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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

幸いの地に入ったなら為すべきこと(申命記6:20-25)
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申命記6:20 後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。
6:21 その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
6:22 主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、
6:23 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。
6:24 そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。
6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。

出エジプト記13:8 その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。
13:9 そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。
13:10 それゆえ、あなたはこの定めを年々その期節に守らなければならない。

13:11 主があなたとあなたの先祖たちに誓われたように、あなたをカナンびとの地に導いて、それをあなたに賜わる時、
13:12 あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。
13:13 また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。
13:14 後になって、あなたの子が『これはどんな意味ですか』と問うならば、これに言わなければならない、『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。
13:15 そのときパロが、かたくなで、われわれを去らせなかったため、主はエジプトの国のういごを、人のういごも家畜のういごも、ことごとく殺された。それゆえ、初めて胎を開く男性のものはみな、主に犠牲としてささげるが、わたしの子供のうちのういごは、すべてあがなうのである』。
13:16 そして、これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとしなければならない。主が強い手をもって、われわれをエジプトから導き出されたからである」。

人の富が増し加わるとなぜ恐れが生じるか? - その貧乏ぐせと奴隷根性に対する勝利(詩篇49篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌
49:1 もろもろの民よ、これを聞け、すべて世に住む者よ、耳を傾けよ。
49:2 低きも高きも、富めるも貧しきも、共に耳を傾けよ。
49:3 わが口は知恵を語り、わが心は知識を思う。
49:4 わたしは耳をたとえに傾け、琴を鳴らして、わたしのなぞを解き明かそう。

この詩篇もコラの子たちによる教訓的な歌だが、その教訓のターゲットは「もろもろの民、すべて世に住む者」「低きも高きも、富めるも貧しきも」である。
これは神の聖徒達も、そうでない人にも、全ての人に当てはまる事である。

49:5 わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。
49:6 彼らはおのが富をたのみ、そのたからの多いのを誇る人々である。

この詩篇のテーマとして、富んでいる人が、その富をもって弱い人達を虐げる、どの時代や国においてもありがちな問題に対する教訓にはとどまらず、もっと、主にあって普遍的な真理を私達に示している。

この詩篇の結論は、20節である。

49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。(理解するところが無ければ)滅びうせる獣にひとしい。
49:20 A man who is in honor, yet does not understand,Is like the beasts that perish.

人は、「理解するところ(understand)」があるか、無いかによって、大いに違う。
この「理解するところ(understand)」のヘブライ語はビーン、この箇所ではQal(能動態)が用いられている。

ビーンは特に箴言によく出てくる重要なキーワードである。その詳細な意味は、「知覚する、認識する、理解する、知る(心で)、観察する、マークする、注意を促す、区別する、考慮する、分別、洞察力、理解を得る」であり、これらのものを「能動的に」求めない人は、滅びうせる獣に等しい。
実際、人の気持ちを理解しようとしない人、ものの道理を観察し知ろうとしない人、神の言葉に対して耳を閉ざし、心を閉ざしているような人、勉強において「どうしてだろう」という気持ちが起こらない人、学習意欲がない人、物事を注意しない人など、ビーンを積極的・能動的に求めない人は、すべて、社会的な地位を得られず、上にあがれず、滅んでいくパターンに陥っているのではないだろうか。
その逆に、積極的なビーンを持っている人は、どんどん能力が開かれ、成長がはやく、人との間でもどんどん重んじられた者になっていくし、年老いても頭脳明晰だが、学ばない人、同じ失敗を何度も繰り返す人には、それが無い。

49:7 まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
49:8 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
49:9 (8節に合節)

人のたましいは、高価すぎて、誰にも買い戻すことはできない。それは真理である。
イエス様のたとえ話で、罪の借金を負った者にたとえられた金額は、一万タラント(およそ18万年分の給料)という、人には到底支払いきれない額だった。(マタイ18:22-35)
しかし、私達には希望がある。イエス様の十字架の贖いによって、神は永久に私達の魂を買い戻してくださった。
だから私達は、富を誇りとする彼らを恐れる事は無い。

49:14 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。
49:15 しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ

結局、この世の資力・財力では、自分を救えない。
大事なのは、贖って下さるお方であり、私達を購って下さるお方・イエス様は、力強い。
エレミヤ50:34 彼らをあがなう者は強く、その名は万軍の主といわれる。彼は必ず彼らの訴えをただし、この地に安きを与えるが、バビロンに住む者には不安を与えられる。

49:10 まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。
49:11 たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである。
49:12 人は栄華のうちに長くとどまることはできない、滅びうせる獣にひとしい。
49:13 これぞ自分をたのむ愚かな者どもの成りゆき、自分の分け前を喜ぶ者どもの果である。〔セラ
・・・
49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。

この詩篇の中では、幾度か、人の富が増し加わっても恐れてはならない、と書いてあるが、そもそも、誰かの富が増し加わった事を聞いたり、お金持ち達の集まりの中に入れられたりすると、なぜ恐れが沸き起こってくるのだろう。
それは、ひがみや奴隷根性、貧乏ぐせがついているためだ。

民数記13:27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。
 13:28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。
 13:29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。

イスラエルの民が、いよいよ約束の地を目前にした時、この報告を受けて、反応は真っ二つに別れた。

民数記13:30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。

カレブは、自分達は必ず勝ってその神様が約束して下さった地を獲得し、その素晴らしい地を自分のものにして行く気で満ち満ちていた。

民数記13:31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。
 13:32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。
 13:33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。

この、マイナス思考で勘定した者達は、「彼らはわたしたちよりも強い」と言った。
つまり彼らは、自分と相手を比較したのである。彼らと共におられる主を、全く度外視して。
これが、ひがみ精神、奴隷根性、貧乏ぐせである。

それに引き換え、カレブは、確かに他の斥候達と一緒に、あの巨大な、力強く戦いに長けたアナク人達を見てきた。その者達が守っている城壁の町々も見てきた。
しかし、カレブの評価は「必ず勝てる」であった。
彼は神がエジプトに対して為された10の災いと、そして紅海の水を割り、イスラエルの民は渡らせ、エジプトの軍隊は水に飲み込ませた様も見た。
その神様と、あのアナク人達を見比べて、必ず勝てる、と評価したのである。

主は何故に、エジプトに10もの災いをもって、これでもか、これでもか、と災いを示されたのか。
イスラエルの民に、この力強い主がおられるのだから恐れてはならない、と教え込むためではなかったか。
なぜ水のない荒野で、マナをもって養われたか。主が彼らの水も食料も全て備えて下さるお方だと教え込むためではなかったのか。
私達は、主のご性質と教えようとする心を、積極的に理解し汲み取らなくてはならない。

もし主から約束の御言葉があたえられたのなら、人間の節穴の目のままでは、偵察にさえ行ってはならない。
もし私達が本当に富んだ者になりたいのなら、奴隷根性や貧乏ぐせをまずとりこにして、キリストへ服従させ、カレブのように、神の御言葉に自分をしっかり当てはめ、約束を握りしめ続けて行くべきである。

永遠の救いのやぐらであられる主(詩篇48篇)
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詩篇42篇から始まった詩篇第二巻の主題は「開放と贖い」で、トーラーの「出エジプト記」に相当するが、詩篇第二巻はまさに、出エジプト記の内容と同じような進行の仕方で進んでいる。
最初の42篇は、礼拝を妨げる敵によって苦しみに遭っている人の、主に対する渇きの祈りで、また43篇では、その敵に対して正当な裁きを求める祈りであった。
それが44,45篇へと進んでいくにつれ、徐々に、救いと開放の喜びの歌へと変わって行き、この48篇は47篇と同様、主が敵に正当に報復して下さった事の喜びの賛美に満ちている。

