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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

鹿が水の流れを慕うごとく(詩篇42篇)
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詩篇42篇からは詩篇の第二巻にはいる。
詩篇の第二巻のテーマは、開放と贖いについてであり、モーセ五書の出エジプト記に当たる。
モーセ五書は神の命令の書であるが、それに対し詩篇五巻は、律法の生活適用篇で、いかに具体的に日常生活の中で神との関わりを持っていくべきか、このようなケースではどう祈って対処して行くべきか、記されている。
出エジプト記の最初は、奴隷状態にあるイスラエルから始まった。
それと同様、詩篇第二巻も同様に、神の宮から遠く離れて敵に好き放題されている状況から、主を慕いあえいでいる作者の心情吐露の詩によって始まる。

詩篇42篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌」

マスキールとは、32篇8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり、またアモス書5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある。(聖書注解)
コラの子による、と表題にあるが、学者達の間では、作者はダビデで、サウル王あるいはアブシャロムによって追い回されている状況、とも考えられている。

詩篇42:1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。

作者は、何らかの理由で、主を礼拝する場所・エルサレムから、かなり地にいて、礼拝が出来ない状況の中から、主を礼拝したいという切望があらわれている。
ダビデがアブシャロムに追われている場面であるとするなら、ちょうど第二サムエル記15章の状況であろう。

2サムエル記15:24 そしてアビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。
15:25 そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。

ダビデはアブシャロムにエルサレムを明渡して都落ちして行くが、彼は信仰によって、必ずこの場所に再び戻り、再び主の箱の前で礼拝が捧げられる事を信じて、箱をエルサレムに戻すように指示した。
彼は、絶望はしていなかった。ただ、全て自分の状況を、全面的に主に委ね、主に望みを置いたのだ。

詩篇42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。
42:3 人々がひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は/わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

ダビデは、アブシャロムから逃げる道すがら、ずっとシムイという者に呪いの言葉を浴びせ続けられ、石を投げられ続けた。
ダビデはその中でも告白している。

2サムエル記16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
16:12 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」

ダビデは、自分が好き放題に呪われている状況にあっても、全てを見て聞いて知っておられ、そして、やがて正しく報いて下さる主に、全てを委ねた。

詩篇42:4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に/群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。

主を喜ぶ兄弟姉妹と一緒に、主の宮にのぼる時のうきうき感は、本当に、主を慕い求めている人にはよくわかる喜びの感覚である。ダビデもまさにそうだったし、全て礼拝する事に喜びを見出す人にはそうである。
そして、その慕い求める主が、礼拝できない時の飢え渇きがいかほどであるか、ちょうど、鹿が、水が無くて谷川を慕い求めるかのような感覚である事も、聖徒達が共有できる感覚である。

42:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

彼はうなだれ、心は思い乱れている状況であるが、彼自身ではその心の状況を、そのまま放置する事はしていない。
自分のたましいに向かって「神を待ち望め」と言い聞かせている。
確かに心配やいらだちで心乱れている状況では、賛美は到底自分からは出てこない状況だが、そんな状況だからこそ主をほめたたえよう、と、彼は絞り出すように告白している。

私達も自分のたましいを、主にあって支配していくべきである。
乱れた心は、そのまま放置するのではなく、自らのたましいへの言い聞かせによって支配する事が、信仰者には必要だ。なぜなら、信仰告白した内容によって、状況は動くからだ。

詩篇42:6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
42:7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波は/ことごとくわたしの上を越えていった。

この詩篇の作者は、体は宮からはなれ、礼拝に参加できないが、彼がいるヘルモンの山々に流れる川や滝から、また昼と夜の諸々の自然現象の中から、主の御手によるわざを見出して、主に心を向け思いを馳せている。

詩篇42:8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる/祈がわたしと共にある。
42:9 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって/悲しみ歩くのですか」と。
42:10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに/わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言う。

敵は相変わらず彼を悩ませている状況である。
しかし彼は、昼には主の恵みを覚え、夜には主へと捧げる歌をささげ、主を「わが岩なる神」と言って切に求めている。

主が必ず礼拝の場へと戻してくださる。
その確信を奮い立たせ、そして信仰の宣言で祈りを終わらせる。

詩篇42:11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

主は、主を呼び求める神の民が虐げられたまま放って置かれる事は、なさらない。その祈りを聞き、必ず御手を伸ばして助けてくださる。
出エジプト記がまさにそうであった。
出エジプト記は、主へ叫び求める声を主は聞いてくださり、神の民の敵にさばきを降し、礼拝へと導き、そして、礼拝する場所が建設されて終わった。

神の民は、礼拝する民である。
礼拝の場で、神との出会うことを切望する神の民の呼び声を、主は必ず聞いてくださる。

真っ黒なぶどう畑の見張りから栄光の花嫁へのシンデレラ・ストーリー(雅歌1:5-8)
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1:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。

