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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:祭司が受ける分(レビ記7:1-10):右クリックで保存

愆祭(罪過のためのいけにえ)は、罪祭と同様、祭司の食物とされる部分があり、それは「最も聖なるもの」とされる。
『祭司たちのうちのすべての男子は、これを食べることができる。これは聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物である。罪祭も愆祭も、そのおきては一つであって、異なるところはない。これは、あがないをなす祭司に帰する。』(レビ記7:6-7)

祭司は、一般人が捧げたいけにえの中から、受け取る分がある。
燔祭、すなわち全焼のいけにえは、まず皮が剥がれ、解体され、全て焼かれるものである事を1章で学んだが、その皮は焼かれず、祭司が受ける分として残された。(レビ記7:8)

キリストも、燔祭のいけにえのように、十字架という祭壇に捧げられる前、ローマ兵達によって身ぐるみ剥がされ、下着はくじでひかれ、衣は全て奪い取られた。(詩篇22:16-18)
私達も、罪ある邪悪な者達であったが、キリストの贖いの衣が与えられ、キリストを着る事によって、キリストと一つとされ、約束の相続人とされた。(ガラテヤ3:27-29)

素祭についても、祭司の食物とされる分がある。(レビ記7:9-10)
このように、主の宮で働く祭司には、捧げ物の中から受け取るべき分があるが、それは、新約においても同じである。

パウロはこう言っている。
『あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。』(1コリント9:13-14)

確かに、主のために宣教したり牧会したりするフルタイムの献身者は、聖徒達の献金によって生活する権利は与えられている。
しかし、献身者は、金銭を得る事を当てにして働くのではなく、「キリストの福音のために」働くのである。(1コリント9:12)
パウロは、「献金によって生活する権利」が、福音の妨げとならぬよう、また、自らの手でしっかり働くべきである事を身を持って示すために、その権利を手放し、自らの手で働きながら福音の働きをした。
『もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。』(1コリント9:11-12)
パウロはむしろ、聖なるプライドの故に、自らその権利を投げうった。
『しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。』(1コリント9:15)

献身者を目指す人の中には、厳しい社会で揉まれるのが嫌だから、比較的「優しい」人達が集うキリスト教業界の中から糧を得、ぬくぬくしようと、逃避的な動機で目指す人も中にはいるが、世の働きという「小さな事」さえまともに出来ない人は、神の国の働きという「大きな事」を担うべきではない。
主の働きは、一般社会での働きよりも、より大きな信仰が必要であり、より多くの忍耐と服従が求められるし、世の事業における責任よりも、永遠のいのちに携わる責任のほうが大きいからだ。

祭司が受ける分、献身者が受ける分は確かに与えられているが、それを当てにするのではなく、「キリストの福音のために」働く事が第一目的である事を忘れてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:罪祭(罪のためのいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:24-30):右クリックで保存

『「アロンとその子たちに言いなさい、『罪祭のおきては次のとおりである。罪祭は燔祭をほふる場所で、主の前にほふらなければならない。これはいと聖なる物である。罪のためにこれをささげる祭司が、これを食べなければならない。すなわち会見の幕屋の庭の聖なる所で、これを食べなければならない。』(レビ記6:25-26)
ここでは、罪祭として捧げられた肉は、祭司が食べて良い、と言われているが、中には食べてはならないものもある。
すなわち、その血を会見の幕屋に携えて行き、聖所で贖いに用いた罪祭は、食べてはならない。(30節)

聖所へ血を携えて行って、贖いをするいけにえといえば、祭司や、イスラエルの会衆全体の罪のために捧げられた、雄牛である。(4:3-21)
それは、食べることが出来ないが、一般人や民の長のための罪祭は、聖所へ血が持ち込まれないため、食べることが出来る。
いや、むしろ、食べなくてはならない、と言われている。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)

それにしても、人々の罪を負って「罪」とされた動物を、食べていいものなのだろうか。
食べる事によって、罪をその身に負う事にならないのだろうか。
それにまた、罪祭の肉は「最も聖なるもの」と言われているが、一体なぜ、罪とされた動物の肉が、最も聖なるものなのだろう。
それは、私達の主、イエスキリストを見る時、合点がいく。

