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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:罪のいけにえと全焼のいけにえ(出エジプト記29:10-18):右クリックで保存

祭司の任職の際、捧げられる動物のいけにえには三種類あり、その中で真っ先に捧げられるのは、雄牛による「罪のためのいけにえ」である。

『あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:10)
手を置く、という行為は、その相手と一体化となって我にあるものを彼に移すものであり、これから祭司になろうとしている人達が動物に手を置く時、彼らの罪がその動物に移され、そして、その動物が罪のいけにえとしてほふられる時、祭司達の罪はその動物を通して罰される事になる。

働き人として召す時なども、手を置いて祈る「按手」を行う。(使徒13:3)
手を置くという事を意味もなくパフォーマンス的に行ったりする事をたまに見かけるが、パウロはテモテに、誰にでも軽々しく按手しないよう戒めている。
『軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。』(1テモテ5:22)

『そして会見の幕屋の入口で、主の前にその雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、指をもって、これを祭壇の角につけ、その残りの血を祭壇の基に注ぎかけなさい。』(出エジプト記29:11-12)
雄牛の血は、祭壇の角につけられ、その残りは祭壇の下に注ぎ尽くされた。同じように、イエス様も十字架で打たれ、十字架の下に血を注ぎ尽くされた。

『また、その内臓をおおうすべての脂肪と肝臓の小葉と、二つの腎臓と、その上の脂肪とを取って、これを祭壇の上で焼かなければならない。』(出エジプト記29:13)
内蔵やその脂肪は、外から見ることのできない「心」をあらわす。
イエス様が群集を憐れみの目で見られた時、岩波訳では次のように訳している。
「彼は群集を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人(まきびと)のない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである。」(マタイ9:36)
イエス様は十字架上で神に見捨てられ、心がずたずたに裂き尽くされ、その十字架上での叫びが天に登り、御父は、その深い信仰の故に祈りを聞き届けられたのである。(ヘブル5:7)

『ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼き捨てなければならない。これは罪祭である。』(出エジプト記29:14)
肉と皮など外見的に見える「からだ」は、外に出されてそこで焼かれた。
同じようにイエス様も、都の外に出され、そこで苦難を受けられた。
『なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。』(ヘブル13:11-14)

このように、罪のためのいけにえ(罪祭)は、人々の罪を一身に引き受け、血を流され、心は裂かれ、燃やし尽くされ、からだは都の外に出されて苦難を受けられた、主イエスキリストをあらわしている。

続いて、全焼のいけにえ(なだめのかおり)の雄羊についての、主の指示である。
『あなたはまた、かの雄羊の一頭を取り、そしてアロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:15)
これにも手を置いて、アロンとその子達と一体化される。

『あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。またその雄羊を切り裂き、その内臓と、その足とを洗って、これをその肉の切れ、および頭と共に置き、その雄羊をみな祭壇の上で焼かなければならない。これは主にささげる燔祭である。すなわち、これは香ばしいかおりであって、主にささげる火祭である。』(出エジプト記29:16-18)

全焼のいけにえの血は、祭壇の周囲に注がれ、解体された上で全部位が焼き尽くされた。
詩篇22篇には、そのようにされたイエス様の様子が預言的に記されている。
『わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。』(詩篇22:14-17)

イエス様は十字架で「わたしは渇く」と言われたほどに、焼き尽くされる経験をされた。
全焼のいけにえは、なだめのかおりとも呼ばれる。
ノアは洪水の後、祭壇で焼きつくす捧げ物をささげ、神はそのかおりをかいで宥められ、もはや地上に洪水を起こさないと誓われた。(創世記8章)
そしてイエス様の十字架上での祈りという「なだめのかおり」によって、神は完全に宥められた。

私達もまた、全身全霊をもって、自分自身を主に捧げるべきであるが、何より喜ばれるのは「聞きしがたう」事であり、それはどんな焼きつくす捧げ物よりも大切な事である。(1サムエル15:22-23、ヘブル10:5-7)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
思いを一つにして祈れ(エステル4章):右クリックで保存
祈り会:右クリックで保存

【概要】

本日のメッセージは、エステル記4章と第一テモテ2章に見る、困難な時に信仰を貫き、行動する勇気と断固たる決意についての御言葉です。神の導きの中で、自分の責任と使命を再認識し、互いのために祈り続ける大切さを学びます。

【聖書箇所】

・エステル記4章 (特に1節〜14節、15節以降の決意の部分を中心に)

・第一テモテ2章1節〜4節

【慰めの言葉】

苦しい状況の中で、神は常に私たちと共におられ、慰めと希望を与えてくださいます。私たちがどんなに孤独や絶望を感じても、主の御手は決して離れていません。

【励ましの言葉】

エステルが王宮という極限の環境の中で、民族の存亡を担う決断をされたように、私たち一人ひとりにも神の導きが備わっています。たとえ困難な状況に直面しても、主に信頼し、勇気を持って前に進むことが大切です。

