• カテゴリ 講解説教(旧約) の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:頭、ひげ、はげ頭のツァラアト(レビ記13:29-46):右クリックで保存

今回は、頭または、あご(ひげ)の部分にツァラアトが生じた場合の指示である。
疑いのある症状が現れた場合、七日間隔離して様子を見、それが広がっていないなら、そこで「きよい」と宣言されるのが通例だったが、頭、またはあご(ひげ)の部分に患部が生じた場合は、その部分の毛を剃り落として、さらに、もう七日間隔離する。
この部位に関しては、他の部位の場合より倍の慎重さをもって扱われる。それはどういうことか。

それは、「頭」や「ひげ」という部位は、男性にとっても、女性にとっても、その人自身の栄光をあらわす場所だからである。
ダビデは、ひげを半分剃られてしまって非常に恥じている使者達を配慮し、ひげが伸びるまでの間、町にこもっているよう指示した。(2サムエル10:1-5)
また、髪が長い事は、女性にとっては栄光、男性にとっては恥である事が、第一コリント11章に記されている。

『人がもしその頭から毛が抜け落ちても、それがはげならば清い。』(レビ記13:40)
男性の「はげ」は、普通に起こりうる現象だが、それをあざけりの対象として見る価値観は、昔のイスラエルにもあったようである。

『彼(エリシャ)はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。』(2列王記2:23-24)
はげ頭をあざけった報いとして、四十二人の子供が熊に襲われる。
それを「やりすぎ」と思うかもしれないが、男性の「頭」、ことに、神の預言者の、栄光の現れである「頭」を蔑む事が、いかに恐ろしい罰を招くか、伺い知る事ができる。

『祭司はこれを見なければならない。もしそのはげ頭または、はげ額の患部の腫が白く赤みをおびて、身の皮にらい病があらわれているならば、その人はらい病に冒された者であって、汚れた者である。祭司はその人を確かに汚れた者としなければならない。患部が頭にあるからである。』(レビ13:43-44)

ここで「確かに汚れた者(utterly unclean)」という、特有の強い表現がなされる理由は、患部が「頭」にあるから、である。
このように、「頭」や「ひげ」という、人の栄光をあらわす部位については、他よりも、二倍の慎重さ、二倍の期間をもって、取り扱われなくてはならない。
そして、そこにツァラアトが発覚した場合、「確かに汚れた者(utterly unclean)」という強い表現であらわされるのだ。
ウジヤ王の場合、祭司たちの面前で、ひたいにツァラアトが現れたが、いかに彼の傲慢さが神の御心を損ねたかが分かる。(2歴代誌26章)

現代、キリストのからだである教会においても、同じ価値観を適用できる。
かしらと見られる人、主だった人達の罪や汚れは、二倍の注意をもって対処しなければならない。
『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。』(1テモテ5:17-19)

そして、ツァラアトがあらわれて「汚れている」と宣言された人は、自ら、次のように振舞う事が命じられている。
『患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。』(レビ記13:45-46)

これは、その人にとって辛い事かもしれない。しかし、祭司に「汚れている」と宣言された者は、神のコミュニティに、自らの汚れを振りまいてはならない。
同様に、教会はキリストのからだである事をわきまえ、自分一人の汚れやエゴ、あるいは身勝手な人権思想によって、自分の汚れを、キリストのからだに持ち込んではならない。

ツァラアトにかかった人は、一人になって、悔い改めて主に立ち返るべきである。
神である主こそ、全ての罪汚れから、病から、清めて下さるお方であり、その事を信じて主に向かい、主の御言葉どおり行う人は、主の栄光を見る。
預言者エリシャの時、イスラエルにはツァラアトを患っている人はたくさんいたが、その誰もきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめらた。ナアマンは、預言者に言われた事を、曲がりなりにも、実行したからである。
イエス様の時代、10人のツァラアト患者は全員清められたが、彼らはイエス様に助けを求め、まだ癒されていない時に、あたかも「癒された」人が取るかのような行動を、イエス様の言葉を信じて行ったからである。

主イエスキリストこそ、ツァラアトからも、霊的なあらゆる汚れからも、清めてくださるお方である。
私達は、あらゆる思い込みや先入観を捨て、人々に頼るのではなく、このお方に向かって、助けを求めるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:腫物とやけどからのツァラアト(レビ記13:18-28):右クリックで保存

