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血肉に逆らっても罪には妥協するな(出エジプト記32:21-29)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
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- pastor 2013-3-8 23:44
礼拝説教メッセージ音声:血肉に逆らっても罪には妥協するな(出エジプト記32:21-29):右クリックで保存
「アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。」(出エジプト記32:22)
アロンは、自分が罪を犯した事を告白せず、民の悪さへとモーセの目を向けさせようとした。民が悪いのは、あなたも知っているでしょう、と。
小さい子供は、誰からも教えてもらってもいないのに、言葉を覚えた当初から、罪を他人になすりつけたり、自己弁護したりするように、人は誰しも、生まれながらに自分の罪を隠し取り繕う「くせ」が、身についてしまっている。
しかし、もし自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(1ヨハネ1:9)
アロンは、民が「神を造ってください」と言った時点で、与えられていた十戒を元にNOを突きつけるべきだった。
それなのに彼は、民の心情を損ねたくなかったのか、それをせず、「金を持っている者はそれを取り外して下さい」と言ってしまった。(出エジプト記32:23-24)
そう言えば民衆は黙ってくれる、と、期待したのかもしれない。しかし、ひと度妥協してしまった事で、ますます民を付け上がらせる事になってしまった。
「彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです。」(出エジプト記32:22-24)
結局、彼自身がそれを火に投げ入れた事は告白しているが、あたかも、子牛が自動的に出てきたような言い分である。
「なんで事故を起こしたの!」という親の言葉に、「だって、電柱が車に向かって突っ込んで来たんだもの。」と返す子のようであるが、電柱が車に向かって突っ込んで来るよう車を導いたのはその子であったように、民衆を堕落へと導いたのは、アロンである。
『モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。』(出エジプト記32:21)
アロンとしては、民が勝手な事を言い出し、それに少しだけ譲歩しただけ、それなのに民は、あれよあれよという間に勝手に偶像を造った、と思っているかもしれない。
しかしモーセは、アロンが民に罪を犯させた、と、明瞭に言っているし、35節でも「金の子牛はアロンが造った」と書いてある。
アロンは、その手で子牛を造らなかったかもしれない。しかし、指導者たる者が、戒めるべき所を戒めなかった事によって「彼が造った」と見なされてしまうのである。
悪い事を「する」ばかりが罪ではない。罪の防止を「しない」事も、悪をほしいままに振舞わせる事も、悪を「する」事と同列なのだ。
『モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。』(出エジプト記32:25)
ここは、KJVでは、アロンは彼らを裸にさせ、彼らの敵の間で裸の恥をさらすようにした、と訳す事ができる。
モーセが山から降り、皆の前で金の子牛を粉々に砕いても、なお、裸のままでいる者達がいた、という事だろう。
酔っぱらいのように、ひと度つけあがると、そこに指導者が現れても、なお開き直るような者はいるが、それは放っておいてはならない。
罪をそのまま野放しにしてはびこらせると、主の敵に大いに嘲りの心を芽生えさせるからだ。(2サムエル12:14)
『モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。』(出エジプト記32:26-28)
イスラエルの男子約六十万に対し、倒されたのは三千人。
会衆の中に、なおそれだけ罪をはびこらせる者がいた、という事だろう。
この命令は、厳しく聞こえるかもしれない。
しかし、神の民は、それほどまでに、罪のはびこりに対しては厳しく扱い、妥協してはならないのだ。
罪を指摘されても、悔い改めもせず、なお公然と罪を犯すような者は厳然と取り除き、会衆を清く保たなければならないのは、旧約でも新約でも同じである。(民数記25章、1コリント5:1-8)
神の民には、確かに幸いも特権も祝福も多いが、それなりの果たすべき責任もあるのである。
『そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。』(出エジプト記32:29)
新約でもイエス様は同じ事を言っている。
『地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。』(マタイ10:34-39)
私達自身の内から罪を除き去り、また、主に反対する親や兄弟、愛する人には、逆らってでも、主を選択する事は、神の民なら避けて通れない事のようである。
礼拝説教メッセージ音声:割られてしまった神の石板(出エジプト記32:15-20):右クリックで保存
ヨシュアは、モーセが最後に「待っていなさい」という言葉を残して、主の臨在の雲の中へと入って行って以来、40日間、ずっと忠実に待っていた。
彼は、民から離れた所、そして主の臨在の雲から近い所で、ずっと待ち続けていたのだろう。
そして、やっとモーセが彼の前に姿をあらわした時、彼らは民衆の大きな叫び声を聞いた。
『ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。』(出エジプト記32:17-18)
私達は、神の敵、すなわち、罪やサタンと戦い、勝利の叫びを上げる事が最も望ましい。
