メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:主の住まわれる集会の清め(民数記5:1-10):右クリックで保存
『「イスラエルの人々に命じて、らい病人(原語:ツァラアト)、流出のある者、死体にふれて汚れた者を、ことごとく宿営の外に出させなさい。男でも女でも、あなたがたは彼らを宿営の外に出してそこにおらせ、彼らに宿営を汚させてはならない。わたしがその中に住んでいるからである」。イスラエルの人々はそのようにして、彼らを宿営の外に出した。すなわち、主がモーセに言われたようにイスラエルの人々は行った。』(民数記5:2-5)
ツァラアトに罹っている人や、流出のある人等は、宿営の外に隔離し、そこで生活しなければならないという事を、主は既にレビ記で命じられていた。
その命令が出された時点で、自主的に出て行った人も、出て行かなかった人もいたのだろう。
そしてここで主は、明示的に「ことごとく宿営の外に出させなさい」と命じ、こうしてツァラアトに罹っている人や流出のある人たちは全て宿営から出て行った。
この事は、現代の民主主義・人権主義の観点からは、ひどいよう見える。
しかし、忘れてはならない。神の民は、「民主主義」ではなく「神主主義」、「人権主義」ではなく「神権主義」で生きるべき事を。
主は、イスラエルの宿営を「わたしがその中に住んでいる」と言われた。
聖なる主が、宿営の中に共に住んでおられるからには、一切の汚れをその中から除き去るべきである。
現代は「人権」を不自然に重んじるあまり、殺人者や未成年者の「人権」が歪んだ形でまかり通ってしまい、本来あるべき善悪の概念や、清さと汚れの概念が、混乱を来たしていて、罰するべきを罰さず、罰さぬべきを罰してしまうような事が、まかり通ってしまっている。
民主主義や人権主義は、罪過ちのある不完全な人間を主体とする所に、致命的な欠陥がある。人は結局、神を主として生きる事こそ、最善と幸いがあるのだ。
自分の中に、他人を汚してしまうような罪や汚れがある時は、周囲の人達を汚したり不愉快にしてしまうだけであるので、人の集まりから出て、主と一対一で向き合い、主にこの罪や汚れを対処して頂くうべき時だ。
『ひとりの重い皮膚病人(ツァラアト)がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病(ツァラアト)は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)
また主は、和解すべき紛争を和解し、解決すべき問題を解決し、そうして、イスラエルの宿営の中から平和を乱す種を除き去るよう命じておられる。
『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない。』(民数記5:6-7)
ここはKJVでは「When a man or woman shall commit any sin that men commit,」と始まる。
罪にコミットする事、すなわち、「罪」状態に入る事は、人に損害を与えるだけでなく、「主に罪を犯す事」と記されている。
その解決のために、犯した罪を告白し、損失を与えた相手がいる場合には、五分の一を加えて償いをし、償いをすべき相手がいなければ、主に対して償わなければならない。
私達が罪を犯す事によって、主も、兄弟姉妹たちも、心に傷を受ける。だから、単に物品の償いをすれば良いという問題ではなく、相手の心のためにも、主のためにも、ある程度のペナルティを自分が受ける必要があるのだ。
イスラエルの会衆は、このように、共同体の中から汚れを除き去り、主の住まわれるイスラエルの宿営を清めた。
私達も、主から除き去るべき罪、解決すべき問題が示されたなら、早急にそれを除き去り、私達が属する主の集会を清めるべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
尊い器を運ぶ責任(エズラ記8:24-36):右クリックで保存
【概要】
エズラ記8章24節から36節において、エズラが神殿への奉納物を運ぶ際の信仰と責任について語られています。彼は神の守りを信じ、断食と祈りを通じて旅の安全を求めました。
【聖書箇所】
エズラ記8章24節から36節
【励ましの言葉】
神は信頼する者を守り、導いてくださいます。私たちも神に頼り、祈りを通じて日々の歩みを守っていただきましょう。
【戒めの言葉】
祈った後も、私たちは自らの責任を果たし続ける必要があります。神に託されたものをしっかりと管理し、守り続けましょう。
【***詳細***】
エズラ記8章24節から36節は、エズラが神殿への奉納物を運ぶために選ばれた祭司たちとレビ人たちに対して、どのようにその任務を遂行するべきかを指示する場面です。エズラは、祭司長たちの中から十二人を選び、彼らに銀650タラント、金100タラント、その他の貴重な器類を託しました。これらはイスラエルの神の宮への奉納物であり、非常に重要なものでした。