コラの子の歌、さんび
詩篇48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。

エルサレムは海抜790mの高さにあり,3つの丘からなっている.その北の丘に神殿があり,シオンの丘は西側にある.(実用聖書注解)
彼ら主の民、すなわち、主を礼拝する民は、主によって敵から救い出される。
その拠り所とする所が、彼らが麗しいとほめ讃えるシオンの丘、すなわち、主を礼拝する所である。

詩篇48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを/高きやぐらとして現された。

やぐらとは、高く建てられている見張り台のような建物で、矢や武器をもって敵に対し強硬に対抗できる所であるが、聖書の中では特に、見張りに立つ所、逃げ込む所として記されており、ダビデも好んで主をわがやぐらと言って告白している。
神は、聖徒たちが礼拝を捧げる場所において、自らを「高きやぐら」として、ご自身を示された。
私達も、主を礼拝の場所に行って主に求める時、主は私達の「やぐら」としてご自身を示され、主の民にとっては力強き助けであり、主に敵対する者には恐るべきものであると示される。

さらに4節から8節では、神の民に敵対する地の王達が来た際の有様が記されている。

詩篇48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。

主の敵・サタンに属する者達は、主の民が、やぐらと城壁に囲まれた中で、主を正しく礼拝している有様を見ると、おののいて逃げ出す以外に道はない。
逆に主の民の城壁がくずれていて、主を正しく礼拝していない様をみると、我が物顔で出入りして、好き放題にぶんどったり虐げたりする。
ネヘミヤが来る前のエルサレムがちょうどその状態だった。(ネヘミヤ1章)
主の民の敵は、まだエルサレム城壁が崩れっぱなしだった時、城壁の破れ口から出入りして、分捕り放題だったのが、ネヘミヤが来て以降、城壁が速やかに出来て、がっしりとした門が立てられたのを見て大いに面目を失った。

詩篇48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。〔セラ

主は「タルシュシュ」の船を東風をもって打ち破られたと告白している。
タルシュシュは地中海の向こう側の国で、現在でいうスペインだと思われているが、ツロとの海洋貿易で大いに繁盛し、富み、力を増した国である。(イザヤ23章)
しかし、エゼキエル書28章のツロに対する預言の中では、ツロはサタンの象徴として示されており、彼らの商売が繁盛した時、傲慢になった故に神が彼らを打たれる様が出てくる。

エゼキエル28:16 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から/汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを/火の石の間から追い出した。
28:17 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。
28:18 あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によって/あなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前で/あなたを地の上の灰とした。

タルシュシュはツロと取引して繁盛するが、サタンのように不正な流儀で富と権力を得て弱者を虐げるような者達は、主が東風を起こして取り除かれる。

詩篇48篇に記されているように、主の敵にとって、主が、主の民のやぐらとなられている様は恐ろしく、驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去る以外に無い。
しかしそれは、聖徒にとっては、救いと喜びのしるしである。

詩篇48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちで/あなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。

主の宮の中に入り、主を思う時、それは麗しい時、喜び楽しみの時だ。
そして主のさばきは、不正な者、主の敵に対しては恐怖の一時であるが、義に飢え乾く者にとっては、慰めの時である。
ナホムの名前の意味は「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は、名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。
実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのか?
アッシリヤは、残虐さを売り各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。
一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、イスラエルの神に挑戦するまでになった(イザヤ36-37章)。
それで神はアッシリヤを裁かれる。
アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は皆、手を叩いて喜ぶ。それは、誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたからだ、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。

詩篇48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。

私達もここに書いてある事にならって、主を礼拝する場所を歩きめぐり、主ご自身の救いであられる「やぐら」を数え、「城壁」に心をとめ、調べるべきである。
今まで生きて来た中で、御言葉がなかった時、やられっぱなしになっていた所に、主がやぐらとなり、防護壁となって戦ってくれた。
その主の恵みの数々を、数えるべきである。

私達は主の恵みを数え、そして主を礼拝する事によって、どんどん城壁が、やぐらが、神殿が、建てなおって行く。
私達が数えるべきは、それであって、決して過去の自分や今ある弱さではない。そんな事をしていると、再建は進まないどころか、サタンはその自己卑下した所を突いてきて、ますます破れがひどくなってしまう。
やぐらは防備をする所と同時に、見張りをする所である。
しっかり自分を見張って、過去の自分に思い耽る事や、敵が投げかけてくるあざけりや責め立てから、自分を守るのである。
あるいは教会の中で、凛として立っている「やぐら」のような人を見て、数えて、わたしもああいうふうに主が立たせてくださるのだ、と、ますます主に信頼するのである。

詩篇48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。

主は世々限りなく、とこしえに導かれる神。
私達は、この御方のためにこそ働き、この御方からとこしえに変わることのない完璧な防備を得、完璧な必要の満たしを得るのだ。

ヨハネ 6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。
(Do not labor for the food which perishes, but for the food which endures to everlasting life)

私達は朽ちる食べ物やなくなるお金のために労するのではなく、永遠に残る働きをするべきである。

人目に隠れた王達 - 主をほめ讃える民(詩篇47篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌
詩篇47:1 もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ。
47:2 いと高き主は恐るべく、全地をしろしめす大いなる王だからである。

「しあわせなら手をたたこう」という有名な歌があるが、それは、この詩篇47篇が元になってできた歌である。
この歌の作詞者は、木村利人さんというクリスチャンで、彼がフィリピンの農村でボランティアとして働いた1954年、第二次世界大戦で日本兵により親や家族を殺された経験を持つ人達がまだ多く、冷たく厳しい態度を木村さんに向ける人達が多くいた中、唯一、友好的な態度をとってくれていたランディという青年との交わりを通じ、国のした悪に関わりなく、全ての国民は主に向かって手をうち鳴らし、喜びの声をあげよ、という御言葉が元で生まれた歌だった。

私達が、人のした悪を思わず、自分の国という概念を超えて、同じ主を喜び、褒め称える時、奇跡が起こされる。
この曲はやがて日本で有名になり、東京オリンピックの時には世界的に有名になり、多くの国の言葉で歌われるようになって行く。
たとえ、国同士では敵対関係にあっても、同じ主に共に向かい、主の御胸である「愛し合う事、赦しあう事」を、態度をもって示して行った時、人が行った悪のわざは薄れ、ただ主の栄光が大きくなって行く。

詩篇47:3 主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。

私達は、神と人との間に立つ者、全ての国民をこの神へと引き寄せるべき王であり、祭司であり、預言者である。
私達が国の指導者、上に立てられた権威のために祈る結果、悪しき統治者達は降ろされ、良き統治者が与えられ、それによってもたらされる神の国の良き統治が及んで行く。
その時、「主はもろもろの民をわれらに従わせ」という言葉が成就する。

詩篇47:4 主はその愛されたヤコブの誇を/われらの嗣業として、われらのために選ばれた。〔セラ

ヤコブといえば、押しのける者、かかとを掴むものとして生まれてきた。
しかし彼は、やがて、主と格闘した時、主から「去らせなさい」と言われても「去らせません、祝福して下さるまでは」と言って去らせず、ついに、イスラエルという名をいただいて祝福を受けた。
どんな状況にいるとしても、祝福をいただくまでは去らせません、と、強い意志をもって祝福を勝ち取る。それが、主が愛されたヤコブの誇りである。
そのヤコブの誇りを持つ聖徒たちに、主は、嗣業を量って与えられる。