それに負けてしまった時に、悔しさや悲しみの叫びをするのは、まだましな方で、最も良くないのは、罪やサタンを迎合し、罪由来の汚れた楽しさを謳歌するための叫びを上げる事、これを神は怒り、悲しまれる。
『モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。』(出エジプト記32:19)
この板は、神聖にして侵すべからざるもの、この板が安置されている箱が行き巡ったペリシテ人の国は恐慌にみまわれ、契約の箱の中を覗いたイスラエルの民も多く打たれ(1サムエル6章)、また、その箱が安置されている至聖所においては、祭司が少しでも手順を間違えれば、神に打たれて死んでしまう程、神聖なるものだった。
それなのに、モーセはそれを粉々に砕いてしまった。
そのように、神聖なるものが壊されてイスラエルの中から取り去られてしまう事は、イスラエルの歴史の中では幾度かある。
契約の箱がペリシテ人に奪われた時も、バビロン捕囚時にカルデヤ人が神殿を荒らし回った時も、使徒の時代にローマ人が神殿を破壊し尽くした時も、主は、その汚れた民が略奪するがままにされていた。
それはいずれも、神の民の堕落がはなはだ激しかった時であり、尊く聖なるしるしは神の民の中から取り除かれ、神の栄光は去ってしまったのだ。
『また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。』(出エジプト記32:20)
「金」で出来たものが、火で焼かれ粉々に砕かれる。
よほど不純な粗悪品だったか、あるいは主ご自身が徹底的に粉々に砕かれたのか。とにかく、人は自分の蒔いた種を自分で刈り取り、報いの杯を飲まされるのである。
「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。(黙示録14:9-12)
罪ある人は、神の基準に達する事はできない。
それだから、神が石の板に書かれた定めを人が守ろうと頑張っても、遅かれ早かれそれを破ってしまう時が来る故、もっと抜本的な解決を提供するような、新しい契約が必要である。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)
新約においては、石の板ではなく、私達の心に直接、神の指によって御言葉が記され、その言葉は決して離れる事なく、私達は心に刻まれた律法に従って歩む事が出来る。
それは、イエス・キリストを信じる信仰により、聖霊によって記されるものである。
『あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3,6)
そして、この新しい契約は、人を罪に定めたり死に定めたりする務めではなく、いのちの務めであり、古い契約の務めよりも、はるかに栄光のある務めである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。(2コリント3:7-8)
礼拝説教メッセージ音声:執り成して祈れ(出エジプト記32:7-14):右クリックで保存
『主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。』(出エジプト記32:9)
民は主の御前に大きな罪を犯し、この時滅ぼされても仕方なかった。
幾度も主が命じられた事を無視し、分からず屋で何度言っても過ちを犯し、40日ほどしか経っていないのに早くも堕落してしまった民に、モーセ自身もうんざりしていたに違いないが、彼は、神が「彼らを滅ぼしあなたを大いなる国民としよう」と言われた時、「はい、ぜひそうして下さい」などとは言わなかった。
彼は逆に、イスラエルの民を救うために執り成した。
このモーセの執り成しに、私達は注目すべきである。
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。』(出エジプト記32:11-13)
彼は、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの人の何かを根拠に弁護する事は、一切なかった。
彼は「イスラエル人の何か」を根拠に執り成し祈る事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点から、執り成したのである。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。だから、人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
そして何より、主はアブラハムに子孫を増やし、約束の地へと導かれる御言葉の約束をされたではありませんか、その約束を覚えて下さい、と。
そもそもイスラエル人のみならず、人間は誰しも、神の御前に受け入れられるような良い点など、一つも持っていない。義人はひとりもいないのだ。(ローマ3:10-18)
人は、あれをした、これをした、といった「行い」によっては救われない。人間由来の何かをもって神に取り入ろうとしても、無駄である。
ただ、主は憐れみ深きお方であり、罪に汚れて弱き私達を救って下さる、その一方的な救いに私達は拠りすがるのみなのだ。
モーセは神と人との間に立って取り成したが、私達を執り成して下さるお方は、イエス様である。
このお方にあってのみ、私達は神に近づく事が出来るのである。
『それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:14)
神は既に御心を定めておられるから、私達は祈ってもムダだ、と思ってはならない。
神は私達に、祈りによって神とかかわる事を望んでおられる。
事実、アブラハムは主の真実さを盾に取ってソドムを滅ぼさないよう交渉できたし、ツロの女もイエス様が「子犬」と言った言葉尻を捉え、なお食い下がったため、娘の癒しを与えられた。
身勝手な祈りや同じ文句の繰り返しなどは聞いてくださらないが、私達が主の真実さに信頼し、御心に叶った祈りをするなら、主は聞いて下さるのだ。
主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びない事である。
『主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。・・・あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:23,31-32)
そのようなご性質故、アブラハムやモーセが執り成して祈った時、主は「よくぞ執り成してくれた」と喜ばれたのではないだろうか。
今は確かに終わりの時代で、世の終わりに定められている災いが来るのは免れないが、だからと言って執り成し祈る事を止めてはならない。
主は、破れ口に立って執り成して祈る人を、求めておられるのだ。(エゼキエル22:30)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
語らぬべき時(エステル5:3-8):右クリックで保存
【概要】
本日の説教では、エステル記5章3節〜8節の場面を通して、エステルの慎み深さと絶妙なタイミング、そして神の御導きの中で信仰者としてどのように行動すべきかを学びます。
【聖書箇所】
・エステル記 5章3節〜8節
・伝道者の書 5章1節〜3節、7節(関連箇所として参照)
【戒めの言葉】
・自らの唇を節制し、焦って不用意な言葉を発しないよう戒めます。
・神の御前では言葉に重みがあり、軽率な発言は霊的危険を招くことを心に留めてください。
【励ましの言葉】
・エステルが示したように、正しい時と場面では謙虚な姿勢で神と人とに向き合うことが大切です。
・焦らず、神の導きとタイミングを信頼することで、必ず救いへの道が開かれると励まされます。
【***詳細***】
本日の箇所であるエステル記5章3節〜8節は、神の御計略の中にある人間の立ち回りや心の持ち方について、多くの示唆を与えてくれます。物語は、エステルが王に呼び出されるという非常に緊迫した状況から始まります。王は「どうしたのだ、王妃エステル。何が欲しいのか。王国の半分でもあなたにやれるのだが」と尋ねます。ここでまず私たちが注目すべきは、王の寛大な言葉と同時にエステルの慎重な態度です。エステルは、王の好意に甘えるのではなく、断固としてイスラエルの救いという使命を果たすために、自らの口を極力制しながらも、タイミングを見極めた上で発言することを選びました。
エステルは、30日間王と直接会わず、断食と祈りに励む中で、神の御導きを求め、また自分の立ち位置とその言葉の重みを深く考えたことが伺えます。彼女の心情や行動を通して伝えられるのは、「焦って不用意に物事を語らず、まずは状況を見極め、神の与えられた時にのみ行動すべきである」という教えです。私たちもまた、日常生活の中で多くの選択を迫られたとき、また上司や大切な人との対話において、エステルのように自らの言葉に慎重になり、まずは相手の状況を尊重する姿勢を持つことが求められます。
エステル記の中で、エステルは王に対していきなり求めを述べるのではなく、まず「もしも王様がお許しになられ、今日私が設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください」という一見柔らかい言葉から切り出しました。聖書にも「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしくて私の願いを許し、私の望みを叶えていただけますなら」という言葉が強調されているように、相手の意向やその時の空気を読み、そして適切な言葉を選ぶことの大切さが示されています。これは、私たちが大切な場面で語るべき言葉を熟考し、状況に応じた柔らかい表現と謙虚な態度を保つべきであるという戒めともいえます。
また、伝道者の書に記されている「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ」という御言葉は、私たちに何気なく使う言葉や行動が、実は大いに注意深く扱われるべきものであることを説いています。エステルが王前で示した謙虚さは、この御言葉と共鳴しています。つまり、偉大な御業をなすためには、まず自らの言葉に責任を持ち、むやみに語らないという自己制御の精神が必要なのです。
エステルの一見控えめな振る舞いの背後には、真実の信仰と神への従順、さらには民族全体の存亡がかかっているという重大な使命感がありました。彼女はまた、ハマンという敵対者の動向を探るために、あえて宴会に王とハマンだけを招き、その場の空気を観察するという知恵も示しています。この行動は、決して軽率なものではなく、むしろ神の時と導きに身を委ねた慎重なる戦略であり、危機的状況においても冷静さと思慮深さを失わない模範として、私たち信者に大いに学ぶべき点です。
また、エステルがその願いを発する際に用いた言葉、すなわち「もしも王様がよろしければ、」という始まりは、相手に対する敬意と控えめな姿勢の表れです。現代においても、私たちが職場や家庭で大切なことを伝える場面では、まず相手の境遇や心情に配慮し、余計な主張や感情を控えるべきだと示唆されています。たとえば、上司に何かを訴えたい時や、家族との意見交換において、まずは相手の話をよく聴き、相手の心情を理解することが、実りある対話と建設的な解決への第一歩となるでしょう。
さらに、今回の説教で強調したい点は、私たちが言葉を発する際に神への畏敬の念を忘れてはならないということです。人はしばしば、いかに自らの考えを言葉に尽くそうとも、焦りや思い過ごしから無駄な発言をしてしまい、結果として自らを窮地に陥れることがあります。エステルが示したように、智慧ある人は「言葉数を少なくせよ」と忠告される通り、むやみに多くを語らず、必要な時に必要な言葉だけを発するのです。これは、日常生活におけるコミュニケーションはもちろん、霊的生活においても極めて大切な姿勢です。
現代社会において、情報があふれ、誰もが自分の意見を容易に発信できる状況ですが、私たち信者はエステルのように、常に神の御前において謙虚であり、時機を得るまで自らの言葉を慎むべきです。焦って無理に物事を前進させるのではなく、「主の時がある」と信じ、静かに、しかし確固たる信仰と知恵をもって行動することが求められます。そうすることで、神は確実に私たちと共に歩み、時には危機的な状況さえも救いの道へと導いてくださるでしょう。
このエステルの姿勢は、私たちにいくつもの霊的な教訓を残しています。彼女は一見、控えめで遠回しな言い方に見えるかもしれませんが、その裏には深い戦略と信仰の確信が流れていました。王の好意を得るためだけでなく、民族全体の命運を背負っての行動であったため、自らの口を慎み、神の御計らいに身を委ねることが如何に重要であるかが浮き彫りになっています。私たちもまた、日々の生活の中で神の導きを求め、コミュニケーションには十分な注意と謙虚さをもって臨むべきです。
例え仕事や家庭での小さな衝突、あるいは意見の食い違いがあったとしても、すぐに感情的な言葉を発するのではなく、まずは相手の気持ちに寄り添い、神の知恵によって冷静に判断することが信仰者として成熟する鍵です。そして、神が定められた正しい時に、私たちもまた必要な言葉を発する勇気と知恵を受けることでしょう。エステルのように、慎重に、しかし強く、そして謙虚な態度を忘れずに進むならば、どんな難局も乗り越えられると信じています。
この説教を通して、私たち一人ひとりが自らの言葉に責任を持ち、神の御前にあって控えめかつ賢明な判断を下すことの重要性を再認識し、またそれを実践する決意を新たにできるよう、心から祈り申し上げます。どうか皆さんもエステルの模範に習い、日々の生活の中で自らの唇を節制し、神の時を待ち、その導きに従って行動する信仰者となりますように。イエス・キリストのお名前によって、皆さんの家庭、職場、そしてあらゆる場所に神の平安と祝福が豊かに注がれますように、心からお祈りいたします。
【結論】
エステルの慎み深い行動と絶妙なタイミングは、神の御導きのもとに生きる私たちにとって大いなる模範です。私たちもまた、焦らず、謙虚に、そして神を畏れる心を持って日々のコミュニケーションに臨むことで、どんな困難も乗り越え、神の御計らいに沿った素晴らしい未来へと歩みを進めていきましょう。
礼拝説教メッセージ音声:金の子牛への二つの罠(出エジプト記32:1-6):右クリックで保存
『民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。・・・アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
・・・そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。』(出エジプト記32:1,4,6)
民は早くも堕落してしまった。
40日ほど前、あれほどの恐ろしく圧倒的な主の顕現を見たはずなのに。
また、この日の朝、主からのマナを食べ、主が備えて下さった水を飲んだはずなのに。
雲の柱と火の柱による主の臨在が、相変わらず彼らと共にあったのに。それなのに、一体、どうした事なのだろうか。
アロンは「あすは主(エホバ)への祭りである」(5節)と言った。エホバ、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神、天地を創られた全能なる神への祭りだと宣言したが、もしかしたら彼らは、造った偶像にエホバなる主を投影する事によって、主に仕えているような「気」になっていたのかもしれない。
だが、「その気」だったとしても、それは到底エホバなる主が受け入れるものではない。
主に仕えているような「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。
私達はそれを十分注意して取り扱わなくてはならない。
「さあ、”わたしたちに”先立って行く神を、”わたしたちのために”造ってください。」(1節)この言葉からも、主体は神ではなく「わたしたち」にある事が分かり、彼らの「その気」は、心から主を愛するものではなく、自己中心的なものであると分かる。
そして彼らは、御言葉に従っておらず、むしろ、いくつも御言葉に反している。
主が十戒の第一戒で言われたのは「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」だった。
また、第二戒で言われたのは「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」だった。(出エジプト記20:1-6)
さらに続けて主は言われた。「あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。」(出エジプト記20:22-23)
この言葉が与えられ、まだ40日ほどしか経っていないのに、アロン彼らから金を集めさせ、のみで鋳型を造り(のみを当てるなら汚す事になる、と、主は20:25で言われているのに)、金の子牛を造って、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と、のうのうと宣言している。
このように彼らは、こちらが見ていて怖くなってしまうほどに主の戒めを破り、主の御怒りを引き起こしている事が分かるはずだが、彼らは、分からなかったのである。
なぜか?
それは、彼らの内に御言葉が無く、身勝手に、自分の目に正しいと思われる「思い込み」によって、突き動かされていたからである。
災い多く忌むべき士師記の時代のキーワードは、「おのおの自分の目に正しいと見る所を行なっていた」だった。
御言葉の根拠が無い、神に仕えているという身勝手な「思い込み」。それこそ、災いと呪いの根源である。
私達が正しいと見える事、それは果たして主の御前に正しいだろうか。
それをいつも、御言葉に照らし合わせて、点検する必要がある。
もう一つ、この箇所から私達が陥りやすい罠を見る事が出来る。
その罠とは、「民衆の声」である。
アロンは、民衆の「わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。」という声に対し、御言葉で否む事をせず、民衆の思いをさせてしまった。
サウル王も同じ罠に陥った。彼も、サムエルから与えられた御言葉どおりに待ちきれず、自分流の思いに急かされ、そして「民が」離れていくのを恐れ、御言葉を乗り越え、自分のおるべき領分を超えた事を行なってしまった。
彼も言い訳で「神に仕えたつもり」だった事を言ったが、それは御心を損ねる事であり、王国は剥奪される事になってしまった。(1サムエル13:8-14)
政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶが(知恵蔵2013)、神の国において、このポピュリズムは、最もしてはならぬ事である。
現在、キリスト教界において、御言葉よりも、大衆に迎合される事を重視し、御言葉をそのまま伝える事を躊躇してクリスチャンが塩気を失い、御言葉の光を失い、塩気の無い塩として、外に投げ捨てられてしまっている状況を、よく見る事が出来る。
わたしたちは、アロンやサウル王が陥ってしまった、二つの罠に気をつけるべきである。
一つは、御言葉が与えられても、忍耐して待ちきれない、という罠。
主の現れは、人の目には遅いと感じる事もある。しかし、しっかり主に信頼し、言われた言葉を守り続けるべきである。
もう一つの罠は、民衆の声、みんなの声である。
それらに惑わされず、御言葉にしっかり留まって御言葉の成就を忍耐して待ち望み、民衆の声に惑わされず、御言葉のほうに信頼して従順するなら、ヨシュアやカレブのように、次世代へいのちを継がせる者となる事が出来る。
もし、みんなの声に惑わされ、主の御言葉を押しのけるなら、荒野の民のように、サウル王のようになってしまう。
御言葉に従順し、服従し、新しい改まった世界へといのちをつなげる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:幕屋建設指示の終わりに(出エジプト記31:1-18):右クリックで保存
いよいよ幕屋建設の命令の最後の指示である。
『「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。』(出エジプト記31:2-6)
幕屋に必要な全ての設備品を造るために、要求される技術は、非常に多岐に渡る。
大工的なものもあれば宝石職人的な技術も要求され、服飾的なものもあれば、アロマの調合まで必要である。
これら全てを主の聖なる用に足りるレベルにまで造り上げるには、主の霊なくては到底出来るものではない。
神が幕屋について指示されて来た事は緻密で膨大であり、果たしてその通り出来るかという心配が、もしかしたらモーセにあったかもしれない。
しかし神は、出来ない要求をしていっちゃもんをつけるようなお方ではない。
神が「せよ」と言われるからには、それが出来るよう、必要な資材も、神の霊で満たされた知恵と力を持つ働き人をも、ちゃんと備えて下さる。
主の霊が与えられた技術者は、「これこれの物をつくりなさい」と言われた時、頭の中ですぐにイメージが与えられ、御心の通りに造り上げるのだ。
それは、現代の教会においても、そうである。
私達の教会が行くべき道が示された先には、現行の教会員や資力では到底出来ないような事を示される時があるかもしれない。
しかし、その示しが神から来たものであるからには、神がちゃんとそれが出来る御霊の知恵と力に満ちた人を用意し、必要な財力も備えて下さるのだ。
神の国の奉仕は、自分が活躍したいからなるものではないし、社会的落伍者が逃避的な目的でキリスト教界の奉仕者になるものでもない。
幕屋建設の奉仕者が、神から名指しで任命されたように、神の国の奉仕者は、神によって「任命」されてなるものである。
神が任命して下さるなら、どんな事でも可能であり、実績が必ず後を追い、人々からも認めるものである。
『主はまたモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:12-13)
幕屋建設の指示の最後は、なぜか再び安息日尊守の命令で締めくくられている。
これから具体的な作業に入るに当たって、全ての奉仕で決して忘れてはならない重要事項が「安息」であるようだ。
神の国の奉仕者が休まず働いて疲れ果ててしまうのは御心ではない。
必ず休みが必要であり、そして休みの時は、しっかり神の創造のみわざを覚えつつ心も体も休めるべきである。
安息日の主は、キリストである。
全ての種類の奉仕にあたり、決して忘れてはならない重要事項は、イエス・キリストを信じる信仰であり、この御方を脇においた自分流の奉仕は、無効である。(ヘブル4:1-3)
信じた者は安息に入り(ヘブル4:1-3)、安息に入った者は自分のわざを終えて休む。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:9-10)
『主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。』(出エジプト記31:18)
こうして、25章以降から詳細に指示されて来た幕屋建設の命令は終わり、モーセは律法の石板を神から頂いたが、残念ながら、この板は次章で粉々に砕かれてしまう。
次章以降、民の堕落とモーセの執り成し、神の憐れみを見て行きたい。
礼拝説教メッセージ音声:特別な注ぎの油(出エジプト記30:22-38):右クリックで保存
幕屋の祭具は、用いられる前に特別な油が注がれる。その注ぎ油の調合は、次の通り。
『あなたはまた最も良い香料を取りなさい。すなわち液体の没薬五百シケル、香ばしい肉桂をその半ば、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、桂枝五百シケルを聖所のシケルで取り、また、オリブの油一ヒンを取りなさい。あなたはこれを聖なる注ぎ油、すなわち香油を造るわざにしたがい、まぜ合わせて、におい油に造らなければならない。これは聖なる注ぎ油である。』(出エジプト記30:23-25)
これは全ての祭具に注がれる。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台とに。
これらに油が注がれるなら、それらは聖別され、主に対して有用なものとなり、それらに触れるものも、全て聖なるものとなる。(29節)
この油は、祭司や王など特別な任職をする際にも注がれる。
「キリスト」とは元々「油注がれた者」という意味であり、イエス・キリストこそ唯一の王、完全な贖いを成し遂げた大祭司である。
私達キリスト者は、キリストのからだの各部分、各器官である。
王であり大祭司であるキリストにつながる私達も、キリストから流れてくる聖霊の油にあずかる事が出来る。
幕屋の祭具には色々な種類があり、それら全てに同じ油が注がれるように、キリストの体の各器官である私達も、かしらなるキリストの頭に注がれた尊い油が私達に流れ滴り来るため、皆が同じキリストの香りがするのだ。
『見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。』(詩篇133篇)
キリストに留まり、キリストから流れ滴って来る油は、尊く、麗しく、そこにはとこしえの命の祝福がある。
キリストに繋がっていなければ、油は滴って来ないし、主に対して有用な実を結ぶ事も出来ない。しかし、キリストに繋がっているなら、豊かな実を結ぶ事ができる。(ヨハネ15:4-5)
この油は特別なものであって、勝手に作ったり、神から任命されてもいない者に、注いだりしてはならない。
『これはあなたがたの代々にわたる、わたしの聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない。またこの割合をもって、これと等しいものを造ってはならない。これは聖なるものであるから、あなたがたにとっても聖なる物でなければならない。すべてこれと等しい物を造る者、あるいはこれを祭司以外の人につける者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記30:31-33)
神から任命されてもいないのに、自らを「油注がれた者」と自称し、純粋であるはずの神の言葉に混ぜ物をして売り物にするような者、御言葉を軽んじても良いような事を教える者はいるが、私達はそのような者に気をつけなくてはならない。
『主はまた、モーセに言われた、「あなたは香料、すなわち蘇合香、シケレテ香、楓子香、純粋の乳香の香料を取りなさい。おのおの同じ量でなければならない。あなたはこれをもって香、すなわち香料をつくるわざにしたがって薫香を造り、塩を加え、純にして聖なる物としなさい。また、その幾ぶんを細かに砕き、わたしがあなたと会う会見の幕屋にある、あかしの箱の前にこれを供えなければならない。これはあなたがたに最も聖なるものである。』(出エジプト記30:34-36)
聖所で御前に備える香りには、さらに特別なものがあり、それは至聖所のすぐ手前の幕の所に供えられる香りで、香料の樹脂を粉々に砕き、主の御前に供える。
主が喜ばれるのは、砕かれた魂、悔いた心であり、砕かれた心から立ち上る祈りの香りは、主に喜ばれる。(詩篇51:16-17、マルコ14:3)
私達は、かしらなるキリストにしっかり留まり、キリストに注がれた油が、からだである私達にも伝わって来て、キリストの香りをいたる所で放つべき者達である。
『神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。』(2コリント2:14-17)
礼拝説教メッセージ音声:贖いと洗い(出エジプト記30:11-21):右クリックで保存
人口調査でイスラエル人を登録する際は、「贖い銀」を支払う事を主は命じている。
『これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。』(出エジプト記30:12-13)
イスラエル人として登録された成人男性は皆、銀半シェケル(1シェケルは11.4g)を支払う事になっており、金額は富んだ人も貧しい人も、同じ「半シェケル」である。
その銀は、会見の天幕の用として、もちいられる。(同14−16節)
つまり、イスラエル人として登録された成人男性は、皆、神に贖われた者であり、皆が神の幕屋の奉仕へ参加した者とされているのだ。
私達については、イエス・キリストが、贖いの銀を支払って下さった。
ルカ10:30-37の「良きサマリヤ人のたとえ」の中に、サタンに身ぐるみ剥がされ、傷つけられ、動けなかった私達の有様と、一方的に助けて下さった、良きサマリヤ人としてのキリストの姿を、見る事が出来る。
この世という旅路の中、サタンに襲われ、何もかも奪われ、身動きできなくなっていた私達に対し、人間の祭司や働き人は何もしてくれなかったが、イエス様はサマリヤ人として身をやつし、近づいてきて、聖霊の油を塗り、ぶどう酒(イエスの血)で洗い清め、贖いの衣で包帯をして傷を覆って下さり、イエス様の乗り物である「ろば」に私達を乗せ、世の旅路において安全な宿屋(教会)へと運んでくださり、しかも介抱できるようにと、宿屋に必要な銀二枚まで支払って下さった。
「行ってあなたも同じようにしなさい」
キリストが私達に為して下さったように、私達も同じように傷ついた人の隣人となるよう命じられている。
イスラエルの民は全員、贖いの銀を払う事によって自らを主に対して買い戻し、その銀は天幕の用に用いられ全員が主の働きに参加したように、私達も、主が贖って下さったからには、奉仕や献金などを通して、神の働きに参加すべきである。