エズラは彼らに、「あなた方は主の聖なるものである。この器類も聖なるものとされている。この銀と金はあなた方の父祖の神、主への進んで捧げる捧げ物である」と告げ、エルサレムの主の宮の部屋で、祭司長たち、レビビトたち、イスラエルの一族の長たちの前で、計るまで寝ずの番をして守るように命じました。
エズラたちは、第一の月の十二日にアハワ川を出発し、神の御手が彼らを守り、敵の手から救い出してくださいました。こうして彼らは無事にエルサレムに到着し、神の宮に奉納物を届けました。彼らは、王の命令書を川向こうの総督たちに渡し、民と神の都に援助を与えました。
この物語は、神の守りを信じることの重要性を教えています。エズラは、神に頼り、断食と祈りを通じて旅の安全を求めました。彼は、神の守りを信じることが、世の力に頼ることよりも重要であると考えました。
私たちも、神に託されたものをしっかりと管理し、守り続ける責任があります。祈った後も、私たちは自らの責任を果たし続ける必要があります。神に託されたものをしっかりと管理し、守り続けましょう。
【結論】
エズラ記8章24節から36節は、神の守りを信じることの重要性と、神に託されたものをしっかりと管理し、守り続ける責任を教えています。私たちも、神に頼り、祈りを通じて日々の歩みを守っていただきましょう。そして、神に託されたものをしっかりと管理し、守り続ける責任を果たしましょう。
礼拝説教メッセージ音声:御国のオーケストラ奏者である神の奉仕者(民数記4:34-49):右クリックで保存
『モーセとアロン、およびイスラエルのつかさたちは、レビびとを、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、会見の幕屋にはいって務の働きをし、また、運ぶ働きをする者を、ことごとく数えたが、その数えられた者は八千五百八十人であった。彼らは主の命により、モーセによって任じられ、おのおのその働きにつき、かつその運ぶところを受け持った。こうして彼らは主のモーセに命じられたように数えられたのである。』(民数記4:46-49)
こうしてレビ族のうち、幕屋の奉仕が出来る人々が数えられ、登録された。
コハテ族の二千七百五十人は、アロンの子エルアザルが指揮をとり、ゲルション族の二千六百三十人・メラリ族の三千二百人は、アロンの子イタマルが指揮をとる。
神の奉仕者達には、必ずそれぞれ従うべき権威があり、その指揮の元に、各自の奉仕が割り当てられ、秩序正しく奉仕を遂行していく。
レビ以外の部族は、20歳以上が戦う者として登録されたが、ことに神の務めは、若い情欲や血気盛んさが抜けて、ある程度大人として成熟してからでないと、奉仕できる者として登録されない。
神の奉仕は、オーケストラのようであり、奉仕者は自分のやりたい事を捨て、指揮者であるキリストのタクトをよく見、その導きに従い、全体で、キリストのからだという美しいハーモニーを奏でるために、それぞれに与えられた賜物という楽器を演奏するものである。
誰か一人でも、目立ったり注目してもらいたいと、身勝手に指揮されてもいない事をするならば、全体のハーモニーを台無しにしてしまう。
祭司の奉仕も、レビ族の奉仕も、一歩誤ると、神に打たれて死んでしまう。だから神の奉仕は本来、信仰がある程度成熟していなくては、任せられないものである。
旧約時代は、ただ祭司だけが聖所の奉仕が許されているのみで、いかにコハテ族といえども、聖所の器物を見る事さえ許されていなかった。
しかし現代、キリスト者は、キリストにあって隔ての幕は打ち壊され、王族の祭司とされ、聖所の覆いは取り除かれている。
キリストにあるなら、誰もが、大胆に恵みの御座に近づき、おりにかなった助けを得ることができる。
新約の現代、キリストにあって自らを清める人は、ますます、尊い事に用いられる器とされていく。
『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。』(2:20-22)
このように、主の奉仕者は、汚れから離れ、自らを清めていく必要があり、そのための「清め」は、私達のがんばりによるのではなく、主の導きに従って行く事による。
『去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの/しんがりとなられるからだ。』(イザヤ52:11-12)
若い時の情欲から離れ、成熟した者として自らを清め、主に有用なものとされ、ますます尊い事に用いられて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ゲルション族、メラリ族の奉仕(民数記4:21-33):右クリックで保存
今回の箇所では、ゲルション族、メラリ族の奉仕分担について命じられている。
『ゲルションびとの氏族の務として働くことと、運ぶ物とは次のとおりである。すなわち、彼らは幕屋の幕、会見の幕屋およびそのおおいと、その上のじゅごんの皮のおおい、ならびに会見の幕屋の入口のとばりを運び、また庭のあげばり、および幕屋と祭壇のまわりの庭の門の入口のとばりと、そのひも、ならびにそれに用いるすべての器を運ばなければならない。そして彼らはすべてこれらのものについての働きをしなければならない。』(民数記4:24-26)
