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礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 罪のためのいけにえ(レビ記4:1-17):右クリックで保存
レビ記4章は、罪祭、すなわち、罪のためのいけにえについての規定が記されている。
1-3章のそれぞれのいけにえは、自分から進んで捧げる任意の捧げ物であったが、罪祭は、罪を犯した人が捧げなければならない義務的なものである。
この章は、3-12節では、油そそがれた祭司が罪を犯した場合について、13節以降は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合について、22節以降は、上に立つ者が罪を犯した場合について、27節以降は、一般人が罪を犯した場合について、それぞれ罪祭の捧げ方が記されている。
それぞれ、いけにえの動物に若干の違いはあるが、いずれも、人の罪を身代わりとなって引き受け、殺されるいけにえであり、これは、完全な罪祭のいけにえであるイエス・キリストを予表している。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)
この、罪祭による動物のいけにえは、人の罪を完全に清め去ることは出来ない。もし出来たのであれば、一度清められたなら再び捧げる必要はないが、実際はそうではなく、むしろ、捧げるごとに罪が思い出されるものである。「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(ヘブル10:1-4)
『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、/『神よ、わたしにつき、/巻物の書物に書いてあるとおり、/見よ、御旨を行うためにまいりました』」。』(ヘブル10:5-7)
ここで記されているのは、詩篇40篇からの引用で、この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。
耳で聞く事は、からだと同等に大切である。
私達は肉体を持った人間である以上、罪を犯す事は免れない。そこで、私達が罪赦されるのは、いけにえによるのではなく、罪のからだがキリストにあって清められ、新しくされる事によってであり、そして、からだが贖われるには、イエスキリストを信じる信仰によって、そして、信仰は耳を用いて聞く事から始まる。
聞く事、そして、従う事は、どんないけにえよりも大切である。
『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
それ程、耳は重要であり、耳で御言葉を聞き、従う事こそ、主が喜ばれるいけにえなのだ。
『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。』(ヘブル10:8-10)
祭司は、日ごとに同じようないけにえをささげるが、それらは、決して罪を除き去ることはできない。しかし、キリストは多くの罪のために、一つの、永遠のいけにえをささげた後、神の右に座された。彼は、自らの体を捧げられた事によって、私達を、清められた者として、永遠に全うされたのである。(ヘブル10:11-14)
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19-21)
礼拝説教メッセージ音声:酬恩祭 - 和解のいけにえ(レビ記3:1-17):右クリックで保存
『もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。』(レビ3:1)
和解のいけにえ、すなわち酬恩祭は、捧げる人がその手をいけにえの頭に置く事や、いけにえをほふった血を祭壇の周りに注ぐ事、解体して火で焼く点では、全焼のいけにえと同じだが、ささげる動物は雄でも雌でも良い、とうい点で、全焼のいけにえと違う。
私達はキリストにあって神と和解した故、その救いには、男女の違いや、人種の違いなどは無いのである。キリストにあって皆、ひとつである。
『キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。』(ガラテヤ3:27-29)
もう一点、全焼のいけにえと違うのは、全焼のいけにえはからだの全てを火で焼いて捧げるのに対し、和解のいけにえは、内蔵や脂肪のみを焼いて主に捧げ、胸や足などの肉は、捧げた人や祭司が食することが出来る。(レビ記7:11-34)
つまり、和解のいけにえに関しては、神と人と、祭司とが、同じ一つのからだを食す事になる。
これはまさしく、キリストを意味している。
『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。』(エペソ2:13-19)
キリストこそ、唯一、神と人との仲保者であり、まことの大祭司である。
私達キリスト者も、聖餐において、キリストのこの裂かれた肉であるパンと、キリストの流された血潮である杯に与る事によって、キリストと一つとされ、神と和解するのである。
『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。』(1コリント11:23-25)
和解のいけにえは、汚れた人が食べてはならない、と定められている。
主と和解したいという意思があり、それに相応しく身を清め、主に対してそれなりの敬意を払う者のみが、食することが出来るのである。
『もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。また人がもしすべて汚れたもの、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた獣、あるいは汚れた這うものに触れながら、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。』(レビ記7:20-21)
同じように、聖餐のパンと杯でも同じ事が言える。
『だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。』(1コリント11:27-29)
ここで「ふさわしくない」とは、罪を犯す・犯さないの問題ではなく、キリストを「記念し」「覚え」、みからだを「わきまえ」るかどうかである。
もし罪を犯した者は聖餐にあずかれないとするなら、人間は誰も聖餐にあずかれない。
ただ、私達の罪の身代わりとなり、和解のいけにえとなって下さったキリストを覚え、キリストを記念し、罪赦された事をわきまえる者こそ、聖餐にあずかれるのである。
礼拝説教メッセージ音声:礼拝とパン種(レビ記2:11-16):右クリックで保存
『あなたがたが主にささげる素祭は、すべて種を入れて作ってはならない。パン種も蜜も、すべて主にささげる火祭として焼いてはならないからである。ただし、初穂の供え物としては、これらを主にささげることができる。しかし香ばしいかおりとして祭壇にささげてはならない。あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。』(レビ記2:11-13)
パン種は、パン生地に入ると発酵してふくらみ、食べやすくなるが、すぐに酸っぱくなって腐ってしまう。
このパン種は、主に火で焼いて捧げる「素祭」の供え物としては捧げてはならないと命じられているが、「初穂」の供え物は逆に、種を入れたパンを捧げなくてはならないと命じられている。
『また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に「種を入れて」焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。』(レビ記23:15-17)
パン種は、聖書ではあまり良い意味で用いられていない。例えば、純粋な「御言葉」に、不純な「人間の教え」が混ぜ込まれると、全体が不純に膨れてしまう事のたとえとして用いられたり、純粋な「交わり」の中に、サタンに属する「にせ兄弟姉妹」「にせ預言者」「にせ教師」が入り込み、交わり全体を不純に膨らませてしまう様を意味したりする。
このパン種が、七週の祭りに用いられるのは、どういう事だろうか。
この「七週の祭り」は、新約におけるペンテコステの日であり、多くのキリスト者達が、公に、目に見える形で聖霊が注がれ、初代教会の初穂として、主に捧げられた。
この日は、聖徒の「集団」が主に捧げられた日であるが、「集団」の中にはどうしてもパン種が入り込んでしまうものである。
事実、初代教会の中にも、偽信徒や偽預言者、偽教師達が入り込み、パウロもヨハネもペテロもユダも、皆、そのような「パン種」に気をつけるよう、注意の手紙を書いている。
私たちは、人の集団の中からよりも、パン種の入っていない純粋な御言葉にこそ養われるべきであり、純粋な礼拝を捧げるべきである。
もう一つ、パン種が入る捧げ物のケースは、酬恩祭(和解のためのいけにえ)においてである。
『また「種を入れた」パンの菓子をその感謝のための酬恩祭の犠牲に合わせ、供え物としてささげなければならない。すなわちこのすべての供え物のうちから、菓子一つずつを取って主にささげなければならない。これは酬恩祭の血を注ぎかける祭司に帰する。』(レビ記7:13-14)
和解のためのいけにえは、神と人との関係の和解を祝い、いけにえの脂肪を焼きつくして神に捧げた後、残りの肉を、祭司と奉献者が食べ、神と人との平和を喜び、味わうものである。
このように、神と自分との間に「人が関わる」祭りには、パン種が入る。
神と人との間に立って、御言葉を解き明かすメッセンジャーも、御言葉を噛みやすく、食しやすくする為に、例話を用いたり、面白く工夫したりするものであり、多少のパン種や蜜が入り込むものである。
確かに信仰において赤ちゃんである初心の者には、そういう事も必要であるが、いつまでもそうであっては、困りものである。
私たちは成長するためには、パン種の入っていない御言葉によってこそ養われるべきである。
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』(ヘブル5:12-14)
そして、私達の交わりからも、努めてパン種を取り除くべきである。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
教会の人間関係のトラブルは、大抵、不純なパン種を取り扱わない故に発酵し、膨らんだものである。
何でもかんでも愛で包んだり、なんでもかんでも赦したり、そうした甘ったるいだけの、蜜だけを混ぜ尽くしたような交わりは、腐る一方的であり、時には、責め、教え、訓戒する、という「塩気」も必要である。
時には甘さも必要だが、私達はむしろ、塩気によって互いに和合すべきである。
『人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。』(マルコ9:49-50)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰を用いて理不尽な法に勝つ(エステル記8:1-8):右クリックで保存
