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礼拝説教メッセージ音声:献身者のきよめの手続き(民数記8:5-19):右クリックで保存
今回の箇所では、レビ人を「神に捧げられた者」として任職するため、経なくてはならない手続きが、主から命じられている。
『そして、あなたはレビびとを会見の幕屋の前に連れてきて、イスラエルの人々の全会衆を集め、レビびとを主の前に進ませ、イスラエルの人々をして、手をレビびとの上に置かせなければならない。そしてアロンは、レビびとをイスラエルの人々のささげる揺祭として、主の前にささげなければならない。これは彼らに主の務をさせるためである。』(民数記8:9-11)
民はレビ人の上に手を置き、神と人との前で公に「奉献物」として主に捧げ、民を代表する「神の奉仕者」としての務めに任じている。
彼らは、今で言う所の「献身者」という言葉が、ぴったり当てはまるであろう。
このレビ人を任職するための手続きから、現代の「献身者」すなわち「神の働き人」が、いかに整えられ、清められ、いかに主の仕事に間に合う者とされるのかを、知る事ができる。
『あなたはこのようにして彼らを清めなければならない。すなわち、罪を清める水を彼らに注ぎかけ、彼らに全身をそらせ、衣服を洗わせて、身を清めさせ、そして彼らに若い雄牛一頭と、油を混ぜた麦粉の素祭とを取らせなさい。あなたはまた、ほかに若い雄牛を罪祭のために取らなければならない。』(民数記8:7-8)
彼らを清めるために、最初に為される事は、「水の洗い」による清めである。
つまり、献身者たる者の第一の必要条件は、御言葉という水の洗いによって、清められている事である。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)
続いて彼らは、全身にかみそりが当てられ、全身の毛を剃られるが、それは、ツァラアトからきよめられる人と同じ手続きである。(レビ14:8)
献身者は、諸刃の剣よりも鋭い御言葉によって全身が当てられ、その身から生じた一切の古き生成物は、全部切り捨てられるのだ。
続いて彼らは、衣服を洗って、身を清めさせられる。
黙示録には、その衣を洗って白くし、昼も夜も神の御前で仕えている群衆が出てくるが、彼らは小羊の血で衣を洗って白くしている。
私達は、小羊キリストの血によって、自分の行いという「衣」を洗って白くするのである。
こうして彼らは、古いものは全て過ぎ去り、誰の目にも明らかなまでに、全てが新しくなった。
実に、イエス・キリストの十字架上での犠牲の血潮により、滅びから免れ、古いものが過ぎ去り、全てが新しくされる事を、暗示している。
このようにして彼らは、神に有用な者として整えられるのだ。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17)
という御言葉の通りである。
『わたしはイスラエルの人々のうちからレビびとを取って、アロンとその子たちに与え、彼らに会見の幕屋で、イスラエルの人々に代って務をさせ、またイスラエルの人々のために罪のあがないをさせるであろう。これはイスラエルの人々が、聖所に近づいて、イスラエルの人々のうちに災の起ることのないようにするためである」。』(民数記8:19)
レビ人以外の人、すなわち、主に身を捧げておらず、主のものとされていない人が、聖なる所に近づくと、災いが起きる。なぜなら、神は排他的な「聖」なるお方であるからだ。
私達も、主にますます用いて頂くためには、自らを捧げ、清く聖別しなくてはならない。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)
礼拝説教メッセージ音声:奉仕をする時はともし火をともせ(民数記8:1-4):右クリックで保存
『「アロンに言いなさい、『あなたがともし火をともす時は、七つのともし火で燭台の前方を照すようにしなさい』」。アロンはそのようにした。すなわち、主がモーセに命じられたように、燭台の前方を照すように、ともし火をともした。』(民数記8:2-3)
幕屋の聖所の中は、四重の幕で覆われていて、真っ暗である。
そのため、燭台の七つのともし火を照らさなくては、祭司は正しく務めができない。
同様に、私達・神の奉仕者も、全て、光が無くては正しく奉仕が出来ない。
その光とは、キリストであり、御言葉である。
そして教会は、暗闇の世を照らす燭台であり(黙示録1:20)、その燭台がいつも掲げているべき「光」が、キリストである。
『燭台の造りは次のとおりである。それは金の打ち物で、その台もその花も共に打物造りであった。モーセは主に示された型にしたがって、そのようにその燭台を造った。』(民数記8:4)
この、聖所を照らす燭台は、「打ち物」、すなわち、一つの金のかたまりを槌などで打って、燭台の形にしたものである。
キリストが神に打たれたように、私達も、時に神に打たれ、そうして神に有用な形をなしていく。
また、この燭台は「台」の部分も、「花」の部分もあって、全体が同じ一つの金で出来ているように、教会はキリストのからだで全体は一つであり、聖徒達一人一人は、各々違った役割が与えられている各器官である。