『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)
罪祭の犠牲とされる動物は、元々、罪がないのに、罪を犯した人間が手を置くことによって、罪として一体化される。
同じようにキリストも、元々、罪を知らないお方であったのに、私達の身代わりとなるため、「罪」そのものとされた。
私達は、その罪とされたキリストの肉を食べ、血を飲む事によって、罪を処罰されたキリストと一体化とされ、罪なき者、聖なる者とされるのだ。

『すべてその肉に触れる者は聖となるであろう。』(レビ記6:27)
普通なら、汚れた者の衣に触れる時、そのものは汚れ、また、聖なる肉を運んでいる人の衣が何かに触れても、それは聖なるものとはならない。(ハガイ2:12)
しかし、私達の罪を除くために、罪祭とならって下さったイエス様は、例外である。
12年間長血を患った女は、律法上は汚れていたが、彼女が信仰を持ちつつイエス様の衣に触れた結果、彼女はきよくせられた。
私達の主、イエス様に、信仰をもって触れるのであれば、私達も清くせられるのである。

『すべてその肉に触れる者は聖となるであろう。もしその血が衣服にかかったならば、そのかかったものは聖なる所で洗わなければならない。またそれを煮た土の器は砕かなければならない。もし青銅の器で煮たのであれば、それはみがいて、水で洗わなければならない。』(レビ記6:27-28)
罪の事や聖なる事に用いられた器は、そのまま、他の事に用いられてはならず、土の器は砕かれ、青銅の器はよく洗われなくてはならない。
また、罪祭のいけにえには、食べて良い「期間」があり、罪祭で流される血も、罪を贖う「有効期間」があるのだ。

過越の子羊は、祭りの日の、日の入りから日の出までの間に食さねばならず、朝になった時、それは火で焼かれなくてはならない。(出エジプト記12:10)
過越の子羊は、それ以外の期間に食べてはならないものであり、過越の日没から日の出までの間に、子羊の血が塗られた扉の外にいた者は、それにあずかってはならない。
なぜなら、過越の「夜」という期間はエジプトに対しては災いが下っており、イスラエルは守られており、その間に過越の子羊は食さねばならぬものであるからだ。
その期間が終わって朝になった時には、もう、イスラエルの民は約束の地へと出立し、エジプト人は、死の悲しみの中、エジプトに留まる他に無いのだ。
同じように、裁きの日が来た時、あらかじめ与えられている恵みの期間に、血潮のしるしの内側に入らなかった者は、死と滅びの中に留まり続け、恵みの期間にイエスの血潮によって清められ、滅びを免れた者達は、天の御国へと入れられるのである。

恵の時、救いの時には「期間」がある。
『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(2コリント6:1-2)
その恵みの期間に、主イエスを信じる者は、救いへと入れられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:素祭(穀物の捧げもの)に関する祭司のつとめ(レビ記6:14-23):右クリックで保存

今回の箇所は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについて「アロンとその子たち」に命じている事である。

素祭の麦粉のうち、一握りを、油と乳香を共に取って「記念の分」とし、祭壇の上で焼いて香ばしいかおりとして主にささげなくてはならない。(レビ記6:15)
この、一握りの「記念の分」は、真っ先に焼き尽くされ、主の御前に香ばしいかおりとして捧げられるが、同じように、キリストも、私達の初穂として、長兄として、父なる神に捧げられ、その香ばしいかおりの故に、父なる神は、完全になだめられた。

素祭の残りの部分は、祭司の食物となる。
『これは種を入れて焼いてはならない。わたしはこれをわたしの火祭のうちから彼らの分として与える。これは罪祭および愆祭と同様に、いと聖なるものである。アロンの子たちのうち、すべての男子はこれを食べることができる。これは主にささげる火祭のうちから、あなたがたが代々永久に受けるように定められた分である。すべてこれに触れるものは聖となるであろう』」。』(レビ記6:17-18)

キリストは、素祭の記念の部分として、香ばしいかおりとして全て捧げられたが、それに続く私達は、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げる事によって、大祭司なるキリストの食物を整えるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)

私達も、キリストにあって、祭司とされた。
祭司は、聖なる場所で種入れぬパンによって、特権的に養われたように、私達も、種を入れぬパン、すなわち「人間のおしえ」というパン種が一切入っていない、純粋な御言葉のパンによってのみ、特権的に養われるべきである。

『「アロンとその子たちが、アロンの油注がれる日に、主にささぐべき供え物は次のとおりである。すなわち麦粉十分の一エパを、絶えずささげる素祭とし、半ばは朝に、半ばは夕にささげなければならない。それは油をよく混ぜて平鍋で焼き、それを携えてきて、細かく砕いた素祭とし、香ばしいかおりとして、主にささげなければならない。』(レビ記6:20-21)

