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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:安住するなかれ(創世記25:19-26):右クリックで保存

イサクは祝福の家系に生まれ、生まれながらにして子孫の祝福は約束されてはいた。
しかし、結婚して5年経っても、10年経っても、15年経っても、子は生まれなかった。
そこで彼が祈ったところ、主がその祈りを聞き届けられ、20年目にしてやっと与えられた。
イサクが60歳の時であった。

私達キリスト者も、イサクのように、祝福の約束は確かに与えられているが、その祝福の実体、例えば、仕事の成功、結婚相手、子供、金銭などが中々与えられない、といった事は、大いにある。
もし私達が、願う事がスルスルと叶えられ、祝福もインスタントに与えられるとしたら、主に対する感謝も、有難みも、与えられたものへの思い入れも、愛着も、沸かないのではなかろうか。
私達がキリスト者である事にあぐらをかき、主に求めず、祈りもせず、感謝も無い、という事であるなら、主はそこを取り扱われるために、敢えて与えて下さらない事があるのだ。

アブラハムの導かれ方は、主から歩むべき道が示され、示された通りに実行したら、さらに具体的に次の道が示されて、それを繰り返して行く内に、さらに恵みの高みへと登って行く、というものだった。

キリスト者の歩みは、祝福が与えられてそこに満足し、そこで主との関係が途切れてしまう、というものであってはならないのだ。

天国は、神と人とが共に住み、永遠に関係を持つ所である。
同じように、神と人とが、途切れなきリレーションを続ける事こそ、人にとっての祝福の歩みである。

「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。」(創世記25:24-26)

アブラハムからダビデ、キリストへと続く栄光の家系を受け継いだのは、長男のエサウではなく、ヤコブとなる。
エサウは後に、兄という立場に安住し、長男という生来の権利を軽んじ、食べてしまえば無くなるものを得る為に、売ってしまったのだ。

私達も、決して売ってはならぬものがあり、それは、キリスト・イエスにあって御国を受け継ぐ権利である。
食物やお金、地位や名誉など、いずれ無くなってしまうものを得るために、この大切なものを売ってはならない。
私達がキリスト者である事に安住し、神の国を求める事、探すこと、叩くことを、止めてはならない。

「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12)

御国を得るまでは、貪欲なまでに主を慕い求める皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:アブラハムの子孫とは(創世記25:1-18):右クリックで保存

妻サラが亡くなった後、アブラハムはさらにケトラという名の妻をめとり、彼女はアブラハムに6人の子を生んだ。

サラが亡くなった時、アブラハムは137歳のはずであるが、それ以降にも妻をめとって、6人も子を生んだのは、驚きである。
サラもまた、89歳であった時、信仰によって子を宿す力が与えられ、異国の王に「美しいから」という理由で召し入れられた程、主から若さと美しさを増し加えられたのだ。
人はそれらを有り得ない事、創作物語として片付けるかもしれないが、信じる私達、すなわち信仰によるアブラハムの子孫である私達は、それらの事を大きな励ましとして、望みをもって受け止めるべきである。

ケトラによって新たに生まれた6人の子の子孫は、以降の聖書には滅多に登場しないし、イシュマエルの子12人の子から生まれた子孫も、全く出てこない。
「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(創世記25:5-6)
なぜなら、イサクこそ主に約束された子であり、祝福はただ、約束の子のものだからである。

「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」(ローマ9:7-8)
人間的な力によって、すなわち、肉によって出たものは、主の祝福を受け継ぐ事は決して出来ず、ただ、主の約束によって出たもののみが、祝福を受け継ぐ事が出来るのだ。

私達はキリストを信じる信仰により、真のアブラハムの子孫とされ、約束の相続人となる事が出来る。(ガラテヤ3:29)
それはどのような血筋の者でも、いかにカナンの子孫であっても、イシュマエルの子孫であっても、そこに変わりは無い。
事実、遊女ラハブやルツは、滅ぼされるべき異邦人であったのに、全能者の御翼の陰に助けを求める信仰によって、イスラエルの民に加えられ、アブラハムの子孫として加えられた。

しかし、主から祝福の約束と御言葉を軽んじ、不従順を悔い改めないなら、呪われてしまい、神の民から除外されてしまうのは、列王記や歴代史の王達を見れば一目瞭然である。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタイ3:8-10)
そして、イエスの十字架の血潮をないがしろにし、恵みの御霊を侮る者には、もはや罪のためのいけにえは残されていない。(ヘブル10:26-31)

