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礼拝説教メッセージ音声:イエスの手に委ねよ(創世記43:1-15):右クリックで保存
愛する末息子・ベニヤミンをエジプトへ送り出すのを渋っていたヤコブだが、食料も尽き、とうとう決断しなくてはならない時が来てしまった。
そこで進み出たのは、ユダだった。
『ユダは父イスラエルに言った、「あの子をわたしと一緒にやってくだされば、われわれは立って行きましょう。そしてわれわれもあなたも、われわれの子供らも生きながらえ、死を免れましょう。わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。』(創世記43:8-9)
前章では、ルベンが、あの子を連れ戻す事に失敗したら私の二人の子を殺してください、と言って、ベニヤミンを自分に託すように促したが、ヤコブは断った。
対してユダは、自分があの子の保証人になるので、ベニヤミンを託して下さい、と申し出た。
例えば、わたしに事業を任せて下さい、と願い出る二人がいるとして、「もし失敗したら、私は自分の子を殺す所存です」と言う人と、「もし失敗したら、私が一生働いてでも損失を補填します」と言う人と、どちらに任せたいだろうか。
ユダは、後者のような立場を取ったのだ。
保証人を引き受けるとは、もしその人が何か間違いを犯しても、自分が身代わりとなって償いをします、と言うようなものである。
ヤコブはユダの言葉を信頼し、ベニヤミンを彼に委ねる事にした。
ユダは、キリストの先祖であり、キリストの型でもある。
彼は父に対して末息子の保証人となり、弟の身代わりを引き受けたが、私達にもまた、キリストが保証人となって、私達の身代わりを引き受けてくださっておられる。
この時、父は「ヤコブ」という呼び名ではなく「イスラエル」という呼び名を用いられている。
彼は大体の場面において、人間的な行動を取る時はヤコブ(前章)、信仰によって行動する時はイスラエルと呼ばれている。
彼はこの土壇場の時、わずかばかりの信仰を奮い立たせたのだ。
『どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟とベニヤミンとを、返させてくださるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい」。』(創世記43:14)
イスラエルの口から「全能の神」という言葉を聞いたのは、久しぶりである。
そして彼は、その人(エジプトの宰相)を全能の神が憐れみの内に支配して下さるようにと祈り、また、兄弟達の全行程が守られるよう、祝福を祈った。
やはり家長イスラエルは、こうでなくてはならない。
もっとも、初めからそうしていれば、ユダの言っている通り、もっと早くに解決していたのであるが。
ある女性が、小学校の遠足で、次の事を体験した。
山の中で、吊り橋を渡らなければならなくなったのだが、彼女は怖くて渡れず、彼女の組の生徒が全て渡り終えても、彼女は渡れないままだった。
次の組、そのまた次の組と、生徒たちはどんどん渡って行くのに、彼女だけは、相変わらず渡れない。
そして最後の組みも渡り追え、いよいよこちら側には自分と校長先生のみ、あちら側には自分以外の全部が待っている、という状況になってしまった。
校長先生は「さあ、もう渡らなくてはならないよ。」と言うのだが、彼女は怖くて震えている。
「ほら、手を取ってあげるから、私だけを見て、手をつないで一緒に行こう」と言い、彼女はついに意を決して、恐る恐る、校長先生に手を引かれて一緒に一歩一歩歩み、ついに無事に渡り終える事が出来たという。
今、皆さんの中にも、彼女のような状況の方は、いるだろうか。
ヤコブはいよいよ決断しなくてはならなくなった時、大事な子をユダの手に委ねて、信仰のあちら側へと渡る決心をした。
結果的にユダは、ベニヤミンもシメオンも無事取り戻しただけでなく、死んだと思っていたヨセフも、しかも、王族の接待と膨大な食料や宝も伴って、連れ戻した。
私達も、自分が手放したくなかった事の全てを主の御手に委ねるなら、さらに優れた形で取り戻すのである。
ヤコブにとってかけがえのないものは、末息子ベニヤミンだったが、あなたにとってのベニヤミンは何だろうか。子供だろうか。お金だろうか。何かの願い事だろうか。
それが何であろうとも、主イエスの御手に委ね任せるなら、主は、以前より遥かに優れた復活の形で、あなたの手へと取り戻して下さるのである。
礼拝説教メッセージ音声:早く楽になるためには、手放せ(創世記42:29-38):右クリックで保存
ヤコブの子達は父の元に帰り、エジプトでの事をありのまま話し、そして皆は恐れた。
『父ヤコブは彼らに言った、「あなたがたはわたしに子を失わせた。ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンをも取り去る。これらはみなわたしの身にふりかかって来るのだ。(KJVでは、all these things are against me.)」』(創世記42:36)
ヤコブはこの時、自分が大切に握りしめているものが、どんどん指の間からこぼれ落ちて行き、最後の大切な末子・べニヤミンさえ喪失してしまうのではないかという恐れに満たされ、あたかも全ての物事が、自分に敵対しているかのように見えた。
『ルベンは父に言った、「もしわたしが彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、わたしのふたりの子を殺してください。ただ彼をわたしの手にまかせてください。わたしはきっと、あなたのもとに彼を連れて帰ります」。』(創世記42:37)
ルベンは、自分の二人の子供のいのちにかける事で、覚悟を表明したかったのだろう。
しかし「もし失敗したら」という話では、逆に心配を募らせるであるし、万一、ベニヤミンを失ってしまった時に、ルベンの子二人を殺した所で、ヤコブには何の慰めもメリットも無い。
ヤコブはルベンの言葉を拒否して言った。
「わたしの子はあなたがたと共に下って行ってはならない。彼の兄は死に、ただひとり彼が残っているのだから。もしあなたがたの行く道で彼が災に会えば、あなたがたは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせるであろう」。
ヤコブは昔の生き方に、すなわち、自分の好きなもの欲しいものをつかんで離さない生き方に、再び戻ってしまった。
かつては、最愛の妻も子供も皆自分の元から去らせ、一人、主の御前に出て主ご自身と格闘し、イスラエルという新しい名と祝福を勝ち取った。
それなのに、神を掴もうとする生き方から離れ、世のものをつかもうとする生き方に逆戻りしてしまった。
神の方法は、いつでも死と復活である。
自分を十字架の死へと明け渡し、神から息吹かれる新しいいのちを着せられる「復活」を通して、人は新しく造り替えられ、罪は聖められ、いのちの祝福が与えられるのだ。
なぜ死と復活を経なくてはならないか?