元々、素祭は、もみ殻がついたままではなく、殻が抜かれ、露わとなった実はさらに砕かれた状態で幕屋へ持ち込まれるのだが、アロンとその子たち自身が捧げるこの素祭は、そこからさらに油を混ぜられ、よく練り込まれ、フライパンで焼かれ、さらにまた細かく砕かれ、そして最後には、焼き尽くされる。
これは、まさしく徹底的に砕かれたキリストをあらわしており、また、主に捧げ尽くしたいというい献身者を表している。

真に油注がれた方、キリストは、油絞りの場、ゲツセマネの園で祈られた。
『「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。』(マルコ14:36)
キリストはゲツセマネで「わたしの思いではなく御心のままに」という祈りによって油塗りこまれ、ピラトの庭で砕かれ、ゴルゴダの丘の十字架上でも、徹底的に砕かれ、身も心も焼き尽くされる経験をされた。

私達も、主にあって献身者であろうとすればするほど、全く砕かれっぱなしとなる。
余分な殻は抜かれ、粉々に砕かれ、さらに油混ぜられ、平鍋の上で焼かれ、さらにまた砕かれていき、最後には、焼き尽くされる。
そうして行くうちに、自らのわざをさらに止め、さらに主に身を委ねて行くようになるため、ますます楽に、ますます甘く、麗しく、ますます栄光に富んだ経験となっていくのだ。

礼拝説教メッセージ音声:燔祭(全焼のいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:8-13):右クリックで保存

『アロンとその子たちに命じて言いなさい』(レビ記6:9)
1-5章までは、イスラエルの一般人が適用すべき、捧げものに関する規定だったが、今回の箇所からは、「アロンとその子たち」すなわち祭司たちが適用すべき命令となり、イスラエルの民から受け取った各種の捧げものを、どのように扱うべきかが、書かれてある。

『燔祭のおきては次のとおりである。燔祭は祭壇の炉の上に、朝まで夜もすがらあるようにし、そこに祭壇の火を燃え続かせなければならない。・・・祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。火は絶えず祭壇の上に燃え続かせ、これを消してはならない。』(レビ記6:9-13)

まず、燔祭(全焼のいけにえ)については、祭壇の上に朝まであるようにし、祭壇の火を常に燃え続けさせなければならない。
燔祭は、イスラエルの民の自由意思による捧げものだったが、それとは別に、朝ごと夕ごとに捧げられる全焼のいけにえがあり、それは以前、出エジプト記で命じられていた通りである。
『あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりである。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない。その一頭の小羊は朝にこれをささげ、他の一頭の小羊は夕にこれをささげなければならない。一頭の小羊には、つぶして取った油一ヒンの四分の一をまぜた麦粉十分の一エパを添え、また灌祭として、ぶどう酒一ヒンの四分の一を添えなければならない。
他の一頭の小羊は夕にこれをささげ、朝の素祭および灌祭と同じものをこれに添えてささげ、香ばしいかおりのために主にささげる火祭としなければならない。これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。』(出エジプト記29:38-42)

たとい、全焼のいけにえを捧げる人が、一人もいない日であったとしても、祭司は、日夜、全焼のいけにえを捧げなくてはならない。
そして、主の御前に絶えず捧げているのであれば、主は私達に会い、私達と語られるのである。
なぜなら、現代においては、私達・キリスト者こそ、祭司だからである。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(1ペテロ2:9-10)

祭司は、地上での土地の相続が無い代わりに、主ご自身が相続であり、主の宮で仕え、主への供え物を受け取れるなど、世俗の人に比べれば特権的ではあるが、しかし同時に、それなりの責任と、日々務めるべき任務がある事を忘れてはならない。
燔祭、すなわち主に対する全身全霊の捧げもの、それは祭司が、日々怠りなく主に捧げるべきものであり、たとい、周りに一人も主に自らを捧げる人がいないとしても、祭司とされた私達は、日々、自らを主に捧げるべきなのだ。
現在の私達も、キリストの十字架という祭壇の上に、日々、身も心もささげ、自分の意思を降ろしてキリストに服従させ、そうして日々主に仕えるのであれば、私達はますます聖なる器として用いられるようになり、私達が執り成す人々も、祝福されるのである。

