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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

高慢な者 - 御言葉を超える者 - の行き着く先(エレミヤ43章)

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43:1 エレミヤがすべての民にむかって、彼らの神、主の言葉をことごとく語り、彼らの神、主が自分をつかわして言わせられるその言葉をみな告げ終った時、
43:2 ホシャヤの子アザリヤと、カレヤの子ヨハナンおよび高慢(ゼド)な人々はみなエレミヤに言った、「あなたは偽りを言っている。われわれの神、主が、『エジプトへ行ってそこに住むな』と言わせるためにあなたをつかわされたのではない。
43:3 ネリヤの子バルクがあなたをそそのかして、われわれに逆らわせ、われわれをカルデヤびとの手に渡して殺すか、あるいはバビロンに捕え移させるのだ」。
 
高慢のヘブライ語ゼドは、ザイン、ダレットの2文字から成るが、ザインは剣あるいは切る・カットsる事の意味があり、ダレットは門あるいは小道の意味がある。
すなわち高慢とは、道である主の御言葉を切る、あるいは、羊の門であられるイエス・キリストを切る事である。
 
ヨハネ10:1 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
10:6 イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
 
この、羊の門であるイエス・キリスト、御言葉であられるキリストの内側で生きる事こそ、キリスト者の生きるべき領域である。
その、門であり道であられるキリストをカットし、乗り越えて来る者は、高慢な者であり、盗人であり強盗である。
彼らが行き着く所は、滅びである。
 
エレミヤの言葉は、エジプトにいくな、であった。しかし彼らはエレミヤに聞く前から、既に心がエジプトに行く事に定まっていた。
 
43:4 こうしてカレヤの子ヨハナンと軍勢の長たちおよび民らは皆、主の声にしたがわず、ユダの地にとどまろうとしなかった。
43:5 そしてカレヤの子ヨハナンと軍勢の長たちは、ユダに残っている者すなわち追いやられた国々からユダの地に住むために帰ってきた者、――
43:6 男、女、子供、王の娘たち、およびすべて侍衛の長ネブザラダンがシャパンの子であるアヒカムの子ゲダリヤに渡しておいた者、ならびに預言者エレミヤとネリヤの子バルクをつれて、
43:7 エジプトの地へ行った。彼らは主の声にしたがわなかったのである。そして彼らはついにタパネスに行った。
43:8 主の言葉はタパネスでエレミヤに臨んだ、
43:9 「大きな石を手に取り、ユダの人々の目の前で、これをタパネスにあるパロの宮殿の入口の敷石のしっくいの中に隠して、
43:10 彼らに言いなさい、『万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、見よ、わたしは使者をつかわして、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを招く。彼はその位をこの隠した石の上にすえ、その上に王の天蓋を張る。
43:11 彼は来てエジプトの地を撃ち、疫病に定まっている者を疫病に渡し、とりこに定まっている者をとりこにし、つるぎに定まっている者をつるぎにかける。
43:12 彼はエジプトの神々の宮に火をつけてこれを焼き、彼らをとりこにする。そして羊を飼う者が着物の虫をはらいきよめるように、エジプトの地をきよめる。彼は安らかにそこを去る。
43:13 彼はエジプトの地にあるヘリオポリスのオベリスクをこわし、エジプトの神々の宮を火で焼く』」。
 
歴史はエレミヤの預言どおりになった。
結局、神の言葉を乗り越える者はのろいと死へ、しかしそれを守り行う者にはいのちと祝福にあずかる法則は、エデンの園の時から存在する。
 
創世記2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ(アーバド)、これを守らせ(シャマール)られた。
 
主が置かれた場所エデンの園(喜びの園という意味)で、そこを耕し(アーバド)、守る(シャマール)事が、仕事である。
「耕す(アーバド)」とは、しもべとして働く、奴隷として言われた事に聞き従う、あるいは「耳」の意味がある。
「守る(シャマール)」とは、囲いを設けて守る、限られた境界の中で養う事の意味がある。
神の子とされたキリスト者は、自分で汗水流して働きをする者ではなく、主が置かれた喜びの園で、主の御声にしもべとして聞き従いつつ、そこに御言葉の境界を設け、その内側で守り養うべきものを養うのが、仕事なのだ。
 
自分の善悪判断で、神の言葉を乗り越えると、呪いと死がある。
 
創世記2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
 

従う気が無いのに預言者に助言を求める者(エレミヤ42章)
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エレミヤ42章

イザヤ30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
30:16 かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。
30:17 ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。
30:18 それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。
 

何でも信じてしまう人が、多くの人のいのちを奪ってしまう場合(エレミヤ40:13-41:18)

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エレミヤ40:13 またカレヤの子ヨハナンと、野外にいた軍勢の長たちはみなミヅパにいるゲダリヤのもとにきて、
40:14 彼に言った、「アンモンびとの王バアリスがあなたを殺すためにネタニヤの子イシマエルをつかわしたことを知っていますか」。しかしアヒカムの子ゲダリヤは彼らの言うことを信じなかったので、
 
申命記23:3 アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。
23:4 これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。
23:5 しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。
23:6 あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。
 
エレミヤ40:15 カレヤの子ヨハナンはミヅパでひそかにゲダリヤに言った、「わたしが行って、人に知れないように、ネタニヤの子イシマエルを殺しましょう。どうして彼があなたを殺して、あなたの周囲に集まっているユダヤ人を散らし、ユダの残った者を滅ぼしてよいでしょう」。
40:16 しかしアヒカムの子ゲダリヤはカレヤの子ヨハナンに言った、「この事をしてはならない。あなたはイシマエルについて偽りを言っているのです」。
 
マタイ10:16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
 
エレミヤ41:1 七月のころ、王家のもので、エリシャマの子ネタニヤの子であり、また王の高官のひとりであるイシマエルは、王の十人のつかさたちと共にミヅパにいたアヒカムの子ゲダリヤのもとにきて、ミヅパで食を共にしたが、
41:2 ネタニヤの子イシマエルおよび共にいた十人の者は立ち上がって、バビロンの王がこの地の総督としたシャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤを刀で殺し、
41:3 イシマエルはまたミヅパでゲダリヤと共にいたすべてのユダヤ人と、たまたまそこにいたカルデヤびとの兵士たちを殺した。
 
箴言24:21 わが子よ。主と王とを恐れよ。そむく者たちと交わってはならない。
24:22 たちまち彼らに災難が起こるからだ。このふたりから来る滅びをだれが知りえようか。
 
41:4 ゲダリヤが殺された次の日、まだだれもその事を知らないうちに、
41:5 八十人の人々がそのひげをそり、衣服をさき、身に傷をつけ、手には素祭のささげ物と香を携え、シケム、シロ、サマリヤからきて、主の宮にささげようとした。
41:6 ネタニヤの子イシマエルはミヅパから泣きながら出てきて彼らを迎え、彼らに会って、「アヒカムの子ゲダリヤのもとにおいでなさい」と言った。
41:7 そして彼らが町の中にはいったとき、ネタニヤの子イシマエルは自分と一緒にいた人々と共に彼らを殺して、その死体を穴に投げ入れた。
41:8 しかしそのうちの十人はイシマエルに向かい、「わたしたちは畑に小麦、大麦、油、および蜜を隠しています、わたしたちを殺さないでください」と言ったので、彼らをその仲間と共に殺さないでしまった。
41:9 イシマエルが自分の殺した人々の死体を投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バアシャを恐れて掘った穴であった。ネタニヤの子イシマエルは殺した人々をこれに満たした。
 
