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礼拝説教メッセージ音声:滅ぼされるべき者であるのに(申命記13:12-18):右クリックで保存
まことの神から離れさせ偶像礼拝へと向わせる動きが、町ぐるみで行われている場合、すぐに滅ぼす、という事はせず、よく調べ、よく問いただしてから、判決を下さなくてはならない。
そして、そのような憎むべき事が行われていた事が明らかとなった場合は、その町の住人ばかりでなく、家畜も、全て剣で滅ぼしつくす事が命じられており、しかも、その町から何のぶんどりもしてはならず、徹底的に破壊し焼き尽くした後は、そこを忌むべき所として、二度とそこを再建してはならない、とまで命じている。(申命記13:12-17)
しかしながら、列王記や歴代誌を見ると、町ぐるみどころか、国ぐるみで、まことの神から離れさせ他の神々へと向わせる動きが幾度もあった。
モーセの命令がそのまま正確に実行されたならば、イスラエルは全て、とうの昔に滅ぼされ、二度と再建されなかったはずである。
それなのに、イスラエルは滅ぼし尽くされず、今も生かされている。
なぜ生かされているのか。
それは、主の憐れみによるものであり、悔い改めて主に立ち返る民を、主が残しておられたからである。
主は憐れみ深い。主は人が悔い改めて立ち返るなら、ひと度発した滅びの宣告を、思い直されるお方である。(ヨナ3章)
主は、人が罪の内に滅んでいく事を、願っておられない。
「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。」と。彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」』(エゼキエル33:10)
主は、人を好き好んで罰するようなお方ではなく、むしろ、人が悔い改めて悪の道から立ち返り、いのちを得て生きる事を、望んでおられ、悔い改めて主に立ち返る人にはあわれみを施し、豊かに赦して下さる。
『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』(イザヤ55:6-7)
義人は、いない。一人もいない。
律法を完全に実行できる人も、いない。
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただ、信仰による。
『人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ「キリスト・イエスを信じる信仰(ピスティス・イエーソゥ・クリストゥ:イエスキリストの信仰)」によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、「キリストを信じる信仰(ピスティス・クリストゥ:キリストの信仰)」によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
多くの日本語訳では、ここは、キリストイエスを信じる信仰によって義と認められる、と、訳されているが、「その人の(イエスを信じる)信仰」によるのではなく、「キリストの信仰」によって、義と認められるのだ。
事は、人の何かによるのではない。
イエスの信仰、イエスの愛、イエスの憐れみによって、私達人間は、ようやく立っていられるのだ。
私達は、モーセの律法のままに裁かれるとしたら、とうの昔に、罪のゆえに処罰され、滅んでいたはずだった。
しかし私達キリスト者は、今、なんと赦され、生かされている。
それは、キリストが、私達の身代わりとなって処罰され、十字架上で死んで下さった故である。
私達は、真理の上では、既に死んでおり、父なる神の御前には「処罰され済み」とされている。
『わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた「神の御子を信じる信仰(神の御子の信仰)」によって、生きているのである。』(ガラテヤ2:19-20)
ここも正確には、「私達人間が神の御子を信じる信仰によって生きている」のではなく、「神の御子の信仰によって私達は生かされている」のである。
結局、人間が誇れるべきものは、何もない。
「すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」(ローマ3:27)
私達はただ、イエス様にひれ伏して、この御方にあって生きるのみだ。
礼拝説教メッセージ音声:永遠的殺人罪(申命記13:1-11):右クリックで保存
人は、目に見えるしるしや奇跡に、なびきやすく、目に見えない神から、離れやすいものである。
それでモーセは、まことの神・以外から来る預言やしるし、奇跡などに惑わされないよう、注意を促している。
『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)
そうした、しるしや奇跡が起こるのは、まことの神以外に別の神がいるから、ではなく、悪霊がそれをさせて、まことの神から離れさせようとしているからだ。
そして、それが起こる時、その人は、主から試されている。
果たしてその人が、心をつくし、精神をつくして、神である主を愛するかどうかを。
キリスト者の中にも、主のしるしを見たい、奇跡を体験したい、と言う人がいるが、奇跡を見たり、体験したりすれば信仰がレベルアップすると思ったら大間違いであり、むしろ、しるしや奇跡がなければ信仰を保てないようでいては、その人の信仰は、かなりレベルダウンしている。
聖書中、主のしるしや奇跡を、最も多く見、最も多く体験した、荒野の民六十万の内、一体何人が、約束の地に入れただろうか?
