メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:神の民を見た時の感動(民数記24:1-13):右クリックで保存
『バラムはイスラエルを祝福することが主の心にかなうのを見たので、今度はいつものように行って”魔術”を求めることをせず、顔を荒野にむけ、目を上げて、イスラエルがそれぞれ部族にしたがって宿営しているのを見た。その時、神の霊が臨んだので、彼はこの託宣を述べた。』(民数記24:1-3)
バラムが託宣を求めるために、今までしてきた事は、結局、”魔術”だったようである。
彼は、主の御心は「イスラエルを祝福する事」であると明確に示されていたのに、「もしかしたら別の示しがあるかもしれない」と思って、バラクに言われるままに、あちらへ行ったり、こちらへ行ったりした。しかし結局、そうした全ては、無駄だと悟ったので、もはや魔術は止めにして、目を上げ、イスラエル12部族の宿営している様に目を向けたのだ。
彼が見たイスラエル六十万の宿営は、神の幕屋、すなわち神を礼拝する所を中心とし、そしてそれぞれの部族は、好き勝手な所に無秩序に住むのではなく、それぞれが主から定められた定位置に宿り、導きに従って進み、導きに従ってとどまっている。
そして、この隊形は、上から見ると巨大な十字架の形を成している。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1588 )
彼がその、壮大な十字の陣形を見た時、神の霊が臨んだ。
「ベオルの子バラムの言葉、/目を閉じた人の言葉、神の言葉を聞く者、/全能者の幻を見る者、/倒れ伏して、目の開かれた者の言葉。」(民数記24:3-4)
彼が語り出した言葉は、相変わらず「ベオルの子バラムとしての託宣」であるが、しかしそれは神の霊に促された言葉であり、その内容は、イスラエルへの祝福に満ちている。
『ヤコブよ、あなたの天幕は麗しい、/イスラエルよ、あなたのすまいは、麗しい。それは遠くひろがる谷々のよう、/川べの園のよう、/主が植えられた沈香樹のよう、/流れのほとりの香柏のようだ。』(民数記24:5-6)
私達は「これをせよ」という主の御心が明らかに示されているのに、それを中々為さなかったり、あるいは「これはするな」という主の御心が明らかに示されているのに、それを止められなかったり、という事がある。
主日の礼拝を守りなさい、とか、嘘をつく癖はもう止めなさい、とか、御心が既に示されているのに、「もう少しくらい良いだろう」と、だらだら先延ばしにしてしまったりいては、いつまで経っても、主の霊が臨む事は無い。
私達も、この時のバラムのように、御心に反する事は、もう止めにして、目を上げて十字架を仰ぎ見るならば、主の霊が臨み、次に為すべき事や歩むべき道が新たに示されるのだ。
バラムが見た、巨大な十字を描いているイスラエルの隊形は、何と壮麗壮大で美しかったことだろう。
彼は、イスラエルの民が、主の命令どおりの所に留まり、礼拝を中心として、導きに従って歩み、導きに従って留まる、その神の民としての歩みを見た時、神の霊感に動かされ、感動し、祝福せざるを得なかったのだろう。
バラムはその「はじめの感動」を、いつまでも保ち続けていればよかったのだが、残念ながら、そうではなかった。
私達キリスト者は、いつまでも礼拝を中心とした歩みを保ち続け、主の導きに従って歩み、主の導きに従って留まり、主イエスにあって神の民とされた「はじめの感動」を、バラムのように手放す事は決してせず、いつまでも保ち続けたい。
礼拝説教メッセージ音声:託宣を求めたがる人の罠(民数記23:13-30):右クリックで保存
『バラクは彼に言った、「わたしと一緒にほかのところへ行って、そこから彼らをごらんください。あなたはただ彼らの一端を見るだけで、全体を見ることはできないでしょうが、そこからわたしのために彼らをのろってください」。』(民数記23:13)
バラクは、預言者バラムの託宣が、期待外れだったので、それなら、今度は場所を変えてみたら、神はもしかして心を変えて、自分の思い通りの事を言ってくれるかもしれない、と思い、バラムを別の所へ連れて行った。
『そこでバラムはまたこの託宣を述べた。「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。神は人のように偽ることはなく、/また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。』(民数記23:18)
前回の一回目の託宣の時もそうだったが、バラムが言っている事は一見、預言のように見えるが、実はそうではなく「託宣(ヘブル語「マーシャール」:格言、決まり文句、寓話)」である。
彼の言葉が、それっぽく聞こえるのは、彼がヘブル詩形式で語っているからだ。
ヘブル詩には、同じ内容の事を平行して繰り返す特徴がある。例えば、「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」は、同じ内容を平行して繰り返しているし、「言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。」も、同様である。