【概要】
本日のメッセージは、エステル記8章1節から8節の御言葉を通して、神の御計画の中で信仰と勇気がどのように働くかを学ぶものです。私たちはまた、信仰により罪と死の呪いに対抗できる力が与えられていることを確信します。
【聖書箇所】
・エステル8:1-8
・ヘブル11:1
・マタイ16:15-19
【慰めの言葉】
私たちが絶望の淵にあっても、神は必ず救いの道をお示しくださいます。どんな取り消しの効かぬ罪の法則の中にも、イエス・キリストという救いのカウンター法令が確かに働いています。
【励ましの言葉】
エステルが自らのためだけでなく民族のために勇気ある一歩を踏み出したように、私たちも日々の信仰において立ち上がり、神の与えられた権威を信じ、行動すべきです。神はあなたに天の御国の鍵をお与えになっておられます。
【戒めの言葉】
一度発せられた罪の法則は取り消しができないと聖書は教えています。しかし、私たちが何も行動せず、ただ流されるならば、罪の罠に陥ってしまいます。今一度、心を引き締め、信仰の権利証書に正しく記された御言葉に従うよう戒めます。
【勧めの言葉】
神が私たちに与えてくださった貴重な信仰の実印を、惜しみなく用いてください。王がエステルに指輪を託し、自由に法令を書き換えるよう命じたように、私たちもイエス・キリストの御名にあって、罪と死の呪いに対抗する権威を積極的に宣言し、実践しましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
もしも今、信仰を働かせることなく日々を過ごしているなら、自らの心を省みてください。罪に満ちた古い自分を悔い改め、救いと祝福に満ちた新しい霊の法則に立ち返る時です。悔い改めを通して、神の恵みと救いの計画に再び立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日の御言葉は、まずエステル記8章1節から8節に見るように、**「エステル8:1-8」**の中で、アハシュシュ王が王妃エステルを通してユダヤ人に対する迫害を企んだ者たちの法令を取り消すため、王の指輪と実印を授けられた出来事に端を発します。エステルは自らの危険を顧みず、愛する民族のために立ち上がり、悩み苦しむ民の声を代弁しました。神の御心が働かれるその瞬間、エステルの深い信仰と決意が、取り消すことのできない法令に対して、対抗法令を授ける王の権威と結びつけられたのです。
この出来事において、王の指輪――すなわち実印が持つ権威は、私たちにとって大きな象徴です。聖書は「エステル8:8」において、王の指輪で印を押された文書は「誰も取り消すことができない」と強調しています。これは、私たちが何かあるべき姿、すなわち神の祝福や救いに関して、信仰によって確固たる権利証書を得るという確信に重ね合わせることができます。罪と死の法則は、人間の力では取り消すことのできない厳然たる現実ですが、天の父なる神は、イエス・キリストを通してその呪いに対抗するためのカウンター法令を与えてくださいました。
そして、筆者はここで、信仰とは「望んでいる事柄の権利証書」とも言えると説いています。これは、**「ヘブル11:1」**の御言葉にあるように、「信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。私たちの信仰は、まさにこの保証、あるいは権利証書として、天においても地上においても有効なものです。もし、信仰を働かせ、神が与えてくださった実印――すなわちイエス・キリストの救いの権威――を用いるならば、どんな困難な状況であっても、神の救いの計画に基づく祝福を宣言し、罪と死に対して立ち向かうことができるのです。
また、イエス・キリストが語られた**「マタイ16:15-19」**の御言葉において、「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てる」と語られたことは、私たち一人ひとりが信仰告白の上に立ち、またその信仰の告白を通して、天の御国への鍵を授かっていることを象徴しています。イエスは、ペテロに天の御国の鍵を託し、地上で「つなぐ」もしくは「解く」権威を与えました。これは、私たちにも同様に、信仰の宣言をもって、呪いに対抗し、祝福を宣言する特権が与えられていることを示しているのです。
エステル記のこの物語は、ただ歴史上の出来事として語られるのではなく、現代に生きる私たちに対しても深いメッセージを投げかけています。今の時代、私たちは日々の生活の中で、身体的な病や試練、経済的な困難、または精神的な葛藤にさらされることが多々あります。しかし、これらの状況は決して偶然のものではなく、罪の法則が働く現実の反映です。しかし、同時に、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神の御国の権威に参与しているのです。
信仰を働かせるということは、自らの意思で神の与えてくださった権威の実印―つまり、霊的な証書―に記された約束を宣言することです。たとえば、私たちが何か問題に直面した時、「この病はイエス・キリストが追い払ってくださった」と信じ、宣言するならば、その信仰は確固たる権利証書となり、天の御国においても実態を伴った祝福として現れるのです。エステルが自らの民族を救うために立ち上がったように、私たちも信仰をもって困難に打ち勝つ、あるいは神の祝福を引き寄せる力が与えられているのだという確信を新たにしましょう。
