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礼拝説教メッセージ音声:主の安息と祭り(出エジプト記23:10-19):右クリックで保存
10節から12節に続く箇所では、安息日と安息年について示されている。
『あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない。そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、その残りは野の獣が食べることができる。あなたのぶどう畑も、オリブ畑も同様にしなければならない。あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである。』(出エジプト記23:10-12)
安息日については十戒の箇所で学んだが、ここでは安息”年”についても定めており、それもまた七の周期で訪れる。
安息の制定は休ませるためでもあるが、第一の意義は「主を覚えて聖とする」(出エジプト記20:8)事であり、これを守れば、仕事のパフォーマンスが上がるだけでなく、主からの祝福を受ける。
七年目は種まきも刈り入れもしてはならない、としたら、七年目は一体どうやって食べれば良いのか、と、心配するかもしれない。
それについて主は、明瞭に答えている。
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ25:20-22)
思い出して欲しい。マナが降ったのは六日間で、主が定められた安息日にはちゃんと休めるよう、主は、六日目には二日分のパンを豊かに備えて下さる。
主を覚えるべき安息の日に立ち働いても徒労に終わるのみで、神と人から蔑みしか得られず、安息年を久しく守らなかったイスラエルの民は、バビロンへ連行して強制的にその地に安息を与えた。(2歴代36:21)
礼拝を守ろうとする聖徒に、主は手のわざを祝福し、しっかり礼拝を捧げられるよう都合をつけて下さり、その日に仕事を休んでも、必要をちゃんと備えて下さるのだ。
14節から19節に続く箇所は、ユダヤにおける重要な三つの祭りに関して、守るべき事柄が示されている。
『あなたは年に三度、わたしのために祭を行わなければならない。あなたは種入れぬパンの祭を守らなければならない。わたしが、あなたに命じたように、アビブの月の定めの時に七日のあいだ、種入れぬパンを食べなければならない。それはその月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、むなし手でわたしの前に出てはならない。』(出エジプト記23:14-15)
重要な祭りの一つが「種入れぬパンの祭」(大麦の刈り入れ時期)で、アビブの月すなわち第一の月に14日夕暮から始まる「過越祭」に続き、7日間、種入れぬパンを食べる。(出エジプト記12章)
これは、新約において主イエスが苦難を受け、復活された時期であり、主はまことの過越の小羊としてほふられ、血を流され、肉を裂かれた。
二つ目の祭りは「初穂をささげる刈入れの祭」で、これは小麦の刈り入れ時期に行われる。
『また、あなたが畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈入れの祭と、あなたの勤労の実を畑から取り入れる年の終りに、取入れの祭を行わなければならない。男子はみな、年に三度、主なる神の前に出なければならない。』(出エジプト記23:16-17)
この祭りは、穀物にかまを入れ始める時から七週を数えるため「七週の祭」とも呼ばれる。(申命記16:9-12)
これは、新約におけるペンテコステの日であり、ユダヤ人が各地から集まっている中、キリスト者達は聖霊に満たされ、主の働き人として捧げられた「初穂」として、公に示された。
三つ目は「取入れの祭」であり、仮庵祭と呼ばれ、ぶどうやオリーブ等果物の取り入れ時期、10月半ば頃に行われる。
これは出エジプトの民が、荒野で天幕に住んだことを覚え、祭りの期間は仮設の家(仮庵)を建てて住んだ事を覚える祭りであるが、新約における主イエスの誕生と一致する。
「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)は、直訳すると、ロゴスは肉となって私達の内に幕屋(仮庵)を設けた、という意味であり、イエス様は肉体という幕屋を張って、私達の間に住んで下さったのだ。
現代、イエス様の誕生を12月25日に祝っているが、その日はイエス様の誕生日ではない。
聖書の記述を辿っていくと、イエス様の誕生は、10月半ばの仮庵祭の頃となる。(ザカリヤはアビヤの組の祭司で(ルカ1:5)、アビヤの組は8番目(?歴代誌24:10)である。ユダヤの第1月、ニサンの月は太陽暦の3月半ば〜4月半ば、ザカリヤの第8組は5月半ば〜6月半ばとなり、この時期にエリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもったという事になる。マリヤが身ごもるのはその6ヵ月後、11半ば〜12月半ばであるから、そこから出産までの約10ヶ月を足すと、ちょうど仮庵祭の頃となる。)
旧約聖書は全てイエスというお方についてあかししており(ヨハネ5:39、ルカ24:27)、律法で定められた「祭り」には、イエスのヒントが見え隠れする。
安息も、祭りも、いずれも主を覚えるためであり、主イエスを表している。それを人が守る時、その人は祝福されるのである。
礼拝説教メッセージ音声:判決を降す際は(出エジプト記23:1-9):右クリックで保存
今回の箇所は、判決を下す際の戒めである。
主は、人をかたより見る事はされないお方であり、私達にもそれを求めておられる。
『あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になってはならない。』(出エジプト記23:1)
よく子供の中で(いや、むしろ大人のほうが)気に食わない誰かについてあらぬ悪いうわさを流し、その人を陥れるという事がある。
それは、主の敵が為す事であり、その最後は安らかなものではない。
イゼベルやアハブは悪意の証人を立ててナボテを殺し、パリサイ人達も悪意の証人を立ててイエス様を十字架につけて殺し、ステパノを石で殺すよう仕向けたが、いずれも、悲惨な最後を遂げた。
『あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。また貧しい人をその訴訟において、曲げてかばってはならない。』(出エジプト記23:2)
強い者や多数に追随して、皆で悪い方向へと向かってしまうのは、インターネット上でよく行われているし、特に日本人はそのような傾向に陥りやすいが、主は、それをしてはならないと命じておられる。
また、弱い立場の人をかばうあまり、裁判を曲げてしまう事も、してはならないと命じておられる。
過剰な被害者意識も、過剰な加害者意識も、両方とも道を誤らせてしまう元なのだ。
強い者や多数意見に流されたり、弱者に同情したりして、黒を白としたり、白を黒としたりしてはならず、公正にジャッジする事を、主は求めておられる。
『もし、あなたが敵の牛または、ろばの迷っているのに会う時は、必ずこれを彼の所に連れて行って、帰さなければならない。もしあなたを憎む者のろばが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起さなければならない。』(出エジプト記23:4)
神はここまで具体的に、公平である事を私達に求めておられる。
というより、敵にこのようにされた場合、あるいは、した場合、仲たがいしている心も和らぐのではないだろうか。
主は公正明大なお方で、情に流されて裁いたりされない。だから私達も、公平であるべきである。
裁きや報復は、主がなさる事。私達は悪に対して悪で返さず、善で返す事によって、罪から守られ、自分の手を汚す事からも守られ、祝福をいただけるのである。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)
礼拝説教メッセージ音声:弱き人を守られる主(出エジプト記22:21-31):右クリックで保存
主は弱き人達に配慮し守られるお方で、21節から27節までの箇所に、そういう人達に為すべき配慮が記されている。
『あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。』(出エジプト記22:21)
その最も先に記された事は、寄留の他国人たちへの配慮についてである。
彼らはつい数ヶ月前までエジプトにおいて在留異国人であり、その事を忘れさせないためである。そして私達も、この世にあっては旅人であり寄留者である事を忘れてはならず、この国で在留し生活している人達への配慮を忘れてはならない。
『あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。』(出エジプト記22:22-24)
福祉や人権の概念のなかった当時の世界は、孤児や寡婦はとても弱い立場だったのに対し、主は、彼らが人々から見捨てられるなら、その見捨てた者達を剣に渡す事を宣言された。
『あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。』(出エジプト記22:25-27)
当時、上着は寝るときに覆う「布団」の役割もあった。
貧しくなった人が、上着を抵当にお金を借りたからといって、寝るときの布団まで取りあげてしまうのは、御心ではない。
主は情け知らずの主ではなく憐れみ深い主である。
全てのものは主のもので、今、私達の手の内にある資産は主が貸し与えて下さっているものなのだから、同じように、私達も弱い立場の人達を憐れむべきである。
これらは、単なるきれいごとや脅しではない。
イスラエルの歴史では、実際に、寡婦や孤児の権利を踏みにじった故、あるいは同胞から高利を取った故、主の怒りが燃え上がり、イスラエルは諸々の国に散らされた事があり、そうしてイスラエルの中から、汚れが取り除かれた。(エゼキエル22章)
また、28節から31節には、神に対してあるべき態度が記されている。
『あなたは神をののしってはならない。また民の司をのろってはならない。』(出エジプト記22:28)
ここの「あなたは神をののしってはならない。」の「神」は、ヘブライ語ではエローヒム、「神」とも訳せるし「さばきびと」とも訳せる語である。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものであるのだから、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいている事であり、そむいた人は自分の身にさばきを招く。(ローマ13:1-2)
人はみな、神が立てた権威に従うべきである。
『あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。あなたのういごを、わたしにささげなければならない。あなたはまた、あなたの牛と羊をも同様にしなければならない。七日の間その母と共に置いて、八日目にそれをわたしに、ささげなければならない。』(出エジプト記22:28-30)
私達は、祝福が与えられたなら、ささげものを遅らせてはならない。
というのは、人には欲があり、捧げ物を後回しにすればするほどそれが惜しくなり、実行するのが難しくなって結局捧げず、神様との約束を反故にして罪を犯す事になるからである。
『あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない。あなたがたは、野で裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。』(出エジプト記22:31)
野で獣に裂き殺されたものは、汚れたものとされている。
私達も、世という野において、獣のような汚れた者達のえじきにされたものにハイエナのように群がって、その残りをむさぼるような事をしてはならない。
それは、犬のように卑しい者達のえじきとするべきものである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
高慢な妻と慎み深い妻(エステル記1章):右クリックで保存
【概要】
本日はエステル記と関連聖書箇所を通して、神の御業とキリストの花嫁としての立場、そして高慢や傲慢に陥らない謙遜な信仰の歩みについて説きます。
【聖書箇所】
・エステル記 1章1-9節
・エゼキエル書 28章12-13節および14節以降(サタンの転落に関する記述)
・雅歌 5章2-8節
・雅歌 2章10-15節
【戒めの言葉】
・主の御声に応えず、自らの誇りや美しさに頼ったなら、いつかその尊い冠が奪われることを、今日のエステル記とエゼキエル書が私たちに警告しています。
【励ましの言葉】
・神の御声に敏感に耳を傾け、謙遜な心で応えるなら、あなたはどんな状況にあっても神の御手の保護の中にあります。
【慰めの言葉】
・たとえ遠く離れた異邦の地にあっても、私たちはキリストの花嫁として、神の愛と慰めの中に常に守られていることを忘れてはなりません。
【***詳細***】
今日、私はエステル記の冒頭の場面から、私たちが学ぶべき真理についてお話ししたいと思います。エステル記は、アハシュ⁑ス王の豪華な宴会の記述から始まります。王はシュシャンの城において、王族にも臣下にも惜しみない贈り物とともに、華麗な宴を180日、さらにその後7日間にわたって催しました。**「アハシュ⁑ス王は、金の盃で酒を振る舞い、その豊かな栄光と栄華を民衆に示された」**との記述は、神の世ではなく人間の世の栄光に過ぎません。しかし、この豪華な宴の裏側には、王妃ワシュティが自らの高慢によってその立場を失い、結果として国中の人々の尊敬をも失わせるという重大な教訓が隠されています。
私たちは、エステル記における王妃ワシュティの行動から、謙遜な心で主に仕えるべきという大切なメッセージを読み取ることができます。エステル記のこの部分は、単に古代ペルシアの宮廷劇のような歴史記録ではなく、「私たちは誰の妻なのか?」という問いを現代に向けて問いかけます。王妃ワシュティは、美貌ゆえに傲慢となり、王の呼びかけに応じることを拒んだために、その栄誉が失われ、後により優れた花嫁—謙遜な心のエステル—にその座が譲られました。ここで私たちは、イエス・キリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応え、謙虚にその愛を受け入れることの大切さを学びます。正しい信仰の歩みとは、どんなに美しい外見や才能があろうとも、主の前ではすべてのものが私たちのものではなく、私たちはただ主の召命に従う花嫁であり続けなければならないということを思い起こさせます。
また、エゼキエル書28章では、神がかつて愛された天使長サタンの美しさと知恵、そしてその後の堕落に至る過程が描かれています。**「あなたは知恵に満ち、美の極みであった。しかし、あなたがその美しさに高ぶり、誇りに浸ったため、汚れた者として神の前から追放された」**との言葉は、私たちに高慢の危険性を厳しく戒めています。エステル記の王妃ワシュティもまた、自らの美貌と地位に溺れ、神に対する謙虚な心を失った結果、王の御前から退けられる運命に遭いました。これと対照的に、新たに選ばれたエステルは、その慎ましさと従順さにより、王から特別な庇護を受け、イスラエル民族の救いに大きく貢献しました。
私たちは今日、エステル記の中に現れる歴史的背景を通して、神がどのような人々を御用に召されるのか、そしてどのような心持ちで御前に立つべきかを再確認する必要があります。王妃ワシュティの失敗は、どれほど華やかな環境にあっても神から離れることが、取り返しのつかない結果を招くという警告です。一方、エステルのように謙遜で主への絶対的な信頼を持つ者は、どんなに異国の地であっても神の御心の通りに働くことができるのです。
さらに、雅歌の中にある恋の描写は、キリストとその花嫁たる私たちとの深い交わりを象徴しています。雅歌5章2〜8節には、愛する方が呼びかけ、花嫁がその声に心を震わせる情景が描かれています。**「我が愛する者、美しい人よ、さあ立って出ておいで。あなたの声を聞かせておくれ」**という御言葉に、私たちはどれほど感動し、応えなければならないかを思い知らされます。同様に、雅歌2章10〜15節でも、主からの呼びかけに対して、花嫁が即座に応じる姿が描かれ、主と交わる喜びがあらわされています。
ここで改めて、私たちに問いたいのは「私たちは誰のために生きているのか」ということです。私たちはイエス・キリストの花嫁として御前に召され、たとえ世界のどこにいても、神の王宮と呼ばれる御座は変わらずそこにあります。エルサレムにおいてネヘミヤやエズラが神殿再建に奔走し、その後、遠き異国の地においてもエステルが救いの鍵を握ったように、私たちもどのような環境においても、主への従順と謙虚な心を忘れてはなりません。
確かに、世の中は誘惑と誇りに満ち、どんなに華やかに見えても、その裏側には必ず神の裁きと戒めが存在することを、今日の聖書の記述は示しています。私たちは決してその栄誉に乗り、自己中心的になってはなりません。むしろ、主の呼びかけに敏感になり、心から「私の愛する方は私のもの、私はあの方のものです」と信仰を告白し、日々の生活の中でその証を示すべきです。
神は、私たちに高慢や傲慢に陥らないよう、また、どんな時も主の呼びかけに応え、御言葉に従うようにと望まれています。過去の大いなる歴史の中で、ワシュティがその高慢のために冠を失ったように、もし私たちが自己を高ぶらせ、主の呼びかけに背くなら、いつかその栄誉は取り去られてしまうでしょう。しかし、エステルのように謙虚であるならば、主は必ず祝福と守りをもって私たちと共に在り続け、限りない愛の交わりを約束してくださいます。
最後に、私たちが生きるこの時代においても、神の御声は決して遠くないということを確信してください。日々の忙しさや世俗の誘惑に惑わされることなく、毎朝の祈りと思い起こしの中で、神が私たちに呼びかけておられることを感じ取ってください。イエス様の花嫁として、謙虚に、そして従順に、主の教えと召命に応えるその心を持ち続けることが、私たちの真の栄光と祝福につながるのです。
愛する皆さん、神はあなたの内にその御霊を注ぎ、いつもあなたが歩む道を照らしておられます。いかなる状況においても、主の愛を信じ、御声に敏感に耳を傾け、決して自分の力に頼らず、ただ主の豊かな恵みによって生きることを、心から願っております。
【結論】
本日の聖書の御言葉は、私たちがどのような立場、どのような環境にあっても、主イエス・キリストの花嫁として謙虚に従い、主の呼びかけに即応すべきであるという力強いメッセージです。どうか今日の御言葉を心に刻み、日々主の愛と召命に従う歩みを続け、栄光の冠を失うことなく、永遠に主と交わり続ける信仰の花嫁であられるよう、神の祝福が皆さんに豊かにありますように。
礼拝説教メッセージ音声:性的な純潔と霊的な純潔(出エジプト記22:16-20):右クリックで保存
『もし人がまだ婚約しない処女を誘って、これと寝たならば、彼は必ずこれに花嫁料を払って、妻としなければならない。もしその父がこれをその人に与えることをかたく拒むならば、彼は処女の花嫁料に当るほどの金を払わなければならない。』(出エジプト記22:16)
婚約もしていない処女と性交渉を持ったなら、彼女を妻として迎えなくてはならず、また、妻や夫もしくは婚約者のいる人が別の異性と性交渉するなら、死刑が定められている。(申命記22:22-24)
また、女性を力づくで犯す事は、殺人にも等しい行為であり(申命記申命記22:25-26)、そのことは、いかに女性の尊厳を傷つける事であるか示されている。
神の基準では、肉体関係を持つべき相手は、死が互いを別つまで、オンリーワンである。
そして、性的な事柄は、霊的な事柄と相通じるものがある。
夫婦はお互い相手に純潔である事を求めるように、主もまた人に「純潔」である事を求めておられる。
当時のカナン地方では、呪術が盛んに行われていたが、それは、悪霊と交わる行為であり、偶像崇拝は、主のねたみを招く「霊的姦淫」である。
『偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。』(1コリント10:19-22)
そして、私達が主を礼拝し、主の聖餐にあずかる事は、主と交わり、主と一体となる事を意味している。
『それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。』(1コリント 10:15-17)
男と女の性的な関係は、主と私達の関係のひな形である。
『すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記22:19)