詩篇16:6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。
16:7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
16:8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
16:9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。

私達が受けるべき嗣業、すなわち私達が受けるべき仕事、家庭、行くべき道は、主が測りなわをもって測っておられ、私達の準備が整えられた時に与えられる。

詩篇47:5 神は喜び叫ぶ声と共にのぼり、主はラッパの声と共にのぼられた。

主は賛美の中におられ、人々の喜びの賛美と叫びと、楽器の音の中、共に上って行かれる。

イエス様がエルサレム入城する時、弟子たちは大声で神を賛美した。

ルカ19:37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、
19:38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
19:39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。
19:40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

人々の賛美と共にイエス様は上って行かれたが、パリサイ人たちはそれに憤慨し、賛美した人達を叱るように言ったが、イエス様が言われたのは、もし彼らが黙れば、石が賛美する、と言った。
賛美は、神の似姿として創造された人の口にこそふさわしい。しかしもし人が賛美しないとしても、太陽は、地球は、星々は、主を褒め称えている。(詩篇19篇)

それ故、6節以降は、賛美で満ちている。

詩篇47:6 神をほめうたえよ、ほめうたえよ、われらの王をほめうたえよ、ほめうたえよ。
47:7 神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。

まことに賛美は、聖徒たちに相応しい。
もし聖徒たちが賛美を止めてしまったら、石が主を褒め称える。神の子が主を褒め称えるのではなく石が褒め称えるとしたら、神の子として恥である。

詩篇47:8 神はもろもろの国民を統べ治められる。神はその聖なるみくらに座せられる。
47:9 もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。地のもろもろの盾は神のものである。神は大いにあがめられる。
(The princes of the people have gathered together,The people of the God of Abraham.For the shields of the earth belong to God;He is greatly exalted.)

英語の聖書(KJV)では、私達アブラハムの神の民は「地の王子達(あるいは王女達)」と言っている。

事実、私達はイエス様を信じた事によって、アブラハムの子孫とされ(ガラテヤ3:29)、王族の祭司、聖なる国民とされた。(1ペテロ2:9)
その身分である私達が、イエス様と共に治める故に「主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。」と書いてある。
世においては、国民の上に立つ王や統治者があるが、しかし霊的には、私達が、王であり、祭司であり、預言者、そして神の目には、そのような者達のほうが、権威的には上なのだ。
神は若きエレミヤを召し出した時、言った。

エレミヤ1:5 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
1:6 その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。
1:7 しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。
1:8 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。
1:9 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
1:10 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。
・・・
1:17 しかしあなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。
1:18 見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。
1:19 彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。

神がエレミヤに与えた権威は、なんと、「万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」というものだった。
さらに、「この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と言われた。

一見すると、エレミヤは一人で活動する預言者のようであっても、万軍の主がついておられ、主の言葉を忠実に伝えたエレミヤに対して、それを良しとしない者達によって諸々の陰謀が計られたが、エレミヤはその全てから守られ、また、一見すると彼が今にも死にそうになっても、必ず救われた。
それにひきかえ、エレミヤを通して語られた主の言葉に逆らった王達、偽預言者達は、ことごとく滅んで行った。

権威が与えられた者に要求されるのは、最上の権威であられる主への忠実さである。
私達は与えられた権威を、主の御胸に従って行使し、地の権威者達をとりなし、祈り、あるいは、主の御胸を忠実にそのまま語るべきであって、決して職権乱用してはならない。

結局、神から尊い者とされるのは、世の首相や総理大臣、大統領ではなく、私達・主から王として、祭司として、預言者として任命された者達であり、その私達こそ、人には見えない首相や総理大臣、大統領なのだ。

あの方の喜びとなるために(雅歌書2:1-7)
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ここは、互いに愛し合っている男女が、相手の麗しさ、慕わしさを喜び讃え合っているところ。

2:1 わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。
ここは男性が言ってるのか、女性が言ってるのか、意見が分かれているが、はっきりしている事は、イエス・キリストはまことに私たちにとってのシャロンのサフランであり、谷の百合である。
ゆりの花、サフランは香りを放つ。キリストの香りを放っている。
本当にこのお方のもとにいつまでもいたい、実側近くで香りをいつまでも描き続けていたい、と言う、慕わしさを持って、キリストの御側近くへと近づくものである。


2節は、男性が女性を褒めそやしている。
2:2 おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。

前回の1章で、この女性は、パロの戦車の雌馬になぞらえられ、またカスタムメイドの飾りをもって、飾られた。
男性は、愛する女性を、美しい飾りで飾らせてあげよう、と、さらに美しいしつらえ品を作らせる。
その飾りは、男性が好む飾りであり、女性の好む飾りではない。
女性が男性が贈った男性好みの飾りを身に付ける時、その女性は、娘たちの間にいるとしても、周りの娘たちは、いばらに見えて、自分の愛する女性だけが、百合の花のように、際立って慕わしく、美しく見えるのだ。
棘はキリストの頭を刺したが、世の者達はキリストにとって、とげとげしている。しかし、私達は、キリストの飾りを身に帯びるなら、私達こそ茨の中の百合になるのだ。
私達も、キリストが与えて下さる御言葉の飾りを、あるいは、時には試練という飾りが与えられる時があるが、それも受け入れて身に帯び、しっかりと自分のものとして、主とともにいくなら、キリストの目には、ますます、いばらの中の百合の花のように見えていく。
イエス様を愛していない人は、イエス様がくださる飾りを好まない。でも、本当にイエス様を愛しているなら、その人はどんどんどんどんキリストがくださる飾りをもっと身に纏いたい、あなたの喜びになりたい、と思うようになっていく。

さらに乙女の言葉が続く。

2:3 わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。
2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。

私たちは、大きなものの陰に宿る時、安心感を、居心地の良さを感じるが、女性にとって、男性は大きい存在で、女性の方が体のサイズが小さい。
主がそのように造ったのだが、彼女は、愛する方は林の木の中のリンゴの木のようです、と言っている。
りんごは体に良く、病気になっている人は、りんごを食べる。おいしくて、甘い、そして少しすっぱい。私にとって、相手の男性は、この、おいしくて、甘くて、少しすっぱいリンゴのようだ。その木陰に座って、直射日光から守られ、甘酸っぱい実を得たいと願っている。

イエス様が私たちに与える良きもの、イエス様が私たちに送ってくださる言葉は、私たちの口に甘い。
詩編91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。

詩編は格調高く聞こえるが、雅歌書のほうはそれにプラスして甘さが、麗しい感情が込められている。
盾の中の盾、やぐらの中のやぐらである私達の主は、リンゴの木のよう。うるわしく、慕わしいお方。その全能者は、私たちをいばらの中の花のようだと見てくださる。

イエス様が私たちのことを、いばらの中の百合の花のようだと言っていただくためには、条件があった。
それは私達が、キリストが飾らせてくださる御言葉を、身に飾ること。
もし身勝手な飾りを身に帯びるなら、イエス様は見向きもしてくれない。しかしイエス様がくださるものを、その身に帯びるなら、女の中で最も美しい、いばらの中にいる百合の花の上に見えると言ってくださる。