「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」(創世記25:7-8)
私達の信仰の父、アブラハムは、そのように平安と尊厳に満ちた生涯を終えた。
アブラハムのように、全ての人のために祈り、願い、とりなし、感謝を捧げる事によって、敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす皆さんでありますように。(1テモテ2:1-2)
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:花嫁と出会う花婿(創世記24:62-67):右クリックで保存

太陽が地平線に沈もうとしていた時、メソポタミヤ方面から長旅をして来た老僕とリベカ達は、ヘブロンに到着した。
その時、イサクは野にいて散歩していた。

イサクが顔を上げて見ると、北東方面から、らくだに乗ってこちらに来る一隊が目についた。
一隊の女性たちの中には、ひときわ美しい乙女がいて、顔や腕に飾られた金の飾り輪が、スポットライトのような夕日を受けて輝いていた。
イサクは彼らに対して夕日を背に位置していたため、一隊の目からは、彼は暗いシルエットとして見えただろう。

イサクとリベカ、初の対面である。
黄金で飾られ、夕日の光に輝くリベカを見て、イサクはどのように感じただろう。
『リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか」と僕に尋ねた。「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。』(創世記24:64-65)

この箇所で思い出すのは、雅歌1章の女性である。
『エルサレムのおとめたちよ/わたしは黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。』(雅歌1:5-6)

雅歌に登場する女性は、自分が野の仕事ばかり命じらて日焼けしていたため、花婿に、自分を見つめないで欲しいと思った。
リベカもまた、10頭のらくだ全てが水を飲むまで、井戸の階段を走って登り降りする程の逞しい女性である。
恥じらいがあったのかもしれない。しかし大切なのは、花嫁の側の自意識ではなく、花婿がどう花嫁を見るか、である。

「恋人よ、あなたをたとえよう/ファラオの車をひく馬に。房飾りのゆれる頬も/玉飾りをかけた首も愛らしい。あなたに作ってあげよう/銀を散らした金の飾りを。」(雅歌1:9-11)

花嫁を逞しい馬車馬にたとえるのは、現代の日本人にとっては不思議な価値観だが、ファラオの車をひく馬は特別な馬である。
よく調教されており、手綱一本で主人の意向どおり動かなくてはならない。
王である花婿が目を留めるのは、従順さにおいてよく訓練さている事、そしてまた、花婿が贈る贈り物を身につける、という事である。
花嫁がいかに世に擦れていようとも、黒くとも、王が着せる花嫁衣裳を着けて、王の好みの飾りによって、望むがままに飾られる花嫁を、王は愛するのだ。

イサクは、母が産みの苦しみをした天幕の奥の間へと彼女を導いた。
彼はリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。(67節)
同じように、キリストも、その妻である教会、すなわち、新しいエルサレムが整えられ、花嫁として自分の幕屋に迎える日を、心待ちに待ち望んでいる。

私達は思うかもしれない。
自分は世の罪に染まって真っ黒になってしまった、主の聖なる眼差しで見られるのは、耐えられない、と。
しかし、私達がいかに世から汚れを受けていようとも、いかに罪で真っ黒になっていようとも、キリストの血によって洗い清められ、キリストの贖いの衣を着せられ、キリストの望むままに飾られるのであれば、王であるキリストによって、愛されるのだ。

大切なのは、私達の自意識ではない。
キリストが私達を、どのような眼差しで見て下さるか、である。
キリストはご自身を信じる者達を、自らの血によって洗い清め、贖いの衣を着せ、花嫁として飾られるのだ。

『更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』(黙示録21:2-4)

この新しいエルサレム、キリストの花嫁は、リベカよりもさらにゴージャスに飾られている。
透き通ったガラスのような金で飾られ、土台は全て色とりどりのの宝石であり、門は真珠でできているのだ。

私達にとって大事な事は、自分生来の美しさでもなく、自前の飾りで着飾る事でもない。
そんなものは、主の御前に受け入れられない。
ただ主によって洗われ、清くされ、御心のままに飾られる事が重要なのである。

礼拝説教メッセージ音声:即行動する事の大切さ(創世記24:54-61):右クリックで保存

このしもべは、無事にイサクの嫁となる娘の所へ導かれ、めでたく了承までいただき、一件落着したかのようにも見えたが、彼の使命は、まだ終わってはいなかった。
『 僕と従者たちは酒食のもてなしを受け、そこに泊まった。次の朝、皆が起きたとき、僕が、「主人のところへ帰らせてください」と言うと、リベカの兄と母は、「娘をもうしばらく、(少なくとも)十日ほど、わたしたちの手もとに置いて、それから行かせるようにしたいのです」と頼んだ。』(創世記24:55-56)