【戒めの言葉】

私たちの行動は、時に周囲の運命を左右します。もし無関心や怠惰のままであれば、結果として多くの命や未来が危機に晒されることを、エステル記の中で神は私たちに警告されています。神の戒めに従い、私たちは自らの責任を深く自覚しなければなりません。

【勧めの言葉】

互いに励まし合い、心からの祈りに励む姿勢を持ち続けましょう。実際にエステルが、国のために、民族の救いのために、断食と祈りを求めたように、今この時代においても、私たちが立ち上がって祈ることが、平和と救いを招く大きな力となります。

【悔い改めの促しの言葉】

もし私たちが時に自らの行動において、神の意志に背く選択をしてしまったなら、心から悔い改め、神の御前に立ち帰ることが求められます。過去の失敗を悔い改め、清い心で未来に向かう決意を新たにしましょう。

【***詳細***】

今日、私たちはエステル記4章の物語に深く目を向けます。冒頭、モルデカイが王宮の門の前に出て、着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶって大声で嘆く姿が描かれています。<強調>「モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら…」</強調>この激しい行動は、ユダヤ人全体が直面した絶望と危機を象徴しています。自らの民族の存亡の危機に、モルデカイは自分の内に湧き上がる深い悲しみと、神への信頼、そして民への責任感を表現しました。

これを聞いたエステルは、ただの宮廷内での華やかな存在ではなく、その裏で民の声に耳を傾けなければならない役割を担っていることに気づきました。彼女は、王の宦官ハタクを呼び寄せ、<強調>「どういうわけか、また何のためか」と問いただすよう命じた</強調>その言葉に、私たちはただ美しいだけでなく、民のために命を捧げる覚悟が求められることを学びます。エステルは、自分が王の呼び出しを受けるという厳しい掟の中にありながらも、<強調>「たとえ法令に背いても、私は王のところへ参ります。私は死ななければならないのであれば、死にます。」</強調>という強い決意を持って、神の民としての自覚と使命を貫きました。

ここで、重要なのはエステルだけではありません。モルデカイの痛切なメッセージも、私たちに深い意味を刻み込んでいます。彼は「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びよう」と告げました。これは、一人ひとりの行動が民族全体の運命に大きく影響するという、重大な教訓です。私たちの日常生活においても、社会の中で、また家庭や職場で、私たちの選択や行動がどれほど大きな重みを持つかを決して軽視してはなりません。

さらに、エステル記の物語は、奇跡と神の摂理が重なり合っていることを示しています。エステルが王妃として選ばれた偶然、そしてモルデカイとエステルとの信頼関係、さらにはユダヤ人全体が断食と祈りで一つになった瞬間。これらは、決して偶然ではなく、神の導きによって用意された歴史の流れであると確信させられます。私たちの歩む道もまた、たとえ予期せぬ困難や試練があったとしても、神の導きの中にあり、その中でそれぞれの役割を果たすために送り出されているのです。

また、私がこの場で特に注意深くお伝えしたいのは、決して高い地位や権力に甘んじることなく、むしろ民の叫びに応え、必要とされる行動をとる覚悟を持つことの大切さです。エステルは、王の掟に反してでも民のために立ち上がる決意を示しました。これは、私たちにも当てはまることであり、立場や見た目に左右されず、真に神に忠実な者として日々選択していくことが求められています。

このメッセージは、2000年以上にわたり、神がアブラハムに与えた祝福の約束が現代に至るまで続いているという事実をも信じさせてくれます。たとえば、エステル記に描かれる危機や絶望は、一見、ただの歴史的事件のように見えますが、神の永遠の視点から見ると、ユダヤ民族が後の時代に大いなる国として再建された奇跡の一部であります。私たち個々の人生も、大小さまざまな試練や偶然が連なって、今日の自分を形成しています。だからこそ、どんなに小さな選択であっても、神の御心に反するものであってはならず、逆に、主の御前で確固たる決意をもって行動することが求められているのです。

そして、第一テモテ2章1節〜4節の御言葉にもあるように、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために、願い、祈り、執りなし、感謝が捧げられるようにしなさい」と勧められています。これは、私たちが日々祈りを通して自己を奮い立たせるだけでなく、周囲の者すべてが救われ、平安と安定を手に入れるための大切な働きであると示しています。私たちが互いに励まし合い、心を尽くして祈り続けることで、神は必ずや必要な助けと救いの手を差し伸べてくださいます。

この歴史的な物語が現代の私たちに示しているのは、「立ち上がる勇気」と「互いに祈り合う絆」の大切さです。もし私たちが、今日示されたような使命感を持って、内なる声に正面から向き合い、信仰の歩みを全うするならば、どんな困難な時も必ず救いの光が差し込むことでしょう。たとえ法律や人の掟が私たちを抑えようとする時、神の御前では私たちの正しい行動が明らかとなり、必ずや大きな祝福がもたらされます。