黙示録6:9 小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。
6:10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。
6:11 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。
 
黙示録16:4 第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。
16:5 それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。
16:6 聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。
16:7 わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。
 
エレミヤ41:10 次いでイシマエルはミヅパに残っているすべての民、すなわち王の娘たちと侍衛の長ネブザラダンがアヒカムの子ゲダリヤに託したミヅパに残っているすべての民とを捕虜とした。ネタニヤの子イシマエルは彼らを捕虜とし、アンモンびとのもとに渡り行こうとして立ち去った。
41:11 カレヤの子ヨハナンおよび彼と共にいる軍勢の長たちはネタニヤの子イシマエルの行った悪事をみな聞き、
41:12 その兵士たちを率いて、ネタニヤの子イシマエルと戦うために出て行き、ギベオンの大池のほとりで彼に会った。
41:13 イシマエルと共にいる人々は、カレヤの子ヨハナンおよび彼と共にいる軍勢の長たちを見て喜んだ。
41:14 そしてイシマエルがミヅパから捕虜にしてきた人々は身をめぐらしてカレヤの子ヨハナンのもとへ行った。
41:15 ネタニヤの子イシマエルは八人の者と共にヨハナンを避けて逃げ、アンモンびとの所へ行った。
41:16 そこでカレヤの子ヨハナンおよび彼と共にいる軍勢の長たちはネタニヤの子イシマエルがアヒカムの子ゲダリヤを殺して、ミヅパから捕虜として連れてきた、あの残っていた民、すなわち兵士や女、子供、宦官をギベオンから連れ帰ったが、
41:17 彼らはエジプトへ行こうとしてベツレヘムの近くにあるゲルテ・キムハムへ行って、そこにとどまった。
41:18 これは、ネタニヤの子イシマエルが、バビロンの王によってこの地の総督に任じられたアヒカムの子ゲダリヤを殺したことにより、カルデヤびとを恐れたからである。
 

そして立派な花嫁を育てる者へ(雅歌書8:8-14)

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雅歌書の講解説教が本日で終わる。元は愛し合う男女の愛のささやきあいから始まり、結婚に至り、その後、二人の関係の成熟へと向かっていった。一時期、危機はあったが、しかしどんどん成熟へと向かっていた。
 
8節と9節
"私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。
もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。
 
妹は若く、乳房もない。。。
おそらく、花嫁の兄や親たちの言葉と思われる。
家の人たちにとっては、彼女はまだ乳房がない、幼い、と言う認識があり、この妹に縁談がある日までは、彼女を守ってあげようと言う、親達の愛がうかがわれる。
娘というものは、結婚し嫁いで行くお婿さんのために、貞操を守って行かなくてはならない。一家で「守らなくてはならないもの」である。
 
彼女が城壁のように堅固で、世のいかなる誘惑に対しても、城壁のように堅固であるなら、銀で飾ってあげよう。
もし彼女が戸であるなら、、、戸は城壁よりもろいものであるが、もしそうであったとしても、杉の板で囲って、しっかりガードしてあげよう、と言う、彼女の親やお兄さんたちの心意気がある。
 
 
10節に、彼女自身の応答がある。
私は城壁、私の乳房はやぐら(ミグダール:5:13花壇)のよう。それで、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。
 
彼女自身は、自分は嫁いでいく相手の夫にとって平安をもたらすもののようになるために、城壁のように操を守ってきました。そしてわたしの乳房、すなわち、男性に安息を与え(箴言5:18-21)、子供にいのちを養うものを、やぐらのように堅固にして来た。
そういうわけで、私は、あの方の目には平安をもたらすもののようになった。
 
平安はシャローム。安息、安心。この人と一緒にいるなら安息できる、と言う感覚。
結婚前の娘が、家族に守られ、また自分で自分自身をしっかりと守り、貞操を守ってきた女性は、新郎にとっては、安心できる、平安をもたらすものになることができる。
 
彼女は自分の乳房はやぐら(ミグダール:5:13花壇)のよう、胸も成長して、愛する方の前に平安をもたらす者のようになった。
乳房、それは、子供を産んだ時に、子供に命与え、養うものである。
この男性にとっては、彼女は自分にとっては、花壇のよう、そして子供たち、赤ちゃんに、しっかりと命の養いができそうだ、ということが、安心に見えた。
私たちも、主にあって生まれ、主にあって育って行ったが、やがては私たち自身が、主人である主に安息を与え、霊的な子供たちの命の養いをさせてあげなくてはならない立場へとなっていく。
家族の人たちは、妹が乳房がない時から、縁談がある日まで守ってきたように、私たちも、養うべき子たちがおり、また乳房が育っていない、命の養いがまだ出来ないような未熟な信仰者を、しっかりと、かの日のために育てなければならない。
 
 
私たちはキリストの弟子を作るべきであり、その弟子の育て方とは、娘を立派な花嫁へと育てていく親のごとく、やがて嫁いで行くまことの花婿キリストに平安をもたらすようなものと成長させていくものである。
娘をしっかり守りやしない、やがて乳房も成長して、いのちの乳の養いが与えられるまでの、弟子を育てて行くのである。
11節と12節。
 
ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。彼はぶどう畑を、守る者に任せ、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。
私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。
ソロモンは確かにバアルハモン場所に葡萄畑を持っていたでしょうが、収穫の時に、報酬を収めるようになっていた。
 
夫ソロモンは、彼女の乳房をぶどうの房のようとだと言って、それを求める様が書いてあった(7:7-8)。
彼女は、私自身、というぶどうの実を差し上げます、だから、私を守るもの、守ってきた者たちに、銀200枚を与えてください、要求しているのかもしれない。
私も、まことのぶどうの木である主の、ぶどう達を、しっかり守って育てる者のために、報酬を求めることができる。
 
彼女自身、幼い時は他人のぶどう畑を管理して来た(1章)。
その時彼女は、黒くなったと嘆いたか、しかし夫には、その経験が安心できる性質になった。
 
ぶどう園の主人は王であり、私たち働きびとは、それを管理する責任が任されている。
もし、ぶどう園を任されているのに、ぶどう園を私物化し、王に収めるべきものを王に収めないで、かえってその僕を打ち叩いたりするならば、そのような者は、やがてぶどう園から降ろされてしまい、もっと他の忠実な管理人に任されてしまう。
しかし、しっかりぶどう園を管理して30倍60倍、100倍の実を結ばせる者には、しっかりとした報酬が望める。
 
ソロモンの花嫁は、ソロモンにとって平安をもたらすものとなった。
まだ乳房が育っていない時から、家の者に守られて、やがて成長し、花婿の目に喜びとなり、平安をもたらすものとなった。
 