それは、人は生まれながら邪悪で、一旦破棄せねばならないものだからだ。(ローマ3:10-18)
ヤコブは、ベニヤミンを愛していると言うが、それは他人を不幸に陥れる不健全な愛である。
そもそもの家族分離劇の原因は、ヤコブのその偏愛癖からではなかったか。
生まれながらの人間が、良かれと思って為す事は、大抵、どこかしらに歪みがあり、その歪みから誰かの不幸が生まれ、自分の不幸が生まれ、後悔が生まれていくのだ。
自分の願う事の一切を神に委ねて明け渡したアブラハムやイサクには、祝福と備えは、すぐに来た。
アブラハムは最愛の子イサクを捧げなさいと神に言われた時、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたため、一日の躊躇もなくイサクを捧げに行き、三日の行程の後、すぐにイサクを取り戻した。
イサクもまた、異邦人に井戸を奪われようとした時、争ったり自分を主張したりする事無く、すぐに手放した所、すぐに別の井戸が主から与えられる、という事が、二度三度あった。
それに引き換え、ヤコブは、かなり長い間、自分の願う事を掴んで離さず、苦しみの期間をいたずらに長く過ごしてしまった。
ヤコブは「握りしめて離さない」という生来の手癖が出てしまい、彼が偏愛していたラケルは奪われ、偏愛していたヨセフも奪われ、今偏愛しているベニヤミンも奪われようとしている。
彼は後に告白している。
『ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」』(創世記47:9)
掴んで離さない人生は、わずかで、ふしあわせで、先祖のたどった年月には及ばない。
私達も、楽になりたいなら、主の前で掴んで離さないものは、すぐに主の前に手放すべきである。
願いも、重荷も、大切にしているものも。
神に愛された人であるなら、神はその人から何もかも強制的に剥ぎ取ってしまった後、今度は、祝福を強制的にゆすり入れて下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:悪夢を憐れみへ造り変えて下さる主(創世記42:18-28):右クリックで保存
ヨセフが兄達を試みるための厳しい言動には、憐れみの配慮も見え隠れする。
『三日目にヨセフは彼らに言った、「こうすればあなたがたは助かるでしょう。わたしは神を恐れます。もしあなたがたが真実な者なら、兄弟のひとりをあなたがたのいる監禁所に残し、あなたがたは穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。』(創世記42:18-19)
兄達はヨセフによって3日間牢獄に入れられたが、ヨセフは兄達によって、13年も奴隷となり、牢獄にいたのだ。
それと同じ罰を与えようと思えば与えられる立場にいたが、そんな事はしなかった。いや、出来なかった。
なぜなら、彼は「神を恐れる」者だからであり(18節)、神を恐れる者には、そのような事をしてしまえば逆に苦しくなるため、出来ないのだ。
ヨセフは兄達を試みた結果、多くの事を知ることができた。
長男ルベンは首謀者ではなくヨセフを弁護する側にいた、という事はあの時、10人の弟たちをあのように導いたのは長男の次に実権を持つ次男・シメオンという事である。
ヨセフはシメオンを縛って人質とし、残りの兄弟達は父親のもとに帰らせる事とした。
『彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。』(創世記42:21)
兄達は、今自分たちが災いに遭っている事を、悪くないのに不当な苦しみを受けたと主張したり運の悪さで片づけたり、八つ当たりの言葉を発したりする事をせず、「弟のことで罰を受けている」と言った。
義なる神が、かつて自分達がヨセフをエジプトで苦しい目に遭わせたのと同じ苦しみを、今、自分たちに味わわせておられる、と認めているのだ。
そしてあの時、弟の心の苦しみを見ながら聞き入れなかった事を後悔し、この苦しみに遭う事は当然であると、告白しているのだ。
きっとヨセフは長年、兄が殺意を抱き、憎み、売ろうとした、悪夢のような出来事を思い起こす度に、苦しんで来ただろう。
お兄さん達はあの時、自分が悪い事をしたという自覚が、少しでもあったのだろうか。それとも一片も後悔する事無く、安泰に暮らして来たのだろうか。
自分がどんなに苦しい思いをして来たのかを、兄達は思い起こす事があったのだろうか、と。
しかし、兄達がすぐ「ヨセフ」に結びつけて後悔した、という事は、ヨセフに悪い事をしたという良心の攻めにいつもつきまとわれていた、という事である。
父親の悲しむ姿をいつも見、家族全体が暗く悲しい、後悔に満ちた日々を送っており、そして、ヨセフがあの時どんなに苦しい思いをしていたのか、という後悔も、彼らに存在したのだ。
悪夢のように恐ろしかった兄達は、罪を後悔し悲しんで来た憐れむべき兄達に変わっていた。
長い間知るよしの無かった諸々の事を知ったヨセフは、一人離れて密かに泣いた。
『そしてヨセフは人々に命じて、彼らの袋に穀物を満たし、めいめいの銀を袋に返し、道中の食料を与えさせた。ヨセフはこのように彼らにした。』(25節)
ヨセフは銀を袋に返させたが、兄達はそれを災いとして受け止めた。
『彼は兄弟たちに言った、「わたしの銀は返してある。しかも見よ、それは袋の中にある」。そこで彼らは非常に驚き、互に震えながら言った、「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」。』(28節)
兄達が恐れたのは、自分達を窃盗罪として捕らえる口実を作るために、それらの銀をわざと入れたのかもしれない、と思ったからである。
ヨセフは、そういうつもりで銀を入れさせたのだろうか?
43章23節のヨセフのしもべの言葉からすると、とてもそんな意図だったとは思えない。
むしろ、ヨセフは次のように思っていたのではなかろうか。
自分をエジプトの宰相にしたのは主であり、そのわけは、兄弟や父を食糧難から救い、生かすためである。(45章7-8節)
だから、穀物は決して兄達から代価を受け取るようなものではなく、父や兄達は銀を払うことなく食べてしかるべきものである、と。
20数年ぶりに再会した兄達からは、邪悪さの牙が抜かれ、カドが取れており、長年ヨセフを苦しめてきた兄達についての悪夢は、もはや消え去った霧となった。
主は必ず、主の民を取り扱われる。
いかに邪悪な者であろうと、その邪悪な性質を消毒し、人を傷つける牙を抜き、神の民にますます相応しく整えて下さるのである。
思い出したくもない悪夢のような過去も、主の愛の導きの日々により、憐れみと慈しみに満ちたものへと造り変えられるのである。
そして、傷を与えて来た者も、傷を受けて来た者も、双方を共にキリストにあって和解させ、共に主の御前で平和に生かして下さるのである。
礼拝説教メッセージ音声:真価が試される時(創世記42:1-17):右クリックで保存
ヨセフはいよいよ、兄と再会する。
その時、ヨセフは権威の座に着いており、兄達は顔を地につけて、ヨセフを伏し拝んでいた。
20数年も昔に、主が見させて下さった夢(37:6-11)の、そのままの光景であった。
かつて、その夢を兄に告げた時は反感を買ってしまったが、主は、ヨセフに示して下さった通りに成就して下さった。
兄達がヨセフには気付かなかったのは、ヨセフがあまりにも変わってしまったからである。
かつては弱々しく、兄弟達の中では最も生意気で蔑まれる存在だったのに、今や彼はエジプトの宰相であり、全世界が、彼の憐れみを乞う為に跪きに来る程になったのだ。
「あなたを苦しめた者の子らは、かがんで、あなたのもとに来、あなたをさげすんだ者は、ことごとくあなたの足もとに伏し、あなたを主の都、イスラエルの聖者のシオンととなえる。」(イザヤ60:14)
ヨセフは、イエス様の予表である。
彼は兄弟達から捨てられ、のけ者にされ、銀で売られ、父や兄たちの間では、死んだものと見なされた。
しかし、彼が父や兄たちから離れている間、ヨセフは彼らのために住む所や食べる所を整えており、ずっと後に、全く違った姿かたちで互いに対面をする事になる。
イエス様もまた、人々から嘲られ、十字架で捨てられた時は、人からは弱々しさの極みと見なされたが、やがて来られるイエス様は、力強く、栄光に富み、権威を帯びた御姿で現れるのだ。
ヨセフは兄達が来た時、すぐにそれだと分かったが、ヨセフはすぐ自分を打ち明ける事なく、見知らぬ者のように、荒々しく振舞った。
今までのヨセフのキャラクターとは随分違う、と思われるが、なぜ彼はそのような行動を取ったのか。
それは恐らく、16節で彼が言っている通り、兄たちに誠実さがあるかどうか、試すためであったのだろう。
ヨセフに子が生まれた時、「神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」と告白した通り、彼は、父の家や兄達の暗い影をずっと引きずっていたのだ。
少しは「仕返し」をしたいという気持ちもあったのかもしれないが、兄たちが昔のまま、実の弟にさえ殺意を起こすほど邪悪な性質でないかどうか、また、実の弟ベニヤミンや、そしてお父さんはどういう様子なのかを、知りたかったのだ。
ヨセフは兄たちを、どこかの間者だ、スパイだ、と、一方的に決めつける事で、兄たちを試した。
同じように、主も、私達を試されるために、一見荒々しく、あるいは冷たく対応される事がある。
例えばイエス様がツロ・フェニキヤの女と出会った時の態度は、非常に冷たかった。(マタイ15:21-28)
イエス様は彼女を子犬呼ばわりまでしたが、女は「主よ、その通りです」と告白し、「でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と食い下がり、彼女の内にある信仰、すなわち、イエス様がどなたであり、どんなに恵み深いお方であるのかという信頼が表明され、明らかとされた。
イエス様が一見、そっけなく見える時や、荒々しく対応されるかのような時、私達は、培ってきた信仰の真価が試されている。
既に据えられている信仰の土台はイエス・キリストであるが、私達はその土台の上に金や銀、木や草、藁など、色々な材料で、信仰の作品を建て上げて行く。
それはやがて、試練の火によって、各々の信仰がどんなものであったかを、明らかにする。(1コリント3:10-15)
自分自身の肉の行いや、主イエス不在の頑張り、自分の好き勝手という「木や草、藁」で建てたとすれば、それらは試練の火に焼き尽くされてしまう。
そして、主イエスへの信仰によって建て上げて来た「金や銀」は、永遠に残る。
せっかく積み上げて来たものが燃やし尽くされてしまうのは、その時は恥ずかしく、悲しいかもしれない。
しかし、自分の欲やエゴなど不純物が混ざった恥ずかしい不純な作品が、神と人との前で永遠に晒され続ける事の方が、もっと恥ずかしい事である。