彼女は、自分が黒くなってしまったと言っている。その理由が6節。

1:6 わたしが日に焼けているがために、日がわたしを焼いたがために、わたしを見つめてはならない。わが母の子らは怒って、わたしにぶどう園を守らせた。しかし、わたしは自分のぶどう園を守らなかった。

日に焼けて黒い。なぜそうなったか。それは自分の肉親の子達、すなわち兄や姉がいきりたって、無理矢理彼女に、彼らの葡萄畑の見張り人に仕立てられたからだ。
「しかし彼女は自分の葡萄畑たちを見張ることができませんでした。」と言っている。
畑が複数形、という事は、兄や姉たちの畑たちを見張らなくてはならなかった。
それでいて、自分の(単数形の)葡萄畑の面倒を見る事はできなかった。
それで彼女が黒くなってしまった。というのが、彼女の状況。

日に焼けて黒くなって、女性としての魅力がなくなってしまった、と彼女は思って、それで、私のことをそんなに見つめないでください、と言っているのかもしれない。

しかし「日がわたしを焼いた(シャザフ)」は、直訳すると、わたしは太陽に見つめられた、と訳せる。
本来、自分の葡萄畑を見張って面倒を見るべきが、無理やり他人の葡萄畑を見張るようにされてしまった。自分のぶどうは面倒を見ることも、実らせることもできないまま、ただどんどん黒くなっていくだけ、というのが、彼女の今までだった。

しかし彼女は、黒いけれども美しいと言っている。
美しいとは「似合っている」という意味である。

彼女は、自分のぶどうの面倒を見ることができなかったかもしれない。ただ黒くなってしまったかもしれない、しか少なくとも彼女は、ずっと太陽に見つめられつけていた。
義の太陽であられるイエス様は、彼女をずっと見つめて続けておられた。あの間も、この間も。
そして彼女は、ついに、将来の夫の目に留まり、そこへ嫁いでいく。

まさにシンデレラストーリーである。シンデレラは元々、過酷な継母の元で灰をかぶる程に強制的に働かされ、真っ黒になったのと、意地悪な継母が「cinder(灰)」の娘、シンデレラ、と揶揄したのが元々であるが、やがて王子様に見初められ、王家へと嫁ぎ、素晴らしい王宮に入り、以前の古くて汚い、せまい働き場は全くもって過ぎ去る。
地上で神のために働く全ての「僕(ディアコノス=ディア(くぐる)+コノス(灰))」達は、皆、この壮大なシンデレラストーリーにあずかるのである。

花婿は黒くなった彼女のことを、女性の中でも最も美しい、と言う。
彼女は自分で自分のことを黒い、恥ずかしい、と思ったが、それは花婿とは違う価値観だった。

私たちも同様である。
自分で自分を見つめる評価は重要なのではない。むしろ、真の花婿にどう見られているか、彼がどう私たちを評価するのかこそ大事である。
私たちはいつまでも、他人の葡萄畑を見張り続けているわけではない。
やがて王の王であられるお方、まことの夫であられるお方が、より素晴らしい所へと導いて下さるのだ。

以前は、彼女の母の子供たちが、彼女よりも上の立場、力強い立場だったかもしれない。それで彼女の時間やエネルギーを搾取する事ができた。
しかしそれよりもさらなる上なるお方、王の中の王であられるお方に見初められ、嫁がれて行くなら、もはや以前の支配者たちは、手放さざるを得ない。

だから私達は、まことの夫へと引き寄せられる日に備え、日々しっかりと与えられたことをなすべきである。
私たちも世の中において、あるかもしれない。
世の人たちが、いきり立って、神の子達をこき使い、肝心の自分の畑、自分の家庭を全然見張ることができず、ただ無理やり他の兄弟姉妹の畑の面倒ばかりを見せられ、ただ黒くなってシミやそばかす、シワの類だけが増えて、あたかも無駄に時間をつぶしているかのように感じる事が。
しかしイエス様は変わらず、全部を、ずっと見つめ続けておられる。
主が私たちを呼び出し、召し出して下さるなら、もはや誰かに身勝手に押し付けられる労働や苦労から解放され、愛する方に召し出され、奥の間の交わりへと導かれて行く。

そのために私達がなすべき事が一点ある。
それは、夫なる方に、呼びかける事である。

1:7 わが魂の愛する者よ、あなたはどこで、あなたの群れを養い、昼の時にどこで、それを休ませるのか、わたしに告げてください。どうして、わたしはさまよう者のように、あなたの仲間の群れのかたわらに、いなければならないのですか。

私の愛する方、イエス様、どうか教えてください、どこであなたは羊を飼い、どこで休ませているのですか、なんで私だけさまようような事をしなくてはならないのでしょうか、と。

呼び求めるなら、主は教えて下さる。
私たちを罪の飲み食いから、黒くならざるを得ないところから解放される方法を、そして、花嫁として整えますます美しく仕立てられて行く術を。

