メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:見えるものによらず、御言葉によって(申命記4:9-19):右クリックで保存
モーセは、民がホレブで見た事を思い起こさせている。
イスラエルの民は、そこで大いなる光景を見た。
『あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう。」そこであなたがたは近づいて、山のふもとに立ったが、山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲とがあった。』(申命記4:10-11)
モーセは、あのホレブで見たことを忘れるな、その事を子や孫に教えよ、と言っている。(申命記4:9)
あの時、火が山の上にあって、炎は中天に達し、山全体は黒雲に包まれて震え動き、雷鳴と角笛の響きが高く鳴り響く中で、主は降りて来られたのだが、その大いなる現象の中で、モーセが最も強調している事は、主はその中に見える形では見い出せなかった事だ。
「主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。」(12節)
後の時代の預言者エリヤも、同じ場所で、同じ体験をしている。(1列王記19:11-13)
イスラエルの民と、エリヤの二者が共通して体験した事は、主は大いなる現象を起こされたものの、主を見る事は出来なかった事、そして、主が御声をもって語られた、その内容のほうが、現象よりも重要である事だ。
『主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。その時、主はわたしに命じて、あなたがたに定めと、おきてとを教えさせられた。あなたがたが渡って行って自分のものとする地で、行わせるためであった。』(申命記4:13-14)
人々は何かと、主から石版をもらったとか、大いなる現象を見て体験したとか、そういった事を誇りやすい。
しかし大切なのは、その石板に記されている中身であり、その内容を、自分達の生活ステージのただ中で実行する事である。
いかに牧師が奇跡を行ったり感動的なメッセージをしたとしても、集っていた人達が、その与えられた御言葉を自分の生活の場に持ち帰り、それを守り行わないとしたら、何の益も無いのだ。
『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。』(申命記4:15)
主はここで再度、主について「なんの形も見なかった」と繰り返している。
私達も、目に見えるものにではなく、目で見えない御言葉にこそ、目を留めるべきなのだ。
『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:18)
そして主は、神といわれるものに関して、目に見える像を作る事を禁じている。(申命記4:16-19)
すなわち、自然界で目に見えるものは何でも、それが男であれ女であれ、動物であれ、天体であり、自分のためにそうした像を作って、それを拝んだりする事を禁じている。
『あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。』(申命記4:16-19)
昔の人は、地球が全ての中心で、太陽や月、星々は地球の周りを回っていると思っていたが、実のところ、それら星々のほうが、地球よりもはるかに大きかったのだ。
宇宙は、私達の目(地球から観測できる光)の届く範囲だけでも、137億光年もの広さがあり、そのさらに先はもっともっと広大な宇宙が広がっていると言われている。
その広大な宇宙に点在している星々も、太陽も月も、なんと、「それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。」
あの宇宙に浮かぶ巨大な星々は、このちっぽけな地球に住む万民に分け与えられたものなのだ!その事は、人の想像できる範囲を、遥かに超えている。
それ程に、主は、人の小さな頭では収まりきらないお方なのだ。
だから私達は、神に似せて何物も偶像(イメージ)を作ってはならない。
それはあまりにも愚かな事だ。
礼拝説教メッセージ音声:主の言葉に対して取るべき姿勢(申命記4:1-8):右クリックで保存
『イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを「聞いて」、これを「行い」なさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。』(申命記4:1)
主の御言葉を「聞いて」「行う」事、これはキリスト者がいつでも保つべき重要な姿勢である。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようである。(ヤコブ1:23)
御言葉を聞いて行うなら、その人は、その行いによって祝福され、主が与えて下さる「良き地」で長く生き、生涯、良きもので満たされるのだ。
『完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:25) と、記されている通りである。
また、御言葉の権威に対し、人がつけ加えたり、減らしたりしてはならない。
『わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。』(申命記4:2)
黙示録にも、同じことが記されている。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
御言葉を聞いたなら、それをそのままいただく事、それが、御言葉に対する正しい対応である。
しかしパリサイ人は、純粋な御言葉に多くの人間的解釈という「混ぜ物」を加えた事によって、自分自身だけでなく、多くの人々も、がんじがらめにして神の国から遠ざけてしまった。
御言葉は、主の息吹(霊)が込められており、主のご性質そのものが現れている。
そして御言葉は、世が滅んでも決して滅びる事なく、永遠に残る、決して変わらぬ真実である。
それを人間ごときが、自分の好き勝手によって加えたり減らしたりはできない。
もし、人が「御言葉を超える真理を編み出した」と思っても、その人はやがて消えていくだけである。
主は何のために、イスラエルに定めとおきてとを与えられたか。
それは、イスラエルの民が、その生活ステージのただ中で、「守って」「行う」ためである。
『しかし、あなたがたの神、主につき従ったあなたがたは皆、きょう、生きながらえている。わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。あなたがたは、これを「守」って「行」わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。』(申命記4:4-6)
この、御言葉を「守る」事と「行う」事、これもキリスト者がいつも目を留めておくべき重要なキーワードである。
もし私達が、御言葉を守り、行うなら、主が力強き御手でもって働かれ、それを見た周囲の人々は驚き、主の栄光は大いに広がるのである。
『われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。』(申命記4:7-8)
主は、インマヌエルなるお方、すなわち、共におられる神。
私達が寝ている時も、起きている時も、家にいる時も、仕事場にいても、また、若い時も、年老いた時でも、主は、主を恐れ敬う聖徒といつも共におられる神である。
白髪頭になっても、主は私達をおぶって運んで下さる。(イザヤ46:4)
この主にあって、私達はまさに特権階級である。
地上においても、永遠においても、主にあって幸いと祝福を得ていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:断られてしまったモーセの願い(申命記3:23-29):右クリックで保存
モーセは、荒野放浪の最後の年に犯してしまったあのメリバでの過ちの故に、約束の地には入れないと宣告されていた。(民数記20章)
あれだけの実績を残したモーセが、なぜ、ただ一度の失敗の故に、約束の地に入れなくなってしまったのか。
それは、荒野で40年もイスラエルと共に歩んできた「岩なるキリスト」に、尊敬と信頼をもって「語りかけ」、水を出していただくべきだった所を、民を怒る怒りに身を任せ、御言葉を無視し、岩なるキリストを二度「打って」しまったからだ。
「打つ」のヘブル語「ナーカー」には、他にも「罰する」「殺す」などの意味がある。十字架上で一度打たれ罰されたキリストを、二度も打つような事は、いかにモーセのような実績を残した人と言えども、許されないのだ。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1649&cid=35 )
彼らが約束の地に近づくにつれ、主は次々と輝かしい勝利をイスラエルに与えて下さっている様を見たモーセは、ああ、やっぱり自分も約束の地に入りたい、と思ったのだろう。
彼は「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしてみたが、主の返事は、とてもつれなかった。
『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう。』(申命記3:26-28)
私はかつて、この箇所を読んだ時、すごい切なさを覚えた。
それは、長い間ある事を主に願い求めて来たのに、主からは何の返事も無く、また与えられる兆候も無く、ただ延々と断られ続けているかのように感じていた時だった。
イスラエルを約束の地に入れようと、長い年月、多くの苦労をしながら、主のために働いて来たあのモーセが願ったのに、主がすげなく断ってしまう様を見て、やるせない気持ちになったものだが、後になって思い返すと、あの時の私は、モーセと自分を連ねるなど、全くもっておこがましく自分勝手な状態だった事に気づいた。
モーセの場合は、主が示された約束の地に入れなくて切ない思いをしている、というのに、あの時の私は、全く逆だった。
つまり私は、神の国の事よりも、世の幸いや栄えを求めていて、それが与えられないからと悲しんでいたのだ。
私はずっと主にあって世から守られ、神の国の中で主と共にいたというのに、そんな素晴らしい状態に気づかず、むしろ、世のスタンダードに従って生きようとし、世間的に「幸せ」とされている事が満たされるほうを、願い求めていたのだ。
