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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:幕屋の幕に見るキリスト者の性質(出エジプト記26:1-14):右クリックで保存

幕屋の幕は、四層から成る。
その最も内側、聖所に接している部分にあたるのが、ケルビムが織り込められた幕である。

『幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。』(出エジプト記26:1-3)
この幕は一つが12.46メートルx178センチ、それを五枚つなぎあわせたもの二組をさらにつなげて一つにするのであるから、テントとしては結構な大きさであり、それを荒野で組み立てたり分解したり、運搬したりするには、レビ人の特別な働きが必要である。

この幕の縁には、青いひもの輪と、金の輪と金の留め金を五十個つけ、それを互いにつなぎあわせて一つとしている。(出エジプト記26:4-6)
この、最も聖所に近い幕は、栄光化されたキリスト者の性質があらわれている。
天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、そして白い亜麻布(清められた聖徒:黙示録7:9)によって、神の御前に仕えるケルビムが織りつけられ、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合い、神の性質である金の輪で留められるのだ。

このケルビムが織り込められた幕の上から被せられるのが、やぎの毛の幕である。
『また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。』(出エジプト記26:7-8)
これはケルビムが織り込められた幕よりも若干大きく、一枚分多い。それは、天幕の前で折り重ね、余った部分を垂らす事によって、ケルビムが織り込められた幕を覆い、外界からは完全に隔離された形とするためである。

『そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。』(出エジプト記26:10-13)

やぎの毛の幕は白、すなわち清さの色であり、これをつなぎ合わせる留め金は、青銅によって作られている。
青銅は裁きを意味する事を学んだが、イエス・キリストが私達の身代わりとなってさばかれ、それによって私達の罪は清められた。キリストが裁かれたそのさばきによって、白く清められた私達は一致するのである。

このやぎの毛の幕の上から被せるものが、さらに二つある。
『天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。』(出エジプト記26:14)

雄羊の皮は、なめすと赤くなる。雄羊はほふられたキリストを(黙示録5章)、赤い色は、キリストがほふられた時に流された血を思わせる。
そして、最も外側を覆う皮がじゅごんの皮であり、幕屋を外見として見る時、それは巨大なじゅごんの皮が横たわったようなテントで、見栄えはあまり良いものではない。

「じゅごん」はヘブル語「タハシュ」で、色々な訳がなされている言葉で(あなぐま、いるか、あざらしなど。)いずれにせよ汚れた動物であり、皮の見栄えの良いものではないが、頑丈であり、外側を覆うものとして適したものである。
私達も律法上では異邦の民であり、世を渡り歩く汚れた者であったが、キリストにあって神に近い者とされた。

以上、幕屋の幕は四層からなるが、これを外側から内側へと行けば行くほど栄光に富んだものとなって行き、まさしく、私達キリスト者が、罪清められ、聖化され、栄化される有様が浮かび上がってくる。
私達は、以前は異邦人として汚れた者(じゅごん)であったが、ほふられた羊キリストの血(赤くなめした雄羊)によって清められ、白くされ(やぎの毛皮)、キリストが受けたさばき(青銅)によって一つとなり、そして、栄光のケルビムと共に、至聖所にて礼拝にあずかる者とされるのだ。(ケルビム織りの幕)
このケルビムが織り込められた幕は、外界からは完全に隔離されており、至聖所の栄光に直に触れている。
それは天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、白い亜麻布によって織りなされており、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合わされ、神の性質である金の輪で留めら、いつまでも至聖所の栄光の元にケルビムのように仕える。それが、栄光化されたキリスト者の性質である。

『ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』(エペソ2:11-13)

礼拝説教メッセージ音声:幕の内側 - パンの机と燭台(出エジプト記25:23-40):右クリックで保存

神を礼拝する場所「幕屋」とは、天幕によって仕切られた22.3mx44.5mの「大庭」と呼ばれる敷地内に、4.45mx13.35mからなる長方形のテントがあり、そのテントの中は二部屋に分かれ、入り口に近い方の長方形の部屋が「聖所」、その奥には、最も聖なる領域とされる「至聖所」と呼ばれる4.45m四方の部屋があり、聖所と至聖所は、幕によって仕切られている。

前回見た「契約の箱」は、この最も聖なる領域・至聖所に安置され、今回の箇所で見る「パンの机」と「燭台」は、聖所に置かれており、日毎の祭事に用いられるものである。
(聖所にはもう一つ、「香壇」が置かれるが、それは30章にて学ぶ。)

『あなたはまたアカシヤ材の机を造らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。』(出エジプト記25:23)
これが「供えのパンの机」の寸法で、センチメートルに直すと、長さ89cm、幅は44.5cm、高さは66.8cmである。
これにも金をかぶせ、4箇所に輪を付け、その輪に担ぎ棒を通して持ち運び可能なものとした。
『そして机の上には供えのパンを置いて、常にわたしの前にあるようにしなければならない。』(出エジプト記25:30)
この机には、常に、主の御前に十二のパンが供えられ、ひと重ねに六個ずつ、ふた重ねが置いており、おのおの重ねの上には乳香を置いて主の御前にささげている。
それは安息日ごとに整えられ、最終的にそれらはアロンとその子達の食べる分となる。(レビ記24:5-9)