『また身の皮に腫物があったが、直って、その腫物の場所に白い腫、または赤みをおびた白い光る所があれば、これを祭司に見せなければならない。』(レビ記13:18-19)

腫物は、傷を正しく対処しなかったり、体に溜まった老廃物を洗い流さなかったり、あるいは、不摂生を続けたりすると、出来やすいものである。
どんなにささいな傷であっても、そこに細菌が入ってしまうと、化膿して腫物となってしまい、それがさらに悪化して、ツァラアトとなっていく事もある。
同じように、私たちも、誰かから受けた心の傷、あるいは自ら湧き上がった悪しき思い、自らの不摂生の結果など、それを思い巡らし、心の中で汚れた膿を増幅させてしまうと、それを根城に、霊的な雑菌を繁殖させてしまう。
さらに悪化すると、人々に汚れを振りまく「霊的ツァラアト」にまで発展してしまい、文字通り「腫れ物を触るように」扱われ、隔離されてしまう。
ツァラアトの疑いがある場合、祭司は、さらに七日間隔離し、それが広がっていないかどうか確認し、七日前よりもさらに広がっているなら、その者を「汚れている」と宣言するが、同じように、私たちも、どんな些細な事であっても、良くない思いを思い巡らし、増幅させてしまうなら、汚れている、と宣言されてしまうのだ。

『しかし、その光る所がもしその所にとどまって広がらなければ、それは腫物の跡である。祭司はその人を清い者としなければならない。』(レビ記13:23)
それが広がっていないのであれば、それはただの腫物の跡であり、きよい、と宣言される。
腫物そのものは、誰にでも出来るものであり、それだけでは「汚れ」とはされない。
しかし、それを自らいじり回しているなら、汚染が広がり、「汚れた者」と判定され、人々から隔離されてしまうのだ。

『また身の皮にやけどがあって、そのやけどの生きた肉がもし赤みをおびた白、または、ただ白くて光る所となるならば、祭司はこれを見なければならない。そしてもし、その光る所にある毛が白く変って、そこが皮よりも深く見えるならば、これはやけどに生じたらい病である。祭司はその人を汚れた者としなければならない。これはらい病の患部だからである。』(レビ記13:24-25)

やけどは、火や熱などによって皮膚が損傷するものであるが、それが悪化してツァラアトとなっていくケースもある。
私たちの心も、火傷を負ってしまう事があるが、その原因は何か。
聖書の他の箇所で「火」というと、ねたみや、怒りを火として表現する他、唇から出てくる悪しき言葉も、火として表現される。
『舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:5-6)

あるいは、御言葉の光に頼らず、自家製の「ともしび」を灯して行こうとする者は、自らその身を焦がし、苦しみの内に倒れてしまう。(イザヤ50:10-11)
そのように、自身の身勝手により、火傷を負う事もある。

やけどを負ってしまうと、壊れた組織から細菌が入り、ツァラアト化する可能性が高くなる。
同じように、誰かからの怒りやねたみ、口撃によって火傷を負ってしまった場合、あるいは、主への不従順、不信頼によって自ら火傷を負ってしまった場合、それを速やかに取り扱わないなら、そこから霊的な細菌が入り込み、霊的ツァラアトに発展してしまう場合もある。

では、受けてしまったそれらの傷は、どのように取り扱う必要があるか。
「良きサマリヤ人のたとえ」の中にヒントがある。(ルカ10:30-37)

このたとえには、ある人が旅路で強盗に襲われ、ひどく傷を負わされ、持ち物を奪い去られてしまった人が出てくる。
律法を遂行する祭司やレビ人は、傷を負ったその人を見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうが、人間の祭司には限界があり、本質的に、人を救う事は出来ない。
私たちも、世の旅路で、様々な種類の強盗に遭い、身体的・心的・経済的に傷を負わされる事がある。
どんなに有名な先生でも、真にその人を知っているわけではないし、やはり人間であるため、その人自身からの汚れを受けてしまうと、正しく対処できないからだ。

『ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。』(ルカ10:33-35)
このサマリヤ人は、イエス様ご自身である。

イエス様は、世の旅路で強盗に襲われて、傷を負ったような私たちを、気の毒に思い、近寄ってきて、その傷に聖霊の油を塗って下さった。
イエス様の血であるぶどう酒を注いで消毒して下さり、御翼の陰に覆って下さった。
イエス様の乗り物であるロバから降りて、そこに私たちを乗せて下さり、教会に連れて行って下さり、介抱して下さった。
イエス様は、教会に傷を負った人を託される時、その人を介抱するのに必要な銀貨をも置いて行って下さり、足りないならば、さらに必要分を支払って下さる。