それまで、自分はまっとうなクリスチャンとして歩み、主が約束された国を望み見て歩むヨシュアとカレブの側の生活をしていた、と、思っていたら、実は全く逆で、むしろ世(エジプト)をなつかしみ、荒野でマナしか無い事を「みじめだ」と言って嘆いている、あの、荒野で滅ぼされてしまったイスラエル人のパターンに陥っていたのだ。
私は今や、主にとても感謝している。
主が私に計画されていた事は、世間一般の人たちが得ている普通の楽しみより遥かにまさる者として召しだされ、人々を永遠のいのちへと導き救うようにと、永遠の栄光をもたらす務めに任じられており、御言葉という、決して変わらぬ愛の法則を伝える栄光にあずかっているのだから。
よくぞ主は、私を世の中に安住する事を留め、自分で思っても見なかった程の栄光と幸いを与えて下さった、と、本当に感謝している。
皆さんも、かつての私のように、神の国の事ではなく、世の栄えや世の楽しみが与えられない事で、切なくなっていないだろうか。
私達が目指し、近づいているのは、世の栄華よりはるかに優れた、天の故郷である。
『また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。・・・
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。』(ヘブル12:16-25)
礼拝説教メッセージ音声:戦いも報酬も共に受ける(申命記3:12-22):右クリックで保存
続いてモーセは、ヨルダン川の東側で既に獲得した土地の分与をする。
『その時われわれは、この地を獲た。そしてわたしはアルノン川のほとりのアロエルから始まる地と、ギレアデの山地の半ばと、その町々とは、ルベンびとと、ガドびととに与えた。わたしはまたギレアデの残りの地と、オグの国であったバシャンの全地とは、マナセの半部族に与えた。すなわちアルゴブの全地方である。(そのバシャンの全地はレパイムの国と唱えられる。』(申命記3:12-13)
民数記32章を見ると、ヨルダン川の東側の領土を下さい、と、モーセに願い出たのは、ルベン族とガド族からだった。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、モーセに咎められ、要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先に受ける代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)
主からの幸いを、ある兄弟姉妹は先に、ある兄弟姉妹は後に与えられる事がある。
その時、先に与えられた兄弟姉妹は、そこに安住し、まだ与えられていない兄弟姉妹をないがしろにしてはならない。
ルベン・ガド族、マナセの半部族は、先に領地が与えられたが、モーセは、イスラエルの全部族が領地を勝ち取る時まで、彼らは共に戦わなくてはならない、と命じた。(申命記3:18-20)
これはキリスト者全員にも言える事である。
他の兄弟姉妹が皆、一致して信仰の戦いをしているのに、自分達が先に幸いを得たからと言って、戦いを降りて安住するのは、神の民のする事ではない。
なぜなら、主にある兄弟姉妹は皆、キリストの体の各器官であり、互いが互いを助け合い、いたわり合い、共に喜び、共に悲しみ、そうしてキリストにある「一つ」を実現するように、召されているからである。
『それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。』(1コリント12:25-27)
だから、もし他の兄弟姉妹より先に幸いを得たとするならば、まだ得ていない兄弟姉妹が得る時まで、一緒になって戦うべきである。
『マナセの子ヤイルは、アルゴブの全地方を取って、ゲシュルびとと、マアカびとの境にまで達し、自分の名にしたがって、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけた。この名は今日にまでおよんでいる。)またわたしはマキルにはギレアデを与えた。』(申命記3:14-15)
民数記を見ると、当初、ヨルダン川の東側の領土を下さいとモーセに願い出たのは、ルベン族とガド族だけだったはずだが、途中からマナセの半部族も、それに加わっている。
もしかしたら、ルベン、ガドの申し出が通ったのを見て、「自分も」と進み出たのかもしれない。
しかも、マナセ族は積極的にエモリ人を攻撃し、勝ち得た土地に堂々と自分達の名をつけている。(民数記32:39-42)
このように、ある人が幸いを先取りして与えられたのを見て、信仰を奮い立たせ、積極的に進み出て大胆に勝ち取っていく兄弟姉妹もいるのだ。
またモーセは、次期イスラエルの指導者となるヨシュアに、特別に教えた。
『あなたの目はあなたがたの神、主がこのふたりの王に行われたすべてのことを見た。主はまたあなたが渡って行くもろもろの国にも、同じように行われるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたがたの神、主があなたがたのために戦われるからである。』(申命記3:21-22)
ヨシュアは、主が戦われ、主が圧倒的に勝利を与えて下さるのを、モーセの近くでつぶさに見、神が活き活きと働かれるのを体験した。
そしてモーセ亡き後も、主は必ず同じように働かれ、共に戦って下さる、だから、恐れるな、とモーセは力づけた。
私達も、主からいただいた恵みを数えて見ると良い。