常識的に考えれば、リベカの兄と母のこの気持ちの方が自然で、それに対する僕の申し出は、なんともせっかち、思いやりが無いように見えるかも知れない。
ある日突然決まった縁談話である。
長年大切に育てて来た、美しい娘であり、妹であるわけだから、彼らの思いとしては、嫁いで行く前に十日とは言わず、一ヶ月、あるいは一年、一緒にいたい気持はあろう。

しかし、家族がリベカを引き止めて、最後のあいさつなどを交わしたり、最後の歓待をして日を過ごしている内に、「やっぱりこの美しい娘、大切な娘を手放したくない」「やっぱり一度も見たことの無い国、会ったことの無い男性に嫁いで行くのは嫌だ」という思いが募ってしまうかもしれない。

彼女はその時、実感が湧いていなかったかもしれないが、彼女がこれから加えられる家は、祝福に満ちた栄光の家系であり、彼女は王族の母となろうとしているのである。
信仰者にとって、目の前の家族との小さな幸いを手放したくないために、さらに優れた幸いを損じる事は、ありがちである。
アブラハムの家に連なる事こそ、リベカにとって最も幸いであり、最も祝福である。
そして私達にとってもまた、神の国とその義とを求め、信仰によってアブラハムの子孫となり、永遠の御国を受け継ぐ事こそ、最も優先すべき事である。

この老僕は、知恵があり、その事を良く知っていた。
だから、思いやりが無いとか、せっかちだとか思われる事を恐れ譲歩するような事はせず、日を置かずに彼女を連れ出すように、願い出たのである。

聖霊もまた、天の父の御思いは何であるかを知り、何が最善であるかを知っておられる。
人の目から見たら幾分せっかち過ぎるのでは、と思えるような導き方もあるかもしれないし、時には、思いやりも無いかのように見えるかもしれないが、それでも、御言葉に裏打ちされた聖霊の導きには、従うべきなのである。

最終的な判断はリベカ本人に委ねられたが、リベカは、即座に行く事を、表明した。
そうして彼女はめでたく栄光の家系に加えられたのであるが、もしこの時、躊躇していたら、そうでなくなる可能性がどんどん大きくなった事だろう。

主の御心が示された時、それを義理や人情、感覚で先延ばしにしているなら、より、やっかいな根が生えてくる事になるものである。
アブラハムは、割礼の契約が与えられた時、その日のうちに男子全員の包皮を切り捨てたし、また、イサクを捧げなさいと言われた時も、翌朝早くに出発した。
時間を置けば置くほど、未練が残ってしまうのが人間というものである。
だから、アブラハムやこのしもべの判断は、正しかったのだ。

いのちを救うために、離れるべき過去、離れるべき世的な楽しみからは、後ろ振り向かず、本気で走って逃げなくてはならない。
ロトとその家族は、滅びるべき町にいつまでも未練を残してしまったため、全ての積み上げてきた財産を、全て失ってしまった。
ロトの妻にいたっては、滅び行くソドムの町を、じっくり眺めてしまったため、塩の柱となって、そこに永遠に留まる事になってしまった。

ラバン達はリベカを祝福して言った。「わたしたちの妹よ/あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫(単数形)が敵の門を勝ち取るように。」

この祝福は、アブラハムがイサクを捧げた時に与えられた祝福と同じである。
自分の大切な家族さえ、主の故に捨てた者に与えられる祝福、それは、子孫(単数形)が敵の門を勝ち取る祝福であり、この「単数形の子孫」は、主イエスキリストの事である。
祝福を与えたのは、信仰のしっかりしていないラバンとその家族であったが、大切なのは、祝福を「さずける側」の信仰ではなく、祝福を「受ける側」の信仰である。
ハンナは、信仰のしっかりしていない祭司エリから祝福を受けた時、信仰を持ってその祝福を受け止めたからこそ、サムエルを生むという祝福に預かった。

主の思いは、私達の願いや、私達の思う最善をはるかに超えて、高い。(イザヤ55:6-9)
結局、自分を降ろして、主の御言葉に従い、主の御心を優先させる事こそ、最善と幸いを受ける事の最も近道であり、自分を捨てて従う者に主は(単数形の)子孫として現れてくださり、その主が、私達の内にあって、敵の門を勝ち取らせて下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:天からもたらされる縁談話(創世記24:28-53):右クリックで保存

イサクの嫁さがしを命じられた老僕は、15章に登場したダマスコのエリエゼルと思われる。
「エリエゼル」の名は「助け主」「慰め主」という意味があるが、今回、彼は実にその名の通りの働きをしている。
彼の働きはまた、現代、私達の内に働かれる聖霊の働きと一致している所がかなりあるので、その視点からこの箇所を見ていきたい。