ヨシュアとカレブの、わずか二人だった。
この事からも、主のしるしを見れば良いというものではない事が分かる。
『同じ母に生れたあなたの兄弟、またはあなたのむすこ、娘、またはあなたのふところの妻、またはあなたと身命を共にする友が、ひそかに誘って『われわれは行って他の神々に仕えよう』と言うかも知れない。・・・しかし、あなたはその人に従ってはならない。その人の言うことを聞いてはならない。その人をあわれんではならない。その人を惜しんではならない。その人をかばってはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、あなたがまず彼に手を下し、その後、民がみな手を下さなければならない。』(申命記13:6-9)
この命令は、現代の日本人の感覚からは、とても厳しいように、そして、非道いかのように見える。
なぜモーセは、そこまで徹底するよう命じたのか。
ここで私達は、思い返すべきである。
「永遠がある」という事を。
私達が、永遠という視点に立つ時、まことの神から人をそむけさせ、他の神々へと導く行為は、放火や虐待、殺人などより、遥かに重い罪である事が、分かるはずだ。
なぜなら、まことの神から引き離す行為は、その人を永遠の地獄の刑罰へと導く行為であり、また、この世においても祝福を断ち切らせ、呪いへと導く行為なのだから。
申命記をここまで読んできた皆さんは、次のようにモーセが言うのを、耳にたこが出来る程、繰り返し聞いてきたはずだ。
すなわち、もし主に聞き従って御言葉どおり行うなら、その人は祝福され、敵に勝利し、畑の産物も祝福され、子孫も多くなり、齢を長くし、栄える事が出来る事を。
そしてもし、主に聞き従わず、主にそむいて他の神々に走るなら、その人は呪われ、敵に負け、虐げられ、畑や家畜などの産物は出さなくなり、子孫は捕らえ移され、いのちは短くなり、落ちぶれてしまう事を。
そして、まことの神である主を捨てる人は、地獄での刑罰に永遠に苦しめられてしまう事を、聖書は言っている。
たとえ人を火で焼き殺すとしても、その人にとっての苦しみは、死ぬまでのわずかな時間であろう。
しかし、その人をまことの神から引き離し、地獄へと導くとしたら、その人がゲヘナで焼かれる苦しみは、永遠に続けさせてしまう事になってしまう。
つまり、まことの神から引き離すように人を誘惑する行為は、その人を、自分の手を汚さず敵の手で葬らせるも同然の行為であり、その人の畑や家屋など資産に火をつけるも同然の行為であり、その人に毒を盛って寿命を縮めてしまうも同然のであり、そして、その人の「永遠のいのち」を奪うという、通常の殺人より遥かに重い罪と言える。
御言葉を差し引きせずに見るなら、そういう事になるのではないだろうか。
多くの国では、殺人は罪に問うけれど、まことの神から引き離す事には、何の罪状も無い。
だから残念な事に、人は、まことの神から引き離す事が、そんなに大それた罪だとは、思えないのだ。
しかし、誰かをまことの神から引き離す罪は、永遠のいのちを殺してしまう「永遠的殺人罪」である。
だからモーセは、その罪から人々を救い出そうとして、あのような厳しい命令を下したのだろう。
礼拝説教メッセージ音声:きよい生活をキープせよ(申命記12:29-32):右クリックで保存
主が与えられる地で、聖なる、新しい歩みを始めるためには、まず住むべき地の”きよめ”からはじめ、次に、家族や奴隷、レビ人と共に、主が定められた所へ行って礼拝し、主の前で喜び楽しむよう、命じてられていた。
そして、生活が安定して来たなら、清められた生活をキープし続けるようにと、モーセは命じている。
『あなたの神、主が、あなたの行って追い払おうとする国々の民を、あなたの前から断ち滅ぼされ、あなたがついにその国々を獲て、その地に住むようになる時、あなたはみずから慎み、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らにならって、わなにかかってはならない。また彼らの神々を尋ね求めて、『これらの国々の民はどのようにその神々に仕えたのか、わたしもそのようにしよう』と言ってはならない。』(申命記12:29-30)
イスラエルがカナンに入り、先住民と偶像を滅ぼし尽くし、産物が祝福され生活も安定して来た時こそ気をつけるよう、モーセは注意喚起している。
以前そこにいたカナン人の罪深き行いを、掘り返して調べたり、それに習ったりしないように、と。
私達も、キリストに出会う以前は闇であり、神でないものを崇拝し、罪深き生活をしていたが、今やそれらの中から救い出され、光の子となった。
そうであるからには、以前の罪深き生活をなつかしんで逆戻りしたり、世の中で今なお闇を歩んでいる人々に習ったりしてはならない。
『あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。』(エペソ5:5-8)
ひと度、約束の地に入ったら、それで信仰生活はおしまい、というものではないし、その後は何でも欲しいままに振る舞って良いものでもない。
先住民や異邦の国の悪い行いを掘り返して、それに習ったりしないよう、モーセが命じたように、キリストにあって新しく生まれ変わった私達も、以前の悪い習慣や、考え方に戻らぬよう、清い生活をキープし続けるよう努めるべきである。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(ローマ8:1)