ゼパニヤ3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。

もし私たちが、イエス様が送ってくださる飾り、試練の飾り、私が皆さんにこうなって欲しいと言う通りに、自分が飾られるママに飾られるのであれば、上は喜び楽しみ、高らかに歌って、喜ばれる。
このゼパニア三章の後半は、本当に素晴らしい愛の歌であるが、一章から三章の中盤までは、実は、懲らしめに満ちている。
3章1節では、懲らしめという飾りを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近付こうとしなかった事を責め立てており、それ故、強制的に懲らしめが与えられ、7節において、あなたはただわたしを恐れ、懲らしめを受け入れよ、そうすれば彼らが行った悪事にもかかわらず滅ぼされるような事はしない、と。そうして9節以降、幸いな預言へと切り替わる。
だから私達も、主の前に「懲らしめ」という飾りが与えられたなら、受け入れるべきである。
そして主の御胸のままに身を委ねるのであれば、さらに素晴らしい飾りを飾らせて下さり、その時、主は高らかに歌って喜ばれる。

2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。キリストの旗印は、愛。
旗印、とある。イギリスの王家がどこかに行くときには必ず端を持っていく。だから、林の木陰に置いて、バンケットを持つときに、イギリス王家の旗を掲げて、ここにはおうがおられる、と示しその領域は王が宿る所だ、と示すのだ。
キリストは、荒野においても宴を設ける時がある。私たちのために酒宴の席へと導かれる時、旗を掲げられる。ここは、キリストの王子王女がおられると。そしてその旗印は、愛である。


ルツはボアズの衣の裾をまくって、その中に入った。
あなたは、家を絶やさない責任のある方です、どうか私を買い取ってください、と求めた。私たちも同様に、キリストの愛の旗印の下に、足のまくって入り、キリストの下にぴったりとよりそって入るべきだ。
そしてわたし達が愛の旗印の下に宿るならば、イエス様が守り、私たちも潤っていく。


2:6 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。


女性は求める。本当にこの麗しいお方の、懐深くに宿り、彼の腕の中に抱きしめられ、守られる、ということを。
私たちも、ルツのように、キリストの懐に飛び込んで、愛の旗印に包まれて、その腕の中に宿ることを、求めるべきだ。
そのように慕い求めていくなら、どんどんキリストとの愛の関係に入り込んでいく。

さらに、この6節から、聖書的な男女のポジションがわかる。
女性は、男性の左の腕の下で、男性の右の手で抱っこされる事を求めた。

女性はもともと、男性の脇腹のところに収まっていた。(創世記2章)
だから女性にとっての本来の居場所は、男性の心臓の所に、男性の腕にくるまれている状態であり、女性はそれを求めている。

これをイエス様との関係に適用するなら、私達は、男性女性に限らず、本来いるべき場所は、キリストの懐の中である。
そこは、十字架上で、槍が突かれた時、水が流れていた。
キリストが、十字架上で死んだ時、私たちも一緒に死んだ。そして復活の時、私達もキリストにある永遠の命が生まれた。
アダムは、深い眠りに落ちていた時に、脇腹から骨がとられて、神さまに整えられて、そしてアダムのところに連れてこられたのと同様である。
私たちも、そのホームポジション、キリストの脇腹のところを求めて、そこに宿るなら、詩篇91にあった通り、昼くる矢を恐れず、夜歩き回る疫病を恐れず、1000人、10000人が右手左手に倒れようとも、恐れることはない。
ルツのように、イエス様の贖いの衣をまくってその中に入り、その中で守られ、ますますキリストの慕わしさ、麗しさの中に浸しこまれて行く皆さんでありますように。
イエス様のお名前に行って祝福します!
 

ガールズソプラノによる力強い信仰告白
(詩篇46篇)
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詩篇46:1 聖歌隊の指揮者によって女の声のしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

コラの子達は、この詩篇46篇を「女の声のしらべに(アラモテ)」合わせて歌わせた。
男声がない、ガールズソプラノであるが、この詩篇の内容は、世界的な戦争を前にしても動じないという力強い信仰告白があり、また、黙示録をも思わせるかのようなスケールの大きな事件も言及されている。
このような内容は、男声にこそ相応しく思われるかもしれないが、主が助けてくださるのは、人間の、男性的な力強さによって、ではない。
たとえ、かよわい女性であっても、主を避け所とする人をこそ、主は助けて下さる、というのが、この詩篇が示す所であり、主の救いが美しい女声ソプラノで歌われ、力強く美しい主の栄光が讃えられる。

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

主は私達の「何」であるのか、私達は主を、どのように評価するのか。
主は、その個人個人の、主に対する評価、すなわち信仰を受け取って下さる。

詩篇18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

その結果、主はまことにダビデが宣言したとおりに助けてくださり、力を帯びさせてくださった。

詩篇18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実(ツァラァフ)です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。
18:33 神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、
18:34 わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。
18:35 あなたはその救の盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしをささえ、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。
18:36 あなたがわたしの歩む所を広くされたので、わたしの足はすべらなかったのです。

主の言葉はツァラァフである、と言っている。ツァラァフは(金属などを溶かして)純化させた、ためした、純粋な、という意味である。
私達が救われる根拠は、神の完全さであり、主の言葉の純粋さである。
その御言葉の純粋さこそが、戦いにおける鋭さであり、私達の歩みを助け、私達に力を帯びさせ、安全にし、敵に勝利させ、そして、終わりの日に私達を守るのである。

詩篇46:2 このゆえに、たとい地は変り(KJV: the earth be removed)、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
46:3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ

これ以降の箇所は、あたかも、黙示録を思わせる内容だ。
黙示録には記されている。やがて聖なる都はサタンの勢力によって取り囲まれ、しかし主はその勢力に天から火を降して滅ぼし、そして地は取り除かれ、山は移される。聖徒たちは新しい天と地に入り、永遠にいのちの水の流れによって養われる。
この地上においては確かに戦争のうわさがあり、主に敵対する者達の武力によって強制的な統治がなされる事がある。
しかし、純粋なる御言葉を拠り所とする私達は、恐れることは無い。たとえ黙示録のように、天も地も巻き去られようとも。
天地は滅び失せても決して変わる事の無い御言葉により頼む者は、安全なのだ。状況がどんなに変わろうとも、あるいは、良くない状況がいかに変わろうとしないとしても、純粋なる御言葉により頼んでいる人達は、守られ、養われ、そして救われる。

詩篇46:4 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
46:5 神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。

セラで区切られた後、「川」、が登場する。
川が、神の都を潤す有様は、エゼキエル書にも黙示録にも出てくるし、黙示録にも登場する。

黙示録22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

この川の源は、神と小羊との御座だ。
主を拠り所としている人は、水路のそばに植わった木のように、いかに旱魃のような状況でも潤され、時が来れば実が実り、その葉は枯れず、何をしても栄える。
それは、主の御座からこんこんと途切れなく流れてくる、いのちを潤す水によっていつも養われているからだ。

詩篇46:6 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

終わりの時代、神に逆らって立つ国々が起こり、武力や経済力をもって聖徒に戦いを仕掛けるようになって行く。
しかし、主を避け所とするなら、決して揺るがされない。
黙示録20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

以下、聖徒が為すべき事が示されている。

詩篇46:8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。

聖徒たちが為すべき事は、まず「来て」、そして「見て」、学ぶ事だ。
主は、良くない人、事、モノには、荒廃をもたらし、「こうなるぞ」と示され、そのような主と主の言葉に逆らった者達が荒廃した様を見て、わたしを覚えなさい、と。

詩篇46:9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
46:11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

主は、世と聖徒を分けられる。
世は、弓や槍、戦車で強くなろうとして行くが、私達信仰者は、それよりも遥かに強力な武器、御霊の与える御言葉の剣を持っている。
そして、万軍の神、主が軍配を上げて下さるのは、必ず、主の御言葉に聞き従う人に対してである。