聖書はこのような形式の言葉が多いため、バラムの言葉が、それっぽく聞こえるのである。
『祝福せよとの命をわたしはうけた、/すでに神が祝福されたものを、/わたしは変えることができない。』(民数記23:20)
このバラムの言葉を見ると、彼は「預言」を語っているのではなく、やはり「彼の格言」を語っているのだということが分かる。
なぜなら彼の言葉の源は、主ではなく、「わたし」(バラム)だからである。
預言の源は神であり、人はその届け人に過ぎない。
それ故、預言には神の権威に裏付けされた力があるが、それに対し、託宣の言葉の源は、その人であり、その人の権威程度の力しか無い。
バラムが「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」と語りかけている以上、この格言はバラクに対して語られたものであり、バラクは少なくとも、この格言に従うべきだった。
すなわち、神はイスラエルに祝福の約束をされており、それは決して変更する事なく必ず成し遂げ、そのイスラエルに手を出すなら、ただではおかない事を、バラクは悟り、神を恐れ敬うべきだった。
それなのにバラクは、この格言を聞いても、何も得る所が無かった。それは次の言葉で分かる。
『バラクはバラムに言った、「あなたは彼らをのろうことも祝福することも、やめてください」。』(民数記23:25)
この言葉には、悔い改めも、神への恐れ敬いも、一切無く、ただ、自分の思い通りに行かなかった事への苛立ちのみがある。
これが、託宣を求める者が陥る罠である。
いかに素晴らしい言葉を聞いても、気に入ったか、気に入っていないかの印象だけが残っていて、内容を全く得ていないのだ。
キリスト者の中にも、霊的指導者に、託宣や決まり文句、寓話の類を求めて来るような人がおり、そのような人は、「それっぽい」話を聞いたなら、それで良い気になって、しかし蓋を開けてみると、気に入ったか気に入っていないかの印象しかなく、内容がすっかり抜けてしまっていたりする。
しかし、忘れてはならない。
人が伝えられる最も良き言葉は、聖書の御言葉であり、御言葉を信じて実行する人のみが、主から祝福を得る事を。
そして、聖書の御言葉が示されたからには、たとい、ろばが語っていたとしても、それに聞き従わなくてはならない。
『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:2-4)
礼拝説教メッセージ音声:礼拝「もどき」の罠(民数記23:1-12):右クリックで保存
『バラムはバラクに言った、「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、その祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。』(民数記23:1-2)
バラクは、イスラエルを呪ってほしい、という自分の願いを叶えるために、バラムを雇ったが、その動機は、占いや呪術を求めて霊能者の元に通う人そのもので、主の御心を求めて預言者に聞く人の持つべき心とは、正反対を向いている。
占いや呪術の類に行く人の動機の源は、自分の欲望にあるが、主に御心を求めて預言者に聞きに行く人の心は、本来、自分には無く、主にあるはずである。
『バラムはバラクに言った、「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、その祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。』(民数記23:1)
祭壇を築いて、いけにえを捧げる事は、私達には「良いこと」のように思えるが、聖書をよく調べると、彼のしている事は、御言葉に適っていない事が分かる。
いけにえを捧げるべき祭壇は、唯一であり、それ以外に祭壇を築いて捧げる事は、御言葉に沿っていないのだ。(申命記12章、ヨシュア記22章)
人は思う。
祭壇でいけにえを捧げる事は「良いこと」で、それなら、祭壇を七つも築いて捧げるなら、主はもっと喜んで下さるのではないか、と。
しかし、人が思う「良いこと」には、呪いの罠が潜んでいる。
私達は、自分の思い描く「良い」と思うことよりも、御言葉を優先させるべきである。
人がそれぞれ「良いこと」を思い浮かべ、それぞれが邁進するなら、あの、士師記の荒んだ時代に突入してしまうのだ。(士師記18:1,21:25)
私達が捧げるべき祭壇、それは、十字架以外に無い。
私達の肉由来の全ての思い、御言葉に逆らう全ての意志、嵐のように波打つ感情の全てを、十字架に釘付けにし、キリストに服従させるなら、新しいいのちの復活の領域に入り、復活のいのちのパワーが働き、キリストのものとされ、もはや、世の何者も手出しできなくなるのだ。
『神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリント10:5-6)
『神がバラムに会われたので、バラムは神に言った、「わたしは七つの祭壇を設け、祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました」。』(民数記23:4)
人は主張する。