この御言葉は、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、次のようになる。
「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩むキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」
つまり、ひと度キリストにあって救われた人は、未来永劫罪に定められることは無い、という事では決してない。
もしそうなら、「キリストにあって救われて、もはや自分は罪に定められる事は無いのだから、安心して罪を犯し、肉に従って歩もうではないか」という事になってしまう。
そうではなく、継続的に肉に従う事を拒否し、日々御霊に従って歩む人が、罪に定められる事は無いのである。
私達は救われた以上、御霊を悲しませてはならない。
以前の古い生き方は捨て去り、御霊に従って歩み続けるよう、日々努力すべきだ。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。』(ガラテヤ5:16-18)
私達がもし罪を犯しても、イエスの血によって清めていただく事が出来る。
もし自分を吟味するなら、自分が罪人である事は、明らかに分かるはずだ。
だからこそ主は、そんな私達のために身代わりとなり、血を流し、肉体を割いてくださったのだ。
私達は断然、イエス様の流された血を、また、裂かれた肉を感謝しつつ受け止め、清めていただくべきなのだ。
なぜなら、イエスの血によって清められない罪は、無いからだ。
『あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。』(申命記12:32)
モーセがここで言っているように、そして、黙示録の最後でも命じられている通り、御言葉は付け加えたり、減らしたりしてはならない。
エデンの園で、蛇は、御言葉を巧妙に取り除いてエバを欺き、エバは、御言葉に付け加えをして罠に陥り、パリサイ人は、御言葉に身勝手な解釈を付け加えて、人々からいのちを遠ざけてしまった。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
礼拝説教メッセージ音声:肉と血(申命記12:15-28):右クリックで保存
荒野の民は、約束の地に入るまでの間、牛や羊、やぎを、身勝手に屠殺してはならず、それを食す時は、必ず「礼拝」を通さなくてはならなかった。
すなわち、それらを主の幕屋の前に連れて来て、酬恩祭(和解のいけにえ)として捧げなければならなかった。(レビ記17:1-9)
しかし、約束の地に入ったなら、牛や羊、やぎも含め、好きなように肉を食べる事ができるようになる。
『あなたの神、主が賜わる恵みにしたがって、すべて心に好む獣を、どの町ででも殺して、その「肉」を食べることができる。すなわち、かもしかや雄じかの肉と同様にそれを、汚れた人も、清い人も、食べることができる。』(申命記12:15)
なぜ、約束の地に入るまでの期間は、牛や羊、やぎの肉を勝手に食べる事は出来ず、必ず「礼拝」というステップを通さなくてはならなかったのか。
それは、彼らがエジプトにいた時に染まってしまった偶像崇拝の習慣からの、「霊的毒抜き」のためと思われる。(レビ記17:1-9)
エジプトでは、牛や羊、やぎなどは、崇拝の対象となっていた。
レビ記の命令が与えられた時点では、エジプトから出てそんなに経っていない時で、体は出エジプトしていも、心は完全に出エジプトしていない民が多かった。
事実、民数記を見ると、イスラエルの民の心は幾度もエジプトへ傾き、エジプトへ戻ろうという扇動が幾度もなされたが、そのような人達は皆、荒野で打たれ、屍となって荒野に置いてけぼりにされた。
イスラエルの民が、以前の奴隷の国・エジプトの習慣から、完全に抜け出す「毒抜き」のために、牛や羊、やぎなど、エジプトでは崇拝の対象となっていた動物をほふるときは、必ず主を通し、主の前で礼拝を行う事を、イスラエルの民は約束の地に入るまでの間、ずっと続けた。
同じように、私達も、毒抜きすべき、以前の「世」の習慣があるかもしれない。
それは、お酒や性的不品行などの肉体的な悪い習慣かもしれないし、あるいは、すぐ暴力を振るったり暴言を吐くといった、性格的な悪い習慣かもしれない。
それらは、奴隷のように私達を縛り、新しい聖なる生活へ入ろうとする事を邪魔する。
しかしそれらは、イエスの御名と血潮によって、束縛から開放される事は可能である。
イスラエルの民が行ったように、そこから完全に抜け出すまでに、自分の中でそれに関わる全てにイエスの御名を通し、兄弟姉妹の祈りを通すのだ。
その事を一定期間続けるなら、段々、以前の悪い習慣や誘惑は、ものともしなくなって行き、やがて、その束縛を断ち切る事が出来るようになる。
主は、約束の地では肉を好きなように食べることを許されたが、二点、注意しなくてはならない事がある。
一つは、牛や羊、やぎなどを「主への捧げ物」とする場合は、荒野で命じられた時のように、主が選ばれる場所でしか、食べてはならない事。(申命記12:17)
もう一つは、血を食べてはならない事。