現代、キリストにあって祭司とされた私達も、この幕屋の内に隠れた特別なパンにあずかる事が出来、主の働き人には、常にパンの養いを受ける保証がある。
『そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。』(ヨハネ6:32)

続いて燭台について、31-40節に記されている。
『また純金の燭台を造らなければならない。燭台は打物造りとし、その台、幹、萼、節、花を一つに連ならせなければならない。また六つの枝をそのわきから出させ、燭台の三つの枝をこの側から、燭台の三つの枝をかの側から出させなければならない。』(出エジプト記25:31-32)
つまり、一本の燭台を中心にして、右側に三本、左側に三本、真ん中を入れると合計7本が、それぞれ左右に弧を描くように枝分かれして、その全体は半円形のように見える燭台である。

この燭台には夕から朝まで、油を絶やす事なく、常時ともしびをともし続けなくてはならない。
『「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前に整えなければならない。』(レビ24:2-4)

この燭台は、アーモンドの花の形をした三つの”がく”が、それぞれ節と花をもって一つの枝にあるようになっている。(出エジプト記25:33)
アーモンドはヘブライ語でシャケデ、エレミヤ1章ではシャカデ(見張る)という言葉と掛けて使われており、黙示録では、この7つのともしびは全世界を見張る主の目でもある。(黙示録5:6)

また燭台は、世を主の光で照らす「教会」でもある。
『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。・・・あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:12-20)

幕屋の内側は、外界とは幕によって隔てられ、世からは区別された領域である。
現代を生きる私達も、イエスの血によってはばかる事なくキリストの肉体という幕の内に入る事が出来、私達はその幕の中で区別され、まことのパンの養いを受け、主のともしびの光にいつも照らされて、主のつとめを為すのである。

『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民に敵対するハマンの性質(エステル記3:1-7):右クリックで保存
祈りと祝祷:右クリックで保存

【概要】

本日の説教は、エステル記3章1節から7節の御言葉を通して、神に忠実であらねばならない民の在り方と、悪の権勢に屈しない信仰の強さを学びます。モルデカイの譲らぬ姿勢は、どんな圧力や誘惑にも決して心を曲げず、神に従う者としての証しとなるものです。

【聖書箇所】

・エステル記 3章1節〜7節

・1サムエル記15章(アマレクに対する神の命令の記録)

・エステル記 5章12節、6章6節

・ヨハネの第一の手紙 3章8節

・箴言 19章19節

【戒めの言葉】

私たちは、権勢や世の風潮に流されることなく、神の御前では常に謙虚でいなければなりません。また、怒りや憎しみ、妬みといった悪魔の策略に心を奪われることがあってはならず、兄弟姉妹に対する不愛にも決して陥ってはなりません。

【慰めの言葉】

たとえ、神に従うために周囲からの圧力や反発にあう時であっても、主は決してあなたを見捨てません。神は忠実な民を守り、試練の中にあっても明けの明星のように希望と救いをもたらしてくださいます。

【励ましの言葉】

エステル記において、モルデカイはハマンの命令に屈することなく、神への忠誠を貫きました。同じように、私たちの歩みも時に困難な状況に直面するかもしれませんが、神の御言葉を守る者には必ず大きな祝福が用意されていると信じ、勇気をもって歩んでいきましょう。

【***詳細***】

本日の御言葉「エステル記」3章1節〜7節は、ペルシアのアハシュエロス王の治世の中で、権勢を握ったハマンという人物が、自己の虚栄心と憤りからユダヤ民族を根絶しようと企む様子を記録しています。ハマンは、王の側近として昇進し、王の家来たちにひれ伏すよう命じられましたが、ただ一人、ユダヤ人であるモルデカイは決してその命令に従いませんでした。「エステル記」3章に記されるこの出来事は、単なる政治的争いの物語に留まらず、神に従う民と悪魔の策略とが対立する霊的な戦いの象徴として読むことができます。

ハマンは、過去の歴史においてイスラエルの敵対民族であったアガグの子孫、すなわちアマレク人の末裔であり、その性質は古くからイスラエルに対して敵意を抱いていました。1サムエル記15章に記された神の命令――「アマレクを打ち、そのすべてを容赦してはならない」という厳命――は、神がイスラエルに対して持つ深い憎悪と、悪に対する断固たる態度を明確に示しています。私たちは、ハマンのように自己の利益や虚栄心に駆られて行動するのではなく、神が定められた御言葉に従い、悪に対抗する勇気ある信仰を持たなければなりません。

モルデカイの振る舞いは、現代に生きる私たちの模範となるものです。彼は、王の命令に背くことに対して「なぜ、王の命令に従わないのか」と尋ねられても、自身の信仰から妥協することなく、ユダヤ人であること、そして神に従う者であるという誇りを明確に示しました。このような姿勢は、私たちにとっても非常に大切な示唆を与えています。たとえ周囲が圧力を加え、時には迫害や嘲笑にさらされようとも、私たちが心に抱く神への忠誠と信仰は、必ずや最終的な勝利へと導いてくださいます。