私たちが、傷を負った時、人間のだれかの所に行くよりも、直接イエス様の所に行ったほうが良い。
特に、霊的汚れを負ったなら、なおさら、人の所に行ってはならない。人々に自らの汚れを伝染させ、さらなる拒絶に遭うだけだから。
私たちは、霊的な傷を負った時、霊的ツァラアトにかかった時、イエス様の所に、まず行くべきである。
まことの隣人となって下さったイエス様こそ、癒し主であり、私たちのツァラアトを癒し、汚れを除き、全ての霊的不具合を癒して下さるからである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の呼びかけに応答せよ(エズラ記2章):右クリックで保存

# 概要】

 

エズラ記2章では、バビロン捕囚から解放され、エルサレムとユダに戻ったイスラエルの民の名簿が記されています。彼らはクロス王の勅令に従い、神殿を再建するために帰還しました。

 

# 【聖書箇所】

 

エズラ記2章1節から70節

 

# 【励ましの言葉】

 

神の民としてのアイデンティティを保ち続け、神の招きに応じることの重要性が強調されています。

 

# 【戒めの言葉】

 

世の繁栄に心を奪われ、神の民としてのアイデンティティを失わないように注意が促されています。

 

# 【勧めの言葉】

 

神の民としてのアイデンティティをしっかりと保ち、神の招きに応じる準備をすることが勧められています。

 

# 【***詳細***】

 

エズラ記2章では、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が、クロス王の勅令に従ってエルサレムとユダに戻る様子が描かれています。彼らは神殿を再建するために帰還しましたが、その人数はわずか42,360名でした。かつてのイスラエルの栄光に比べると非常に少ない人数です。

 

この章では、各部族ごとの人数や、祭司、レビ人、神殿使用人の名簿が記されています。特に祭司の部族については、24組あった祭司のうち、わずか3部族しか戻ってこなかったことが記されています。これは、神殿に仕える祭司としてのアイデンティティを失ってしまったことを示しています。

 

また、祭司の中には、自分たちの系図書きを失ってしまい、祭司職を果たす資格を失った者たちもいました。これは、神の民としてのアイデンティティを失うことの危険性を示しています。

 

エレミヤ書31章では、神が再びイスラエルの民を集め、立て直し、祝福を与えることが予言されています。神の民としてのアイデンティティを保ち続ける者たちには、神の祝福が約束されています。

 

# 【結論】

 

エズラ記2章は、神の民としてのアイデンティティを保ち続けることの重要性を教えています。世の繁栄に心を奪われることなく、神の招きに応じる準備をし続けることが求められています。神の民としてのアイデンティティをしっかりと保ち、神の祝福を受け継ぐことができるように、日々の生活の中で信仰を強めていくことが大切です。

礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトに現れる生肉(レビ記13:9-17):右クリックで保存

『もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。祭司がこれを見て、その皮に白い腫があり、その毛も白く変り、かつその腫に生きた生肉が見えるならば、これは古いらい病がその身の皮にあるのであるから、祭司はその人を汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、これを留め置くに及ばない。』(レビ記13:9-11)
らい(ツァラアト)の患部に、「生きた生肉」があらわれる場合、それは古くからあるもの、すなわち慢性のものであり、その存在は誰の目にも明らかに「ある」ため、祭司はわざわざ隔離して様子見する事なく「汚れている」と宣言する。

生きた生肉(raw flesh)、これこそ「汚れている」と宣言される原因である。(10,16節)
聖書の中で、肉(flesh)とは、神から切り離された生き方をする人間性、自分の魂(思い・意志・感情)や身体能力だけで生きる有様を意味し(創世記6:3)、そのような「肉」の振る舞いは、神の御前には汚れたものである。
『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。』(ローマ7:18-20)
肉の性質は、ただ御前に腐敗しており、改善の余地は無く、死、あるのみである。

『もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。』(レビ記13:12-13)
ツァラアトの兆候が少しでも広がっていたら、容赦なく「汚れている」と宣言されていたのに、全身、頭から足まで全てがツァラアトに覆われていたなら、逆に「清い」と宣言される・・・。一見不思議に見えるが、それは十字架の福音に合致する。