『その血は食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない。あなたの穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一および牛、羊のういご、ならびにあなたが立てる誓願の供え物と、自発の供え物およびささげ物は、町の内で食べることはできない。あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの神、主の前でそれを食べなければならない。すなわちあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、および町の内におるレビびとと共にそれを食べ、手を労して獲るすべての物を、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。』(申命記12:16-18)
血を食べてはならない、これはノアの時代以来、主が命じられた事であるが、血は、聖書では、とても重要な意味がある事が記されている。
実際、血には多くの情報が隠されている事が、科学的にも立証されている。
すなわち、赤血球や白血球など血潮に含まれる全ての細胞には、DNA情報が組み込まれており、その持ち主の全ての情報が記されている。
血は、いのちそのものであり、また、神との契約のしるしとして有効なものである。(出エジプト記24:8、マルコ14:24)
日本では印鑑は契約のしるしとして用いられるが、印鑑の押された文書は、ある種の荘厳さと説得力がある。
それに対し、契約のしるしである血は、印鑑よりも遥かに多くを語り、説得力がある。
血は、語る。血は、叫ぶ。血は、証しする。(創世記4:10、黙示録6:9-10、ヘブル12:24、1ヨハネ5:6-7)
また、血潮はきよめの役割を果たす。(ヘブル9:13-22)
不当に流されたアベルの血は、地面の中から主に向かって叫んだように、イエス様の血潮も、父なる神に向かって叫ぶ。
父なる神に対しては、キリストにある私達の弁護を叫び、サタンに対しては、イエスの血を流した事の罪定めを叫ぶのだ。
律法では、血を食べてはならない、その内にはいのちがあるから、と言われているが、唯一の例外がある。
いや、それどころか、その血を飲まなくては、いのちは無い、とまで言われている血がある。
それは、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハネ6:53-56)
聖書で血潮がとても重要なものとして位置づけられている理由は、イエスの血潮の重要性を示すため、と言っても過言ではない。
イエスの血潮は、私達の罪を完全にきよめ、神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては罪定めを叫び、私達が贖われた事の、完全なる契約の調印のしるしである。
私達も、イエスのいのちそのものである血潮を頂く事によって、イエス様のあらゆる優れたDNAが、すなわち、イエスの聖なるご性質、神の子としての完全なご性質が、私達の内にも、組み込まれるのである。
礼拝説教メッセージ音声:主を喜ぶ事は力である(申命記12:5-14):右クリックで保存
イスラエルがカナンに入って真っ先に為すべきは事は「きよめ」だった。その次に為すよう命じられている事は、感謝と喜びをもって、礼拝を捧げる事である。
きよめた後に、礼拝を捧げる。この順番は大事である。
『あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物と、誓願の供え物と、自発の供え物および牛、羊のういごをそこに携えて行って、そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである。』(申命記12:5-7)
私達も、主が約束を成就して下さった時には、感謝と喜びをもって礼拝を捧げ、兄弟姉妹と共に、御前で喜び楽しむべきである。
そして、礼拝を捧げる際には、人が勝手に定めた所ではなく、主が定められた所を尋ね求め、そこに行き、主が定められた通りに礼拝を捧げるよう命じられている。
『あなたがたがヨルダンを渡り、あなたがたの神、主が嗣業として賜わる地に住むようになり、さらに主があなたがたの周囲の敵をことごとく除いて、安息を与え、あなたがたが安らかに住むようになる時、あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこにわたしの命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない。』(申命記12:10-11)
私達も、御言葉というガイドラインを無視して、自分の目に正しいと見られる事を行ってはならない。
『そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。』(申命記12:8)と言われている通りである。
もし、御言葉に聞くということをせず、めいめいが「これが正しい」と見える事に従って、好き勝手に振る舞うとしたら、士師記のような殺伐とした苦しみの時代に突入してしまう。
士師記の時代が、なぜ、殺伐とした時代になってしまったのか。
その理由は「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」からだった。(士師記21:25、17:6)
もしある人が「これは神に喜ばれるだろう」と思って、朝夕に冷水浴びを欠かさずするとしたら、それは神様に喜ばれるのだろうか?