黙示録に書いてある。夫のために飾られる花嫁は、天から降って来た、と。
花嫁が整えられる場所は、天である。私達のこの身は地上にいるかのように見えても、主に導かれるなら、私達の霊は天にあり、そこでは世の者は決して触れる事はできない。
この身は地上に居ながらにして、霊は御国におり、御国の平安、安息の内に、主に養われ、御国へと嫁いで行く花嫁として整えられ、飾られて行くのである。

何も私たちが、主に気に入られるために宝石やゴールドを買って飾るのではない。
私たちは主にあって、天的な養いを受け、宝石や首飾りなどで花嫁として美しく
飾られていくの。

そのためには、花婿に呼び求め、その言葉に聞き従っていかなければならない。

1:8 女のうちの最も美しい者よ、あなたが知らないなら、群れの足跡に従っていって、羊飼たちの天幕のかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。
 
主は語られる。羊の群れの足跡に従ってついてきなさい、と。
私達も、主の羊たちが歩んだ道、すなわち、信仰の先輩たちの足跡ならい、まずついていくことから始まる。
4節にある通り、私を引き寄せてください、私はあなたの後から急いで参ります、と言う姿勢で。
イエス様、私の後についてきて困った時に助けてね、と言う姿勢ではなく、私たちの側が、主のあとについていく、という歩みをしていくべきなのだ。

主について行って、その場所に到達したなら、羊飼いの住まい(ミシュカン)の傍らで、あなたの子山羊を買いなさい、と言われる。
山羊は羊よりもグレードが低いような、角が生えていた逆らう性質があり、前か悪かと言えば、どちらかというと悪に思えるような気もするが、しかし、その子山羊を飼いなさい、と言われる。羊飼いのミシュカンの傍らでう。

ミシュカンとは幕屋、テントの意味だが、モーセの時代以降の礼拝する所もミシュカンという。
私たちが子山羊を買うようなことがあっても、主の天幕(ミシュカン)のそばでそれを飼っているならば、主は私たちを、子山羊飼いから羊飼いにして下さる。
山羊は成長すれば、目がきつくなっていき、 あばれたり突進して来たりするが、子山羊のうちであるならば、主への捧げ物になる。

私達はまず、まことの羊飼いであられる主の羊たちの群れの足跡に、ついていかなくてはならない。ダビデは、主がまことの羊飼いで、私達はその羊だと言った。
だから私達も、ダビデやヨシュア、カレブのような信仰の先輩たちという主の羊達の足跡について行き、まことの羊飼いの幕屋、すなわち礼拝場所の傍らで、主が言われる通りに、子山羊を飼うのだ。それをしっかりとしていくならば、主はさらなる次の整えへと入らせていく。

どうか、ますます世の罪の飲み食いから離れ、キリストの花嫁として整えられ、飾られ、美しくされ、主の麗しい交わり、奥の間での交わりへと導かれていく皆さんでありますように。
イエス様の名前よって祝福します!

病の時の祈り(詩篇41篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
41:1 貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。

詩篇41篇は、詩篇第一巻の最後であるが、その最初である詩篇1篇と同じ書き出しである。
1篇の幸いな人は、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人で、あったが、41篇の幸いな人は、貧しい人をかえりみる人である。
1篇では能動的な祝福が、すなわち、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉もしぼまず、そのなすところは皆栄えるという祝福が約束されていた。
しかし41篇では、悩みの日や病の時に守られる、という、受動的祝福が約束されている。
貧しい人をかえりみる事は、主に貸すことであり、主がその善行に報いてくださるのだ。(箴言19:17)

申命記15:7 あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
15:8 必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。
15:9 あなたは心に邪念を起し、『第七年のゆるしの年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に対し、物を惜しんで、何も与えないことのないように慎まなければならない。その人があなたを主に訴えるならば、あなたは罪を得るであろう。
15:10 あなたは心から彼に与えなければならない。彼に与える時は惜しんではならない。あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、手のすべての働きにおいて祝福されるからである。
15:11 貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。

ヨベルの年になると、負債を免除してやらなくてはならないのだが、それが近づいたと言って、惜しんではならないと主は命じられる。
なぜなら貧しい人を助けるという神の働きに参加するためであり、そして主は、その、施しによって失った分を、補填してあまり余らせて下さるからだ。

41:2 主は彼を守って、生きながらえさせられる。彼はこの地にあって、さいわいな者と呼ばれる。あなたは彼をその敵の欲望にわたされない。
41:3 主は彼をその病の床でささえられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる。
41:4 わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。

人は、弱い。
罪の楽しみへの誘惑に負けて、罪を犯したゆえに、サタンが追いつき、病が災いが追いつく事がある。
敵であるサタン、あるいは悪辣な者達に、あざけられてしまうきっかけを作ってしまう事がある。
ダビデもそうであった。