ツァラアトは、「崩壊する」「打ちくだく」の意味があり、神の御手によって打たれる事を意味していたが、その「打たれたしるし」が全身にあり、「肉」がもはやない状態、すなわち、古き肉の性質が、徹底的に神によって取り扱われた状態なら、祭司によって「きよい」と宣言される。
私達も、神に打たれたしるしである「十字架」を負い、この「肉」の体は、徹底的に主の御手に委ね、死へと明け渡すのであれば、たとい緋のように赤い罪であっても、雪のように白くされ、きよいとされるのである。
『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 』(ローマ6:6)

肉、それはアダム以来の神から離れた生き方である。神と人の前から隠そうとするなら、ツァラアトの中から「肉」が見え隠れする人のように、「汚れている」とされる。
しかし、自分の中に「罪」がある事を、神と人との前にはっきり認め、自らの「肉」を、十字架の死へと明け渡すなら、全身白くなり生肉の無くなった人のように「きよい」とされる。

私達の「肉」を殺すのは、御霊である。
『それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』(ローマ8:12-14)
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。』(ローマ8:1-3)

自らの肉を十字架によって処罰し、御霊にあって、きよい生き方を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:らい病 - ツァラアト(レビ記13:1-8):右クリックで保存

口語訳や、新改訳第二版で「らい病」と訳されている言葉は、新共同訳では「重い皮膚」、新改訳第三版では、そのままヘブライ語読みの「ツァラアト」と訳されており、レビ記13章は、この「ツァラアト」についてのおしえである。
なぜこんなに訳のバリエーションがあるのか。
それは、日本語で「らい病」と言う時、「ハンセン氏病」という一つの病を意味しているが、聖書に出てくるこのヘブライ語「ツァラアト」は、もっと広範な意味を含み(湿疹、かびなど、ユダヤ教口伝「ミシュナー」では最大72種類もある)、日本語の「らい病」という言葉では収まりきれないためであり、そしてまた、「らい病」という言葉には、その病にまつわる人の受けてきた差別と苦しみを彷彿させるものがあるためである。

ツァラアトというヘブライ語には「崩壊する」「打ちくだく」の意味があり、レビ記以外の箇所でこの言葉が出てくる時は、大体、神の御手によって打たれる事を意味している。
その一例が、ウジヤ王(2歴代誌26章)である。

ウジヤ王は、最初の内は主を恐れる良い王で、祝福され、強くなったが、彼は強くなるにつれて高ぶり、その身を滅ぼすような事をした。
『彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。その時、祭司アザリヤは主の祭司である勇士八十人を率いて、彼のあとに従ってはいり、ウジヤ王を引き止めて言った、「ウジヤよ、主に香をたくことはあなたのなすべきことではなく、ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです。すぐ聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません」。
するとウジヤは怒りを発し、香炉を手にとって香をたこうとしたが、彼が祭司に向かって怒りを発している間に、らい病がその額に起った。時に彼は主の宮で祭司たちの前、香の祭壇のかたわらにいた。祭司の長アザリヤおよびすべての祭司たちが彼を見ると、彼の額にらい病が生じていたので、急いで彼をそこから追い出した。彼自身もまた主に撃たれたことを知って、急いで出て行った。ウジヤ王は、死ぬ日までらい病人であった。彼はらい病人であったので、離れ殿に住んだ。主の宮から断たれたからである。』(2歴代誌26:17-21)

「ツァラアト」は、私達の肉の奥底に住んでいる、死に至る病、すなわち、「内住の罪」をよく表している。
この病は、伝染するものであり、それに犯されている事が発覚した場合は、人々から離れる事が定まっている。

この病は、皮膚の奥底に潜伏し、表面化しない事も多い。
そのため、祭司が一見してそれと判断できない場合は、七日という期間、その人を世間から隔離して様子見する。(レビ記13:1-8)
ウジヤ王の場合、「高ぶり」という罪が、ある時までは隠れていて、ある時に表面化したが、同じように、私達の罪も、ある時まで表面化せずに潜伏する事がある。
普段は巧妙に隠れ、何か自分の気に入らない事があるととたんに噴出するような、表面化しない罪を隠し持つ人は、本来、祭司から「汚れている」と宣言され、神の民から隔離せねばならないのだ。