キリストの光なしの奉仕、御言葉の光なしの奉仕は、暗闇の中を手探りでうろついているようなもので、そういう人は、躓いたり、尊いものを壊してしまったり、いたずらに自らを傷つけるだけである。
パウロは、キリストの光に照らされる以前は、神に貢献していると信じて疑わずにいながらにして、実は神に反し、御子キリストを迫害している者だったが、キリストの光に照らされて以来、彼の奉仕は、正しく的を射るものへと変わった。
『わたしは、祭司長たちから権限と委任とを受けて、ダマスコに行ったのですが、王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである。」・・・
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。』(使徒26:12-18)
キリストこそ、世を照らすまことの光であり、そしてキリストは、ロゴス(御言葉)なるお方である。
御言葉は光、私達の足元を照らすともしびである。このともし火をともしてこそ、私達はつまづく事なく正しく道を歩む事が出来るのだ。
時には、御言葉が良く分からない時もあるが、いつかそれが光を放つ時が来る。その時まで、その御言葉に目を留めているべきである。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。』(2ペテロ1:19)
この御言葉を私達に分からせて下さるのは、聖霊によるのであって、人間の知恵や力によるのではない。(同20-21節)
そして、燭台の光をともし続けるためには、その燃料である油、すなわち、聖霊の油が必要である。
10人の花嫁の中、5人の愚かな乙女は、ともし火は持っていたものの、油を用意しておかなかったために、花婿を迎えるべき大事な時に灯しておく事が出来ず、花婿に迎えてもらえなくなってしまった。
いくら御言葉の光を持っていたとしても、御言葉を守る事が持続できない人は、聖霊の油の蓄えが無い人だ。
そういう人は、「油絞り」の祈り、すなわち、「ゲッセマネ」の祈りをするのである。
主はゲッセマネで、「自分の願う所ではなく、御父の御心のままに」と祈り、自分を降ろして御父の御心に委ねた。
私達も自分を降ろし、自分の道を御心に譲るなら、どんどん油が滴って、蓄えられて行くのだ。
御言葉朗読(民数記7:10-88):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:省かれる事の無い捧げ物の目録(民数記7:10-89):右クリックで保存
この民数記7章は、聖書の中で2番目に長い章であり、そしてその中には、イスラエル12部族が主のために捧げた捧げ物の細かな内容が記されている。
主は、イスラエル12部族が捧げものをする上で、一日に一部族ずつが捧げるように、命じられた。
『第一日に供え物をささげた者は、ユダの部族のアミナダブの子ナションであった。
その供え物は銀のさら一つ、その重さは百三十シケル、銀の鉢一つ、これは七十シケル、共に聖所のシケルによる。この二つには素祭に使う油を混ぜた麦粉を満たしていた。また十シケルの金の杯一つ。これには薫香を満たしていた。また燔祭に使う若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の小羊一頭。罪祭に使う雄やぎ一頭。酬恩祭の犠牲に使う雄牛二頭、雄羊五頭、雄やぎ五頭、一歳の雄の小羊五頭であって、これはアミナダブの子ナションの供え物であった。』(民数記7:12-17)
このように第一日はユダ部族の代表が捧げた、そして第二日、第三日と、一部族ずつそれぞれの部族の代表が捧げて行くのだが、おのおのの部族が捧げた内容は、全て同じで、しかも、その数も、重さも、器の中に満たしたものも、全て一緒である。
ユダ部族が一番多く、マナセ族はその半分以下だが、ユダ部族は多く捧げ、マナセ族は少ないという事も一切なく、全て一緒である。
この箇所は、あたかもコピーペーストした内容をひたすら繰り返し読んでいるように、内容に起伏が無く、長い箇所なので、朗読する側も、聞く側も、飽き飽きしくるかもしれない。
しかし、各部族が捧げた物がいかに同じであったとしても、「以下同文」などと省かれる事はなく、一つも漏らさず記された。
同じように、私達が主に捧げたものも、奉仕も、全て、天の書物に正確に記録され、一切省かれるものが無いのだ。
私達は、主イエスにあって祭司である。
一つ一つの恵みを数えて感謝し祈る事や、家庭や職場を執り成す日々の祈りは、時に、あまりに同じ文句を祈っているようで、飽き飽きして来る事もあるかもしれない。
しかし、私達はそういう事に、飽きてはならない。
主の働き人も、もし誰かから献金や献品をいただいた場合、それが、わずかな食事の一杯であったとしても、ないがしろにせず、主に感謝し、その人のために主に執り成して祈る事を、省くべきではない。
これらイスラエル各部族が捧げた品々は、尊い器で、尊い事に用いられた。
将来の不信仰な王の時代に、強国への貢物にされてしまったり、バビロンの捕囚先ではベルシャツァル王によって、これら神殿の尊い器が宴会のさかなにされたりもしたが、主は真実なお方であり、そのような悪い者への報いはきっちり果たされ、そしてさらに将来、エズラによって、これら器は、再びエルサレムの神殿へと返された。
