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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:見ていると怒りがこみ上げてくる「泣き顔」(民数記11:10-15):右クリックで保存

タブエラでの主の懲らしめを無視するかのように、民は早速、つぶやきを再開した。
『モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。』(民数記11:10)

整然と十字の形の隊列を組んだ、主が住まわれる陣営、汚れた者の立ち入りを許さぬ聖なる陣営の、至る所で、肉欲が満たされぬ事を悲しむ人々が、泣いている。
それはなんと醜く、主の怒りを引き起こさせ、主に忠実に従おうとする人々を、なんと気落ちさせた事であろうか。

美しい涙と、醜い涙がある。
自分の中にある罪を悲しみ、主の元で悔いる涙は、美しい。
しかし、自分の欲望が満たされなかった事を悲しむ涙、思い通りに行かない事を嘆く涙は、醜い。その泣き顔は、神と人との怒りを引き起こす。
モーセはその醜い涙を見て、かつて無い程の「不快」な思いをした事が、彼の続く言葉から察せられる。

『わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。』(民数記11:13)
人が霊的養いを受けてますます良くなり、健全になり、罪から離れ聖なるものとされて行く様が見れるのなら、どんな骨折りもいとわない、というのが、主の働き人である。
しかし、主の働き人であればあるほど、人の汚れた肉欲を満たしてさし上げるために奔走し、その人の罪や傲慢さが、つけ上がりの度合いが、日々育っていく様を見るのは、耐え難い苦しみである。

「人に仕える」事が、主の働き人のつとめだと、勘違いしている人がいる。
しかし、主の働き人は、人の肉欲に仕えるのではない。「主に」仕える人である。
だから、主への奉仕を阻害するタイプの人への奉仕は、人の罪を増し加えるだけであり、即刻、切り上げるべきである。

『わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。』(民数記11:14)
モーセは当然、二百万もの人々を満たすような「肉」は、持っていない。
それなのに、人々はそれが必要だと要求する。
それでモーセは主に、こんな「重荷」はとても背負いきれない、こんな「仕打ち」をされるくらいなら、むしろ「殺して下さい」とまで言った。

私達も時に、似たようなジレンマに陥る事がある。
例えば、子供を養育するためにお金が必要である。でも、どう絞っても、無い。そんな事なら、むしろ、殺して下さい、と。
しかしキリスト者は、必要の満たしを「どこから」得ようかと奔走するのではなく、「どなたから」必要の満たしが得られるのかという信仰を、いつも持つべきだ。

主は、私達が思い煩うよりも前から、既に、私達の事を心配しておられ、必要なものを全て備えて下さるお方である。
『だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』(マタイ6:31-34)
主は今、私達の主であるが、明日の主でもある。
その主に、呼び求めるべきである。

多くの民が至る所で、肉欲が満たされぬ事を悲しんで流したその涙は、主を怒らせ、モーセに死ぬほど嫌な重荷を負わせたような感覚を与えた。
民のその涙は、主の御心よりも自分の欲望を優先させたいという表明であり、エジプトが、世が、罪の飲み食いが、奴隷状態が、なつかしい、という告白であり、主の恵みへの否定であった。
モーセはいつまでも一方的に重荷を負わされ、民はいつまでも一方的に不平不満をぶちまける、という事が、延々と続くのだろうか?
主は、それを許されない。
その事を、次回以降に見て行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:つぶやきと災い、そして再び、つぶやき。(民数記11:1-9):右クリックで保存

前章までの民数記は、壮大で驚くべき内容が多かった。
しかしこの章以降、読んでいてがっかりするような、怒りや悲しみが湧いてくるような、そして、恐ろしい内容が、多くなる。

前章までは、主が命じられた事を、民は反発もなく実行していた。
主に命じられた通りに守り行った結果は、必ず、良きものであり、美しく、壮麗壮大なものである。
しかし、人が主の命じられた通りに行わず、人の好き勝手に行った結果は、必ず、悪しきものであり、それは醜く、人を気落ちさせ、怒りや悲しみをあおるものである。
そして、そのような事を改めずに押し通そうとする者の最後は、恐ろしいものである。

『さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。』(民数記11:1-3)

荒野の行進がいよいよ始まり、その様は壮麗なものだったが、それも、人々の「つぶやき」によって、台なしになってしまった。
主は人々のつぶやきを聞いて怒り、宿営の端を焼いた。
主が焼いたのは、宿営の中央ではなく、端、である。
そして、この災いで、誰かが殺されたという記録が無い事から、最小限の被害で、つぶやきを止めるようにという警告を、主は与えられたのだろう。