また、この御言葉は私たちに、憤りや怒りという感情の危険性をも警告しています。エステル記では、ハマンはモルデカイの一言に激しい憤りを覚え、その怒りは彼の判断を曇らせ、やがて全ユダヤ人根絶という極悪非道な計画へと発展しました。私たちが日々の生活の中で、感情に流され堪えてはならないのは、まさにこのことです。聖書ヨハネの第一の手紙3章8節は、「罪を行う者は悪魔から出たものである」と教え、私たちが悪魔の策略に染まることのないよう、心を清めることの重要性を説いています。さらに、箴言19章19節にも「激しく憤る者は罰を免れない」と記され、私たちがいかに慎重に、そして謙虚な心で日々を過ごすべきかを改めて示しています。

神は、私たちが感情や欲望に任せ、自己中心的な行動に走るとき、必ずやその結果として試練や災いをもたらされると警告されています。しかし、同時に主は、忠実に御言葉に従う者、すなわち神の道を歩む者を、あらゆる災いから守り、最終的には栄光と祝福とで報いてくださいます。エステル記全体を通しても、最初は困難や試練に直面した民が、忠実に神に従った結果、神の偉大な救いを体験し、繁栄へと導かれるという歴史の真理が読み取れます。

また、私たちはイエス・キリストによって示された究極の愛の模範を見逃してはなりません。キリストは、ご自分の命をささげ、私たちのために死を取り払い、愛と赦しの道を開かれました。その愛は、たとえ周囲がいかに冷たく、攻撃的であっても、私たちに真の勝利と平和をもたらす光であるのです。私たちが互いに支え合い、兄弟姉妹を心から愛するその行動は、キリストの御業に参与し、悪に打ち勝つための揺るぎない信仰となります。

今日、私たちがこの御言葉を胸に刻むとき、内に秘めた憤りや無慈悲な心の閑かさを見直し、決して悪に染まることなく、すべての行いにおいて神の御意志を第一に求める決意を新たにする必要があります。私たちが、どんなに小さな心の隙間も悪魔に譲ることなく、日々の生活と礼拝の中で神に眼を向け、御言葉に従うならば、神は必ずやあなたを守り、その歩みに祝福と栄光を与えてくださいます。

【結論】

私たちは、エステル記に見るように、時の権勢や悪の影響を前にしても、神に忠実であらねばなりません。モルデカイの犠牲を通して示された信仰と勇気は、今日の私たちにも大いなる励ましです。感情の怒りや他者への憎しみを捨て、互いに愛し合い、神の御言葉に従うことで、必ずや勝利と祝福を得ることができると信じ、日々の歩みを堅く守り続けましょう。イエス・キリストの御名によって、私たちの信仰が輝き、永遠の光の中で歩むことができますように。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:契約の箱に見るキリストのご性質(出エジプト記25:10-22):右クリックで保存

今回の箇所は、契約の板を入れるための箱(契約の箱、英語:ark)を造る際の指示であるが、この箱の性質は、イエス・キリストの性質である。

契約の箱は、アカシヤ材を元にして造られる。
アカシヤは砂漠地方に育つ木で、密度のある頑丈な木で、とげばっており、材木としてはあまり適した木ではないが、この木はイエス・キリストの人間性をあらわしている。
『彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。』(イザヤ53:2)

また、アカシヤ材は純金で覆われるが、純金は神の性質である。
つまり、イエスキリストの、神であり人としての二面性が、ここに示されているわけである。

この箱の四隅には、輪が取り付けられ、そこにさおを通し、日本の神輿のように担ぐ事によって持ち運びが可能となっている。(出エジプト記25:12)
そのようにするのは、持ち運びの便宜のためだけではない。この箱は神聖なものであり、神が示した手順によって扱わないならその人は死ぬ他に無く(1サムエル6:19、2サムエル6章)、そのような事の無いためである。

キリストは人として来られ、ヨハネもキリストをじっと見、手で触った。(1ヨハネ1:1)人としてのキリストは、そのように親しく私達と交われるお方であるが、キリストの神としての栄光の御姿を見た時、ヨハネは倒れて死人のようになってしまった。(黙示録1:17)
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方(1テモテ6:15-16)である。

『また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。』(出エジプト記25:17)
この「贖罪所」または贖罪蓋(ギリシア語:ヒラステリオン)は、律法の石板が人に直接触れないようにするための「覆い」である。
これもまた、贖いの衣であるキリストを表している。
キリストは、聖なる御言葉の剣が人に直接触れて死んでしまわないようにするための、神と人との間の覆いとなっておられるのだ。

『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖いの蓋、贖罪蓋)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)

姦淫の現場で捕らえられた女が、イエス様の前に引きずり出された時、イエス様は地面に指で書いておられたが(ヨハネ8章)、神の指で書かれた律法に従って人が裁かれるなら、誰しも、死ぬ他に無い。
その女も、彼女を訴えた者も、傍観して面白がっていた者も。
しかし、主イエスは全ての人の罪を覆い、ご自身を通して神と和解をするようにと、全ての人に促しておられるのだ。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(2コリント5:20)