ゲルション族が運ぶべき幕屋の器具は、幕や覆い、皮などの布製品で、幕屋を覆うもの、折り曲げ可能なものである。
それに対し、メラリ族が運ぶべき幕屋の器具は、立て板や土台などの、幕屋の骨格みをなす部分で、大きく硬いものである。
『彼ら(メラリ族)が会見の幕屋でするすべての務にしたがって、その運ぶ責任のある物は次のとおりである。すなわち、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、庭のまわりの柱、その座、その釘、そのひも、またそのすべての器、およびそれに用いるすべてのものである。あなたがたは彼らが運ぶ責任のある器を、その名によって割り当てなければならない。』(民数記4:31)
彼らが取り扱うものは、ケハテ族のような聖なる祭具でなく、板や布など、霊的レベルの低いものを運ぶ奉仕、と思われがちだが、それらが無くては、幕屋は成り立たない。
イエス様も、神殿と神殿の黄金に貴賎の区別をつけているパリサイ人を「愚か」だと叱責している。
『盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。』(マタイ23:16-17)
ゲルション族やメラリ族が運ぶべきものは、出エジプト記26,27章で主が示されている幕屋の寸法を見ると、結構な大きさのものである事が分かる。
幕屋全体を覆う幕は、1.78mx12.5mほどの布を基本構成とし、それを10枚つなぎあわせ、大きな一つの幕としている。さらに、そのような大きさの幕が、合計4層に渡って覆われている。
幕屋の壁は、4.45mx0.66mのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
そればかりでなく、外庭の寸法は、およそ22mx44mであるが、その外庭と外界を区切る架け幕、およそ2mほどの感覚で立てられた立板と、それを支える青銅の土台もある。
このように、幕屋全体の器物となると、結構膨大な量となり、それを解体したり運んだり組み立たりするとなると、とても数人でできるものではない。
幕屋から臨在の雲が離れてのぼった時、すなわち、主がその場所から行くようにとのGOサインが出た時、まず、祭司が至聖所と聖所の器物を梱包し、それが終わったら、エルアザルがケハテ族にそれらを運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルがゲルション族に布製品を解体して運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルはメラリ族に骨組みと土台を解体して運び出すよう指示し、そうして、幕屋が荒野を移動する準備が整うのである。
これら全ては、秩序正しく為されなければならない。
神の国の奉仕も同じで、それぞれが身勝手になってはならず、主にあって秩序正しく為されなければならない。
礼拝説教メッセージ音声:コハテ族の奉仕(民数記4:1-20):右クリックで保存
『「レビの子たちのうちから、コハテの子たちの総数を、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、務につき、会見の幕屋で働くことのできる者を、ことごとく数えなさい。』(民数記4:2-3)
3章では、生後一ヶ月からのレビ族の男子が数えられたが、4章ではさらに、幕屋の奉仕に携わる事のできる、三十歳以上・五十歳以下の、働き人の数を数えるように、命じられている。
レビ人の幕屋の奉仕は、幕屋の器物を実際に運ぶ事だが、それらの多くは、金や銀、アカシヤ材などで出来た重量物であり、また、全て主の礼拝に用いられる聖なる器物であるから、この奉仕に当たるのは、ある程度成熟した男性でなければならない。
『宿営の進む時に、アロンとその子たちとは、まず、はいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをもって、あかしの箱をおおい、その上に、じゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にさおをさし入れる。』(民数記4:5-6)
主の臨在の雲が立ち上がり、イスラエルが進むように導かれた時、幕屋は解体して、荒野を運んで行かなくてはならないが、解体するにあたって、まず、祭司であるアロンとその子達が解体して梱包し、担ぎ棒を通し、運べる状態にし終わってから、初めて、レビ人達の手に委ねる事が出来る。
この、幕屋の聖なる器物には、それぞれ、梱包する手順も、主から定められている。
まず、あかしの箱の場合は、聖所と至聖所を仕切る幕で覆い、次はじゅごんの皮で、そして一番外側は、青色の布で覆う。
供えのパンの机と、それに属する祭具の場合は、まず青布で覆い、次は緋色の撚り糸の布、そして一番外側は、じゅごんの皮で覆う。
燭台や金の香壇など、その他に聖所の務めに用いる道具は、全て、まず青布で覆い、その上にじゅごんの皮で覆う。
つまり、レビ人がそれらを運搬する際は、契約の箱は、青布で包まれた神輿のようなものとなり、それ以外の祭具は、じゅごんの皮で包まれたものとなる。
これら聖なる祭具は、少しでも中身を晒してはならない。