民はこの時、驚きあわてて、主にではなく、人間指導者モーセに願い、モーセの祈りによって、火は鎮まった。
このように、直接主に向かおうとせず、モーセや牧師のような人間霊的指導者におんぶにだっこ状態の人は、心から悔い改めるという事が難しい。
事実、この災いがあったというのに、なんとその直後、次の節で早速つぶやきを再開する。

『また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。』(民数記11:4)
エジプトを出てきたこの集団は、皆が皆、イスラエル人ではない。「多くの寄り集まりびと」が雑多に混じっていた。
彼らが真っ先に「ああ肉が食べたい」と叫び出し、それを見聞きしたイスラエル人も、情欲が掻き立てられ、連鎖反応的に、宿営の中に叫びが広がっていったのだ。

『われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。』(民数記11:5)
彼らは「ただで」と言っているが、果たしてそうだっただろうか。
彼らは奴隷として、息もつかせぬ重労働の内にエジプトに搾取され、将来も希望も一切無い状態だった所を、主が救い出して下さったというのに、その事がすっぽり抜けてしまっている。
また、彼らは具体的な野菜名を上げているが、それらはいずれも刺激があり、食欲をそそるものである。
「梅干し」と聞くと唾液が分泌するように、イスラエルの民は、この野菜名を聞いて、肉欲が刺激されたのだろう。

このような手段で聖徒をそそのかす人は、現代にも、いる。
私達はかつて、サタンの奴隷状態で、罪の結果の重労働と悪しき者の搾取の中、将来に何の望みも見いだせない所を、主によって救い出され、祝福の将来と永遠の希望が与えられた。それなのに、主が良くしてくださったそれら良き事を、すっぽり除外して、以前の肉欲の刺激そそる退廃的な生活を口に出して、なつかしむような人が。
私達はそのような者には要注意であり、彼らに耳を貸したり同意したりしてはならない。

『しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。』(民数記11:6)

しまいに彼らは、主が毎日欠かさず与えて下さっている恵みに、ケチをつけている。
サタンがエバを誘惑する時も、初めは、御言葉に疑いを持たせるような毒を小出しに混ぜ、次に肉欲をそそり、あたかも主は良いものを出し惜しみしているかのような疑いを起こさせ、そしてしまいには御言葉を全面否定し、そうしてエバを堕落へと引きずり込んだ。
サタンが人を堕落させるパターンは、そのようなものである。
私達はこのサタンの誘惑のパターンを知り、注意して回避すべきである。

『マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。』(民数記11:7)夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。』(民数記11:7-9)

マナその性質は、主が日々与えて下さる恵みの性質であり、御言葉の性質であり、私達が日々必要とするものである。
それは朝の一定の時間に集めなければならなかったように、主の恵みにも拾うことの出来る時期があり、その時期が過ぎてしまうと、もう拾えなくなってしまう。
それは1週間ごとでも1ヶ月ごとでもなく、1日ごとに集めなければならない。
御言葉は朝ごとに新しく、1週間前に御言葉を得たから暫くは摂らなくて良いというものではないし、また、人の必要は日々変わるように、その人に必要な御言葉もまた、日毎に変わる。

マナには色々な料理方法があったように、御言葉も、人はそれぞれの生活、仕事、状況に応じて「料理」し、世界中の人が、それぞれの場面で、必要な霊的ないのちの養いを受けている。
きっと荒野では、あそこのお母さんが焼いたマナせんべいはとてもおいしい、という会話が、取り交わされたであろう。
同じように私達も、霊的に成長していない人には、御言葉を食べやすいように料理して養う働きも、ある程度は必要であるが、最も望ましいのは、個人個人が直接、主から御言葉をいただき、養いを得る事である。

私達はこの御言葉による養いを絶やしてはならない。
世の刺激にではなく御言葉の良さに目を留め、信仰の創始者であり完成者であるイエスキリストから目を離さぬ歩みをしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ただ罪の告白だけの祈り(エズラ記9:10-15):右クリックで保存

【概要】

エズラ記9章10節から15節におけるエズラの悔い改めと告白の祈りを通じて、神の命令を破ったイスラエルの民の罪を告白し、神の憐れみを求める姿勢を学ぶ。

【聖書箇所】

エズラ記9章10節から15節

【悔い改めの促しの言葉】

エズラの祈りは、神の命令を破ったことを深く悔い改め、神の前に自らの罪を告白する姿勢を示しています。私たちも自分の罪を認識し、神に告白することが求められています。

【***詳細***】

エズラ記9章10節から15節は、エズラがイスラエルの民の罪を神に告白する祈りの場面です。エズラは、イスラエルの民が神の命令を破り、異邦人との結婚を通じて神の忌み嫌う行いを行ったことを告白します。彼は、神が預言者たちを通じて警告していたにもかかわらず、民がその命令を無視したことを認めます。