答えは、ノーである。
なぜなら、「主に喜ばれるために冷水を浴びよ」などと聖書のどこにも書いていないし、むしろ、行いではなく信じる事こそ主は喜ばれる事が、聖書の至る所に書いてあるからである。
今の時代、私達が、主の御前に正しく礼拝を捧げるには、どのような手順を踏めば良いのだろうか。
それは、イエス・キリストを通して、である。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネ14:6)
イエス・キリスト無き礼拝は、無効である。
イエス・キリストの名によらない祈りは、無効である。(ヨハネ14:13-14)
イエス・キリストの御名以外に、救いは無い。(使徒4:12)
モーセは、主を礼拝する時は、自分の家族だけでなく、自分のしもべやはしためも、そしてレビ人も、共に主を喜んで礼拝が捧げられるようにしなさい、と、命じている。
『そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。また町の内におるレビびととも、そうしなければならない。彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである。』(申命記12:12)
しもべやはしためには、自分の所有物が無い。そこで、彼らも主に捧げものが出来て、共に礼拝を捧げる恵みに与れるように命じている。
それはちょうど、親が、子供も献金を捧げられるようにと、お金を持たせるのと同じである。
また、レビ人は神に仕える働き人であり、地上の仕事を持ってはならない故、彼らも共に礼拝を捧げる恵みに与かるために、彼らを招くよう命じられている。
私達も、主が願っていた事を叶えて下さった時には、必ず、主の御前に戻って感謝の礼拝を捧げ、御前で喜び楽しむ事を忘れてはならない。
礼拝は、喜びであり、神と人とが共に交わり楽しむものである。
もし礼拝の中に、喜びも無いとしたら、それはどこか間違っている。
もし礼拝に「嫌さ」「窮屈さ」があるとしたら、それは主体が「主」にではなく、自分の「行い」になっているため、そこには何の意義も見いだせないはずである。
礼拝は本来、「主」が主人公であり、主に対する感謝と喜びに満ちたものである。
そして、主を喜んで礼拝するなら、日々の生活に喜びと力が湧き起こってくる。
『主を喜ぶことはあなたがたの力です。』(ネヘミヤ8:10)
礼拝説教メッセージ音声:古き罪の性質は滅ぼし尽くせ(申命記12:1-4):右クリックで保存
『これはあなたの先祖たちの神、主が所有として賜わる地で、あなたがたが世に生きながらえている間、守り行わなければならない定めと、おきてである。』(申命記12:1)
申命記5章から11章までの所では、主の命令を守り行うなら、祝福され、守り行わないなら、呪いを受ける、という法則が、繰り返し述べられて来た。
その中で、最も重要ないましめは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛すべき事であり、そして、主の命令を守り行うべき事が再三命じられて来たが、今回の12章から26章までの所では、具体的な生活の場面場面において、どのようにそれらを適用して行くべきかが、記されている。
『あなたがたの追い払う国々の民が、その神々に仕えた所は、高い山にあるものも、丘にあるものも、青木の下にあるものも、ことごとくこわし、その祭壇をこぼち、柱を砕き、アシラ像を火で焼き、また刻んだ神々の像を切り倒して、その名をその所から消し去らなければならない。』(申命記12:2-3)
主と共なる、きよい、新しい生活に入るために、真っ先にしなくてはならないは、「きよめ」である。
イスラエルがカナンに入って、真っ先にするべき事は、以前、その地で行われていた偶像礼拝の痕跡を、跡形もなく滅ぼし尽くし、淫らな行いの痕跡を消し去る事である。
私達も、キリスト者として、聖なる新しい生活に入るためには、以前の古い罪の性質、滅ぼしつくすべきである事を、パウロは命じている。(エペソ4章)
私達はキリストを知る以前、この世にあって虚しく歩み、知性においては暗くなり、無知と頑なな心の故に、神のいのちから遠く離れ、霊的には無感覚となり、あらゆる不潔な行いを、ほしいままに為して放縦に身をゆだねていた。
しかしキリストは、私達を罪と死の行いから離れ、義と聖とを備えた新しい人を着て生きるようにと、召し出して下さったのだ。
『あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。』(エペソ4:21-24)
そういうわけで、私達は、以前の古い生き方を捨て去るべきである。
『神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。』(エペソ4:30-32)
神は、イスラエルの民に、かつてそこで行われていた偶像崇拝の痕跡を、一切消し去るよう命じられたように、私達も、怒る事、盗む事、悪い言葉を口から出す事、また、すべての無慈悲、騒ぎ、そしり、いっさいの悪意などを、古い生き方と共に、滅ぼしつくす事が、命じられている。
それらを滅ぼし尽くして、はじめて、新しい聖なる生活を営む事が出来るのだ。
だがイスラエルは、滅ぼしつくすべき事を、徹底して行わず、追い払うべきものを追い払わず、妥協したまま、それらとの共存生活を始めかけていた頃、主の使いが現れ、言われた。
『あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう』と」。主の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので、民は声をあげて泣いた。』(士師記2:2-4)