私達にも、主から任されているぶどう園があるはずである。
それは小さいぶどう園かもしれないが、それをしっかりと守っているならば、王の目に慕わしく、平安が与えられるような者となり、しっかりと報酬を求め、それに預かることができる。
私達自身、主の目に に有用な実を豊かに実らせるぶどうの枝となるべきである。
主の上に豊かな実を結ぶなら、この箇所7章の6節-9節のようになる。
7:6 ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。
7:7 あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。
7:8 私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。
7:9 あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」
どうか、愛する花婿の主に対して、慰めとなる皆さんでありますように。
 
この箇所の最後、8:14節は、その花婿への愛の呼びかけで終わってい
 
私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。"
彼女が、私の愛する方、どうか急いでください、家で、奥まったところで2人きりでその愛を喜び楽しみましょう、と。
2章の8節9節のところにも、同じ言葉がある。
2:8 愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。
2:9 私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。
愛する男性が、元気に、かもしかや若い子鹿のように、岩山の上でも、遠い山でも、飛び跳ねて速やかに私のところに帰ってきてください、速やかに帰ってきて、共に愛の時を過ごしたいです、と言っている。
雅歌書は、この愛の言葉で終わっている。
 
私たちが持つべきもの、備えるべきことを、雅歌書は豊かに教えてくれた。
私達は、後に私が嫁がなくてはならない真の夫、イエス・キリストにとって、喜びとなり、安息を与える者として、立たなくてはならない。
そして、祈るべきである。
どんな事があってもよく対処できる者として、私たちの信仰が育ち、そして育った者として、大きな信仰と言う乳房をもって、主へと嫁いで行くことができるように。
そして後に、御言葉による聖なる乳を持って、霊的子供たちを育てることができまるように。
まだ乳房が育っていない状態なら、しっかり守り、見事、嫁がせて行く事ができるまで、育てられるように。
 
どうか皆さんも、花婿キリストにとって喜びとなり、またそのような娘を育て、また聖徒を育てて、さらに多くの報酬をいただいていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します。
 
祈り
 
主の家で周りの兄弟姉妹を通して、良き学びを教えることができますように、忠実に学び、守り行うことによって、後に報酬を得る私たちでありますように。
私たち自身の信仰と希望と愛が、城壁のようにそびえ立って、やぐらのようにそびえ立ち、あらゆる困難、あらゆる事に対処できるまでに、私たちの信仰が大きく育ちますように。
 
この雅歌書を通して、私たちが実際的な夫妻として、結婚生活、夫であり妻である者たちの立ち振る舞いをあなたが学ばせてくださったことを感謝します。
雅歌書は最後、新郎から褒めたたえられて、本当に素晴らしい場面で終わることを見ました。
 
信仰によって褒めたてられて、新郎が安心する私たちでありますように。
悪の夫であっても真なるイエスキリストであっても、安心させることができるまでの進歩になられますように、整え祝福してくださることを感謝します。
私たちの歩みを通して祈りを通して、主の皆がほめたたえることを感謝して、イエス様の名前よって祈ります。
 

落ち着いて御言葉に信頼すれば力を得る、焦って何かしようとすれば災いに追いつかれる(エレミヤ40:1-12)

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エレミヤ40:1 侍衛の長ネブザラダンは、バビロンに移されるエルサレムとユダの人々のうちにエレミヤを鎖につないでおいて、これを捕えて行ったが、ついにラマで彼を釈放した。その後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
40:2 侍衛の長はエレミヤを召して彼に言った、「あなたの神、主はこの所にこの災を下すと告げ示された。
40:3 主はこれを下し、自ら言われたとおりに行われた。あなたがたが主に対して罪を犯し、み声に従わなかったから、この事があなたがたの上に臨んだのだ。
40:4 見よ、わたしはきょう、あなたの手の鎖を解いてあなたを釈放する。もしあなたがわたしと一緒にバビロンへ行くのが良いと思われるなら、おいでなさい。わたしは、じゅうぶんあなたの世話をします。もしあなたがわたしと一緒にバビロンには行きたくないなら、行かなくてもよろしい。見よ、この地はみなあなたの前にあります、あなたが良いと思い、正しいと思う所に行きなさい。
 
ヘブル11:24 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、
11:25 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、
11:26 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
 
エレミヤ40:5 あなたがとどまるならば、バビロンの王がユダの町々の総督として立てたシャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤの所へ帰り、彼と共に民のうちに住みなさい。あるいはまたあなたが正しいと思う所へ行きなさい」。こうして侍衛の長は彼に糧食と贈り物を与えて去らせた。
40:6 そこでエレミヤはミヅパへ行き、アヒカムの子ゲダリヤの所へ行って、彼と共にその地に残っている民のうちに住んだ。
 
哀歌5:19 しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。あなたの、み位は世々絶えることがない。
5:20 なぜ、あなたはわれわれをながく忘れ、われわれを久しく捨ておかれるのですか。
5:21 主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります。われわれの日を新たにして、いにしえの日のようにしてください。
5:22 あなたは全くわれわれを捨てられたのですか、はなはだしく怒っていられるのですか。
 
エレミヤ40:7 さて野外にいた軍勢の長たちと、その配下の人々は、バビロンの王がアヒカムの子ゲダリヤを立てて、その地の総督とし、男、女、子供、および国のうちのバビロンに移されない貧しい者を彼に委託した事を聞いたので、
40:8 ネタニヤの子イシマエルと、カレヤの子ヨハナンおよびタンホメテの子セラヤと、ネトパびとであるエパイの子たちと、マアカびとの子ヤザニヤおよびその配下の人々は、ミヅパにいるゲダリヤのもとへ行った。
40:9 シャパンの子であるアヒカムの子ゲダリヤは、彼らとその配下の人々に誓って言った、「カルデヤびとに仕えることを恐れるに及ばない。この地に住んでバビロンの王に仕えるならば、あなたがたは幸福になる。
 
エレミヤ42:10 もしあなたがたがこの地にとどまるならば、わたしはあなたがたを建てて倒すことなく、あなたがたを植えて抜くことはしない。わたしはあなたがたに災を下したことを悔いているからである。
42:11 主は言われる、あなたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。彼を恐れてはならない、わたしが共にいて、あなたがたを救い、彼の手から助け出すからである。
 
エレミヤ40:10 わたしはミヅパにいて、われわれの所に来るカルデヤびとの前に、あなたがたのために立ちましょう。あなたがたは、ぶどう酒や夏のくだもの、油を集めて、それを器にたくわえ、あなたがたの獲た町々に住みなさい」。
40:11 同じように、モアブとアンモンびとのうち、またエドムおよび他の国々にいるユダヤ人は、バビロンの王がユダに人を残したことと、シャパンの子であるアヒカムの子ゲダリヤを立ててその総督としたこととを聞いた。
40:12 そこでそのユダヤ人らはみなその追いやられたもろもろの所から帰ってきて、ユダの地のミヅパにいるゲダリヤのもとにきた。そして多くのぶどう酒と夏のくだものを集めた。
 
イザヤ30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
30:16 かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。
30:17 ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。

 

 エルサレム崩壊の日 - 守られた人々と滅んだ人々(エレミヤ39章)