また、ここで気をつけるべきは、神が与えてくださった実印をただ所有するだけではなく、それを積極的に活用することの大切さです。もし、モルデカイが王から授かった実印を用いなかったなら、ユダヤ人の危機は免れなかったでしょう。これは、私たち自身も同様に、神の権威に預かりながら日常の中で信仰を宣言し、実践しないならば、罪の中に沈んでしまう危険性を示しています。したがって、私たちは決して受動的な信仰者に留まらず、積極的に神の御言葉に従い、日々の生活の中でその権威を発揮する努力を怠ってはならないのです。
このように、エステル記、ヘブルの御言葉、そしてイエスが語られた御言葉は、私たちに「信仰を働かせよ」という強いメッセージを送っています。信仰は、ただの心の状態ではなく、積極的な力の働きであり、宣言すれば現実になる霊的な権利証書なのです。私たちがイエス・キリストを信じ、その救いの福音に立脚するならば、どのような取り消しのできぬ呪いの法則にも対抗でき、むしろ神の恵みと祝福が確固たる形で現れるのです。
どうか、皆さんもこの日のお言葉を胸に刻み、生命に満ちた信仰の歩みを日々実践してください。受動的な存在ではなく、エステルやペテロ、そしてモルデカイのように、神の定められた役割と権威を喜んで担い、どんな困難にも立ち向かう勇気ある信仰者となることを切に願います。天の御国の鍵があなたの手にあることを思い出し、言葉と行いによってその偉大な権威を現す日々となりますように。
【結論】
私たちの信仰は、エステルの勇気やペテロの告白に象徴されるように、天の御国への確かな権利証書です。日々の生活の中で、イエス・キリストの御名による権威と実印を積極的に働かせ、罪と死の呪いに対抗する信仰の宣言を実践していきましょう。愛する主イエスの御名によって、私たちは必ず勝利し、永遠の祝福に満たされるのです。
礼拝説教メッセージ音声:素祭 - 穀物の捧げもの(レビ記2:1-10):右クリックで保存
レビ記2章は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについての規定が記されている。
『人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。』(レビ記2:1-2)
供え物として捧げられるものは「麦粉」であって、殻がついたままのものでも、砕かれる前の状態でもない。
殻を取り除かれ、粉々に砕かれた「麦粉」に、油を混ぜ、乳香を添える事によって、捧げ物として有効になる。
『祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。』(レビ記2:2-3)
捧げもの全般に言える事であるが、主に捧げられるいけにえは、キリストをあらわしており、そしてまた、主に捧げられる私達をも表している。
この、祭司が記念の分としてつかむ最初の一握りは、主に捧げられる香ばしいかおりであり、キリストも、私たちの先駆けとして、十字架上で香ばしいかおりとなって捧げられた。
それに続く私たちは、大祭司なるキリストの食物として、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
この麦粉に混ぜ合わされる油は「聖霊」を意味し、乳香は「キリストのかおり」を暗示する。
素祭として捧げられる小麦が粉々に砕かれたように、十字架上で捧げられるキリストも、主の御前に粉々に砕かれ、そして、油注がれた。
私達もまた、主の御前に捧げられる際には、人間的な知恵や力は、粉々に砕かれるべきである。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)
素祭は、単に麦粉にそのまま油と乳香を混ぜた状態で捧げる方法の他に、かまどで焼いたり、平なべの上で焼いたり、なべで煮たり等、色々な方法で調理された状態で捧げる方法もある。
『あなたの供え物が、もし、平鍋で焼いた素祭であるならば、それは麦粉に油を混ぜて作った種入れぬものでなければならない。あなたはそれを細かく砕き、その上に油を注がなければならない。これは素祭である。』(レビ記2:5-6)
この、平鍋で焼いた素祭は、調理された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油が注がれる。
同じように私たちも、主にあって色々な方法で「料理」され、ある人は「料理」された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油注がれる、という事もある。
いずれの捧げられ方でも、共通している事は、麦粉は細かく砕かれており、油を混ぜられ、パン種は入っていない、という事である。。
私たち自身も、主に喜んで受け入れられる「捧げ物」となるためには、まず、主に敵対する「自我」は粉々に砕かれている必要があり、自分由来の人間的な力や知恵といった「パン種」は取り除かれている必要があり、そうであるなら、さらに主から聖霊の油が注がれ、ますます主に喜ばれる捧げ物となって行くことができるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:どんな捧げものであっても(レビ記1:10-17):右クリックで保存
『もしその燔祭の供え物が群れの羊または、やぎであるならば、雄の全きものをささげなければならない。』(レビ記1:10)