人は神の似姿であり、性行為はその相手と一つとなる事である。それ故、汚れた者や獣と交わる事は、神を大いに侮辱する行為である。
私達のこの体は、キリストの体でり、もしこの体で遊女と寝るなら、キリストの体を取って遊女の体とする行為である。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
しかし主につく者は、主と一つの霊になるのだ。(1コリント6:15-17)
『不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:18-20)
偶像崇拝も、不品行も、主を汚す行為である。
「主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。」(出エジプト記22:20)
私達は、自らの体を使って、神の栄光をあらわすべきである。
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:損害賠償(出エジプト記22:1-15):右クリックで保存
今回の箇所は、人の財産に損害を与えた場合の定めである。
『もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。彼は必ず償わなければならない。もし彼に何もない時は、彼はその盗んだ物のために身を売られるであろう。もしその盗んだ物がなお生きて、彼の手もとにあれば、それは牛、ろば、羊のいずれにせよ、これを二倍にして償わなければならない。』(出エジプト記22:1-3)
盗みを働いた場合、基本的にはその倍もしくはそれ以上の賠償が請求される。
盗んだ家畜が生きたままで見つかった場合は二倍、生きたまま返せない場合は、羊なら四倍、牛なら五倍で償わなければならない。
高価な家畜ほどペナルティが高いわけである。
食べ物や持ち物に困っているわけでもないのに盗んだり、万引きをゲーム感覚で行う人もいるが、神の定めた律法で「盗み」に課せられるその罰を見る時、人の物を盗む事は、それほど重い罪である事を知らなければならない。
不注意ゆえに損害を与えていまう場合は、基本、その「償い」をする事になっている。(5-6節)
例えば、自分の家畜が他人の畑のものを食べてしまった場合は、自分の産物の中から最良のもので償わなければならず、また、火の不始末などで人の畑を1ヘクタール火で燃やしてしまったら1ヘクタール分、100ヘクタールなら100ヘクタール分、償わなければならない。
当時のイスラエルは財産といえば畑や家畜であり、銀行に預けるという事ができなかったため、旅などで家を空ける場合は、隣の人に家畜をみてもらったりしていた。
そのため、家畜をあずかっていた時に起きた損害についての定めもある。
誰かの家畜をあずかっていた時、その家畜が盗まれてしまったり死んでしまった場合は、神(エローヒム:さばきびと)の前に出て、自分がその手を下していない事を誓わなくてはならない。(7-13節)
家畜をあずかっていた時に起きた損害で、自分に非が無いのであれば、その事を神(さばきびと)の前で「誓う」事によって、落着する。
ただ、神の御前で誓う時はは、軽がろしくは出来ない。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(20:7)と書かれてある通りである。
また、誰かから家畜を「借りている(「預かっている」ではない)」場合に、その家畜に損害を与えてしまった場合は、「償い」をしなくてはならない。(14-15節)
神から離れて生きる生き方を選んでしまった人間は、呪いの元にあり、その呪いの度合いが大きければ大きいほど、負債が重なったり、盗んだり、蹴落としたり、という生き方が、むしろスタンダードになってしまう。
ジャン・バルジャンは、貧困ゆえにパン一本を盗み、その罪だけで十九年も刑に服したが、人の定めた罰則は不完全であり、不平等である。
盗んだものを貧しさゆえに返せないような場合、律法では奴隷となるが、七年奴隷をすれば解放され、独り立ちして生きていけるような配慮が律法にはある。
神様に従って誠実に生き、律法を守って歩む人は祝福され、また、たとえ貧しくなっても、兄弟姉妹や親類が養ってくれる事が律法で定められているため、律法を尊守する民には、貧しくなるとか盗むとかいう概念が無くなっていくのである。
人間は元々、神から離れて生きるようには出来ていない。神とともに歩み、神の御口から出る御言葉によって生きる生き方こそ、人にとって最善の生き方である。
礼拝説教メッセージ音声:家畜に関する定め(出エジプト記21:28-36):右クリックで保存
今回の箇所は、家畜に関する定めである。
ユダヤにおいて家畜は財産だったが、生き物であるが故に、何かを起こした場合の対処方法を主はここで示された。
『もし牛が男または女を突いて殺すならば、その牛は必ず石で撃ち殺されなければならない。その肉は食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罪がない。』(出エジプト記21:28)
牛には力があり、時に人を殺傷する事がある。
そして牛が人を殺した場合は、その牛の命をとらなければならないが、牛の持ち主がそれ以上の責任を負う事は無い。
全てのいのちは主のものであり、主が人の齢を計り与えているからである。
しかし、以下の場合は別である。
『牛がもし以前から突く癖があって、その持ち主が注意されても、これを守りおかなかったために、男または女を殺したならば、その牛は石で撃ち殺され、その持ち主もまた殺されなければならない。彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。』(出エジプト記21:29)
人は財産を持つと、その持ち物について社会的な管理責任が発生する。
例えば、車は役に立つ”財産”であるが、使い方次第では殺傷能力のあるものとなり、例えばブレーキが壊れていて放置して事故を起こした場合は、その人の責任となるのと同じである。
しかし、人が意図的に人を殺した場合と違い、贖い金で解決する手段も主は残された。
『牛がもし男奴隷または女奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを支払わなければならない。またその牛は石で撃ち殺されなければならない。』(出エジプト記21:32)
牛が奴隷を殺した場合は、奴隷の代価として銀三十シケルを支払わなくてはならない。
ここから、この銀三十シケルという値段が奴隷の値段と分かる。
イエス様もイスカリオテのユダを通し、パリサイ人たちに”奴隷の値段”として銀三十シェケルで値積もりされた。
『もし人が穴をあけたままに置き、あるいは穴を掘ってこれにおおいをしないために、牛または、ろばがこれに落ち込むことがあれば、穴の持ち主はこれを償い、金をその持ち主に支払わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:33-34)
ここでも資産の管理責任が問われている。
そして自ら落ちて死んだ獣については代金で買い取る形となり、何らいのちを差し出す必要が無いのは、理にかなっている。
『ある人の牛が、もし他人の牛を突いて殺すならば、彼らはその生きている牛を売って、その価を分け、またその死んだものをも分けなければならない。あるいはその牛が以前から突く癖のあることが知られているのに、その持ち主がこれを守りおかなかったならば、その人は必ずその牛のために牛をもって償わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:35)
動物同士の殺傷は、被害者側と加害者側の、双方が平等に配分されるよう取り計らわれているが、突く癖のある牛については、ここでも管理責任が問われる。
そういうわけで、家畜によって”物持ち”となるからには、それなりに自分の家畜や隣人に配慮する事も要求される事になる。
多くの富や力を得るからには、多くの責任も発生するのである。
現代を生きる私達には、厳しすぎるように見えるところもあったかもしれない。
しかし、これが神のスタンダードであり、神の基準では、人の命はそれほど重要で、配慮すべきものなのである。
神様がノアに与えられた祝福を見ると、人がいかに尊い存在であり、人の血を流す事が、いかにおおごとであるのかが分かる。
『神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。あなたがたは、生めよ、ふえよ、/地に群がり、地の上にふえよ」。』(創世記9:1-7)
律法の中の刑法:傷害事件について(出エジプト記21:18-27)
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- 執筆 :
- pastor 2013-1-18 19:00
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今回の箇所は、傷害事件の際の命令である。
『人が互に争い、そのひとりが石または、こぶしで相手を撃った時、これが死なないで床につき、再び起きあがって、つえにすがり、外を歩くようになるならば、これを撃った者は、ゆるされるであろう。ただその仕事を休んだ損失を償い、かつこれにじゅうぶん治療させなければならない。』(出エジプト記21:18-19)
誰かに傷害を与えた場合、相手が死ななかったら「ゆるされる」と言っても、「死刑」は免れるという意味で、例えば相手を傷害で1ヶ月床についた場合は、その分の給料を保証してやらなくてはならないし、そればかりでなく以下のペナルティもつく。
『命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。』(出エジプト記21:23-25)
相手を失明させた場合は自分も失明させられ、手や足を失わせば、自分も同じようにされるのである。
傷害事件の”加害者”の側は、踏んだり蹴ったりである。
やられたら、憎しみに身を任せて何倍にもして返す事がまかり通っていた古代世界において、この律法は、画期的なまでの平等な法だった。
また、奴隷に対する傷害事件も、当時の世界の他の国に比べれば驚くほどに人権への配慮がなされていた。
『もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。』(出エジプト記21:20-21)
当時は奴隷に人権は無いも同然で、奴隷が主人に言い逆らったら平気で殺していたし、近代の奴隷船においても、運んでいる奴隷が少しでも気に食わなかったり病気などで弱っていたりしたら平気で海に突き落としていたので、サメがいつも奴隷船の周りにいたほどだった。
それに対し、神様が定めた律法では、奴隷をその場で殺してしまったら「必ず罰せられる(すなわち、死をもって償わせられる)」のである。
また、次のようにも定められている。
『もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:26)
奴隷の目や歯を損なったら、その奴隷は解放してやらなくてはならず、また、間違ってその場で殺してしまったら、自分が殺される事になってしまうのである。
律法の下にある主人は、よほど奴隷を大切に扱ったのではなかろうか。
律法の一つ一つを見ていくと、時に厳しすぎると思うかもしれない。親を罵っただけで死刑とか、現代日本では信じられないかもしれない。
しかし、想像してみてほしい。
喧嘩して相手を失明させたら、失明させられ、死なせたら、自分も死んでしまうような社会だったとしたら、そのようなリスクを犯してまで、憎しみに任せて相手に手を下すだろうか。
家で仕えている奴隷も、目や歯を損なったら、その奴隷を解放しなくてはならず、間違って殺してしまったら、自分も殺される事になるとしたら。
また、子供は親を罵るのはとんでもない罪だという価値観の元に、親を恐れ、敬い、権威に服従する事を小さい時から学び、また、周りの子供たちも皆じような価値観で育てられるとしたら、きっと想像もつかないほど平穏で健やかな、尊厳に満ちた社会になるのではなかろうか。
現代人は、律法はお固い、厳しい、と思う。
しかし、律法を守り行う人は神に保護され、守られ、平和と尊厳の内を生きるのである。
律法の中の刑法:死刑にあたる罪(出エジプト記21:12-17)
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- 執筆 :
- pastor 2013-1-17 23:54
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:死刑にあたる罪(出エジプト記21:12-17):右クリックで保存
今回の箇所は、死刑に処せられるべき罪を示す所である。
律法には、死刑に処せられるべき罪が確かに示されており、それが何であるかを明示する事によって、悪がはびこる事を防ぎ、人として身に付けるべき常識感覚を養い、平和な秩序を保つのだ。
「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。」(出エジプト記21:12)
以前も学んだように、神は人の命を尊いものとされ、それを人が脅かす事は許されず、そこには未成年などの年齢制限は無い。
ただし、恨みもない人を誤って殺してしまう、という事がある。
『故意にではなく、偶然、彼の手に”神が”渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。』(出エジプト記21:13)
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など、主は事細かに、偶然人を死なせてしまった場合の事例を挙げている。
その場合、その人の救済措置として、「のがれの町」に逃れる事が出来、その境界の内側にいるなら復讐者に襲われる事から守られるが、境界の外側に出た場合、その人の命の保証は無い。
そのような場合は、「神が」敢えてその人の命を取られた、という事である。
例えば、ダビデがペリシテの代表戦士ゴリアテに投げた石は、百発百中でゴリアテの兜の隙間を縫い、急所に命中し、イスラエルに勝利をもたらしたし(1サムエル17章)、イスラエルの悪王アハブも、ひとりの兵士が何げなく放った弓が、見事に胸当てと草摺の間を射抜き、それによってアハブは絶命した。(2歴代誌18章)
それらは人の責任でも栄誉でもなく、主のわざである。
『しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。』(出エジプト記21:14)
殺意をもって意図的に隣人を殺す場合は、その人がたとい祭壇の聖なる所にいたとしても、そこから引きずり出して死刑に処さなくてはならない。
ユダ王国で唯一、女性として国を治めたアタルヤは、自分が支配権を握りたいが故に、王の血筋を引く人達を一人を除いて全て殺害したが、彼女は後に、祭壇の聖なる所から引きずり出されて殺された。(2列王記11章)
また、誘拐する者も死刑に処せられる。
『人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:16)
神は人を自由な存在として創造され、その自由を他人が侵し、売り買いするような事を、主は許されない。
人を殺したり誘拐する者は死刑、という法律は、古来から珍しいものではないし、私達も感覚的に理解できるが、以下は現代日本人には厳しすぎるように見えるかもしれない。
『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:15-17)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割があり、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場の人であり、それに逆らう事は神である主に逆らう事である。
また、父母は、人が従うべき権威の最も身近、最も基本である。それに逆らうとするなら、その人にとって「権威」という概念が無くなってしまい、権威という概念が無い人達がはびこると、親子関係や社会の、国家の、そして、神の権威までもないがしろにされ、世の中は混乱を来してしまう。
親殺し、いわゆる尊属殺人には、世界各国でも厳しい処置を行う歴史があり、日本でも、1973年までは尊属殺人には死刑か終身刑という厳しい措置があった。
しかし、世界的にもその時期あたりから犯罪者の人権が擁護されるようになって来て、そのような法律が撤廃されて来た。
世の中の「権威」という概念が無くなって来たのは、その時期あたりからではなかろうか。
そして今や、親子や社会、国家、そして神の権威は、ないがしろにされ、秩序が無くなって来ている。
『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』
これは現代の我々にはとても厳しく見えるが、それが神のスタンダードであり、それを尊守するなら祝福を得、それをないがしろにするなら、呪いを招くものである。
礼拝説教メッセージ音声:奴隷に関するおきて(出エジプト記21:1-11):右クリックで保存
今回の箇所は、ヘブル人の奴隷を買う場合のおきてである。
人の世には罪があり、他人の罪に巻き込まれてしまったり、親が事業で失敗してしまうなど、どうしようもない理由によって、奴隷として売られてしまう、というような事は、起きうる事である。
奴隷というと、人を金で売り買いし、買った奴隷は人扱いせず生涯こき使うような、黒い、憎むべき制度としてのイメージがあるが、聖書は、奴隷になってしまった人への救済措置や人権保証をしっかり与えており、奴隷歴史の黒いイメージは、むしろ、聖書から離れた人間の罪と欲望の渦によって生まれたものなのだ。
『あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:2)
まず、奴隷は7年という期限付きであり、7年が満ちた時は失業して路頭に迷うような事がないようにと、主はわざわざ以下のように命じている。
『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)
奴隷から独立したら、家族ともども路頭に迷う事なく、しっかり身を立てて行けるように、奴隷の主人は配慮せよ、というのが主の御心である。
それならば、現代日本の雇用状況は、聖書の「奴隷」より非道い状態である事が分かる。
現代日本では、非正規雇用の人達は手に職を持てず、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま30,40代になってもマイホームも子供も持てないような状況に陥りやすいが、それは主の御心を大いに反している。
『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)
聖書には確かに奴隷制度が出てくるが、それはむしろ雇用関係のようなものだ。
奴隷が女性である場合、女性の社会的立場は男性よりも弱いため、男性よりも厚遇の度合いが大きい。
『もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。』(出エジプト記21:7)
「彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。」とは、例えば解雇しても路頭に迷わぬようにしっかり保証してやれ、という事である。
女性の奴隷であっても、しっかり人格的な扱いするよう主は命じておられる。
『彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。』(出エジプト記21:9)
ここを見ると、女奴隷の扱いは、あたかも「妻」や「娘」と同じ扱いである。
人間の奴隷制度には血も涙も無いイメージだが、主が奴隷について定められた事は、男奴隷は主人と雇用関係のよう、女奴隷は、妻や娘と同じようである。
どんな人間も、神の御前に平等で、貧富の差や能力の差は、主の御前では関係ない。
富も成功も主から来るもの、富んでいる人はたまたまその時、主から多くを預けられているに過ぎず、持っていない人も、たまたまその時、主に低くされているに過ぎない。(1サムエル2章)
たとえ自分の息子や娘さえ、自分の所有物ではなく、全てのいのちは主のものである。
主は、どんな状況にある人に対しても、憐れみ深い。
それ故私達も、この時主から多くを与えられているなら、少なく与えられている人に憐れみをほどこすべきである。
そうして主の体全体が憐れみに満ちあふれ、全体がますます富むものとなって行くのである。
『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。・・・
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。』(2コリント8:9-15)