私達が、この霊的なツァラアトに罹っていると自覚した時、誰か、人のところや、集団の中に行くべきでない。むしろ人から自らを隔離するべきである。
なぜなら、それは伝染性の汚れであり、行った相手に、その汚れた思いをべっとり付着させ、汚れを集団の中へと拡大感染させてしまうからだ。

私達を、この霊的なツァラアトから清め救って下さるお方は、唯一、大祭司なるイエスキリストのみである。
『ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)
私達は自ら、この霊的病から清めていただく意志をイエス様に表明し、取り除いていただくよう、願う必要がある。その意志があるなら、主は、喜んで(willing)その罪をきよめ、癒して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:女性の出産の汚れときよめ(レビ記12:1-8):右クリックで保存

レビ記12章は、出産に関する規定である。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。また聖なる所にはいってはならない。』(レビ記12:2-4)

男の子を出産すると、七日間その女性は汚れ、さらに三十三日、きよめのために家に留まり、その間、聖なる所に入ってはならない。
そして女の子を出産するなら、その汚れときよめの期間は、男の子の場合の2倍となる。
新しいいのちが誕生する「おめでた」なのに、一体なぜ「汚れ」からの「きよめ」が必要なのか。

創世のはじめ、神は全生物に対し、産んで、増えて、地に満ちていくよう、祝福の命令を下された。
アダムとエバに罪が無かった頃、出産は、命を増え広がらせる、尊くすばらしき事であったはずだが、女が蛇に欺かれ、全人類に罪を導入してしまった時、「良き事」であったはずの出産は、罪を生み出し、罪を地にはびこらせる「悪しき事」へと変容してしま、ノアの時代に至っては、悪が甚だはびこり、神を悲しませるまでになった。
「女の産みの苦しみを大いに増す」(創世記3:16)、これは、夫に対して、そして全人類に対して、罪を運ぶ通路として用いられてしまった事の、ペナルティとして、女に与えられたものだった。

女性は、いのちを産み、育てるという役割が与えられている故、「母性」という特別な愛情が与えられた。
それ故、ことさらに清めに立つ必要があるのだ。
神は、女性の全員に、別のいのちへ罪を運んでしまうような、エバのような用いられ方は、もはやして欲しくないと願っておられる。

そういうわけで、出産した女性は、七日プラス三十三日の、計四十日(女児の場合は八十日)という期間が定められ、その閉じこもっている期間、エバ由来の犯しやすい罪と弱さについて、汚れときよめについて、そして、母としてこれからいのちをしっかり繋いで行くべき事を、新しく生まれたいのちとじっくり向き合いながら、思いめぐらし、考えるべきなのだ。
「汚れ」と「きよめ」のおしえを、きちんと受け止める女性にとっては、この閉じこもっている期間は、いのちに向き合う良き学びの時であり、同時に、産後の肥立ちが良くなって、再び新しいいのちを生み出す土台を体に造る安息の期間なのだ。

四十日。それはノアの時代に大雨が降り続いたのと同じ期間である。
洪水の間、増え続けてしまった悪しきいのち達は洗い流され、ノア家族の他、神に呼び出された多くのいのち達は、方舟の中にじっとして、閉じこもっていた。
同じように、女性も40という間、じっと閉じこもり、悪しき呪われるべきいのちを洗い流し、神の御手によって守られた新しきいのちを後の世に送り出す、準備期間とするのだ。

「八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。」(レビ記12:3)
割礼は、古い肉を切り捨て、新しいいのちに生きる者へと造り替えられた事を覚える儀式である。
罪に生きてはならぬ事、人類に罪と死をもたらしたエバのように生きる事には、ことさら気をつけ、家族全体のいのちを育む事を培うのである。

いのちを産む事、子を育てる事、そして、性的な事には、ことさら「汚れ」が入りやすい。
それ故、それらの事には特に「きよめ」の意識を持たなくてはならない。
夫婦の営みや、出産の度にそれらを学んでいるユダヤ人女性は、いのちと性に関する概念がとてもしっかりしており、そのため、ユダヤ民族は諸々の歴史的な困難にもかかわらず、栄え、増え広がって行ったが、そうした学びの一切無い異教徒達は、それだけ罪と汚れに陥りやすく、滅びを身に招きやすいのだ。

レビ記12章は、人間的な視点で考えるなら、あまりいい気はしないかもしれない。
しかし、主がそのように定めている以上、人間は、善し悪し判断する事を止めるべきであり、主がそのように定められた事に思いを巡らせ、背後にある重要な意味を汲み取ろうとするのが、御言葉に対する正しい対応である。