前回は、燔祭すなわち全焼のいけにえが、牛の場合について見たが、捧げものは何も必ず牛でなくてはならないというわけではなく、捧げる人の状況に合わせ、羊、やぎ、あるいは山鳩、家鳩のひなでも良い事となっている。
この世において、人には貧富の差があり、牛を多く持てる人もいれば、貧しくて、やぎ一匹も持てない人もいる。
しかし、どんなに貧しい人であろうと、山鳩や家鳩のひなくらいは、手に入る。
主は、牛を捧げた人はひいきして、鳩のひなを捧げる人は蔑むような事は、なされない。
むしろ主は、人が捧げものをする時は、その人の心の成り立ちを、見ておられるのである。
『イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』(ルカ21:1-4)
そして、捧げものがいかに肥えた牛や羊であったとしても、汚れた者による、間に合わせ的な捧げものは、忌み嫌われる。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル 15:22-23)
主は何より、聞き従う耳と、従順な心をこそ、全ての捧げものに勝って、受け入れられるのである。
『彼は祭壇の北側で、主の前にこれをほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたこれを節々に切り分かち、祭司はこれを頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。』(レビ記1:11-12)
いけにえの動物は、ほふられ、血を祭壇の周囲に流され、体は解体されるが、このいけにえはイエス・キリストをあらわしている。
『わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。』(詩篇22:14)
この詩篇の通り、イエス様は十字架上で、悪者どもに囲まれ、手と足を(直訳:獅子のように)刺し貫かれ、手足を引き裂かれ、わきを槍で貫かれた。
その、衣服はローマ兵達に分捕られ、分けられ、下着はくじにひかれた。
イエス様は御父の前に、完全ないけにえとして捧げられたのである。
これら、動物のいけにえは、主イエス・キリストの予表である。
礼拝説教メッセージ音声:全身全霊の捧げ物(レビ記1:1-9):右クリックで保存
レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されており、ここ一章では、燔祭(全焼のいけにえ)についての主の命令が記されている。
和解のいけにえや罪のためのいけにえ等は、和解や罪のゆるし等、要件がある故に捧げるものであるのに対し、この全焼のいけにえは、純粋に自ら進んで捧げるものである。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。』(レビ記1:2-3)
主はこれをイスラエルの人々全員に対して言っている。
日本語の聖書では分かりづらいが、この燔祭、すなわち全焼のいけにえは、自ら進んで捧げるものである。
KJVでは3節に「he shall offer it of his own voluntary will」とある。すなわち、自発的な意思によって捧げるもので、強制ではない。
つまり、捧げなくても良いといえば良い。その点は教会の献金と同じであるが、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」の御言葉どおりである。(2コリント9:6)
「もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。」
もし主に捧げるのであれば、それは、傷のつきの、余り物のような、そんなどうでも良いものであってはならない。愛する相手にプレゼントする時、傷モノを贈るとしたら、かえって相手を怒らせ、逆効果であるのと同じである。
また、捧げ物全般に言える事は、それは「家畜」からであって、野で狩猟したものを捧げものにさせるような命令は、どこにも無い。
狩猟は、いわば自然界のものを分捕り奪って来たもので、自分の財産を痛めるものではないが、家畜は、自らの手で育てたものであり、捧げる時に、ある種の痛みを覚える。
ささげものはヘブル語でコルバン、それは「犠牲」も意味し、主への捧げ物は、必ず犠牲をともなうものである。
神は、清く傷の無い御子キリストを捧げるという、究極の痛みを担われ、イエスキリストは、御自身を捧げるという、究極の犠牲を捧げらえた。
『こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。』(エペソ5:1-2)
キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われ、霊も肉も全身が焼き尽くされる苦しみを味わい、そのキリストが十字架という祭壇で捧げられ尽くした事によって、御父は完全に宥められた。
『彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。』(レビ記1:4)
頭に手を置く行為は、その対象と一体化する事を意味している。
つまり、捧げる人は、獣の上に手を置く事によって一体化し、獣が全焼のいけにえとして捧げられる時、その人自身も全身全霊、主の御前に捧げられた事になる。
『彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。』(レビ記1:5-6)
獣をほふるのは、その人自身である事に注目したい。
その獣を養い育てた本人自らが、手をかけ、血を流し、死なせるのだ。それは実に、心に痛みが伴う行為である。