わたしの舌は、麗しき主をなめらかに語り告げる、巧みな書記の筆(詩篇45篇)
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詩篇45篇表題「聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたコラの子のマスキールの歌、愛(イェディド)の歌」

愛の歌と日本語で訳された語イェディドは「愛された人」、KJVでは A Song of lovesと訳されている。
詩篇45篇は、王に愛された女性の歌であるが、ここに記されている女性たちと王との関係は、王の王・真の花婿であるキリストと、その花嫁である教会、すなわち私達との関係として読んで行く時、私達と私達の主人・イエス様との関わりを読み解く事ができる。

詩篇45:1a わたしの心はうるわしい言葉であふれる(ラハシュ)。
「あふれる」と訳された語ラハシュは、スープなどがぐつぐつと煮えたぎっている状態であり、彼の唇からは、彼の心に、王を褒めそやす気持ちがぐつぐつと煮えたぎって、充満されたうるわしい言葉が、今にも飛び出しそうな状態である。

詩篇45:1b わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。「わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ(レショニー・エット・ソフェル・マヒィル)」。

レショニーは舌、エットは筆あるいはペン、マヒィルは素早い、あるいは巧みな、精通した、という意味であり、そしてソフェルは、書記官の意味である。
ユダヤの会堂で用いられる聖書は、印刷された本ではなく、手書きされた巻物であるが、書記官とは、その巻物を記す者である。
書記官は、御言葉を誤りなく子々孫々へ、時代時代へと伝えて行く者であり、御言葉を暗唱した者でなくてはならず、御言葉を教える者である。旧約ではエズラがソフェル・マヒィルであると記されている。(エズラ7:6)

イエス様は弟子たちに幾つかのたとえ話とその解き明かしを話された後、言われた。

マタイ13:51 あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

弟子とは、イエスさまについて行き、彼の御言葉全てを負って、見習っていく人であるが、弟子となった人が目指すべきは、天国の事に精通した学者(ソフェル)である。
イエス様の言葉を心の蔵に蓄えた(すなわちテフィリンされた)者となり、新約からも旧約からも、いつでも折にかなった言葉を出し入れできる、巧みな書記となる事を目指すのだ。

2節以降は、王への賛辞が続くが、私達にとってのイエス様は、このような有様である。

45:2 あなたは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびるに注がれている。このゆえに神はとこしえにあなたを祝福された。

「とこしえにあなたを祝福された」という言葉を得たの人といえばダビデを思い起こすが、ダビデの子孫として来られたイエス様にこそ、相応しい言葉である。
王の王であるイエス様は、世の何者にもまさって麗しく、彼の唇からは、恵みの言葉が流れ出て、人々を癒やす。

45:3 ますらおよ、光栄と威厳とをもって、つるぎを腰に帯びよ。
45:4 真理のため、また正義を守るために/威厳をもって、勝利を得て乗り進め。あなたの右の手はあなたに恐るべきわざを/教えるであろう。
45:5 あなたの矢は鋭くて、王の敵の胸をつらぬき、もろもろの民はあなたのもとに倒れる。

花嫁は花婿に、強く、雄々しく、凛々しくあって欲しいと願う。
私達もイエス様が、真理のため、また正義を守るために威厳をもって治め、悪魔サタンを倒して下さるように、願い求めるものである。

45:6 神から賜わったあなたの位は永遠にかぎりなく続き、あなたの王のつえは公平のつえである。
45:7 あなたは義を愛し、悪を憎む。このゆえに神、あなたの神は喜びの油を/あなたのともがらにまさって、あなたに注がれた。

イエス様は忠実また真実なるお方として、父なる神様は油を注いだ。
このイエス様こそ、永遠に、鉄の杖をもって統べ治めるお方である。

黙示録19:11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
19:13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
19:14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
19:15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
19:16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。

このように、悪魔サタンの勢力に対して圧倒的に強い私達の主は、私達にはうるわしく慕わしいお方である。

45:8 あなたの衣はみな没薬、芦薈、肉桂で、よいかおりを放っている。琴の音は象牙の殿から出て、あなたを喜ばせる。
45:9 あなたの愛する女たちのうちには王の娘たちがあり、王妃はオフルの金を飾って、あなたの右に立つ。

10-11節は、この王家に嫁いでいく花嫁に対する訓戒の言葉であるが、これはそのまま、私達がキリストを前にいかなる有様であるべきかを示している。

45:10 娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。
45:11 王はあなたのうるわしさを慕うであろう。彼はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ。

動詞に注目すると「聞け」、耳を「傾けよ」父の家を「忘れよ」、彼を「伏しおがめ」。
私達がまことの夫であるキリストに対する立ち居振る舞いは、このようにあるべきである。

聞く事、耳を傾ける事は、何にもまさるいけにえであり、私達は、信仰の先祖アブラハムが、父の家を出て神様が示される地へと行ったのにならい、世を、罪を離れ、それを忘れ、嫁いでいくべき天の栄光の家を目指して進んでいく者達である。
そしてまことの主人であるイエス様に対しては全面的にひれ伏す事、それこそ私達に相応しい行動である。

エペソ5:22 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。

夫に「仕える」と訳されたギリシア語フーポタッソーは、軍隊用語で、自分を下位に置く事、みずからを上なる方へと服従させる事だ。
私達はキリストを上に、自分を下に置いて、御言葉に服従させる時、キリストが主人として私達を守り、養い、飾らせ、さらに奥の間における愛の交わりへと招いて下さる。

45:12 ツロの民は贈り物をもちきたり、民のうちの富める者もあなたの好意を請い求める。
45:13 王の娘は殿のうちで栄えをきわめ、こがねを織り込んだ衣を着飾っている。

キリストを主人とした私達は、神の家の中でも、奥のほうで、着飾らされ、栄華を極めるのだ。
キリスト者は、神の家の外では、栄える事は出来ない。ただ放蕩息子のように、わけもわからず放蕩した末に、いなご豆食べるしかない。
だから私達がいるべき場所は、神の家の、奥の間である。
日本語に「奥様」という言葉があるように、私達はキリストの花嫁としてキリストのふところ奥深くにとどまっているべき者達だ。

45:14 彼女は縫い取りした衣を着て王のもとに導かれ、その供びとなるおとめらは/彼女に従ってその行列にある。
45:15 彼らは喜びと楽しみとをもって導かれ行き、王の宮殿にはいる。

私達もやがて、大勢の群衆と共に、キリストによって白い衣を着せられて、地上で流した一切の涙は拭われ、慰められる。
そして彼ら共々、神の小羊キリストを賛美し、栄光の御国に入るのだ。

45:16 あなたの子らは父祖に代って立ち、あなたは彼らを全地に君とするであろう。
45:17 わたしはあなたの名をよろず代におぼえさせる。このゆえにもろもろの民は世々かぎりなく/あなたをほめたたえるであろう。

王族に嫁いで行った花嫁が生み出す子供たちは、王となって行く。
私達も、宣教や伝道によって生み出した霊的な子供たちは、やがて王族の祭司となって、地上を治める者へとなって行く。
そして彼らがさらに伝道へと出ていき、キリストのいのち達を産み出して行く。
私達は、その栄光のサイクルへと組み込まれたキリストの花嫁である。それはなんと、幸いな事だろう。

苦しめられている最中にあっても、圧倒的勝利者となる私達キリスト者(詩篇44篇)
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メッセージ音声