彼はベトエルおよびラバンの家に招待され、食事が並べられた時、食事に手をつける前に要件を伝えようとする。
その要件とはつまり縁談話なのだが、その縁談話は、実に型破りであった。

彼はまず、自分はアブラハムの僕である事を紹介した。
自分の主人は大いに富んだ者で、人間わざではあり得ない仕方で一人子を授かり、主人はその一人子に全財産を譲った事、また、主人はその子のために花嫁を求めており、花嫁たる条件は、堕落したカナンの娘ではなく、主人の定めた条件を満たす者、すなわち、アブラハムの家系の中から探すものである事を伝えた。(33-38節)

聖霊もまた同じように、私達に父なる神と一人子キリストを、何よりも先ず紹介される。
聖霊は証しする。すなわち、御子キリストは人間わざではあり得ない仕方で生まれた事、父なる神はこの御子に全ての権威と富をゆだねられた事を。
そしてキリストは花嫁を求めており、花嫁たる条件は、堕落した世の人間ではなく、御父による条件をクリアする者、すなわち、イエスを信じる信仰によって救われた「アブラハムの子孫」であるべき事である。

しもべは、主人から託された使命について、心配した。
『もしかすると、相手の女がわたしに従って来たくないと言うかもしれません』
私達がキリストを伝えに行く時、その人がキリストを受け入れるか拒否してしまうかを心配するように、聖霊もまた心配する。
せっかくのキリストとの縁談話を、その人が断ってしまって、キリストの花嫁として付いて行きたくありません、などと言わないかどうかを。

アブラハムは言った。
「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」(8節)
聖霊は、人にキリストとの縁談話をもちかけはしても、強制はしない。
もしその人が断るようであるなら、その責任は伝えた側には無いし、キリストは決してその人の所へ訪れる事も無い。

「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」(創世記24:49)

ラケルがこの僕に付いて行ってイサクの所へ嫁ぐかどうか決断が迫られたように、私達も、聖霊の導きに従ってキリストの所へ嫁ぐかどうか決断を迫られ、私達の自由意志に全て任されている。
聖霊は、全てにおいて富んでおられる全能なる御父の下から派遣され、全ての支配、権威、富を相続された御子キリストを証し、そして、私達に御子キリストへ嫁ぐかどうか決断を迫る。

実に、世の縁談とは程遠いやり取りである。
普通、縁談と言えば「おたくのお嬢さん下さい」と頭を下げるものだが、このしもべは、そうした事は一切無い。
自分は神に祝福された一族から使わされ、そして神の御心はこうで、このように神は導いて下さり、今こうしてここに話をしておりますが、さて、あなたはどうしますか?というものだ。
天からもたらされる縁談話とは、みなそのようなもので、人間の側に媚びる事は一切無く、ただ、決断を迫るものである。

『ラバンとベトエルは答えた。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。』(50-51節)

彼らは「良し悪し」を論ずる事なく、主のご意思に従う事を告白した。
もし彼らが、このしもべのすすめを拒んでいたのであれば、リベカはイサクと結婚し、全人類を救いへと導く王族の家系へ嫁ぐ事も無かったし、莫大な栄誉と財産を継ぐ事は無かっただろう。
同じように、私達も、自分由来の善し悪しを論じて、遣わされた聖霊を拒否するのであれば、自ら御父と御子への道を閉ざしてしまい、そして、天の王族の家系へ嫁ぐ事も、莫大な栄誉と財産を継ぐ事も無いのだ。

「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。そして、金銀の装身具や衣装を取り出してリベカに贈り、その兄と母にも高価な品物を贈った。」(52-53節)

縁談が成立したら、さらなる贈り物が与えられ、父や母にも、家族にも、その富が分配された。
聖霊もまた、私達がイエスを主として受け入れ、キリストとの結婚の縁談が成立した時、私達自身にだけでなく家族にも贈り物を贈られる。
私達自身への贈り物とは、聖霊ご自身であり、それは御国を受け継ぐための保証(手付金)である。(エペソ1:14)
そして家族への贈り物は、救いである。(使徒16:31)

私達は常に、御霊にあって歩むか、それとも肉にあって歩むかの決断に迫られるが、都度、御霊を選んで、御霊の結ぶあらゆる恩恵に預かる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:とんとん拍子に物事が進む背景(創世記24:10-27):右クリックで保存

しもべはアブラハムに命じられた通り、イサクの嫁に相応しい女性を探すために、アラム・ナハライム(メソポタミア)のナホルの町に出かけて行った。
当時、水汲みは女たちの仕事で、夕暮れ時に水を汲みに来るため、知恵のある彼は、夕刻、井戸の所に陣取った。
しかし、彼がイサクの嫁となるべき女性へと導かれるかどうかは、主の御手の内にある事を知っていたため、彼は主に祈った。