私達は、主の器であり、また、聖徒を導く人は、主の器を運ぶ者である。
私達は自分自身が尊い事に用いられる器として、日々自分を整えるべきであり、そしてまた、主から託された尊い器を、主の御元に納められるその日まで、しっかり管理するべきである。
礼拝説教メッセージ音声:奉仕者の便宜を思った献品(民数記7:1-9):右クリックで保存
『モーセが幕屋を建て終り、これに油を注いで聖別し、またそのすべての器、およびその祭壇と、そのすべての器に油を注いで、これを聖別した日に、イスラエルのつかさたち、すなわち、その父祖の家の長たちは、ささげ物をした。彼らは各部族のつかさたちであって、その数えられた人々をつかさどる者どもであった。』(民数記7:1-2)
モーセが幕屋を建て終わって聖別した日は、出エジプト記40:17によると、第二年目の1月1日であるので、時間的に少し遡った時の事を記している。
この民数記7章は、その日、イスラエル12部族の代表達の捧げ物について詳細に記している章で、聖書全体の中では、2番目に長い章である。
今までは捧げ物というと、動物のいけにえ等、直接主に捧げるものが多かったが、彼らはこの時、主の働き人にとって、「これがあるととても便利なもの」を捧げた。
『彼らはその供え物を、主の前に携えてきたが、おおいのある車六両と雄牛十二頭であった。つかさふたりに車一両、ひとりに雄牛一頭である。彼らはこれを幕屋の前に引いてきた。 』(民数記7:3)
彼らが捧げたものは、幕屋のもろもろの道具を運搬するための、車だった。
モーセが幕屋を建て終わり、イスラエルの民は、主の働き人達にとって便利なものは何だろう、と考えて、それらを準備したのだろう。
直接的な礼拝も主に喜ばれるが、主の働き人のために便宜を考え、それを捧げる事も、立派な礼拝である。
パウロも、彼らのために便宜をはかってくれたピリピの人達を喜んで、それは主が喜んで受けて下さる供え物だ、と書いている。
『私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:18-19)
これらの車は、ゲルション族に二両、メラリ族に四両渡され、ケハテ族には一両も渡されなかった。(民数記7:7-9)
なぜなら、ゲルション族は幕屋の幕、布製品など、比較的軽いものを運ぶ担当で、メラリ族は、板や土台など、重いものを運ぶ担当であったが、ケハテ族が運ぶものは聖所の中の尊いもの、直接担いで運ばなければならないからであり、それらを必要としなかった、いやむしろ、それらを用いてはならなかったからだ。
聖徒の献品には、ある奉仕者には非常に助かるものもあるが、別の奉仕者にはそれが全く必要ない、むしろ、それを用いてはならないタイプのものもあるのだ。
ダビデの時代、ケハテ族が担いで運ぶべき契約の箱を、車を用いて運ぶという、「してはならない事」をした事があった。
ダビデも民も、神の箱が自分達の都に来る事を、大いに喜び踊ったが、牛車の牛が車をひっくり返そうとし、その時、ウザが箱を支えた所、ウザは聖なる箱に触れたため、主に打たれて死んでしまった。
ダビデ達の主を喜ぶその志は、人の目には良いものだったかもしれない。ウザのした事も、なぜ悪いのか、と人は思う。
しかし、主の法則を外した形で「主の契約」や「主の御言葉」が運ばれるのは、良くないのだ。
もしこの事件が無かったら、民の興奮と盛り上がりの中、律法はなおざりにされたままになっていたであろう。
しかし、この出来事の故に、ダビデはおそれをもって律法を調べ、正しい方法で契約の箱を運ぶ事となり、ますます恐れをもって主に仕えるようになった。
私達も奉仕する時、正しく御言葉にそっているかどうかを、常に点検すべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エズラの血の気を失わせた事(エズラ記9:1-4):右クリックで保存
【概要】
エズラ記9章1節から4節を通して、イスラエルの民が異邦の民と結婚し、神の戒めを破ったことに対するエズラの深い悲しみと悔い改めの促しについて学びます。
【聖書箇所】
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エズラ記9章1節から4節
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ネヘミヤ記13章23節から27節
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新明記7章1節から4節
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第2コリント6章14節から18節
【戒めの言葉】
異邦の民との結婚や連合は、信仰を損なう危険があるため、神の民としての清さを保つことが求められます。
【勧めの言葉】
日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送り、誘惑に負けないように注意しましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
