メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神殿を建てようとする際の妨害(エズラ記4:1-6):右クリックで保存
【概要】
エズラ記4章1節から6節を通して、神殿再建の際に直面した敵の妨害と、それに対する信仰の姿勢について学びます。
【聖書箇所】
エズラ記4章1-6節
【戒めの言葉】
信仰の働きにおいて、敵の妨害や誘惑に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことの重要性を学びます。
【勧めの言葉】
神の御言葉を信頼し、どんな妨害があっても信仰を持って進むことを勧めます。
【***詳細***】
エズラ記4章1節から6節では、ユダとベニヤミンの敵たちが、イスラエルの神殿再建を妨害しようとする様子が描かれています。彼らはゼルバベルと一族の頭たちに近づき、「私たちもあなた方と一緒に建てたい」と申し出ますが、ゼルバベルたちは「あなた方と私たちとは何の関係もない」と断ります。これにより、敵たちはユダの民の気力を失わせ、脅し、さらには役人を買収して計画を妨害しました。
この妨害は、ペルシャの王クロスの時代からダリオスの治世まで続きました。さらに、アハシュエロスの治世にもユダとエルサレムの住民を非難する国訴状が書かれました。これらの妨害は、神殿再建の働きを一時的に中断させましたが、神の御言葉は決して無駄にはなりません。
イザヤ書55章6節からの御言葉では、「私の口から出る私の言葉も、むなしく私のところには帰っては来ない」とあります。神の御言葉は必ず成就し、私たちが信仰を持って進むならば、神の約束は実現します。
このように、信仰の働きにおいては、敵の妨害や誘惑に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことが重要です。ゼルバベルとヨシアは、敵の企みを見抜き、神の御言葉を信頼して行動しました。その結果、神殿再建の働きは再び進められ、神の祝福を受けることができました。
【結論】
信仰の働きにおいて、敵の妨害に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことが重要です。神の御言葉は必ず成就し、私たちが信仰を持って進むならば、神の約束は実現します。私たちも、神の御言葉を信頼し、どんな妨害があっても信仰を持って進むことを心がけましょう。
礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の贖いのつとめ(レビ記16:11-22):右クリックで保存
『彼が聖所であがないをするために、はいった時は、自分と自分の家族と、イスラエルの全会衆とのために、あがないをなし終えて出るまで、だれも会見の幕屋の内にいてはならない。』(レビ記16:17)
大贖罪日の贖いの務めは、一人の大祭司の手によって執り行われる。
同じように、人類全体の贖いも、キリストという一人の大祭司によって行われた。
今回の箇所は、大贖罪日にて大祭司が執り行うべき事の指示で、この日、大祭司が為す事は、大きく分けて三段階ある。
その第一のステップは、まず、大祭司自身とその家族のための贖いであり、そのためにまず罪祭の雄牛をほふる。
そして、祭壇から炭火を満たした香炉と、細かくひいた薫香を両手いっぱいに取って垂幕の内に携え入り、主の前に薫香をその火にくべ、薫香の煙で、契約の箱の贖罪蓋を覆わせ(レビ記16:11-13)、大祭司と契約の箱の間に、香り高い香の煙を置く事によって、罪ある大祭司が直接、主の栄光に触れぬようにする。
そうしてから、罪祭でほふった血潮を、七という完全数が満ちるまで、振りかける。
『こうして、彼は死を免れるであろう。』(レビ記16:13)とある通り、一連の手順を一歩でも間違えると、死ぬ事があったのだ。
こうして、まず、贖罪を執り行う大祭司自身の贖いが為される。
第二のステップは、民全体の罪咎の故に汚れてしまった聖所、会見の天幕、祭壇のための贖いである。(レビ記16:15-19)
聖なる場所が、人々の罪の故に汚れ、その「聖」をあらわさなくなってしまう、という事は、実際にある。誤って契約の箱に触れるなら、大祭司でさえ死んでしまったというのに、イスラエルの罪が甚だ大きくなった時には、異邦人の手で、やすやすと、契約の箱が奪われてしまった。
同じように、かつては聖なる性質を現していたキリスト者であっても、罪に罪を重ねているなら、主の栄光は離れ、もはや聖なる趣きを醸さなくなってしまうのだ。
それ故、会見の天幕と、祭壇から、人間の汚れを取り除くための贖いが必要なのである。
『そして彼は主の前の祭壇のもとに出てきて、これがために、あがないをしなければならない、すなわち、かの雄牛の血と、やぎの血とを取って祭壇の四すみの角につけ、また指をもって七たびその血をその上に注ぎ、イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければならない。』(レビ記16:18-19)
民の罪を清めるために、祭司は罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入って、祭司自身の贖いの時のように、贖罪蓋にその血潮をかける。
こうして大祭司は、イスラエルの人々の汚れと罪咎のゆえに汚れてしまった聖所と、会見の幕屋の贖いをする。
三番目のステップは、イスラエル全体の罪を、一匹のやぎに移し、それを遠くに追いやる事である。
『そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。』(レビ記16:20-22)