ダビデはこの詩篇を記した時、病んでいたが、この病の原因は、罪にある、と、ダビデは真っ先に告白している。

41:5 わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
41:6 そのひとりがわたしを見ようとして来るとき、彼は偽りを語り、その心によこしまを集め、外に出てはそれを言いふらす。
41:7 すべてわたしを憎む者は/わたしについて共にささやき、わたしのために災を思いめぐらす。
41:8 彼らは言う、「彼に一つのたたりがつきまとったから、倒れ伏して再び起きあがらないであろう」と。
41:9 わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも/わたしにそむいてくびすをあげた。

ダビデは王である故に、彼の周りには、表向き彼にへつらっているものの、心では全く敬っておらず、ただ利益を得るために利用しようとして来る者がいる。
イスカリオテのユダも、イエス様に対してそうだった。事実、9節は、ユダの事を預言した言葉である。(ヨハネ13:18)
そしてそのような者達は、いざという時に裏切り、敵となって責め立てて来るものである。

しかし、普段からの主に対する信頼と、貧しい人への憐れみが、御前に貯金となって積み立てられており、災いの時、主に呼び求めるなら、主は助けてくださる。

詩篇91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

また、8節で「たたり」と訳された語は、ヘブライ語でベリヤアル、元の意味は「価値がない者」である。
私達は、主イエス・キリストにあって、高価で尊い者であるが、それにひきかえ、裏切る者達や責め立ててくるサタンは、まったくもって「価値が無い者」である。
私達は御言葉に立つ時、キリストにあって価値ある者となり、価値が無いベリヤアル、サタンごときが、どうして責め立ててくるのか、と、正統に対抗できる。

41:10 しかし主よ、わたしをあわれみ、わたしを助け起してください。そうすればわたしは彼らに報い返すことができます。
41:11 わたしの敵がわたしに打ち勝てないことによって、あなたがわたしを喜ばれることを/わたしは知ります。
41:12 あなたはわたしの全きによって、わたしをささえ、とこしえにみ前に置かれます。

12節でダビデは「わたしの全き」と言ったが、私達すべての人間には、全き所は、まったく、無い。
この「全き」は、どういう事だろうか。

私達に罪がある時は、私達の罪をはるかに上回る主のゆるしへと、また病の時は、病から起こして床を畳ませて下さる癒やし主なる主へと、立ち返る事。
状況に関係なく、いつもわたしに与える恵みが常に大きい主を信じ、彼へと立ち返り、まことなる御言葉を信仰をもって宣言する事。
それこそ、「わたしの全き」であり、「わたしの義」である。

ローマ4:18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
4:19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
4:20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
4:21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
4:22 だから、彼は義と認められたのである。

詩篇第一巻の最後は、祝祷で終わっている。
同様に、詩篇のそれぞれの巻の終わりは、このような祝祷で終わる。

41:13 イスラエルの神、主は/とこしえからとこしえまでほむべきかな。アァメン、アァメン。

アーメンが反復されている。
アーメンとは、そのとおりです、それは真実です、そうなりますように、という意味であるが、これこそ、私達に御言葉が与えられた時の、正しい応答だ。

集会での詩篇(詩篇40篇)
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主に心を向け、耳を傾ける人が、いかに幸いであるか。ダビデはその経験を、集会の中で宣言している。

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
40:1 わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
40:3 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。

主は、どのような人を、滅びの穴や泥沼から引きあげ、足を岩の上におき、歩みを確かにされるのか。
それは、耐え忍んで主を待ち望む人であると書いてある。
また主は、どのような人の祈りに、耳を傾けられるか。
それは、以下に記されている事を、心して行う人である。

40:4 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
40:5 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。

主がその祈りを聞いてくださる人とは、自分の道を、罪や虚しい事へと向けない人、主の良くして下さった事と恵みのわざを思い起こし、それを忘れない人だ。

そして6-10節は、この詩篇の心臓部とも言えるべき所である。
特に6節は、旧新約の色々な所で引用され、また、これと同じ事は色々な箇所に記されている。

詩篇40:6 あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。

ヘブル10:5 あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。

詩篇では「耳を開かれた」となっているが、ヘブル書での引用では「からだを備えて下さった」となっている。
耳は、それほど礼拝において重要な器官のだ。
たとえ体が礼拝に参加していても、耳を御言葉へと傾けないなら、それは無意味である。
耳を傾けること、それこそ私達の最高のいけにえであり、主が求められる事だと、サムエルも言っている。(1サムエル記15:22)

詩篇40:7 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。
40:8 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

書の巻、すなわち聖書に、まさしくわたしたちの事が記されている!
このとても不思議な体験を、私達クリスチャンはしている。
ダビデは1節で、主はわたしの叫びを聞かれた、と言っているが、主がその祈りを聞いてくださる人とは、主に耳を傾けて聞く人、主のことばを求め、その通りを守り行う人だ。
また、「あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」とダビデが言っている通り、御言葉を心の内に刻みつける人、すなわちテフィリンする人である。