過去の過ちを悔い改め、神に立ち返り、清い生活を送ることを心がけましょう。
【***詳細***】
エズラ記9章1節から4節では、イスラエルの民が異邦の民と結婚し、神の戒めを破ったことが記されています。エズラはこの知らせを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛と髭を引き抜き、色を失って座り込んでしまいました。彼のショックは、神の民が異邦の民と混じり合うことが、神に対する重大な罪であることを示しています。
ネヘミヤ記13章23節から27節でも、同様の問題が記されています。ネヘミヤは、異邦の女をめとったユダヤ人たちを厳しく戒め、彼らの子供たちがユダヤの言葉を理解できないことを問題視しました。これは、異邦の文化や信仰がイスラエルの民に影響を与え、神の言葉から遠ざける危険性を示しています。
新明記7章1節から4節では、神がイスラエルの民に対して異邦の民と結婚しないように命じています。異邦の民との結婚は、神から引き離され、他の神々に仕えることにつながるため、神の怒りを招くと警告されています。
第2コリント6章14節から18節では、「不信者と釣り合わぬくびきを一緒につけてはいけません」とあります。信者と不信者が一緒になることは、光と闇が交わるようなものであり、神の宮と偶像が一致することはないと教えています。
エズラは、異邦の民との結婚が神に対する重大な罪であることを理解し、深い悲しみを覚えました。彼の姿勢は、私たちが日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送ることの重要性を示しています。
【結論】
異邦の民との結婚や連合は、信仰を損なう危険があるため、神の民としての清さを保つことが求められます。私たちは、日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送り、誘惑に負けないように注意しましょう。過去の過ちを悔い改め、神に立ち返り、清い生活を送ることを心がけましょう。
礼拝説教メッセージ音声:祝福とは(民数記6:22-27):右クリックで保存
前回に続き、祭司に与えられたこの祝福の命令をもう少し詳しく見て行きたい。
祝福という言葉は、聖書では良く出てくるし、教会でも良く使われ、クリスチャンもよく「祝福を下さい」と祈るが、そもそも祝福とは一体何だろう。
祝福は、必ず神様を通して与えられるものであり、神様を除外した人間が、身勝手な善悪判断によって定めた「これが私にとっての祝福」というものは、実は、自分も他人も、そして自然界をも、不幸に陥れてしまうものだ。
祝福のヘブライ語「バーラフ」の元々の語意は「ひざをつく」で、意味としては、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、ほめたたえる」である。
このバーラフが聖書で最初に登場するのは、聖書の最初の書の、最初の章からである。
『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを”祝福”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。・・・神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。』(創世記1:27-31)
世界に罪が入る以前、神は、アダムと全生物が大いに生んで増えて行くようにと、主が自らがひざをついて便宜を図り、いのちが増え広がって行く様を応援した。
そして神様がその様をご覧になったところ、「はなはだ良し」と評価された。
しかし、アダムが神の言葉に背いて、善悪判断をしだした所、全被造物は呪われてしまった。
それ以来、被造物は神の子たちの現れを、うめきながら待っているのである。(ローマ8章)
神は、御言葉に服従し罪の問題を解決した人達が、繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を望んでおられ、そのような人達を、ことさら祝福しようとされるのである。
事実、神は、罪を知らない時のアダムになされた、あの「生めよ、増えよ」の祝福を、ノアにも、アブラハムにも為された。
そして私達も、イエスキリストを信じる信仰によってアブラハムの子孫となるなら神の子とされ、神がアダムやノア、アブラハムに与えられたあの祝福で、私達を覆って下さるのである。
主が、祭司アロンを通して命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』(民数記6:24)である。
ここに出てくるシャーマルという言葉は「守る」という意味のほか、見張る、気をつける、という意味がある。
主の御心は、主の民とされた聖徒達が、生んで増えて行く事だった。
それ故、この第一の祝福は、あの創世当初の「はなはだ良かった」時のように、御心にかなった人達が、生んで増え広がって行くそのいのちを、主ご自身が見守り、サポートされますように、という祈りである。
第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』(民数記6:25)である。