人生のあの時もこの時も、主があのように働いて下さった、だから今目の前に起きているこの問題も、必ず主と共に乗り越えて行ける、と、勇気が湧いてくるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:巨人をも打ち倒す(申命記3:1-11):右クリックで保存
主はシホンに続き、オグの治めるバシャンと戦うように命じられた。
『そしてわれわれは身をめぐらして、バシャンの道を上って行ったが、バシャンの王オグは、われわれを迎え撃とうとして、その民をことごとく率い、出てきてエデレイで戦った。時に主はわたしに言われた、『彼を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地をおまえの手に渡している。おまえはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように、彼にするであろう』。』(申命記3:1-2)
今回の敵は、さらに強敵である。
城壁のある町が六十あり、城壁のない町もまた数多くある。
城壁の町がそれだけ多い、という事は、この地方には争いが多くあり、野蛮な性質で戦い慣れしている、という事だ。
もしかしたらイスラエルには、バシャンの国に対する恐れがあったのかもしれない。
しかし主は、恐れるな、と言われた。
四十年前、彼らの親の世代のイスラエルは、城壁の町々や先住民に恐れをなして不信仰に陥り、主に逆らったが、主はその不信仰な世代を荒野で滅ぼし、子の世代の信仰を荒野で徐々に鍛えられた。
そして彼らは、実際に主の命令どおり進んで行き、勝利した。
『こうしてわれわれの神、主はバシャンの王オグと、そのすべての民を、われわれの手に渡されたので、われわれはこれを撃ち殺して、ひとりをも残さなかった。その時、われわれは彼の町々を、ことごとく取った。われわれが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十。アルゴブの全地方であって、バシャンにおけるオグの国である。これらは皆、高い石がきがあり、門があり、貫の木のある堅固な町であった。このほかに石がきのない町は、非常に多かった。』(申命記3:3-5)
これは、実に圧倒的な、そして、あっけない勝利だった。
ヘシュボンやバシャンの平定は、出エジプトから第40年目の、わずか一年以内に行われたはずである。
その一年以内で、このバシャンの戦いだけでも城壁の堅固な町を六十も攻め落としたのだから、戦績としては素晴らし過ぎるものがある。
それが、主が共におられ、主が戦われる時の戦績である。
『バシャンの王オグはレパイムのただひとりの生存者であった。彼の寝台は鉄の寝台であった。これは今なおアンモンびとのラバにあるではないか。これは普通のキュビト尺で、長さ九キュビト、幅四キュビトである。』(申命記3:11)
つまり、長さ4メートル、幅180センチ程である。その大きさから察するに、バシャンの王オグは、3メートルを超す巨体だったのだろう。
親の世代はたじろいだが、しかし今やイスラエルは、主にあって、彼らを打ち負かした。
この巨大な鉄のベッドは、主に信頼し主の御心に叶った戦いをするなら、こんな巨大な敵さえ打ち破る事が出来る、という、自信につながる記念品となった事だろう。
およそ40年前、ヨシュアとカレブは、知っていた。
敵がいかに強大であっても、主が共にいるなら、簡単に打ち破る事が出来る事を。
『ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」』(民数記14:6-9)
たといヨシュアとカレブのような、見ないでも信じられる信仰の持ち主でなくても、主は徐々に、耐えられるように、信仰を鍛えさせて下さる。
『あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。』(1コリント10:13)
今、皆さんが進むべき未来の前に、勝ち得ていくべき土地の前に、邪魔な巨人が立ちはだかっているだろうか。
もし皆さんが、主の御言葉に聞き従ってその通りに行うなら、相手が人間であれ、霊的存在であれ、何か制度的な問題であれ、主が祝福を約束され、いかに巨大な敵であろうと、主にあってあっけなく勝利できるのだ。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。 』(レビ記26:3-8)
礼拝説教メッセージ音声:神が敵を頑なにする理由(申命記2:26-37):右クリックで保存
『そこでわたしは、ケデモテの荒野から、ヘシボンの王シホンに使者をつかわし、平和の言葉を述べさせた。『あなたの国を通らせてください。わたしは大路をとおっていきます、右にも左にも曲りません。金で食物を売ってわたしに食べさせ、金をとって水を与えてわたしに飲ませてください。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。』(申命記2:26-28)
主は24節で、この国は既にイスラエルの手に渡してある、戦って占領せよ、と言われていたが、モーセは和平を申し出ている。
いきなり戦いを仕掛ける前に、和平交渉をする事は、御言葉に適った事であるが(申命記20:10)、この場合、主は既にエモリ人の国をイスラエルに渡されている事を明確に示しておられたのだから、エモリ人が和平の申し出を蹴る事は、主にあって想定内であった。