「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」

アブラハムの命令は、常識的に考えれば無謀だったが、このしもべが主に要求した事もまた、無謀な事だった。

当時、その地方井戸は、日本の井戸とは違って直径数メートルの竪穴で、外周に階段があり、その階段を水瓶を持って水の所まで降りて汲み、十何キロにもなった瓶を持って登って行くという重労働である。
それに、砂漠を旅したらくだは、風呂桶ほどの量の水も、平気で飲み干してしまうものだ。

井戸に水をくみに来る女性は当然、しもべの10頭のらくだが目についただろう。
彼に「水を飲ませてください」と声をかけられた時、らくだにも水を飲ませようと自ら申し出る女性がいるとすれば、よほどお人良しで、勤勉で、もてなし好きであろう。

彼がその祈りを終わるか終わらないかの内に、一人の美しい女性が、水を汲みに来るのが見えた。
彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。
「水がめの水を少し飲ませてください。」
すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませ、彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。

なんと、彼が祈り終わらない内に来た女性が、その困難な事を、実にあっさり成したのだ。
彼女は、らくだ全部が水を飲み終わるまで、水とらくだとの間を行ったり来たりした。
彼はじっと、主が祈った通りに彼女が成し遂げるか見ていた。

祈ったら祈りっぱなしで、祈った事を忘れる、という姿勢では、祈りは聞き届けられない。
祈ったなら、主が成し遂げて下さるまで、信じて見守る責任がある。
彼女は、最後まで成し遂げた。
この僕の祈った通りではあったが、最も肝心な事は、勤勉さではなく、彼女がアブラハムの血縁で、神を畏れる者であるかどうかである。

彼は贈り物の品を手にとって、彼女に聞いた。
「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでしょうか」
すると彼女は、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答えた。

彼女こそまさしく、主人アブラハムが望んだ通りの娘であり、しかも、しもべが祈った通りの事をしてくれたである!
『彼はひざまずいて主を伏し拝み、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。』(創世記24:26-27)

今回の事から我々が学ぶべきは、祈る時は、具体的に祈る事が大事である事、祈ったら祈りっぱなしではなく、祈りが聞かれるまでじっと見守る事、祈りが聞かれたなら、ひれ伏して感謝と賛美を捧げるべき事である。

今回のストーリーは、都合が良すぎ、話が出来過ぎに見えるほど、とんとん拍子に物事が進んだ。
しかしながら、クリスチャンになれば何でもかんでもとんとん拍子に事が進むわけではないし、神様は、人の身勝手な願いを何でも叶えて下さるわけではない。

このしもべは、自分の身勝手な願いを主に注文したのではなく、”主人アブラハム”のために、祈ったのである。
彼の祈りの主語は、あくまで”主人アブラハム”であり、自分の主人が信仰によって自分を遣わしたため、その主人の信仰が成就するようにと祈ったからこそ、その祈りはよしとされ、とんとん拍子に導かれたのである。

人は様々な計画を立てるが、その計画が為るかどうかは、神にかかっている事を、彼は知っていた。
自分の力ではなく、主人の信頼する神に「より頼む」信仰のお陰で、主は御使いを使わし、彼の旅路を守られた。

リベカもまた、普段から勤勉で、旅人を迷わずもてなす品位を備え、もてなす事を喜びとし、目上の人を大切にするだけでなく、その人の持ち物であるらくださえも、おろそかにしないという、その諸々な小さな事への忠実さが、栄光の家系の母という、大きな事を任される要因となったのである。

日々の日常をおろそかにせず忠実だったリベカがイサクの嫁として収まったように、いつも主を恐れる事によって日々整えられ、まことのイサクであるキリストの花嫁として収まる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:独身のあせりの時は(創世記24:1-9):右クリックで保存

イサクはリベカをめとった時、40歳(創世記25:20)、という事は、アブラハムはこの時点、およそ140歳であった。
創世記11章の系図を見ると、みんな2,30代で子を生んでいるので、40歳での結婚は、晩婚の部類に入る。
イサクはなぜその歳まで独身であったか。

それは、彼に相応しい助け手が中々見いだせなかったからであろう。
相応しい、とは、家柄の面でも、資産の面でも、ましてや美しさの面でもない。
主を恐れる信仰があるかないか、である。
彼らが住んでいたカナン地方は、偶像礼拝に満ち、不品行がはびこっており、そもそもイサクをカナンの子孫と結婚させるなど、信仰の上ではあり得なかった。
人は何かと、家柄や資産、美しさなどに惹かれ、中々結婚相手が見つからないと、手近な異性に惹かれるものだが、そうあってはならない。

アブラハムは年老いて、サラが死んで3年が過ぎ、40歳ほどになったイサクの結婚相手も、そろそろ見つけなくては、と思った事であろう。
しかし周りは、カナン人ばかり。
セムの子孫で神をおそれる女性など住んでいないし、訪ねにも来ないし、また、神の御声による具体的な指示も特に無い。
神が「○○に行きなさい」とか「○○と名づけなさい」など、具体的な導きをしたのは、イサクを捧げた場面が最後で、それ以降、神はアブラハムに直接指示する事はなく、全ての行いの決定は、アブラハムの信仰に委ねておられた。

現代、神が直接的な指示を、私達になされる事は少ない。
私達は、内におられるキリストに従い、神に喜ばれる事は何であるかを見極め、自由に選択し、御心に沿った行動をする事を、主は喜ばれる。(ガラテヤ5:13)

アブラハムは焦っただろう。このままでは、年月だけ、いたずらに過ぎていく。
そこで彼は、待ちの姿勢を止めて、信仰による攻めの姿勢に出た。

アブラハムは、最年長のしもべを呼び寄せた。
このしもべは15章に登場した、あのダマスコのエリエゼルと思われる。
エリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味、新約で言う「助け主」と同じ言葉で、彼はその名前の通りの事を今回為す。

『アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」』(24:2-4)

手を腿の間に入れての誓いは、最も厳粛な誓いである。(創世記47:29)
アブラハムが誓わせようとした内容は、普通に考えれば、困難を極めるものであった。

もしあなたが未婚女性だったなら、遠国の見ず知らずの老僕に付いて行って、800キロも向こうの、一度の言ったことのない国、一度も会ったことのない男性に、信仰によって嫁ぎに行けるだろうか?

僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」
見ず知らずの男性に嫁ぎにくる女性は皆無であろうが、実際に目の前にいる男性となら、結婚する気が起きるかもしれない。そう考えたのであろう。
しかしアブラハムの答えは、NOであった。
彼は、ずっと昔に与えられて今でも有効な「主の約束」を信じていたからである。

「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」(創世記24:7)

主はアブラハムの今までの長い人生を、ずっと導いて下さった。
だから、普通に考えればありえないような条件でのイサクの嫁探しも、主が御使いを使わし、導いて下さるに違いない。
そう信じたからこそ、堂々と指示する事が出来たのだ。

「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。」
アブラハムは「もし・・・」と言ったものの、100%そのような事は無く、このしもべは必ずイサクに相応しい嫁を連れて戻ると信じていた事だろう。
しかし、このしもべを安心させるために敢えてそう言ったおかげ、しもべは安心して誓い、安心して行く事ができた。

「ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」
アブラハムにとって、息子をメソポタミヤ地方へ向かわせる事は、有り得なかった。
ロトがソドムに定住して、悪い価値観に染まってしまったように、イサクが異国の風土に魅了され、約束の地を離れてしまうような事があってはならない、とアブラハムは思った事だろう。

どんな人と結婚するかも、おろそかにしてはならない。
ノアの時代、神の子たちは人の女が美しいのを見て妻にして、人類全体に滅びを招いてしまったし、後の時代のソロモン王やアハブ王も、不信仰な妻によって惑わされてしまった。
ロトの娘達は、手近にいる異性は父しかいない状況で、信仰によって忍耐する事なく、父と寝るような選択をしてしまい、後々に恥を残すようになってしまった。

結婚に限らず、人生の重要な場面において、望むものが中々与えられないような時、神様からの具体的な示しが無い時は、アブラハムのように、御言葉の約束にもとづいて、信仰の行動を取り、主の守りと導きに従って、祝福を勝ち取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:寄留者として(創世記23章):右クリックで保存

「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」(創世記23:2)
アブラハム人生最大の試練、イサクを捧げる場面では、彼の感情表記は一切無かったというのに、ここでは、アブラハムは胸を打ち、嘆き悲しんだと書かれている。
彼がいかにサラを愛し、大切にしていたか、いかにこの時悲しかったかが伺える。

アブラハムは、その地に住んでいるヘテ人たちに言った。
「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」
主からは、その地を与える、と約束されているのに、彼はあえて、自分は「あなたがたのところに一時滞在する寄留者」だと言っている。

私達も、この世では寄留者である。
世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく私達のものである(1コリント3:22)けれども、あえてそれを主張せず、世においては、持たない者のように、寄留者という立場で歩むのである。
なぜなら、私達は「主のもの」であり、本籍を天に置く者達であるからだ。