礼拝説教メッセージ音声:幕屋についての詳細な指示(出エジプト記25:1-9):右クリックで保存

『すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。』(出エジプト記25:9)
25章以降、荒野の民の礼拝の中心である「幕屋」の建造と、それに関わる全ての用具を作るにあたっての主の指示が続く。
その内容は設計書や仕様書そのもので、建造物の材料や寸法から、個々の什器の形や色に至るまで、詳細に指示されている。
聖書通読を挑戦する人にとって、最初の山となりやすい所で、一体、この内容が私達に何の関係があるのか、と感じる事が多いかもしれない。

主はなぜ、幕屋についてそこまでの緻密な指示を出されたのか。
それは、これら幕屋の建造物や器物は「天の型」であり、人に天の有様を示すためである。

『彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。』(ヘブル8:5)
『このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。』(同9:23-24)

主は、これらの細やかな指示を、当てずっぽうにされたのではない。天にはまことの幕屋、まことの聖所があり、その模型を造らせるために指示されたのだ。
人が地上の幕屋を見る時、天の模型を見ているのであり、人が地上の幕屋で礼拝する時、天でのまことの礼拝の”型”を行なっているのである。

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。』(出エジプト記25:1-2)
地上の幕屋は、聖徒達の捧げ物が元となって、造られる。そしてその元は、エジプトから分捕ったものである。
同じように私達も、サタンが所有権を持っている世から分捕って神の国のものとし、それを主に捧げるべきである。

捧げ物をする際、心から進んで捧げる捧げ物をこそ、主は喜ばれる。
主はその捧げ物を豊かに用いられ、さらに感謝が捧げられるように、祝福を増し加えて下さる。しかし、嫌々ながら捧げるような捧げ物は、主は喜ばれない。
『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。』(2コリント9:6-8)

天のまことの幕屋でも、地上の聖徒の捧げ物が元となっているものがある。
人が地上で主のために為した事は、天において宝として積まれ、決して朽ちる事が無い。(マタイ6:20)
主にあって勝利を得る者は、神の聖所の柱とされ(黙示録3:12)、また、聖徒たちは神の子羊の花嫁なる「聖なる都」とされ、高価な色とりどりの宝石で飾られ(黙示録21章)、この花嫁が着せられる光り輝く麻布は、聖徒たちの正しい行ないである。(黙示録19:8)
天においては、神の幕屋が人とともにあり、神は人と共に永遠に住まわれるのである。(黙示録21章)

私達が地上の幕屋で主に仕える事は、天におけるまことの礼拝の前味わいをしているわけである。

礼拝説教メッセージ音声:主の御前で(出エジプト記24:9-18):右クリックで保存

血のそそぎを受けたアロンと長老七十人も、ともに主の御前に出る事ができるようになった。
『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)

イスラエルの神が現れる様は、恐ろしいもので、サファイアの輝きのような主の栄光は、エゼキエル1章や黙示録でも同じ記述がされている。
主の現れを見たイザヤやエゼキエルは恐れ、ダニエルやヨハネは、そのあまりに「聖なる」様に、倒れて死人のようになっている。
しかし、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。
なぜか?
それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、イエスの血によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来たのだ。
それにしても、なぜ御前で「飲み食い」なのか?

血の注ぎを受け、罪赦された人に待っているのは、さばきや恐ろしさではなく、ほふられた動物を共に食す宴会が用意されているのだ。放蕩から帰って来た息子のように。
私達がいただけるごちそうとは、キリストの裂かれたからだである。
『わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。』(1コリント10:16-18)

私達はなにかと、サファイアの輝きのような主の栄光を見たがるものだが、しるしや不思議を見れば良いというものではないし、主の奇跡と祝福が毎日あれば良いというものでもない。
山のふもとで待っていた民は、四十日四十夜、山の上で燃える火のように見える主の臨在をそばで見ていながら、別の神々を作ってしまった。
なぜそんな、有り得ないことをするのか、と思うだろうか。しかし人間の「慣れ」は、怖いものである。
主の祝福が続き、物持ちとなり、安全が続いたダビデも、罪を犯してしまった。
私達は祝福が続いた時こそ、心して、私達の内に潜む怠慢に気をつけるべきである。

『ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。そこでモーセは従者ヨシュアと共に立ちあがり、モーセは神の山に登った。彼は長老たちに言った、「わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい。見よ、アロンとホルとが、あなたがたと共にいるから、事ある者は、だれでも彼らの所へ行きなさい」。』(出エジプト記24:12-14)

ここで主は、律法と戒めを書き記した石の板を授けるために、モーセひとりを山へ呼び出される。
ヨシュアはモーセの従者(「シャーラス」英語でミニスターやアテンドと訳されている)として、いつもモーセのそばで仕えており、彼だけがモーセが山を降りるまで忠実に待っていた。
そして長老たちには、モーセが山で主と会っている不在の間、重要な案件はアロンとフルに持っていくよう託し、こうしてモーセは山に登っていった。