実際、このエモリ人の国は心をかたくなにし、強気になって、イスラエルに歯向かってきた。
こちらが平和に立ったのに、あちらは争いを仕掛けてきたのだから、イスラエルが正しくエモリ人が悪かったと誰もが認めざるをえない。
エジプトの時ももそうだったが、主はその国を滅ぼして神の栄光をあらわすため、また神の民を栄えさせるため、悪しき者達の心をかたくなにされる事がある。
人は言う。「それならなぜ、神は人を責められるのか。誰が神のご計画に逆らうことができるだろう。」と。しかし、それに対してはパウロは言う。
神を評価し、自分を正しいとして神を不当とするあなたは、一体何者か、と。(ローマ9:18-24)
主は確かに、ある人を滅ぼすために、その人の心を頑なにされるが、主は映画のキャストでも選ぶように、ある人は滅び役、ある人は救い役と訳もなくするわけではない。
滅ぼされる人の側に、責任があるのだ。
もし人が、欲望のままに歩む事を止めず、あくまで神に逆らい続けるのであれば、神はその人をかたくなな心のままに任せ、汚れと滅びの中へ引き渡される。(ローマ1:24)
神はむしろ、豊かな寛容をもって、長い間忍耐し、人が悪しき事を止め、主に立ち返る事をずっと待っておられるのだ。(ローマ9:22)
神はどれ程忍耐深く待たれるお方であるか。また、かたくなにされ滅びが定められてしまった人達は、どれ程恩知らずであったか。
主は、大洪水で世を滅ぼされる前、人間がはなはだ堕落していた時代を、千何年も忍耐して来られたが、人々はついに行いを改めなかった。
またエジプトは、ヨセフから受けた恩恵を仇で返してイスラエルを奴隷としてこき使い、しまいには男子が生まれたらナイルに投げ込むまでに悪を行ったが、主は400年以上もの間ずっと忍耐して来られた。それでもエジプトは、行いを改めなかった。
そして、このエモリ人の国は、アブラハムの時代からずっと何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はシホンを頑なにし、滅ぼすに任されたのだ。
このように、トータルで見るならば、主は徹底的に真実で、忍耐深くあられた事が分かり、また、それに対する人間がいかに不真実で罪深いかが浮き彫りにされる。
だから、人は誰も、主がなさる事にとやかく言う権利はないのだ。
『その時、われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。』(申命記2:34)
私達も、主にあって滅ぼしつくすべきものは、惜しまずに、滅ぼしつくすべきである。
サウル王は、滅ぼしつくすべきものを惜しみ、その事をサムエルから咎められても、悔い改めず、「神への捧げ物だ」と言い訳したため、主に忌み嫌われた。
バラムも、受け取ってはならぬ不正の報酬を受け取るために奔走し、主がロバをしゃべらせて制止されたのに彼は聞かず、ついには滅びへと邁進してしまった。
神が恵み深く、悪を行っても全く罰されないのを調子に乗っていると、やがては痛い目を見る。
神はいつまでも許してくださると思い、悪の道を変えないのなら、やがて間に合わなくなってしまう時が来るのである。
礼拝説教メッセージ音声:エサウやロトの子孫でさえ勝利しているのに(申命記2:9-25):右クリックで保存
イスラエルが約束の地へ向かうに当たり、今度はモアブやアモンの領土、すなわち、アブラハムの甥・ロトの子孫の領土を通過する上での命令と、そして励ましとを与えられた。
『その時、主はわたしに言われた、『モアブを敵視してはならない。またそれと争い戦ってはならない。彼らの地は、領地としてあなたに与えない。ロトの子孫にアルを与えて、領地とさせたからである。』(申命記 2:9)
主は、モアブはイスラエルの近親の民族であるから、争わず平和の内に通過するよう命じておられた。
しかし実際は、モアブがイスラエルを恐れて敵対し、モアブの王バラクはバラムを雇ってイスラエルを呪わせようとした。(民数記22−24章)
ただ、この時点で主は、ロトの子孫はアブラハムの近親であった故に、憐れみを注いでおられた。
唐突に主は、このロトの地やエサウの地の歴史を挿入している。
『むかし、エミびとがこの所に住んでいた。この民は大いなる民であって、数も多く、アナクびとのように背も高く、またアナクびとと同じくレパイムであると、みなされていたが、モアブびとは、これをエミびとと呼んでいた。ホリびとも、むかしはセイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを滅ぼし、彼らに代ってそこに住んだ。主が賜わった所有の地に、イスラエルがおこなったのと同じである。』(申命記2:10-12)
これらの土地には、かつて、背の高い強大な原住民が住んでいた。しかし、今はもういない。
エサウの子孫も、ロトの子孫も、それらの先住民を、滅ぼしたからだ。
それで彼らは、現在、そこで安住している。
あの、俗悪なエサウの子孫でさえ、また、あの近親相姦で生まれたモアブやアモンでさえ、イスラエルの父アブラハムと関係する子孫だからと言うので、主が特別扱いし、力づけ、先住民である巨人たちを打ち倒し、主が彼らのために保っておられた地に、安住している。
それに引き換え、アブラハムの正当な子孫であるあなた方・イスラエルを、どうして主は良くして下さらない事があろうか、と、勇気づけておられるのだ。