詩篇40:9 わたしは大いなる集会で、「救についての喜びのおとずれ(ツェデク:義)」を告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。
40:10 わたしはあなたの「救(ツェデカ:義)」を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを「告げ示し(アマール、KJV: declared)」ました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを/大いなる集会に隠しませんでした。

口語訳で「救についての喜びのおとずれ」と訳された語は、ヘブライ語では「ツェデク(義)」、英語のKJVでは「righteousness」の一語である。
ダビデは、主の義について、心の中に隠しとどめておかず、大集会を前に大声で告げ知らせた。
イエス様が、ともしびは枡の下には置かない、と言われたように、私達も、主が良くして下さった事を、心に秘めて置く事なく、人々に告げ知らせるべきである。

11節以降は、ダビデの祈りと願いになる。

詩篇40:11 主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって/常にわたしをお守りください。

「あなたのあわれみ」「あなたのいつくしみとまこと」とある通り、憐れみ、恵み、まことは、主から来るのであって、自分から来るのではない。これらが欲しいなら、ダビデのように、主に求めるべきである。

詩篇40:12 数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。

私達も、自分の身から出た錆的な災いに、追いつかれてしまう事が多々ある。
その場合は、ダビデのように、ただ主の憐れみと恵み、まことが成る事を祈るしかない。

詩篇40:13 主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。
40:14 わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもを/ことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもを/うしろに退かせ、恥を負わせてください。
40:15 わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを/自分の恥によって恐れおののかせてください。

ダビデは特に、敵から救われる事を、主に求めている。
敵から救っていただくためには、すべてを主に持っていく事である。
自分の犯した罪、自分の弱さ、どうしようもなさを。そして主の御胸に反した所が示されたなら、それを悔いて改める事である。

誰でも、自分の犯してきた罪々は、自分の髪よりも多い。
主に持っていかないなら、そして悔い改めて主にきれいにしていただかないなら、それらは追いついて絡みつき、見上げる事すら出来なくなって、心が消え失せるばかりになってしまう。
だからダビデは、主に尋ね求めるように、そして自分を助けて下さるようにと、この祈りを閉じている。

詩篇40:16 しかし、すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/常に「主は大いなるかな」ととなえるように。
40:17 わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。

主にすべてを打ち明け、悔い改めるなら、主は豊かに赦して下さる。
この素晴らしい主を体験し、多くの人々の前でこの素晴らしい主をあかししていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

雅歌書の中に見出すイエス様との親密な愛の交わり(雅歌1:1-4)
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雅歌1:1 ソロモンの雅歌

雅歌(シール・ハ・シーリーム)は日本語の漢字では、雅やかな歌、と当てられているが、原意は「歌たちの中の歌」である。
花嫁と花婿の詩、娘たちの合唱が呼び交わされる形式で、男女の婚約した時から、結婚に至り、初々しい夫婦生活から、その成熟に至るまでの、男女間の愛の喜びに溢れた表現で描いている。
雅歌書は、聖書の中でも異色の本といえる。
聖書の他の書は、神と人との愛の関係が記されるのが多いものの、雅歌書のように、人同士の、それも男女の愛をうたっている箇所はほとんどないし、また他の書は、感情表現ぬきで淡々と真理が示されている箇所は多いものの、雅歌書に限っては、ふんだんに感情表現がされている。
また、聖書の他の箇所では、神を称え賛美する箇所は多いものの、雅歌書のように、誰か人を、それも、異性をほめ讃える表現は、他の書では皆無だ。
この雅歌書から私達は何を読み解いていくべきか。

日本語で言う所の「愛」は、ギリシア語には4種類がある。
すなわち、フィレオの「友愛」、エストロゲの「親子愛」、エロスの「男女の恋愛」、そして、アガペーの、「神の完全なる究極的な愛」。
フィレオの愛は友愛、エストロゲの愛は親子愛、エロスの愛は男女の恋愛、そして、アガペーの愛は、神の完全な究極的な愛であるが、この雅歌では、主に、エロスの愛を描いている。
このエロスの愛は、強く情欲を駆り立て、うきうきさせる力があるが、自己中心的で、自分が満足したり、自分が気持ちよくなったり、時には奪ったりするものである。
もし相手に性的な魅力を感じなくなってしまったら、いとも簡単に離れてしまう。

世の中には多くの歌があるが、おそらく半数以上は、男女の愛をテーマにしたものではないだろうか。
しかもその愛の歌の中には、心をうきうきさせるよりも、切なくさせたり、悲哀感情へと浸しこませたりするものも、たくさん見受けられる。
神の愛・アガペーは、それらとは方向性が真逆で、人のした悪を思わず、自分が得る事を思わず、ただ人を大切にする愛である。

