエス様は、そんな私達の身代わりとして罪の処罰を受けて下さった。
私達は彼を信じる事によって、神との和解をいただき、神からの恩恵にも預かって生きるようになったばかりでなく、神の国の市民としての特権をも得るようになったのだ。
父と母、それは、最も身近で根本的な「権威」である。
その最も身近な権威である父母に服すなら、目に見えない神との正しい関係も容易に構築しやすい。
しかし、最も身近な権威である父母にさえ服す事が出来ないなら、ましてや、この世の社会や、目に見えない神に服す事は、いかに難しいだろうか。
だから、父母という、目に見える、最も身近な権威に服す事が、人間関係における第一優先あり、それは「長く命を保ち、さいわいを得ることのできる」祝福の約束を伴ったものである。
ただし権威には順序がある。
『子たる者よ。「主にあって」両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
ここで忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
主を度外視した世の権威への服従は、たといその相手が両親であっても、過ちの元である。
十戒の第1〜第4に示されていた通り、権威の第一は、両親よりも、主である。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
このように、主に反する事以外であれば、父母は敬い服従すべきものである。それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
第六戒は『あなたは殺してはならない。』(申命記5:17)である。
聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
人は、神の息吹が吹き込まれた「神の似姿」であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となっても、なお、神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は神に愛され、神から大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。
第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(申命記5:18)である。
姦淫とは、妻や夫など、唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事である。
なぜそれがいけないのか。
姦淫は、性的な罪であり、性的な事柄とは、いのちを生み出し家庭を築き上げて行く事柄であり、父あるいは母たる人が、姦淫を犯すなら、その家庭は崩壊してしまうからである。
主は人を、創造のはじめから男と女とに創られた。
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
主の御心は、夫と妻との関係は「一対一」で、排他的なものである。
以上の三つの戒めには、従うべき権威と、自分がおるべき立場、保つべき立ち位置が示されている。
それは創造の秩序であり、主が立てられた権威を守ることが、人間にとって最も幸せへの近道なのである。
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第三と第四(申命記5:11-15):右クリックで保存
十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰しないではおかないであろう。』(申命記5:11)
主の御名を乱発すると同時に、不誠実な行いも乱発して、主を貶めている人は確かにいるが、主はそのような者に言われる。
『お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)
御言葉をたくさん口にする人が主に愛される訳ではない。
サタンでさえ御言葉を引用し、主イエスを誘惑しようとした。
御言葉を口にする人が主に愛されるのではない。御言葉を心に留め、それを行う人こそ、主に愛されるのであって、守る気も無いのに、みだりに御言葉を連発したり、恐れ気もなく主の御名をみだりに連発する者を、主は罰せずにはおかない。
そして第四戒は、安息日の遵守である。
『安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。』(申命記5:12-14)
ここ、申命記の第四戒の記述は、出エジプト記での記述と、若干違う。
出エジプト記では、以下のように続いた。
「六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(出エジプト記20:8-11)
すなわち、主が六日かかって創世した後、第七の日に安息されたから、この第七の日を聖として覚えよ、というのが出エジプト記での趣旨である。
それに対し、申命記では、モーセはイスラエルがかつてエジプトで奴隷であった事を思い起こさせ、他国人や固持、寡婦などの弱者に「安息」を与えさせる事に重点を置いる。
実際、出エジプト記では単に「家畜」と記されている所が、申命記では「牛、ろば、もろもろの家畜」とされ、「こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。」と、家畜も男奴隷も女奴隷もひとしく主の安息に預からせるように命じている。
『あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。』(申命記5:15)
このように、モーセは弱者を休ませるために安息を守らせる事を、特に強調している。
実際、申命記の他の箇所でも、モーセがイスラエルがかつてエジプトで奴隷だった事を思い起こさせている場面が多い。(15:15, 16:12,24:18-22)