『「あなたがたは、いま、立ちあがってゼレデ川を渡りなさい。」そこでわれわれはゼレデ川を渡った。カデシ・バルネアを出てこのかた、ゼレデ川を渡るまでの間の日は三十八年であって、その世代のいくさびとはみな死に絶えて、宿営のうちにいなくなった。主が彼らに誓われたとおりである。まことに主の手が彼らを攻め、宿営のうちから滅ぼし去られたので、彼らはついに死に絶えた。』(申命記2:13-15)
40年前、イスラエルは不信仰の故に、主が進むように言われた地に、行かなかった。
彼らは、主が導こうとしておられる地は堅固な城壁の町々で、巨人がいて、自分達を飲み尽くしてしまう、と、悪く言いふらし、イスラエル全体を進ませなかったため、主はその世代の成人男子を皆、荒野で死に絶えさせた。
そこで、彼らが荒野で滅び尽くした今、主は今一度イスラエルを力強く励ましている。
『あなたがたは立ちあがり、進んでアルノン川を渡りなさい。わたしはヘシボンの王アモリびとシホンとその国とを、おまえの手に渡した。それを征服し始めよ。彼と争って戦え。きょうから、わたしは全天下の民に、おまえをおびえ恐れさせるであろう。彼らはおまえのうわさを聞いて震え、おまえのために苦しむであろう』。』(申命記2:24-25)
主が共にいるのであれば、何も恐れる事は無い。
あの俗悪な者の子孫たちでさえ、アブラハムのゆえに憐れみが注がれ、巨人たちに打ち勝たせ、主が保って下さった地で安心して暮らしている。
アブラハムの正当な子孫であるイスラエルのために、主は今、敵国内に恐れを生じさせ、勝利させるようにしておられる。
どうして進まないでおれようか。
今、皆さんの目の前にも、立ちはだかる巨人はいるだろうか。超えるべき山は、そびえているだろうか。
皆さんも、主に信頼して進むなら、天と地を造られた主から助けが来るのだ。
『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。』(詩篇121:1-8)
礼拝説教メッセージ音声:除外されてしまう期間(申命記2:1-8):右クリックで保存
『それから、われわれは身をめぐらし、主がわたしに告げられたように、紅海の方に向かって荒野に進み入り、日久しくセイル山を行きめぐっていたが、主はわたしに言われた、「あなたがたは既に久しくこの山を行きめぐっているが、身をめぐらして北に進みなさい。」』(申命記2:1)
ここには「久しくセイル山を行きめぐっていた」とあるが、イスラエルの民がどのくらいセイル山の周りを行き巡っていたかというと、なんと、38年以上もの年月行き巡っていたのである。それを、たった1節で片付けている。
民数記でも同じように、19章から20章の間で、38年以上もの時間をひとっ飛びしている。
色々な事件やドラマがあったであろう、その長き年月が、記録もされずに、飛ばされてしまう。そう、信仰によらない日々、すなわち、神から離れて不従順の内に過ごした年月や、罪のむくいを償還するための長き年月は、永遠の書物には、書き記されないのだ。
アブラハムも、神の約束を待つのではなく妻の助言を聞いてハガルをめとり、肉の力でイシュマエルを産んだ時、神が沈黙し、全く記録されない空白の13年があったし(創世記16:15〜17:1)、マタイの1章の系図でも、不信仰の悪い王の名は省かれてしまっており、あたかも存在しなかったかのような扱いである。
このように、不信仰の世代や、不信仰の期間は、主からカウントされず、永遠の書物から除外されてしまう、という事があるのだ。
『おまえはまた民に命じて言え、「あなたがたは、エサウの子孫、すなわちセイルに住んでいるあなたがたの兄弟の領内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。それゆえ、あなたがたはみずから深く慎み、彼らと争ってはならない。彼らの地は、足の裏で踏むほどでも、あなたがたに与えないであろう。わたしがセイル山をエサウに与えて、領地とさせたからである。あなたがたは彼らから金で食物を買って食べ、また金で水を買って飲まなければならない。』(申命記2:4-6)
荒野での40年の月年の終わりに、主は約束の地に向かって歩を進め、イスラエルの兄弟・エサウの領土を通る際の注意事項を示された。
エサウは長子の権利を一杯の食物で売った俗悪な者であるが、それでも主は、彼の父・アブラハムの故に、ちゃんと相続地を定め守っておられ、イスラエルも、彼らの土地を通過する時は、争ったりせず、食料や水を金で買うように命じている。
『あなたの神、主が、あなたのするすべての事において、あなたを恵み、あなたがこの大いなる荒野を通るのを、見守られたからである。あなたの神、主がこの四十年の間、あなたと共におられたので、あなたは何も乏しいことがなかった。』(申命記2:6-7)
主は、俗悪なエドムでさえ、きちんと相続すべき分を与えておられる事を見せ、そして彼らの権利を守るよう命じられた。
ひるがえって、イスラエルはどうだったか。
イスラエルは今まで、荒野の中でもしっかり守られ、主に養われ、導かれて来た。
「あなたは何も乏しいことがなかった」と言われたように、彼らは、いのちの危険がいつも付きまとう岩砂漠地帯を、40年も旅して来たというのに、なんと不足は無かったのである。
それは信じられない事かもしれないが、主は実際、誠実に、真実に養ってこられたのだ。