礼拝説教メッセージ音声:愆祭 - 罪過のためのいけにえ(レビ記5:14-6:7):右クリックで保存

レビ記5章14節から6章7節までの箇所は、愆祭(けんさい)、すなわち、罪過のためのいけにえについての規定が記されている。
この愆祭(アーシャーム、英:trespass offering 罪過のいけにえ)は、罪祭(カッタース、英:sin offering 罪のためのいけにえ)と同じように、罪を犯した時に捧げなくてはならないいけにえであり、罪祭と愆祭のおしえは一つである(レビ記7:7)
罪祭に比べ特徴的な事は、愆祭には損害賠償の性質がある事、また、通常のいけにえにプラスして、さらに、五分の一を加える事である。

『「もし人が不正をなし、あやまって主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルに当る雄羊の全きものを、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。』(レビ記5:15-16)
ここでは、主に対して、罪だと知らずに犯した犯した不実に対する償いが規定されており、その場合、傷のない雄羊を捧げ、また、「聖なる物について犯した罪のために償い」として、その五分の一を加え、主に賠償しなくてはならない。
そうするならば、その人は赦される。

6章1-7節では、罪だと知りながらに罪を犯した場合が記されている。
『もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、すなわち預かり物、手にした質草、またはかすめた物について、その隣人を欺き、あるいはその隣人をしえたげ、あるいは落し物を拾い、それについて欺き、偽って誓うなど、すべて人がそれをなして罪となることの一つについて、罪を犯し、とがを得たならば、彼はそのかすめた物、しえたげて取った物、預かった物、拾った落し物、または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。
すなわち残りなく償い、更にその五分の一をこれに加え、彼が愆祭をささげる日に、これをその元の持ち主に渡さなければならない。』(レビ記6:2-5)

ここでは「もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、、、」という言葉で始まるが、その具体的な内訳を見ると、主に対しての不正というより、誰か人間に対して意図的に損害を与えているような内容である。
ここから分かることは、悪意をもって人の物をかすめたり、欺いたり、しいたげたりする事は、人に対してというより、主に対する不正だ、という事である。

アナニヤとサッピラの夫婦は、共謀して捧げものの代金を偽ったが、ペテロはそれを「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言った。(使徒5:1-4)
意図的に主のものをかすめる事は、人や教会に損害を与えたようで、実は、主に損害を与える事なのだ。

人のものを意図的にかすめるなどして主に不正をなした場合、そのかすめたものの全部、プラス、その五分の一を、罪過のためのいけにえを捧げる日に返さなくてはならない。
このように、人のものをかすめたり盗んだりするのは、損をする事、さらに財産を減らす事である。

愆祭のいけにえは、いずれも、傷のない雄羊一頭である。これはイエス・キリストをあらわしており、キリストこそ、まことの罪過のいけにえである。
私達は主に対し、莫大な借金を抱えているようなものだったが、主は赦して下さった。(マタイ18:23-35)
だから私達も、赦された者として、キリストにあって互いに赦しあうべきである。

礼拝説教メッセージ音声:必ずしなくてはならない罪の贖い(レビ記5:1-13):右クリックで保存

レビ記5章の1節から13節までは、罪祭の補足規定が記されている。
主は、人が犯す罪については、富んでいる人であっても、貧しい人であっても、徹底的に取り扱うべき事を示している。
羊を買う余裕の無い者に対しては、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を捧げるように、それさえ買えない人には、十分の一エパ(2.3リットル)の小麦粉を罪のためのいけにえとして捧げるよう定めている。

1節から4節までの所には、具体的な罪の事例が記されており、例えば、正しく証言しなくてはならない場面において、敢えて「言わない」事によって罪を犯した場合(1節)、また、気づいていても気付いていなくても、死体や人の汚れに触れる事によって、罪を犯した場合(2-3節)、また、軽々しくくちびるを用いて誓った場合(4節)など。
そのように、主から「してはならぬ」と言われている事の一つでもを犯した場合、自分自身の口で、その罪を告白しなくてはならず、それから、やぎでも羊でも、雌一頭を罪祭として捧げる事が命じられている。

人が死体に触れるたびに、あるいは、軽々しく誓いを立てた度に、主の御前に一つのいのちが捧げられ死ななければならないとしたら、いったい人は、一生の間、どれほどの命を身代わりの犠牲にしなくてはならないのだろうか。
それは守れる人はいないのではないかと思えるくらい、罪ある人間には厳しすぎる。