ここの恵む(ハーナン)という言葉は、憐れむ、情けをかける、という意味で、それは、具体的な行動がともなった同情で、新約のギリシヤ語の「スプランキニゾマイ」に相当し、それは字義通りには「はらわたがちぎれる思いで、かわいそうに思う」である。
つまり、ここの祝福は、主が輝いた表情をあなたに照らし、主のはらわたがちぎれる程の深い憐れみによって、情けをかけて下さるように、という祈りである。
第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安(シャローム)を賜わるように』(民数記6:26)である。
「向け」という言葉は、「上げる」「支持する」という応援的な意味があり、また、シャロームという言葉には広範な意味があって、祝福の総称とも言える。
シャロームは挨拶の言葉であり、平和と安息を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄や、健やかである事や、また、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、そして知恵に満たされ、あらゆる悪や災いから救われ、敵や悪に対して勝利する事を、願い求める言葉でもある。
つまり、主がその眼差しを向けて支持し、家庭も経済も、知恵も力も、あらゆる面で充足し、健やかであり、平安で、あらゆる面で守られ、勝利するよう、主があらゆる面で応援して下さるように、という祈りである。
この民数記6:24-26の祝福は、何世紀にも渡って祭司がイスラエルの民を祝福し、また、キリスト者達が互いに祝福してきた、優れた言葉である。
私達も、キリストにあって祭司という立場を得たからには、大いにこの祝福の祈りを、家族に、仕事に、人生のあらゆる場面に対して、宣言するべきである。
しなければ損である。
礼拝説教メッセージ音声:祝福する祭司として(民数記6:22-27):右クリックで保存
『主はまたモーセに言われた、「アロンとその子たちに言いなさい、『あなたがたはイスラエルの人々を祝福してこのように言わなければならない。』(民数記6:22-23)
主は、祭司が民を祝福するべき言葉を、具体的に示された。
レビ記が学科であるとすれば、民数記は実技であるが、その実技教習は、いよいよ「祝福の仕方」にまで至った。
今までの実技教習の内容を、振り返ってみよう。
まずは「神の民」「神の部隊」としての登録が1章でなされ、ただの「荒野の民」から、登録された「神の民」へと転換し、2章では、神の部隊として、どの部族がどの位置に配置されるべきかが示され、秩序と規律をもって進み行くべきことを示された。
また、3章では、元々は、長男が「主のもの」とされていたのが、レビ人に転換され、主のものとされたレビ人への奉仕分担が4章で示された。
そして5章では、神が住まわれるイスラエルの宿営の中から、汚れを締め出す事が命じられ、また、最も親しくあるべき夫婦関係の中から、不信を取り除く方法が示された。
6章では、主にまったき献身を誓うナジル人に関する規定が示され、そしていよいよ6章の後半で、いかに民を祝福すべきか、という、祝福のことばの制定が為された。
主は順を負って、神の民としての整えを着実に為しておられるが、この順番は、キリスト者が神のものとされた時から始まる成長に良く似ている。
キリスト者が洗礼を受け、神のものとしてしるしを受けた後、生活のあらゆる面で、神の民としての秩序がどんどん与えられて行く。
次に、神の奉仕者としての役割が与えられ、その奉仕を忠実に為して行く内に、自らの中から汚れを取り除くようになり、さらなる献身へと導かれ、そして遂には、神の代理人として、人々を祝福するものとされていく。
「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
この祝福の文言は、何世紀にも渡って祭司によって宣言され、また、キリスト教界でも、何世代にも渡って、この言葉によって多くの聖徒達が祝福を受けてきた。
主の祝福の最たる事は、「主が共におられる」事である。
荒野での金の子牛の事件の時、モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無いという確約はとりあえずいただいたが、最初、主は、民と一緒には行かないと言われた。(出エジプト記33:1-3)
主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほど主を知らない者であり、よほどの恩知らずである。
主が共におられ、主の祝福があり、主の守りがあるという事は、全宇宙を創られた万能なる神が共におられるという事であり、主の守りの内に最善の道を歩ませ、主の最高教育の内に導かれて行く、という事である。
主は、驚くほどの憐れみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。
私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。
『こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」。』(民数記6:27)