私達は、自分自身の不信仰や罪の故に、空白の13年や、荒野での38年を通るかもしれない。
たとえそうなったとしても、主の恵みと養いは、その間、尽きる事がない。
荒野での長き期間、イスラエルは一体、何万トンのマナで、何万キロリットルの水で養われたというのだろうか。
人は、無駄に日々を費やしたとは思っていても、それでも主の恵みは、途方もなく膨大に注がれていたのだ。
私達が通らされた荒野の経験は、決して無駄ではなく、その間、私達の不従順は削ぎ落とされ、信仰が培われ、主が真実に養って下さったという体験が残るのである。
礼拝説教メッセージ音声:呪いの根源 - 神から独立した善悪判断(申命記1:34-46):右クリックで保存
『主は、あなたがたの言葉を聞いて怒り、誓って言われた、「この悪い世代の人々のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもないであろう。」』(申命記1:34-35)
主の御言葉に聞き従わず、不従順を貫き通した「悪い世代」は、カレブ以外、誰も良き地に入れない事が確定してしまった。
そして、あの多くの功績を残したモーセであっても、御言葉に聞き従わないなら、良き地に入れないのだ。
主に聞き従わない事は災いだが、その根源は、「神から独立して自分で善悪判断をする」というスタンスである。
『またあなたがたが、かすめられるであろうと言ったあなたがたのおさなごたち、およびその日にまだ”善悪”をわきまえないあなたがたの子供たちが、そこにはいるであろう。わたしはそれを彼らに与える。彼らはそれを所有とするであろう。』(申命記1:39)
荒野で滅びる事が確定してしまった「悪い世代」と、アダムとエバとに、共通している事がある。
それは、神から独立した善悪判断をして、身勝手な事を行い、その結果死と呪いを刈り取り、主が用意された良き地から吐き出されてしまうという「失楽園」を経験してしまった事だ。
エデンの園以来、私達には常に、究極の二択が迫られている。
究極の二択、それは、「善か、悪か」ではない。
「いのちの木か、善悪の木か」である。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1335 )
私達が、神から独立して自分で善悪判断をするなら、失楽園し、労苦の挙句に死ぬのみであるが、自分の善悪判断を降ろし、イエス・キリストといういのちの木から取って食べるなら、私達は楽園(パラダイス)に入り、永遠に生きるのである。
『しかし、あなたがたはわたしに答えて言った、『われわれは主にむかって罪を犯しました。われわれの神、主が命じられたように、われわれは上って行って戦いましょう』。そして、おのおの武器を身に帯びて、かるがるしく山地へ上って行こうとした。』(申命記1:41)
イスラエルの民は「われわれは主にむかって罪を犯しました。」と、自分の罪を認めているが、主の御言葉への服従が全く無く、相変わらず自分の善悪判断を固く握りしめている。
それは以下の事でわかる。
『その時、主はわたしに言われた、『彼らに言いなさい、「あなたがたは上って行ってはならない。また戦ってはならない。わたしはあなたがたのうちにいない。おそらく、あなたがたは敵に撃ち敗られるであろう」』。このようにわたしが告げたのに、あなたがたは聞かないで主の命令にそむき、”ほしいままに”山地へ上って行ったが、その山地に住んでいるアモリびとが、あなたがたに向かって出てきて、はちが追うように、あなたがたを追いかけ、セイルで撃ち敗って、ホルマにまで及んだ。』(申命記1:42-44)
彼らは「こうするのが主に償いをする事だ」と、身勝手な思い込みで突き進み、それで散々な目に遭って、逃げ帰ってきた。
主の御旨に叶っていない事を、人が”ほしいままに”行うなら、主はそんな人は助けない。
『あなたがたは帰ってきて、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞かず、あなたがたに耳を傾けられなかった。』(45節)
主は、人が流すどんな涙でも、目を留めて下さるものではない。
美しい涙と、醜い涙がある。
自分の罪を悲しみ、主の元で悔いる涙は美しく、主はそれを受け止めて下さるが、自分の欲望が満たされなかった事を悲しむ涙、自分の思い通りに行かない事を嘆く涙は醜く、その泣き顔は、神と人との怒りを引き起こす。
私達は「いのちの木か、善悪の木か」のどちらを選ぶかを主から提示されており、もし善悪を選ぶなら、私達は死と呪いを刈り取り、「失楽園」してしまう。
私達が選び取るべき「いのちの木」は、まことの食物であるイエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
キリストは十字架を負われ、自分の善悪判断を捨てられ、ただ御父のみこころに委ねられた。
私達もキリストにならい、自分で善悪判断する生き方を十字架にはりつけ、死に渡し、いのちなるお方イエス様にならって十字架上で御父に自らを明け渡すなら、いのちを得るのである。
底辺からいつまでも脱却できない人の思考パターン(申命記1:19-33)
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- 執筆 :
- pastor 2013-12-9 20:16