ある人は、解釈する。
この律法を守れる人は、ひとりもいない、だから罪の犠牲は必要なく、その代わりに主は、人が精一杯がんばって、なるべき清く、正しく生きる事を願っておられるのだ、と。
そうではない。人は罪を犯したら、確かに、犠牲の血をもって償いをしなくてはならず、そこには旧約も新約も、ユダヤ人もギリシヤ人も、富めるも貧しきも、変わりはない。
では人は一体、何によって罪から救われるのか。

動物の血によっては、人の罪を取り除くことは出来ず、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのみである。(ローマ3:20、ヘブル10:1-11)

『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。』(ローマ3:21-25)
『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。・・・これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。』(ヘブル10:14,18-19)

今や、私達の罪のために捧げられた、唯一完全なる犠牲、それは、イエス・キリストである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
法則のカウンターパンチ(エステル8:9-17):右クリックで保存

AIによる要約

【概要】

本日のメッセージは、エステル記8章9節から17節とイザヤ書61章を通して、神の救いの計画、罪と死の法則に対抗する命の御霊の法則、そして逆境からの勝利と今を生きる私たちへの希望について語られています。エステル記の歴史的出来事と、イザヤ書の預言が重ね合わされ、神の摂理と救いの約束が強調されています。

 

【聖書箇所】

・エステル8:9-17

・イザヤ61:1-9

 

【慰めの言葉】

どんな困難な状況においても、神は必ず私たちに救いの手を差し伸べ、絶えず希望と祝福を与えてくださいます。ユダヤ人が絶望の淵に立たされた時も、神は祈りに応え、逆転の勝利をもたらされました。

 

【励ましの言葉】

信仰をもって歩むとき、私たちは過去の苦しみに支配されることなく、新たな力と勇気を受け、日々の戦いに勝利することができます。ユダヤ人が断食と祈りを通して神に立ち返り、敵に勝利したように、私たちも信仰によって新しい歩みを始めることができます。

 

【戒めの言葉】

罪と死の法則にとらわれることなく、常に命の御霊の法則に従う生活を心がけなさい。過去の過ちに甘んじるのではなく、神の定めた正しい道を選びましょう。ユダヤ人がハマンの法令に恐れ従うのではなく、モルデカイが定めた新しい救いの法令を信じて行動したように、私たちも新しい法則に従う決断が求められています。

 

【勧めの言葉】

毎日の生活の中で、イエス・キリストへの信仰を実践し、互いに励まし合いながら神の祝福に満ちた歩みを続けることが大切です。命の御霊の法則に従い、互いに助け合い、神の祝福を享受しましょう。

 

【悔い改めの促しの言葉】

これまでの歩みや、罪に縛られていた過去を深く省み、心から神の赦しを求め、新たな信仰の道へと立ち返ることが求められています。イエス・キリストの贖いによって与えられた救いの法則をないがしろにせず、大いに活用し、勝利の人生を歩むことが勧められています。

 

【***詳細***】

本日の説教は、エステル記8章9節から17節の出来事から始まります。第三の月、シュワンの月の23日、王の書記官が招集され、モルデカイの命令に従い、アハシュエロス王の名と王の指輪による印で、全127州の首長や各民族に向けてユダヤ人に関する新たな法令が発布されました。これは、ハマンによって発布されたユダヤ人殺害の命令が依然として有効であったため、ユダヤ人が自らの命を守るために結集し、敵に対抗し、家財を奪うことも許可する内容でした。この法令は、アダルの月13日に実行されるよう定められ、ユダヤ人が自分たちの敵に復讐する準備をするために公示されました。

 

前回の流れとして、ユダヤ人殺害の命令が悪人ハマンによって発布され、ユダヤ人たちは絶望的な状況に追い込まれましたが、断食と祈りによって神に助けを求めました。その結果、ハマン自身が自ら仕掛けた罠に陥り、処刑されるという逆転劇が起こりました。しかし、ハマンの法令はペルシャ・メディアの法により取り消すことができなかったため、エステルが王に再度願い出て、王は新たな対抗法令を発布することを許可しました。モルデカイが発布したこの法令により、ユダヤ人は自衛と敵への反撃が公に認められ、各地で大いなる喜びと祝宴がもたらされました。

 