事実、キリストに手をかけ、血を流し、十字架上で死なせたのは、私達自身である。
彼の犠牲の故に、私達は救われた。その事をいつも覚えるべきである。
そして、キリストが御自身を捧げられたように、私達も、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛し、ささげるべきである。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。』(ローマ12:1-2)
礼拝説教メッセージ音声:レビ記概要(レビ記1:1):右クリックで保存
「主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた」(レビ記1:1)
レビ記はモーセ五書の第三の書、ヘブル語ではワイクラー、意味は「そして主(彼)は呼び寄せられた」という、このレビ記1章1節の言葉である。
レビはイスラエルの三番目の息子で、その子孫達が人情よりも御言葉に従順したため、神と人との間を取り持つ祭司としての職務が与えられた事は、出エジプト記で学んだ通りである。
ちなみにレビの名は「結びつける」という意味で、神と人とを結びつける祭司にふさわしい名である。
レビ記の内容が主から与えられたタイミングは、エジプトを出て第2年目の1月から2月までの間である。(出エジプト記40:1、民数記1:1)
その間、このレビ記に記されている主の戒めとさとしを、じっくりと主から教わったのだ。
そして、第2月の二十日に、雲があかしの幕屋を離れ、イスラエル人はその主からのゴーサインにより旅立ちを始めた。
私達は、身勝手に行動を始めるべきではなく、まず主の御言葉をじっくり聞いてから、主のゴーサインによって行動を起こすべきなのだ。
このレビ記には、律法の細則が示されており、種々の捧げ物や礼拝、祭りに関する規定や、何が清く何が汚れた事であるのかについて、また、何が義であり何が罪であるのか、何が聖であり何が俗であるのか等を、具体的なケースを用いて詳細に示している。
それらの内容から、主は何を喜ばれ、何を嫌われるのか、主はどのようなご性質であるのかを、私達は知ることが出来る。
レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されている。
それは現代の私達にも、捧げ物はどのように、どのような気持ちで捧げれば良いのかのガイドラインとなり、そしてまた、人類を贖うまことの犠牲となられたキリストのご性質を、詳細に知る事が出来る。
レビ記からは、キリストの贖いや、キリストの大祭司としての性質を見ることが出来、また、各種の祭りからも、キリストの誕生や生涯、十字架での死と復活、再臨の性質を知る事が出来る。(ヘブル9章)
旧約律法はもう終わった、異邦人である我々には関係ない、というような心持ちで読むと、レビ記ほどつまらない書は無いだろう。
しかし、レビ記に限らず、モーセ五書は、神がどのように世を造られ、神は人とどのように関わられ、何を好まれ、何を憎まれるのか、そうした神と人との関係の根幹的な事柄が記されているため、決しておろそかにはできない。
よく、「旧約聖書は自分とは関係ない」と思う人がいるが、その人は、以下の御言葉を熟考すべきである。
『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)
ここで明記されている通り、モーセ五書に記されている諸々の事は、世の終わりに臨んでいる私達への警告であり、訓戒としてしっかりと捉えるべきである。
悪をむさぼった彼らが荒野で屍を晒していったように、わたしたちも、悪をむさぼって中途脱退者にならぬように、また、偶像礼拝者となって兄弟姉妹から絶たれてしまわぬように、また、不品行をして倒されてしまう側とならぬように、また、つぶやいたりして「死の使」に滅ぼされぬよう、日々互いに励まし合い、そのような誘惑に陥って、荒野で屍として永遠に置いてけぼりになってしまった者に加わる事のないように気をつけるべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪者は墓穴に入る(エステル記7章):右クリックで保存
【概要】
エステル記7章の中に現れる勇気ある王妃エステルの告白と、神の救いのタイミングの奇跡を通して、私たちは主への信頼と謙虚な心の大切さを学びます。主は正しい者を守り、悪者の策略を必ず退けられると約束されています。
【聖書箇所】
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エステル記 7章1節〜10節
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詩篇37編(特に32節以降:「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」)
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箴言16章 17節〜19節(「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」)
【慰めの言葉】
どんなに困難な状況にあっても、主は必ず正しいもののそばにおられ、悪者の思惑をお打ち砕きくださいます。主にすがるならば、その憂いは希望と救いに変わります。
【励ましの言葉】
エステル王妃が自らの命と民族の救いを求めたように、私たちも恐れず主に立ち向かい、心からの信頼をもって御声に応じる勇気を持ちましょう。主はその一歩一歩に、確かな栄誉と祝福を与えてくださいます。