主よ、私はあなたのために、あなたの好きな祭壇を、七つ造りました、私はそこで何々を捧げました、と。
しかし、祈りの場面で「私はあれをしました、これをしました」と自己主張する事は、パリサイ人の道である。
『自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。』(ルカ18:9-14)
『バラムはこの託宣を述べた。「バラクはわたしをアラムから招き寄せ、/モアブの王はわたしを東の山から招き寄せて言う、/『きてわたしのためにヤコブをのろえ、きてイスラエルをのろえ』と。神ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。主ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。』(民数記23:7-8)
バラクの思いは、イスラエルを呪って欲しい、だった。
しかし、全能なる神の御心は、イスラエルを祝福せよ、である。
主の御心が「祝福せよ」であるなら、いかに世の有力な王が大金を積んでも、いかに有能な預言者が呪おうとしても、主が、そうはさせないのだ。
祭壇をたくさん築けば良い、というものではない。
いけにえをたくさん捧げれば良い、というものではない。
大金を積めば良い、というものではない。
主が喜ばれるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。(詩篇51:17)
「主はその御言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。」(1サムエル15:22-23)
御心を外した祭壇構築や、いけにえの数々、費やした金銀は、無駄以外の何者でもない。
大切なのは、砕かれた悔いた心をもって、御言葉に聞き従うことである。
礼拝説教メッセージ音声:御言葉の剣の前に(民数記22:31-41):右クリックで保存
『このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。』(民数記22:31)
バラムは、目が塞がれていた。富と名声を得ようという貪欲さによって。
人は、内から湧いてくる肉的な要因によって、真理が見えなくなってしまう事がある。
ハガルの場合は、水が切れた事の心配と絶望感で目が塞がれ、近くに井戸があるのが見えなかった。(創世記21章)
エマオの途上の二人の弟子も、イエス様が十字架につけられた事へのショックと、これからの心配とのゆえに目が塞がれて、目の前にイエス様が現れたのに、しかも、イエス様がずっとお語りになっていたのに、イエス様だと気づかなかった。
そしてバラムの場合、欲に目が眩んでいたがために、ろばに見えていた御使いが、見えなかった。
私達は、真理を見えなくさせてしまう、肉的な思いや諸々の心配事を、主の御前に取り扱っていただく必要がある。
『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
ここは欽定訳聖書では「because thy way is perverse before me(あなたの道は私から踏み外れていたから)」とあり、私達も、主の道から踏み外れてしまうと、今まで味方だった主は、今度は敵対して立つ事になってしまう。
『ろばはわたしを見て三度も身を巡らしてわたしを避けた。もし、ろばが身を巡らしてわたしを避けなかったなら、わたしはきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう」。』(民数記22:33)
バラムは剣でろばを殺そうとおもったが、実はバラムは、このろばのおかげで剣で殺されずに済んでいたのだ。
主の剣が立った時は、どうするのが良いか。
ヨシュアが模範的な対応をしている。
『ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:13-14)
ヨシュアが目の前にそびえ立っているこの堅固な町を、どう攻略しようかと頭がいっぱいとなっていた時、彼は知らない間に、主の軍勢の将さえも「自分の味方につくかか、それとも敵につくか」という、自分にとって損か得の秤にかけてしまっていた。
しかし主は、そのような自分主体の質問には「いや」と応え、そしてご自分の聖なる立場をお示しになる。
ヨシュアにそれが示された時、彼は実に正しい対応を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:14)
彼は地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って、主従関係を明らかにし、「何を告げようとされるのですか」と言って、主の言葉を待った。
すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じられた。
私達が世の中を渡り歩く時、様々なほこりや汚れを付けて来る。
世の人の、良からぬ思いや、世的な価値観など、そうした罪や汚れを付着させてしまう。
私達が主の御前に出る時は、そうした世的な汚れやしがらみという履物を脱ぎ捨てて、出る必要がある。
みことばの剣は、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うには、あまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ御言葉に従順するかどうかが試され、そして従順する時、私達はあらゆる問題に対する解決が与えられるのである。
ヨシュアは、御言葉の通り忠実に実行し、そうして大勝利を収めた。
主の剣は御言葉であり、敵を切り裂くか、それとも自分を切り裂くかの「諸刃の剣」である。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4:12)
この諸刃の剣を正しく用いる方法は、御言葉に従順し服従する事以外に、無い。
聞き従い服従する人にとっては、御言葉は勝利の剣であるが、主を軽んじ自分の肉欲によって歩む者には、自らを傷つける災いの剣となってしまうのだ。
礼拝説教メッセージ音声:しゃべり出すろば(民数記22:21-30):右クリックで保存
『明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。バラムは、ろばに乗り、そのしもべふたりも彼と共にいたが、ろばは主の使が、手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見、道をそれて畑にはいったので、バラムは、ろばを打って道に返そうとした。』(民数記22:21-23)
バラムは、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっているのが、見えなかった。
彼は、「呪うものは呪われ、祝福する者は祝福される」と言われている程の、著名で力ある預言者だと言うのに、ろばにさえ見えていた主の使いと抜き身の剣が、見えていなかった。
いかに有力で著名な預言者と言えども、欲に目が眩み、富と名声を手に入れようと奔走しだすなら、動物のろばが見えるものさえも、見えなくなってしまうのだ。
主の剣は御言葉であり(エペソ6:17、ヘブル4:12)、私達は常日頃、この御言葉に目を留め続ける必要がある。
そうでないと、私達が御心に反して、主が剣を立てて立ちふさがっている時、何も見えなくなってしまい、そのまま滅びへと邁進してしまうのだ。
バラムが行こうとした道は、不義の報酬を愛する道であり、主の御言葉を取り次ぐ「預言者」にとって、不義の富を追い求めて御言葉を脇に押しやる事は、「気違い沙汰」なのである。(2ペテロ2:15)
主は、どのようにして、彼の気違い沙汰を止めたか。
それは、物言わぬろばが口を開き、人間の言葉を語る事を通して、である。
『主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。ろばはまたバラムに言った、「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」。バラムは言った、「いや、しなかった」。』(民数記22:28-30)
有り得ない事に、ろばは人間の言葉で物を言った。
しかしバラムは、何の不思議も無く、普通にろばと会話した。
それ程彼は欲に目が眩んでいて、富と栄誉を得るために奔走するのに必死だったのだろう。
彼は、自分の思い描いた通りに動かないろばに大きな怒りを燃やし、ろばから「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」と問われるまで、主の道に反していた事も、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっていた事も、気づかなかったのだ。
主は、エルサレムに入られる時、ろばを召し入れるために言われた。
『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう。』(マタイ21:2-3)
イエス様は、ろばがお入り用になった時、これこれのろばが、これこれの場所にいるから、縄をほどいて、連れて来なさい、と言われた。
主が私達を召しだされた時も、同じだったのではないだろうか。
ろばが主のもとに連れて行かれる時、誰かが何かを言っても、「主がお入り用なのです」と言わせて、誰も、主のもとに行かせるのに、邪魔しないようにして下さる。
私達は、イエス様をお乗せする「ろば」のようなものであるが、時に私達も、普段仕えている預言者が、欲に目が眩んで気違い沙汰に陥る事があるかもしれない。
彼を乗せて、主の剣が立っている所へと、鞭打たれながらも邁進して行かされてしまうような事があるかもしれない。
そのような時、主の剣が立っているのが見えたのなら、怒られようとも、呪われようとも、立ち止まるべきである。
その預言者の気違い沙汰を防いで、いのちを救うために。
いかに相手が、それまで支えてきた著名な預言者であろうとも、主は、ろばを弁護して下さったように、私達のほうを弁護して下さるのだ。
バラムのような気違い預言者を載せるろばではなく、イエス様をお乗せして運ぶろばとして、大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ひと度示された御心に(民数記22:9-20):右クリックで保存
神様は、御言葉によって、御心が何であるかを必ず人に示される。
人にとって真の幸いとは、一言、御言葉に服従する事であり、そしてまた、世の全ての不具合や不幸の原因は、一言、御言葉から逸れているからに、他ならない。
「罪」という言葉のギリシア語「ハマルティア」は、元々「的外れ」という意味であり、罪とはすなわち、御言葉という真理から外れているという事である。
人が幸いになるか、それとも滅びに至るかの法則は、シンプルである。
つまり、御言葉に従ったか、それとも反したか。
この法則は、エデンの園以来、一貫して変わっていない。
『神はバラムに言われた、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。』(民数記22:12)
ここの場合、バラムが服従すべき御言葉とは「彼らと一緒に行くな」であり、それを守るなら、バラムは幸いを得、破るなら、呪いを受ける。
実に単純明快ではあるが、人は何かと、自分の好む事をしたくてうずうずしており、その「うずうず」を抑えきれない人ほど、災いと恥が絶えない。
バラムはひと度、御心に従い、モアブの使者たちとは一緒に「行かなかった」。
しかし、モアブの王は、今度はさらに身分の高い人達を遣わし、大いに優遇する事を約束して彼を誘ってきた。
『しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。』(民数記22:18)
ここを読む限り、バラムはとても立派な事を告白している。
そこで終わっていたならいいものを、しかし彼は、次の節の言葉を混ぜ込んでしまったが故に、滅びへと一歩、足を踏み入れてしまった。
『それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。』(民数記22:19)
主の御心は、元々、「行くな」だった。
しかし彼は、自分の中で芽生えた「行きたい」という思いの故に、今回、神はもしかしたら御心を変えられて、「行け」という自分の好む言葉を出してくれるかもしれない、と思ったのだ。
『夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。』(民数記22:20)
主は彼に「行きなさい」と言われた。
しかしそれは、主がモーセに「約束の地へ行け」と言われたような「積極的命令」とは、程遠い。
主は、御心に逆らう自由も人に与えられる。
そして人は、その御心に反した行動をした結果の報いを、きっちり刈り取る事になってしまうのだ。
私が高校時代の、ある試験前の土曜日の事である。
私は、いつも土曜に遊ぶ友人とは遊ばず、勉強しよう、と思っていたのに、友達は「いつもどおり遊ぼう」と誘ってきた。
私はその時、「神様、これからサイコロを振ります。偶数なら行かない、奇数なら行く、と、御心を示して下さい」と祈って、サイコロを振った。
出た目は、偶数だった。
それで友人に、やっぱり行けない旨を伝えたが、友達はさらに誘惑し、私に遊ぼうと誘って来た。
それで私は、もう一度、サイコロを振って見た。
出た目は、奇数だった。
それで私は、遊びに行った。
結局、思っていた通りの勉強が出来なかったため、テストの結果は当然、良くなかった。
さて、この時の私は、サイコロに奇数を出させた神様を、責める権利はあるだろうか?
当然、無いはずである。バラムのように、御心を再トライした私が悪かったのだ。
しかし、なんと多くの人が「あの時サイコロを奇数に出させた神が悪い」などと言って、自分の責任を転嫁している事だろうか。
もし私達に「行くな」という御心が示されたのなら、
行かない。「行け」という御心が示されたのなら、行く。
そこに「でも」や「だって」を混ぜこんだり、御心を再トライしたりすると、シンプルだった物事はややこしくなり、失敗してしまうものなのだ。
礼拝説教メッセージ音声:霊的な攻撃(民数記22:1-8):右クリックで保存
民数記22章から24章までの箇所は、イスラエルの敵であるモアブ陣営の側の出来事が記されている。
『彼(モアブの王)はアンモンびとの国のユフラテ川のほとりにあるペトルに使者をつかわし、ベオルの子バラムを招こうとして言わせた。』(民数記22:5)
このベオルの子バラムは、イスラエルの神・主から託宣を聞いたりするので「預言者」と記されているが、2ペテロを見ると、「欲に走った気違い沙汰の預言者」と記されており、また、不義の富を愛して迷いに陥る事を「バラムの道」としている。(2ペテロ2:14-16)
モアブの王はバラムに言っている。
『エジプトから出てきた民があり、地のおもてをおおってわたしの前にいます。どうぞ今きてわたしのためにこの民をのろってください。彼らはわたしよりも強いのです。そうしてくだされば、われわれは彼らを撃って、この国から追い払うことができるかもしれません。あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることをわたしは知っています。』(民数記22:5-6)
イスラエルを脅威に感じたモアブは、イスラエルとまともに戦っても勝ち目がなさそうだと見て、バラムという著名な「預言者」を金で雇い、イスラエルを呪わせようと「霊的攻撃」に出て来たわけである。
呪い。それは、福音の無い異教的な地域においては、今だに有効な攻撃手段として用いられている。
この世界は、現実として目で見れる表層世界と、目には見えない霊的世界とがあり、前者は、後者によって成り立っている事を、忘れてはならない。
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント4:18)
故に、霊的な戦いは目に見える世界の戦いよりも重要であり、御霊による祈りこそ、霊的に有効な攻撃の武具である。
預言者ダニエルはその事を十分に知っており、祈りの重要性を熟知していた。
ダニエルは、バビロンの捕囚から70年が満ちる時、イスラエルは主の憐れみを受けて帰還する事を、エレミヤの預言によって悟ったが、彼は、その時が来るのをただ指折り数えて待つのではなく、断食し、イスラエルの罪を告白し、執り成して祈った。
すると、天では、彼が祈り始めた最初の日以来、彼を助ける御使いと、それを邪魔しようとする悪魔との霊的な戦いが起こった。(ダニエル10:12-14)
それ程、私達が主に執り成し祈る事、罪を告白して悔い改める事は、霊的世界では重要な事なのだ。
世はときに、私達・キリスト者よりも、霊的な攻撃の有用性を熟知している。
イスラエルが、いのちの領域へと足を踏み入れ、物理的に勝利し、地歩を確保して行ったとき、敵は、「呪い」という霊的な攻撃を仕掛けてきたが、同じように、私達も、いのちに立って祝福と幸いを得だした時、こそ、敵は霊的攻撃を仕掛けてくるものである。
それなのに、なんと多くのキリスト者達はその事を知らず、祈りという霊的な攻撃の有用性を、知らないでいる事だろう。
神の祭司として、また、主にある預言者として、絶えず霊的な目を覚まして御霊によって祈りなさいとエペソ6:18にあるため、私達は主にある兄弟姉妹や教会の祝福を祈り、自分の家や職場に対して祝福を祈り、そして、主の敵に対しては呪いを宣言すべきである。
『最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。』(エペソ6:10-18)
礼拝説教メッセージ音声:約束の地で最初に勝ち取った領土(民数記21:10-35):右クリックで保存
荒野の放浪も、終盤に差し掛かってきている。
『イスラエルの人々は道を進んでオボテに宿営した。またオボテから進んで東の方、モアブの前にある荒野において、イエアバリムに宿営した。またそこから進んでゼレデの谷に宿営し、さらにそこから進んでアルノン川のかなたに宿営した。アルノン川はアモリびとの境から延び広がる荒野を流れるもので、モアブとアモリびととの間にあって、モアブの境をなしていた。』(民数記21:10-13)
彼らはエドムの地を迂回するため、死海の東岸の方へ向かい、ゼレデの谷(死海南端から南東方面へ続く谷)からモアブの地を北上した。
主はそこで、井戸を与えて下さり、イスラエルの民は主の恵みに喜びの歌を作って歌っている。(17-18節)
民のそのような自主的な賛美も、今まで見られなかった事であり、荒野の生活で心が整えられて行った事が分かる。
『そして彼らは荒野からマッタナに進み、マッタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、バモテからモアブの野にある谷に行き、荒野を見おろすピスガの頂に着いた。』(21:18-20)
死海北端の東には海抜約八百メートルのネボ山があり、そのエリコに面した頂上は、「ピスガの頂」と呼ばれている。
そこからは、ヨルダン川の向こう側の「約束の地」を一望することができるが、モーセは主に逆らったため、ヨルダン川を超えて約束の地に入る事は許されていない。
『ここでイスラエルはアモリびとの王シホンに使者をつかわして言わせた、「わたしにあなたの国を通らせてください。わたしたちは畑にもぶどう畑にも、はいりません。また井戸の水も飲みません。わたしたちはあなたの領地を通り過ぎるまで、ただ王の大路を通ります」。しかし、シホンはイスラエルに自分の領地を通ることを許さなかった。そしてシホンは民をことごとく集め、荒野に出て、イスラエルを攻めようとし、ヤハズにきてイスラエルと戦った。』(民数記21:21-23)
イスラエルは、エドムの時と同様、通行許可を求め、平和の内に通過しようとするも、アモリ人シホンはそれを許さず、武力で向かってきた。
その時、それは災いに見えたかもしれない。しかし結果から見れば、それは幸いであった。
イスラエルの民はその戦いで勝利し、シホンの方面を制圧し、後にはその地方は、ルベン族、ガド族の相続地となった。
『モーセはまた人をつかわしてヤゼルを探らせ、ついにその村々を取って、そこにいたアモリびとを追い出し、転じてバシャンの道に上って行ったが、バシャンの王オグは、その民をことごとく率い、エデレイで戦おうとして出迎えた。主はモーセに言われた、「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその民とその地とを、ことごとくあなたの手にわたす。あなたはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように彼にもするであろう」。そこで彼とその子とすべての民とを、ひとり残らず撃ち殺して、その地を占領した。』(民数記21:32)