礼拝説教メッセージ音声:底辺からいつまでも脱却できない人の思考パターン(申命記1:19-33):右クリックで保存
『その時わたしはあなたがたに言った、『あなたがたは、われわれの神、主がお与えになるアモリびとの山地に着いた。見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの前に置かれた。あなたの先祖の神、主が告げられたように、上って行って、これを自分のものとしなさい。恐れてはならない。おののいてはならない』。』(申命記1:20-21)
この時、イスラエルの民が、モーセに言われた通りに、何も言わずそのまま行っていたなら、すんなり約束の地に入れたはずだ。
しかし、以下の民の言葉の故に、荒野の放浪が始まってしまった。主の命令に、人間が「でも」を混ぜてしまう事こそ、荒野の放浪の入り口なのである。
『あなたがたは皆わたしに近寄って言った、『われわれは人をさきにつかわして、その地を探らせ、どの道から上るべきか、どの町々に入るべきかを、復命させましょう。』』(同22節)
これは「知恵があり、人に知られている人々」(15節)なら、いかにも考えそうな、極めて常識的な提案である。
事前調査するのは、悪い事ではない。実際モーセも、それをするのは良いと思った。
民は今まで、主の御業を見てきたのだから、今回も主が、素晴らしい御業を為して下さるだろう、と、民は当然判断するものと、モーセは思っていたかもしれない。
しかし民の考え方は、モーセと同じではなかった。
民は、主がおられる事を度外視し、自分と相手を比べて計算して、絶望したのだ。
戦いであれ、友人関係であれ、主を度外視して「自分と相手を比べて計算」する事は、大いに問題である。
それに引き換え、ヨシュアとカレブは、「自分達の内にいます主と、相手とを見比べて計算」し、勝利を確信した。
主と相手とを見比べるなら、希望以外には考えつかないが、自分と相手とを見比べるなら、絶望以外には考えつかないものである。
『しかし、あなたがたは上って行くことを好まないで、あなたがたの神、主の命令にそむいた。そして天幕でつぶやいて言った。『主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの国から導き出されたのだ。』(申命記1:26-27)
主は、四百年以上も前から、アブラハムの時代から、この地をイスラエルの民に与えると約束しておられた。
そして実際、彼らは、主がエジプトにおいて、荒野において、大きな御業をして下さった事を、何度も目の当たりにして来た。
それなのに、この期に及んで、「主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの国から導き出されたのだ。」などと言っている。
一体どうしたらこんなひねくれた考えになるのか、と思うかもしれないが、主が為された事に目を向けず、主が共におられる事を度外視し続け、あくまで自分の考えに凝り固まって、自分の主張を通そうとしている者は、大体そのような愚かな判断をくだすものである。
主は、ねじ曲がった者にはねじ曲げる方であり、彼らが主に対して量っている通りに量り返すお方である。(詩篇18:26、ルカ19:22)
『われわれはどこへ上って行くのか。兄弟たちは、「その民はわれわれよりも大きくて、背も高い。町々は大きく、その石がきは天に届いている。われわれは、またアナクびとの子孫をその所で見た」と言って、われわれの心をくじいた』。』(申命記1:28)
これが、自分と相手を見比べてばかりいて、主を度外視している者の言葉であり、信仰生活を何年しても、霊的にも社会的にも底辺からいつまでも脱却できないクリスチャンの思考パターンである。
『その時、わたしはあなたがたに言った、『彼らをこわがってはならない。また恐れてはならない。先に立って行かれるあなたがたの神、主はエジプトにおいて、あなたがたの目の前で、すべてのことを行われたように、あなたがたのために戦われるであろう。あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった』。』(申命記1:29-31)
モーセは19節で、「あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を通り、アモリびとの山地へ行く道によって、カデシ・バルネアにきた。」と言っているが、実際その道は、石灰岩ばかりの岩砂漠地帯で、もし一日でも放って置かれたら、完全に干からびてしまう。
それなのに、彼らが長年守られて来たのは、主が昼は雲の柱によって照りつける太陽から守り、夜は火の柱で暗闇と寒さから守って来られたからだ。
主は、人のその子を抱いて運ぶように運ばれ、主が、めんどりが雛を覆うようにして、守って来られたのだ。
『このように言っても、あなたがたはなお、あなたがたの神、主を信じなかった。主は道々あなたがたの先に立って行き、あなたがたが宿営する場所を捜し、夜は火のうちにあり、昼は雲のうちにあって、あなたがたに行くべき道を示された。』(同32-33節)
主がして下さった事を一切思わず自分の考えに凝り固まってそれを降ろさない人、いつも自分と相手を比較して計算し、主を度外視している人は、荒野を放浪するような人生を歩んでいる。
私達は、ヨシュアやカレブのように、主を見、主と相手を比較して希望を得、信仰によって進み出て、いつも勝利する者でありたい。