このエロスの愛で満ちている雅歌書は、聖書的に意味が無いのかというと、そうではない。
この世の有様は、全て天の実体の陰であり、男女の愛も、そうである。
雅歌のこの愛の模様は、私たち教会、すなわち、キリストの花嫁と、キリストと言うまことの花婿との関係の雛形として見ていく時、雅歌書はキリストと教会の関係において、非常に豊かな示唆を与えてくれる。
しかしもしキリストなしにこの雅歌書を読むなら、ただの恋愛ドラマや、官能小説と変わりはなくなってしまう。

この書は、あまりに男女の愛の喜びを楽しみを赤裸々に散りばめているので、これが果たして聖書の一巻としてふさわしいのかどうかと言う議論も成された。
しかし、神の国には当然、愛し愛されるゆえの喜びがあり、楽しみが存在する。
世の宗教では、男女の愛を何か汚れたものとして見る所もあるが、キリストにあっては、捨てるべきものは何一つ無い。
キリストを交えて見るなら、この雅歌書はとても美しく、麗しい、好ましいものである。

雅歌1:2 どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり、
1:3 あなたのにおい油はかんばしく、あなたの名は注がれたにおい油のようです。それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。

最初から早速、官能的な表現で始まるように見えるが、この「口づけ(ナーカシュ)」、もともとの意味は結びつける、(武器などを)装着する所から、「口づけ」になった。
私たちはここから、キリストの花嫁としての立ち位置、キリストを装着し、キリストを着たい、キリストと一体化したい、という感情を共有する事ができる。
イエス様が、私とひとつになってくださったら良いのに、と感情として思うのは、正常なキリスト者の願いである。
そのイエス様の愛は、ぶどう酒よりはるかに優れた心地よさだ、という感覚を、理解できるだろうか。
私達が「イエス様」と呼ぶたびに、イエス様の愛を感じ、その麗しさ、甘さが、香り高い香油のように、喜ばしさをともなって心に満ち満ちていく。
その感覚は、正常なキリスト者の感覚である。それを理解できない、とするなら、単にキリスト教を宗教として生きているだけである。

雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。

ここに、私達とキリストとの正しい立ち位置が記されている。
私たちはイエス様のあとを従って行くものであり、決してその逆ではない。
イエス様が行ったなら、私達は彼から離れずに、急いで彼についていく。それがイエス様との正しい位置関係である。

普段は自分の好き勝手にやって行って、何か困った時だけ、神を取り出して助けてもらおうとしたり、あるいは自分が願う事を叶えてもらうためだけに神を持ち出すような、そんなふうに、神を何か便利な四次元ポケット的なものとみなすのは、イエス様を主とした歩みではない。
イエス様は、この雅歌書の乙女にとって大好きな男性のように、私達にとってうるわしい主人であり、私達はただ彼の後からついて行き、彼の願われる事を行い、彼がしてはならないと言われた事はしない、そして、彼がしなさいと言われた事を行う。
それが正しい私達の歩みであり、その歩みをするならば、イエス様は私たちを「奥の間」へとエスコートし、そこで親密な愛の交わりへと導いて下さる。

そこには、「楽しみ喜び」があり、それは、ぶどう酒に遥かにまさるものだと書いてある。
ここの「楽しみ」と訳されたヘブライ語ギール(あるいはグル)は、元の意味は「くるくる回る」、そこから嬉しさ、喜びのあまりに踊り上がる事をあらわし、「喜び」と訳されたヘブライ語サマハ(ク)は、顔が喜びにぱーっと輝く様をあらわしている。
子犬が主人に久しぶりに会った時、ぴょんぴょん飛び跳ね、くるくる回って喜び叫び踊るような感覚である。

女性が、慕い求めている男性に、エスコートされ、奥の間に親密な愛の交わりへと連れて行かれる時、まさに、このギールやサマクの感覚ではなかろうか。
私達がキリストに対して描く感覚も、同じである。
イエス様に伴われ、普段の人には到底入れない聖なる所での、聖なる親しい交わりへと導かれて行く事は、キリスト者にとって、この上もない喜びである。

神を礼拝する場所、神殿や幕屋には、至聖所と呼ばれる「奥の間」がある。
そこは絶対的に聖なる領域で、普通の人間は決して入れない。
しかしイエス様は、十字架の上で、ご自身のからだを裂かれる事により、私達にそこへの道を開いて下さった。

私達は「肉体」という外面を持っており、それに対し「霊」という「奥の間」を持っている。
神は霊であるから、私達は霊とまことによる礼拝をする事を求められている故に、私達はこの肉体だけを礼拝に参加させるのではなく、霊とまことをもって主を礼拝するべきである。

そうであるなら、たとえ体は礼拝する場ではない所に、例えば職場や不信仰に満ちた家の中にいたとしても、霊においては主と交わっていて、「奥の間」における主との交わりにある。
その時、どこでも主にある喜び、楽しみに入る事ができる。
たとえ、私達を殺そうとする迫害者に取り囲まれている時でも、決して揺るがされるものではない。
ステパノがまさに、殉教される直前、キリストとの霊における奥の間の交わりに入っていた。