出エジプト記18−21節には、祭司が務めをする際の、水の洗いについての指示がある。
祭司が祭壇での務めをする前には、手足を水で洗わなければならず、聖所での務めをする前に水を浴びなければならない事が、永遠のおきてとして定められている。
それをする理由は、死なないためである。(20節)
それ程までに、祭壇や幕屋での奉仕は、聖なる務めであり、水で洗い清めない事は主怒りを招く事である。
今、私達は、主の務めを為すにあたり、キリストが語られた御言葉によって洗われていなければならない。(ヨハネ15:3-5)
すなわち、私達は御言葉なるキリストに繋がっていなければ、主の御前に何もしてはならないし、する事は出来ない。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は世という旅路を渡り歩く時、どうしても、世や人々から罪と汚れを受けてしまう。
その汚れをも、主は清めて下さった。
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。』(ヨハネ13:4-10)
足を洗うのは、何もイエス様だけがする事ではない。イエス様は、私達もそうするようにと、模範を示されたのだ。
私達もまた、イエス様にならい、兄弟姉妹の足を洗い合うべきである。
すなわち、兄弟姉妹が世を通して罪や汚れを受けている時は、それを断罪するのではなく、御言葉の洗いによって、兄弟姉妹の罪や悪いところを戒め、良き方向へと立ち返るようにしてやる事によって「足を洗う」のである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
着飾ってただ立つ(エステル5:1-2):右クリックで保存
【概要】
本日は、エステル記5章の冒頭に見る、エステルが神の民のために命を懸けて謁見に臨んだ勇気と、その無言の振る舞いに秘められた信仰の力を学びます。その姿は、私たちに主の御前に正しく立つための模範を示しておられます。
【聖書箇所】
・エステル記 5章1節〜2節
・1ペテロ 3章1節〜6節
・ルツ記 3章9節
・雅歌 1章9節〜11節
・雅歌 4章9節
【慰めの言葉】
私たちがどんなに弱さや恐れを抱いていても、主はその心の奥にある真実な姿を見逃されません。エステルやルツのように神から与えられた贖いの衣に包まれていれば、どんな困難も乗り越えることができるのです。
【励ましの言葉】
王に謁見に臨むエステルのように、恐れずに主の御前へと進み出る勇気を持ちましょう。たとえ命のリスクがあったとしても、無言の誠実な振る舞いは、必ず主に届く確かな証です。
【戒めの言葉】
自己流の飾り付けや、世俗の価値にとらわれた心では、主の御許へ受け入れられません。主が授ける義の衣を軽んじ、誇示することなく正しい姿勢を保つよう自覚しましょう。
【勧めの言葉】
日々の断食と祈りを通して、自身を清め、霊の油で塗るよう努めましょう。そうする時、主が約束された守りと愛を実感する日が必ず来ると信じ、確信を持って歩みを進めることができます。
【悔い改めの促しの言葉】
もし今まで自分流のやり方で主に近づこうとしていたなら、今一度立ち止まり、真の贖いの衣に心を改めましょう。自分の外面的な飾りではなく、内面からにじみ出る穏やかな霊を、主の愛によって研ぎ澄ませる時です。
【***詳細***】
本日私たちは、エステル記5章1節〜2節に記されているエステルのある勇敢な姿に立ち返ります。エステルは、王妃としての地位を得ながらも、イスラエル民族を救うために自らの命を懸け、呼ばれていないにもかかわらず、敢えて王宮の内庭へと足を踏み入れました。聖書は「エステル記5章1節」にその状況を記録しています。王は、王宮の玉座に座しながらも、エステルに気付き、手に持った金の尺を彼女に向かって差し伸べられたのです。これこそ、神の民の救いを信じたエステルの無言の訴えであり、王でさえもその振る舞いに応じざるをえなかった瞬間でありました。
エステルは、ただ言葉を並べるのではなく、身なりを整え、王妃としての衣装に身を包み、慎ましやかでありながらも厳かな姿で謁見に臨みました。命を賭してでも、イスラエル民族の未来を託すその行動は、現代に暮らす私たちにとっても大変重い意味を持っています。私たちも、主の御前に立つ時、自己流の華美な装いではなく、主ご自身が支給された義の衣、つまりキリストの贖いの霊に満たされた姿で謁見に臨むべきです。聖書は「1ペテロ3章1節〜6節」において、敬虔な婦人が夫に従い、内面の美しさを現すことが、神に喜ばれる姿であると教えています。これは、エステルやルツが示した無言の従順さに通じるものであります。外面的な飾り付けは一過性のものにすぎず、内面に宿る平和な霊こそ、永遠の救いにつながる真実の装いなのです。
さらに、ルツ記におけるルツの姿勢も私たちに大きな示唆を与えます。ルツは、ナオミの導きに従い、体を清め、香り高い油で身を飾り、そして無言で買い戻しの権利を訴えました。聖書「ルツ記3章9節」の言葉には、ルツが「あなたの衣の裾を広げ、私に覆いを与えてください」と謙虚に訴える場面が描かれており、彼女の静かな忍耐と信仰が、最終的にボアズの心を動かしたのです。私たちも、自己主張や派手な言葉に頼るのではなく、内に秘めた静かな誠実さをもって主に謁見すべきです。エステルもまた、王の謁見に臨む際に、断食を三日三晩続け、多くの人々の祈りに支えられ、そして自らも主に信頼するその無言の振る舞いによって、王の心を動かしました。
聖書「雅歌 1章9節〜11節」及び「雅歌 4章9節」に見られるように、真の美しさとは言葉や外見にとどまらず、無言のまなざしや、内面からあふれ出る神の愛に根ざした姿からにじみ出るものです。ソロモン王が愛した女性の美しさは、単なる外面的な装飾だけではなく、彼女の心のあり様、そしてその無言の献身の中にあったのです。現代の私たちも、どんなに世俗の装飾が魅力的であっても、主が与えてくださる義の衣、すなわち救いの恵みによって着飾ることこそが、真に勝ち取るべき美しさであると信じなければなりません。