エズラは、神がイスラエルの民に与えた地が異邦人の忌み嫌うべき行いによって汚されていることを指摘し、異邦人との結婚を禁じる神の命令を再確認します。「だから今、あなた方の娘を彼らの息子に訪がせてはならない。また、彼らの娘をあなた方の息子にめとってはならない。」(エズラ記9:12)

エズラは、神がイスラエルの民に対して本来の刑罰よりも軽く罰してくださったことに感謝しつつ、再び神の命令を破ることの危険性を訴えます。「私たちは再びあなたの命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。」(エズラ記9:14)

エズラの祈りは、神の前に立つことができない自分たちの罪深さを認識し、神の憐れみに頼る姿勢を示しています。「イスラエルの神、主、あなたは正しい方です。誠に今日あるように、私たちは逃れた者として残されています。」(エズラ記9:15)

この祈りは、神の前に自らの罪を告白し、神の憐れみを求めることの重要性を教えています。エズラは、神の命令を破ったことを深く悔い改め、神の前に自らの罪を告白する姿勢を示しています。

【結論】

エズラの祈りは、神の命令を破ったことを深く悔い改め、神の前に自らの罪を告白する姿勢を示しています。私たちも自分の罪を認識し、神に告白することが求められています。神は真実で正しい方であり、私たちが罪を告白するならば、許してくださる方です。エズラの祈りを通じて、神の憐れみと許しを求める姿勢を学びましょう。

礼拝説教メッセージ音声:先だって進む主の契約の箱(民数記10:29-36):右クリックで保存

モーセは義理の兄弟であるホバブに、一緒に行くよう勧めた。
彼は、モーセが40歳から80歳の時までの長きに渡って、ミデヤンの荒野で親しくしていた身内である。
「わたしたちは、かつて主がおまえたちに与えると約束された所に向かって進んでいます。あなたも一緒においでください。あなたが幸福になられるようにいたしましょう。主がイスラエルに幸福を約束されたのですから。」(民数記10:29)

モーセの言葉は、自分の身内への立派な伝道をしているように見える。
「主がイスラエルに幸福を約束されたのだから。」だから、私達と一緒に来れば、あなたも必ず幸せになれる、と。
しかしホバブは、自分はやはり国の親族の元に帰ると答えた。
彼はきっと不安があったのだろう。長らく住み慣れた、勝手知ったる土地を離れ、モーセと共に、全く新しい人生に飛び込む事に対して。
そして、神様の祝福の「約束」はあっても、現実的には、主の御助けが一時でも途絶えてしまったら、すぐに死んでしまうであろう荒野の状況に対して。

モーセはそんな彼に、今までの彼らしからぬ発言をする。
『モーセはまた言った、「どうかわたしたちを見捨てないでください。あなたは、わたしたちが荒野のどこに宿営すべきかを御存じですから、わたしたちの目となってください。もしあなたが一緒においでくださるなら、主がわたしたちに賜わる幸福をあなたにも及ぼしましょう」。』(民数記10:31-32)

主が、視覚でも聴覚でも、具体的に分かる導きを与えて下さり、それに従って実際、イスラエル二百万の人々が動き始めた所なのに、モーセはなんと人間であるホバブに「見捨てないでください」「わたしたちの目となってください」と願っている。
これは一体どうした事だろう。

モーセはもしかしたら、実際に動き出した大きな事に不安になって、長い間頼りにしてきた義兄弟に、頼りたくなったのかもしれない。
あるいはそうではなく、ただ単に親しい義兄弟を自分達の所に繋ぎとめ、彼も祝福にあずからせようとしたいがために、あえて、そのように言っただけなのかもしれない。
事実、モーセのこの時の説得によって、ホバブはイスラエルの民と共に、荒野を行ったようであり、その事は、後の時代にホバブの子孫たちがユダ族の土地に一緒に住んでいる事からわかる。(士師記4:11、1:16)

モーセの言葉の真意は分からない。
しかし、その後に主が為して下さった以下の事は、モーセとイスラエルの民全体の不安を、大いに払拭させ、勇気づけさせたに違いない。

『主の契約の箱は、その三日の行程の間、彼らに先立って行き、彼らのために休む所を尋ねもとめた。』(民数記10:33)
なんと、主の契約の箱が先立って進んで行き、彼らのために、休む所を探し求めてくださったのである。
前回の箇所を見ると、契約の箱の位置はケハテ族の所で、隊列のもっとも真ん中で守られていたはずだった。
ところが、それは先頭に立って進み行き、イスラエル全体を導いたのだ。