人は、権力を持ちはじめると、従業員や奴隷を休まずフル稼働で働かせて利益をむさぼる罪に陥りやすい。
実際、ネヘミヤの時代、イスラエルはバビロンから帰って来たばかりだというのに、早速同国人を奴隷にこき使って主の戒めに反する事をし出した。
安息の主は、人が安息する事を大切にされた。
それ故、私達はしっかり安息を守り、七日ごと安息の主を覚え、礼拝を守るべきである。
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第一と第二(申命記5:5b-10):右クリックで保存
イスラエルが守るべき「おきて」のうち、モーセが真っ先に提示したものは、主がシナイ山で与えて下さった十戒だった。
出エジプト記20章に記されている十戒は、主が直接語られた内容であるが、この申命記に記されている内容は、モーセが民にメッセージしたもので、内容的には同じであるものの、表現は同じではない。
モーセが、特にここを強調したい、という点があったからであろうと思われる。
『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。』(申命記5:6)
神は真っ先に、イスラエルに何をして下さったかを、明らかにしている。
それはまず、奴隷の家・エジプトからの開放である。
皆さんにとって、主はどういう御方だろうか。主は、皆さんに、何をして下さっただろうか。それをすぐに表明出来るだろうか。
主は私達を、世の奴隷から、サタンの奴隷から、罪の奴隷から、そして、死の奴隷から開放して下さり、永遠のいのちへと、主イエス・キリストの愛の支配へと導き入れて下さった主である。
十戒の第一戒、主が真っ先に命じた最も重要な戒めは、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。」(申命記5:7)である。
日本では「神(カミ)」と呼ばれるものが多くあり、あちらのカミ、こちらのカミと、カミが取り替え可能なような感覚のある日本人には、理解しずらいかもしれない。
しかし、天地を創造し、私達を創り、変わらぬ愛で私達を愛して下さる「神」、私達がおそれ敬うべき「神」は、ただ一つであり、その私達の「主」という座に、神以外の別物を入れてはならない。
『あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。それを拝んではならない。またそれに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には恵みを施して千代に至るであろう。』(申命記5:8-10)
十戒の第二戒、二番目に重要な事は、偶像礼拝の禁止である。
日本は偶像礼拝をしている家庭が多く、周りも皆当たり前のようにそれをしていて、その中で育っていると、自分達が実は呪いと災いの中にあった事に気づかないものである。
少し前までは、日本は世界で一番働く民族だと言われていたが、いくら働いても働いても、知恵を働かせても、そうしてお金をたくさん得ても、幸せになれない人が多い、その大きな原因が、神意外のものを神とする「偶像崇拝」にある事は間違いないだろう。
偶像礼拝とは、神社仏閣にある像を拝む事に留まらず、まことの神以外の何かをより大事にし優先させる事を意味する。
例えば、自分の望む何かを、自分のものに出来ないなら、神様なんか信じない、と言う時は、その自分の望む何かが「神」となっており、偶像礼拝である。
まことの神である主を知り、そのすばらしい御業を体験しておきながら、自分の欲望におびき寄せられ、偶像礼拝に戻ってしまう人の樣子が、エゼキエル書に記されている。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。』(エゼキエル書8:5)
ここでは、主を礼拝すべき神殿の出入り口に、主のねたみを引き起こさせる偶像が置かれてあった。
今、キリストにあって、私達が神殿であり(1コリント3:16-17)、私達の心の出入り口に、神のねたみを引き起こさせるものが置かれてある事を、主は忌み嫌われる。
『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。
そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。』(エゼキエル書8:7-11)
ここでは、イスラエルの指導者達が、隠れた暗い所で、主の忌み嫌われるあらゆるものに香を焚いて礼拝している様が、露わにされている。
表向きはきれいでも、内側があらゆる汚れて満ちている状態、表面を白く塗った墓のような状態である時、私達も時に、そのように陥ってしまう事があるが、主は何もかもお見通しである。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。』(エゼキエル書8:12)
このように、主は自分達を見ない、と隠れた所で思う事は、主が無力である事の告白であり、主への冒涜である。
『そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。』(エゼキエル書8:14)
ここでは女が偶像の神のために泣いている。
自分の好む事のために泣くことはしても、主のためには心動かされず泣きもしない事は、霊的な姦淫である。
『彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。』(エゼキエル書8:16)
太陽は恩恵をもたらすものであるが、それを創られた主には背をそむけ、自分に恩恵をもたらすものに拝する事も、主の忌み嫌われる偶像礼拝である。
十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものであった。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
