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礼拝説教メッセージ音声:わたしはある(出エジプト記3:13-15):右クリックで保存
『モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。』(出エジプト記3:13)
モーセがイスラエルの人々の所へと遣わされるからには、モーセ自身、自分を遣わされたお方を、良く知らなくてはならない。
それで神に、お名前をどのように答えたら良いかと聞いた時、神は自らを次のように表明した。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。』(出エジプト記3:14)
「わたしは有って有る者」、この「有る」はヘブライ語ではハーヤー、英語で言う所のbe動詞であり、英訳すると 「I AM THAT I AM」すなわち、神は「存在する」という名前である。
ここで使われている時制は「継続」で、すなわち、神は昔も、今も、これからもずっと継続して「有る」「存在する」お方であり、それこそ神を最も適切に表現している名、神の神たるアイデンティティである。
『神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。』(出エジプト記3:15)
神はこうして御自身を定義され、それ以降、聖書では神を「有って有る者」「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」「主(エホバ)」とあらわしている。
イエス様自身も、「わたしはある」と言い表している。
『イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。』(ヨハネ8:58)
神はイスラエル民族に対して「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と御自身を表明されたが、そもそも神は、アブラハムを選ばれたはるか前から存在しておられた。
イエス様も、世の始まる前から「有る」お方であり、はじめから神と共におられた。
しかし人々は、人となられたイエス様がそれを言っているのを見て、神を冒涜しているように思えたために、石を投げようとしてしまったのだ。
また、ゲッセマネで捕らえられる場面でも言っておられる。
『しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。』(ヨハネ18:4-6)
この場面でもイエス様は「わたしは有る(ギリシア語:エゴ・エイミー)」と答えられた。捕らえに来た者たちは単に、一人の罪人を捕らえに来たつもりだったが、自分達が捕えようとしている人こそ、実は初めから存在し、永遠まで生きておられるお方だと、自らを表明したため、地に倒れたのだ。
『だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしが「そういう者である(わたしは有る:エゴ・エイミー)」ことをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。』(ヨハネ8:24)
ここでは、イエス様が「有る」事を認めない人は、罪のうちに死ぬ事になる、と言っている。
人には二つの選択肢があり、そのうち、どちらか一つを選ぶ事になる。
すなわち、イエス様が「有る(エゴ・エイミー)」事を認めて自分を降ろすか、それとも、自分(エゴ)を貫き通すか。
イエス様が「有る」事を認める人は、永遠のいのちを持つが、イエス様が「有る」事を認めず、自我を貫き通す人は、罪のうちに死ぬ事になるのだ。
神は、いつでも、どこでも「有る」お方。
仕事場でも、家でも、教会でも、そして今この時でも。
聖徒達の前だけ良い子ぶって、教会から一歩出た途端、何か解放感を味わって素に戻り、教会外では神は無いがごとき生活に戻る人もいるが、その人は、いつでもどこでも「有る」神を認めていないわけである。
罪のうちに死ぬ事になるか。それとも永遠に生き永らえるか。それは神が「有る」と認める事にかかっている。
礼拝説教メッセージ音声:これ以上に無い”しるし”(出エジプト記3:7-12):右クリックで保存
『主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。』(出エジプト記3:7)
もし私達がイエスを主としたのなら、主が私達の内におり、私達も主の内におられる。
『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。』(ヨハネ14:20)
それ故、私達を虐げたり圧迫したりする者がいるなら、その者は私達のみならず、主をも虐げたり圧迫する者ゆえ、主はその状況を放っては置かれない。
主が、イスラエルの民の悩みを「見」「聞き」苦しみを「知」っておられたと7節にあったように、主は私達の有様も一切見て、聞いて、知っておられる故、主は天を押し曲げて降りて来て救い出し、広く良い地へと導いて下さる。(詩篇18篇)
『さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。』(出エジプト記3:10)
モーセはこの時、80歳である。
40年前のモーセだったなら、二つ返事でOKしたかもしれない。
しかし主は、人間的なヤル気が大きく気力にあふれている時は、必ずと言っていい程、ご自身のご用のために用いられることはない。
主は、弱い者を、用いられる。
80歳。十分な年齢である。モーセはこれから何かするには、あまりに歳を取りすぎていたが、主が召したのはその時だった。
ギデオンやサウル王も、自分が小さい者だと知っている時に召しだされ、主の特別なミッションに就かせられた。
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(2コリント12:9-10)
イザヤの召命の時もそうだった。
彼は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。(イザヤ6章)
主の衣のすそは神殿に満ち、御使い(セラフィム)が互いに呼びかわして万軍の主をほめ称え、その叫ぶ声のために神殿の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
その大いなる、聖なる、厳かな場面に立たされたイザヤは言った。
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
神はあまりに大きく、御使いの賛美はあまりに聖であり、その叫びは雷よりも大きく、神殿が揺らぐほどである。それに引き換え、私達人間はあまりに弱く小さく、汚れている。
神の聖なる有様に人間が触れるなら、ただちに死ぬのみであり、預言者イザヤも絶望したほどだった。
主は、そんな人間に、どうされたか。
『すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」』(イザヤ6:6)
主は、そんな人間の罪を燃やし、清め、贖われ、その上で呼びかけられる。
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
それでイザヤは、言うことが出来た。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
万軍の主はなぜ、その力ある身腕で御業を実行されるのではなく、小さく弱い、罪深い人間を、わざわざ用いられるのか。
なぜ主は、聖かつ完全な御使いの力に任せるのでなく、わざわざ罪ある人間を清め、しかも、わざわざ人間の自主性に委ね、人間の同意を得た上で用いられ、御業を実行されるのか。
本当に分からない。
とにかく、私達が自分の力で主の役に立とうなど思うのも、私達が主の御前に価値があると思うのも、そもそもの傲慢である。
モーセも言った「わたしは、いったい何者でしょう。」と。
神はあまりに大きく聖であり、私達はあまりに弱く、汚れている。しかも、主が私達に要求される事は、人の力を遥かに超えた、能力外の事である。
主は言われた。
「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわした”しるし”である。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。(出エジプト記3:12)
物事を為すのは、私達ではなく、主だ。
「主が共におられる事」。それがモーセをつかわしたしるしであり、私達をつかわすしるしである。
「しるし」とは大いなる不思議や奇跡ではない。
天地を創られた万軍の主が共におられる事、それ以上の大いなるしるしは、無いのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁の内側にも気をつけよ(ネヘミヤ5章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主から呼ばれた時の作法(出エジプト記3:1-6):右クリックで保存
エジプトを抜けだしてきたモーセは、イテロの羊を飼うようになり、早、40年が経って80歳になった。
彼がいつものように羊を追い、神の山ホレブまで来た時、主の使いがモーセに現れた。
『主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。』(出エジプト記3:4)
神から呼ばれた時は「ここにいます」と答え、自分は聞く側、主が語る側と、主従関係を表明するのが正しい作法である。
少年サムエルが最初に神に呼び出された時、それが神からの呼びかけとは分からず、三度エリの所に行ってしまったが、エリから正しい応え方を学び、彼は正しく「しもべは聞きます。お話しください」と答えた時、主ははじめて御心を明らかにされた。(1サムエル3:9-10)
神から呼ばれた時の「正しくない」対応は、自分の主張など言葉数多くする事である。