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エレミヤ39章
詩篇91篇
詩篇146篇
 

 主にある夫婦は、同じ御言葉の養いを受ける兄弟姉妹のよう、しかし性的魅力も失わずに(雅歌書8:1-7)

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いよいよ最後の章で、この夫婦はすでに諸々のところを通って、成熟してきている。
危ない時期もあった。花嫁が花婿を締め出して厳しく戒められる場面もあったが、戒められて、自分は本当に花婿を主人とするものであり、自分は、ただあの方のものです、と言うようになった。
そして7章では、「あの方は私のもの」と言う言葉も、もはや抜け去って、ただ100%、「私はあの方のものです」と言う、花嫁としては究極的に進化した形態に至った。
1節について新改訳Son 8:1  ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに。口語訳Son 8:1  どうか、あなたは、わが母の乳ぶさを吸ったわが兄弟のようになってください。わたしがそとであなたに会うとき、あなたに口づけしても、だれもわたしをいやしめないでしょう。
新改訳は、仮定法のように訳されているが、ヘブライ語は「ああ」「ください(ナタン)」という言葉で始まるので、口語訳のように、強い願望を表現する訳し方もできる。
彼女は、主にあって同じ乳を吸った、兄弟のようになってほしい、と願っているのだ。
夫婦は成熟していくと、恋人同士、というよりも、どんどん親密な兄弟、姉妹のようになっていく。

Son 8:2  私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。
夫を、自分が育った家に連れてきて、そこで、自分が母から仕入れた女性として培ったたしなみを用いて、自分の家の最も良い産物やご馳走、ぶどう酒を飲ませてあげたい、自分の全てを捧げたいと、いう心になっている。
なお、ぶどう酒もざくろも、男性の性的興奮を促すもので、5節の伏線になっている(後述)。
 
口語訳8:3 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。
NKJV8:3 His left hand is under my head,And his right hand embraces me.
3節は、2章6節と同じ表現だが、NKJVは、既に男性は、左腕を腕枕にして、右手で覆ってくれている。
つまり、親密さとしては兄妹のように成熟していっても、いつまでもこの、男性の心臓近くで抱かれているという「ホームポジション」を望んでいるのだろう。
4節
8:4 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起す(עוּר ウールwake)ことも、さます(עוּר ウールwake)こともしないように。
この文句も、かつて2章7節と、3章5節で出てきたが、この8:4は、過去のそれらとは違うところがある。
日本語の聖書で読むと、違いがわからないが、ヘブライ語は、8:4は疑問形に変わっている。
「なぜあなたは、ゆり起こしたり、愛をかき立てたり、しなければならないのですか?」と。
かつての2回は、普通に揺り動かしたりたりかき立てたりしないでください、と言った、しかしここのでは、ゆり動かしたりかきたてたりしないことが、当たり前の前提となっている。
自分は今まで、愛をかき立てた経験をした事もあった。けれどもそれは、しない方がいい、という事は、もう経験済みだ、だから、エルサレムの若い娘たち、無理矢理、惚れた腫れたを、揺り動かしたりかき立てたりするものではありません、と。愛と言うものは、揺り動かしたりかき立てたりするものでないよ、ほわほわした、夢見心地をかき立てたりするものではないよ、そうしたら、かつての私みたいに失敗するよ、そのような思いは、自然に沸き起こって来るのに任せるものが一番ですよと。
これは主と私達との関係も同じである。
集会などで扇情的に感情を掻き立てたりするよりも、むしろ日常の、自然なふるまいの中で、主との交わりをし、もしそのような感情が自然に出てくるなら、自然に任せるのが、一番なのだ。
掻き立てられた状態が正常な状態、そうでないなら、なまぬるい愛だ、などと吹き込まれてしまうと、平静な時に「果たしてこれでいいのだろうか」「自分は熱くないのでは」などと、焦ったり心配する事になってしまう。世の中の男女は、惚れた腫れたが高じると、相手が自分の願望と何か違うことがあると、ねたんだり、所有物化したり、偶像化してしまったりといった、間違いを起こしてしまう。
しかし、天の御国における男女のカップルとは、1節にあるとおり、兄弟姉妹のような姿が、望ましい。
主にある姉妹姉妹が、同じ御言葉の乳を吸って、2節にある通り、同じ家、同じ教会の庭から、同じ食物、同じぶどう酒をいただき、同じイエス様の血潮に預かっているのが、良い関係である。このような夫婦は「ガラスのような美しくも脆い」というものではなく、絆が強い。
 
さらに5節では、男女がますます親密に、一体になっていく様がある。
Son 8:5a  自分の愛する者によりかかって、荒野から上って来る者はだれですか。
ここは、花婿でも花嫁でもなく、第三者の質問である。
彼女は、自分の愛する者に寄りかかって、荒野から登ってきている。
3章の6節でも、「没薬、乳香など、商人のもろもろの香料をもって、かおりを放ち、煙の柱のように、荒野から上って来るものは何か。」とあった。その3章では、新郎が結婚式の時にお迎えに来るみこしに乗ってきて、その時は互いに1人であったが、8:5では、もはや彼女は一人ではない。自分の愛する方によりかかって、愛する男性といつも行動を共にしている。
Son 8:5b りんごの木の下で、わたしはあなたを呼びさました(עוּר ウールwake)。あなたの母上は、かしこで、あなたのために産みの苦しみをなし、あなたの産んだ者が、かしこで産みの苦しみをした。
ここで、りんごの木の下であなたの目をさまさせたとある。
2章3節では、私は愛する方をりんごの木に見立てて、私はその、りんごの木の下に座りたい、その陰に覆われたい、と切に望んだ。その味は私に甘い、と。
ところが8章では、彼女の念願のりんごの木に覆われ、すなわち、男性にくるまれている状態で、その愛する方の目を覚まさせた、とある。
そこは、「あなたの母が産みの苦しみをしたところ」と言っている。
どういう状況か。
彼女は、りんごの木の下、すなわち、男性に覆われた状況。
「呼び覚ました」のヘブライ語はעוּר ウール、立つ、興奮する、の、Piel(ピエル)態:能動・強意(断じて*する)。
彼にくるまれた状態の元、彼女は、彼を、断じてふるい立たせた(興奮させた)。
どこで?
女性が産みの苦しみをするところ、いのちを生み出すところで。
・・・
 