礼拝説教メッセージ音声:主が聖であられるように、聖となれ(レビ記11:39-47):右クリックで保存

『あなたがたの食べる獣が死んだ時、その死体に触れる者は夕まで汚れる。その死体を食べる者は、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。』(レビ記11:39)
食べること。それは、その対象と一体化となる行為であるが、食用の家畜などの「きよい」動物であっても、病死したり、獣に殺される等した場合、その死体を食べたり、触れたりする人は「汚れる」とされている。
それと同じように、主にあって「きよい」とされたキリスト者であっても、世の汚れに再び戻って「死んだ」ものとなるなら、その人は「汚れた」者となる。
他のキリスト者が、その人と接触し続け、その汚れた人の死んだ行いを取り込むなら、その人も同様に、汚れた者となるのである。

『すべて地にはう這うものは忌むべきものである。これを食べてはならない。すべて腹ばい行くもの、四つ足で歩くもの、あるいは多くの足をもつもの、すなわち、すべて地にはう這うものは、あなたがたはこれを食べてはならない。それらは忌むべきものだからである。あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。』(レビ記11:41-42)

地面を這って動く生き物は、忌むべきもの(「汚れ」よりも強い表現)である事を、再度確認している。
地を這いつくばって行き巡る性質は、サタンの性質である。
『主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。』(創世記3:14-15)

サタンは最も呪われたものとして、腹ばいで這い、ちりを食べる事が定められた。
ちり。それは人間の構成要素である。
地を這いつくばっては、食いものとするべき「人」を探して行き巡り、人々を食いものにしたり、されたりしつつ、汚れを増し加えて行くのが、サタンの子孫の性質である。
そのような「這うもの」に接触しつづけ、その汚れた行いを取り込むなら、地面を這いつくばるような、呪われた生き方となり、やがては頭を砕かれてしまう運命である。

『わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。』(レビ記11:44)

エジプト、それは呪われたハムの子孫の末裔の国、地を這いつくばって互いに食い合う性質で満ちていた。
その国で奴隷状態になっていたイスラエルを、聖なる主は救い出して下さり、聖なる民として、召し出して下さった。
同じように私たちも、かつては世にあって、罪の中に死んでいた者であり、暗闇の支配者の奴隷として歩んでいた。しかし、あわれみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださった。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのである。(エペソ2:1-6)

それ故、キリストにあって聖とされた私達も、サタンの性質を「忌む」ものとし、自らを世の汚れから分離させ、主へと近づかねばならない。
主は、自らをきよめて近づこうとする者に、近づいてくださるのだ。
『神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。』(ヤコブ4:7-8)

礼拝説教メッセージ音声:汚れを受けた場合の対処(レビ記11:24-38):右クリックで保存

『あなたがたは次の場合に汚れたものとなる。すなわち、すべてこれらのものの死体に触れる者は夕まで汚れる。』(レビ記11:24)
レビ記では「汚れ」や「死体」に触れれば、「洗わなければならず」、「夕方まで汚れる」という指示が、度々出てくるが、「汚れ」という望ましくない状態に陥ったなら、定められた手順をきちんと踏んで対処し、努めて脱却すべきである事を、主は教えている。
汚れを受けたなら「日が沈む前に」「その日の内に」対処しなくてはならない。対処せずに日をまたぐと、汚れた状態をそままずっと持ち越してしまう事になる。

私達も以前は汚れた者としてサタンに支配され、罪と罪過の内に死んだ者、「汚れた者」であった。
しかし、憐れみ豊かな神の、私達を愛するその大きな愛によって、救いの手が差し伸べられ、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われ、神にあって生きたもの、「きよい者」とされた。(エペソ2:1-6)

しかし、もし私達が再び、世のならわしへと入って行き、罪の内へと入るなら、汚れた者となり、神の御前に、死んだ者となってしまうのだ。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は「死んでいる。」・・・しかし、サルデスにはその「衣」を汚さない人が、数人いる。彼らは白い「衣」を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(黙示録3:1-4)

世俗の人達の、罪の行いに関わったり、触れたりして、その衣を汚したなら、対処が必要である。
レビ記では、衣を水で洗わなければならない、とあるが、私達の罪に汚れた衣を清めるものは、何だろうか。
それはまず、イエスの血である。