皆さん、どうか今日の聖書箇所に耳を傾け、エステルとモルデカイの勇敢な姿、そして第一テモテの教えにあるように「すべての人のために」祈るという実践を、日常に生かしていただきたいと思います。私自身も、エステル記のその決意に感銘を受け、例え自分が小さな存在であっても、神の御心に従い行動する決意を新たにしております。私たち一人ひとりの祈りが、やがてこの国や世界全体の平和と救いにつながると信じ、力強く励んでいきましょう。

【結論】

本日の御言葉は、エステルとモルデカイのように、どんな過酷な状況にも真実なる信仰によって立ち上がり、他者のために勇気をもって行動することの重要性を教えてくれます。そして、すべての人のために、王や高位の者のために絶え間なく祈るようにという第一テモテの勧めは、私たち一人ひとりに与えられた大切な使命です。どうか私たちも、神の御心に従い、互いに励まし合いながら、平和と救いのために歩みを進めていきましょう。イエス様のお名前によって、皆さんが祝福され、守られますように。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:祭司としての任職 - きよめ(出エジプト記29:1-9):右クリックで保存

29章は、祭司を任職する際の主の指示である。
『あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次の事を彼らにしなければならない。すなわち若い雄牛一頭と、きずのない雄羊二頭とを取り、また種入れぬパンと、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬせんべいとを取りなさい。これらは小麦粉で作らなければならない。そしてこれを一つのかごに入れ、そのかごに入れたまま、かの一頭の雄牛および二頭の雄羊と共に携えてこなければならない。』(出エジプト記29:1-3)
以上のものが、祭司の任職の際に用意すべきもので、雄牛は罪のためのいけにえとして、雄羊の一頭は全焼のいけにえによるなだめのかおりとして、もう一頭は「任職の雄羊」と呼ばれ、この肉やパンは聖なる食物として祭司が食べるものとなる。

祭司の任職において真っ先に行われる事は、水による清めである。次に、彼らに前章で示された通りの祭服を着させ、そして、任職の油が注がれる。(出エジプト記29:4-7)
そこから続いていけにえが捧げられたり、いけにえの血がつけられたりするが、これらは大祭司キリストが任職されるプロセスや、私達が祭司として任職されるプロセスをも、あらわしている。

「キリスト」とは元々「油注がれた者」という意味であり、油注がれる事は、特別な役割が神から与えられるしるしである。
また、油には聖霊の意味がある。(1サムエル16:13、1ヨハネ2:27)
イエス様は働きのはじめに、まず、水の洗い(バプテスマ)を受けられ、次に聖霊の油注ぎ(聖霊が鳩のように降り留まる)があり、父なる神によって「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」と、公に任職された。(マタイ3:14-17)
私達も祭司とされるためには、まず、清めが必要で、神から任職を受ける必要がある。

私達を清め、神からあかしされるものは、三つあり、そのうちの一つが「御霊(聖霊)」である。
 『わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。』(テトス3:5-7)

そして、「血」もまた私達を罪から解放し、清めるため、祭司の任職に必要なものである。
『わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。』(黙示録1:5-6)

また、「御言葉の水」も私達を洗い清め、聖なるものとする。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)

『このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。あかしをするものが、三つある。』(1ヨハネ 5:6)御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。』(1ヨハネ 5:6-8)
これら三つによって私達はあかしされ、清められ、祭司とされるのである。

礼拝説教メッセージ音声:祭司が身に付けるべきもの(出エジプト記28:31-43):右クリックで保存

続いて、大祭司がエポデの下に着る青服についての指示である。
『あなたはまた、エポデに属する上服をすべて青地で作らなければならない。頭を通す口を、そのまん中に設け、その口の周囲には、よろいのえりのように織物の縁をつけて、ほころびないようにし、そのすそには青糸、紫糸、緋糸で、ざくろを作り、そのすその周囲につけ、また周囲に金の鈴をざくろの間々につけなければならない。
すなわち金の鈴にざくろ、また金の鈴にざくろと、上服のすその周囲につけなければならない。アロンは務の時、これを着なければならない。彼が聖所にはいって主の前にいたる時、また出る時、その音が聞えて、彼は死を免れるであろう。』(出エジプト記28:31-35)

このエポデの下に着る服は、天の色・青で、襟はほころびないように鎧のように縁がついている。
これは、決してほころびたり色あせたりする事の無い、天で執り成しておられる大祭司イエスキリストの永遠性をあらわしている。
その裾には、金のすずとざくろが交互に取り付けられ、大祭司が動く時、このすずが鳴るようになっている。
伝承によれば、大祭司が至聖所に入る時、ひもで結ばれて入ったようである。それは、万一何かの間違いを起こし、大祭司が聖所で主に打たれて死んでしまっても、ひもを引っ張って引きずり出せるようにするためである。
それほど、大祭司には重大な責任が伴ったのである。