章を追うごとに、雅歌書の夫婦の関係がどんどん成熟していく。
世の中では、結婚した日が1番てっぺんで、それからは、坂道を下っていくが如く、のような言い方があるが、神の国においては、その逆である。
男女関係を、何か、夢見心地の、ほわほわしたものとしている限りでは、成熟はない。むしろ、落ち着きがなく、ジェットコースターのように上行繰り返すものである。
夢の世界の王子様のように、わたしが寝ている間に帰ってきて起こしたりはしない、怒ったり厳しい事を言ったりしない、といった幻想を求めていたら、いつまでも成長はしない。
しかし彼女は、ある時、兄弟姉妹のように、戒められ、それを受け入れた時、それがきっかけで、さらに関係が深まった。主にある兄弟姉妹としての関係であるなら、互いが、同じ御言葉の乳を味わい、同じ教会という庭から取れる、同じ霊の食物をいただいて、同じ命を共有する。
世の中の夫婦でも、同じ趣味、同じ価値観を持っている夫婦は絆が強いが、最も強い絆は、同じ御言葉、同じ霊の食物、同じイエスの血潮というぶどう酒、それを共有することこそ、最強の結びの帯となる。
6節と7節。
Son 8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
Son 8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。
男女の愛は激しい時、洪水も流すことができないほど強い時は、あるかもしれない。しかし、完全ではない。時間が経って、色々飽きてしまうと、ちょっとしたさざ波が来るだけで、崩れてしまう。
しかし主の愛は何よりも強い。
私を封印のように、愛する方の心臓の上につけてください。それは、全て女性にとっての願いであろう。仕事場でも、どこでも、あなたの心に、いつでも私が刻まれた状態でありますように、と。
世の中の男性は、それが完璧にはできないかもしれない。
しかし、私たちのまことの夫であるイエス・キリストは、それをまさに、して下さった。
イエス様は私たちを、手のひらに刻み付けた。
イザヤ49章14節から16節。
49:14 しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
イエス様は、たとえ女が子を忘れようとも、決して忘れない。なぜなら今、イエス様の手のひらには、私達が刻まれているから。そのふところに、脇のところにも、私達が刻みつけられている。
世の女性が、自分の赤ちゃんを忘れようとも、私は決してあなたを忘れない、なぜなら私には、あなたが刻まれているからだ、とイエス様は言っている。
そのイエス様の愛は、洪水も、すなわち、死のさばきの水も、押し流すことができない。
Rom 8:38  わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、Rom 8:39  高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
人が愛を得ようとして財産をことごとくなげうっても、さげすみしか得られない。愛とは、そういうものである。
魔術師シモンは、手をおけばだれでも聖霊が与えられる力を、ペテロに金を出して買おうとしたが(使徒8:9-24)、しかし神の子としての特権は、お金でやり取りするものではなく、愛の関係に入るかどうかの問題である。
彼のように、力だけがほしい、その力を行使して人々をびっくりさせたい、といった、不純な動機からは、ただのさげすみしか得られないのだ。
世の中の宗教では、お金を払えばより高度のお祓いとか、守りとか、繁盛を買った気になれるが、神の国はお金のやり取りではなく、愛をささげるかどうかである。
確かに天において私たちはキリストと顔と顔と交えて愛の関係に入るようになるが、この地上での歩は、その成熟に至るための訓練である。ある人は、どんどんイエスとの愛の関係が深まっていくが、別の人は、全然イエス様と親密になっていけない、と言う違いは、確かに起こる。
イエス様が好きな性質を、身につける、イエス様が嫌いなことを排除する事は、唯一、この地上でのみできる。この地上は、キリストのために、キリストの好む者となるために、整えるための時間が与えられた、唯一の場所である。
イエス様との関係は、御言葉によって構築していくもので、ドラマのような男女のほわほわした感覚で進めていく関係ではない。自分の気分いかんで、ほわほわとして、今日は気分が乗っているから愛して、今日は愛する気が無くて、と言ったような「気分」による関係ではない。
御言葉から本当に私は戒められた、御言葉がこうだから、こうしなさいというのがわかった、といったように、ホワホワの有る無しにかかわらず、意思決定によって御言葉の基準に歩む道を選び続ける歩み方なのだ。
自分の気分いかんによって愛したり朝なかったり、しなさいと言われることを守り行ったり行ったり、と言うことでは、家様との愛の関係は成り立たない。これは夫婦関係もそうであるし、イエス様との関係もそうだ。
夫との約束、イエス様との約束、すなわち「契約」だから、私はこれを選ぶ、と言う歩みをし続けていくなら、ほんとにこの雅歌書のように成熟した、麗しい関係となっていく。
未熟な男女は、ほわほわした気持ちが湧き起こったら、好きになって、ご馳走作ったり、言うことを聞いたり、でもふわふわした気持ちがなくなったら、気持ちも冷めて、ご馳走も作らない、ということになりがちである。
エロースの愛は、エゴイスティックな愛である。
愛する人を独占するために、なめらかな言葉を話したり、可愛らしい仕草をしたり、好きなものを作ったりして、チャンスを得ようとするが、それは自分の利益のためにしてるのであって、家庭を建て上げて行こうという、責任を伴った愛が、無い。エロースの愛は、そういった「責任」を、面倒くさいという。だから、性関係を持っても、子供ができたら、堕ろそう、という事になる。
イエス様との愛の関係は、たとえ気分が良くても悪くても、主がするなと言う事はしない、しなさいと言う事は、気分が悪くてもする、それによって正しい関係が成り立つ。
そしてイエス様の側の愛は、決して変わらない、完璧な愛。
主にあるまことの夫婦関係は、御言葉の乳に養われ、イエス様の血潮で清められ、御言葉にこうあるから、守り服従していこう、という、決して揺るがされない土台に建てられた関係である。
それをするなら、どんどん親密になり、大水が来ても、決して流されることがなくなっていく。
岩なるキリストの愛にしっかりと根ざし、雅歌の夫婦のように、相手との愛の関係も、キリストとの愛の関係も、さらに熱く、深く、強くなっていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

 エルサレムの問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 8/9(エレミヤ39:1)

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ユダの王ゼデキヤの第九年、その第十の月に、バビロンの王ネブカデレザルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。
 
新約に至る全ての年月までの、神の御旨が成就には、必ず、エルサレムの問題がある。
主が来られるその日まで、世界情勢の中心的な存在である。
イエス様が来るまで私達はエルサレムを注視しなくてはならない。
 
名前由来
エルサレム:イェル シャラィム、すなわち、平和の土台という意味。
イェル:「ヤラー」置かれる、基礎。
シャライム:「シャレム」平和。
 
歴史
エルサレムは、元々はカナンの都市国家だった。ダビデが取って、イスラエルの首都になった。
そしてダビデ以降、今日のこのエレミヤ書の箇所に至るまで、ずっとダビデ王家の町としてあったが、この時、崩壊する事になった。
 
その後、世界歴史の主役は、バビロン、メディア、ペルシア、ギリシア、ローマの支配と転々とし、ユダヤ人はそこに住む事は出来ても土地の権利はずっと得ていない状態だった。
そしてイエス様の時代、エルサレムにイエス様が入ってくるが、この都はイエス様を拒否し、AD70年、ディアスポラになった。
マタイ23
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
23:38 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。
23:39 わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。
 
エルサレムは、イエス様がエルサレムに入城された日に、「主の御名によってきたる者に、祝福あれ」と言って迎えたが、しかしそれは一日しか続かなかった。
その1週間後には、「十字架につけろ」となってしまった。
エルサレムは、キリストが主人であり、王である。花嫁が花婿なしでは機能不全であるように、キリストなきエルサレムは、機能不全状態で、キリストを排除してしまったエルサレムは、その後、ユダヤ戦争によってばらばらに散らされ、ディアスポラになってしまう。イエス様は、石の上に石が積まれるものがない、とまでに言った。
彼らは、散らされながらでも礼拝を捧げ、いのちのように大切にしていたトーラーを持って行った。モーセ五書を持って出ていった。トラーの模造品をもって。
 