『契約の箱の進むときモーセは言った、/「主よ、立ちあがってください。あなたの敵は打ち散らされ、/あなたを憎む者どもは、/あなたの前から逃げ去りますように」。またそのとどまるとき、彼は言った、/「主よ、帰ってきてください、/イスラエルのちよろずの人に」。』(民数記10:35-36)
この短いシンプルな祈りの中から、主を全面的に頼りとするモーセの信仰がにじみ出ている。

主の契約の箱は、かつてエジプトの軍団に対しても、紅海に対しても、そして荒野の至る所においても、将来のヨルダン渡河においても、エリコ攻略の際でも、主は先んじて進み、イスラエルの歩むべき道を拓いて下さった。
主の契約が、主の約束が、主の御言葉が、先んじて進む。これ以上の安心はあるだろうか。
私達もモーセのように、行くにも帰るにも、主の守りと導きを祈る時、人生という荒野の旅を、安心して進み行く事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:荒野を進み行く二百万の大行進(民数記10:11-28):右クリックで保存

今までの所では、主の雲の柱という目に見えるしるしと、耳に聞こえるラッパの音によって導かれる事を「学科」として学んだが、今回ついに、その今まで学んだ事を「実践」するべき時が来た。
『第二年の二月二十日に、雲があかしの幕屋を離れてのぼったので、イスラエルの人々は、シナイの荒野を出て、その旅路に進んだが、パランの荒野に至って、雲はとどまった。こうして彼らは、主がモーセによって、命じられたところにしたがって、道に進むことを始めた。』(民数記10:11-13)
主から学んだ事の最初の実践、それは、二百万にも及ぶイスラエルの民が、荒野を進み行く”大行進”である。

イスラエルの宿営全体は、上空から見たら、巨大な十字架の形をしていた。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1551&cid=35
その陣形が定位置から進み行くべき時、ラッパの合図がなされ、民数記2章で主が命じられていたように、まず、東側に宿営する三部族が先頭に立って進んだ。
『先頭には、ユダの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。ユダの部隊の長はアミナダブの子ナション、イッサカルの子たちの部族の部隊の長はツアルの子ネタニエル、ゼブルンの子たちの部族の部隊の長はヘロンの子エリアブであった。』(民数記10:14-16)

続いて、全宿営の真ん中に建っている神の幕屋が、レビ人たちによって解体され、幕屋周辺に天幕を張っていたゲルション、メラリの二部族が、その部材を牛車に載せて運搬しつつ、この行進に加わる。(民数記10:17)

それに続いて、ラッパの合図と共に、幕屋の南側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にルベンの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。ルベンの部隊の長はシデウルの子エリヅル、シメオンの子たちの部族の部隊の長はツリシャダイの子シルミエル、ガドの子たちの部族の部隊の長はデウエルの子エリアサフであった。』(民数記10:18-20)

そして、この大隊列の一番真ん中に位置するものは、やはり、神の幕屋の中の、聖なるなものである。
ルベンやシメオン、ガド族の隊列に続き、レビのコハテ族が、聖所の器物を担ぎつつ、その行進に加わる。(民数記10:21)
彼らは牛車を用いず、契約の箱や香壇、パンの机などについている担ぎ棒で担いで、荒野を進み行く。

それに続いて、ラッパの合図と共に、幕屋の西側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にエフライムの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。エフライムの部隊の長はアミホデの子エリシャマ、マナセの子たちの部族の部隊の長はパダヅルの子ガマリエル、ベニヤミンの子たちの部族の部隊の長はギデオニの子アビダンであった。』(民数記10:22-24)

そして最後に、ラッパの合図と共に、幕屋の北側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にダンの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。この部隊はすべての宿営のしんがりであった。ダンの部隊の長はアミシャダイの子アヒエゼル、アセルの子たちの部族の部隊の長はオクランの子パギエル、ナフタリの子たちの部族の部隊の長はエナンの子アヒラであった。イスラエルの人々が、その道に進む時は、このように、その部隊に従って進んだ。』(民数記10:25-28)

荒野の行進は、どこかが少し遅れても、速すぎても、大いに乱れてしまう。これは神の民全体の、連携プレーであり、チームワークである。
現代を生きる私達も、教会での礼拝や聖徒の交わり、伝道活動やミニストリーは、主にある兄弟姉妹との連携プレーであり、それぞれが御言葉から主のサインを学び、キリストという旗の元に連携し、自分の好き勝手は捨て去って、秩序正しく、それぞれに託された神の国の活動を為して行くべきである。

このように、二百万にものぼる大部隊が、荒野において、秩序正しく進んで行った。
それはいかに壮麗壮大な光景だっただろうか。
主の指示に従い、それを忠実に守り行う人々は、主の守りと、導きと、必要の満たしを、自分のものとし、そして、その様を見た人々は驚嘆し、まことに神は生きておられ、実際に働かれ、御言葉を守り行う人には、豊かな恵みを施し栄誉を与えて下さる事を、世は知るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:神からのサイン - 銀のラッパの音(民数記10:1-10):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「銀のラッパを二本つくりなさい。すなわち、打物造りとし、それで会衆を呼び集め、また宿営を進ませなさい。』(民数記10:1-2)
前回は主ご自身が送られるサインを学んだが、それに続き、主は、イスラエルの民が規律正しく荒野で行動できるよう、銀のラッパを用いた民への指示の仕方を教えられる。
このラッパは、銀製の打ち物で、角笛とは違った特徴的な音が響く。その吹き鳴らし方によって、イスラエルの民への合図を送り分けるよう、命じられた。

『この二つを吹くときは、全会衆が会見の幕屋の入口に、あなたの所に集まってこなければならない。もしその一つだけを吹くときは、イスラエルの氏族の長であるつかさたちが、あなたの所に集まってこなければならない。』(民数記10:3-4)
まず、二本のラッパを同時に長く吹く場合は、イスラエルの民は全員集まれ、という合図であり、吹き鳴らされるのが一本だけの場合は、民の中の代表だけが集まるようにとの合図である。

『またあなたがたが警報を吹き鳴らす時は、東の方の宿営が、道に進まなければならない。二度目の警報を吹き鳴らす時は、南の方の宿営が、道に進まなければならない。すべて道に進む時は、警報を吹き鳴らさなければならない。また会衆を集める時にも、ラッパを吹き鳴らすが、警報は吹き鳴らしてはならない。』(民数記10:5-7)
口語訳で「警報」と訳されている言葉「テルーアー」は、新改訳では「短く吹き鳴らす」と訳されているが、ユダヤ教のラビの解釈では「短い音を連続して吹く」のではないかと言われている。
そのように吹き鳴らす場合は、陣営の一隊に対して「進め」という合図である。

また、敵と戦う際も、この「警報」という形で吹き鳴らす。
『あなたがたの国で、あなたがたをしえたげるあだとの戦いに出る時は、ラッパをもって、警報を吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたは、あなたがたの神、主に覚えられて、あなたがたの敵から救われるであろう。』(民数記10:9)
主が示された通りラッパを吹き鳴らすなら、「あなたがたは、あなたがたの神、主に覚えられて、あなたがたの敵から救われる」という約束がある。
つまりこのラッパの音は、敵と戦いを交える合図であり、そして、神の救いを宣言する音でもある。

また、このラッパは、祭りや礼拝の合図でもある。
『あなたがたの喜びの日、あなたがたの祝いの時、および月々の第一日には、あなたがたの燔祭と酬恩祭の犠牲をささげるに当って、ラッパを吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたの神は、それによって、あなたがたを覚えられるであろう。わたしはあなたがたの神、主である」。』(民数記10:10)
これは、聖徒が主とまみえる時の喜びの音、主を祝う事のうれしさを湧き立たせる音であり、「そうするならば、あなたがたの神は、それによって、あなたがたを覚えられる」という約束をも伴った、主の祝福のサインである。

この特別なラッパは、祭司の家の者のみ吹くことが出来、それ以外の者が身勝手に吹き鳴らしてはならない。
『アロンの子である祭司たちが、ラッパを吹かなければならない。これはあなたがたが、代々ながく守るべき定めとしなければならない。』(民数記10:8)
代々ながく守るべき定め、と記されているからには、このラッパに関する規定は現代も有効だという事であり、現代、私達キリスト者も、主からのラッパのサインを聞く時が来る。

以上のように、ラッパの音は主の民へのサインであり、集会の招集や出発、戦い、祭りの合図であった。そしてそれは守りと祝福のサインである。
主の民である私達は、主からのサインを正しく聞き分けなくてはならない。また、聞いたなら、それに従わなくてはならない。

聞き分けるためには、日々、御言葉によく親しむべきである。
イスラエルの民は、主からの合図の意味をしっかり学んだように、私達も御言葉に親しむ内に、主からのサインの内容を聞き分ける耳が鍛えられる。
主からのサインをしっかり聞き、その内容を見極め、その意味を悟ったなら、規律をもって正しく行動しなくてはならない。

『そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。』(マタイ24:30-31)
主が来られる大いなる日、すなわち、神の国の民があらゆる所から集められる日であり、この古き地上から出発すべき時、主の永遠の祭りが始まるその時、大いなるラッパの音と共にみ使いたちが遣わされ、神の民が地上のあらゆる所から集められる。
その時はいつか分からない。
それだからこそ、日々、霊的にしっかり目を覚まし、かの日には天に上げられる側の者されるよう、日々たゆまず信仰の内に歩む皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:百パーセントの主の守りと導き(民数記9:15-23):右クリックで保存

『幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。』(民数記9:15-16)
荒野で幕屋を建てたその日以来、イスラエルの民は、この不思議な雲によって、岩砂漠の地を進み行く行程が守られ、導かれてきた。

『主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。 』(詩篇121:5-6)
とあるように、主は六十万を超えるイスラエルの民を、その照りつける日差しから、四十年もの間守り続けてきたばかりでなく、朝ごとにマナによって養い、岩からほとばしり出る水によって喉を潤した。
彼らは百パーセント、主の守りと恵みによって守られ続けて来たのであり、それが無かったら、すぐにでも死に絶えていただろう。

イスラエルの民は、今日はマナが降ったけれど、明日から振らなかったらどうしよう、今日は水があるけれど、明日からなくなってしまったらどうしよう、今日は雲によって守られ導かれているけれど、明日から雲が無くなってしまったらどうしよう、と、心配がよぎったかもしれない。
しかし主は毎日、一日もかかさず、律儀にそれらを与えて下さった。
彼らが滅ぼされても仕方ないような事を何度も起こしたにもかかわらず、それでも主は真実を貫かれ、毎日の恵みを忠実また誠実に与え続けてくださったのだ。
主は毎日、正しい人にも悪い人にも太陽を昇らせ、恵みの雨を与えて下さるお方だ。

『雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。』(民数記9:17-18)
イスラエルの民は、幕屋の上に雲が留まる時は進まず宿営し、雲がのぼったなら、幕屋の杭を抜いて出発した。
雲が留まるのが、たとえ二日であっても、一か月であっても、あるいはそれ以上であっても、主の臨在の雲が幕屋にとどまっているなら、イスラエルの人々は宿営し、それがのぼると、出発した。
私達の歩みも、主の臨在を第一に据えて歩むべきである。
主の臨在が留まったなら、たといそこが自分の思いとしては留まりたくなくても留まり、主の臨在が去ったなら、そこから出て行くべきである。
そうでないと、どんどん干からび、渇き、人生の歩みをますます見失って行ってしまう。

荒野の民が行く道先も、進むタイミングも、留まるタイミングも、全て百パーセント、主の導きによった。
この事は、自分で道を切り開き、自分の望む所を行きたがるような人には、つらいかもしれない。
しかし、主の導きを無視し、自分の行きたい道を行く人に待っているのは、百パーセントの滅びである。
一体人間の誰が、岩砂漠の中を四十年もの間、六十万以上の人を養い、導き、守る事が出来るだろうか。

私達キリスト者の人生の歩みも、イスラエルの荒野の旅と同じである。
誰も自分の力で、道を正しく切り開いたり、家族を養ったり、正しく導いたりする事は、誰にも出来ない。それは主の恵みと導きを要するのだ。

『すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。』(民数記9:23)
彼らは、このおかげで荒野の行程を無事に終える事が出来た。
私達も、主の導きによってそこに留まり、主の導きに従って進み、そうして正しい道を歩む事が出来、家族を正しく養い導く事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:礼拝をやむを得ず守れなかった人のために(民数記9:1-14):右クリックで保存

エジプト脱出の前夜、イスラエルの民は小羊の血を家のかもいと門柱に塗り、その内側で、安全に過越の小羊を食べていたが、そうでないエジプトの全ての家々では、初子が死ぬという災いが降され、それが決定打となって、イスラエルの民はエジプトを脱出する事となった。
そのちょうど一年目、主はこの過越の祭りを祝うよう命じられた。
『エジプトの国を出た次の年の正月、主はシナイの荒野でモーセに言われた、「イスラエルの人々に、過越の祭を定めの時に行わせなさい。この月の十四日の夕暮、定めの時に、それを行わなければならない。あなたがたは、そのすべての定めと、そのすべてのおきてにしたがって、それを行わなければならない」。』(民数記9:1-3)

過越の祭りは、イスラエル民族がエジプトから救い出され、神から特別な扱いを受けている者達である事を覚える、重要な祭りである。
エジプトを出てちょうど一年目の、イスラエルが自由になってから初めての、記念すべきこの過越祭を、たまたまその時、死体によって身を汚していて、皆と共に祝うことが出来なかった人達がいた。
『ところが人の死体に触れて身を汚したために、その日に過越の祭を行うことのできない人々があって、その日モーセとアロンの前にきて、その人々は彼に言った、「わたしたちは人の死体に触れて身を汚しましたが、なぜその定めの時に、イスラエルの人々と共に、主に供え物をささげることができないのですか」。』(民数記9:6-7)

彼らは記念すべきこの祭りを、皆と共に祝うことが出来なかったので、それが心惜しくてモーセに訴え出たのだ。
礼拝出来なかった事に心惜しさを覚える事は、霊的に健全な証拠である。
イスラエルの歴史を見るに、そのように健全だった期間はあまりなかったが、私達は、礼拝が出来なかった時に心惜しさを感じる霊的健全さを持っているだろうか。

『モーセは彼らに言った、「しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう」。』(民数記9:8)

モーセは、今までに無かったこのケースをどのように対処すべきか、自分で判断する事なく、その人達を待たせ、主に伺いに行った。
この態度は、私達も見習うべきである。
霊的な事で、何か分からない事や問題が起きた時、思いつくまま軽率に答えたり、勝手な判断で対処したりするのではなく、御言葉を開くなり祈るなり、主からの確信を得た上で対処するのが、正しいやり方である。

『イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうち、また、あなたがたの子孫のうち、死体に触れて身を汚した人も、遠い旅路にある人も、なお、過越の祭を主に対して行うことができるであろう。すなわち、二月の十四日の夕暮、それを行い、種入れぬパンと苦菜を添えて、それを食べなければならない。これを少しでも朝まで残しておいてはならない。またその骨は一本でも折ってはならない。過越の祭のすべての定めにしたがってこれを行わなければならない。』(民数記9:10-12)

主のこたえは、死体で身を汚している人だけでなく、遠い旅路にあった人など、諸々の事情でこの祭りを祝えなかった人達のために、ちょうど翌月の十四日に祝うように、という事だった。
それも、一切の手抜きをする事なく、全ての手順をしっかり行うように、という事である。

主は、礼拝を捧げたくても捧げられずに苦しんでいる人のためには、便宜を計り、その邪魔を全て取り除いて下さるお方である。
『わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ/お前の重い恥となっていた。見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。』(ゼパニヤ3:18-19)

『しかし、その身は清く、旅に出てもいないのに、過越の祭を行わないときは、その人は民のうちから断たれるであろう。このような人は、定めの時に主の供え物をささげないゆえ、その罪を負わなければならない。』(民数記9:13)

特に差し迫った理由も無いのに、本来礼拝すべき時に礼拝せず、自分の都合で主を祝う事を先延ばしにする人は、主を軽んじる人である。
礼拝すべき時、主に聞き従うべき時、御心を実行すべき時があり、その「時」を軽んじていたら、取り返しがつかなくなくなってしまった、といった事柄は、聖書の至る所にあり、そういう人は、外の暗闇に追い出され、そこで泣いて歯ぎしりするものである。

主は、民が過越祭を確実に行えるよう、二重の備えを用意されたほどに、この祭りを重要なものとして位置づけられた。
傷の無い小羊をほふり、その血のしるしを自分達の所につけ、その中で、自分達のために犠牲となった小羊の肉を噛み締め、救われた事の喜びを味わう。これは、来るべきキリストを、ありありと表現している。
現代、私達キリスト者は、キリストの裂かれた肉と流された血を覚えつつ、聖餐式を行っている。
私達はそのキリストの尊い贖いを覚え、キリストのからだと血をわきまえ、救われた事の喜びを噛み締めつつ、この「祭り」を祝うべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エズラの執り成しと告白(エズラ記9:5-9):右クリックで保存

【概要】

エズラ記9章5節から15節を通して、エズラの悔い改めの祈りと、神の憐れみについて学びます。エズラはイスラエルの民の罪を自らの罪として告白し、神の憐れみによって立ち直ることを求めました。

【聖書箇所】

エズラ記9章5節から15節

【悔い改めの促しの言葉】

エズラはイスラエルの民の罪を自らの罪として告白し、神の憐れみによって立ち直ることを求めました。私たちも自分の罪を認め、神の憐れみに頼るべきです。

【***詳細***】

エズラ記9章5節から15節は、エズラがイスラエルの民の罪を悔い改める祈りを捧げる場面です。エズラは、イスラエルの民が異邦の女を妻に迎えるという罪を犯したことを知り、ショックを受けました。彼は夕方の捧げ物の時刻に、神の前にひざまずき、衣を引き裂いて祈りました。

エズラは「わたしの神よ、わたしは恥を受け、わたしの神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います」と告白しました。彼は自分自身が罪を犯していないにもかかわらず、民の罪を自分の罪として神に告白しました。これは取りなしの祈りの一例です。

エズラは、神がイスラエルの民に与えた大きな憐れみを思い起こし、神殿の再建やエルサレムの城壁の再建が神の恵みによるものであることを認識しました。しかし、民がその恵みを無視し、罪を犯したことに対して深い悲しみを感じました。

エズラの祈りは、私たちが罪を犯したときにどのように神に向かうべきかを示しています。罪を認め、神の憐れみに頼り、心を新たにしていただくことを求めることが重要です。

詩編51編も参照し、ダビデが罪を犯した後に神に向かって祈ったように、私たちも罪を告白し、神の憐れみを求めるべきです。「神よ、御恵みによって私に情けをかけ、あなたの豊かな憐れみによって私のその気の罪を拭い去ってください」と祈ることが大切です。

【結論】

エズラの祈りは、私たちが罪を犯したときにどのように神に向かうべきかを教えてくれます。罪を認め、神の憐れみに頼り、心を新たにしていただくことを求めることが重要です。私たちもエズラのように、取りなしの祈りを捧げ、神の憐れみによって立ち直ることを求めましょう。

礼拝説教メッセージ音声:年齢制限の無い天の奉仕(民数記8:20-26):右クリックで保存

『レビびとは次のようにしなければならない。すなわち、二十五歳以上の者は務につき、会見の幕屋の働きをしなければならない。しかし、五十歳からは務の働きを退き、重ねて務をしてはならない。ただ、会見の幕屋でその兄弟たちの務の助けをすることができる。しかし、務をしてはならない。あなたがレビびとにその務をさせるには、このようにしなければならない。』(民数記8:24-26)

レビ記を学んで来た方は、この「二十五歳」という年齢に、「おや?」と思ったかもしれない。
そう、四章では、レビ人として登録され数えられるのは「三十歳から五十歳まで」と書かれてあった。それがここでは二十五歳とあるのは、どういう事だろう。

よく読んでみると、ここ八章では、「二十五歳以上は、幕屋の務めにつかなくてはならない」と記されているのに対し、四章では、「レビ人の奉仕者として登録し数えるべきは三十歳以上」とある。
すなわち、二十五〜二十九歳は、神の奉仕者として「働く」事は出来ても、働き人としての「登録」はされないのである。
その期間は、働き人の見習いとして十分に学ぶべき期間を過ごし、そうして五年後、ようやく働き人として正式に登録されるものなのかもしれない。

ダビデの時代は、レビ人として数えるべきは「二十歳以上」と定められた。
『ダビデは言った、「イスラエルの神、主はその民に平安を与え、ながくエルサレムに住まわれる。レビびとは重ねて幕屋およびその勤めの器物をかつぐことはない。
――ダビデの最後の言葉によって、レビびとは二十歳以上の者が数えられた――』(1歴代誌23:25-26)
ダビデの時代は、神を礼拝する場所はもはや幕屋ではなく、神殿であり、レビ人の奉仕内容も、幕屋の器物をかついで運んだり、組み立てたり、という仕事ではなく、聖歌隊や門衛となり、奉仕内容は時代によって変わっている。

そして現代、神殿はもはや、どこかの場所に建っている建物ではなく、「私達キリスト者」が神殿であり、私達キリスト者がレビ人のような奉仕者として立てられている。
『神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。』(2コリント6:16)
もはや、肉体的な年齢制限は無い。幼子さえもキリストを賛美する事が許されている。そして、肉体の年齢制限は無い代わりに、私達は霊性においての成熟が求められている。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 』(2ペテロ2:5)

この地上の体は日々衰える。
しかし、私達の希望は、この肉体にあるのではなく、決して古びる事の無い天にあり、天地を治めておられる永遠の主にあって私達は望みがあるのだ。
『だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:16-18)

レビ人として幕屋の奉仕をするには、二十五歳から五十歳まで、という年齢制限があり、人生の内の、わずか二十五年しか、幕屋で務めをする事が出来なかったように、この地上での肉体には、限度がある。
しかし、天の御国では、決して朽ちる事の無い全く新しい体が与えられ、神の幕屋に共に住まい、涙がすっかり拭い取られ、昼も夜も、喜びをもって永遠に神に仕えるのである。
『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。』(黙示録7:14-17)

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