彼らはさらに北上したが、そこでも、バシャンの王オグは迎撃に会ったが、イスラエルは返り討ちにし、そうして、ガリラヤ湖南岸付近に至るまでのヨルダン川東側地域を占領した。そこは後にマナセ半部族の相続地となる所である。
このようにして、イスラエルは、約束の地で勝ち取った初の領土を得た。
そのきっかけは、いずれも、敵の攻撃であった。
神の民にとっては、ただ災いで終わるものは何一つ無い。
主イエスにあって対処するなら、いかに災いに見えるような事でも、全ての事は、益とされるための布石となるのだ。
主により頼んでいる私達は、時には敵の側から攻撃を受ける事がある。それは一見すると、災いであるかのように見えるかもしれない。
しかし御言葉と信仰をもって前進するなら、その方面を平定し、支配し、もはやその方面からは一切の攻撃を受けなくなるための、チャンスとなるのだ。
『あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:35-39)
礼拝説教メッセージ音声:荒野で蛇を上げる(民数記21:1-9):右クリックで保存
三十八年、荒野での養いを受けた民は、着実に変わってきている。
『時にネゲブに住んでいたカナンびとアラデの王は、イスラエルがアタリムの道をとおって来ると聞いて、イスラエルを攻撃し、そのうちの数人を捕虜にした。そこでイスラエルは主に誓いを立てて言った、「もし、あなたがこの民をわたしの手にわたしてくださるならば、わたしはその町々をことごとく滅ぼしましょう。」主はイスラエルの言葉を聞きいれ、カナンびとをわたされたので、イスラエルはそのカナンびとと、その町々とをことごとく滅ぼした。それでその所の名はホルマと呼ばれた。』(民数記21:1-3)
イスラエルの民が、今までにない事をした事に、皆さんは気づかれただろうか。
今までイスラエルの民は、信仰な事は全部、モーセにおんぶにだっこ状態で、時には逆らってさえいた。
しかし今回の問題が起きた時、彼らは自主的に主に誓いを立て、信仰をもって戦いへと進み出て、そして、勝利したのだ。
実は彼らがいる場所、ホルマは、38年前にも来た事があった。
それは、あの十二人の斥候の報告で民が不信仰に陥り、荒野での三十八年の放浪が決定してしまった時である。
彼らはその時、御心に逆らい、身勝手にカナンへ攻め込んで行こうとして、逆に返り討ちに遭い、ホルマまで敗走して来たのだ。(民数記14:39-45)
三十八年前、イスラエルの民は、不信仰と不従順の故に行って、ホルマでカナン人に滅ぼされた。しかし今や、彼らは信仰によって主に誓願し、信仰によって戦いに出て、同じ場所で見事、リベンジを果たしたのだ。
しかし、彼らはその直後、またもやつぶやきに陥ってしまう。
『民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。』(民数記21:4-6)
「火のへび」は「(燃えるような)激しいへび」とも訳す事ができる。
パレスチナの荒野には、このような危険な動物が他にも潜んでいるものだが、イスラエルが正しく主に導かれている限り、主は、彼らをそのような危険な動物から守っておられた。
彼らは、前章でもつぶやいているのに、主はその時は罰する事はせず、岩に命じて水を出すようモーセに指示している。
なぜ今回、主は民をは罰したのか。それは、今回彼らは主が与えて下さる恵みの食物・マナを、「粗悪な食物」呼ばわりしているからだ。
主は人に必要なものは与えてくださるが、主が与えてくださった恵みを侮る事は、許されない。
『民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。』(民数記21:7)
彼らは、ここでも、今までにない事をしている。
すなわち、自分たちが主に対し、モーセに対し、罪を犯した事を、はっきりと告白し、そして災いが取り去られるように、祈りを要請している事だ。
信じられない事かもしれないが、荒野の旅が始まった民数記9章以来、民が罪を犯し災いが与えられた時に、自分の罪を告白してモーセに執り成しを要請した記事は、残念ながら一つも見いだせない。
民数記14:40では、「自分たちが罪を犯した」と言っているものの従順は一切見られず、さっさと身勝手な事をし出したし、また、他の災いに遭った箇所でも、ただ「わめいた」とか、「何人が倒れた」とか、災いが災いのまま終わっているだけである。
今回、彼らは自分の側に過ちがあり、神とモーセに逆らった事を告白して認め、そして、祈ってくれるように要請する、という、斬新(?)な事をした。
私達も、不従順の故に災いを受け、その受けた災いを、ただそのまま、にしていないだろうか。
私達は自分の罪を、はっきりと主の前に(誰かに損害を与えたなら、その人に対しても)告白し、悔い改め、御言葉に従順する、という過程を経なければ、災いをただ受けっぱなしの状態を、続けてしまうのである。荒野の民は、三十八年も、ずっとそうだった。
今回主は、民が悔い改めた事を受け、救いの方法を示して下さった。
『そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。』(民数記21:8-9)
木の上に掛けられた、青銅の蛇を仰ぎ見ると、へびに噛まれた者も、その毒が無効化されて、生きる。
これは、イエス・キリストの十字架を表している。
イエス様はニコデモに言った。
『モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。』(ヨハネ3:14)
荒野の民が、木に掛けられた蛇を仰ぎ見て救われたように、全人類は、十字架の木に掛けられたキリストを仰ぎ見、信じるなら、救われて命を得るのである。
蛇はサタンの象徴であり、サタンは全人類に罪という毒を導入し、その影響を受けているアダムの子孫は、死ぬしかない存在となった。
木にかけられた者は、呪われた者となる(申命記21:23、ガラテヤ3:13)が、サタンの象徴である蛇は、荒野で木にかけられ、呪われた者となり、それを仰ぎ見た荒野の民の蛇の毒は、無効化された。
同じように、全人類は、「罪そのもの」(2コリント5:21)とされて罰されたキリストを仰ぎ見、信じる事によって、罪という毒は無効化され、いのちを得るのである。
キリストの十字架を仰ぎ見て信じる以外に、救いはない。
『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:15-18)
礼拝説教メッセージ音声:大祭司アロンの死(民数記20:22-29):右クリックで保存
イスラエルがエジプトを脱出する以前から、ずっとモーセと共に働いて来た、あの大祭司アロンが、いよいよ死ぬ時が来た。
『主はエドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンに言われた、「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエルの人々に与えた地に、はいることができない。これはメリバの水で、あなたがたがわたしの言葉にそむいたからである。あなたはアロンとその子エレアザルを連れてホル山に登り、アロンに衣服を脱がせて、それをその子エレアザルに着せなさい。アロンはそのところで死んで、その民に連なるであろう」。』(民数記20:23-26)
イスラエルがエジプトを出て、四十年目の一月には、ミリアムが死に、第五の月一日にアロンが死に、そして、同じ年の内に、モーセも同様に先祖の民の元へと集められる事になる。
走るべき道のりを走り終えて、定められたいのちを全うした人は、「連なるべき所」へと集められ、古きは過ぎ去って行き、そうして世代は新しくなって行く。
この事を見る時、虚しさや悲しさを覚えるかもしれないが、彼ら神の民が行く先は、どういう所か。
この「先祖の民に連なる(口語訳)」「先祖の列に加えられる(新共同訳)」「shall be gathered unto his people (KJV)」という独特の言葉は、アブラハムやイサク、ヤコブ、ヨセフが死ぬ時も用いられている。
神の民が連なる先、そこには、アブラハムがおり、イサクも、ヤコブもいる所、天の大祝会であり、私達の主・イエス様が、その祝会の主人である。
『あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。』(ヘブル12:22-24)
出エジプトの民が目指す約束の地は、確かに、乳と蜜の流れる良き地ではあるが、それは天の影、天の模型であり、完全なる桃源郷ではない。
事実、ヨシュアとその世代は、主に従順した故にその地で栄えたが、後の世代は、主に逆らったため、モーセやアロンが切望したこの地に居ながらにして、そこを呪いの地、災いを受ける地としてしまった。
ヨシュアはイスラエルの民を、真に安息の地に入らせたわけではない。
真の安息の地は、別にあるのだ。
『もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル4:8-9)
真の安息の地は、天にあり、そしてそこは、キリストを信じる私達が入るために残されているのである。
『モーセは主が命じられたとおりにし、連れだって全会衆の目の前でホル山に登った。そしてモーセはアロンに衣服を脱がせ、それをその子エレアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。そしてモーセとエレアザルは山から下ったが、全会衆がアロンの死んだのを見たとき、イスラエルの全家は三十日の間アロンのために泣いた。』(民数記20:27-29)
人間の祭司は、完全につとめを果たし続ける事は出来ない。
食事や睡眠などのために中断しなくてはならないし、また、アロンが度々罪あやまちを犯したように、人には「罪」があるため、完全な勤めは出来ず、そして、「死」という事があるため、永遠に勤め上げられない。
だから人には、完全なる祭司・キリストが必要なのである。
『イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:22-28)
結局、人間が出来る最上の執り成しは、人を真の大祭司なるイエス様の元へと導く事である。