【戒めの言葉】
高ぶりや傲慢は必ず自らの破滅を招きます。箴言16章にあるように、心の高慢は倒れに先立つという戒めを真摯に受け止め、常に謙虚な態度で歩むよう注意しましょう。
【勧めの言葉】
日々の祈りと断食を通して主に近づき、御言葉にしっかりと立脚した生活を送りましょう。信仰による正しい道は、私たちを悪の罠から救い、真の平安へと導いてくださいます。
【悔い改めの促しの言葉】
もし自らの傲慢や過ちに気づいたなら、深い悔い改めと謙虚な心で神に立ち返りましょう。主は、真心から悔い改める者に対して、必ず救いの手を差し伸べてくださいます。
【***詳細***】
本日お読みする箇所はエステル記7章です。先週の受難週を経て、2週間ぶりとなるこの説教では、エステルがどのように王の前に立ち、イスラエル民族の危機を告げる勇気を振り絞ったか、その瞬間の圧倒的な真実が語られています。宴会の席で、王とともに杯を交わす中、エステル王妃は神の導きにより、**「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私に命を与え、私の民族にも命を与えてください」**と、素朴ながらも力強い言葉を王に伝えました。彼女のその一言には、己の命だけでなく、民族全体の未来を賭ける深い決意と信仰が感じられます。
ここで私たちは、かつてのエステル記の情景を思い起こすとともに、現代においても、神が正義をもって悪を裁かれるという御約束を確信せずにはいられません。旧約聖書の中でも、モルデカイに対し迫害を企てたハマンは、50キビトの高い柱を用意し、彼を吊るし上げようと計画しました。しかし、王の前で大胆にも振るわれたエステルの告白と、突然立ち上がった王の怒りにより、ハマンは己の罠に嵌り、破滅への道を歩むこととなりました。これは、**「悪者は自らが掘った穴に陥る」**という神の裁きの生きた証拠であり、私たちにとって大いなる励ましとなるのです。
また、聖書は私たちに慰めの言葉も届けています。詩篇37編には、**「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」**と記され、正しい者に対する主の保護と、悪に対する厳しい裁きが確約されています。この御言葉を心に留めるとき、たとえ私たちの周りに偽りの友や悪意ある者が増えたとしても、主が必ず真実と正義をもって報いてくださると信じることができます。
さらに、箴言16章においては、**「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」**と明言されています。ハマンの姿は、この戒めの通り、自らの誇りと傲慢に溺れた結果、破滅への道を辿るものであり、私たちにとっても、謙虚さと誠実な心で歩むことの重要性を教えてくれます。私たちが日常の中で、時に誘惑や権力に目が眩むことがあっても、主の前では常に謙虚さを忘れず、誠実な信仰の道を選び続けるべきであると改めて示されています。
エステル王妃がまず自身の命を、そして後に民族全体の救いを願い出たその賢明かつ勇敢な姿勢は、私たちに重大なメッセージを投げかけています。それは、単に自らを救うのではなく、私たちの周りにいる愛する人々、家族、そして共同体全体を守るためには、まず自分自身の弱さや罪に正直になり、悔い改めることが必要であるという教えです。イスラエル民族が3日間の断食を通して主に身を避けたように、私たちもまた、日々の生活の中で自分を見つめ直し、神に従う決意を新たにするべきです。
現代社会において、私たちは数多くの誘惑や虚偽、さらには偽預言者に左右されがちです。しかし、神は常に正しいもののために戦われ、真実の光をもって悪を打ち砕かれるお方です。エステル記、詩篇37編、そして箴言16章に描かれるこの御業は、どんなに困難な状況にあっても、主に信頼し従うならば救いと栄誉を受けるという確固たる約束であります。
今日の説教を通して、私は皆さんに、エステルのような勇気と、モルデカイのような忍耐、そして謙虚な心を持って、どんな試練にも主に頼む生き方を勧めたいと思います。私たちが心から主に立ち返り、祈りと断食、そして真摯な信仰をもって歩むならば、主の手が決して私たちを離すことはなく、悪者は必ず自らの罠に捕らわれると信じております。
イエス様のお名前のもと、主の恵みと救いが私たち一人ひとりの人生に豊かに注がれることを、心から願い、感謝する次第です。私自身も、エステル王妃の勇気に学び、日々の生活の中で主への信頼を新たにしながら、皆さんとともに歩む覚悟を固めております。主の奇跡的な御業に励まされ、正しい道を着実に進むために、どうかこの御言葉を胸に刻んでいただければ幸いです。
【結論】
エステル王妃の勇気と、主が悪を打ち砕かれる奇跡的な働きを通して、私たちはどんな危機の中でも主に信頼することの大切さと、謙虚な心で生きる喜びを学びます。今日からも、悔い改めと祈りを絶やさず、主に導かれる正しい道を歩んでいく決意を新たにしましょう。イエス様のお名前によって、皆さん一人ひとりに祝福がありますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:主が命じられた通りに(出エジプト記40:16-38):右クリックで保存
『モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。』(出エジプト記40:16)