この時、モーセは「いつまで」山に留まるとは言わなかった。それは、主が言わなかったからであり、モーセも知らなかったからだ。
後でわかるが、モーセがあまりに山で手間取るので民は待ちきれなくなり、アロンとフルも、そんな正しく民を導く事はできなかった。
モーセがいつ山を降りてくるかを知っていたなら、おそらく民もアロンも持ちこたえただろう。しかし、人の内に隠れた信仰が明らかとされるために、神は敢えて「いつまで」を言わないものである。

主は必ず、再び来られる。しかし、その日その時はいつになるか、分からない。
不忠実だったイスラエルの民のように、主人の帰りは遅いと思ってどんちゃん騒ぎしたり、酔ったり、おなじ仲間を打ち叩いたりしてはならない。
主がいつ来ても大丈夫なように、忠実なしもべとして霊的に目を覚ましているべきであり、いつでも迎え出られるよう、聖霊の油を常に用意しておくべきなのだ。

『こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。』(出エジプト記24:15-18)

主が現れるまで、モーセは六日感待たされ、民は四十日待たされたわけである。
私達は何かと、今日明日にでもインスタントに導きを欲しがるが、忍耐して待ち望む事が必要なのだ。
それは、私達の内に秘められた信仰がためされ、真実が露わにされるためである。

出エジプトの民はその日その時を待てず身勝手に神々を作り、サウル王も人々からのプレッシャーにその日を待てず、自分勝手な礼拝を捧げてしまった
それに対し、忠実にその時を待ったヨシュアは、約束の地を継ぐ事ができた。
私達に必要な姿勢は、ヨシュアのように、ミニスターとして、アテンドとして仕える姿勢であり、主人の帰りが遅くなっても、いつ来ても大丈夫なように準備して霊的に目をさましている事なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:血潮による契約(出エジプト記24:1-8):右クリックで保存

いよいよ主とイスラエルの民との、契約の調印とも言えるべき箇所である。
はじめに主の御元に近づく事が許されたのは、モーセ一人だけだった。(出エジプト記24:1-2)
主はあまりに聖なるお方であり、人がそのまま御前に出ると死ぬしか無いため、必ず仲介者が必要なのだ。

『モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。』(出エジプト記24:3-5)

民が主の全ての言葉に同意したため、その実体のしるしとして、イスラエルの十二部族に従い十二の柱を建て、主の言葉を文書として書き記した。
契約は口頭での同意の他、文書の取り交わしにて為されるが、日本では印鑑が、西欧ではサインが、そして、神に対しては血が有効なしるしである。

『その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。』(出エジプト記24:6-8)
日本では、甲乙の契約書に一つの印を押して「割印」とするが、それと同じように、モーセは血の半分を祭壇に注ぎ、もう半分を民に注ぎかけて契約の血とした。

『だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。
彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:18)

血はまた、きよめの役割も果たす。
キリストの血は、人を完全にきよめ、死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者とするものである。(ヘブル9:14)
血はまた、いのちを買い戻す代価として有効である。
『それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:15)

この荒野の民は、後に契約を破ってしまう事になるが、人類もまた同じように、神が提示した律法の基準に到達する事は人にはできず、誰もが罰せられるべき存在である。
それ故、人は誰もが、この罪の罰金を誰かに支払ってもらう必要がある。
それを成して下さったのが、イエスであり、ご自身の血潮によって完済して下さった。

『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』(マタイ26:26)

私達はこの贖いを、ただ感謝して受け取るのみである。
そして、イエスが流して下さったこの尊い血潮を、裂いて下さった尊い御からだを、ないがしろにしてはならない。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
内面の美しさの秘訣(エステル記2章):右クリックで保存

祝祷

【概要】

エステル記第二章の初めの出来事を通して、神の導きと人の従順、内面から輝く真の美しさについて考えます。神の計画の中で、私たちはどんな環境にあっても従順と信仰により祝福されるという慰めと励ましを受けています。

【聖書箇所】

・エステル記 2章1節〜7節、8節〜11節、12節〜23節

・エステル記 2章15節〜20節

・エステル記 2章21節〜23節

・1ペテロの手紙 3章1節〜6節

【慰めの言葉】

主の御手は私たちの歩む道を常に見守っています。外見や環境がいかに厳しくとも、神は忠実な心を持つ者を必ず守り、御計画に従って大いなる祝福へと導いてくださいます。

【励ましの言葉】

エステルやモルデカイ、旧約の信仰の先人たちのように、日々の小さな従順と信仰の実践が、やがて偉大な祝福と救いを我々にもたらします。神様の時は必ず来ます。

【戒めの言葉】

世の栄華や外面的な美しさに惑わされることなく、自己主張や虚栄心にとらわれず、常に神の御言葉に従う謙遜な生活を送りましょう。その結果、信仰に基づく真の美しさが身に宿ります。

【勧めの言葉】

内面の美しさを養い、日々の生活において主の導きを求め、忠実に歩むことが何よりも大切です。エステルのように、試練の中でも身を慎み、従順な姿勢を保ちましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