それらは、あまりに聖であるため、主の許しの無い人が触れてしまうと、死んでしまうためであり、それは、いかに祭具を運ぶ役割が与えられたケハテ族のレビ人であっても、それを直接見るなら、死んでしまうのである。(15,20節)
これらの中身は、尊き神の聖なる器具ではあるものの、ケハテ族にとっては、それは単に、じゅごんの皮で包まれた、見栄えの良くない、運ぶには重たく難儀するもの、と、思えるかもしれない。
そのように、外見的・表面的な事で、奉仕を見てしまうと、自分達は、つまらない、きつい、地味すぎる奉仕ばかりやらされている、と、良からぬ思いで満ちて行ってしまう。
だからいつも、自分達は尊い器を運ぶという、尊い奉仕をさせていただいている、という、感謝を忘れぬべきである。
しかし、聖なる祭具を運ぶ役割が与えられているコハテ族のコラは、モーセとアロンに逆らった。
『ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。』(民数記16:1-3)
彼らの言い分は、全会衆はことごとく聖なるもので、主がその内におられるのだから、モーセとアロンだけが人の上に立って祭司として偉そうにしているのはおかしい、というものだ。
その言い分は、現状の立ち位置に不満のある人々には、もっともに聞こえ、ある種の自己実現欲をくすぐるものである。
ここにいる、名のある二百五十名も、その欲望をかき立てられて、コラと共に立ったのだろう。
モーセは、そんな彼らに、本来的な事を思い起こさせようと、説得する。
コラ達コハテ族は、主の御そば近くで栄誉ある務めに任じられており、それは小さなことではなく、特別な事である。
それで満足せず、なお祭司の職務を求めるのは、主に敵対する事だ、と。
しかし、彼らはモーセの説得を突っぱねた。
そんな彼らの末路は、とても恐ろしいものであった。
『エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラムである。このダタンとアビラムとは会衆のうちから選び出された者で、コラのともがらと共にモーセとアロンとに逆らって主と争った時、地は口を開いて彼らとコラとをのみ、その仲間は死んだ。その時二百五十人が火に焼き滅ぼされて、戒めの鏡となった。ただし、コラの子たちは死ななかった。』(民数記26:9-11)
コラの子達は、父が滅びるまさにその時、その天幕から離れて、滅びを免れていたようである。
恐らく彼らは、父よりも主を恐れ、父の陰謀から離れていたのだろう。
そして、そのコラの子孫たちは、詩篇において、素晴らしい信仰告白をいくつも残している。
『聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。』(詩篇42:1-2)
いかにコラの子といえど、主を慕いあえぐ心をもって、主の奉仕を感謝しつつ望むなら、後に大きな栄誉に与るのである。
私達の奉仕も、もしかしたら、じゅごんの皮の重たいものを運んでいるかのような、地味なものであるかのように見えるかもしれない。
しかし、その中身は、主の尊い事に用いられる、聖なる器である。
その事をいつも忘れずに、主を慕いあえぎつつ感謝を持って、奉仕に当たっていく皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの長男の数(民数記3:40-51):右クリックで保存
『主はまたモーセに言われた、「あなたは、イスラエルの人々のうち、すべてういごである男子の一か月以上のものを数えて、その名の数を調べなさい。また主なるわたしのために、イスラエルの人々のうちの、すべてのういごの代りにレビびとを取り、またイスラエルの人々の家畜のうちの、すべてのういごの代りに、レビびとの家畜を取りなさい」。』(民数記3:40-41)
イスラエルにおいて、長男は主のものである。
その長男を主に捧げる代わりに、レビ人をその代わりとするため、イスラエルの長男の数を数えるよう、命じられている。
面白い事に、家畜の初子も、同じように、レビ人が所有する家畜の代わりとせよ、と言われている。
レビ人の持ち物も、イスラエル民族の持ち物の代表として、神に捧げられている、という事だろうか。
『またイスラエルの人々のういごは、レビびとの数を二百七十三人超過しているから、そのあがないのために、そのあたまかずによって、ひとりごとに銀五シケルを取らなければならない。すなわち、聖所のシケルにしたがって、それを取らなければならない。一シケルは二十ゲラである。あなたは、その超過した者をあがなう金を、アロンと、その子たちに渡さなければならない」。』(民数記3:46-48)
イスラエル全体の長男の数を数えてみた所、長男の数のほうが、レビ人の数より273人多い事が分かり、『一か月から五歳までは、男にはその値積りを銀五シケルとしなければならない。』(レビ記27:6) という規定に従って、その人数分の贖いの銀を主の元に納め、そうして、イスラエルの初子の贖いを完済した。
『その数えられたういごの男子、すべて一か月以上の者は、その名の数によると二万二千二百七十三人であった。』(民数記3:43)
イスラエル全体の長男の数は、22,273人。それに対し、イスラエル全体の男子の数は、レビ族を除いて、603,550人。(1:46)
全男子の数を、長男の数で割ると、イスラエルの一家の平均的な男子の数となるが、その数、およそ27!
驚きである。
ひと家庭に、男子が27人いたという事は、男女比率が1:1だとすると、一家庭に、60人近くの子供がいた、という事だろう。
それは、現代日本の常識では想像もできないが、ギネスブックによると、18世紀のロシアの農民ヒョードル・ワシリエフの妻が、1725年から1765年にかけて、27回の出産で、双子16組、三つ子7組、四つ子4組の、計69人を産んだ記録があるそうだ。
イスラエルは、エジプトに滞在した400年で、70人から六十万以上に増えた。エジプトがイスラエルを脅威に感じたのも、うなずける。
カナンの地で穫れたぶどうは、あまりに大きく、そのひと房を、大人が二人がかりで担いだ(民 13:23)とか、七日間イスラエルの民がエリコを廻ったら城壁が崩れたとか、ヨシュアが祈ると地球の自転が一日止まったとか(ヨシュア10:12)、聖書は、現代の常識では考えられない記述の連続である。
しかし、考古学の発掘で、エリコの城壁は内部から外部へと不自然な崩壊の仕方をしている事が発見され、宇宙物理学でも、地球は確かに過去、一日自転が止まった事が証明されているそうである。
聖書の記述は、現代を生きる私達にとって、あまりに想定外のため、多くの人が信じられないと言っているが、主は、天地を創られ、物理法則を定められた、不可能の無いお方であり、信じる者には、力強き助けの御手を伸ばして下さるお方である。
イスラエルの民に注がれたのと同じ祝福を、いや、それ以上の祝福さえ、私達・信じる者に与えて下さると、私達も大いに信じるべきである。
『イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』(マルコ9:23-24)
礼拝説教メッセージ音声:神の奉仕者として登録される(民数記3:14-39):右クリックで保存
「あなたはレビの子たちを、その父祖の家により、その氏族によって数えなさい。すなわち、一か月以上の男子を数えなければならない」(民数記3:15)
一般のイスラエル部族が登録される場合は、二十歳以上の成人男性が数えられたが、レビ族に限ってはそうではなく、生後一ヶ月以上の男子を数えなければならない、とされた。
レビ族は、神殿や幕屋で、神の奉仕をする部族である。
つまり、神の奉仕者は、たとい、生後一ヶ月の、母に抱かれている乳幼児であっても「神の奉仕者」としてカウントされており、彼らは子供の頃から働き人として教えこまれ、育てられるのである。
『レビの子たちの名は次のとおりである。すなわち、ゲルション、コハテ、メラリ。』(民数記3:17)
レビ族にはこの三部族がおり、それぞれの部族ごとの役割は、21-39節で示されている。
まず、ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる事で、神の幕屋の西側に宿営する。
ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる事で、幕屋の南側に宿営する。
メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる事で、幕屋の北側に宿営する。
そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)
主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。
教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。
『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。
実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。
ところで、16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民の聖なるプライド(エズラ記8:1-23):右クリックで保存
【概要】
エズラ記8章では、バビロンからエルサレムへの帰還を目指すエズラとその同行者たちの名簿が記されています。彼らは神の導きと守りを求め、断食と祈りを通じて信仰を示しました。
【聖書箇所】
エズラ記8章1-23節
【励ましの言葉】
神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下します。
【戒めの言葉】
神を捨てる者には、その力と怒りが下ります。
【勧めの言葉】
神に属する者として、信仰を持って行動し、神の守りを信じましょう。
【***詳細***】
エズラ記8章は、バビロンからエルサレムへ帰還するエズラとその同行者たちの名簿から始まります。彼らはアルタシャスタ王の命令を受け、神殿の再建と立法の教えを広めるために帰還の旅に出ます。