出エジプト記の終わりは、主が命じられていた事を民はことごとく忠実に実行し、その結果、主の臨在の雲が幕屋に満ちた事によって締めくくられている。
今回の短い箇所からも、「主がモーセに命じられたとおりである」という表現が8度も出てくるように、出エジプト記の後半は、主が命じられたあの事、この事を、その通りに行った、という表現が続くため、あたかも、同じ内容のコピーペーストを読んでいるような感じで、見ている側としては、つまらないかもしれない。
しかし、主が言われた事を、そのままコピーペーストのように実行する事こそ、主の祝福と、栄光の臨在を招くコツである事を私達は学んだ。
『彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。主がモーセに命じられたとおりである。』(出エジプト記40:20-21)
この「あかしの板」は英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。
律法の石板が、女性形である事は、実に興味深い。
私達はキリストに対しては、男性も女性も、全て「女」の立場である。キリストこそ唯一の主人であり花婿であり、私達教会はその妻、花嫁である。
旧約においては、神のあかしは石板に神の指によって記されたが、新約の今、神のあかしは、私達の「心」に、神の指によって刻み込まれている。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)
新約の私達は、神の言葉が心に刻み込まれており、そして、新約の私達自身は聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のようであり、キリストの花嫁、妻である。
自らをキリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行くのである。
私達が約束の地、安息の地にどうすれば入れるか。それは、日々、主の導き通りに歩んでいく事によって、である。そうするなら、必ず入れる。
『雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。』(出エジプト40:36)
この、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれていく様は、民数記9章のほうに詳しく記されている。
『幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。
すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。また幕屋の上に、雲のとどまる日の少ない時もあったが、彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。また雲は夕から朝まで、とどまることもあったが、朝になって、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。また昼でも夜でも、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。
ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。』(民数記9:15-23)
この、神の臨在の導きに従って進んだり留まったりする様は、現代この世界を生きる私達が、いかにして主に導かれていくべきかを示している。
主がおられる所なら、いかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、そこに留まるべきであり、主の臨在がそこから無くなったならば、そこがいかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、出て行くべきである。
主がおられる所へ私達がついて行くなら、誰でもやがて約束の地、安息の地に入るが、主の導きに反対し、身勝手に進む者は、やがて荒野で屍となって取り残されて行ってしまう。
この出エジプト記の終わりの時点、誰もが約束の地へと入れる可能性があったし、荒野で40年もさまよい歩く理由も、この時点では、無かった。
主の導きに従い、御言葉に従って歩むなら、必ず誰でも安息の地に入れるのだが、しかし、約束の地カナンへは、この世代では僅か二人しか入れなかった。御言葉に従って歩まなかったからである。それは、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。
『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。』(出エジプト記40:33)
出エジプト記は、神の民がエジプトの圧政による奴隷状態であった所に始まり、神の顕現、敵の懲らしめ、奴隷状態からの脱出を経て、荒野での神の戒めの授与、そして、礼拝場所である幕屋が完成し、主の栄光の臨在が満ち溢れた所で終わる。
現代を生きる私達キリスト者も、出エジプトの民のように、はじめはサタンの圧政による奴隷状態であった所に、主イエスが現れ、彼を信じ、御言葉の通りに歩んだ結果、サタンの奴隷状態から脱出でき、礼拝場所である教会へと導かれ、戒め御言葉をいただき、キリスト者の交わりに加えられ、永遠のいのちの約束が与えられた。
そして、誰もが御国という約束の地へと入れる可能性を持っている。
『あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。』(ヘブル12:15-16)