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詩篇44篇は、三つのパートに分けられる。
第一のパートでは、トーラーと先祖達からの口伝から聞いた、主の御力の宣言と信仰告白であり、第二のパートでは、自分たちが苦しめられ卑しめられている事を主に訴えており、第三のパートでは、そのような現状から救い、購って下さる事を願い求めている。

今、災いに遭って苦しんでいるとするなら、その原因は即座に「その人の罪のゆえだ」、と、ヨブの友人たちのように思いがちであるが、必ずしもそうとは限らない。
正しい事をしているのに、主との関係は良好であるにもかかわらず、迫害され苦しめられる事がある。そして、その事が起こるとするならば、それは、主の許可の元で行われているのだ。
特に黙示録にその記述がある。

終わりの時代、サタンの配下の獣に権威が「与えられ」、また聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを「許され」、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威も、「与えられる」。
このような、神の民からすれば望ましくない権威は、神が許可されるからこそ、彼らにそれが可能なのである。(黙示録13章)

これは決して、神がいたずらにサタンの勢力を用いて、聖徒達を苦しませる事が目的ではない。
人には全て、自由意思が与えられている。
その自由意思を用いて、イエス・キリストを主として認め、神の側につく事が出来るし、あるいは、イエス・キリストが主である事を拒否し、自分の欲望のままを生き、結果的に、サタンの側につく事もできる。

サタンの配下につく者達は、その自由意思を活用しなければ、聖徒に戦いは挑まないし、彼らを殺す事もしない。しかし、もし彼らが聖徒達に戦いを仕掛け、殺そうとするなら、それは神から「許されている」事なので、それは成功する。
しかし、こうして与えられている自由意志を用いて、敢えて、聖徒達に戦いを仕掛け、聖徒達を意図的に殺したとするならば、もう彼らには弁解の余地はなくなる。
彼らが悪い実を結んだ「毒麦」である事が明らかにされたのであり、それによって、彼らが永遠の業火へ投げ入れられる事が確定するのである。
そして、死に至るまでも忠実を尽くした聖徒には、永遠のいのちと決してしぼむ事の無い栄光の冠の報いが確定するのである。

詩篇44:1 神よ、いにしえ、われらの先祖たちの日に、あなたがなされたみわざを/彼らがわれらに語ったのを耳で聞きました。
44:2 すなわちあなたはみ手をもって、もろもろの国民を/追い払ってわれらの先祖たちを植え、またもろもろの民を悩まして、われらの先祖たちをふえ広がらせられました。
44:3 彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたのみ顔の光によるのでした。あなたが彼らを恵まれたからです。

作者はまず、出エジプトの時代に主がなさった不思議を引き出して、主が成されたみわざに思いを馳せている。
そして3節では、この救いが成就したのは、自分の手によるのではなく、主の御腕のわざである、と告白している。
そう、主は力強きお方である。

詩篇44:4 あなたはわが王、わが神、ヤコブのために勝利(イエシュアハ)を定められる方です。

ここで「勝利」と訳されたヘブライ語は「イエシュアハ」、「主は救い」という意味であり、同時にイエス様の名前そのものである。
ここに、イエス様がいるのだ。
ヤコブは、他人のかかとを掴んで人から奪いながら生きる者だが、彼の名は後にイスラエルになった。
神は、ヤコブのためにイエシュアハ(イエス様)を定められる方である、と書いてある。それ故、ヤコブを祝福しイスラエルの名を与えたのは、イエス様だと思われる。

詩篇44:5 われらはあなたによって、あだを押し倒し、われらに立ちむかう者を、み名によって踏みにじるのです。
44:6 わたしは自分の弓を頼まず、わたしのつるぎもまた、わたしを救うことができないからです。
44:7 しかしあなたはわれらをあだから救い、われらを憎む者をはずかしめられました。
44:8 われらは常に神によって誇り、とこしえにあなたのみ名に感謝するでしょう。〔セラ

私達も、イエス様の御名によって敵を倒し、イエス様の御名によって悪魔サタンを踏みにじるのである。
私達は、自分の力や経験、ことばの力、世的なやり方によって、自分を救う事は出来ない。
ただイエス様にあってこそ、救いが確定している。ここを離れては、罪に対し、サタンに対し、勝利者として生きる事ができない。

神は確かに力ある御方だ。圧倒的な力をもって敵を根絶やしにする事は、神にはいつでも出来るが、9節以降は、厳しい現状が記されている。

詩篇44:9 ところがあなたはわれらを捨てて恥を負わせ、われらの軍勢と共に出て行かれませんでした。
44:10 あなたがわれらをあだの前から退かせられたので、われらの敵は心のままにかすめ奪いました。
44:11 あなたはわれらをほふられる羊のようにし、またもろもろの国民のなかに散らされました。
44:12 あなたはわずかの金であなたの民を売り、彼らのために高い価を求められませんでした。
44:13 あなたはわれらを隣り人にそしらせ、われらをめぐる者どもに侮らせ、あざけらせられました。
44:14 またもろもろの国民のなかにわれらを笑い草とし、もろもろの民のなかに笑い者とされました。
44:15 わがはずかしめはひねもすわたしの前にあり、恥はわたしの顔をおおいました。
44:16 これはそしる者と、ののしる者の言葉により、敵と、恨みを報いる者のゆえによるのです。

敵が力を増して聖徒達を圧倒する。もし自分たちに神の御前に非があるとするなら、災いは受けて当然であるが、詩篇44篇は、このパターンに当てはまらない。
主に対し誠実であっても、苦難を受け、災いに遭ってる。そういう事が、あるのだ。
コラの子たちは、災いに遭ってはいても、「われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。」と告白している。

詩篇44:17 これらの事が皆われらに臨みましたが、われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。
44:18 われらの心はたじろがず、またわれらの歩みはあなたの道を離れませんでした。
44:19 それでもあなたは山犬(タニーム)の住む所でわれらを砕き、暗やみをもってわれらをおおわれました。

ここで「山犬」と訳された語タニームは、KJVではドラゴンと訳され、他にも蛇、モンスター等の意味もある。
すなわち詩篇44篇の彼らは、ドラゴンの住む所で苦しめられている状況だ。
まさに、黙示録13章と同じ状況であり、そして主はそのような状況を許可する事がある。
その状況で求められる事は、忠実である。

黙示録2:13 わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。

神の民が、神の許可の元、サタンに苦しめられる時は、必ず期間が定められている。
サタンとその勢力は、永遠に好き放題できるわけではない事は、先に説明したとおりであり、主は必ずその後、聖なるものには永遠にしぼむ事のない報いを、サタンに属する者達には、永遠のさばきを降される。

詩篇44:20 われらがもしわれらの神の名を忘れ、ほかの神に手を伸べたことがあったならば、
44:21 神はこれを見あらわされないでしょうか。神は心の秘密をも知っておられるからです。

20−21節は仮定法で書かれている。
という事は、彼らは神を忘れたり、他の神へと裏切った事はなかった、という事だ。

詩篇44:22 ところがわれらはあなたのためにひねもす殺されて、ほふられる羊のようにみなされました。

彼らは、「あなた(神)のために」このような災いを受けている、と告白している。
神のために、四六時中悩まされ、ほふられる羊のように見なされる。
それは私達の主イエス様が体験され、そして私達キリスト者にも起こりうる事だ。

しかし、望みを失う必要は一切ない。
そのような困難にあったとしても、新約を生きる私達は、キリストにあって圧倒的勝利者となる希望がある。

ローマ8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

キリスト者が患難に、苦悩に、迫害に、飢えに、裸に、危難に、剣に悩まされる事は、確かにあるが、たとえその最中にあったとしても、圧倒的勝利は私達の側にある。
私達を愛してくださった方の故に。
何者によっても引き離されない、主キリスト・イエスにある神の愛故に!

詩篇44:23 主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。われらをとこしえに捨てないでください。
44:24 なぜあなたはみ顔を隠されるのですか。なぜわれらの悩みと、しえたげを/お忘れになるのですか。
44:25 まことにわれらの魂はかがんで、ちりに伏し、われらのからだは土につきました。
44:26 起きて、われらをお助けください。あなたのいつくしみのゆえに、われらをあがなってください。

詩篇の作者は、最後に、われらを購って下さい、と締めている。
私達は、キリスト・イエスにあって、既に贖われている。

1コリント6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

私達のいのちは、イエス様によって買い戻された。という事は、私達のこのからだ、このいのちは、もはや私達のものではない、という事である。
そうであるからには、この体を、時間を、能力を、エネルギーを、経済を用いて、神の栄光を表すべきである。
このサタンに支配されてしまっている地上に、神の栄光と支配をもたらして行くために。

あなたの光とまこととでわたしを迎え、聖なる山へ連れて行ってください(詩篇43篇)
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詩篇43篇の内容は、42篇と同様、悪しき者の支配で礼拝が遠ざけられ苦しんでいる人の祈りである。
42篇の祈りの内容は、悪しき者に虐げられ礼拝が妨げられた状態のうめき、あえぎを主に訴える祈りであったのに対し、43篇になると、そのような悪しき者を主に訴える「攻撃的な祈り」に転じている。

詩篇43:1 神よ、わたしをさばき、神を恐れない民にむかって、わたしの訴えをあげつらい、たばかりをなすよこしまな人から/わたしを助け出してください。
43:2 あなたはわたしの寄り頼む神です。なぜわたしを捨てられたのですか。なぜわたしは敵のしえたげによって/悲しみ歩くのですか。

悪しき者によって大上段から虐げられる時、あたかも、彼らの方が分があって私達の側に非があるかのように思わせられるが、欺かれてはならない。
「神の民」は、「神を恐れない民」「たばかりをなすよこしまな人」からの、不当な虐げに対しては立ち向かうべきであり、礼拝から離れさせる状況、あるいは人は、主へと訴えるべきだ。
しかしこのような悪しき者が力を奮って支配している状況で、悪しき者をじっと見続け、その事を思い巡らし続けているなら、どんどん心が病んでしまう。

詩篇73:1 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
73:2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
73:3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

詩篇73篇の作者・アサフは、悪しき者が豪勢な暮らしぶりをして栄えている様を、じっと見た結果、どんどん心が病んで行ってしまった。
私達も、悪しき者に目を留め続けるとするなら、そのようになってしまう。

詩篇73:4 彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、
73:5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
73:6 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。
73:7 彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。
73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。
73:9 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
73:10 それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
73:11 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
73:12 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。

世の中に目を向けると、確かに、悪しき者がはびこって、何ら罰を受ける事なく、栄えているのを見る。
アサフはそれをじっと見、思い巡らし、研究した結果、それをすればするほどに、心が病んで行った。

詩篇73:13 まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
73:14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
73:15 もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
73:16 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。

アサフは、自分が主の御前で正しくきよく歩み続けた事を、「いたずらに」「めんどうな仕事」と言って、子らの代を誤った道へ導いてしまう危険もはらむほどになった。
しかし17節で、アサフは転換点を迎える。

詩篇73:17 わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。

アサフの転換点、それは、神の聖所へ入った事だ。
神の聖所、すなわち礼拝を捧げる所に入り、神の視点の理解に至る時、全ての煩いがクリヤされる。

詩篇73:18 まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
73:19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
73:20 あなたが目をさまして/彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。

彼は、神の聖所における神との交わりにおいて悪しき者の最後をさとり、健全なる神の道を歩んでいた自分は正しかったのだと、一瞬で悟ったのだ。
そして、悪どい者に目を向け続けていた自分こそ、獣のような者であったと気づき、告白している。

詩篇73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

このように神の聖所へ入り、主を礼拝する事によって、悪しき者に心乱される事から救われ、主の栄光に預かり、そして天においても地においても全てを超えておられる主こそが自分のゆずりである、と、霊において一瞬にして癒やされ、健全にされた。

私達は、悪しき者を見つめたり研究したりしてはならない。
ソロモンは「人の悪や愚かさ」を研究し、分類し、調べ見極めようとした結果、悪や愚かさに飲み込まれてしまった。(伝道者の書7:21-25)
彼が植物や自然を研究している内はまだ良かった。それらは主が創られたものであり、じっくり見るなら見る程癒されるものだが、罪深い人や愚かな人は、一緒に居れば居る程、調べれば調べる程、病むものだ。
私達がじっと目を留め続けるべきは、進行の創始者であり完成者であられるイエス様であり、そして主の御言葉をこそ研究すべきである。

詩篇43:3 あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所に/わたしをいたらせてください。(O send out thy light and thy truth: let them lead me; let them bring me unto thy holy hill, and to thy tabernacles. )

詩篇43篇の作者は祈っている。
あの聖なる山へ、主の住まいへと、私を連れて行ってください、「主の光とまこと」という車で迎えに来て、神とわたしとが出会うあの聖なる山まで、わたしを連れて行ってくれますように、と。

43:4 その時わたしは神の祭壇へ行き、わたしの大きな喜びである神へ行きます。神よ、わが神よ、わたしは琴をもってあなたをほめたたえます。

神の祭壇は、犠牲を捧げる所、自分を捧げる所である。
神は霊とまことをもって礼拝する礼拝者を求めておられ、からだ全体(ソーマ:肉体、魂、霊)を捧げる礼拝を捧げるべきである。(ローマ12:1-2)

そして、自分のたましいに向かって、言い聞かせるのである。

43:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

健全なる主から目を離し、悪者に目を向け続けるなら、どんどん病んで行ってしまう。
しかし、いかなる状況であっても、聖所に入り、主との交わりに入るなら、全てを超越しておられる主から、全てを超越した助けと解決をいただけるのである。

雅歌書講解説教
まことの主人からさらに優れた飾りで飾られるために(雅歌1:10-17)
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雅歌書には男女の愛が記されており、特に1章では、新婚の若者らしい本当にみずみずしい愛が記されている。
前回は、花嫁は自分がぶどう畑の見張りに無理やりにさせられ、黒くなってしまった、と嘆いたが、しかし花婿の評価は「美しい」、と言うものだった。
そして、わたしがどこにいるかを知りたいなら、羊達の足跡についてきなさいと。
私たちもイエス様の羊たちの後について行って、まことの羊飼いイエス様の傍で、イエス様に言われた通りに雌やぎを飼う。そのように、御声に聴き従って従順して行くなら、ますます花婿との関係は良好になって行き、花婿はますます良いものをプレゼントしてくれるようになる。
花嫁が、花婿の御声について言ったならば、9節の言葉が与えられる。