大祭司が、そのやぎの頭に手を置き、イスラエルが犯してきた思いつく限りの罪をことごとく告白して、全ての罪を、そのやぎに転嫁する。
そしてやぎは荒野へと解き放たれ、イスラエルの共同体から、遠く離れて行く。
このやぎは、まさしくキリストのご性質を現している。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)
キリストがイスラエル共同体から外へ追い出され、全ての罪、全ての病、全ての悲しみを背負ってくださった。
全イスラエルの罪を負ったやぎが、イスラエルから遠く離れて行くように、主は私達の罪を、全てキリストに背負わせ、私達から罪を遠く引き離して下さる。
そのお陰で、私達はいやされ、彼のその身代わりの懲らしめの故に、私達に平安が与えられたのだ。
『主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。』(詩篇103:10-12)
礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の準備(レビ記16:1-10):右クリックで保存
レビ記16章は、年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に、祭司が為す務めについて記されている。
この事を教えるにあたり、真っ先に主が思い起こさせた事は、あの恐ろしい事件、主の御前から火が出て、アロンの二人の子を焼き尽くした出来事だった。
『アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。』(レビ記16:1-2)
人は、いたづらに聖なる主の御前に出てはならず、必ず、主が提示された方法に従うべき事を教えている。
主の栄光が現れる。
それは素晴らしき事である。
主の臨在、それはキリスト者であるなら、誰でも求めるものであろう。
しかし、主の御前に出る時、人間の側の「勝手」は一切通用しない。
主の側が示された作法に、100%従うべきである。
そうでないと、主の栄光は逆にその人自身を滅ぼしてしまうものとなってしまう事は、レビ記10章で既に見ているし、民数記の至る所でも記されている通りである。
『アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。』(レビ記16:3-4)
大贖罪日において、まず真っ先に為すべきは、イスラエル全体の贖いを執り行う大祭司自身の、罪の贖いである。
そのために、雄の子牛を罪祭として取り、雄羊を燔祭のために取る。
人間の祭司は、弱さがあり、罪を犯すし、不完全である。キリストこそ、罪なく完全な大祭司である。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:26-28)
そして、次に準備するのが、イスラエルの人々のための贖いとなる雄やぎ二頭、これを罪祭のために取り、雄羊一頭、これを燔祭のために取る。
二頭のやぎに関しては、特別な捧げ方をする。
『アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。』(レビ記16:7-8)
アザゼルとは、アザール(完全に除去する)の変化形で、KJVではスケープゴートと訳されており、人々の罪を一身に負い、人々の身代わりとなって荒野を遠く追いやられる山羊である。
大贖罪日、それはイスラエル全体の罪を贖い、神の御前に「罪なき」とされる日であるが、人類全体の罪を取り除く、まことのいけにえは、イエスキリストである。
神様が規定したこれらの行為の背後には、いつも、キリストがいる事を忘れてはならない。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)
礼拝説教メッセージ音声:女性の過多月経(長血)についての教え(レビ記15:25-33):右クリックで保存
『女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわった物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。』(レビ記15:25-26)
ここは、いわゆる不正出血、過多月経(長血)などの場合についての教えである。
月経は、女性の体が子供を産む準備をしているために起こるものであり、子供を産むためには、当然、精子(ギリシア語ではスペルマ:種、子孫の意味もある)が必要である。
女性は精子(スペルマ)が無ければ、どうあがいても子供を身篭れないように、私達も、キリストというまことのスペルマが無ければ、永遠のいのちは生じない。
『約束は、アブラハムと彼の子孫(スペルマ)とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫(スペルマ)たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫(スペルマ)とに」と言っている。これは、キリストのことである。』(ガラテヤ3:16)
また、みことばの種(スペルマ)が、私達という土地に蒔かれなければ、いのちの実を結ぶ事は出来ない。
肉の命は血の中にある(レビ記17:11)、とある通り、女性が、血を排出すべきでない時に排出し続ける事は、霊的には、いのちを無駄に流し続けているようなもので、御言葉の「種」を受けず、まことのスペルマなるキリストを受け入れもしない状態では、いたずらにいのちを流し出すのみである。