自分の不純な恥ずかしい作品は燃やし尽くされ、キリストにあって建てた純粋な作品だけが残される、というのは、実に、憐れみにほかならない。
イスラエルと12部族の父祖を見るに、創世記を読む限りでは、彼らの悪行の数々ばかりが目立ち、一体なぜ彼らが栄光の12部族になれたのだろう、と、不思議に思う事しきりである。
しかし、聖書の後の箇所を読んでいくと、彼らの偉大さばかりが印象に残るようになって行く。
それは主の憐れみであり、彼らの信仰による偉大な行いだけが永遠の書物に記され、肉の行いは、全て御前に忘れ去られて行ったからである。
私達も、今までの人生、恥ずかしい事や消し去ってしまいたい事もあるだろう。
しかし主は、からし種ほどの信仰を振り絞って私達が主に為した純粋な事だけを、永遠に残して下さるのだ。
信仰が試される時、自分自身の肉の行いや、主イエス不在の頑張り、自分の好き勝手という不純物は、全て燃やしていただき、ただ主にあって純粋な、永遠に残る栄光の作品を建て上げていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:真の先物取引の必勝法(創世記41:47-57):右クリックで保存
先物取引する人は、何年も供給過剰が続くような商品をひたすら買い続け、それを7年も続ける、などというような事は、普通はしない。
人は先に何が起こるのかが分からないため、そんな事をしたら在庫を腐らせたり、別のチャンスを逃してしまう恐れがあるからだ。
しかしヨセフはどうしたか。
『ヨセフは穀物を海の砂のように、非常に多くたくわえ、量りきれなくなったので、ついに量ることをやめた。』(創世記41:49)
普通なら、穀物を他国に売ったり生産調整したりするものだが、彼は7年間、ひたすら倉庫を造っては備蓄した。
それは、人の目には愚かに見えたかもしれない。
しかしヨセフは、神から示された事を信じて、ひたすら蓄えるよう指示した。
そしてやがて、彼が蓄えて来た物の価値が暴騰する時が来るのである。
ノアもまた、海のない所に巨大な船を造るという、人の目には愚かに見える事をしたが、やがて人々は、ノアの勧め通りその船に入っていれば良かったと後悔する日が来てしまう。
主がノアやヨセフにあらかじめ起こる事を示しておられたように、私達にも今、やがて起こる事が記され、為すべき事を示されている書物がある。
それが、聖書である。
株や先物取引などをする人は、指標や要人発言に神経を尖らせ、昼も夜もチャートに目を留めていなければ気が済まないものだ。
それは、自分の資産をいかに増やし、いかに減らさぬようにするためだが、それらは心を病ませ、人生の大切な時間を奪わせるものだ。
世の冨は移ろいやすく、人を欺き、まことのいのちから遠ざけるからである。
むしろ私達が気にするべき指標は、時代のしるしであり、最も耳を傾けるべき要人は、イエス・キリストである。
昼も夜も、御言葉というチャートに目を留め、今自分がどこにいるのか、どこへ向かうべきなのか。
そこに私たちが目を向けるなら、誰にも掠め取れず決して欺くことのないまことの資産を天に蓄え、永遠のいのちを獲得するのである。
それこそ、真の先物取引の必勝法である。
『ききんの年の来る前にヨセフにふたりの子が生れた。これらはオンの祭司ポテペラの娘アセナテが産んだのである。』(創世記41:50)
ヨセフは必然的に異邦人の妻を迎えさせられる事となったが、ヨセフは家の中で妻に主導権を握らせるような事はさせず、しっかりと神を畏れるスタンスを家庭の中で保った。
その事は、彼自身が二人の子を名付けている場面から、容易に想像できる。
ヨセフに二人の子が生まれた時、共通して彼が告白している事は、彼はエジプトの地で労苦と苦しみを覚えていた事、しかし「神」が主体的に働かれ、そこから救い出して下さった事だ。
ヨセフの物語を見るに、彼がその時、何を思い、何を感じたか、という表現が無いため、ヨセフという人物は何か苦しくてもマイペースにのほほんと生きてきたかのような印象を受けるかもしれないが、ヨセフは確かに、かの13年間、苦しかったのである。
悲しく、恐く、心細く、悩み、涙する事も、当然あったのである。
しかし、彼はたった一人の苦しみの中で、彼は神にのみを頼みとし、その結果、神が彼のやる事なす事全てうまく行かせて下さったのだ。
『ヨセフは長子の名をマナセと名づけて言った、「神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」。』(創世記41:51)
マナセはヘブル語ではメナシュ、「忘れる」の語源「ナシャ」の派生語である。
彼はそれまで、父の家を思い出すたびに、嫌な、恐ろしく悲しい思いをしていたのだろう。
しかし神は、その事を忘れさせて下さった。
私達もまた、たとえ自らの身に招いた罪の故に罰せられていても、主に悔い改めて立ち返るなら、それらの苦労を忘れさせて下さるのである。
『先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。』(イザヤ65:16-17)
『また次の子の名をエフライムと名づけて言った、「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」。』(創世記41:52)
エフライムは「実り多い」の意味「フェラ」の派生語である。
主は、昔の事どもを忘れさせるだけでなく、導かれた所で、実り多くさせて下さるのだ。
『「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと」』(イザヤ40:1)
ヨセフは、蓄えるべき時に蓄えていたために、ききんが来ても慌てる事なかった。
『ききんが地の全面にあったので、ヨセフはすべての穀倉を開いて、エジプトびとに売った。ききんはますますエジプトの国に激しくなった。ききんが全地に激しくなったので、諸国の人々がエジプトのヨセフのもとに穀物を買うためにきた。』(創世記41:56-57)
全身おできの貧乏人・ラザロが留まっていた金持ちは、天に富を蓄えるべき時にそれをせず、遊び呆けていたため、蓄えるべき期間が終ってしまった時、彼はハデスに行くしかなかった。(ルカ16:20-31)
また愚かな5人の乙女は、油が買える内に油の用意をしておかなかったため、花婿にめとられるべき時機を逃してしまい、外の暗闇で歯ぎしりする事となってしまった。
ヨセフが豊作の7年間にしっかり蓄えたように、天に蓄えるべき時機を逃さず、しっかりと蓄える皆さんでありますように。
この世で生かされている恵みの時、救いの時に、花婿がいつ迎えが来ても良いよう聖霊の油を絶やさず、よるべの無い弱い兄弟姉妹を憐れむ事によって、しっかりと天に蓄えをしておく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:監獄の奴隷から総理大臣へ(創世記41:37-46):右クリックで保存
『パロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。』(創世記41:39-41)
いよいよヨセフは、監獄の奴隷から、総理大臣へと、大昇進を遂げる。
ヨセフを総理大臣に大抜擢したパロは、ヒクソス時代の王と思われる。
エジプト人は元々羊飼いを嫌い、ヘブル人とは一緒に食事をしないものだが、ヒクソス(ヘカ・カスウト:「異国の支配者達」あるいは「羊飼いの王達」の意味)は、パレスチナ地方に起源を持つ、異国の血が混じった雑多な集団と考えられており、異国人や他文化には比較的寛大で、パロがヨセフに理解がありエジプトの神々にも執着がない事とも、つじつまが合う。
総理大臣として国政を任せるからには、当然、夢を解く能力だけでは務まらない。
会社の人事が学生を採用するにあたり、学生時代にどのように資質を培って来たかを見るように、パロもまた、ヨセフを呼び寄せるに当たり、献酌官長や彼に関わった全ての人達から、彼の人となりを詳しく聞き、背後調査をしただろう。
ヨセフがいた監獄でどんな管理をし、仕事ぶりを発揮したか。ポティファルの家でどんな仕事ぶりで、どんな昇進を遂げ、どういう成果を出したか等、彼の性格や人となり、管理能力や問題解決能力など資質を総合判断し、その上で「神の霊」に満ちている様を見たので、パロは彼に国政を任せる気になったのだろう。
私達も、小さな事に忠実となり、素養を培うべき時にしっかりと培うべきである。
『そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第二の車に彼を乗せ、「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。』(創世記41:42-43)
指輪は印鑑の役割を果たし、王としての権威を委ねられた、という事である。
また亜麻布の衣服は高級な宮廷服であり、金の首飾りは名誉のかざりである。
「パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた。ヨセフはエジプトの国を巡った。」(創世記41:45)
パロがヨセフに与えた新しい名「ザフナテ・パネア(別訳:ツァフェナテ・パネアハ)」とは「世界の救い主」「秘密を解き明かす者」あるいは「神は語る、彼は生きる」という意味だそうである。
パロがヨセフをそのような称号で呼ばせたように、私達も、イエス様を一家の救い主とし、秘密を解き明かす者、人生の導き者と家族に呼ばせるなら、大いに祝福され、栄えるのである。
ヨセフはイエス様のひな形である。
ヨセフは30歳の時に公な活動を開始したように、イエス様も同じ30歳で公の活動を開始した。
父からの寵愛を受け、誰にも正直に、神から託された事を語り、それ故に妬まれ、憎まれ、銀で売り渡され、無実であるのに罪状をなすりつけられた。
それでも彼は、ののしり返さず、正しくさばかれる神に委ね、一時は地下牢に下ったが、後には栄光の統治の座に着いた。
パロは自ら支配の座を降り、神の霊に満ちた人・ヨセフに委ねたが、そのパロの態度を私達も見習うべきである。
パロ(ファラオ)とは元々、「王宮(大きな家=ぺル・アア)」を意味するが、彼はエジプトという車の運転席を降り、ハンドルをヨセフに譲って、ヨセフのハンドルさばきに国の運行を委ねた結果、パロの家は、どの国よりも栄えた。
私達も同じように、自分の人生という車の運転席を自ら降りて、イエス様に譲り、イエス様に人生のハンドルさばきを委ねるのである。
そうするなら全てにおいて祝福され、幸いな者とされ、滅びる事のない神の国へと導かれて行くのである。
『あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。』(1ペテロ2:21-25)
礼拝説教メッセージ音声:神の言葉の代弁者として(創世記41:16-36):右クリックで保存
『ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安(シャローム)をお告げになりましょう」』(創世記41:16)
神は、ヨセフという預言者を通してパロに平和を告げ知らせたが、同じように、主は私達をヨセフのように用いて、世に平和の福音を告げ知らせられる。
エジプトは当時の世界の大国で、その王であるパロに比べれば、ヨセフはあまりに小さく取るに足りない存在であったかもしれない。
しかし、全てを支配しておられる天の神がヨセフと共におり、そしてその御方は私達にも共におり、いかに世界のスーパーパワーのトップであろうとも、このお方の手の上に踊らされているに過ぎず、その御心は必ず成就するのである。
『いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。わたしは東から猛禽を招き、遠い国からわが計りごとを行う人を招く。わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。』(イザヤ46:9)
ダニエルも、バビロン王の夢の意味が示された時、神を賛美して言った。
『「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、知恵と権能とは神のものである。神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。神は深妙、秘密の事をあらわし、暗黒にあるものを知り、光をご自身のうちに宿す。』(ダニエル2:20-22)
そういうわけで、私達がいかにちいさな存在であっても、主が共におられるならば、決して恐れる事など無いのだ。
パロはヨセフに夢の内容を打ち明けたが、それはいずれも、先に7つの肥えたものが現れ、後に現れる7つの痩せたものが、それを飲み込んでしまう、という内容だった。
神の霊に満たされたヨセフは、7年の大豊作と、その後の7年の大凶作が訪れるという、神の意図を解き明かした。
ヨセフは「神が」という言葉を幾度も用い、天地を造られた神が世界の全ての運行を支配されている事を強調した。
彼は王や人々を前に、神の言葉を代弁して語ったが、果たしてパロはそれを受け入れて、ヨセフの言うとおりにした。
そうしてパロも、エジプトという国も、滅びることをまぬがれた。
神の言葉を預かった者(預言者)が神の意図を人々に語り、それを受け入れた人々は救われ、受け入れなかった人々は滅びる。
それはいつの時代も変わることなく行われており、現代を生きる私達も、同じように、神の意図を人々に語るべきである。
『それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。
こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。』(創世記41:33)
ヨセフは、大地が実りを生み出す時期に、蓄えをしておく事を、エジプトの人々に勧めた。
私達も、キリストから勧められている。
今は、キリストの福音が告げ知らされている恵みの時、救いの時期である。あらゆる国に出て行って福音を伝え、人々にバプテスマを授け、弟子とし、多くのたましいを、天の倉へと蓄える事を。
『わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、/「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、/救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。』(2コリント6:1-2)
『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。』(ヨハネ 4:35-36)
やがて、たましいの収穫が出来ない暗闇の時代が来てしまう。
そうなる前の、収穫可能な今の内に、一人でも多くのたましいの刈り取りをする働き人として私達は働くべきであり、収穫の主に働き人がさらに起こされるよう、祈るべきである。
多くのたましいを天の倉に納め、かの日には「良くやった、忠実なしもべよ」と主から褒められ、天の御国において多くを任される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:主が露わにする時は必ず来る(創世記41:1-16):右クリックで保存
『朝になって、パロは心が騒ぎ、人をつかわして、エジプトのすべての魔術師とすべての知者とを呼び寄せ、彼らに夢を告げたが、これをパロに解き明かしうる者がなかった。』(創世記41:8)
神の御心は、人の知恵で計り知る事はできず、世のどんな知者もそこに到達する事はできない。
神が見させた夢を解釈できたのは、神の霊が宿る人・ヨセフのみであったように、御霊によって新しく生まれた人のみが、御心を悟る事が出来るのである。(ヨハネ3:8)
パロの献酌官長はこの時、二年越しにしてようやく、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフの事を思い出した。
ヨセフはあの時、神の知恵を語ったのに忘れ去られ報われなかった。
同じように私達も、神の国のことばを伝えた時、相手は表層的な事しか覚えてくれていなかったり、忘れ去ってしまったりして、落胆したり、その時は日の目を見なかったりする事がある。
しかし、神の言葉は決して地に落ちたままでいる事は無い。
神の言葉を伝えられた人が、たといそれを忘れたとしても、この献酌官長のように、否が応でも思い出させられ、王の御前で申し開きしなくてはならない時が、必ず来るのである。
ヨセフが献酌官長に伝えた言葉は、その時は実らなかったが、ずっと後に実ったように、私達が語った御言葉も、決して地に落ちたままでいる事なく、必ず後には実るのである。
『天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。』(イザヤ55:10)
ヨセフは今まで、良い事をしてもそれが悪い方向へ、悪い状態へと引きずられて行ってしまったが、今度は一転して、今まで受けてきた良くない事を全て償って余りある方向へと導かれる。
『そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の獄屋から出した。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてパロのもとに行った。』(創世記41:14)
御言葉のともしびは、人間がいかに器に隠そうとしても隠しおおせず、必ず主が燭台の上に置かれる。
ヨセフが牢屋という密かな狭い所で語った御言葉は、今度は公で広い所で語る事となり、彼が密かな狭い牢屋で行った忠実なわざも、今度は大きなステージで、公に為す事となる。
『あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。』(ルカ8:16-18)
良い事であれ、悪い事であれ、密かな所で言った事や行った事は、主が露わにするべき時には、必ず露わにされるのである。
『ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。』(創世記41:16)
ヨセフは、夢を解き明かすこの特殊な能力の出処は、自分ではなく、神である事を公にした。
使徒パウロも同じように、牢獄から王の前に引き出されて行った時、そこで語った言葉は、自分に関する釈明ではなく、十字架につけられたキリストすなわち救い主についてであった。(使徒25章)
王や権力者の前に引き出されて行った時、何を語ろうかと、心配するには及ばない。
御霊に導かれているなら、語るべき言葉は与えられるからだ。(マタイ10:19-20)
『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)
ヨセフは一時期低く、卑しくされたが、後には、彼を低く卑しくした全ての膝は、ヨセフの前にかがめられるようになる。
キリストも一時は低くなられたが、後には、全ての膝は彼の前にかがめるのである。
そして御言葉は、たとい一時期人から忘れされても、後にはその御言葉は、誰の目にも明らかな形で実を結び、神の御業は必ず成就するのだと、人々は知るようになるのである。
礼拝説教メッセージ音声:牢獄のような狭い世界で(創世記40章):右クリックで保存
その後、ヨセフが入れられている監獄に、献酌官長と調理官長が入れられてきた。
『侍衛長はヨセフに命じて彼らと共におらせたので、ヨセフは彼らに仕えた。こうして彼らは監禁所で幾日かを過ごした。』(創世記40:4)
ヨセフは、与えられた仕事なら奴隷仕事でも監獄でも誠実に実行し、やる事なす事全て祝福されたため、どこででも信頼を得、責任ある仕事をどんどん任された。
彼は、全ての仕事がうまくいくその与えられている特権を、脱獄したり暴動を起こしたりといった身勝手な方向には用いず、与えられている持ち場に留まり、与えられている権威に忠実に従うという方向に用いたため、後にはエジプト一国という大きな事を神様から任せられるようになり、イスラエルの全家族を救うという大役が任せられる事になる。
『さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役のふたりは一夜のうちにそれぞれ意味のある夢を見た。』(5節)
彼は、牢屋という狭い世界にいたため、主から与えられている「解き明かし」の賜物を発揮する機会が無かった。
与えられている霊的な賜物(神様から与えられている能力)を、狭い世界に閉じ込められているが故に発揮できずにいる事を、人はもどかしく思い、自分はこんな所でこんな事をしているような器ではない、と、じたばたするものだが、彼はそんな事せず、忠実に仕えたのだ。
『彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。』(8節)
ヨセフは、自分に与えられている賜物の源は神から来るものであり、その能力を用いるのは、自分が活躍して偉くなるためではなく、神の栄光を周囲の人達に現すためだと、彼は知っていたのである。
ヨセフが、牢屋という世界の狭い人間関係において、神の栄光を表していたように、私達も、変わらぬ日々のつまらない日常において神の栄光を現し、周りにイエス・キリストを伝えるべきだ。
献酌官長が夢の内容を語った時、ヨセフはその夢を見事に解き明かした。
すなわち、彼は三日目に開放され、元の地位に戻るのだ。
その時、ヨセフはお願いする。
『あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」。』(14-15節)
彼は、自分の兄のせいでとか、あのポティファルの妻のせいでこうなった、等と人の事は言わず、ただ「わたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかった」からと、平和にお願いしている。
忘れてはならない。地を相続するのは、平和な者である。(マタイ5:5)
そしてまた、調理官長も自分の夢をヨセフに語るのだが、その解き明かしは調理館長にとって災いだった。
それでもヨセフは、偽りの慰めは言う事なく、神様から与えられた事を、正直に正しく伝えた。
預言者たる者は、神から与えられた事を正しく伝えなくてはならず、たとい滅んでいく事がわかっている者にであっても、そうするのである。
そして彼がこの時、正直に正しく伝えたからこそ、彼には確かに神の力が宿っていると、パロに伝えられたのだ。
世の中では「正直者はばかを見る」かもしれないが、神の国では「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(箴言2:21)のである。
果たしてヨセフの解き明かし通りの事が二人に起こるのだが、献酌官長はヨセフに頼まれていた事を思い出さず、彼のことを2年も忘れてしまっていた。
それはヨセフにとっては災いだっただろうが、それも実は、神にあって重要な意味があったのである。
もしこの時、献酌官長がヨセフに言われていた事を忘れずに実行し、その時ヨセフが釈放されていたら、彼はきっと、かの問題だらけの父や兄達の元に帰り、全ての事を父に正直に伝え、一悶着起こし、一生を羊飼いで過ごしていたかもしれない。
人は何かと目先の事しか考えず、あまり良くない結果しか生み出さないが、天が地よりも遥か高いように、主の道は私達の道よりも高く、主の御思いは天のように高い。(イザヤ55:9)
もし今、目の前の現実において、牢獄のような狭い世界でつまらないと見られる事を任されていたり、賜物を発揮できないような状況にあるとしたら、全ての事を主にあって忠実に為してみてはどうだろうか。
神に対して罪を犯す事を強要されるなら、ヨセフのように断固拒否するべきであるが、罪を犯させない環境下であるなら、与えられている事がどんな事であっても、忠実に為すべきである。
そして、小さな事に忠実であり続けるなら、さらに大きなことが任されるのである。
礼拝説教メッセージ音声:牢獄に入れられた時には(創世記39:11-23):右クリックで保存
ヨセフは奴隷として売られた後は、無実の罪で監獄へ入れられてしまう。
『主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。』(創世記39:19-20)
人は時に、「なぜ正しい事をしているのに、どんどん不利になって行くのか」「神がいるのに、なぜ悪人は栄え善人は虐げられっぱなしなのか」と、不条理な世の理不尽さにあえぐ。
人は、未来は分からない。一年後どうなっているのかも、明日起こる事さえ見る事はできない。
それ故、きょう目の前で起こっている事の現実が、あたかも、いつまでも続くかのように錯覚してしまう。それが自分に栄光であろうと、自分に災いであろうとも。
しかし、主の御思いは人の思いを超えてはるかに高く、主が求める者に計画しておられるご計画は将来と希望を与えるものであり、備えておられる道は最善の道だ。
『「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。―― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』(イザヤ55:8-11)
『こうしてヨセフは獄屋の中におったが、主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。』(創世記39:21)
主は牢屋の中でも、魚の腹の中であろうとも、共におられ、私達の祈りを聞き、恵み深く計らってくださる。
人は思うかもしれない。主がおられるなら、牢屋の中に共におられると言う以前に、初めからわたしを牢屋にぶち込まなかったほうが良かったのに、と。
しかし、主がなさる事には、必ず意味がある。
ヨセフがこの時代、この時、「王の囚人が入れられる獄屋」に彼が「いる」事が、後のイスラエル民族のためにとても重要で、どうしても外せない事だったのである。
同じように皆さんも、今この時この場所で、苦しい目に遭っている事は、実は将来の重要な事のための、主の布石だったりする。
『主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。』(哀歌哀歌3:25-33)
主は何のために、あえて人を辛く苦しい所を通らされるか。
それは、私達の心の内が、神と人との前に明らかにされるためであり、結局、物事は人の手で成し遂げられるのではなく一方的に主が成して下さるのであり、主こそ全ての全てだと、私達が知るためである。
『あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
・・・
あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』(申命記8:2-16)
奴隷仕事の中でも、牢の中でも、主から来るマナ、すなわち主の慰めや必要の満たしは、必ずある。
そして主を頼りとしているならば、主はついには私達をしあわせにして下さる。
くびきを負わされ試練の中に入ったのであれば、一刻も早く自分を下ろし、主の御手の内に服従する事で、速やかにその試験をパスし、さらにさらに多くをまかされる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!