また、イエス・キリストが十字架上で見せられた無言の忍耐は、義人アベルの血が主の御前で雄弁に叫んだと伝えられる聖書の記述にも重ね合わせることができます。私たちにとって、無言の振る舞いはただ沈黙を守るだけのものではなく、主へ捧げる崇高な証であり、心からの信仰の表現なのです。王に対して、身を粉にして謁見に臨むエステル、そして買い戻しの権利を無言で求めたルツの姿は、私たちに「恐れずに主の御前へ」と叫びかけています。
私たちが日々の生活の中で、自己流の飾り付けや世間の成功、虚飾に頼るならば、主はそれを受け入れず、むしろ外面のみに偏った生き方から離れるよう厳しく戒められます。聖書に記されているように、「我が行い、救いを得ず」とは、自分自身で奮闘することでは決してなく、主から授けられた恵みと義を着こなすことこそが唯一の救いへの道です。主が支給して下さる晴れ着、すなわちイエス・キリストの御顔にあずかるその恵みを、私たちは何よりも大切にしなければなりません。
このように、エステルとルツ、そして雅歌に登場する美しくも勇ましい姿は、現代に生きる私たちにとっての生きた教訓です。たとえ命を賭けるかのような危険な状況にあっても、恐れずに主の御前へと進み、無言の信仰と従順で神の救いを求めるその精神が、いかに尊く、また効果的であるかを思い起こさせます。私たちもまた、日常の中で主から与えられた義の衣を身にまとい、精霊の油で心を満たし、神の前にひたむきな態度で謁見に臨むことができるよう、日々の祈りと自己反省に励みましょう。
どうか、エステルが命をかけたその勇敢な振る舞い、そしてルツが謙虚に従ったその無言の態度が、私たち一人ひとりの心に刻まれ、どんな困難な状況にあっても主に頼る信仰と希望の証として生き続けますように。私たちが自分の作り上げた飾りではなく、真に主から授けられた義の衣を纏い、内面から溢れ出る霊の香りによって神の栄光を称える者とならんことを、主イエス・キリストの御名によって固く宣言いたします。
あらゆる状況の中で、無言の振る舞いが雄弁に神の御心を伝えるという確信のもと、我々は命懸けの信仰、自己犠牲の愛、そして神への絶対的従順をもって、この地上での日々を歩んでいきます。どうか、私たちが姿勢を正して主の御前に謁見し、くださった祝福に応える真摯な信仰の証を見せることができますように。
本日のメッセージを通し、私たちは決して自分自身の力では救いを得られないこと、ただ主ご自身が支給してくださった義の衣にすがることでのみ、救いと勝利がもたらされるという真実を再確認いたします。私たちは世俗的な評価や外見に惑わされることなく、内面から湧き上がる霊の美しさをもって、ひたむきに主の謁見に臨む生きた証人となるよう努めましょう。
【結論】
エステルやルツが見せた無言の振る舞いと真摯な信仰を例として、私たちも主から与えられた義の衣を信じ、恐れずに主の御前に立つ勇気を持ちましょう。日々、真心をもって自己を清め、主の愛によって満たされる生き方こそが、私たちの救いと未来への道であります。
礼拝説教メッセージ音声:香壇での聖なる務め(出エジプト記30:1-10):右クリックで保存
今回の箇所は、聖所に置く香壇についての主の指示である。
前回の「祭壇」と、今回見る「香壇」とは、用途も置かれる場所も違う。
『あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。』(出エジプト記30:1-5)
すなわち、「祭壇」は外庭の出入り口に一番近い所に置かれているのに対し、「香壇」は幕屋の内側、聖所と至聖所を仕切る幕の聖所側、至聖所に最も近い所に置かれている。
「祭壇」は、人々が動物や穀物のいけにえや注ぎの捧げ物を携え来て、そこで捧げるのに対し、「香壇」ではそうしたいけにえを捧げてはならず、ただ祭司のみが香り高い香を焚く務めをするものである。
祭司が聖所の中で、朝ごとに夕ごとにともし火を灯す時に、この香壇で香を捧げる。
香壇で香を焚く務めは、聖なる務めであり、この、主の御前に立ち上る香は「祈り」をあらわす。(黙示録5:8)
『アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。」』(出エジプト記30:10)
これもまた、世々に渡る永遠の務めであり、そしてこれは主に対して「最も聖なるもの」と定められている以上、異なった香を炊くことはできない。
異なった香を炊いてしまったアロンの子ナダブとアビフは、主からの火によって焼き滅ぼされ、主の前に死んでしまった。(レビ記10:1-2)
香を焚く務めは聖なる務めであり、私達の祈りも同様に、聖なる務めである。
旧約において、香壇は、聖所の中の至聖所をしきる垂れ幕の手前にあったが、新訳にて記されている所は、そことは別の所である。
出エジプト記30:6によると、香壇は聖所の中に、至聖所と聖所を仕切る垂れ幕のそばに置かれているが、ヘブル9:1-5によると、香壇は契約の箱と共に至聖所にある。
これはどういうことか。
イエス・キリストの十字架により、聖所と至聖所を仕切る幕は真っ二つに裂かれ、神の臨在がいつも在る至聖所への道が、キリストを通して開かれた。
そして、悔い改めてイエスを信じる者には、誰でも御霊(聖霊)が与えられ、御霊はいつも弱い私達のために主の御前にて執り成し、祈っていて下さるのだ。
『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。』(ローマ 8:26-27)
旧約では、特別な人のみがが油注がれて任職を受け、祭司として立てられ、神と人との間に立って香壇の務めを為したが、新約の今は、キリストにある者は皆、聖霊の油が注がれ、選ばれた種族、王族の祭司、神の民とされたのだ。(1ペテロ2:9)