ここは英語の聖書(KJV)では、イスラエルの子らの上に「わたしの名を置く」なら、わたしは彼らを祝福する、と記されている。
祭司が、イスラエルの会衆の上に「主の名を置き」、そうして祝福する。
それはあたかも、ハンコを押すようなものだ。
主は「わたしはある」と言われた。
主の名は「ある」である。
英語では「I AM THAT I AM」、すなわち、神は「存在する」という名前であり、在りて在る者、それが主のアイデンティティである。
英語で I am ○○ と言う時、わたしは○○である、という意味であるが、神はその○○の部分に、何でも入るお方だ。
主は全能であり、偏在であり、はじめであり、終わりであり、永遠である。
その素晴らしき主の名をハンコのように押された、という事は、世のどんな大統領のサインよりも遥かに強力な権威を持っている、という事であり、まさに、何でも持っている状態である。
この祝福の言葉は、何世紀にも渡って、祭司によって祝福されてきたが、私達キリスト者も、祭司という立場であり、家族のため、仕事場のために、祝福の祈りをする立場である。
そうであるからには、いたる所に、いたる場面で、偉大なる主イエスの御名によってハンコを押し、祝福すべきである。
礼拝説教メッセージ音声:ナジル人の誓い(民数記6:13-21):右クリックで保存
『これがナジルびとの律法である。聖別の日数が満ちた時は、その人を会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そしてその人は供え物を主にささげなければならない。すなわち、一歳の雄の小羊の全きもの一頭を燔祭とし、一歳の雌の小羊の全きもの一頭を罪祭とし、雄羊の全きもの一頭を酬恩祭とし、また種入れぬパンの一かご、油を混ぜて作った麦粉の菓子、油を塗った種入れぬ煎餅、および素祭と灌祭を携えてこなければならない。』(民数記6:13-15)
ナジル人が主に捧げている期間が満了した時、彼らは所定の捧げ物をする。
すなわち、罪のための犠牲を捧げて自らの罪を清め、また、焼き尽くす捧げ物を捧げて献身の思いを新たにし、また、和解のいけにえを捧げて、神と祭司と同じテーブルのごちそうにあずかる。
この和解のいけにえの際、その聖別した頭の髪を剃り、それを和解のいけにえの火にくべる。
ナジル人としての期間が短ければ、この時の髪はわずかで、期間が長ければ長いほど、それは結構な分量となるだろう。
そうして、所定の務めを主に果たした後、彼らは一般人のように、ぶどう酒を飲む事ができるようになる。
こうして見ると、ナジル人の生活にはかなりの制約があり、好きな事もあまり出来ず、期間が終っても、多くの捧げ物を捧げなければならずで、神を知らない人には、どうしてわざわざそんな立場に身を置くのか、と思うかもしれない。
しかし、キリストにあっていのちを得た人にとって、主に捧げられ、主のものとされている期間は、実に幸いである事を、経験しているはずである。
その人の所属先は、神にあり、守りの根拠も、必要の満たしの源も全能者にあり、しかも、神は決して変わる事の無い愛で愛され、全ての事を最善へと導いて下さるお方だ。
この御方に捧げている限り、決して物事を間違え無駄に過ごす事はなく、揺るがされない事も、心が飢える事も、渇く事も無い。
私達キリスト者は、キリストにあって神に捧げられた者達であるため、その大いなる祝福にあずかっているのである。
中には、自分を誇るため、人々から「すごい」と思われたいがために、断食したり、ナジル人のようになりたがる人もいるかもしれない。
しかし、断食や、ナジル人へと身を投じる事は、本来、主に対して自ら「聖別」する事である。
それは初めから終わりまで「主のためになすべき」ものであり、自分の誇りは一切入ってはならない。
断食や誓いは、むやみにすべきでない。御心でない断食や誓いは徒労以外の何者でも無いからだ。
パウロがエルサレムでユダヤ人達に捕らえられた時、ユダヤ人のうち、40人以上の者達が、パウロを殺すまでは飲み食いをしない、という誓いを立てた。(使徒23章)
しかし、神の御心は、パウロを生きながらえさせ、彼をローマへと連れて行き、カイザルや王達の前で、主イエスの証をする事だった。
結局、主は、パウロがみすみす殺されるような事は許されず、ローマ兵470名の護衛と、車つきで、パウロを安全な所へと護送した。
いかに多くの人間が、熱心や感情の高ぶりによって、パウロを殺すまでは飲食を断つ、という固い誓いを立てたとしても、主の御心に沿っていないなら、それは虚しく、徒労に終わるのだ。
『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。』(詩篇127:1-2)
私達も、主の御心がどこにあるかを必ず探り、自分の心の動機をよく確かめ、御心でない誓いや、御心でない断食は、やめるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:主に捧げられた者が気をつけるべき事(民数記6:1-12):右クリックで保存
民数記6章は、神に特別に誓願を立ててその身を主に聖別した人、「ナジル人(ナーザル:聖別する、分離する)」についての規定である。
聖書には、特別に主に捧げたこのナジル人が、何人か登場する。
ナジル人になる人は、普通、ナジル人としての期間を自由意志で決められるが、サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネなど、親や主から生まれながらにナジル人として捧げられた人もいる。
彼らに共通している事は、神業としか思えないような働きを為している事であるが、その力の秘密は、忠実に「捧げ尽くし」「身を聖別している」事である。
神は何ゆえか、人間に神の御国の事業に参加する事を願っておられる。
それも、人が捧げたら捧げた分、明け渡したら明け渡した分、神は人を通して働かれる機会を得、人が捧げたらそれ以上に、大いに御業を為される。
人が自分のものとして握り締めている領域には、主は働く事は出来ない。
しかし、手放せば手放す程に、その領域において主は働く事が出来る。
だから、ナジル人のように主に捧げ尽くした人であるなら、主は、その人を通して、大いなる御業を働かれるのだ。
ナジル人は、世とは分離し、主に聖別されているため、以下の事で、他の人と区別されている。
すなわち、その食物において、イスラエルの民は日常的に食べる「ぶどう」のものを、一切食べてはならなず、飲んではならない。(民数記6:2-4)
また、ナジル人としての誓願を立てている間は、頭に剃刀を当ててはならない。その身を主に聖別した日数が満ちるまで、彼らは聖なる者として、髪の毛をのばしておかなければならない。
また、彼らは死体に触れてはならない。
『身を主に聖別している間は、すべて死体に近づいてはならない。父母、兄弟、姉妹が死んだ時でも、そのために身を汚してはならない。神に聖別したしるしが、頭にあるからである。彼はナジルびとである間は、すべて主の聖なる者である。もし人がはからずも彼のかたわらに死んで、彼の聖別した頭を汚したならば、彼は身を清める日に、頭をそらなければならない。すなわち、七日目にそれをそらなければならない。』(民数記6:6-9)
もし死体に触れるなら、意図的・自主的に死体に触れたのでないとしても、たとい、死体が向こうからぶつかって来るような事があったとしても、罪のためのいけにえを捧げなくてはならない。
そして、それまでの捧げて来た期間はリセットされ、彼らの頭にある聖別のしるしは無効とされてしまい、定められた捧げものを捧げてから、再度、ナジル人としての期間を開始しなくてはならない。
死体が向こう側からぶつかって来るような事は、人生で滅多に無いであろうが、状況的にそれに似たケースが、サムソンの場合である。
サムソンは、イスラエルには女が大勢いるのに、よりによって、ペリシテの女デリラを愛し、妻に迎えた。
そこで、サムソンによって悩まされていたペリシテ人たちは、デリラを銀で買収し、サムソンの力の秘密を探らせた。
『女はサムソンに言った、「あなたの心がわたしを離れているのに、どうして『おまえを愛する』と言うことができますか。あなたはすでに三度もわたしを欺き、あなたの大力がどこにあるかをわたしに告げませんでした」。女は毎日その言葉をもって彼に迫り促したので、彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ。
彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。デリラはサムソンがその心をことごとく打ち明けたのを見、人をつかわしてペリシテびとの君たちを呼んで言った、「サムソンはその心をことごとくわたしに打ち明けましたから、今度こそ上っておいでなさい」。そこでペリシテびとの君たちは、銀を携えて女のもとに上ってきた。
女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。』(士師記16:15-20)
サムソンは、自ら髪を切ったわけでも、自らぶどう酒を飲んだわけでも、なかった。
しかし、彼が聖別のしるしを汚す事になってしまった原因は、異邦の女に身も心も委ねてしまったからである。
汚れが偶発的に向こうから降って来る事は、まず無いであろう。
ただし、汚れが降りかかりそうな所に身を置かないようには、注意すべきである。
たとい自分は強いと思っていても、誘惑になりそうなものは避け、味見すらしない事である。
ペリシテ人の屈強な戦士は、サムソンを苦しめる事は決して出来なかったが、妻デリラは、サムソンを死ぬほど苦しい目にあわせる事が出来、結局、サムソンは聖なるものの与奪の権利を、彼女に渡してしまった。
異邦の女と結婚した事、そのような、つまづきのとっかかりとなる事を、初めからしていなければよかったのだ。
サムソンも、ソロモン王も、まんまんとその罠に陥ってしまい、人生を転落させてしまった。
私達キリスト者も、いわば主に「捧げられた者達」である。
私達も、つまづきになりやすいものを近くに置くべきでない。
礼拝説教メッセージ音声:のろいの苦い水(民数記5:11-31):右クリックで保存
この章は、イスラエルの宿営の中から汚れを取り除く命令であるが、神の共同体の中で、最も根幹を為す「夫婦関係」という、絶対に親密であるべき信頼関係において、夫が妻の貞節を疑うという「汚れ」が生じた場合、たとい妻が無実であったとしても、夫のために、必ず取り扱かわなくてはならず、その方法を、主は示しておられる。
『「イスラエルの人々に告げなさい、『もし人の妻たる者が、道ならぬ事をして、その夫に罪を犯し、人が彼女と寝たのに、その事が夫の目に隠れて現れず、彼女はその身を汚したけれども、それに対する証人もなく、彼女もまたその時に捕えられなかった場合、
すなわち、妻が身を汚したために、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあり、または妻が身を汚した事がないのに、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあれば、夫は妻を祭司のもとに伴い、彼女のために大麦の粉一エパの十分の一を供え物として携えてこなければならない。ただし、その上に油を注いではならない。また乳香を加えてはならない。これは疑いの供え物、覚えの供え物であって罪を覚えさせるものだからである。』(民数記5:12-15)
ここには女性に不貞の疑いが生じた場合が記されているが、聖書には、男性が不貞を犯した場合の指示は、記されていない。
なぜなら、夫の「主人」は、全てを見ておられる全能の主であり、彼が不貞を犯す場合は、ダビデの場合のように、主ご自身がその罪を露わにされるからである。
しかし、妻の主人は、全能ではない男性であり、彼は妻が本当に不貞を犯したかどうかが分からないため、それを明らかにするために主はその方法を示された。
『その女を主の前に立たせ、女にその髪の毛をほどかせ、覚えの供え物すなわち、疑いの供え物を、その手に持たせなければならない。そして祭司は、のろいの苦い水を手に取り、女に誓わせて、これに言わなければならない、「もし人があなたと寝たことがなく、またあなたが、夫のもとにあって、道ならぬ事をして汚れたことがなければ、のろいの苦い水も、あなたに害を与えないであろう。
しかし、あなたが、もし夫のもとにあって、道ならぬことをして身を汚し、あなたの夫でない人が、あなたと寝たことがあるならば、―― 祭司はその女に、のろいの誓いをもって誓わせ、その女に言わなければならない。――主はあなたのももをやせさせ、あなたの腹をふくれさせて、あなたを民のうちの、のろいとし、また、ののしりとされるように。また、のろいの水が、あなたの腹にはいってあなたの腹をふくれさせ、あなたのももをやせさせるように」。その時、女は「アァメン、アァメン」と言わなければならない。』(民数記5:18-22)
こうして、女はその「のろいの苦い水」を、主の御前で飲む。
もし彼女が潔白なら、その水は害を与えず、かえって、彼女は子を宿すようになる。
そうでなく本当に彼女が不貞を犯したなら、その女のももは痩せ細り、腹がふくれ、彼女はのろいのしるしとなる。
通常、男が他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も殺されなければならないが(レビ記20:10)、この場合、彼女は「のろいのしるし」として、共同体の中で生きなければならない。
不貞の疑いがかけられている間、妻にとっては苦しみの時であるが、主が、彼女の潔白を明らかにされ、それで夫の愛が以前にも増して戻って来て、しかも、子を宿すようになるからには、この「呪いの苦い水」は、後の彼女には幸いである。
同じように、私達も、主から試され、心の隠れた思いが明らかにされるために、御前で苦い水を飲まされるような時がある。
私達キリスト者は、男も女も全員、主の御前には「妻」という立場であり、他の神々を拝む事は、霊的姦淫である。
のろいの苦い水を飲んだ不貞の女は、腹が膨れ、ももがやせたように、私達も、主に対して隠れた不貞がある時、私達の健康や、経済、あるいは外見などに、必ず何かしらの変調が現れる。
その時は主に罪を告白し、悔い改めるべきである。主は、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが自分の罪を主に認めた時、それを赦して下さったし、イエス様も、姦淫の現場で捕らえられた女を罪に定めず、「これからは決して罪を犯してはならない」と言われた。
主が、敢えて私達を苦々しい試練に遭わせられるのは、私達の心の中が明らかにされるため、私達が全き心で主に従い通すかを、探るためである。
『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)
のろいの苦い水には、聖所のちりが混ぜられたが、私達も、試練に会った時は、口をちりにつけ、主の御前でおとなしく、自分が「ちり」である成り立ちを思い返すべき時である。
『主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。 』(哀歌3:28-33)
のろいの水の試練にあって、潔白が証明された時、夫の愛が戻って来て、以前にも増して愛され、さらに、子を生むようになった。
同じように私達も、主から試され、苦い試練を通され、そしてそれをパスしたなら、主からの寵愛は以前よりも増し、健康や経済など、いのちの祝福は増し加わるのだ。
だから私達は日々、主に対して、全き心であり続けるべきである。