預言者エリヤが、モーセと同じように神の山ホレブに行ってそこで主と出会った時、彼は「わたしは**しました」「でもあの人達は**です」「それで今こういう状況です」と、言葉数多く自己主張し、ささやかな主の御声を聞くことは出来なかった。(1列王記19章)
主は、岩をも砕くような大きな強い風の中にも、地震の中にも、火の中にも、おられなかった。しかし、火の後に静かな細い声が彼に聞えた。(1列王記19:11-12)
彼がささやかな御声を聞くことが出来た時、彼は顔を覆って再び同じ主張をしたが、神はその主張は相手にされず、彼がこれから為すべき事、起こるべき事を、初めて語られた。
私達は、主張する側ではない。主が語られる御声に、聞き従う側である。
『神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。』(伝道者の書5:1-3)
主の御前に出る時は、足を慎み、口に気をつけるべきである、と書いてある故、私達が御前に出ようとする時は、軽がろしく愚かな近寄り方をしていないか、軽々しく言葉を出そうと心あせってはいないか、自分を点検するべきである。
主はモーセに、足の靴を脱ぐよう指示された。
同じように私達も、あちこち歩き回ってちりだらけの靴は、脱いでから御前に出るべきである。
『また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。』(出エジプト記3:6)
神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、すなわち、生きている者の神である。
主が私達に近づかれる時、主は生きておられる神として来られる。
主が来られる準備は、できているだろうか。
すなわち、耳を傾ける準備はできているだろうか。主張したがる口を慎んでいるだろうか。
私達の足からは、あちこち歩き回る靴を脱いでいるだろうか。
異邦人の地で妻をめとり羊飼いとなったモーセ(出エジプト記2:16-25)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-1 23:20
礼拝説教メッセージ音声:異邦人の地で妻をめとり羊飼いとなったモーセ(出エジプト記2:16-25):右クリックで保存
前回の箇所を見ると、モーセはパロにつけ狙われ、命からがらやっと逃げてきたかのように見えるが、ヘブル人への手紙を読むと、むしろ「信仰」という積極的な理由でエジプトを去ったと書いてある。
『信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。』(ヘブル11:24)
キリストは元々「油注がれた者」という意味があり、モーセはエジプトのはかない罪の楽しみに留まるより、油注がれた者として、すなわち神から特別な役割を与えられた者として、苦しみを受ける道を選んだのだ。
モーセがエジプトから逃げる時の理由が、実際はたとえ恐れが99%で信仰が1%であったとしても、憐れみ深い神は、そのからし種ほどの信仰を汲み取って下さり、永遠に覚えて下さるのだ。
さて、エジプトを逃れて来たモーセは、ミデヤンの井戸に座っていたが、ミデヤンの祭司レウエル(名の意味:神の友、神の羊飼い)の娘達が来て、自分の羊の群れに飲ませようと、水を汲んでいる場面に出くわした。
そこに、別の羊飼いたちが来て、彼女たちを邪魔したのだが、モーセは立ち上がって彼女たちを救い、しかも、彼女たちのために水を汲んで、羊の群れに飲ませてやった。
レウエルはそのお礼に彼を食事でもてなし、モーセもまた思い切ってこの人達と一緒に住むようにし、彼はレウエルの娘チッポラを嫁に迎えた。
女が井戸で水汲みをして働いている所で、将来の夫と巡りあう場面は、聖書の中ではこれで3度めである(イサク、ヤコブ、モーセ)。
キリストの花嫁である私達もまた、日々、しっかり命の泉であるキリストから生ける水を汲み、日々働いているなら、主が思いがけない時に来られた時に、幸いを与えて下さる。
『彼女が男の子を産んだので、モーセはその名をゲルショムと名づけた。「わたしは外国に寄留者となっている」と言ったからである。』(出エジプト記2:22)
彼は、自分はミデヤンにおいても、エジプトにおいても、旅人であり寄留者である事を告白した。
彼の故郷はどこにあったか。
それは約束の地カナンに、そして、天にである。
『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。』(ヘブル11:13)
モーセは実際、信仰を抱いて約束の地をはるかに望みつつ死んだ。
イスラエルの民は最初、モーセを退けた故に、さらに40年という期間を苦役と労務の故に苦しまなくてはならなくなってしまったが、神は決して彼らを忘れず、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を遂行されるのである。(出エジプト記2:23-25)
モーセは、来るべきキリストの型である。
実際モーセ自身、のちの時代には自分と同じようなひとりの預言者が現れるから、彼に聞け、と言った。(申命記18:15)