そしてイスラエルは、暗く、殺伐とした、士師記の時代へと、突入して行ったのだ。
私達も、以前の古い性質、神に喜ばれない滅ぼしつくすべきものを滅ぼしつくさないでいると、主は、私達の前から敵を追い払わず、私達は敵の前で立てなくなってしまい、士師記のような、人生の荒んだ時代へと、突入してしまう。
私達が、きよい、聖なる生活をしたいと思うのなら、まず、滅ぼしつくすべきものを滅ぼしつくすべきなのだ。
以前の古い性質、すなわち、怒り、偽り、不品行をしっかり取り除き、生きている限り幸いと祝福の生活を続けていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:祝福と呪いの宣言(申命記11:22-32):右クリックで保存
モーセは再度、主の命令を、努めて守り行うように命じている。
『もしわたしがあなたがたに命じるこのすべての命令をよく守って行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、主につき従うならば、主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう。あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。』(申命記11:22-24)
モーセは神を、「あなたの神である主」と言っているが、皆さんは、両親を「わたしの父と母」と当然のように呼ぶごとく、皆さんの信じている神、主を、「わたしの神」と当然のように呼んでいるだろうか。
この主を「わたしの神」として愛し、主が命じられた道に歩み、つき従うなら、主は敵を、目の前から追い払われる。
いかに相手が自分達よりも強く、大きくとも、主が勝利させて下さるのだ。
私達が御言葉を守り行うなら、主は、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を踏みゆかせ、そこを与えて下さる。
その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
主の御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になり、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、狭まっていた心が開放され、出来なかった事が出来るようになって行き、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るようになるからだ。
『見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。』(申命記11:26-28)
祝福と呪い、この、とてもシンプルな二者択一は、私達の人生の前にいつもつきまとう。誰も、この二択、すなわち、神である主の御言葉に聞き従うか、それとも、それに反して生きるかという選択からは、逃れられない。
もし主の御言葉に聞き従って生きるなら、祝福され、幸いを得る。しかし、主の御言葉に聞き従わずに自分の好き勝手に生きるなら、のろいを受け、不幸せになる。
これは、誰もが例外なく、そうである。
『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。これらの山はヨルダンの向こう側、アラバに住んでいるカナンびとの地で、日の入る方の道の西側にあり、ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。』(申命記11:29-30)
モレのテレビンの木の近く、それは、主がおよそ500年も前に、イスラエルの先祖・アブラハムが初めてカナンの地に入り、そこで主が子孫にこの地を与えると約束された場所であり、アブラハムはその約束を受けた時、祭壇を築いて、主を礼拝を捧げた場所である。(創世記12:5-7)
主は、およそ500年も前からの約束を、誠実に果たそうとしておられたのである。
主がその500年来の約束を果たされた暁には、その重要な場所で、祝福と呪いを宣言しなさい、と、主は命じている。
具体的には、もしこれから主が命じられた事を守り行わず、主の忌み嫌われる事をするなら、呪われよ、と、自ら宣言するのである。(申命記27章)
私達も、主から幸いを受けた時こそ、油断せず、主の憐れみといつくしみを思い起こすよう、幸いを受ける前の段階から、信仰をもってシュミレーションしておくべきだ。
御言葉を守り行って生きるなら祝福を、御言葉を軽んじ守り行わないなら、呪いを受ける。
その事を日々宣言しつつ、恐れとまごころを持って主に仕えていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:メズーザー(申命記11:13-21):右クリックで保存
『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)
祝福の条件は、やはり「命令によく聞き従う事」であり、既に6章でも命じられた通り「あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕える」事である。
モーセはこの命令を再度繰り返したし、イエス様もこれは最も大切な戒めであると言われた。
これをするなら、主は、秋の雨と春の雨を時に従って降らせ、穀物や果物を豊かに取り入れさせ、また、家畜のための養いも豊かにして下さる。
『あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:16-17)
前回の箇所では、イスラエルがこれから入ろうとしている地が、どんなに素晴らしいかが、強調されていた。
そこは、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている地、主の目が年がら年中注がれている良き地であるが、しかし、もし主から離れ去り、偶像を拝むようになるとするなら、その良き地は、逆に不毛の地となり、災いと滅びの地に早変わりしてしまう。
実際、エリヤの時代のイスラエルがそうだった。(1列王記17章)
当時の王・アハブも、またイスラエルの民も、バアルやアシェラ等の偶像礼拝を盛んに行ったために、天の雨が閉ざされ、それで三年たってもなお主に立ち返ろうとしなかった。
しかし、イスラエルの民が「主こそ神です」と叫び、バアルやアシェラの預言者を殺したところ、イスラエルに雨が戻ってきた。
私達は、どんな良きポジションを得るかを求め急ぐより、もっと大切な事がある。
荒野にいようとも、乳と蜜の流れる良き地にいようとも、私達を導かれる主を愛し、主の命令を守り行う事が、はるかに大切だ。なぜなら、いかに乳と蜜の流れる豊かな地にいようとも、どんなに富や権力、名声を手に入れようとも、もし、主から心が離れ、主以外の何かを主以上に頼りとするなら、どんなに頑張っても、必ず廃れ、滅んでしまうからだ。
そして私達は、体だけ礼拝に参加すれば良いものではない。
いかに、礼拝や聖徒の交わりに欠かさず参加しても、それらの中で取り交わされる「御言葉」に対する感動や喜び、主イエス様に対する感謝も、期待する心も無いなら、ただ、聖なる時間と空間と、愛さん会のお菓子を食いつぶしているだけである。
大切なのは、どこにいるかではない。誰といるかでもない。
本人自身が、御言葉なる主イエス様と、どのように向き合うか、である。
『それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。』(申命記11:18-21)
ユダヤでは、今回の箇所・申命記11:13-21が、小型の羊皮紙に記したものを、メズーザー(ヘブル語で「門柱」)と呼ばれる小型のケースに納め、それを家の柱や門柱に打ち付けている。
それは「家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。」という命令を、そのまま守り行うためである。
しかし、御言葉を門に打ち付けたり、トイレに飾ったりする事よりも、むしろ御言葉を心に打ち付け、御言葉通りの良き行いで身を飾る事のほうが大切である。
パリサイ人は、御言葉の書かれた経札を額に結びつけ、その経札の幅を広くするなど、人に見せるためのパフォーマンスは派手にして、それでいて、正義やあわれみ、誠実という、さらに大切にしなくてはならないものを、おろそかにしている様を、主に咎められた。(マタイ23章)
大切なのは、御言葉に書いてある事を、信仰によって結びつけ、実践する事である。
そうでないなら、聞いた言葉も、益とはならない。
『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。』(ヘブル4:2-3)
『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)
御言葉をしっかり心に刻み、御言葉どおりの行いによって身を飾り、申命記に約束されている通りの幸いと祝福にあずかる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:主の目が注がれ、天の雨で潤った地(申命記11:8-12):右クリックで保存
『ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。』(申命記11:8-9)
主の御言葉を守り行うなら、実に多様な、祝福の特典にあずかれる。
今回、モーセはその特典の一部として、「強くなり」「渡って行って取ろうとする地に入り」「それを取ることができ」「そこで長く生きる事が出来る」特典を披露している。
主がイスラエルを導き入れようとしておられる地は、どんな地か。
そこは、主がアブラハムの子孫に与えようと、400年以上も前から常に目を注ぎ、準備しておられた地。
乳と蜜が溢れ流れるような、滋養に満ちた甘さが満ち溢れるような地である。
神は私達も、世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされており、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた。(エペソ1:4-5)
『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。』(申命記11:10-12)
イスラエルの民は、荒野の旅路で、何度か、エジプトをなつかしんだ。
確かにエジプトは、ナイル川によって潤っているが、主がこれから導き入れようとしている地は、そんなものではない。
主が導き入れようとしている地は、山あり谷ありの地であるが、汗水流して労苦する所でもない。
エジプトでは、人が目をかけて畑の面倒を見なくてはならなかったが、この地は主の目が常に注がれ、主がいつも面倒を見ておられる地である。
創世のはじめ、地は、沸き上がってくる泉によって全地が潤っていたが(創世記2:16)、同じように、主が導き入れようとしておられる地は、年の始めから年の終わりに至るまで、いつも主が目を留めておられ、天の雨で潤っている地である。
神の国とは、そういう所である。
人が夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
人が知らなくても、神の国の地は、おのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。そして実がいると、すぐにかまを入れる。(マルコ4:28-29)
人が主の御言葉に従順に歩んでいた時代、まだ善悪の木から取って食べず、神から離れず、罪も死も無かった時代の土地は、年がら年中、端から端まで、主のケアが行き届いていて、あらゆる良き実が成っており、人は、どの木からでも、思いのまま取って食べて良かった。ただ、善悪の知識の木を除いて。
今の世界は、その良き世界とは、かけ離れている。人は、額に汗を流して労苦し、食を得なくてはならない。
その理由は、ひとえに、主の命令に聞き従わなかった結果である。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」(創世記3:17-19)
汗水流し、いばらやあざみと格闘して、苦しみつつ食を得る。
エジプトはまさに、そのような状態であった。イスラエルの民はその状態をなつかしんだが、それは世から奴隷としてこき使われ、一生苦労するパターンである。
『ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。』(申命記11:8-9)
礼拝説教メッセージ音声:主の力強さと恐ろしさ(申命記11:1-7):右クリックで保存
今回の箇所では、モーセは約束の地に入ろうとしているその世代に対し、主の民を虐げた者達に対して為された恐ろしい御業を、思い起こさせている。
『あなたがたは、きょう、次のことを知らなければならない。わたしが語るのは、あなたがたの子供たちに対してではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練と、主の大いなる事と、その強い手と、伸べた腕とを知らず、また見なかった。』(申命記11:2)
エジプトから脱出した当時の成人男性は、主の大いなる御業を見、体験しておきながら、主を信じず、主に逆らったため、ヨシュアとカレブを除いて、全て死に絶えてしまった。
モーセは言っている。主の訓練と、主の大いなる事と、その強い手と、伸べた腕とを経験したのは、他の誰でもなく、あなたがただ、と。
私達も、他の誰でもなく、私自身が、主の命じられた事を守り行うべきである。
主の力強い御手のわざが働かれるのを見て経験し、主の訓練を受けたからには、それなりの責任も問われるのだ。
『また彼らは主がエジプトで、エジプト王パロとその全国に対して行われたしるしと、わざ、また主がエジプトの軍勢とその馬と戦車とに行われた事、すなわち彼らがあなたがたのあとを追ってきた時に、紅海の水を彼らの上にあふれさせ、彼らを滅ぼされて、今日に至った事(をことごとく見た。)』(申命記11:3-4)
主は、イスラエルを400年もの間虐げてきたエジプトに、モーセを使わして警告を与え、それでも頑なにイスラエルを去らせようとしなかったエジプトを、十の災いで打ち、さらには、軍勢や馬、戦車でイスラエルを追い迫ってきた者達を、紅海の水で滅ぼした。
主は明確に、神の民とそうでない者とを区別され、主の民は主のプライドにかけて守り、主の民を虐げてきた者に対しては、いつまでも悔い改めないなら、恐ろしい災いを下されるのだ。
『またあなたがたがこの所に来るまで、主が荒野で、あなたがたに行われた事(をことごとく見た。)』(申命記11:3-4)
次にモーセは、イスラエルの一人一人が、荒野で実際に体験した、主の大いなるわざを思い起こさせている。
彼らは40年の間、日々、超自然的に与えられるマナによって養われ、40年もの間、彼らについて来た岩から水を飲み、着物も磨り減らず、足も腫れなかった。そして、昼は雲の柱、夜は火の柱によって守られ、導かれて来た。
彼らは奇跡そのものを食べ、飲み、着て、導かれて歩んで来たのだ。
私達も日々、主によって養われている事を、忘れてはならない。
主は、確かに衣食住の養いを下さるが、日々キリストにあって霊的なパンを、霊的な飲み物を私達に与え、それらによって養っておられる。
『わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。』(1コリント10:1-6)
いかに神の民として神に養われた経験があろうとも、悪をむさぼるなら、主は確かにその者を滅ぼされる。
モーセはその事を思い起こさせている。
『ルベンの子のエリアブの子、ダタンとアビラムとにされた事、すなわちイスラエルのすべての人々の中で、地が口を開き、彼らと、その家族と、天幕と、彼らに従うすべてのものを、のみつくした事などを彼らは知らず、また見なかった。しかし、あなたがたは主が行われたこれらの大いなる事を、ことごとく目に見たのである。』(申命記11:6-7)
ダタンとアビラムは、モーセからの話し合いの提示を無視し、自分の天幕に引き込んでいたが、主は、彼らの足元の地の口を開き、彼らの天幕ごと地の奥深く落ちて行かせ、生きたまま、よみに降らせた。
主は確かに、主の民を虐げる異邦人に対して災いを下されるが、主の民が主に逆らった場合に下される災いは、それより、もっと恐ろしいものである。
イスラエルの民は、それらを見たのだから、主を恐れ、主の教えを子々孫々に伝えなさい、とモーセは言っている。
私達も、主の恐ろしさと力強さ、そして、憐れみ深さと、愛に満ちておられるご性質を、周りの人達に、そして子々孫々に伝えるべきである。