女性が受精した時、血のいのちは、胎内に宿った新しいいのちに流れ込むようになって、決して無駄にはならないように、人が、キリストというまことのスペルマを受けた時、いのちを無駄に垂れ流すという事は無くなり、キリストのいのちが、その人の内ですくすくと育って行く事となるのだ。
世界という器は、キリストというまことのスペルマが来なければ、この世界に、いのちは無い。
しかしある時、人間のスペルマ無しに、一方的な神の力添えによって身ごもった女性がいた。それが、乙女マリヤである。
彼女は、人のスペルマによってではなく、いと高き方から力が流れてきて、聖霊によって身ごもったのだ。
私達の救いも、人でによるのではなく上から与えられ、聖霊によって「イエスは主です」と告白する事によって、救われるのである。
『その女の流出がやんで、清くなるならば、自分のために、なお七日を数えなければならない。そして後、清くなるであろう。その女は八日目に山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を自分のために取り、それを会見の幕屋の入口におる祭司のもとに携えて行かなければならない。』(レビ記15:28-29)
鳩は聖霊を意味する。
いのちを不正に流し出す汚れからきよめられた時、聖霊によって歩む決心をするのである。
新約聖書にも、長血を患う女が登場する。
彼女は12年もそのジレンマにあり、律法上は汚れたものとして苦しんで来たが、多くの医者にかかっても何の助けにもならず、その持ち物をみな費してしまっても、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。(マルコ5:26)
人間の医学も、お金も、罪に対し、汚れに対し、何の力も持たない。それらに頼っても、逆にますます悪くなる一方で、ただ、いのちと、お金と、時間、若さを費やすのみである。
彼女が唯一救われたのは、まことのスペルマなるイエス様を信じ、信仰をもって触ったからである。
罪と汚れからの救いは、ただイエスキリストのみである。
キリストを信じる信仰を持って、彼に手を延ばすなら、誰でも救われる。
『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』(5:34)
イエス様に信仰をもって手を伸ばし、罪と汚れから、病から癒していただき、健やかに、安心して行く皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:性器からの流出物(レビ記15:1-15):右クリックで保存
レビ記15章は、性器からの流出物がある場合についての教えである。
『だれでもその肉に流出があれば、その流出は汚れである。』(レビ記15:2)
ここの「だれでも」の原語「イシュ」は、英語で言う所の「man」、「男」をあらわすと同時に、女性も含めた「人」全般を意味する。
「肉(バサー)」には、「体」や「肌」の意味もあるが、特に男性器をあらわす言葉でもあり、例えば、主がアブラハムに「包皮の"肉"を切り捨てなければならない」という割礼の命令を与えられた時にも用いられている言葉である。
また、「流出」という言葉は、原語では、ひっきりなしに流れ出る、という意味があるため、今回の箇所は、特に、性病などによって男性器からの不自然な漏出が常にある場合、と見る事ができる。
その流出が停止している時でも、その人は汚れた状態であり(3節)、その人が寝た床も、座ったものも、乗った鞍も、その下にあったものは、全て、汚れたものであるとされる。
また、それに触れたり、運んだりする人も、水を浴びなければならず、その人も夕方まで汚れた者とされる。
『流出ある者の肉に触れる者は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。流出ある者のつばきが、清い者にかかったならば、その人は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:7-8)
流出がある人の、その部位に触れた場合や、その人のつばきがかかった場合など、そう滅多に起きないであろう場合について、わざわざ指示している点は、興味深い。
また、彼の下になった物は汚れ、それに触れる人も、夕方まで汚れる、とさる。
さらには、流出ある人が、水で手を洗わずに人に触れる場合もその人は汚れ、流出ある人が触れた土の器は、砕かなければならないほどに、この汚れについての指示は、徹底している。(同10-12節)
創世のはじめ、神は「生」も「性」も祝福され、それらは良きものであったが、アダム以来、人類には罪がはびこるようになってしまい、「生」も、「性」も、主の前に汚れたものとなってしまった。
事実、神を知らない異教徒は、性的に乱れやすく、性行為から感染する泌尿器系の病にかかりやすかった。
性器に由来する汚れは、徹底して清めなければならないのは、イスラエルの民がそのような汚れに染まらないように、という、予防的な意味も、もちろんあっただろう。
「肉」の奥底からひっきりなしに流れ出てくるもの、それは、新約においても、汚れているとされている。
『わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの”肉”の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ7:15-18)
パウロが言うように、肉の内には善は宿っておらず、そこから絶え間なく流れ出てくるものは、罪であり、人を汚すものである。
肉からの噴出物、すなわち、肉由来のものは、「汚れている」とされ、良いものは何一つ無い。
『 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
このように、「肉」を源とする者の座に、自らも座るなら、汚れているとされ、その者の口から出たもの(つばき)に触れる者も、汚れる。
肉から汚れを噴出している者が、清められるためには、御子イエスの御言葉の水で洗われ、新しく生まれ変わり、御霊に満たされる以外に無い。
『肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。』(ローマ8:6-9)
肉にあって歩む者の結ぶ実は、罪であり、死である。それは、神を喜ばせない。
しかし、御霊にあって歩む者の結ぶ実は、あらゆる良きもので満たされており、神の御前に有用である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。』(ガラテヤ5:22-24)
肉からの噴出を病む者が清められるには、七という完全数を経て、衣服を水で洗い、すすいで清くされる。
『八日目に、山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を取って、会見の幕屋の入口に行き、主の前に出て、それを祭司に渡さなければならない。祭司はその一つを罪祭とし、他の一つを燔祭としてささげなければならない。こうして祭司はその人のため、その流出のために主の前に、あがないをするであろう。』(レビ記15:14)
ここで鳩が使われているのは興味深い。
鳩は御霊を意味する。
肉にあって歩むのを止め、御霊によって新しく歩みをはじめる。そうするならば、清くされるのである。
家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57)
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- 執筆 :
- pastor 2013-5-25 17:32
礼拝説教メッセージ音声:家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57):右クリックで保存
今回は、家にツァラアトが発生した場合の教えである。
『「あなたがたに所有として与えるカナンの地に、あなたがたがはいる時、その所有の地において、家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、その家の持ち主はきて、祭司に告げ、『患部のようなものが、わたしの家にあります』と言わなければならない。』(レビ記14:34-35)
ここに「家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば」とあるが、つまり、神が、その家に汚れがある事を示し、対処が必要である事を、明示されるのである。
家に現れたツァラアトへの対処は、他の場合と比べて、寛大である。
他の場合なら、症状が現れて、七日間の様子見の後、患部が広がっていたなら、「汚れている」宣言され、衣類や革製品なら、その時点で焼き捨てられる事が確定する。
しかし家の場合はそうではなく、その部分の石を取り除き、他の石でそこを埋め、家の内側を削らせて、漆喰を塗り直させる。
家全体が取り壊しになるのは、上記の事をしても、なお、再びツァラアト現れた場合である。
では、この「家」は、霊的には何を意味するだろうか。
『神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。』(1テモテ3:15)
『もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。』(ヘブル3:6)
上記の御言葉の通り、神の家とは教会であり、そして教会(エクレシア)とは「召しだされた者達」、つまり、キリストにあって召しだされた”私達”である。
私達は、キリストのからだであり、おのおのが各器官であるとコリント書に記されている通り、教会が神の家であり、私達は、その構成要素である。
つまり、家に現れるツァラアトは、霊的に、教会に罪をはびこらせる「人」として解釈する事が出来る。
そのような人への対処について、イエス様は次のように言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)
「人」に対する対処は、ツァラアトを取り除くような機械的なものではなく、まずその人を諭し、それでも聞かなければさらに二人、三人と証人を増やして行き、教会の言う事も聞かなければ、その人を異邦人や取税人同様に扱う、すなわち、神の共同体からは切り離されたものと見なす。
それが、主が定めた教会における対処方法であるが、それをしなかったケースが、第一コリントの手紙に記されている。
『現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。』(1コリント5:1-5)
教会とは、何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という集団ではない。
主が忌み嫌われる事を、平然とし続けているような者を同居させたまま、自分も健全に保っていける、と思っているとしたら、それはパウロが言っているように「高ぶっている」のだ。
そのように罪をはびこらせて平然としている者は、あえてサタンに引き渡し、その人が終わりの日に救われる事に賭ける勇気も、必要である。