彼は自分の民イスラエルを助けようとしたのに、その民はモーセが支配者となる事を拒否して、追い出したが、キリストも同じように、ご自分の民の所に来たのに、ご自分の民は彼を受けいれなかった。(ヨハネ1:11)
モーセは異邦人の地に行き、異邦人の妻をめとり、羊飼いとして40年暮らし、やがてその後、イスラエル民族をエジプトから、水から、死から引き出す。
キリストもまた、ご自分の民から拒否されたため異邦人の国へ、そして全世界へと救いの言葉が広まり、キリストは異邦人たちを養う主人となり、羊飼いとなり、そしてやがて再び来られる時、イスラエル民族も含め全ての民がひざをかがめてイエスを主とし、こうして全世界をサタンの国から、死から引き出し、救いを成就するのである。
礼拝説教メッセージ音声:出エジプトの40年前(出エジプト記2:11-15):右クリックで保存
赤ちゃんだった頃のモーセはしばらくの間、実の母の元でイスラエルの民として育てられ、パロの娘の所に戻されて以降はエジプトの王子としての最高教育を受け、40歳になった時、自分の民を憐れむ心が芽生えた。
しかし、彼が最初に取ったイスラエル人を救う方法とは、追い使うエジプト人を隠れて殺し、その遺体を埋めて隠す事だった。(出エジプト2:11-12)
次の日、モーセが見ると、同じヘブル人同士が争っており、モーセが「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」と言うと、
「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」
と言われたモーセは、あの事が知れてしまったと思い、エジプトから逃げた。
モーセがエジプト人を殺した時、周囲に誰もいなかったのに、何故知られてしまったのか。恐らく、その事を皆に告げ口したのは、当のモーセに助けられたヘブル人だったのだろう。
ヘブル人たちからすれば、自分達が奴隷仕事をし、男子の赤子は皆殺されている間に彼だけが助かり、エジプト最高の英才教育を受け、言葉にもわざにも力を帯びているようなモーセに、救い主になって欲しくは無かったのかもしれない。
そのためモーセはエジプトから逃げなくてはならなくなってしまい、ヘブル人達は結局、圧政の中強制労働する期間を、もう40年プラスする事となってしまった。
『偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。 しえたげる者はその隣り人をいざない、これを良くない道に導く。 』(箴言16:28)
この時のエジプトもヘブル人達も、力に対しては力、争いには争い、という世界のようである。
モーセもヘブル人も、エジプト流に「打つ事」「争う事」によって物事を解決しようとしたため、結局、さらに悪い方向へ物事を進めてしまったのだ。
「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(1ヨハネ3:15)
この時、モーセはまだ神が認める指導者としては、整えられていなかったし、ヘブル人達も、兄弟を打ち叩いたり同胞を告げ口するような肉的余力があって、モーセもヘブル人達もまだ整えられていなかった。
そのため、もう40年、整えられる期間を過ごす事となる。
モーセは言葉にもわざにも力があった(使徒7:22-24)のに、ミデヤンの地でさらに40年過ごすうちに、口下手になってしまった。(出エジプト4:10)
かの出来事が、よほどショックだったのだろう。
パウロもまた、コリント人から「手紙は重味があって力強いが会って見ると外見は弱々しく話はつまらない」と言われてしまうほどに、外見はぱっとせず口達者でもなかった。(2コリント10:10)
主の力は、人のすぐれた言葉や知恵によらず、人の弱さのうちに完全に現われ、そうして、ただ純粋に神の力が証明されるのである。(1コリント2:1-5)
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(2コリント12:9)
力わざでねじ伏せるのは、御国のやり方ではない。
神の国の子の流儀は、以下に書いてある通りである。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17)
『御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。』(ユダ9-10)
悪魔は、モーセが生前、殺人罪を犯したため、モーセの死体は自分のものだと主張したが、御使の長ミカエルは力でねじ伏せる事をせず、さばきを神に委ねたのだ。
これが御国流の、敵に対する対処方法である。
モーセもユダヤ人も、人間的なものが砕かれる40年が必要であり、人間的な力に頼る事が一切出来なくなるまでになって、はじめて出エジプトの準備が整えられたのである。
皆さんは人間的なものを頼みにせず、日々十字架を負っているだろうか。
出エジプトの準備はできているだろうか。