『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられた「キリストの血」は、なおさら、わたしたちの「良心」をきよめて「死んだわざを取り除き」、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:13-14)
まず、イエスの血潮によって、汚れた良心を清められ、死んだわざが取り除かれ、生ける神に仕えるものとされる。

そして、罪を洗い清める「水」は、御言葉である。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)

私達が世から汚れを受けたなら、イエスの血潮によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのである。
「その人は夕方まで汚れる」とある通り、御言葉の水で洗えば、すぐに気持ちが晴れるかといえば、そうではないかもしれない。
思いも晴れ晴れするまでに、ある程度の時間がかかるかもしれないが、続けてイエスの血で上塗りし、御言葉の水ですすぎ続けるのである。

『またそれらのものが死んで、それが落ちかかった物はすべて汚れる。木の器であれ、衣服であれ、皮であれ、袋であれ、およそ「仕事に使う器」はそれを水に入れなければならない。それは夕まで汚れているが、そののち清くなる。』(レビ記11:32)
私達は世に出て仕事をする時、世から汚れを受ける事を免れないが、汚れを受けた都度、御言葉の水の中に入れるのである。

『またそれらのものが、土の器の中に落ちたならば、その中にあるものは皆汚れる。あなたがたはその器をこわさなければならない。』(レビ記11:33)
土の器は、染みこむものである。
もし罪がその身に染み込んでしまったら、粉々に割るくらいの思い切りで、その罪から離れたほうが良いのだ。

『またすべてその中にある食物で、水分のあるものは汚れる。またすべてそのような器の中にある飲み物も皆汚れる。またそれらのものの死体が落ちかかったならば、その物はすべて汚れる。天火であれ、かまどであれ、それをこわさなければならない。これらは汚れたもので、あなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:34-35)
ここは、食料として口に入るものを入れる器や、食料をるくる「かまど」についてであるが、世の罪や汚れが、家の中、ことに台所にまで入り込んだら、かまどを割るくらいに、徹底的に取り除いたほうが良いのだ。
特に口に入るもの、食卓の中に汚れが入り込んでしまうなら、それほど徹底して対処しなくてはならない。

『ただし、泉、あるいは水の集まった水たまりは汚れない。しかし、その死体に触れる者は汚れる。』(レビ記11:36)
イエスこそ、まことの命の泉である。
12年長血を患った女は、律法上は汚れていたが、信仰をもって命の泉なるイエス様の衣に触れた時、汚れは清められた。

『それらのものの死体が、まく種の上に落ちても、それは汚れない。ただし、種の上に水がかかっていて、その上にそれらのものの死体が、落ちるならば、それはあなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:37-38)
「種」は御言葉そのものであり、御言葉に汚れが落ちた所で、なんともないが、人の心に御言葉の種が蒔かれ、水がまかれ、根が出た状態で、その蒔かれた御言葉の上に汚れが落ちるとするなら、対処しなくてはならない。
私達は汚れを受けた場合、イエスの血によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
昔からの主のご計画の通りに(エズラ記1章):右クリックで保存

【概要】

 

エズラ記1章の解説。ペルシャ王クロスによるユダヤ人帰還許可の背景と意義。

 

【聖書箇所】

 

エズラ記1章、エレミヤ書29:10-14、ダニエル書9章、イザヤ書44:24-28, 45:1-2

 

【励ましの言葉】

 

主の予言は必ず成就する。たとえ困難な状況にあっても、主を心から求め続ければ、主は必ず見出される。

 

【***詳細***】

 

エズラ記1章は、ペルシャ王クロスがユダヤ人の帰還と神殿再建を許可する場面から始まります。これは、預言者エレミヤが予言した70年の捕囚期間の終わりを示しています。

 

重要な点は、この出来事が単なる偶然ではなく、神の計画の成就であることです。**「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせた」**(エズラ1:1)という表現は、神がクロスの心を動かしたことを示しています。

 

さらに驚くべきことに、イザヤ書では、クロスの名が150年以上前に預言されていました。**「私はクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望むことを皆成し遂げる』と言う」**(イザヤ44:28)。この預言は、クロスがバビロンを征服する方法まで詳細に描写しています。

 

この状況の背景には、ダニエルの祈りがありました。ダニエルは捕囚の70年が満ちようとしていることを悟り、**「私は顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって願い求めた」**(ダニエル9:3)と記されています。彼の熱心な祈りと悔い改めは、神の計画の成就を促進したと考えられます。