もしこれまで外面的なものや人の評価に重きを置いて歩んできたなら、今一度立ち返り、主が望む内面の堅実な美しさと従順の信仰に向き合い、心からの悔い改めと新たな決意をしましょう。

【***詳細***】

本日はエステル記第二章に記された出来事を拝読し、その中に現れる神の導きと人間の歩む道について深く考察して参ります。冒頭、エステル記2章1節から7節にかけて、アハシュエロス王の憤りが収まり、王はかつての王妃ワシティの行いやその決定を思い出し、次なる新たな王妃を得るために全国から美しい未婚の娘たちを集めることになりました。ここで、王は「容姿の美しい者」を求めるという指令を下しましたが、私たちはこれを単なる外面的な美しさだけの問題と見るのではなく、神の御心にかなう謙虚な心と品性が如何に重要であるかを読み取る必要があります。

また、この出来事の中で、ひときわ目を引くのがモルデカイというユダヤ人です。彼は、かつてバビロン捕囚の時にユダの王エコネヤとともに捕らえられ、エルサレムから移された民の中で、王宮に仕える大いなる存在となりました。**「この乙女は姿も顔立ちも美しかった」**と書かれるエステルは、単に外観だけでなく、モルデカイのもとで厳かに養育され、品性と慎み深さを学んだ女性でありました。エステルは自身の民族や生い立ちを隠し、王の前にその純粋な美徳を表すことで、神の秘めた計画に従って進む道を歩み始めたのです。

エステルがその後、長い12ヶ月にわたる厳しい美の鍛錬、すなわち前半の6ヶ月は没薬の油による厳しい手入れ、後半の6ヶ月は香料と婦人の化粧による美の研磨を経て、最終的に王の心を捕らえる存在となった背景には、彼女の内面に宿る「入和で穏やかな霊」という、**「朽ちることのない隠れた人柄」**の本質がありました。これは、1ペテロの手紙3章1節から6節に明示されているように、外面的な飾りではなく、心の内側に宿る従順さ、謙虚さ、そして神への深い敬虔さこそが、永遠に輝く美しさの源であるという教えと重なります。

私たちも、現代の職場や日常生活において、しばしば外見や地位、世間の評価に惑わされがちです。しかし、エステルや旧約聖書の中に登場するヨセフやダニエルのように、苦難や試練の中で神への従順、そして、日々の小さな忠実さを示すことが最も大切です。たとえば、ヨセフがエジプトの異国で奴隷として置かれながらも、家のすべての管理を任され、神に祝福されたように、私たち一人ひとりもどんな環境にあろうと、神の御計画の中で忠実に歩むならば、必ず大きな恵みが与えられると信じます。

エステル記には、また王の側近たちが策謀を企てる場面もあります。モルデカイが王宮の門で仕えている時に、二人の宦官ビクタンとテルシュがアハシュエロス王を暗殺しようと企てた事実が記され、その情報をエステルが王に報告したため、二人は罰せられたとあります。この出来事は、神の御心に背く者を必ず罰するという戒めであり、また、正義の行いが結果的に神の計画に沿って実現していくという確信を深めさせるものであります。私たちにとっても、正しい行いや正義を重んじる心こそが、神にとって喜ばれる行いであると改めて気づかされます。

さて、ここでエステルの姿から私たちが学ぶべき大切な点は、まず何よりも「内面の美しさ」です。エステルは、皇宮での審美的な鍛錬の中にあっても、王に召し出された後一度も自分の出自や民族を口にしなかった、まさに謙虚で従順な女性でした。彼女は、宦官ヘガイの勧めに乗りながらも、自らの品性に基づく選択を惜しむことなく、余計な要求を一切せず、ただ神とモルデカイの導きを信頼して従いました。この姿勢が、最終的に王アハシュエロスから並々ならぬ愛情と信頼を受け、ワシティに代わる王妃として迎えられる結果につながったのです。

また、1ペテロの手紙3章に示されるように、妻たちが自らを「柔和で穏やかな例」として飾ることは、単に外見を美しく整えるための装飾ではなく、心の中に神の御前に価値ある品性を宿すためのものであるという教訓が含まれています。これは、現代に生きる私たちにとっても大いなる励ましであり、年齢や境遇を超えて、内面の美しさこそが真の魅力であるという確固たる真理を再認識させます。

また、エステル記に散見されるモルデカイの働きは、ただ王宮の一員としての立場を超えて、神の計画の中で”隠れた英雄”としての役割を果たしていたことを示しています。彼は自らの地位に驕ることなく、常に主の意向に従い、エステルを養育し、守り抜くという責務を全うしました。その謙虚さと忠実さは、後にイスラエル民族全体に対して大いなる救いと栄光をもたらす結果となります。これもまた、神が私たち一人ひとりに、決して偶然ではない計画と導きをお与えになっていることを証明しております。