この歴史的背景は、単なる過去の出来事ではなく、現代の信仰生活にも大きな示唆を与えています。モルデカイの行動は、神の摂理と救いの計画が働いていることを示し、ユダヤ人がかつて迫害されていた状況から、神の守りと知恵、力によって逆転し、勝利を収める姿が描かれています。ユダヤ人は、敵よりも知恵と力、神の守りによって圧倒的に有利となり、周囲の民もユダヤ人を恐れ、多くの人が自らユダヤ人であることを宣言するほどでした。

 

この出来事は、罪と死の法則に対して命の御霊の法則が勝利するという霊的現実の縮図でもあります。サタンが人間に罪と死の法則をもたらしたように、ハマンがユダヤ人を滅ぼそうとした法令を発布しました。しかし、神はイエス・キリストを通して、信仰による救いの法則を新たに定め、罪と死に勝利する道を開かれました。イエス・キリストを信じる者には、永遠の命と勝利が与えられます。

 

エステル記におけるモルデカイの立場の転換、すなわちかつては無力であった彼が王の権威と栄誉を与えられ、ユダヤ人全体が守られるようになった事実は、イエス・キリストの生涯と重なります。イエス・キリストも人として低くされ、苦難を受け、十字架の死を経て、天の王として高く引き上げられました。やがてすべての者がイエス・キリストの前にひざまずく時が来ると預言されています。モルデカイが受けた栄誉は、信仰者が将来受ける栄光と祝福の希望を示しています。

 

イザヤ書61章の御言葉にも注目が集められます。「主の霊が私の上にある。主は私に油を注ぎ、貧しいものに良い知らせを伝え…」とあるように、神は貧しい者、傷ついた者、囚われた者に解放と慰めを約束されています。イザヤ書の預言は、エステル記の逆転劇と重なり、困難な状況からの救いと復興を強調しています。過去の荒廃や悲しみが、神の恵みによって喜びと祝福へと変えられることが約束されています。

 

また、イザヤ書の預言は、過去の荒廃した状態からの再建、将来の完全な復興の約束を含んでいます。廃墟が再び立ち上がり、悲しみが喜びへと変わる日、すべての国々が神の御業に驚嘆し、祝福を認めるようになります。これは、信仰を堅く守ることで霊的な勝利と実際の祝福を手にする確かな保証です。

 

このように、エステル記の物語は、どんな逆境にあっても神が救いの道を示し、私たちがその祝福に与るよう導いてくださる歴史的証拠です。イエス・キリストによる救いの法則は、サタンが定めた罪と死の法則に対抗し、永遠の命と勝利をもたらします。現代においても、私たちはこの二つの法則のせめぎ合いの中に生きています。もし罪と死の法則に従っていたならば、望みなく滅びる運命でしたが、イエス・キリストの贖いによって命の御霊の法則に従うなら、いかなる霊的な攻撃にも打ち勝つ力が与えられます。

 

私たちは日々の生活の中で、神の定めた新しい法則に歩みを合わせ、互いに励まし合いながら信仰を実践することが重要です。過去の失敗や罪に甘んじるのではなく、今この瞬間から神の恵みにすがり、命の御霊の法則に従って生きる決意を新たにしましょう。救いの法則を見過ごすことなく、イエス・キリストの救いを実感し、その力によって敵に勝利し、栄光ある未来へと歩む使者となるのです。

 

最後に、説教を聴く皆さんにお願いがあります。どんな時も、心の奥深くにある罪や弱さを認め、神の御前にへりくだり、その赦しと救いを求めてください。日々の生活の中で互いに助け合い、神の祝福がもたらす真の勝利を享受しましょう。エステル記とイザヤ書に記された出来事は、過去の物語ではなく、今を生きる私たちへの生きた証です。神は、どのような状況にあっても必ず救い出し、命の御霊の法則を通して新たな希望と勝利を示してくださいます。イエス・キリストの贖いの恵みを信じ、実践する者は、絶えず守られ、栄光ある未来へと導かれます。今日の神の御言葉を心に刻み、真実の信仰をもって歩み続けることが、永遠の祝福への道です。

 

【結論】

エステル記とイザヤ書の御言葉は、絶望の中にあっても神の救いと勝利が備わっていることを示しています。私たちは、イエス・キリストにあって、罪と死の法則に対して命の御霊の法則を確信し、日々の歩みの中でその救いを実践する者として、真の祝福と永遠の命を受けるのです。

礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 民の指導者や一般人の場合(レビ記4:22-35):右クリックで保存

今回の箇所は、人々の上に立つ人、あるいは、一般の人々が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方である。
それは、祭司やイスラエルの人々全体が罪を犯した場合の捧げ方とは、若干異なる。

上に立つ人が罪を犯した場合、捧げられる動物は、傷のない雄やぎ(レビ記4:22-26)で、一般の人々の場合は、傷のない雌やぎ、あるいは雌羊とされている。(レビ記4:27-35)
今回の場合も、祭司や民衆全体が罪を犯した場合と同様、罪の身代わりとしてほふられる動物の頭の上に手を置いて罪を転嫁する点では同じだが、今回の場合、祭司が血を指につけて塗るのは、聖所にある香壇にではなく、外庭の出入り口の所にある、全焼のいけにえを焼く祭壇に、である。
祭司や民全体が罪を犯した場合は、聖所の中の香壇に血潮を塗るが、それは、最も聖なる至聖所の手前に置かれている。それ程、祭司や民全体が罪を犯した場合の深刻度は高く、主の御近くで罪を贖う必要があるが、一般人の罪のためのいけにえは、祭司の場合に比べて、より一般的、より日常に近いものとなっている。

全焼のいけにえを焼く祭壇は、主の大庭に入ると真っ先に目にするものである。
この、幕屋における祭壇の位置は、私達が主の御前に出る時には、主への捧げものを真っ先にすべきであり、罪の赦しを真っ先に得るべき事を、示している。
私達も、主に捧げたり、罪の赦しを祈る事は、日常的に、そして真っ先にすべきである。

罪のためのいけにえを捧げなくてはならなくなるきっかけは、「主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら」であり、民の指導者の場合も、一般人の場合も、全く同じ記述がなされている。(レビ記4:22-23、27-28)
自分たちが罪を犯した、という自覚が、たとい無くても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは主の御前に罪であり、それが明らかになったのであれば、それを正しく対処しなくてはならない。
その時は、指導者でも、一般人でも、それぞれに見合った「犠牲」を捧げなくてはならず、そして、罪の代価を支払うには、必ず、血が流されなくてはならない。

自分が育ててきた、傷のない動物を捧げる事、それは、心に痛みを伴うものだが、罪を贖うには、心の痛みが伴わなければならない。
イエス・キリストこそ、全ての人のために捧げられた、まことの罪祭のいけにえであるが、もし私達が、神の尊い御子キリストが苦しまれ、痛まれ、叫ばれ、神と人とに捨てられた事について、何の心の痛みも覚えないとしたら、それは問題である。

私達に罪が示されたなら、真っ先にそれを悔い改め、イエスの血潮で清めていただき、いち早く「罪あり」の状態から脱却し、サタンから訴えられる口実を、そして、神と隔てがある状態からいち早く脱出する皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:罪が明らかとされたなら(レビ記4:13-21):右クリックで保存

今回の箇所は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方で、前回の祭司が罪を犯した場合でのやり方と、ほぼ一緒である。
『もしイスラエルの全会衆があやまちを犯し、そのことが会衆の目に隠れていても、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをなして、とがを得たならば、その犯した罪が現れた時、会衆は雄の子牛を罪祭としてささげなければならない。』(レビ記4:13-14)

会衆が罪を犯した場合、その代表者である長老が主の御前に出て、犠牲の子牛の頭に手を置き、罪をその子牛に転嫁して、その子牛は主の前でほふられる。
祭司は、その血潮を携えて聖所に入り、指をその血に浸して、至聖所と聖所を仕切る幕の前で、主の前に七たび注がける。
また、その血を取って、聖所にある香壇の角にそれを塗り、血の残りは、ことごとく会見の幕屋の入口にある、全焼のいけにえを捧げる祭壇の土台に注がれる。(レビ記4:15-18)

捧げられる牛の脂肪の部分は、和解のいけにえのように、祭壇の上で焼かなければならず、このように、祭司が彼らのためにあがないをするならば、彼らの罪は、赦される。そして、その残りの肉は、宿営の外の灰捨場で焼き捨てられる。(レビ記4:19-21)
この残りの部分は、神に捧げたり、食べたりしてはならない。なぜなら、この牛は罪を負ったからである。