礼拝説教メッセージ音声:モーセ(引き出す者)の誕生(出エジプト記2:1-10):右クリックで保存
『レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。』(出エジプト2:1)
とても困難な時代での結婚である。
強制労働で搾取され、虐待され、結婚して子供を産んでも、男の子ならナイルに投げ込まれてしまうという、絶望的な時代である。
それでもこの若い夫婦は生きようとし、結婚し、パロの命令に従っていのちを消す事をしなかった。
それは信仰による。
『信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。』(ヘブル11:23)
パロの命令は「いのちを殺す」事だったが、この両親はパロの命令を恐れず、むしろいのちを大切にし、守ろうとした。
この夫婦がそうしたのは、その子がうるわしいのを見、その子を愛したから。
すなわち、いのちの輝きの美しさ、麗しさを見たから、だから王の命令も恐れなかったのである。
まったき愛は、恐れを締め出す。(1ヨハネ4:18)
しかし、赤ちゃんも三ヶ月目になると泣き声も大きくなり、いよいよ自分達の力ではどうにも守りようがなくなってしまった。
『もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。』(出エジプト2:3)
かごに自分の赤ちゃんを入れなくてはならない時の彼らは、断腸の思いだったろう。
赤子の守りを祈りながらかごに入れ、水に浮かべたかごを見つつ離れて行ったに違いない。
ここの「かご」はヘブル語でtebah、箱という意味で、これはノアの「箱舟」と同じ語である。
この両親は、自分達の力ではどうしようもないため、箱舟を作ってその中にいのちを入れ、そのいのちを神に委ねた。
その子の姉(ミリヤム)は遠くに立って、成り行きを見守っていた。
『ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。』(5-6節)
パロの娘は、父がどういう命令をヘブルびとに下したかを知っていた。
しかし彼女の心にも、いのちを生かす心、憐れみの心が起こされた。
神は「箱」をパロの娘の所に導き、憐れみの心を起こして、赤ちゃんを守ったのだ。
『そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。
パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。』(7節)
きっとその子の姉は喜び勇んで母にこの事を伝えたに違いない。
母は合法的に、その子に自分の乳を飲ませ、育てる事が出来、しかも報酬までくれるように導いて下さった神に、喜び感謝しただろう。
赤ちゃんの親は、一旦は失ったと思っていた子のいのちを、信仰によって水の中から取り返したのだ。
『その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。』(10節)
モーセという名は「引き出す」の語根「マシャ」の派生語である。
「引き出す」という名。まさに彼の生涯は、その名前の通りである。
モーセが生まれた時、大勢の男の子たちが水で殺されて行く中、彼は両親の信仰により、死の水の中から引き出され、他のイスラエル民族が奴隷しているエジプトの中から引き出され、そしてやがては、イスラエル民族を全てエジプトから引き出し、イスラエル民族を紅海の水の中から民を引き出し、荒野から約束の地へと引き出すのだから。
礼拝説教メッセージ音声:王が神に逆らう法を発布する時(出エジプト記1:15-22):右クリックで保存
「またエジプトの王は、ヘブルの女のために取上げをする助産婦でひとりは名をシフラといい、他のひとりは名をプアという者にさとして、言った、「ヘブルの女のために助産をするとき、産み台の上を見て、もし男の子ならばそれを殺し、女の子ならば生かしておきなさい。」」(出エジプト記1:15-16)
イスラエル人を過酷な労働で苦しめても、かえってどんどん増えて力を増す彼らを見たエジプトの王(パロ)は、直接的に「殺す」という手段に出て来た。
しかし助産婦達は、王の命令どおりにはしなかった。
なぜなら彼女たちは神を恐れる人だったため、神が祝福された民の男の子を殺すなど出来なかったからである。
『それで神は助産婦たちに恵みをほどこされた。そして民はふえ、非常に強くなった。助産婦たちは神をおそれたので、神は彼女たちの家を栄えさせられた。』(1:20-21)
パロの命令に背く事は命の危険を伴うが、それでも彼女たちは神を恐れる行いを実行したため、神は彼女たちを守り、祝福された。
神がかつて、アブラハムに『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。』(創世記12:3)と言われた通りである。
神の御言葉に反する法律が制定された時、信仰の故に神の言葉のほうを優先させるなら、神はその事で大きく御国を前進させ、そしてその人に朽ちる事の無い冠を授けられる。
ダニエルの時代、ダニエルは王の命令に従わず神を礼拝する事を止めなかったためにライオンの穴に投げ落とされてしまったが、ダニエル自身は御使いによって守られ、逆にダニエルを妬んで御言葉に反する法律を制定した者達がライオンに食われてしまった。(ダニエル6章)
また、ダニエルの3人の友人達(シャデラク、メシャク、アベデネゴ)も、王の作った偶像を拝まないことを明言したため、火の燃え盛る炉に投げ落とされてしまったが、御使いによって守られた。
『総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった。ネブカデネザルは言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った。また彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとしたのだ。
それでわたしはいま命令を下す。諸民、諸族、諸国語の者のうちだれでも、シャデラク、メシャク、アベデネゴの神をののしる者があるならば、その身は切り裂かれ、その家は滅ぼされなければならない。このように救を施すことのできる神は、ほかにないからだ」。』(ダニエル3:27-29)
また、ステパノは、パリサイ人達に屈してイエス・キリストを捨てる事無く、かえって大胆にイエスがキリストである事を立証し、また、真理を貫き通してパリサイ人達の偽善を暴いたため、反感を買ってしまい、石打で処刑されてしまった。(使徒6-7章)
彼の場合、この世で報いは受けられなかったが、彼の一件によって福音は大きく前進し、彼の名前は永遠に栄光ある者として残る事になった。
人の権威に屈せず神を敬い通したダニエルも、彼の3人の友人達も、ステパノも、パロに逆らった助産婦シフラとプアも、その名前は永遠に栄光ある者として残る事となったのだ。
パロは、助産婦達が自分の命令どおり動かなかったのを見ると、さらに厳しい命令を下した。
『ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」』(出エジプト記1:22)
今度の殺害命令は、エジプト全国民への命令で、イスラエルの男の子の赤ちゃんは一人残らずナイル川にほうりこむというものである。
多くの男の赤ちゃんが、ナイル川に投げ込まれただろう。
しかし後に、神はモーセを通して、ナイル川を血に変わる災いをエジプトに降し、エジプト人は皆、血に変わった水と相対するはめになった。
血に変わったナイル川の水を見た時、エジプト人は自分が神の民にして来た事を思い出しただろう。
神の民に災いを下す者は呪われ、罪なき者の血を流す者は、その血が頭上に返るのである。
『第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、
「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」
わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。』(黙示録16:4-7)
イスラエルに災いをもたらしたエジプトは、その後、災いにつぐ災いに襲われ、徹底的に呪い尽くされてしまった。
ステパノを殺害したユダヤ人たちは、そのすぐ後のユダヤ戦争によって悲惨な死を遂げ、多くのユダヤ人を虐殺したヒトラーも凄惨な最後だった。
信仰を貫き通した神の民は、決して朽ちることの無い栄光を受け、神の民を苦しめ虐待する者達には、悲惨な最後が待っているのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
再建を邪魔する者の手口(ネヘミヤ記4章):右クリックで保存
# ネヘミヤ記4章に基づくメッセージ
## 【概要】
ネヘミヤ記4章は、エルサレムの城壁を再建する過程での困難と、それに対する信仰と祈りの力を描いています。私たちの人生における「城壁」はどのような状態でしょうか。
## 【聖書箇所】
- ネヘミヤ記4章1-21節
## 【励ましの言葉】
「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ記4:14)
## 【戒めの言葉】
「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真ん中に入り込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」(ネヘミヤ記4:11)
## 【勧めの言葉】
「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」(ネヘミヤ記4:20)
## 【悔い改めの促しの言葉】
「彼らの都がを許すことなく、彼らの罪を見前から拭い去らないでください。」(ネヘミヤ記4:5)
## 【***詳細***】
ネヘミヤ記4章は、エルサレムの城壁再建における困難と、それに対する信仰の力を描いています。サヌバラテやトビヤといった敵が、ユダヤ人たちの努力を嘲笑し、妨害しようとします。彼らは「この哀れなユダヤ人たちは一体何をしているのか」と嘲り、彼らの努力を無意味なものとしようとします(ネヘミヤ記4:2)。
しかし、ネヘミヤは神に祈り、敵の計画を神に委ねます。「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。」(ネヘミヤ記4:4)と祈り、神の助けを求めます。彼は、神が彼らの敵の計画を打ち壊してくださることを信じています。
ネヘミヤはまた、民を励まし、恐れずに戦うように促します。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ記4:14)と語り、神が共にいることを思い起こさせます。
敵の攻撃が続く中、ネヘミヤは防御を強化し、工事を続けます。「その日以来、私に使える若い者の半分が工事を続け、他の半分は槍や盾、弓、鎧で身を固めていた。」(ネヘミヤ記4:16)と記されているように、彼らは常に備えを怠りません。
この章は、私たちが人生の中で直面する困難や妨害に対して、どのように信仰を持って立ち向かうべきかを教えてくれます。私たちの「城壁」が攻撃されるとき、神に祈り、信仰を持って立ち向かうことが重要です。
## 【結論】
ネヘミヤ記4章は、信仰と祈りの力を通じて、困難を乗り越えることの重要性を教えています。私たちの人生における「城壁」が攻撃されるとき、神に祈り、信仰を持って立ち向かうことが求められます。神は私たちのために戦ってくださるのです。私たちもまた、神の助けを信じ、共に立ち上がりましょう。
礼拝説教メッセージ音声:エジプトでの艱難のはじまり(出エジプト記1:1-14):右クリックで保存
出エジプト記はモーセ五書の第二番目の書物、内容的には創世記50章からの続きであり、1〜18章がモーセによるイスラエル民族のエジプト脱出、19章以降はシナイ山における神と民の契約とその内容、それが授与された時の人々の反応が記されている。
イスラエル民族はヨセフ以降、エジプト・ゴシェンの地でおびただしく増えるようになり、エジプトを脱出する時には男子だけでも60万以上にまでなっていた。
神の民が祝福されれば、世の人はそれを妬んだり恐れたりするものである。
『ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。
そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。』(出エジプト1:8-11)
エジプトはイスラエル民族を「賢く」扱った。
すなわち、彼らに重い労役を課す事で、自分達の国益に叶うようにし、かつ、イスラエルを弱体化させる方策を取った。
エジプトはイスラエル民族のお陰で潤い祝福されていたのに、彼らはその恩を仇で返したのだ。
ヨセフは自分の民族がこの国を脱出するべき時が来る事を、まだエジプトで大いに栄え何もかもうまく行っている時に予見していたし、実は、イスラエル民族が異国で400年もの間虐待を受ける事は、その何百年も前から、まだイスラエル民族がその父祖である一人の老いた男だった頃から、神はその事を示していた。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。」』(創世記15:13-14)
普通、虐待されて希望が持てなくなれば、人々は結婚して子供を産む事に意義を見いだせず、子供は減っていくものであるが、イスラエル民族は少子化になるどころか、逆に増えて行ったため、エジプト人はますます恐れた。(出エジプト1:12)
私達も以前はサタンに縛られ、肉に従って日々を過ごし、肉の思いの欲するままを行い、不従順な人々と同じく生れながら怒りを受けるべき者達であったが、憐れみ深い神は私達を愛して下さったその大きな愛によって、罪過の中に死んでいた私達をキリストと共に生かし ――その救いは、恵みによる―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上の座につかせて下さったのである。(エペソ2:4-6)
世の支配者サタンも現在、人々を「賢く扱い」、労役で虐待し、命を減らす戦法に出ている。
人々はその圧政の支配下にあって、あえいでいる。
しかし、神の民はいかなる虐待の中にあろうと、その中でいのちを増え広がらせるのである。
神の民にとって、艱難はただの無益な苦しみでは終わらない。
『それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』(ローマ5:3)
出エジプト記は約束の地に入る所までは記されてはいない。
彼らは約束の地に入る前に、神から与えられる諸々の試練をパスして行かなくてはならないのだ。
イスラエル民族は、この出エジプトの経験を通して、神の恵み深さを知り、救いの素晴らしさを噛み締め、神とともに歩む歴史的なアイデンティティを確立した。
同じように私達も、諸々の患難を忍耐して乗り越え、練達を生み出し、希望を生み出し、そして、永遠にしぼむことのない救いの希望へと導かれるのである。