私たちは、しばしば瞬間的な成功や外面的な栄華に心を奪われることがあります。しかし、エステルのように、内側からの堅実な信仰と忠実な従順さ、そして常に神に信頼して歩む生き方こそが、真に永遠な祝福へと至る道であると聖書は教えています。「主は人の行いを喜ぶ時、その人の敵をも和らげる」(参考:エステル記および旧約の諸書より)という御言葉は、私たちが正しい行いを選び、たとえ苦境にあっても神を頼りにすることの大切さを示しています。

今日、この説教を聴く皆さまには、どんな現実の困難や誘惑があろうとも、外面的な評価に左右されることなく、むしろ内面の慎み深さと従順な信仰を大切にしていただきたいと思います。私たちが日々の生活で、神の声に耳を傾け、与えられた使命を堅実に果たすならば、主は必ずやその祝福と導きをもって、私たちの歩みを豊かにされることでしょう。そして、いつの日か私たちも、見かけの美しさや一時的な成功にとらわれるのではなく、神の御前に価値ある本当の美しさを体現している者として、周囲の人々に光と希望を示すことができるのです。

この説教を通して、エステルやモルデカイ、そして他の聖書の偉人たちが私たちに遺した教訓―それは、神の御計画の中で謙虚に、かつ従順に歩むことこそが、どんな困難な現実の中にあっても、いつか大いなる祝福と救いへと導かれる道である、という真理です。どうか、私たち一人ひとりがその真理を心に刻み、日々の歩みの中で神の御心に従って生きることができますように。心から祈り、そして主イエス・キリストの御名によって互いに励まし合いながら、素晴らしい信仰生活を歩んでいきましょう。

【結論】

エステル記第二章は、神の導きと忠実な従順の力を輝かせる物語です。私たちも、エステルやモルデカイのように、外面的な栄華に惑わされることなく、内面の美しさと神への従順を磨き続け、どんな状況においても神の御計画に信頼し歩み続ける信仰者となりましょう。主の恵みと祝福が、常に皆さまと共にありますように。

礼拝説教メッセージ音声:果たすべき責任と与えられる祝福(出エジプト記23:23-33):右クリックで保存

私達が主に対して果たすべき責任と、それを守った時に与えられる祝福が、今回の箇所で示されている。

『わたしはあなたがたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。』(出エジプト記23:26-28)

私達は、このような主の祝福と守りが与えられるように祈る事はよくするが、それらの祝福が与えられるのは、条件つきであり、私達の側にも守るべき定めや果たすべき責任があるという事を、忘れている人が多い。
私達が守るべき分とは、私達が主イエスに心を留め、御声に聞き従って背かない事(出エジプト記23:21)、また、以下御言葉に示されている通り、神以外のものを神としない事である。
『あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。あなたがたの神、主に仕えなさい。』(出エジプト記23:24-25)

主は、偶像に関しては、徹底的に打ち壊し、粉々に打ち砕く事を命じている。それも、かなり徹底として。
人は思うかもしれない。それはなんでもやりすぎでは。人権も何も無いのでは、と。
しかし、イスラエルが辿った道、すなわち、カナンの神々を慕い求めて堕落してしまい、滅ぼされ捕囚されてしまった歴史を見るに、やはり、主のその戒めは正しかったと分かる。

ちょっとだけならいいのでは、という妥協は、禁物である。
ソロモンの堕落にしても、異国の妻を娶ったは、最初はほんのささいな出来心あるいは好奇心だったのかもしれない。
自分には知恵があり、リスクも承知している、だからちょっとだけなら大丈夫だ、深入りしすぎなければいい、と。
しかしソロモンは晩年、その妻達を愛し、彼女たちにそそのかされ、晩年は異国の偶像の宮を各所に作ってしまう程、堕落してしまった。(1列王記11章)

人間、痛みや困難と戦う事には強いが、気持ちよくさせたり高揚させたりしてくれるような誘惑には弱いものだ。

イスラエルはバアル神に魅せられたが、バアル神話は、父である神を倒して権力を奪い、美しく殺戮好きな妻(かつ妹)と共に、敵と戦いを重ねて大活躍する。現代の映画やドラマにすれば、実に受けそうな内容である。
戒律は無いため、欲望の赴くまま好き勝手に出来るし、力づくで隣人や他国を奪うのも良しとされ、性に奔放で、神殿娼婦と交わる事が、神聖な礼拝行為とされ、”できちゃった”不都合な子供は、神に捧げるという名の下に、火の中をくぐらせ抹殺してしまう。
このように肉欲や情欲を沸き立たせるストーリーや、肉欲をそそる礼拝にイスラエルは魅せられ、引きこまれ、まことの神から離れてしまったために、やがて申命記28章にある呪いを、ことごとく受けてしまったのだ。

もし皆さんが、主よりも、テレビの向こう側のアイドルやドラマ、コンピューターグラフィックスを駆使した映像やゲームなど、人の作ったイメージ(idol:偶像)のほうに時間や心やエネルギーを捧げ、それらの内容はすぐに思い出せても、イエス様が成して下さった良き御業をなかなか思い出せないとしたら、偶像礼拝に足を踏み入れている。
イエス様よりも、アイドルやイメージに捧げたお金や時間、空想の方が多く、そして、中々祝福が与えられていない、という「自覚」があるのであれば、そうしたアイドル(偶像)は捨て去り、悔い改め、主に立ち返るべきである。