 

このエズラ記の出来事は、エレミヤの預言の成就でもあります。**「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、わたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」**(エレミヤ29:10)。この預言は、イスラエルの民が苦難の中にあっても、神が彼らのために将来と希望の計画を持っていることを示しています。

 

この出来事から学べる重要な教訓は、どんな状況にあっても神を求め続けることの大切さです。**「もしあなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう」**(エレミヤ29:13)という約束は、今日の私たちにも適用されます。

 

ダニエルの例は、異国の地にあっても信仰を保ち続けることの重要性を教えています。彼は高い地位にありながらも、**一日に三度、エルサレムに向かって祈る**習慣を守り続けました。この忠実さが、神の計画の成就に大きな役割を果たしたのです。

 

【結論】

 

エズラ記1章の出来事は、神の予言の確実な成就を示しています。私たちも、どんな状況にあっても神を求め続け、御言葉に忠実であることの重要性を学ぶべきです。そうすれば、神は必ず私たちを見出し、その計画を成し遂げてくださるでしょう。

礼拝説教メッセージ音声:きよい性質とは(レビ記11:13-23):右クリックで保存

今回は、主が定められた、食べて良い「きよい生き物」「きよくない生き物」の性質について、詳しく見て行きたい。
神はどのような性質をきよい、どのような性質をきよくないとされたのか。

まず、ひずめ、ひれ、うろこを持つ性質、後ろ足で跳躍する性質、それらを持つ動物を「きよい」とされた。
これらの性質に共通する事は、「地面(あるいは海底)に、直接、接しない」事である。
サタンの性質は、「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」(創世記3:14)、あるいは、「地を行き巡り、そこを歩き回る」(ヨブ2:2)ものである。
すなわち、きよい性質とは、地とは直接的に接しない、地に属さない性質である。

「地につくもの」は肉に属するもの、悪魔的なものであると、ヤコブ書3章で記されている。
そして、「上」に属する人、「地」とは距離を置く清い人の性質は、平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがないものである。(ヤコブ3:14-18)

また、「反芻」する動物はきよい動物、そうでない動物は、きよくない、とされた。
羊や牛などは、草をよく噛んで、胃で一部を消化し、それを再び口に戻してまたよく噛みしめ、また消化する、という事を繰り返すが、ここから、「反芻」する事が、主に喜ばれる性質である事を見る。
私達も、御言葉をよく噛んで咀嚼し、よく消化するなら、主に喜ばれる。
しかし、何でもかんでもそのまま鵜呑みにして消化不良になってしまう「豚」のような性質は、主に嫌われてしまう。

また、レビ記11章にて神がきよいとされた動物は、ほぼ、草食動物である事を見る。
実は、神が全被造物を創造されたはじめ、全ての動物は、皆、草食であった。
『神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。』(創世記1:29-31)

主の創世の当初は、どの生き物も、互いを害したり、食ったりする事などしない、「はなはだ良い」時代であった。
しかし、人間が堕落して早速、人は兄弟姉妹を傷つけたり殺したりするようになり、動物たちもいつしか、他の動物をとらえ、血を流し、捕食するようになってしまった。
鉤爪や牙で傷つけ、血を流し、他を食い物にしたりする性質は、神の性質ではなくサタンの性質、「汚れた」性質である。

創世の当初、全被造物は人によって正しく平和に支配されていたのに、人に罪が入って以来、全被造物は、呪いの下に束縛されてうめき(ローマ8章)、ノアの時代以降、全ての動物は、人間を恐れるようになってしまった。(創世記9:1-6)
しかし後に、預言者イザヤは、次のような平和な様を、幻で示されている。

『おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。』(イザヤ11:6-10)

この、創世当初のような平和な世界の鍵、それは、エッサイの根、すなわち、イエス・キリストによる統治である。
イエスキリストにより、全地が主を知る知識が海の水のように満ちあふれ、主の栄光があらわれるところには、もはや、互いに害する者も、食い物にし合う者もなくなるのだ。
私達キリスト者の中にも、以前は、ライオンやコブラ、ハゲタカのような性質の者達もいたかもしれない。
しかし皆、エッサイの子・イエスキリストによって、そうした肉食の性質、サタンの性質はすっかり抜き取られ、きよく平和な性質へと造り変えられるのだ。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest