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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:混じってきた雑多な民(出エジプト記12:37-51):右クリックで保存

『さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。』(出エジプト記12:37)

ラメセスは、パロがイスラエルを苦役で苦しめるために建てた倉庫の町である(1:11)。イスラエル人はそこから全員出て行ったため、その奴隷の倉庫の町はゴーストタウンと化した。
エジプトから出てきた民は、成人男子だけで60万。という事は、女子供も含めると200万を超すと思われる。
そこからさらに多くの入り交じってきた民も加わり、また非常に多くの家畜も連れ登ったため、それはそれは壮大な集団となった。

『そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。』(出エジプト記12:39)
彼らが携え持ってきた食料は、たったそれだけである。

荒野を旅する内に、食料や衣類が欠乏するのでは、と心配した人もいたかもしれない。
しかしどういうわけか、食料が欠乏して餓死する者が出た記述は一切なく、人々は荒野でも、しっかり主に養われたのだ。
私達も主にあって、何を食べようか何を着ようかと言って心配する必要は、一切ない。

『イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。』(出エジプト記12:40)
主はアブハムに、あなたの子孫は四百年の間苦しめられると言っていた(創世記15:13)。という事は、イスラエル民族がエジプトで良い待遇を受けられた期間は、わずか三十年だったのだろう。
ヨセフも臨終の時「神は必ずあなたがたを”顧みて”、この国から連れ出し」と言っているため、もしかしたら、ヨセフの時代から既にエジプトからの圧政が始まっていたのかもしれない。

『主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。』(出エジプト記12:43-44)
過越祭の小羊は、異邦人は食べてはならない、とここで言われている。それはイスラエル人がエジプトを出る時、多くの異邦人も入り交じって来ており、その雑多な民と区別するためである。
なぜ区別が必要か。それは、異邦人はイスラエル人と違い、まことの神である主を恐れるという事が無いからである。

このエキサイティングな脱出劇の中で、この民について行けば色々なメリットがありそうだ、というだけでついて来た異邦人は、多かった。
特に教会において陥りやすい罠だが、人数が増えれば良いというものではない。
その大勢いる人の全てが、純粋に主を慕い求めているとは限らないし、この入り交じってきた者達が、イスラエルにいらぬ情欲を起こさせ、神を怒りを招き、災いの発起となってしまった事が、幾度かあったからだ。(レビ記24:10、民数記11:4)
入り交じってきた雑多な民は、余計な事を言って主にある交わりに余計な怒りやいらぬ欲望を持ち込ませ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまった。しかし、主は彼らを荒野で篩い落とされた。(レビ記24:23、民数記11:33-34)

しかし、異邦人は決して過越の小羊にあずかれないという訳ではない。
異邦人が過越の小羊にあずかるためには”割礼”を受ける必要がある。

割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、大切な事である。(創世記17:9-14)
故に、過越の小羊は、興味本位で食べて良い物ではなく、神の民に加わるためには、生涯主に仕えるというコミットメントと、みずからの肉を切り落とす覚悟が必要なのだ。

キリストにあって救いの道が示された現在、割礼は”洗礼”に相当し、過越祭の食事であるほふられた小羊とパンは、まことのほふられた小羊キリストにあずかる”聖餐”に相当する。
聖餐も、むやみに興味本位であずかって良いものではない。
聖餐にあずかるには、自分の肉欲を切り取る決意、すなわち十字架を背負う決意と、生涯主に仕えるコミットメントが必要なのである。

礼拝説教メッセージ音声:奴隷からの解放(出エジプト記12:29-36):右クリックで保存

今日の箇所をもって、イスラエル民族はついに、400年も続いたエジプトでの奴隷状態から解放された。

『夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。』(出エジプト記12:29-30)

主が最後の災いを執行された時、エジプトには死人のない家がなかった。例えば父親が長子なら、父親も、長子も、死んだわけである。
それも、身分が上の者から下の者まで、さらに、家畜に至るまで。
エジプト人に大きな恐れが沸き起こり、「われわれはみな死ぬ」と思ったため、イスラエル人を躊躇せず追い出した。

神は元々、長子だけを狙い撃ちせずとも、エジプトを全滅させる事も、たやすかったのだ。
しかし、神はそんな無差別殺戮などはせず、前もって警告を与え、軽い災いから一つづつ災いを与えて忍耐深く懲らしめたにもかかわらず、エジプトは9度も頑なになったため、遂にこのような決定的な災いが起こるに至ってしまったのだ。

『そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。 』(31-32節)

パロは今回はさすがに自分の意見を混ぜたりする事なく、全面的にモーセの言う通りにさせ、出て行かせ、主に仕えさせた。
しかも、わたしを祝福しなさい、と付け加える事を忘れなかった。

モーセがパロの祝福を祈ったとして、もし、パロの家が平安にふさわしかったなら、パロの家に祝福が来ただろう。
しかし結果的にそうでなかった所を見ると、パロは祝福されるには相応しくない家であり、その祝福は、モーセの所に返って来たようである。(マタイ10:13-14)

『そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。 』(35-36節)

これは、創世記15章の時代から、すなわち「イスラエル民族」がまだアブラムとサラのわずか二人だけだった頃から、既に主から示されていた事である。(創世記15:13-14)
そして、その主が何百年か前に約束された事が、今日の箇所で実現したのである。
『あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して/今それをきたらせたのだ。』(イザヤ37:26)

イスラエル人が出ていく事をエジプト人は喜び、それも、金銀や衣服を喜んで与えてやった。(詩篇 105:37-38)
イスラエル人の中で、最も弱気な人であっても、400年分の溜まりに溜まった給与を、堂々と請求できたのである。
主はそこまで徹底的に真実なお方であり、約束を必ず果たして下さるお方である。

礼拝説教メッセージ音声:ほふられた小羊を伝えよ(出エジプト記12:21-28):右クリックで保存

モーセは神から伝えられた事を、今度は、民へと伝えた。
『モーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。』(出エジプト記12:21-22)

ヒソプ(ギリシャ語:ヒソポス)はヘブライ語のエゾブ(聖なるハーブの意)が由来で、抗菌、抗ウイルス、代謝促進、発汗の作用があり、古来より用いられている。
気管系の炎症を鎮め、体内の水分滞留を改善させ、不安や心配、緊張、ストレスなどを和らげる心理効果もある他、すり傷や切り傷などの炎症を抑える効果もある。
ダビデは「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇51:7)と祈ったが、実にこの効用をよく表している。

『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)
血潮のしるしを境に、いのちと死がはっきり分かれる。ほふられた小羊の血の内側には、ごちそうと感謝があり、外側には死と叫びがあるのだ。
血潮の外に出てしまうと、いのちの保証は無い。それはイスラエル人であっても、異邦人であっても。
イスラエル人が滅ぼす者から害を受けなかったのは、彼らが正しかったからではなく、彼らが主の命令を守って血潮の内側に逃れていたからに他ならない。
そして私達異邦人も、ほふられた小羊キリストの血潮の内に助けを求めるなら、滅ぼす者から救われるのである。

『あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。』(出エジプト記12:24)
小羊の血の内側に助けを求めて来る者への守りは永久であり、血潮の贖いの効力は永久であ。
そして贖われた人達は、ほふられた小羊を、永久に覚え、ほめたたえるのである。

『もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。』(出エジプト記12:26-27)

この儀式の意味を子供に問われた時、その返答の仕方をも、モーセはわざわざ教えている。
そう、ほふられた小羊の意味を正しく「伝える」事は、とても大事である。
モーセはこの祭りを長老たちに伝え、長老たちはそれぞれの民に伝え、そして、子々孫々へと伝えられて行った。
私達も、実の息子娘達にはもちろん霊的に生み出した子供達孫達にも、子々孫々に、ほふられた小羊キリストの意味を正しく伝え、その血潮の尊さ、贖いの尊さを伝えて行くべきである。

しかしイスラエル民族は残念ながら、この祭りを長くは守らなかった。
2歴代誌35章18節によると、預言者サムエルの時代からヨシヤ王の時代まで、つまり、ダビデの時代後半からバビロン捕囚近くに至るまでの長期間、過越祭は正しく行われていなかったのだ。
イスラエルが過越祭をぞんざいにし出した時期と、イスラエル国家が衰退し初めた時期は、ほぼ一致している。その事からも、この血潮の贖いを覚える事が、いかに重要であるかが分かる。

モーセは「これ(ほふられた小羊)は、主の過越の犠牲(いけにえ)である。」と子供たちに言うように指示した。
いけにえとは、神をなだめるために用いるものである。
過越の小羊は確かに人が食べたりいのちを救うためのものではあるが、それ以上にまず、神をなだめるためのものである。

『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ローマ3:25-26)

『こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:22)

本来、ユダヤ人もエジプト人も、そして私達を含む人類全体も、罪の報いとして罰を受け、死ななければならないものだった。
しかし、まことの小羊の流された血潮によって神は完全になだめられた。
この血潮の内に逃れる者は全て、罪と滅びから逃れられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:種なしパンの祭り - 除酵祭(出エジプト記12:15-20):右クリックで保存

過越祭に続き、神はイスラエル民族に「除酵祭」をも定められた。
『七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。』(出エジプト記12:15)

除酵祭は、過越の小羊がほふられる日に始まり、第一日と第七日に聖なる会合を開く。
その期間中、どんな仕事もしてはならず(食事を作る事は良し)、祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、七日間、種を入れぬパンを食べなければならない。その期間、種を入れたパンを食べる者は、イスラエルから断たれてしまう。

イスラエル民族は、過ぎ越の小羊をほふって食べた日から七日間、安息し、ただ兄弟姉妹の口に入れるもの、すなわち種を入れないパンを作る事以外は仕事をせず、安息するわけである。
私達キリスト者も、ほふられた小羊キリストを受けて以降は、世的なやりくりは止めて安息し、自分自身を純粋なパン種の入っていない者としてきよく保つのである。
『なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:10)

酵母入りのパンに比べると、パン種の入っていないパンは見栄えはしないし、口に入れてみても最初は小麦粉の素っ気ない味しかしないが、噛めば噛むほど味わい深く甘くなって行く。
御言葉もそれと同じで、はじめに受けた時の印象は素っ気ないかもしれないが、それをじっくり噛み締めれば噛み締めるほどに甘く、良くなって行く。
イスラエル民族が種なしパンをじっくり味わったように、私達もじっくりと御言葉を味わう事を知るべきである。

パン種はパンの酵母、パン生地に入れてふくらますもので、これを入れたパンはふくらんで大きくなり、柔らかくなるが、発酵させるため、腐りやすくなる。
聖書でパン種は、大体良くない意味で使われる。
ゆえに、神の民の交わりにおいては、このパン種のような性質、すなわち外見を膨らまし、発酵させ、純粋さを失わせるような暗闇からの働きには、十分気をつけなくてはならない。

『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

除酵祭において、最初の日に家の中から注意深くパン種を取り除いたように、キリスト者の集まりからも、世的な価値観を注意深く取り除かなくてはならない。(マタイ16:6-12)
なぜなら、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」からだ。

小羊がほふられて以降、7の日数が満ちるまで、安息してパン種を入れぬパンを食べ続ける事が定められている。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」のであれば、まず自分のわざを終え、神の安息に入るのである。
私達は完成の日(7は完全数)まで、自分自身を純粋に保って行くべきであり、私達が地上で定められた日数が満ちた時、救いの御業は完成するのである。

礼拝説教メッセージ音声:過越の小羊(出エジプト記12:1-14):右クリックで保存

前回は、エジプトに対して最後の災い、初子が全て死んでしまう災いの通告をしたが、今回は、イスラエル民族への最も重要な祭り、過越祭の制定をされ、これを世々にわたって守り行うべき定めとされた。

『「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。』(出エジプト記12:2)
主はこの月(アビブの月:太陽暦では3−4月)を一年のはじめと定める程に、この一連の出来事を重要なものとしたが、実は、それはイスラエル民族だけでなく、全世界の全ての人にとっても重要な出来事である。

この祭りの特徴は、まず子羊をほふる事、その血を家の戸のかもいと門柱にしるしとしてつけ、その家の中で、ほふられた子羊を食す事である。
言うまでもなく、このほふられた子羊はイエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)
なぜ、ほふられた小羊がこのように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。

過越祭には、イエスキリストの福音との類似性が、いくつもある。
神が定めた過越祭は、アビブの月の14日だが、それはイエス様が十字架につけられた日と一致する。
過越の小羊をほふるのは、ヨセフスによれば午後三時を常としており、イエス様も同様に、午後三時に頭を垂れて霊をお渡しになった。

『小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。』(出エジプト記12:5)
ちょうどかわいいさかりの傷のない一歳の雄の小羊が、もし皆さんの手元にいるとしたら、それに刃に当ててほふらなくてはならないなら、相当の痛みと悲しみ、惜しむ心が沸き起こるのではなかろうか。

過越の小羊は10日に用意し、14日までそれを見守る事が定められている。
人々がそれを見守る間、その犠牲とされてしまう小羊をいとおしむ心が芽生えるはずである。
キリストは一切の罪の汚れが無いお方であり、御父がキリストをほふらねばならないその悲しみ、痛みを、この過越祭を行う人も、少しながら経験したのではなかろうか。
そして祭りの夜、家の皆でその焼かれた小羊を囲み、噛み締め、味わう事によって、身代わりになって死んでくれた事、救われた事の尊さが、ひとしお迫って感じられたのではなかろうか。

現代を生きる私達キリスト者たちは、聖餐の内に、ほふられた小羊キリストを”記念して”覚えるのである。
『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを”記念する”ため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの”記念として”このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。』(1コリント11:23-26)

『その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。』(出エジプト記12:7)
印が付された者は守られ、付されていない者は滅びる。それは、聖書全体に流れる救いの共通事項である。(ヨシュア2:18-21、エゼキエル9章、黙示録7:3,9:4)

『そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。』(出エジプト記12:8)

この種入れぬパンは、申命記16:3によると、悩みのパンと表現されている。
この悩みのパンや苦菜には、色々な解釈がある。イスラエルがエジプトで経験した悩み、キリストが受けた苦しみ、罪を悔い改める悲しみ、十字架上で苦味混ぜられた盃など。
いずれにせよ、主は十字架上で、焼けるような苦しみを覚え「わたしは渇く」と言われた。
イエスを主としたイスラエル人は、過越祭を為す度に、十字架上のキリストが思い出されたのではなかろうか。

『あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。』(出エジプト記12:11)
急いで食べなくてはならないのは、これを食べた後、全イスラエルはすぐにエジプトから追い出されてしまうからである。
エジプトは世を意味している。
私達も、過越の小羊キリストをいただく時、世にいつまでも未練を残していてはならず、すぐにでも旅立てる心の状態で、いただかなくてはならない。

『その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り”代々、永久の定めとして”これを守らなければならない。』(出エジプト記12:13-14)

そう、それは私達のためのしるしでもあり、代々、永遠に定められた祭りである。
今の世においても、天においても、屠られた子羊は、永遠に記念され、この小羊によって贖われた人々は永遠に、ほふられた小羊を賛美するのである。(黙示録5章)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
斬新な祈り(ネヘミヤ9章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:エジプトへの最後の災いの通告(出エジプト記11:1-10):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「わたしは、なお一つの災を、パロとエジプトの上にくだし、その後、彼はあなたがたをここから去らせるであろう。彼が去らせるとき、彼はあなたがたを、ことごとくここから追い出すであろう。』(出エジプト記11:1)
主はエジプトへの最後の災いを実行される前に、エジプトとイスラエルとにそれぞれ通告される。

これまでの学びで、災いが降されるのを連続して九度も見て来ると、神はなぜここまで徹底的になさるのかと思うかもしれない。しかしそれだけエジプトは、神の民イスラエルを400年もじっくりと徹底的に虐げて来た、という事である。
神の時間と人の時間は違うし、神の忍耐と人の忍耐は、違う。しかし神の裁きは正しく、公平で、悪い事した側はきっちりと報いを受けるように、また、された側は、きっちりとその償いを受け取るようにして下さるお方である。(黙示録16:1-7)

『あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」。主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。』(出エジプト記11:2)

これはモーセが召された時点で、既に神から示されていた事である。(3章)その時は、まさかそんなことが有るだろうか、と思えたかもしれない。
しかし今や、エジプトは9つの災いを通らされ、モーセはエジプトからも尊敬される者となり、イスラエル民族も好意を得られ、この事は実現可能な事として目前まで迫って来た。
その時が来ると、どんなに気が弱い人でも、隣のエジプト人から剥ぎ取る事が出来るように、主がして下さるのだ。

モーセは神から言葉を預かったので、再びパロの前に出た。
10章の最後によると、パロとモーセは、もう二度と顔を合わせないと互いに言って、喧嘩別れになったはずだったが、主から言葉を預かってしまったからには、モーセは嫌でもパロの前に出て行って御言葉を伝えざるを得ず、またパロも、モーセが再び顔を見せた時は殺すつもりでいたであろうが、神がモーセを守っておられる以上、パロはモーセを殺せないのである。

『モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。』(出エジプト記11:4)
この10番目の災いが、前の9回の災いと決定的に違うのは、主みずからがエジプトの中へ出ていき、御業をなされ、エジプトは決定的に敗北するという事だ。
世の終わりの時も、はじめは預言者から幾度かの警告と災いの執行がなされ、最後には、主ご自身が世に現れて裁きを執行される。

『エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。』(出エジプト記11:5)
最後の災いの内容は、初子の死である。
それはエジプト全家が対象で、上は王から下は奴隷まで、しかも家畜に至るまでも、初子が死ぬというのである。
初子は一家にとって最も大事な存在だが、それが奪われる事はどれほどの悲しみだろう。
しかしこの災いが告げられても、パロと家来達には、いまいちピンと来ていないようである。

『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。』(出エジプト記11:7)
神は正確に、区別される。神の民と、世とを。
イスラエル60万世帯の、御言葉を守り行う人には、一世帯たりとも災いが誤って降る事はされず、エジプトには幾万世帯あろうとも、どこに隠れようとも、正確に災いを降されるのである。

『これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます』(出エジプト記11:8)
その時、家来たちはパロを通さずに、モーセに直接ひれ伏してお願いするようになる。
頑ななパロは家来たちに見捨てられ、パロを介さずに物事を進めようとするように、頑なな上司はやがて部下から見捨てられ、その上司を通さずに物事を進めるようになっていく。

『彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。』(出エジプト記11:8)
モーセが怒って出て行ったのは、自分の弁論に自分で激昂したからではなく、あまりにもパロと家臣たちが頑なで、あまりにも自分達に降りかかろうとしている災いに無頓着だったからだ。(11:9-10)
預言者は、怒る。御言葉を受けた人達が、頑なだった時は。自分の身に降りかかろうとしている災いを語られたのに、あまりにも、のほほんとしている時は。

神は、イスラエルが正しいから特別扱いしたのではない。(申命記7:7、9:4-6)
モーセに力があったからエジプトに災害が起きたのではないし、モーセの口に雄弁さがあったからエジプト人が尊敬したのでもない。
彼が御言葉を正しく伝えたから、御言葉こそが真実だから、である。
モーセが御言葉を正しく伝えたため、実際に諸々の奇跡が起こり、そしてモーセは御言葉によって威厳を帯びるようになったのだ。

私達を通して、神の御技が為されると、なにかと私達は傲慢になりやすい。
「自分は正しいから」「自分には力あるから」「自分が霊的レベルアップしたから」などなど。
しかし、傲慢になってしまうと、あっという間に主の御業は為されなくなってしまい、人々も逃げ去ってしまう。
私達はひたすら主の御前にへりくだり、栄光を自分のものとせず、いつでも主に栄光を捧げ、いつでも主に有用な器として用いられていきたい。

礼拝説教メッセージ音声:第九の災い - 暗闇の災い(出エジプト記10:21-29):右クリックで保存

エジプトの第九の災いは、暗闇の災いである。
『主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。』(出エジプト記10:21)
第3、第6の災いの時と同様、この災いもパロへの予告なしに行われ、また、今回もエジプトとイスラエルとを区別された。

「人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。」という記述から、平衡感覚を失って立てないほどの濃い闇だったと分かる。
電灯が発達している現代の私達には分かりづらいが、手も見えないような闇の中に長時間置かれるのは、舌を噛むほどの苦痛である。(黙示録16:10)

『そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。』(出エジプト記10:24)
パロは相変わらず、モーセの要求を全て飲む事はせず、自分の意見を一部押し付けた。
まだまだ頑なさが残っている事が分かる。

パロのこの言葉は、主への捧げ物は持たずに礼拝しに行け、と言っているようなものである。
世も、礼拝者に妥協を求めて来る。礼拝に行くのはかまわないが、献金はするな、など。
しかしモーセは一切妥協せず、むしろパロに挑戦的な言葉を返した。

『モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。』(出エジプト記10:25)

エジプト人にとって、牛と羊は聖なる動物である。それを、イスラエルの神に捧げる捧げ物として、パロ自身が提供せよ、と言うのである。
神はあらゆる人に迫る。それまであなたが”神”として来たものは捨て去り、わたしに捧げよ、と。
自分の仕えて来た偶像の神々を捨てて、主に立ち返るならば、神は豊かな憐れみによって祝福を与え、神の国へと加えて下さる。
しかしパロはまたもや頑なにされ、モーセ達とは喧嘩別れの形で互いに別れてしまった。

今回の暗闇の災いは、真理の道を邪魔する者、神の道から人々を遠ざける者に注がれる災いである。

パウロがキプロス島を巡回して伝道し、地方総督に福音を伝えていた時、魔術師エルマは総督を信仰からそらそうとして、しきりにパウロ達の邪魔をした。
そこでパウロは彼をにらみつけて言った。
『「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。
たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。』(使徒13:10-12)

福音が伝えられている時、御言葉を語っている時、賛美をしている時、聖徒が食卓の交わりをしている時など、急にそわそわし出して、しきりにその場をひっくり返そうと邪魔したがり出す者がいる。
それは、その人の内にいる悪しき霊がそうさせているのだ。
悪しき霊がターゲットとしていた人に、いのちが蒔かれ、光に照らされ、ますます健やかになって行くのを見るのを、悪霊は不愉快で仕方無いのだ。
しかし、そのように「主のまっすぐな道を曲げる」者は、ますます闇に落ち込んでしまう。

そのような人は、そうやって闇に支配されたり闇を選択する事を止めさせ、光へと導くべきである。
どうしても闇に同意し、主のまっすぐな道を曲げることを止めないのであれば、パウロのように、主イエスの御名によって呪うのである。

暗闇から解放させて下さるお方は、唯一、イエスキリストである。
神は、暗闇の中で苦しみ悶えている人間の上に、大きな光をともしてくださった。
ひとりのみどりごを私達に与え、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれ、そのお方により頼む人はいつまでも導かれるのである。

『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:1-7)

礼拝説教メッセージ音声:第八の災い - いなごの災い(出エジプト記10:12-20):右クリックで保存

『いなごはエジプト全国にのぞみ、エジプトの全領土にとどまり、その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう。いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』(出エジプト記10:14-15)

どこにでも入り込んで来て、植物の青物類を全て食いつくしてしまう大量の虫の災いの恐ろしさは、現代日本に生きる私達には想像しにくいかもしれないが、パロが今まで以上にうろたえるほどの災厄である。
「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」(出エジプト記10:16-17)

彼は雹の災いの時にも同じような事を言った。「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。」(9:27)
前回は単に「罪を犯した」「私達が悪い」だけだったが、今回は、誰と誰に対して罪を犯したのかを明確に告白し、また、「この”死”をわたしから離れさせてください」とまで言った事から、いなごに全ての青物や緑の物を食い尽くされる苦しみは相当なものだったと伺える。

ヨエル書には、いなごに荒らされる災いの恐ろしい様を表現している。
『かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。』(ヨエル1:4-5)

パロは自らの頑なで身勝手な思いに酔いしれて、現実逃避しているようなものだったが、いなごによって目覚めさせられた。
主は、のほほんと罪を犯し続けて頑なに行いを改めない者には、全てを食い尽くし奪い去る”いなご”を送って、目を覚まさせる。

『一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。』(ヨエル1:6-7)
ここに記されているいなごは特殊で、その歯はししの歯のようである有様は、黙示録に登場するいなごのようである。

『これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。』(黙示録9:7-9)

黙示録に登場するいなごは、底知れぬ穴から、立ち上る煙と共に現れ、太陽は暗くなり、草木には害を与えずに、神の印の押されていない人達のみに害を与える。
このいなごは、さそりのような尾を持ち、それに刺されると、さそりにさされたような苦痛に襲われ、人は死を願うのに死ぬことは出来ず、五か月の間、その苦しみにもだえる。
「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」とある通りである。(ヨエル2:1-11)
しかし主は、主に助けを求める人を、恵みと慈しみで覆って下さる。

『主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。』(ヨエル2:12-14)

主に立ち返るには、単に衣服を裂くような外見的な悔い改めではなく、心を裂いて真剣に悔い改める事が必要である。
そうして心を尽くして主に立ち帰るなら、主は災いを思い返し、主への捧げ物をささげられるように祝福を残して下さり、主が祝福を残して下さったなら、私達はその中から主に捧げ物を捧げるべきである。

『わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を/わたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされた/あなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。』(ヨエル2:25-26)

礼拝説教メッセージ音声:主を子孫に語り継げる内容(出エジプト記10:1-11):右クリックで保存

エジプトに降る第8の災いは「いなごの災い」、大量発生したばった類が地を覆うほど群生し、全ての草本類を食べ尽くしてしまう、いわゆる蝗害(こうがい)である。
殺虫剤の普及で近代の日本では見なくなったが、アフリカ諸国など国土が広大で組織的な駆虫が難しい地域では、今でも局地的に発生し、大きな被害を出している。
蝗害はエジプトでも古来から恐れられており、いなごの形をしたお守りを作って大量発生しないよう祈っていた。

『それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。』(出エジプト記10:5)
モーセ達はそう告げるとパロのもとを出て行った。かなり強気である。

『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』(出エジプト記10:7)
ここで家来たちは「この人はわれわれのわなとなる」と言っているが、自分達が災いを被っているのは、あたかもモーセ達によるかのような言い方である。
災いを起こしているのはモーセではないし、モーセが魔術のようなものを使って、イスラエル民族を虐げてきたエジプトに仕返しをしているのでもない。
彼らは気づいていない。自分達が頑なで、神に対して高慢であり、その罪の報いを自分達で受けているのだ、という事を。

パロは家来たちに進言されて、モーセ達を呼び戻して問うた。「行くものはだれだれか」と。
モーセは、老いも若きも、男も女も、羊も牛も、全部だ、と答えたが、パロは怒りを爆発させた。
『それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」。彼らは、ついにパロの前から追い出された。』(出エジプト記10:11)

パロはなぜ、全員が行くのはだめだと言ったのか。
それは、もし全員が出てしまうと、人質になるような人がエジプトに残らず、イスラエルはもう帰ってこない可能性があり、そうなると、エジプトから奴隷仕事をする人が、いなくなってしまうからだ。
結局この期に及んでも、パロはイスラエル人を、奴隷としてこき使う気満々だったのだ。(14:5)
今はたまたま、モーセとかいう新参の魔術師みたいな者に苦しめられているけれど、これが過ぎたら、今まで四百年の伝統に従ってイスラエル人には奴隷仕事をさせて、自分達は楽な生活を続けられだろう、と思っていたのだ。

今回、彼らを頑なにしたのは、神だったと1節に書いてある。そして、神が彼らを頑なにした理由は、神がエジプトに行ったしるしを、子や孫に語り伝えるためだった。(2節)
神がどういうお方であるかを、子々孫々に語り継げる・・・その語り継げるべき内容には、自分達もパロのように頑なになって主を恐れず、主の御言葉にそむくようになるなら、エジプトに諸々の災いが下ったように、自分達にも災いが降る、という事も、含まれている。

『もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。』(申命記28:58)
「主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。」(申命記28:27)

神はやさしい方だと思って、何でもかんでもやりたい放題やっても、いつまでも赦してくれると勘違いしている”クリスチャン”もいるが、そのような人は、主の日が盗人のように来た時、主の御前に立ちおおせない。
私達はキリストにあってアブラハムの子孫である。しかし、そうだと言って安住してはならない。
神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事の出来るお方であり、神の民と言えど、神を恐れなくなり頑なさを続けていけば、滅びてしまうからである。

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