エズラは、アハワ川のほとりでレビ人がいないことに気づき、レビ人を集めるために使者を送りました。神の恵みの御手が彼らの上にあったため、レビ人や宮に仕える者たちが集まりました。エズラは、神の立法を調べ、実行し、教えることを心に定めていました。
エズラは、道中の無事を神に願い求めるために断食を布告しました。彼は、王に護衛を求めることを恥じ、神の守りを信じることを選びました。エズラは、神の御手が彼らを守ると信じ、断食と祈りを通じて神に願い求めました。神は彼らの願いを聞き入れ、道中を守られました。
この箇所は、信仰を持って神により頼むことの重要性を教えています。エズラは、神の名誉を守るために、神の力により頼むことを選びました。私たちも、神に証を立て、信仰を持って行動することが求められています。
【結論】
エズラ記8章は、信仰を持って神により頼むことの重要性を示しています。私たちは、神に属する者として、信仰を持って行動し、神の守りを信じることが求められています。神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下します。私たちも、神に証を立て、信仰を持って行動することを心がけましょう。
礼拝説教メッセージ音声:代表選手がした事は(民数記3:1-13):右クリックで保存
この章は、レビ族の務めと役割分担が記されているが、その、主が命令されている内容から、主の定められたルールの特徴と傾向を見る事ができる。
『主がシナイ山で、モーセと語られた時の、アロンとモーセの一族は、次のとおりであった。アロンの子たちの名は、次のとおりである。長子はナダブ、次はアビウ、エレアザル、イタマル。これがアロンの子たちの名であって、彼らはみな油を注がれ、祭司の職に任じられて祭司となった。
ナダブとアビウとは、シナイの荒野において、異火を主の前にささげたので、主の前で死んだ。彼らには子供がなかった。そしてエレアザルとイタマルとが、父アロンの前で祭司の務をした。』(民数記3:1-4)
祭司は民を代表して主の御前に立つものであり、その代表である大祭司が違ったことをするなら、イスラエル全体に罪を運んでしまうため、責任重大である。
主の前に異なった火を捧げたナダブとアビフは、主に打たれてしまったため、その弟達であるエルアザルとイタマルが代わりに祭司の務めを為す事となった。
しかし、彼ら祭司たちだけでは、天幕の務め全体を担い切る事はできない。
そこで主は、レビ族を特別に召しだされ、神の奉仕に当てるために召しだされた。(同9節)
『レビの部族を召し寄せ、祭司アロンの前に立って仕えさせなさい。彼らは会見の幕屋の前にあって、アロンと全会衆のために、その務をし、幕屋の働きをしなければならない。すなわち、彼らは会見の幕屋の、すべての器をまもり、イスラエルの人々のために務をし、幕屋の働きをしなければならない。・・・あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう』(民数記3:6-10)
この所から、主の御前に仕える事が許されているのは「主が定めた人のみ」であり、それ以外は、決してそれを為してはならない事が分かる。
『主はまたモーセに言われた、「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」。』(民数記3:11-13)
ここからも、動物も人も、全ての「初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる、という主のルールも、ここから読み取る事が出来る。
罪は、私達人生全員の代表選手・アダムひとりによって罪が入り(最初に罪を犯しアダムを唆したのは妻エバだが、アダムが代表であり、彼が罪を犯した事になる)、こうして一人の人を通して人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
このアダムは、きたるべきお方・キリストの型である。
『しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか・・・。
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか・・・。
このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。』(ローマ5:15-19)
イエス様を信じ、神の子とされた私達にとって、今や、イエス様が長男であり、代表選手である。
そのイエス様がして下さった事は、私達もした、と、見なされる。
すなわち、キリストが受けた裁きと罰も、キリストが死んで下さった「死」も、キリストがよみがえって下さった「よみがえり」も、キリストが律法を成就して下さったその成果も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と、主の御前で見なされる。
私達は、十字架に架けられた記憶は無いし、罪が処罰された記憶も無い。律法を成就した記憶も、キリストが行った素晴らしい行いを行った記憶も無い。
しかし私達は、キリストにあって、神の御前には、私達も「した」と見なされているのである。
どれほど都合の良い話しであろうか!
そう、福音は都合が良すぎて、にわかに信じがたい事である。
『神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に”御子のかたちに似たもの”としようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で”長子”とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。』(ローマ8:28-30)
礼拝説教メッセージ音声:荒野を覆う巨大な生きた十字架(民数記2:1-34):右クリックで保存
『主はモーセとアロンに言われた、「イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。 』(民数記2:1-2)
民数記2章は、六十万以上のイスラエルの部隊が荒野を行進して行く上で、どのように秩序立って進んでいくべきかが、命じられている。
この荒野の行軍は、誰もがが好き勝手に、無秩序に好きな所へ行って良い、というものではない。
主が定められた配置どおりに進み、主が定められた場所に留まらなくてはならない。
そして、この六十万以上の宿営の中心は、神の幕屋、すなわち、神を礼拝する所である。(17節)
現代を生きるキリスト者の歩みも、約束の地を目指して荒野を行軍して行くイスラエルの民のようなものである。
私達も、彼らと同じく好き勝手に進んではならず、それぞれが立つべき立ち位置につき、主が定められた所に住まい、導きに従って進退しなくてはならない。
主の臨在が進んだなら、私達も進み、主の臨在が留まったなら、そこに留まる、という、主を中心とした歩みをしていくべきである。
荒野を行軍して行く際は、それぞれの部族の旗印にしたがい、宿営すべき場所が主から定められている。
すなわち、神の幕屋を中心として、その東側にはユダ、イッサカル、ゼブルンの3部族、合わせて十八万六千四百人が宿営し、その南側にはルベン、シメオン、ガドの3部族、合わせて十五万一千四百五十人が宿営し、その西側はエフライム、マナセ、ベニヤミンの3部族、合わせて十万八千百人が宿営し、そして北側には、ダン、アシェル、ナフタリの3部族、合わせて十五万七千六百人が宿営する。
さて、この隊形は、天から見ると、どんな形になるだろうか。
それはちょうど、西側を頭とした十字架の形となるはずだ。
イスラエル民族は、普通に天幕生活したり、行軍したりしているつもりでいて、実は、彼ら全体で十字架を表現していたのだ。
私達キリスト者の歩みも、荒野の天幕生活のようである。
その日々の歩みには、キリストの十字架は見えにくいかもしれない。
しかし、天から見れば、そして永遠の視点から見れば、主があちらこちらに配剤されており、そして、私達の「人生」という綾織物が完成した時、実は、この人生の全体を通してキリストが表現されていた事に気づくだろう。
いや、今もすでに人生を振り返った時、人生のあの時この時でキリストが練り込まれていた事に、既に気づいている方が、おられるのではないだろうか。
そういうわけで、私達が人生という荒野の旅路を行軍して行く際、中心とすべきは、主を礼拝する事である。
主が定められた、それぞれの立ち位置につき、主の導きに従って行動すべきである。
主が「東を守れ」と言っているのに、自分の好き勝手で、南西を守っていたら、その人自身も、そして全体にも、支障が来される。
世に出て働く人は、与えられた場所でしっかり働き、主の奉仕が割り当てられている人は、しっかりその務めをなし、そうして私達おのおのは、キリストのからだの各部分として有機的に機能し、全体を通してキリストを表現して行くのだ。