イエス様との正しい位置関係を持ち、イエス様の後から急いでついて行って、奥の間へと導かれ、そこにで霊における親密な愛の交わりに入って、世の何者にも決して揺るがされない平安と喜びの内を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

「沈黙は金なり」が真ではない場合の見分け方(詩篇39篇)
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聖歌隊の指揮者エドトンによってうたわせたダビデの歌
39:1 わたしは言った、「舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み、悪しき者のわたしの前にある間は/わたしの口にくつわをかけよう」と。
39:2 わたしは黙して物言わず(KJV: even from good: トーブ)、むなしく沈黙を守った。しかし、わたしの悩みはさらにひどくなり、
39:3 わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った。

ダビデは、口で罪を犯さないようにするために、悪者を前には、口を閉ざしておこう、と決心したが、すればするほど痛みがひどくなっていった。
口を閉ざすべき時もあるが、黙ってはならない時もある。
ダビデの悩みがひどくなったのは、良いこと(トーブ)をさえ、口から出さず、黙っていたからだ。

トーブというヘブライ語、それはパーフェクト、ビューティフル、グッドの意味で、神の天地創造の6日間で6回、ご自身の創造のみわざに対して神が評価された言葉であり、そして神の混じりけのない御言葉は、トーブそのものである。
悪者を前にして、神のトーブな御言葉と、神のトーブな御業を黙っているなら、ますます悪が調子に乗って、はびこり、同時に、トーブを口に出さなかった本人の中には、悩みが火のように燃え上がってしまうのだ。

ダビデがトーブな言葉にも黙っていた結果、思い知らされたのは、自分も含めた「人間のはかなさ」である。

詩篇39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも/息にすぎません。〔セラ

はびこる悪におもねって、10年や20年、命を永らえたとしても、結局それは、はかないものである。
この卑屈にながらえた期間は、むなしさと痛みの日々にすぎない。
ダビデは、自分も含めた人間というものの「むなしさ」を味わった故に、次のように結論する。

詩篇39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために/騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

ダビデは、彼自身の望みは、ただ主である、と結論した。
まことの神から離れた人の世界の中にも、人と人との間にも、そして、自分という人の中にも、結局は、むなしさしか以外には何も見いだせない。
そんな人間が、永遠なる神を抜きにして、10年20年ながらえた所で、一体何になるだろうか。
結局ダビデは、わが望みは決してすたれる事の無い、永遠に価値ある御方、主である、と、思い知るに至ったのだ。

私達は、イエス様にならうべきである。
イエス様は、悪しき者に取り囲まれ、よってたかって「偽り」の言葉に囲まれた時、それらに対しては、一切口を開かなかった。
しかし、真理の言葉については大いに口を開いた。

マタイ26:59 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。
26:60 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、
26:61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。
26:62 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。
26:64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

イエス様はこれ故に十字架刑が確定したが、イエス様はいつも真理に立って、心安らかであった。
キリスト者も、偽りに対して一切くちびるで関わらず、ただ、真理の言葉を発するなら、後ろ暗さが一切無く、心安らかで、たとえ迫害され殉教に至るとしても、聖霊が助けてくださり、世の何者にもまさる平安に満たされ、主の栄光をあらわす事が可能なのである。(使徒7:54-60)

詩篇39:8 わたしをすべてのとがから助け出し、愚かな者にわたしをあざけらせないでください。
39:9 わたしは黙して口を開きません。あなたがそれをなされたからです。
39:10 あなたが下された災を/わたしから取り去ってください。わたしはあなたのみ手に打ち懲らされることにより/滅びるばかりです。

ダビデは自分自身の罪や愚かさに由来する災いを、取り去って下さいと願う。
随分都合の良い願いだが、しかし罪の赦しと、聖霊による造り変えは、罪穢れを除き、ゆるしてくださる主へと向かっていき、主に自分の罪を言い表し、悔い改め、主と関わりを持とうとする人々に、与えてくださる。

詩篇39:11 あなたは罪を責めて人を懲らされるとき、その慕い喜ぶものを、しみが食うように、消し滅ぼされるのです。まことにすべての人は息にすぎません。〔セラ

人が、主を抜きにして喜び楽しむ世の楽しみや栄華は、結局、しみが食うように消し滅ぼされてしまう。ソロモンがまさにそうだった。
彼は前半人生は主に従っていたものの、人生の途中から驕り高ぶり、主を抜きにして歩み、富も権威も地上の頂点に立った時、妻を700人、妾を300人囲ったが、結局、それら得たものは全てが虚しい、と言う以外にはなかった。(伝道者の書)
ダビデは、この詩篇の最後を、祈りで締めくくる。

詩篇39:12 主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。
39:13 わたしが去って、うせない前に、み顔をそむけて、わたしを喜ばせてください」。