主を憤らせるのではなく、妬ませるのではなく、主を第一とし、主に愛される私達でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:聞き、学び、守って行え(申命記4:41-5:5a):右クリックで保存
申命記4章までの所で、モーセは、イスラエルが荒野で放浪してきた年月の労苦と災いを思い起こさせ、今後そのようにならぬよう、こんこんと教えて来た。
荒野の放浪に陥らないコツは、御言葉に聞き従い、守り、行っていくべき事だった。
そして5章以降で、モーセは、イスラエルが守るべき「おきて」と「定め」を、具体的に教え始める。
『さてモーセはイスラエルのすべての人を召し寄せて言った、「イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え。』(申命記5:1)
モーセはこの命令を、再び、「聞きなさい」で始めている。
「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは主の御言葉による」(ローマ10:17) と言われているように、御言葉に聞く事は、聖書の中で重要な命令である。
イスラエルが約束の地へと行くのに、本来なら、わずか11日で行ける道のりを、38年もかかってしまったのは、実に、御言葉に聞き従わず、自分の好き勝手にしたい、という思いによって、主が与えて下さった約束を上塗りしてしまったためだ。
サムエルも、サウル王に言っている。
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。」(1サムエル15:22-23)
また、聞くだけでなく、聞いた御言葉を「行う事」も忘れてはならない。
主の兄弟ヤコブは言っている。
『そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:22-25)
聞いた御言葉を聞いただけでは、何も起きない。しかし、それを信仰によって守り行うなら、その行いによって祝福されるのだ。
私達は、聞いた御言葉を、3歩歩いたら忘れてしまうような、霊的鳥頭になってはいけない。
そうならないためにこそ、私達は聖徒の交わりを保ち、互いが互いを清く保ち続けるために、御言葉によって、互いに教え、戒め遭うべきである。
『キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。』(コロサイ3:16-17)
シモン・ペテロは主を裏切ったが、主の交わりから離れなかった故に、立ち直った。
しかし、交わりから離れてしまったイスカリオテのユダは、自分勝手な美意識に殉じて、滅んでしまった。
いかに失敗しても、いかに恥ずかしくても、主にある兄弟姉妹の交わりから決して離れず、互いに教え、訓戒し、霊的に磨き合いつつ、ますます整えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:主の命令を守る事の報い(申命記4:32-40):右クリックで保存
モーセは、神がいかに大いなることをして下さったか思い起こさせている。
神は火の中から語られ、大きなしるしと不思議を、イスラエルの面前でなされた。
『試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から、かの端までに、かつてこのように大いなる事があったであろうか。このようなことを聞いたことがあったであろうか。火の中から語られる神の声をあなたが聞いたように、聞いてなお生きていた民がかつてあったであろうか。』(申命記4:32-33)
ただ、私達にとって大切な事は、大いなる「体験」をした事よりも、その体験を通して主が語られた御言葉の内容である。
主がイスラエルに大いなる事をして下さった理由は、主こそ神であって、ほかに神のないことをイスラエルに、そして多くの国々に知らせるためであった。
『あるいはまた、あなたがたの神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前に、あなたがたのためにもろもろの事をなされたように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、強い手と、伸ばした腕と、大いなる恐るべき事とをもって臨み、一つの国民を他の国民のうちから引き出して、自分の民とされた神が、かつてあったであろうか。あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった。』(申命記4:34)
多くの国々がある中、神がイスラエルを特別に扱われ、大きな力によってエジプトの虐げから救い出されたのは、神の気まぐれではない。
先祖アブラハムの信仰のゆえにである。
アブラハムは、主の言われたことばを信じ、それで彼は、義と認められたが、同じように、現代を生きる私達も、「信じる事」によって救われ、そして神はご自身を信じる人々を、特別扱いして下さるのだ。
『あなたを訓練するために、主は天からその声を聞かせ、地上では、またその大いなる火を示された。あなたはその言葉が火の中から出るのを聞いた。主はあなたの先祖たちを愛されたので、その後の子孫を選び、大いなる力をもって、みずからあなたをエジプトから導き出し、あなたよりも大きく、かつ強いもろもろの国民を、あなたの前から追い払い、あなたをその地に導き入れて、これを嗣業としてあなたに与えようとされること、今日見るとおりである。』(申命記4:36)
現代を生きる私達も、主イエスを救い主として信じるなら、主がかつてイスラエルにして下さったように、私達を愛され、訓練し、大いなる力によって虐げる者から救い出し、奴隷状態となっている所から導き出し、自分達よりも大きく強い敵を追い払い、さらに良い地へと導き入れて、そこを受け継がせて下さるのだ。
『それゆえ、あなたは、きょう知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神のないことを。あなたは、きょう、わたしが命じる主の定めと命令とを守らなければならない。そうすれば、あなたとあなたの後の子孫はさいわいを得、あなたの神、主が永久にあなたに賜わる地において、長く命を保つことができるであろう」。』(申命記4:39-40)
主が「聞きなさい」「定めと命令を守らなければならない」と言われたのは、無意味に私達を束縛したり窮屈な支配を強いたりするためではない。
かえって、私達がしあわせになり、長く生きるためである。
人は「**しなさい」「守り行いなさい」という命令を、堅苦しい教えだと思うかもしれない。
確かに、誰か人間がそのように言う時には窮屈さを覚えるかもしれないが、主がそのように命じられる時には、必ず意味があり、祝福の約束が伴っている。
もし私達が、主の御言葉を昼も夜も思い、記されている事をことごとく守り行い、右にも左にもそれずに歩むなら、行く所行く所どこおいても勝利し、私達の道は栄えるのである。(ヨシュア記1:7-8)
礼拝説教メッセージ音声:祝福の地が呪いの地となってしまう条件(申命記4:20-31):右クリックで保存
『主はあなたがたを取って、鉄の炉すなわちエジプトから導き出し、自分の所有の民とされた。きょう、見るとおりである。ところで主はあなたがたのゆえに、わたしを怒り、わたしがヨルダンを渡って行くことができないことと、あなたの神、主が嗣業としてあなたに賜わる良い地にはいることができないこととを誓われた。わたしはこの地で死ぬ。ヨルダンを渡って行くことはできない。しかしあなたがたは渡って行って、あの良い地を獲るであろう。』(申命記4:20-22)
イスラエルの民がこれから入ろうとしている土地は「良い地」であると言われているが、その土地は、そこに入る人なら誰でも100%良きものばかりをもたらすかというと、そうではない。
その地が、良き事をその人にもたらすかどうかは、その人に依りけりである。
主の御教えに従順する人に対しては、そこはとことん「良い地」となりえるが、逆に、その地がとことん災いばかりもたらすようになってしまう可能性もあり、モーセはその条件を以下に述べている。
『あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。』(申命記4:23-24)
主は、偶像を忌み嫌われる。
そして主は、自らを「焼きつくす火(英語:コンシューミング・ファイアー)」であると言われた。
最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは「お客様」「消費者」であり、サービス業は、コンシューマーを主体としたビジネス展開こそ成功に欠かせないが、あるクリスチャンは、教会をサービス提供者か何かのように思い、自分達をコンシューマのように思い違いしているが、真逆である。
キリスト者にとって、主こそコンシューマーであり、私達は主にサービス(礼拝)を捧げる側である。
だから、コンシューマである主との契約をないがしろにして、契約違反するならば、主は「妬む神」となってその人を焼きつくしてしまう。
主は、妬む神である。
妬む、という事は、深く熱い愛情によって愛しておられる、という事だ。
相手を愛していれば、愛している程、相手が浮気したならその時の修羅場の度合いが酷くなるが、同じように、私達の神・主も、私達をねたむ程に愛しておられるのである。
『あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。』(申命記4:25)
偶像崇拝、それは「良き地」がたちまち「滅びの地」に早変わりしてしまう条件である。
主に対し不従順であったり、主の怒りを引き起こす事を、敢えて行い続ける者は、どんなに祝福の地のただ中にいても、そこを滅びの地としてしまうのだ。
それは現代の教会においても同じである。
実際、アナニヤとサッピラは、聖霊を欺いた故に、教会のただ中で滅ぼされた。
『主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。』(申命記4:27)
実際、イスラエルの歴史の中で、イスラエルが不従順と偶像崇拝の罪を犯し続けた故に、アッシリヤやバビロンに攻撃され、異国に散らされ、モーセの時代には六十万もいたイスラエル人は、エズラの時代には四万人ほどしか戻ってこなかった。
しかし、たとい人が不従順を犯したとしても、主は人を滅ぼしつくすという事はしない。
『その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。』(申命記4:28-29)
イスラエルの民は、捕囚先で、人が手で作った見ることも聞くことも出来ない味気のない偶像に仕え、そこで思い知った。
主に対して不従順である事がいかに罪深いか。
そして、偶像がいかに味気なく、主がいかに麗しく良きお方であるかを。
私達も、主を捨てて世俗に下る時、同じような体験をする。
主の支配から抜け出して来て、人間の作った味気ない決まり事を強要され、不公平で不完全なシステムに仕える時、人間の罪深さ、不完全さ、そして、一部の特権階級だけが甘い汁を吸うような、自己中心的な有り様に、嫌気がさしてくるのだ。
そして、つくづく思い知るのである。
世に仕えるよりも、主に仕えていた方が良かった、と。
『後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。』(申命記4:30-31)
主は、慈しみ深い。
私達を愛しておられる。そして、愛しておられるからこそ、時に厳しく懲らしめる事もある。
しかし主は、放蕩息子の帰りを待ちわびるように、離れている聖徒が主のもとに戻るのを、今か今かと待ち望み、そして帰ってきた時には、大きな喜びをもって迎えて下さるのである。(ルカ15章)