年に一度の贖罪日、大祭司は洗盤で身を清め、祭壇上のいけにえをほふり、祭壇の周りに血を注ぎ、残りの血を器の中に入れ、それを携えて至聖所へと入って行く。
外の大庭では、大祭司が贖いのつとめを果たすのを待つイスラエルの民は、大祭司の青服のすそにつけられた鈴の音を耳にしながら、無事につとめを果たす事を祈りつつ待っている。
そして大祭司が契約の箱の贖罪蓋に血を注ぎ終わり、一切の贖いのつとめを成し遂げ終わると、大祭司はひもを引きずりながら民の前に戻って、「テテレスタイ!(完了した)」と叫んだ。

同じように、キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられ(ヘブル9:12)、全人類の贖いが終わった時、「完了した」と叫ばれた。(ヨハネ19:30)

大祭司はまた、ひたいに純金の札がつけられる。その時、大祭司は全ユダヤ人の罪咎を代表して負っており、この札をつけて御前に出て、贖いのつとめを為したなら、ユダヤ人全体の罪咎もまた贖われた事になる。(出エジプト記28:36-38)
同じように、キリストも十字架にかけられた時、「これはユダヤ人の王イエス」と書かれた札が掲げられ、ユダヤ人だけでなく全人類の罪咎を代表して負い、贖いのつとめを完全に成し遂げられたのだ。

大祭司は他にも、市松模様の長服、亜麻布のかぶり物、色とりどりに織られた飾り帯を身につけており、他の一般の祭司たち(アロンの子ら)とは一線を画していた。アロンの子らと呼ばれる一般の祭司たちは、もっとシンプルな格好だったようである。(出エジプト記28:39-40)

『アロンとその子たちは会見の幕屋にはいる時、あるいは聖所で務をするために祭壇に近づく時に、これを着なければならない。そうすれば、彼らは罪を得て死ぬことはないであろう。これは彼と彼の後の子孫とのための永久の定めでなければならない。』(出エジプト記28:43)

先にも書いた通り、祭司たちのつとめは栄光であると共に、重大な責任が伴われるものであり、主に命じられた事をおろそかにしてしまうと、主に打たれて死んでしまうものであった。
私達も主イエスにあって王族の祭司とされたからには、御言葉に正しく従い、この祭司としての栄えあるつとめを、決しておろそかにすることなく、誠実に為さなくてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:さばきの胸当 - 主の胸に結び付けられて(出エジプト記28:15-30):右クリックで保存

今回は、エポデの上につける「さばきの胸当」についての主の指示である。
さばきは恐ろしいイメージがあるが、悪しき者が支配する世の中で不当に扱われてきた聖徒たちにとっては、主のさばきは慰めである。(詩篇18:20-34、黙示録6:9-10)
この「さばきの胸当」の特徴から、ご自分の民をしっかりと胸に結び付けて下さる大祭司イエスのご性質を見る事が出来る。

『あなたはまたさばきの胸当を巧みなわざをもって作り、これをエポデの作りのように作らなければならない。すなわち金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、これを作らなければならない。』(出エジプト記28:15)
これは、エポデと同じ種類の撚り糸を用いて22cm四方の四角形に織られ、その中に、12種類の宝石がはめ込まれる。

『さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。』(出エジプト記28:30)
ウリムは光、トンミムは完全という意味で、主のさばき(御心)を求める時に用いられるものである。(民数記27:21、1サムエル28:6)

その十二の宝石には、イスラエル十二部族の名前が彫り込まれている。つまり、大祭司が「さばきの胸当」を身につけて聖所を出入りする時、イスラエルの名前が大祭司の胸に置かれた状態で、出入りする事になる。(出エジプト記28:21)

「胸」は心の座であるが、まことの大祭司である主も、まことの聖所である天において、私達地上にいるキリスト者をいつも御心に留め、取り成しておられるのである。
『しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。』(ヘブル7:24-25)

さばきの胸当には十二種の宝石がはめ込まれているが、十二種の宝石は、黙示録にも登場する。
『その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。花嫁は宝石のよう。またその門には十二部族の名が記されている。そして土台石は宝石であり、十二使徒の名が記されている。』(黙示録21:10-12)

この、宝石を土台とした新しい聖都エルサレムは、主の花嫁であるが、宝石は花嫁と対比される。(箴言31:10、雅歌4:9)
私達の成り立ちが石ころのようであっても、主は、石ころからアブラハムの子孫を起こされ、それを尊い宝石として整え(ゼカリヤ9:16)、尊い宝石で飾って傷を包み慰めて下さる。(イザヤ54:11-13)

さばきの胸当ては金の輪と青紐によってしっかりとエポデに結び付けられるように(出エジプト記28:22-27)、私達も、主の御胸から落ちないよう、しっかりと天の紐によって結び付けられるのだ。
以下の雅歌の女性の告白は、そのまま私達の主に対する祈りでもある。

『私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。・・・ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。』(雅歌8:6,3)

礼拝説教メッセージ音声:エポデ - 私達を背負われる主(出エジプト記28:6-14):右クリックで保存

今回の箇所は、祭司の特別な服の一つ、エポデについて。
『そして彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を用い、巧みなわざをもってエポデを作らなければならない。これに二つの肩ひもを付け、その両端を、これに付けなければならない。エポデの上で、これをつかねる帯は、同じきれでエポデの作りのように、金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で作らなければならない。』(出エジプト記28:6)

エポデは袖なしのエプロンのような服で、幕屋の出入り口に使われた青、紫、緋、白の刺繍の他、神のご性質をあらわす「金」も加わり、非常にカラフルである。
このエポデは、神であり人であるイエス・キリストのご性質をあらわしている。

『あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を刻まなければならない。すなわち、その名六つを一つの石に、残りの名六つを他の石に、彼らの生れた順に刻まなければならない。宝石に彫刻する人が印を彫刻するように、イスラエルの子たちの名をその二つの石に刻み、それを金の編細工にはめ、この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない。』(出エジプト記28:9-12)

エポデの両肩部分には、縞めのうが配置されるが、縞めのうと訳されている語は「ショハム」、縞めのうの他に、薄青や青緑の宝石として、新共同訳ではラピスラズリとも訳される。
この石にはイスラエル十二部族の名が刻まれており、祭司の肩の所に配置されるため、祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為す事になるのだ。

主は、イスラエルをずっと背負ってこられた。
彼らが苦しむ時は共に苦しみ、愛と憐れみによって彼らを救おうとされて来たが、残念ながら、彼らは主に逆らい、聖なる御霊を痛ませて来た。
そのため、主は彼らの敵となられ、イスラエルは痛めつけられた。(イザヤ63:8-10)

そして、大祭司である主イエス様は、今も、ご自身の民であるキリスト者全てを肩に背負って歩んでおられる。
いつから、私達キリスト者は主に背負われて来たのか。
それは生まれる前から、私達はキリストにあって選ばれ、導かれて来たのである。(エペソ1:3-5)
いつまで、私達キリスト者は主に背負われて行くのか?
それは、私達がしらが頭になっても、なお背負われ、やがて誰もが行き着く「死」という大川に至っても、なお主は共に歩み、永遠の御国へと導いて下さるのである。
『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46:3-4)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪しき者のたくらみ(エステル3:7-15):右クリックで保存

【概要】

本日私たちはエステル記3章7節〜15節を通して、権力者の軽率な判断が神の御計らいと人々の生死にどれほど大きな影響を及ぼすかを学び、自らの体と心の「実印」をどこに委ねるかという重大な決断について考えます。

【聖書箇所】

・エステル記3章7節〜15節

※「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」(エステル記3章)

・ローマ人への手紙8章12節〜13節

※「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ人への手紙8章12〜13節)

【戒めの言葉】

・権力や外部の誘惑に無批判に依存してはならない。

・自分の体、心、そして実生活において、誰にその「実印」を渡すのかを慎重に判断する必要があります。

【励ましの言葉】

・御霊に委ねて生きるなら、必ず神の命と平安が備わります。

・日々の小さな選択が、未来に大きな実を結ぶことを信じ、御霊の導きに心を寄せましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

・過去に自らの判断で誤った道を選んだと感じる時、神に立ち返り、心からの懺悔と改心を行いましょう。

・神はいつでも悔い改める心を持つ者に慈しみと新生のチャンスを与えてくださいます。

【***詳細***】

今日、私たちはエステル記3章7節〜15節に記された、アハシュエロス王の時代における重大な出来事に目を向けます。エステル記では、権力者ハマンが自らの恨みと偏見から、特にモルデガイという一人のユダヤ人に対して憤りを募らせ、さらにその憤りをユダヤ民族全体へと向けるため、アハシュエロス王に進言しました。その進言の中で、彼はこう申し上げます。

「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」

 

この御言葉は、ただ単に個人の復讐心から出たものではなく、権力の座にある者が、国や民族の運命を左右する重大な判断を下す際に、どれほど軽率であってはならないかを示しています。アハシュエロス王は、ハマンの計らいに流され、王の実印―つまり、決定的な権威の象徴―を手渡してしまいました。この結果、既に遠い国々にまでその命令が回り、ユダヤ民族に対する根絶的な法令が発布されるという、悲劇的な事態を招いたのです。

私たちはこのエピソードから、外部の権力や誘惑がもたらす危険性、及びその影響力に対して、常に警戒を怠ってはならないという戒めを受け取ることができます。決して、世の権力者の一言で私たちの運命が左右されるべきではありません。そして、私たち一人一人が持つ「実印」は、私たち自身の体や心、生活のすべてを意味しているのです。誰にその大切な実印を託すか、またどのような思いに委ねるかという選択は、私たちの未来にとって極めて重大な問題です。

このメッセージから私は、現代の私たちにとっても、心の中にある感情や意思、さらには日常の小さな決断が、後に大きな実を結ぶことを思い起こさせられます。例えば、日々の中で感じる怒りや憎しみ、または反抗心が、いつのまにか私たち自身の破滅に向かうものであってはならないのです。悪魔の策略は、私たちが肉的な欲望に従う瞬間に静かに忍び寄ります。そして、その結果、私たちは神の恵みや命の祝福を遠ざけ、破滅への道を歩むことになってしまいます。

一方で、聖書はローマ人への手紙8章12〜13節において、私たちに光を示してくださいます。

「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

 

この御言葉は、私たちが日々の生活の中で、肉に支配される生き方を捨て、御霊に導かれる選択をするよう強く促しています。御霊に従う生き方は、神の愛と平安、そして永遠の命へとつながります。私たちは自らの意思で、心の中の悪い感情や肉的欲望を「殺し」、その代わりに神の御霊がもたらす愛と喜びに満たされる生を歩むべきです。

また、エステル記の物語は、どれほど巧妙にして、権力者が自分の都合の良いように事実を操作し、ユダヤ民族という選ばれた民を狙ったかを描いています。ハマンはあえて「一つの民族」という表現を用い、その正体を曖昧にしながらも、最終的には全民族に対する虐殺令を発布させました。その冷酷な計略は、私たちにとっても重大な教訓となります。権力や物事を自分勝手の都合で動かす時、どんなに人々の命が危機にさらされようとも、その判断は正義を欠き、神の御心には決してかなわないということです。

私自身、この箇所から深く感じるのは、「実印」の意味です。実印とはただの印鑑ではなく、私たち一人一人の信仰、価値観、そして日々の選択そのものを象徴しています。たとえば、私たちが車を運転する際、その操作ひとつひとつが善にも悪にも変わるという比喩に似ています。日常の中で誰かに対して怒りを抱いたり、無意識のうちに破壊的な行動に出たりすることは、すなわち自らの「実印」を肉的な欲望に託してしまっていることです。そして、それがいずれ自らや周囲の人々に取り返しのつかない結果をもたらす可能性があるのです。

しかし、私たちは希望を見失ってはなりません。神は常に、御霊による新しい生の道を示してくださっています。たとえ過去に誤った判断をしてしまったとしても、私たちは悔い改め、祈り、断食を通して神に立ち返ることができます。旧約のイスラエル民族が大危機の中で一致団結し、祈りと断食によって救いを求めたように、現代に生きる私たちも、日々の選択の中で神に心を委ね、御霊の導きを受け入れることが重要です。

さらに、私たちがこのエステル記の物語から学ぶべき大切な点は、権力者の軽率な「実印の委譲」に対して、自分自身の大切な体や心、未来を誰に委ねるかという問いかけです。アハシュエロス王は、ハマンに実印を渡したことで、後悔の及ばぬ惨事を招いてしまいましたが、私たちはそのような過ちを回避するために、日々しっかりと自分自身の判断を育て、神の御心に照らして生きる必要があります。

私たちが日常の中でどのような選択をするかによって、神の御恵みが与えられるか、あるいは破滅へと導かれるかが決まってきます。例えば、些細な怒りの感情や恨みを放置することは、やがて大きな悲劇へと発展するかもしれません。一方、御霊の導きに従い、謙虚に神の意志を求め、互いに愛し合う心を持つならば、私たちは神の相続人として、豊かな祝福と永遠の命を受けることができるのです。

改めて、ローマ人への手紙8章12〜13節の御言葉に立ち返りましょう。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

 

この御言葉は、私たちが肉の誘惑に流されず、常に御霊に導かれる選択をするべきであることを、力強く示しています。私たちの内に宿る思い、感情、そして意思が、神の御霊に委ねられるとき、私たちは真に神の子どもとして、新たな生命と希望に満たされるのです。たとえ今、どれほど混乱や誘惑、そして周囲の不正が目まぐるしく変わろうとも、神は変わることのない御約束と共に、私たちに平和と救済をお与えくださると信じます。

最後に、この教えを心に留め、日々の生活の中で「実印」をどこに委ねるか、どのように自らの意思や感情を扱うかを慎重に見極める決意を新たにしましょう。たとえ私たちが一度誤った判断をしてしまったとしても、悔い改めと祈りをもって、再び神の御手に委ねることができるのです。今この時、私たちは神の導きを仰ぎ、御霊の光の中で新たな生を歩む決断をするべき時なのです。

【結論】

私たちは、権力者の軽率な判断によって多くの人命が危機にさらされたエステル記の教訓を胸に、日々自らの体と心の「実印」を神に委ね、御霊による生き方を選ぶべきです。人間の弱さに流されず、真の神の子どもとして、神の恵み豊かな相続人となるよう、悔い改め、祈り、そして御霊に従う決意を新たにしましょう。イエス様の御名によって、この真実のメッセージが私たち一人ひとりの生命に確かな希望と平安をもたらしますように。

礼拝説教メッセージ音声:祭司のつとめ(出エジプト記28:1-5):右クリックで保存

28章と29章は、祭司の務めに関する定めである。

『またイスラエルの人々のうちから、あなたの兄弟アロンとその子たち、すなわちアロンとアロンの子ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルとをあなたのもとにこさせ、祭司としてわたしに仕えさせ、またあなたの兄弟アロンのために聖なる衣服を作って、彼に栄えと麗しきをもたせなければならない。』(出エジプト記28:1-2)

神は、アロンとその子達が神によって祭司に任命されている
そのように、祭司とは元々、自分からなるものではなく、神から一方的に選ばれ任命されるものであり、その務めは、神と人との間に立って執り成したりいけにえをささげたり、特別な事柄のために仕える仕事である。
『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。・・・だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。』(ヘブル5:1-5)

祭司はその務めに相応しく、特別な、聖なる衣服を着るよう、主に指示されている。

『あなたはすべて心に知恵ある者、すなわち、わたしが知恵の霊を満たした者たちに語って、アロンの衣服を作らせ、アロンを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を受け取らなければならない。』(出エジプト記28:3-5)

この衣服は、人間の知恵や感性など”人間のわざ”によるものではなく、神の側から示された型どおりに創られたものでなければならない。
人間の知恵や感性など”人間のわざ”とは、神の御前には「汚れた衣類」のようなものである。(イザヤ64:6)
人が、いかに正しい行いをしようとも、いかに清くなろうとがんばっても、主の御前に”きよい”とされる事は無い、それら行いは、ただ汚れた衣のようである。
主が、その汚れた衣を脱がせて下さり、主が与えて下さる新しい衣を着せられる事によってのみ、清らかにされるのだ。

『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。』(ゼカリヤ3:1-4)

生まれつきの人間は汚れたものであり、主の御前に出る時、そうした人間的な知恵や感性などは脱ぎ捨てなければならない。
ちょうど、バルテマイがイエス様に呼び出された時、自分のそれまで大切にしてきた外套を脱いだように。

今や、私達キリスト者は、祭司として聖なる務めにあずかる者とされているのだ。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:5-6)

礼拝説教メッセージ音声:主の大庭に入る時は(出エジプト記27:1-21):右クリックで保存

幕屋の外門から庭に入る時、最初に目にするのが、祭壇である。
『あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。その四すみの上にその一部としてそれの角を造り、青銅で祭壇をおおわなければならない。また灰を取るつぼ、十能、鉢、肉叉、火皿を造り、その器はみな青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:1-3)

人が幕屋に来て真っ先にすべきは「捧げる事」であり、捧げ物なしに主の大庭に入ってはならない。(申命記16:16、詩篇96:8)
捧げ物には色々な種類があり、ある時は感謝のいけにえを、ある時は動物に自分の罪を移し、自分の身代わりとして動物を焼き尽くす事もあり、ある時は和解を喜びつつ焼いた肉を共に食べる事もある。(レビ記)

この祭壇はアカシヤ材の上に青銅が被されており、祭壇で使う諸々の道具も、皆、青銅で出来ている。
青銅はさばきを意味するが、礼拝とは、まず自分自身の罪をさばき、自分自身を捧げる所からである。
この祭壇では、人の罪の身代わりとして動物が捧げられたが、私達には、私達の身代わりとなって下さったキリストがおり、キリストの故に私達も大胆に主の御前に出る事が出来るのである。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)
ゆえに、イエス・キリスト無しに神の御前に行く事は、身代わりの犠牲無しに祭壇へ行く事であり、そうするならもはや自分自身が裁かれるより他に無い。

『あなたはまた幕屋の庭を造り、両側では庭のために長さ百キュビトの亜麻の撚糸のあげばりを設け、その一方に当てなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。また同じく北側のために、長さ百キュビトのあげばりを設けなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。』(出エジプト記27:9-11)

幕屋の庭は、亜麻の撚り糸で織った幕で外界と仕切られている。
それは5キュビト間隔で柱によって支えられ、柱は青銅の台座の上に立てられており、銀の留め金によってつなぎ合わされている。
つまり、幕の内側と外界とは亜麻の撚り糸で織った幕によって分離されており、それは「さばきの青銅」の上に支えられ、「贖いの銀」によってつなぎ合わされているわけである。

私達も「十字架」という「さばき」によって世から分離されている。
「十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
十字架のこちら側にいる私達キリスト者に対し、世は何もする事が出来ず、私達もまた、十字架のあちら側にいる世に対しては別様の者である、と理解すべきである。

『庭の長さは百キュビト、その幅は五十キュビト、その高さは五キュビトで、亜麻の撚糸の布を掛けめぐらし、その座を青銅にしなければならない。すべて幕屋に用いるもろもろの器、およびそのすべての釘、また庭のすべての釘は青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:18-19)
以上のように、庭の長さは44.5m、幅は22.25m。

内側と外側を区切る幕の高さは2.23mであるから、普通の身長の人は、外側から庭の中を見る事はできない。
ただ4m超のじゅごんの皮で覆われた聖所の建物が、亜麻の幕の上からとび出ているのが見えるような感じである。

この外庭の門にも、色々な色で刺繍が施されている。
「庭の門のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織った長さ二十キュビトのとばりを設けなければならない。その柱は四つ、その座も四つ。」(出エジプト記27:16)
つまり、この庭の門に入ろうとする時、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては入れず、出入りする際は、天を、王を、血潮を、清めを意識するようになっている。

「あなたはまたイスラエルの人々に命じて、オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のために持ってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない。アロンとその子たちとは、会見の幕屋の中のあかしの箱の前にある垂幕の外で、夕から朝まで主の前に、そのともし火を整えなければならない。これはイスラエルの人々の守るべき世々変らざる定めでなければならない。」(出エジプト記27:20-21)

これは、聖所に置かれる「燭台」を灯す油についての指示であり、主の御前で絶える事なくともしびを灯しておくように、永遠の定めとして命じられている。
私達もまた、この暗闇の世界を灯す世の光として、聖霊の油を絶やす事なく、いつも主の御前にともしびを灯しておくべきであり、また、賢い乙女たち(マタイ25章)のように、いつ主が迎えに来られても良いように、油の用意をしておくべきである。

礼拝説教メッセージ音声:幕屋の構成に隠された創世記から黙示録までの流れ(出エジプト記26:15-37):右クリックで保存

今回の箇所は、幕屋の骨格となる立枠についての指示であるが、今や、私達キリスト者ひとりひとりがキリストのからだの各部分、各器官であり(1コリント12:27)、私達自身が神の宮であり(1コリント3:16-17)、主にあって最後まで忍耐し勝利する聖徒は「聖所の柱」とされる。(黙示録3:12)
故に幕屋の構成物ひとつひとつは、私達・キリスト者の予表である。

『あなたは幕屋のために、アカシヤ材で立枠を造らなければならない。枠の長さを十キュビト、枠の幅を一キュビト半とし、枠ごとに二つの柄を造って、かれとこれとを食い合わさせ、幕屋のすべての枠にこのようにしなければならない。』(出エジプト記26:15-17)

幕屋の骨組みは、この4.45mx66cmのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
この幕屋は縦10キュビト、横30キュビト、高さ10キュビトなので、ちょうど10キュビト四方の立方体を横に三つ合体させたような寸法の建物である。
台座として支えられる銀は贖いを意味し、幕屋を構成する立板は、二つ(証人の数)の銀によって地上から贖われ、神の宮のために建て上げられ、キリストのからだの一部分とされた私達を暗示する。

これらの立板は、横木によって、しっかり組み合わされ、結び合わされる。
『またアカシヤ材で横木を造らなければならない。すなわち幕屋のこの側の枠のために五つ、また幕屋のかの側の枠のために横木五つ、幕屋のうしろの西側の枠のために横木五つを造り、枠のまん中にある中央の横木は端から端まで通るようにしなければならない。そしてその枠を金でおおい、また横木を通すその環を金で造り、また、その横木を金でおおわなければならない。こうしてあなたは山で示された様式に従って幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記26:26-30)

キリストのからだも、多くの部分からなり、それぞれ横のつながりによって結合している。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)

31節以降は、聖所と至聖所とを分ける「幕」についての指示である。
『また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。』(出エジプト記26:31-33)

アダムとエバの堕落以降、人はエデンの園への道がケルビムと回る炎の剣によって遮られてしまったが、至聖所への道も、ケルビムの織物によって遮られている。
しかしキリストが十字架でさばかれた時、この幕は真っ二つに裂かれ、もはや聖所と至聖所を隔てる壁は打ち壊された。
『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:13-16)

「至聖所」には契約の箱が置かれ、その上に贖罪蓋がかぶせられており、ケルビムの織物によって隔てられた向こう側・聖所には、南側に燭台、北側にパンの机が向かい合わせで置かれている。そして聖所と外を隔てる出入り口には、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕が張られ、その幕のために、金をかぶせたアカシヤ材の柱が五本立てられ、それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造される。(出エジプト記26:34-37)

青銅はさばきを意味するが、つまり聖所の入り口は、まず神のさばきを経なくては入れず、また、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては、入れない。
さばきはイエス・キリストが身代わりとなって受けて下さり、私達は、天の王であられるキリストの血潮にあって白く清められ、大胆に聖所に入る事が出来る。(エペソ3:12)

この建物の最奥(西側)にある至聖所は、10キュビト四方の立方体である。
後のソロモンが建てた神殿の至聖所は、その二倍の20キュビト四方の立方体(列王記6:20)で、黙示録に現れる新エルサレムにいたっては、12000スタディオンの立方体(1スタディオン=185m、1辺が約2400km)であり、その中には神殿はなく、都そのものが、主の栄光と臨在に満ちた至聖所である。(黙示録21章)

黙示録で記されている神の都こそまことの神殿であり至聖所であり、山で示された幕屋や神殿は、その型である。
主のご計画が成就するごとに、隠されていた物事が徐々に露わにされて行き、全ての時が満ち、全てが成就した時、神の栄光は誰の目にも明らかなほど巨大に、公にあらわれるのである。

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