もちろん、信徒をサタンに引き渡したい牧会者など、一人もいないし、パウロも怒りに任せて「サタンに引き渡す」などと言ったのではない。
パウロは愛の故に「主の日に彼の霊が救われるため」そうしたのであり、大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあの手紙を書いた、と、後に記している。(2コリント2:4)
パウロは、得るか失うかの賭けに出た結果、後に「得た」ようである。(2コリント2:5-11 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=745&cid=16 )
いずれにせよ、教会に罪を持ち込み、はびこらせ、注意しても聞かないようであるなら、たとい痛みを覚えようとも、交わりから断つ、というのは、旧約にも新約にも記されている聖書のスタンダードである。
その事をしない教会は、どんどん汚れが進行し、ついには、ツァラアトが再発する家のように、ばらばらにされてしまう。
何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という雰囲気が、キリスト教界ではびこっている昨今、この事はよく肝に銘じるべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
泣き声と喜びの叫び声(エズラ記3章):右クリックで保存
【概要】
エズラ記3章1節から13節は、イスラエルの民がエルサレムに集まり、神殿の再建を始める様子を描いています。彼らは恐れを抱きながらも、神の祭壇を築き、礼拝を再開しました。
【聖書箇所】
エズラ記3章1節から13節
【慰めの言葉】
神はイスラエルの民を再び集め、彼らに新たな始まりを与えました。神の憐れみと導きは、どんなに離れていても私たちを再び立ち上がらせます。
【励ましの言葉】
恐れを抱いていたイスラエルの民も、神の御言葉に従い、勇気を持って祭壇を築きました。私たちも神の御言葉に従うことで、困難を乗り越える力を得ることができます。
【戒めの言葉】
周囲の国々の民を恐れていたイスラエルの民は、神の御言葉に従うことを選びました。私たちも世の中の恐れに屈せず、神の御言葉を優先することが求められます。
【勧めの言葉】
礼拝を守り、神の御言葉を実行することは、私たちに喜びと祝福をもたらします。日々の生活の中で、神の御言葉を大切にし、実践していきましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
神から離れていた時期があったとしても、神は私たちを再び迎え入れ、立ち直らせてくださいます。過去の過ちを悔い改め、神に立ち帰りましょう。
【***詳細***】
エズラ記3章1節から13節では、イスラエルの民がエルサレムに集まり、神殿の再建を始める様子が描かれています。彼らは恐れを抱きながらも、神の祭壇を築き、礼拝を再開しました。彼らは周囲の国々の民を恐れていましたが、それでも神の御言葉に従い、祭壇を築き、朝ごと夕ごとの前生の生贄を捧げ始めました。
彼らは第七の月の第一日から、全生の生贄を主に捧げ始めましたが、主の神殿の石杖はまだ据えられていませんでした。彼らは石切り工や木工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えました。それはペルシアの王クロスが与えた許可によって、レバノンからカイロ、ヤホに杉材を運ぶためでした。
多くの人々は、前世紀に比べれば少ない人数でしたが、イスラエルの人々が集まってきたことを喜びました。彼らは第七の月に行われる祭りを祝い、主の御言葉に従って礼拝を行いました。彼らは恐れを抱きながらも、神の御言葉に従うことで、喜びと祝福を得ることができました。
エズラ記3章8節から11節では、彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌年の第二の月に、主の宮の工事を指揮するために、二十歳以上のレビビトを立てて工事を始めた様子が描かれています。建築士たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王、ダビデの規定によって主を賛美しました。
12節と13節では、最初の宮を見たことのある多くの老人たちが、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた様子が描かれています。一方、他の多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げました。そのため、誰も喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができませんでした。
【結論】
エズラ記3章は、イスラエルの民が神の御言葉に従い、恐れを乗り越えて神殿の再建を始めた様子を描いています。彼らは神の御言葉に従うことで、喜びと祝福を得ることができました。私たちも神の御言葉に従い、礼拝を守ることで、神の祝福を受けることができます。恐れや不安を乗り越え、神に立ち帰りましょう。
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからのきよめの儀式(レビ記14:10-32):右クリックで保存
ツァラアトからきよめられる人が、七日間のきよめの期間を終え八日目に捧げる捧げものは、罪過のためのいけにえ(愆祭)、罪のためのいけにえ(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)、穀物の捧げもの(素祭)である。