外に出されて捨てられる罪祭のいけにえは、イエス・キリストを意味している。
キリストも、都の外に出され、そこで十字架につけられ、神と人とから捨て去られた。
『わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。』(ヘブル13:10-13)

全会衆の犯した罪が人々の目に隠れていて、自分たちが罪を犯したという事に気付いていなくても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは罪であり、それが明らかになったのであれば、罪祭のいけにえを捧げる事が、定められている。
罪の意識が無いのに、それは罪だ、悔い改めよ、と言われても、良心が麻痺していて実感が沸かず、悔い改める気がさらさら無い人もいるが、自分が罪を犯したかどうかという判定は、御言葉の光によって罪が照らしだされてのみ知ることが出来、そして、自分が犯した罪を悔やみ、恥ずかしく思う気持ちなどは、聖霊の働きによって示される。

私達の内にある罪が明らかとされたなら、私達は、真正面からその罪に向き合って、対処しなくてはならない。
罪責感、それは、時間と共に薄れるものではなく、むしろ、対処しなければ、しない分だけ増し加わって行くものである。
なぜなら、罪がある状態では、神との隔てがそのまま残る状態であり、サタンに訴えられる口実をそのまま持ち続けるからである。

ある人が、イエス様を信じる前までは罪の認識が無かったのに、イエス様を信じた時、犯して来た罪の数々を示され、昔犯した罪も思い出すようになった事を、証していた。
その人は、戦後の食糧難の時、人の家で煮立っている食事を鍋ごと盗み、自分一人で食べた事を思い出し、主の御前に出る度に、その事がいつも心に残りとなり、ついには、いても立ってもいられなくなって、何十年も前の記憶を辿って東京のその家の場所へ行ったそうである。
そして、その家の門を叩き、出てきたその人に謝って、赦してもらい、とてもすっきりして帰って来たそうである。

彼のように、謝るべき相手が生きていれば、謝ったり償ったりする事は出来るが、しかし、もはやどうしようもないような場合もある。
そのような場合こそ、主の御前に出て、身代わりの犠牲となって下さった、イエス・キリストの血潮によって、扱うべきである。
「すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 罪のためのいけにえ(レビ記4:1-17):右クリックで保存

レビ記4章は、罪祭、すなわち、罪のためのいけにえについての規定が記されている。
1-3章のそれぞれのいけにえは、自分から進んで捧げる任意の捧げ物であったが、罪祭は、罪を犯した人が捧げなければならない義務的なものである。

この章は、3-12節では、油そそがれた祭司が罪を犯した場合について、13節以降は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合について、22節以降は、上に立つ者が罪を犯した場合について、27節以降は、一般人が罪を犯した場合について、それぞれ罪祭の捧げ方が記されている。
それぞれ、いけにえの動物に若干の違いはあるが、いずれも、人の罪を身代わりとなって引き受け、殺されるいけにえであり、これは、完全な罪祭のいけにえであるイエス・キリストを予表している。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)

この、罪祭による動物のいけにえは、人の罪を完全に清め去ることは出来ない。もし出来たのであれば、一度清められたなら再び捧げる必要はないが、実際はそうではなく、むしろ、捧げるごとに罪が思い出されるものである。「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(ヘブル10:1-4)

『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、/『神よ、わたしにつき、/巻物の書物に書いてあるとおり、/見よ、御旨を行うためにまいりました』」。』(ヘブル10:5-7)
ここで記されているのは、詩篇40篇からの引用で、この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。

耳で聞く事は、からだと同等に大切である。
私達は肉体を持った人間である以上、罪を犯す事は免れない。そこで、私達が罪赦されるのは、いけにえによるのではなく、罪のからだがキリストにあって清められ、新しくされる事によってであり、そして、からだが贖われるには、イエスキリストを信じる信仰によって、そして、信仰は耳を用いて聞く事から始まる。

聞く事、そして、従う事は、どんないけにえよりも大切である。
『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
それ程、耳は重要であり、耳で御言葉を聞き、従う事こそ、主が喜ばれるいけにえなのだ。

『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。』(ヘブル10:8-10)

祭司は、日ごとに同じようないけにえをささげるが、それらは、決して罪を除き去ることはできない。しかし、キリストは多くの罪のために、一つの、永遠のいけにえをささげた後、神の右に座された。彼は、自らの体を捧げられた事によって、私達を、清められた者として、永遠に全うされたのである。(ヘブル10:11-14)

『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19-21)

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