雅歌1:9 わが愛する者よ、わたしはあなたをパロの車の雌馬になぞらえる。
自分の愛する女性を、とてもたくましく、筋肉が隆々としているパロの戦車馬になぞらえるのは、ちょっと不思議に聞こえるかもしれない。
この「パロの戦車」は、よく訓練され、とても従順である。出エジプト記を見ると、パロの戦車馬は、火の柱が立っていても、紅海の水が割れても、それでも、パロの命令に従って飛び込んでいった。
主人が「行け」と言えば行き、飛び込めと言えば飛び込んでいくほどに、よく訓練され、いらない身勝手さも削ぎ落とされ、忠実に主人の声の通りに行っていくのが、パロの馬である。
この花婿が「パロの雌馬になぞらえよう」と言ったのは、この女性は、よほど主人に対する従順さが成長している様を褒めそやしたのだろう。

女性が筋肉隆々でたくましい事も、ある種の美しさはある。
腹筋、背筋を鍛える事にはいくらかの有益はあるが、男性である主人に喜ばれる筋肉は、「聞き従う筋」のたくましさである。
「主人の声に従順であること」において鍛えられて行く事こそ、私達の主人イエス様が、私達・花嫁へ求めておられる事である。
主の御声によく聴き従う、主人に服従することにおいて鍛えられて行くなら、どんどん主からの寵愛を受けるようになっていく。しかし従順さが衰えてしまっているなら、どんどん主の寵愛から離れて行ってしまう。

従順である花嫁に対し、花婿はさらに優れたアクセサリーをプレゼントをする。

雅歌1:10 あなたのほおは美しく飾られ、あなたの首は宝石をつらねた首飾で美しい。
1:11 われわれは銀を散らした金の飾り物を、あなたのために造ろう。

彼女は、黒かっただろうし、ある程度の筋肉がついていただろう。しかし花婿は、そんな彼女を、オーダーメイドの飾りで、飾らせてくださった。
従順の度合いが進んで行くにつれて、さらにさらに優れたプレゼントが与えられるのだ。

女性が、男性にとっての喜びとなるためには、自分の好きな飾りを身につけるのではなく、相手の男性から贈られたアクセサリー、男性の好みに合ったアクセサリーを、身につける事だ。
もし贈られても、それを身に付けないなら、相手の男性を重んじていない事になる。

主が私たちに下さるアクセサリーは、皆、主の目に慕わしくなるための「御言葉」の飾りである。

1テモテ2:9-10 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。

私たちは、御言葉で飾るべきであって、世の言葉を飾るべきではない。
私達が御言葉によって飾られるならば、次はますます素晴らしいプレゼントを用意し、どんどん飾りをつけさせてくださる。もし、世の癖、手癖、悪い癖を身につけるならば、そんなものを身に付けたものを、主は、喜ばれない。
もし主が私たちに「御言葉を覚えなさい」と言う「首飾り」が与えられたならば、それを身に付けるべきであり、この行いをしなさい、と言う飾り輪が与えられたなら、それを身に付けるべきだ。

私達が主の御言葉を、どこに飾るべきかが、申命記に記されている。

申命記6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。

すなわち、主から与えられた御言葉という飾りは、心に、子どもたちに、手に、目の間に、そして家の入り口の柱、門に置くのであり、そしてその飾りは、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、身に着けておくべきものである。

花婿は花嫁の何を慕っているか。
雅歌1:10 あなたのほおは美しく飾られ、あなたの首は宝石をつらねた首飾で美しい。
花婿は、あなたの頬や首は、自分が贈った飾りがついてあるから、美しいと言っている。男性の喜びとは、相手の女性が、自分が贈った飾りを身に着けている事である。
私達も、花婿である主の御前で、自分好みの自前の飾りは外し、主が飾らせてくださる「良き技」「従順」と言う飾り輪を身につけて行くならば、どんどん整えられ、美しく、主から仕立て上げられていく。
続いて、12節以降は、花嫁の側の言葉である。

雅歌1:12 王がその席に着かれたとき、わたしのナルドはそのかおりを放った。
1:13 わが愛する者は、わたしにとっては、わたしの乳ぶさの間にある没薬の袋のようです。

女性の乳房の間は、何人たりとも侵入を許さないところである。
ただ、本当に愛する男性へ、あるいは、本当に愛らしい赤ちゃん以外には、決して明け渡さないところである。
良くない女性は、平気で乳房を他にあらわにしたりする。しかし神の民はそうではない。本当に守るべきところは、守るのだ。
この乳房の間に宿るナルドは、何人たりとも手出しのできない尊い香りで、わたしの愛する方はそのように、何者にも嗅がせたくない尊い香りだ、と言っている。

また没薬とは、物を腐らせないようにする薬であり、良い香りを放つ。
自分の、愛する方へ捧げる愛を、没薬によって腐らせず、いつでもみずみずしい、新鮮な、状態に保っていたい。
そのような願いをもって、彼女は没薬の袋を、乳房の間に忍ばせていて、私の愛する方は、このようなお方です、と言っている。
本当に大切な大切な、他の物には侵入生中さらないところに入れて、あなたに対する愛は、いつまでも腐らないようにしておきたい、と言う願いが込められているのだ。

雅歌1:14 わが愛する者は、わたしにとっては、エンゲデのぶどう園にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。愛する方は、この乳房の間に宿る、物薬の袋のよう。
私たちも、主に対する従順を、服従、愛を、いつまでも新鮮に保ち、それを、何人たりとも侵入を許さない状態に保つようにするべきだ。
主人が飾ってくださる贈り物を、しっかりと身に付ける歩みをしていくならば、主との愛し愛される関係はどんどん成熟し、どんどん親密になっていく。

雅歌1:15 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい、あなたの目ははとのようだ。
花婿は感嘆詞をもって花嫁を褒め讃えている。目は鳩のようだ、と。
他の箇所では「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」とあるが、鳩は素直さの象徴である。
私達は主に対し、鳩のような愛らしい素直な瞳をもって見つめ、聴き従う心を持つべきである。

花嫁は、この褒めそやす声に対し、16節と17節で言っている。

雅歌1:16 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しく、まことにりっぱです。わたしたちの床は緑、
1:17 わたしたちの家の梁は香柏、そのたるきはいとすぎです。
この長椅子(エレス:床)とは、カウチのような、ベッドのようなところである。
青々としている(ラアナン)とは、強く盛んな、あるいは、みずみずしい、春の木々のようによく茂っている事である。

新婚の夫婦のベッド、そこは夫婦が一つとなり、産んで増えて地に満ちていく営みをする所である。
そこが、春の木々のように茂っていくかのように。
私達も、イエス様とますます一つとなり、十字架のイエス様の懐深くにおさまって、イエス様の死と一つとなり、イエス様の復活と同様に復活され、主イエス様のいのちを、産んで増えて地に満ちていくための活動をしていくのである。

確かに新婚の男女にとっては、世界の全てのものがバラ色のようになったような気もするが、これは、私達と主との関係においても同じである。
主に愛し、主に愛されている関係であるなら、世界がとても変わったものに見える。
何もかも美しく、みずみずしく、若々しく育っていく。

主の御声に聴き従って歩んでいくならば、どんどん主から飾らされ、美しくされ、鷲のように若々しくされていく。
アブラハムとサラの夫婦は、100歳と90歳であったが、しかし子供を生み出す力が与えられ、また、サラは89歳であったにもかかわらず、美しさのゆえに、異邦の王に略奪結婚させられてしまった。
そのようなことが実際に起きる。

イエス様との関係が、結婚したばかりの男女のようにみずみずしく、若々しくなっていき、ますます主から飾られ美しくされていく皆さんでありますように!
主から与えられた言葉を、喜んで自分の心・思い・手のわざへと飾りつけ、主の喜びとされて、ますます優れた飾りで飾られていく皆さんでありますように!
麗しい方、イエス様のお名前によって祝福します!

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