多くの種類のいけにえが必要であるが、貧しくてそれらが手に入らない人でもそれが出来るための配慮が、21節以降31節に記されている。
ツァラアトからの回復の上で、真っ先に捧げられるいけにえが、罪過のためのいけにえ(愆祭)である事は、意義深い。
罪のためのいけにえ(罪祭)は、神とその人自身との間の罪の問題を解消するものであったが、罪過のためのいけにえ(愆祭)は、神と人との間のみならず、誰か、迷惑をかけた相手への賠償の意味合いもあった。
イエス様も、『祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。』(マタイ5:23-24)と言っている。
きよめられて神の共同体に再び入る上では、まず、兄弟姉妹との軋轢を解消するというステップを真っ先に踏まなくてはならない。
『そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。』(レビ記14:14)
興味深い事に、血潮を右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけるのは、祭司が任職される時と同じである。(レビ記8:23-24)
清められる者も「耳」に血潮を塗り、これからは、主の御声と、人々の声を、正しく聞き分けていくように清め、「手」のわざも、「足」での歩みも、全て、きよい働きをするよう一新するのだ。
『そして祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指をもって、その油を七たび主の前に注がなければならない。祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない。そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。』(レビ記14:16-18)
さらに今度は、右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、油が塗られ、祭司のように、頭にも油が塗られる。
善きサマリア人のたとえでも、サマリヤ人は傷を受けた人にぶどう酒を注ぎ、オリーブ油を塗ったが、主も、私達を血潮(ぶどう酒)できよめ、聖霊の油を塗り、新しい歩みを歩ませ、聖霊の導きによって、全ての事において導きを与えて下さるのだ。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油(原意:塗り油)がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(1ヨハネ2:27)
そして続いて、罪のためのいけにえと(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)と、穀物の捧げ物(素祭)が捧げられ、贖いが完了する。(レビ記14:19-20)
ここまで見ていくと、ひと度、ツァラアトにかかって、そこから癒され、清くされた人は、生涯一度もツァラアトにかからなかった人に比べ、遥かに豊かな体験をする事が分かる。
ツァラアトにかかった人は、衣服を裂き、「けがれている」と叫んで、孤立しなくてはならなかった。
その時はその人にとって辛い事であったが、人々から離れ、じっくりと自分の汚れを味わい、主と一対一となって交わり、そうして癒された後には、このように、祭司のごとく、血塗られ、油塗られ、全焼のいけにえを捧げて、再献身をするのだ。
これは実に、キリストにある私達の有様を表している。
私達も元々、罪という霊的ツァラアトに犯され、神の民からは切り離された者だったが、キリストの犠牲によって、罪赦され、血潮によって清められ、聖霊の油が塗られ、王族の祭司のような扱いを受けた。
そして、自らの全てを全焼のいけにえとして捧げ、主に従って新しいいのちを生きていくのである。
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからの立ち直り:全てが新たにされる(レビ記14:1-9):右クリックで保存
レビ記14章は、ツァラアトが癒されて、汚れた状態から清められた状態へと変えられる際の教えが記されている。
ツァラアトが癒えたら、そのまま人の交わりに復帰できるわけではなく、必ず祭司に見せ、「きよい」と宣言され、所定の手続きを経る必要がある。
ある人のツァラアトが癒えた場合、聖なる所で奉仕をしている祭司は、宿営の外の、人々から隔離されているその人の所へと出向き、きよめの儀式を行いに行く。
まことの大祭司イエス様も、聖なる御住まいであられる天から降りてこられ、罪で汚れた私達をきよめるために、私達に近づいて下さった。
『祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、
祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。』(レビ記14:3-7)
この儀式では、生き物としては、小鳥二匹が用いられる。
その内の一羽は、湧き水を入れた土の器の上で殺され、血は、その器の中に滴り落ちる。
私達は土の器であり、イエス・キリストは私達を清めるために、十字架という木の上で、血潮を流された。
『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。』(2コリント4:7)
故に、この器の上でほふられる小鳥は、イエス・キリストの犠牲を、香柏の木は十字架を暗示する。