それ以降、イスラエルは1900年代までは散らばっていたが、第一次世界大戦以降、イスラエル帰還運動が起きた。
そして1948年5月14日、独立宣言がなされ、今のイスラエルになった。
しかし元々住んでいたパレスチナ人は追い出された。相変わらず所有権を主張している。
 
エルサレムの平和がすなわち世界の平和である。詩篇122篇。
私達の祈りは、アブラハムの子孫に対する祈り、エルサレムに対する祈りの二つが欠かせない。
アブラハムへの祝福は祝福につながり、エルサレムの平和は私達の平和につながるから。
イエス様もエルサレムのために泣いた。
シオニズムは、関係ない。エルサレムに対して関心を持つべき?関係ない。聖書が命じ、イエス様が愛されたから。
 
現在の情勢
エルサレム、2018年5月から変わった。2018/5/14、アメリカはトランプ大統領の指示により、在イスラエル大使館をエルサレムに移転した。
また、色々の国の大使館もエルサレムへの移転を検討しているので、アラブはうかつに攻められなくなった。
イスラエルがこれを歓迎する一方で、パレスチナ人は激怒している。
 
エルサレムはやがてどうなるのか
エルサレムは、再び神の民が集まって来る。 エレミヤ31章。
しかしその後、サタンの勢力である敵に囲まれるが、しかし天から火が降ってきて、その者達を主は滅ぼす。黙示録20章7-10
 
その後、新しい天と地が開け、聖なる都、新しいエルサレムが、静かな海のほとりに建っている。この新しい聖なる都は、夫のために飾られた花嫁のように整えられ、神の御元から下ってくる。(黙21:1-2)
 
この都は、誰のために、花嫁のように飾られたのか?
それは、一度、この都の外で殺されたが、よみがえり、いつまでも生きておられる真の王、イエスキリストのためである。この新しいエルサレムこそ、キリストの花嫁、すなわち教会(エペソ6:22-24)であり、教会とは建物ではなく私達、すなわち、キリストを信じ、世から神の元へ「召しだされた者たち」である。
彼らは、小羊の血で洗った白い衣を着、しゅろの葉を手に持って、まことの花婿キリストを迎え、永遠の王とする。それゆえ主は彼らの上におおう陰となり、彼らが永遠に苦しむ事も、悲しむ事も、機能不全に陥ることもなく、永遠にキリストを王として生きるのである。

 

主の言葉と絡められた人生そのものこそ、主への何よりの捧げ物(雅歌書7章)

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7:1 女王のような娘よ、あなたの足は、くつの中にあって、なんと麗しいことであろう。あなたのももは、まろやかで、玉のごとく、名人の手のわざのようだ。
7:2 あなたのほぞは、混ぜたぶどう酒を欠くことのない丸い杯のごとく、あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた山盛りの麦のようだ。
7:3 あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかのようだ。
7:4 あなたの首は象牙のやぐらのごとく、あなたの目は、バテラビムの門のほとりにある/ヘシボンの池のごとく、あなたの鼻は、ダマスコを見おろす/レバノンのやぐらのようだ。
 
雅歌書は章を進めていくごとに、夫婦の関係がより成熟し、深まりを見せていく様がある。夫婦は、互いが共に過ごす時間を積み重ね、生活を共にしてゆく過程で、いろいろな経験をし、失敗もする事はあるが、それを共に乗り越えてゆくうちに、関係はどんどん成熟したものになっていく。
出会った当初は、みずみずしく初々しい喜びで満ちていたが、その関係はまだまだ浅く、軽いものだった。
乙女の、現実感のないふわふわした、夢見心地的な嬉しさはあったが、それは裏打ちが無い夢のように、こわれやすいものである。
彼女はある日、夜遅く帰ってきた夫を身勝手に締め出してしまい、その現実感のない心の持ち方が打ち叩かれ、高慢が剥ぎ取られ、現実的に夫を愛するべき段階へと、引き出されたのが、5章だった。
こうして彼女は、現実的に愛し、共に生きるべき夫に対する、正しい立ち位置を知って、そこに立った時、彼女の幸いは、もはや、夢のようなふわふわした現実感のないものではなく、彼女の、夫を喜ばせる性質という、裏打ちのある、実体がともなう幸いへと変化していく。
若い女性は、不安になりやすい。自分は果たして相手に喜ばれる存在なのだろうか、いつか嫌われてしまうのでは、と。しかし、相手の男性の喜びとなる術を知り、それを実践して行くうちに、自分がそれを「行っている」という事に裏打ちされた安定感を得て行く。
 
7章は、花婿が花嫁を褒めそやす言葉で始まるが、その内容は、今度は、彼女の足元から上に向かって体の各部分を褒めそやしている。おそらく夫の前にいる彼女は、何も覆っているものがない状態なのだろう。
成熟した夫婦になればなるほど、恥ずかしいものが何一つない関係になっていく。エデンの園において、また何も罪を犯していなかった時、互いが裸であっても何の恥ずかしい思いをしなかったように。
イエス様との関係も、そうである。イエス様の素晴らしさは、彼と「おつきあい」して行く内に、徐々に徐々に、あらわにされていく。
もし私達の側が、イエス様を軽んじていたり罪を犯していたりする間は、イエス様の事が全然あらわにされていない。もし私たちの側が、イエス様に対し覆い隠しているところがあるとするなら、親密さが全然ない状況である。
しかし私たちの側が、イエス様にあらゆる面で明け渡していくと、その明け渡して行った所をイエス様が取扱い、そしてイエス様にあって清められたその所を、褒めてくださるのだ。しかしその所を隠しているなら、そこは癒やされずそのままである。
 
彼女はなぜ、この男性の心を、ここまでつかんだのか。
それは前回学んだように、彼女の謙虚さと従順さである。それがあるなら、互いの関係がますます成熟していく。
 
7:6 愛する者よ、快活なおとめよ、あなたはなんと美しく愛すべき者であろう。
7:7 あなたはなつめやしの木のように威厳があり、あなたの乳ぶさはそのふさのようだ。
7:8 わたしは言う、「このなつめやしの木にのぼり、その枝に取りつこう。どうか、あなたの乳ぶさが、ぶどうのふさのごとく、あなたの息のにおいがりんごのごとく、
7:9 あなたの口づけが、なめらかに流れ下る良きぶどう酒のごとく、くちびると歯の上をすべるように」と。
 
 
9節に、あなたの言葉は良いぶどう酒のようだとある。
何が夫の虜にしたか。それは、言葉である。口の言葉が私を酔わせ甘くさせるのだ。
なぜ愛が慰めに満ちているのか?
愛とは、肉体によってではなく、言葉によって、表現するものである。
花嫁が花婿を酔わせるものは、外見的なボディーや美しさより、むしろ言葉であり、内面的なものこそ、男性を甘くさせ、虜にするものなのだ。
 