列王記や歴代誌は、神様のみおしえに歩む良い王様の時代と、神様に背く悪い王様の時代が交互に来る。
神を恐れ御言葉に歩む良い王様の時代は、必ず祝福され、民は幸せになり、戦争に勝利し、必ず栄えた。
しかし、律法を破って偶像を拝む悪い王様の時代は必ず呪われ、不幸になり、戦争には負け、必ず衰退した。
ちょっと良くなって栄えると、すぐ霊的高慢になって堕落してしまい、神を忘れ、呪いに入ってしまう。そして悔い改めると、また再び良くなっていき、、、という繰り返しが、イスラエル王国の歴史である。

皆さんは列王記のような毎日を送っていないだろうか。ちょっと良くなるとすぐ霊的に高慢になって堕落してしまうような。
神以外のものに夢中にさせ神を忘れさせるような「偶像」を徹底して除き去り、主が喜ばれるみおしえを守り行い、祝福の人生を歩み続ける皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:主の使いに導かれよ(出エジプト記23:20-22):右クリックで保存

『見よ、わたしは使をあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。』(出エジプト記23:20)
御使いというと羽の生えた天使を思い浮かべやすいが、モーセ五書を通読された方は、恐らくそういう天使が荒野の民を導いた記憶はないかと思う。
御使い、あるいは天使、と訳されているヘブライ語「マラヮク」は、メッセンジャー、使者、預言者の意味もあり、色々な状況で、時には思わぬ姿形で、神の民の前に現れるのだ。

主がモーセに現れた時、主の使いは燃える柴の中に現れ、モーセをエジプトへと遣わした。(出エジプト記3:2)
また、イスラエルの民が荒野を進む時、主の使いは雲の柱、火の柱となって、彼らを導き、紅海沿いでエジプト軍に追いつかれそうになった時、主の使いは彼らの後ろに移り、エジプトの軍とイスラエルの間に立ちはだかって彼らを守り、エジプトに敵対した。(出エジプト記14章)

主の使いは、様々な場面に、様々な形で、私達に語りかける。
雲の柱や火の柱として導かれる事もあるし、モーセのように神から使わされた人間もあるし、ある時は主ご自身が雷鳴のとどろきのような声で、ある時はか細い声で直接語り、ある時は、導かれる状況そのものが主のメッセージだったりもする。

『あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに、彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。しかし、もしあなたが彼の声によく聞き従い、すべてわたしが語ることを行うならば、わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとするであろう。』(出エジプト記23:21-22)
主の使いからメッセージを受けた時、私達が取るべき態度は、ただ一つ。その言葉に聞き従い、行う事である。
私達は「わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとする」という言葉は大好きであるが、そうした主の守りと祝福に入るには、条件があり、その条件が、御言葉に聞き従って背かない事、主が語る事を行う事である。
それが、祝福のコツである。
実にシンプルであるが、人はなんと頻繁に主のメッセージをないがしろにしたり、無視したりして、祝福を逃している事だろう。

私が中学生の時、宿泊学習先で初めてオリエンテーリングというゲームを行った。
それは地図とコンパスを用いて、山の中の各所に設置された地点を、いかに早く全て通過するか、というゲームであるが、その時、陸上部と野球部のメンバーが、地図とにらめっこするよりも自分の足で走って探すほうが早いし、そちらのほうが根性と力が示せる、などと、奇妙な美意識を打ち出し、やみくもに走り出してしまい、グループメンバーがはぐれるわけには行かないため、全員でその後を追う形となった。
はじめのうちは、自分の足で走って適度な疲れも来るので、効率よく探しているような気もし、自分達は他のチームよりも根性があるなどと錯覚し、すぐにでもポイントを稼げるような気分でいた。
しかし、走っても走っても地点には行き当たらず、ただ疲れるだけで、残り時間が少なくなった時、他のチームは7,8点なのに自分のチームは2,3点。疲れと点数の低さに絶望的な雰囲気となり、結局、最下位となってしまった。
このように、身勝手なビジョンを打ち出し、正しい手順に則る事なく自分の力や自分の頭脳に固執して、やみくもにがんばる人は、成果もなく、ただ疲れるだけの無意味な時を過ごし、周りを巻き込んで敗北してしまうのだ。

今、皆さんが目標とすべき地点は、御言葉という”地図”によって、理解できているだろうか。
聖霊という”コンパス”の導きを、仰いでいるだろうか。
妙なプライドを掲げて、やみくもに走り回ったりして、与えられている人生の残り時間を、いたずらに費やしたり、周囲を巻き込んだりしていないだろうか。

私達はまず、御声に聞き、御心を知る事から始めるべきである。
仕事において、家庭において、あるいは人生の様々な目標において、それが御言葉という地図に照らして、正しいものであるかを確認する必要がある。
自前勝手な美意識やプライドは捨てて、聖霊の導きに従って歩んでいるかを、点検すべきである。

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