そして、緋色(血の色)の糸は、犠牲のために流される血潮を、そして、滅びを免れ守られるを意味する。
遊女ラハブは、イスラエルの斥候から教えられた通り、緋色のひもを窓の所に結びつけ、その家を滅びから免れさせた。(ヨシュア記2章)
また、出エジプトの民は皆、主に命じられた通りに、扉の鴨居と門柱に血潮のしるしを付け、滅ぼす者が過ぎ越すしるしとした。
ヒソプは、血潮によるきよめを意味する。
ヒソプは過越祭の時、鴨居と門柱に血潮のしるしを付けるのに用いられたし、また、ダビデも罪を犯した時、次の詩篇を詠んだ。
『ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。』(詩篇51:7-9)
その血潮に浸され、生き残って、野に放たれる小鳥は、水と血潮の中をくぐって滅びを免れ、生かされ、自由にされた私達を意味し、また、十字架の死を通して復活し、天に昇られた、イエス・キリストをも暗示する。
『清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。そして七日目に毛をことごとくそらなければならい。頭の毛も、ひげも、まゆも、ことごとくそらなければならない。彼はその衣服を洗い、水に身をすすいで清くなるであろう。』(レビ記14:8)
髪も、ひげも、眉毛も剃った人は、実に特徴的である。
その人は誰の目にも明らかに、古いものは過ぎ去って、全てが新しくなった。
ツァラアトから清くされる事は、実に、イエス・キリストの十字架上での犠牲、血潮によるきよめ、滅びからの免れ、復活、古いものが過ぎ去り全てが新しくされる事を、暗示しているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:身に着けるものに現れるツァラアト(レビ記13:47-59):右クリックで保存
『また衣服にらい病の患部が生じた時は、それが羊毛の衣服であれ、亜麻の衣服であれ、あるいは亜麻または羊毛の縦糸であれ、横糸であれ、あるいは皮であれ、皮で作ったどのような物であれ、もしその衣服あるいは皮、あるいは縦糸、あるいは横糸、あるいは皮で作ったどのような物であれ、その患部が青みをおびているか、あるいは赤みをおびているならば、これはらい病の患部である。これを祭司に見せなければならない。』(レビ記13:47-49)
今回は、衣服や織物、編物、革製品など、人がまとったり、敷いたりするものにツァラアトが現れた場合の指示である。
これらのものに現れたツァラアトの判定と、それに対する対処は、人体に現れた場合よりも厳しい。
ツァラアトの疑いがある場合は、七日間隔離し、患部が広がっていたなら、悪性のらい病(fretting leprosy)として汚れたものと宣言し、焼き捨てるが、広がっていなかったなら洗わせ、さらに七日間隔離して様子を見る。
七日前に比べ、変わっていないようであったら「汚れたもの」と宣言し、焼き捨てるが、それが以前よりも症状が薄れていたなら、その部分をちぎり取ってから、元の用に用いる事ができる。
しかし、もしそれが再発するなら、火に投げ込んで焼き捨てる。
焼き捨てる事から免れるケースは、洗った後に患部が消える場合で、その場合は洗った後にきよいと宣言され、再び元の用に用いる事ができる。
衣類や革製品など、着たり脱いだりするものは、聖書の他の箇所では「救い」や「行い」を意味する。(イザヤ59:3-6, 黙示録19:6-8, コロサイ3:8-11)
人は、キリストにあって救われたなら、古いものは脱ぎ捨て、新しい人を「着た」ものとされる。
『なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。』(1コリント15:53-55)
結局、生まれつきの人間は、修復不能の古びた服のようで、直しても直しても次から次へとツァラアトのような「汚れ」が湧いて出て来るようなものであり、「救い」とは、そのような汚れの泉のような古いいのち(肉)を全く脱ぎ、焼き捨て、新しいいのちが着せられるものある。
古い衣、すなわち生まれつきのこの体は、着れば着る程、古びていくが、キリストにある「新しい人」はその逆で、着れば着る程、日々、新しくされていくものである。
『しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って(日々)新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。』(コロサイ3:8-11)
そして、キリストにあって新しくされた人は、人生において正しい行いを紡いで行き、その事によって、天にて着せられる花嫁衣裳を織り成して行くのである。
『「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。』(黙示録19:6-9)
しかし、ひと度救われて後、救われる以前の悪い行い(たとえば、飲酒や汚れた遊興など)に再び染まってしまうなら、衣服に現れたツァラアトのように、せっかく清くされた衣装を汚すものであり、それは時間を経るごとに広がって行き、放っておくなら、全体が火に投げ込まれてしまう「汚れたもの」になってしまいかねない。
以前の悪い行いに少しでも戻りそうなら、速やかに、その部分を御言葉の水で洗い流し、その部分を切り取って火に投げ込むくらいの覚悟で望んだほうが良いのである。
『兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』(ヘブル3:12-14)