美人は3日で飽きると言う言葉がある。しかし、外見的な美しさ、肉体的な美しさよりも、むしろ、言葉が素晴らしい女性にこそ、男性はとりこになって行くのだ。
夫婦の間の言葉が麗しく、唇から流れている言葉が、ぶどう酒のようになめらかで甘いものであるなら、2人はますます1つになって行きたい、という気持ちが深まっていく。
ぶどう酒とは、よく熟成されたものである。だから口から発せられる言葉が、御言葉がその人の心や行いとよく混ざり合って、熟成された上で、醸し出されて行くならば、それは、よく熟成された良い葡萄酒のような言葉である。
ぶどう酒は、正しく管理する必要がある飲み物である。暑すぎず、寒すぎず、一定の温度に保たれたところで貯蔵しなければ、酸いぶどう酒になってしまう。もし、1日でも直射日光のあたる暑いところに置きつづけてしまうと、その1日で、だめになってしまう。
同様に夫婦も、せっかくそれまで一定の温度を保っていたとしても、一度カッとなって熱くなって暑苦しい言葉を浴びせると、その事が傷になってしまいがちなものである。
 
この花婿の言葉に対して、10節以降、花嫁の側の応答がある。
7:10 わたしはわが愛する人のもの、彼はわたしを恋い慕う。
 
10節で、私は私の愛する方のものと言っている。
2:16の段階では、真っ先に「あの方は私のもの」と言っていたが、それが6章以降では、私は私の愛する方のもの、自分の全ては、ご主人様のものです、と言うまでに成熟していた。
1コリント7:4 妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。
自分が発する言葉も、自分の体も、全て、自分の愛する方の慰めになる、という事であるなら、私自身、この心も、体も、唇の言葉も、全てが、愛する方の喜びになって行くよう努めていこう、という気持ちになっていくのだ。
 
11節には、
7:11 さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。
7:12 私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。
彼女は積極的に、自分の愛する方を誘っている。夜、香のする場所で共に過ごし、翌朝日一緒に働いて、一緒に花が咲いたかどうか、成熟したかどうかを見にいきましょう、と。
夫婦には、共に過ごし合って、愛を確かめあう特別な場所があるように、イエス様との関係においても、そのような特別な関係を持つ場所や時間を、それぞれが持つなら、イエス様との関係はますます麗しいものとなっていく。
朝早い時間や、1人になった時など、御言葉を開いて、イエス様と特別な関係を持つ時間を持つのだ。
 
そして13節では、
私の門のそばには、新しいのも古いのも、すべて最上のものである。これが全部あなたのために蓄えてものですよと、何もかもあなたのために、新しいものも古いものは蓄えたと言っている。自分の、身も心も、全てが愛する旦那さんへのプレゼントですよ、愛するあなたに、最上のものがいただけるように、蓄えました、と。
これは確かに、新婦の、新郎に対する愛の告白ではあるが、これは、私たちの、イエス様に対する愛の告白となるべきである。
 
マタイ13章52節
13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
 
私達が、愛する花婿のために蓄えるものは、旧約と新約の御言葉であり、すなわち、新旧約からテフィリンして、あの方のために御言葉をたくわえていくのである。
 
そうして蓄えた御言葉は、私達の人生の軌跡となっていく。
私たちがかつてのあの時この時に開いた御言葉、人生の若い時、年老いた時、それぞれの時々において、信仰を混ぜ合わせて来た御言葉が、人生に織り込まれ、それがイエス様への喜びとなる。
 
御言葉をしっかり自分の心に頭に絡め、ただ主のために蓄えて、新しいもの古いものをすぐに取り出せる状態であるならば、それが、イエス様の喜びとなることができるのだ。
 
7:8 私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。
7:9 あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」
 
私たち自身が、愛する夫であるキリストに対して、果樹園、園となり、そこに主をお招きして、新しいものでも、古いものでも、どうぞ取ってください、と言えるような私たちとなるべきである。
 
新郎が、愛する花嫁の、首に抱きつきたい、乳房に手を伸ばしたい、と思うのと同じように、イエス様も、私達が蓄えたあの言葉この言葉を、とって、抱きつきたい、手をのばしたいとなっていくように、私達自身も、身も心もイエス様の喜びとなるために、御言葉を自分の人生に、練り込んで行くべきである。
イエス様との関係において、あるいは代の夫婦関係においてこのような幸いな関係を実受けていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!アーメン。

夫をとりこにする妻の姿勢:「わたしは、わたしの愛する方のもの」(雅歌書6章)

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雅歌6:1 女のうちの最も美しい者よ、あなたの愛する者はどこへ行ったか。あなたの愛する者はどこへおもむいたか。わたしたちはあなたと一緒にたずねよう。
 
雅歌書は、男女が愛し合い、互いに呼びかけあう形で進められていく。
愛し合う男女が結婚し、夫婦の生活を営み、夫は外に仕事をし、妻が家を守る生活が始まった。
そしてある時、旦那さんが夜遅く帰ってきて、夜露に濡れ、妻に開けてくれ、と言うのに、妻は、私はもう足を洗ってしまったと言って旦那さんを外に締め出してしまったのが、前の章であった。
結局彼女は最後、旦那さんのために戸を開けたのだが、旦那さんは一言、厳しい言葉を言って去ってしまい、彼女は旦那さんを探しに行くのだが、夜回りに見つかり、打たれて、はぎとられてしまった。
そうして彼女はひとつ成長し、夫の素晴らしさをさらに深く知り、特に、その唇からの言葉を慕い求めるようになった。
それでイスラエルの娘たちに、あなたの愛する人はどんなお方ですかと聞かれるまでになり、彼女が夫をほめそやすと、彼女たちも、自分たちもあなたと一緒にさがしましょう、と言った。
 
そこで2節。
雅歌6:2 わが愛する者は園の中で、群れを飼い、またゆりの花を取るために自分の園に下り、かんばしい花の床へ行きました。
 
彼女は、夫がどういう人で、どこでどういう仕事をしているのかを知らせた。
さらに3節で、とても素晴らしい告白をしている。
 
雅歌6:3 わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。彼はゆりの花の中で、その群れを飼っています。
 
妻たちは、自分の夫について、誇りを持って言うことができるだろうか。
わたしは誰々の女です、自分は私の愛する方のものです、自分の主人は、これこれの仕事をしています、と、誇りを持って言えるだろうか?
 
これはイエス様と私たちの関係を現している。
私たちはキリストの花嫁、キリストのものである。
イエス様はどういう仕事をしているのか。
雅歌書の中で、主人は、百合の花を育て、熟したときに集めておられる。
そして、百合の花の麗しい香りの間で、羊たちを養い育てている。
私たちも、イエス様の羊たちであり、彼によって養われている者たちである。
 
この女性は、懲らしめを受けてから、その関係がより成熟した。
 
6章3節と2章16節とは、似ているが、少し違う。
 
雅歌2:16 私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
 
6章3節と、2章16節は、どう違うだろうか。
順番が違う。
 
2章16節では、「私」が主人公で、あの方は私のもの、というように、「わたし」主体だった。
しかし6章3節では、私は、私の愛する方のもの、となって、愛する方が主体となっている。
結婚前は、あの素敵な男性は私のもの、とロマンスを抱いて、頭の中がお花畑状態で、あの素敵な男性は、あたかも自分の素敵な付属品のような感じだった。
素敵な言葉で褒めそやしてくれる、自分の高級オプション品のような。
しかしそれが高慢につながった。
夜遅く寝ているときに、あの方が戸を叩いているのを、煩わしいな、私のオプションのくせに、のような感じの高慢が彼女に現れ、それで彼女は懲らしめを受けた。
それで、その高慢が取り除かれ、よりいっそう正当な関係になり、わたしは主人のもの、私は、愛する方のものだ、という考えに変わった。
 
聖書の立場では、夫は妻の頭であるから、妻は夫に従いなさい、と、エペソ5章に書いてある。
彼女は、懲らしめによって、正当な関係へ、夫が自分の頭だ、と言う関係に戻ったのだ。
彼女がその立場に立った結果、夫の、妻に対する見方が、がらっと変わってくる。
 
6章4節から10節までが、夫の側の、妻を褒めそやす言葉なのだが、その褒める内容は、以前よりももっと深くなっている。
 
4節
6:4 わが愛する者よ、あなたは美しいことテルザのごとく、麗しいことエルサレムのごとく、恐るべきこと旗を立てた軍勢のようだ。
6:5 あなたの目はわたしを恐れさせるゆえ、わたしからそむけてください。あなたの髪はギレアデの山を下る/やぎの群れのようだ。
6:6 あなたの歯は洗い場から上ってきた/雌羊の群れのようだ。みな二子を産んで、一匹も子のないものはない。
6:7 あなたのほおは顔おおいのうしろにあって、ざくろの片われのようだ。
6:8 王妃は六十人、そばめは八十人、また数しれぬおとめがいる。
6:9 わがはと、わが全き者はただひとり、彼女は母のひとり子、彼女を産んだ者の最愛の者だ。おとめたちは彼女を見て、さいわいな者ととなえ、王妃たち、そばめたちもまた、彼女を見て、ほめた。
6:10 「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。
 
彼は、この女性の目が恐ろしい、なぜなら私を惹きつけるから、私を虜にしてしまうから、と言っている。
以前は単に、彼女の目は鳩のようだ、と言っていた。
しかし彼女が、わたしは私の愛する方のものです、と言って夫に従う成熟した妻となった時、男性にとってはおそろしいほど虜になってしまう女性となる。
そして夫が、そのような心で妻を養う時、妻はますます夫のとりことなって行く。
 
8節を見ると王妃は六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない、と書いてあり、もうすでにこの時、ソロモンの女性はたくさんいたのだが、その中でも私の愛する鳩はただひとりだ、と褒めそやしている。
 
エステルも、たくさんいる妻や妾の間で、特別に彼女が王の寵愛を受けたのは、エステルが何より主人の好みとなり、主人の気分を害さず、主人の後について従順に歩むたしなみがあったからだ。
女性が、わたしはあなたのものです、と言って、その瞳でじっと見つめられると、夫はティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいと感じるのだ。
 
エステルが、王妃の衣装を着て、命をかけて王の前に出て行った、そのエステルの目は、どれほどアハシュエロス王の目に美しく、愛らしく、そして、恐ろしく見えただろ。
そしてどれほど、彼女のために何かしてやりたいという心を起こさせただろう。
それで王は、エステルに、王国の半分でもやろうと言ったのだ。
 
夫が、愛する妻に対する見方も変わり、褒めそやし方も変わった結果、妻は、ますます幸いになっていく。
11節12節に花嫁の応答が書いてある。
 
6:11 わたしは谷の花を見、ぶどうが芽ざしたか、ざくろの花が咲いたかを見ようと、くるみの園へ下っていった。
6:12 わたしの知らないうちに、わたしの思いは、わたしを車の中のわが君のかたわらにおらせた。
 
彼女は、夫がしている仕事のところに、見に行くようになった。
なお12節は、KJVでは、私の魂は、あたかも、高貴な方の車に乗せているような心地でした(My soul had made me As the chariots of my noble people.The Beloved and His Friends)、である。
 
夫に対し、私はあなたのものです、あなたが主人です、あなたが主体です、と言う時に、夫の妻を見る目は変わり、ますますこの女性を愛するようになり、その結果、この女性は、夫の職場にいる間も、あたかも高貴な人々と共に高級車に乗せられているような心地になっていた。
そして人々は、13節の言葉を言う。
 
6:13 帰れ、帰れ、シュラムの女よ、帰れ、帰れ、わたしたちはあなたを見たいものだ。あなたがたはどうしてマハナイムの踊りを見るように/シュラムの女を見たいのか。
 
人々はぜひシュラムの女を見たいと願った。
女性は、どうして私のことが見たいの?あたかも「2つの陣営の舞(原文:マハナイムの舞)」を見たい、と言うかのように?
 
マハナイムと言えば、ヤコブがエサウを騙して、故郷から逃げて、20年間ラパンのところで過ごした後、故郷へ帰る途上で、マハナイム言うところを通ったのだが、そこでは、地上に自分たちの陣営があり、ほかに、天の軍勢がそこにあるのを見た。
天の軍勢が共にいる、と言うことで、2つの陣営と言う名前がついた。
 
ヤコブがこのマハナイムを通過したすぐ後、ペヌエルの神との格闘があり、そして兄エサウとの20年来の確執が和解され、命を救われる、と言う経験をした。
 
だからマハナイムな、和解の象徴のような所だろう。
彼女は、以前は、自分主体で夢見る乙女のように、夫を何か、自分の飾りの1つであるかのような見方であったのを辞め、夫を主体とし、自分を低くした結果、和解し、より素晴らしい夫婦関係と発展していった。
雅歌書は確かに、夫婦関係、男女関係の秘訣の書ではあるが、男女の愛の書にとどまることなく、私たちとキリストとの関係を表している書である。
 
私たちもイエス様のことを、何か願い事を言えばすぐに叶えてくれるオプション品のような、そういう便利な道具として見ていなかっただろうか。
自分の都合いかんで、イエス様が戸を叩いているのに、彼を締め出してしまっていないだろうか。
自分主体である限りは、冷たい言葉を浴びせられたり、打ち叩かれたり、剥ぎ取られてしまったり、と言う目に遭ってしまう。
しかし、主体が自分からイエス様へと移り、私はイエス様のもの、イエス様がわたしの主人です、と言う関係へと心底入る時、イエス様の私に対する見方や、扱い方は、変わってくる。
 
彼女が、それまで、自分の家にひきこもっていたのが、夫の働いている場所へついて行ったように、私たちも、自分からイエス様の働いておられるところへと出て行き、その主の働きに参加するのだ。
そして、愛する方に仕え、愛する方と一緒に働いていくうちに、以前の、ただ守られちやほやされていた時よりも、より深い喜び、やりがいを味わうことができるようになっていく。
 
彼女は、高貴なお方の車にいつの間にか乗せられていた心地がしたように、私たちもイエス様を主人とするうちに、何か高級車に乗せられ、大いなる方のもてなしを受けているかのような感覚へと陥っていく。
 
以前のような、自分の気分如何でイエスを締め出すようなことがないように、イエス様付属品であるかのような考え方を捨て、いつもイエスを先んじ、そしてますますイエス様との交わりが深く、甘く、うるわしくなり、高貴な方の車に乗せられ、さらに素晴らしい所へと連れて行かれる私たちでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
 

 

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