アブラハムはこの地において「神に選ばれた方」(英語の聖書では「神の王子」)と言われていた。(創世記23:6)
この事から、彼は、富においても、人格者としても、そして、全能の神が彼を明らかに祝福している点においても、彼は異邦人の中にあって、一目置かれた存在であった事がわかる。
私達も、教会の中でしか通用しないクリスチャンであってはならず、世に出ていき、キリスト者としてしっかり良き評判を得る事が望ましい。
御言葉を守り行う事によって、私達は祝福を受け、それを見た人達が全能なる神に栄光を捧げるようになるからである。

『アブラハムはヘテ人にていねいにおじぎをして言った。「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」』(創世記23:8-9)

実に、へりくだった物腰、謙遜な言い方である。
この地において祝福され、力があるのに、つけこんで傲慢にならず、彼はただ、エフロンの所有である畑地を所望した。
エフロンは彼に「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。」と応え、アブラハムは再び皆の前でおじぎをして答えた。
「私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。」

エフロンの「差し上げます」という言葉は、ずいぶん太っ腹に見えるかもしれない。
これは、当時のヘテ人(ヒッタイト人)の商取引時の慣習で、売る側は最初に「差し上げます」と言い、買う側は「いえ、代価をお支払いします」と辞退し、そこから具体的な値段交渉が始まるのが、当時の通例であった。

エフロンはアブラハムに答えて言った。
「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。」

当時の資料によると、村ひとつの値段は、百から千シェケル程だったので、一つの畑地に対して四百シェケルという値段は、かなり高額である。
四百シェケルは値段交渉の最初の一声であり、本来なら、そこから値下げ交渉が始まるはずだったのに、アブラハムは実に太っ腹で、言い値の最も高い段階で、それを成立させてしまった。
人々は、アブラハムの鷹揚さ加減に驚いたであろう。

事実、アブラハムにとって、四百シェケルは、大した事では無かった。
出費を抑える為に値段交渉は出来たであろうが、金銀など主がいくらでも備えて下さる事を知っていたアブラハムは、むしろ、仮住まいである異邦人の地で、平和に、神に祝福された者として、振る舞ったのだ。

こうしてこの畑地は、正式にアブラハムのものとなった。
彼はこのカナンの地の全体を、得た約束を主から頂いていたが、事実上、彼の人生の中で得た土地は、このわずかな畑地だけだった。
彼の富と武力をもってすれば、さらに多くの土地を得ようと思えば、得る事が出来たであろう。
にもかかわらず、彼が得たのは、墓場のみだった。

信仰の父であり、私達の父であるアブラハムが、そのようにしたからには、私達も、この世においては、いかに生きるかではなく、いかに死ぬか、という用意すべきである。
アブラハムは、自らを一時滞在する寄留者であると告白したように、私達もこの世界での歩みは、一時滞在の寄留者という立場である。

私達には、さらにすぐれた都、天の故郷がある。(ヘブル11:9-16)
そこにはアブラハムやイサクがおり、信仰の先人たちがおり、彼らは、私達が地上での信仰の歩みを全うして、やがてそちらに行くのを、待っている。
この世においては寄留者として生き、この世に煩わせられる事なく、ただ天の故郷を日々目指して歩み、この地上においてさえも、豊かに祝福されて歩んで行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:死と復活、そして永遠の祝福(創世記22:15-24):右クリックで保存

「主の山に備えあり」とよく言われている。
私達に与えられた最高の備え、最も感謝すべき備えとは、身代わりの羊である。
イサクは、身代わりの羊が備えられたお陰で、死ぬべきいのちが救われたように、イエス様が自らのいのちを投げ打ち、身代わりの羊として私達の罪を担って下さったからこそ、私達は救われたのだから。

『御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。』(創世記22:16-17)

今まで何度か主は現れ、約束を示されたが、「誓う」という言葉を用いられたのは、今回初めてである。
アブラハムが、自分のいのちよりも大切なイサクを捧げた事によって、彼への祝福の約束はここに極まり、主は誓って、確約へと至ったのだ。

人は普通、自分よりも偉大な者にかけて誓う事によって、あらゆる反論を封じる保証とするが、神は、ご自身よりも偉大な者が無いため、ご自身にかけて誓われた。
神は偽ることの無いお方であるため、元々誓う必要は無いはずだが、それでもわざわざ誓われたのは、人に錨のような安心を与えるためであり、また、励ますためである。(ヘブル6:13-19)

神は、アブラハムを豊かに「祝福」し、大いに「子孫を増やし」、その「子孫は敵の城門を勝ち取る」、という三つを誓われた。
ここに「子孫」という言葉が出てくるが、いずれも英語では「seed」、すなわち、種という意味の単数形である。

『アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。』(ガラテヤ3:16)
つまり、この単数形の子孫は、キリストの事で、天の星、海辺の砂のように増やされるのも、敵の城門を勝ち取るのも、全てキリストである。

「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53:12)

アブラハムの、この最高の従順によって、エバ以降、人類に与えられていた救いの約束が、誓いと共に確約した。

その約束とは、創世記3章15節「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」で、すなわち、女の子孫(単数形)が与えられ、彼がサタンの頭を砕く、という約束である。
蛇はかかとを砕く、すなわち、ある程度のダメージを「子孫」に与えるが、この子孫は、サタンの頭を砕き、致命打を与え、勝利し、そして、全人類はこの御方によって祝福に入る。
この、人類を救うメシヤである単数形の子孫が、アブラハムから出てくる事が確約されたのだ。

「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫(単数)によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:18)
アブラハムがこの祝福の誓いを勝ち取る事ができたのは、彼が主の声に聞き従い、実に、自分のいのちよりも大切な、イサクを捧げたからである。

自分自身を十字架の死に明け渡す事、そして、死から復活する事。これこそ、私達キリスト者の信仰の根幹である。
私達は、主の御前に自らを降ろし、自らを十字架につける事抜きには、復活はあり得ず、祝福はあり得ない。
自らを主の御前に降ろし、自らを十字架につけるなら、3日の死の後に復活の力が働き、その力は、世の何者も、サタンも、死にさえも、打ち破られる事は無く、永遠のいのち、永遠の祝福に入るのである。

礼拝説教メッセージ音声:主の山に備えあり(創世記22:9-14):右クリックで保存

アブラハムがイサクをささげる場面には、キリスト者にとって重要な様々な予表が埋め込められている。

父が、大切な一人子を捧げる。
その事に、御父なる神の、ひとり子イエスキリストを犠牲にする葛藤を見る。

アブラハムは、自分のいのちよりも大切な一人子を、刀を取ってほふろうとしたが、主が備えて下さった雄羊を身代わりとして捧げ、そうしてイサクは生かされた。
私達もまた、本来は自分の罪の故に死に処されて当然であるのに、まことの子羊・キリストが身代わりとなって罰を受けてくださったおかげで、私達はこうして、なお生かされている。

アブラハムは、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていた約束を信じ、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたため、信仰によって、イサクを死者の中から返してもらった。(ヘブル11:17-19)
それ故、イサクから出るアブラハムの子孫は、死をくぐって聖別され、その従順が神の前に義とされ、全人類を救いへと導く祭司のような民族とされたのである。
キリストもまた同様である。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブル5:7-10)

子であるイサクは、父の縄目に自ら縛られ、父によって神に捧げられてしまった。
イエス様はゲツセマネで、悲しみのあまり死ぬほどだったように、イサクも、父に縛られ刀を向けられた時、悲しんだであろう。
イエス様は「父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、イサクも、見捨てられたと思ったかもしれない。
しかし、イサクは死から救われ、生かされ、祝福された。同様に、イエス様も、死から解き放たれ、永遠に生きるものとされた。

イサクは、父によって一方的に捧げられる事によって、祝福された者となった。
アブラハム、イサク、ヤコブの中で、最も平和でラクな生涯を送ったのは、イサクであった。
彼が種を蒔くと、百倍の実を結び、彼が土を掘ると井戸が湧き出、それを奪われても尚祝福されるので、恐れをなした異国の王は、彼に同盟を申し入れて来たほどだった。

父によって一方的に捧げられる事によって、大いに祝福される事をイサクは経験したが、イエス様もまた同様である。
「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」(イザヤ53:10-12)

「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:14)
私たちは「主の山に、備えあり」という言葉を、よく、物質的な必要の満たしを主は備えて下さる、というニュアンスで用いる。
しかし、主がアブラハムに備えて下さったものは、かけがえのない一人子の命を救うための身代わりという、尊いものであった。
主が私達に備えて下さった、最も良きもの、それは、私達のいのち身代わりとなる、子羊キリストである。

アブラハムは、主は備えて下さるお方である事を経験し、子孫達に伝えたであろう。
主は、死んだも同然の者からいのちを息吹かせて下さるお方であるという事、主は、死人の中からよみがえらせて下さるお方であるという事、主は、いのちを備えて下さるお方であるという事を。
私達もまた、主が成して下さった最も良きこと、すなわち、御父の贖いを、人類の身代わりとなって下さった御子を、私達を助け取り成して下さる聖霊を、世に伝えるべきである。

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