この短い祈りの中に「わたし」という言葉が6回も出てくる。
彼は、「わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、、、」と主に嘆願し、わたしにかまってほしいと、主との関係を求めたのだ。
主との親密な関係を求める事こそ、罪が赦され、パラダイスへ行くコツである。
イエス様と共に十字架につけられた強盗は、イエス様に「わたしを思い出して下さい」と、関係を求めた事によって、その日、イエス様と共にパラダイスに行った。

結局、以下の告白こそ、人間世界のむなしいやりくりから脱出できる言葉である。

詩篇39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

主イエス様に望みをかけ、真理の御言葉とあかしを宣言し、主に対して一切の後ろ暗い所が無い、永遠に充実した「生」を生きる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主の御名を呼び求め、主との交わりに入っていく事によって、罪をきよめていただく(詩篇38篇)
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『記念のために(to bring to remembrance)うたったダビデの歌』(詩篇38篇表題)

この詩篇は、7つある悔い改めの詩篇の内の一つである。
ダビデは、何かしらの罪を犯したために、この詩篇を記した。
人は一生の内、何度も、無意識的に罪を犯し、人を傷つけ、神の御胸を損傷させてしまうが、この詩篇は、そのような都度、私達も告白すべき祈りである。

詩篇38:1 主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
38:2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

この詩篇で、ダビデは、「主(エホバ)よ」「主(アドナーイ)よ」「わが神よ(エロハーイ)」「あなたは」「あなたに」と、主を呼び求める言葉を、何度も何度も発している。
罪に責め苛まされる時、主の御名を呼び求めるべきなのだ。

詩篇38:3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。
38:4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

彼は、自分の中でありありとうごめいて表面化してしまう罪ゆえに、主から責められ、突き刺されているような思いがしている。
習慣的・自動的・無意識的に犯す罪が、自分で償いきれる分量を超えて、重くのしかかり、それに押しつぶされてしまうように感じる事がある。

私達が病むのも、また体に現れてくる諸々の疾患も、全て、罪ゆえである。
罪のとげが自分の体を蝕み、精神を突き刺し、病ませるのだ。

詩篇38:5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

ダビデは、自分の罪が、あたかもじゅくじゅくと膿んで悪臭を放つ傷口のようだと言っている。
その溜まりに溜まった汚れが破裂し、膿を周囲へ飛ばして汚し、悪臭を振りまいてしまうように。
自分から離れなくなってしまった罪は、そのように、無意識的に人を、周りを、そして主の御胸を汚すものだ。

詩篇38:6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。
38:7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
38:8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。

腰(ケセル)は、信頼する、確信する事の意味もあり、安定の源であるが、ダビデは自ら犯してしまった罪ゆえに、安定に事欠いており、心乱されうめいている。。

以上のように、自分の中にパターン化されている罪、自動的・無意識的に犯して、自分で償いきれる分量を超えて重くのしかかる罪ゆえにさい悩まされる時、どうするべきか。

その時に「してはならない事」は、アダムとエバのように、主の御顔を避けて隠れる事、覆い隠す事、他人のせいにして自分の罪を告白しない事である。
そうしてしまうなら、彼らのように、楽園から追い出され、労苦と呪いがつきまとってしまう。

ダビデはその真逆、積極的に自分の罪を主に告白し、主との交わりへと積極的に入っていき、罪を扱って下さる主を何度も呼び求めた。
それでこの詩篇で、彼は、何度も「主(エホバ)よ」「主(アドナーイ)よ」「わが神よ(エロハーイ)」「あなたは」「あなたに」と、主を呼び求める言葉を何度も発している。

詩篇38:9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。

ダビデは自分の中の全てを主に開示し、主に取り扱っていただく体制を、主の前に整えた。

詩篇38:10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。
38:11 私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。
38:12 私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。

ダビデは、彼を責める人々がいる事も主に打ち明けた。
人に対して罪を犯し、それを責められても仕方がない場合は、相手に謝意を示すと共に償いをすべきであるが、ありもしない事で悪口雑言を言われる時がある。
その時のダビデの対応が以下である。

詩篇38:13 しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。
38:14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。

ダビデは、善にかえて悪で返すような者(19-20節)に対しては「耳が聞こえない人のよう」「口をひらかないおしのよう」になった。
イエス様も同様、彼を訴える者にはそのように対応した。

善を悪で返すような悪人からあざけられ、ありもしない事で悪口雑言を言われるような時、私達もそのようにするのだ。
人の悪意、人からの悪口に対しては、耳が聞こえない者のようになり、また「悪口」に対し「悪口」で返さず、ただ正統にさばいてくださる主に委ね、そして私達の耳は主に対して開き、口は主に対して開くのだ。
ダビデはそれをした。

詩篇38:15 それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。

この1節の中に、「主(エホバ)よ」「あなた」「わが神(エロハーイ)」「主(アドナーイ)よ」と、4つの主を呼び求める言葉がある。
罪の責めに悩まされる時は、ただ主を呼び求めるのだ。
私達の救い主・イエス様のヘブライ語読みは「イエシュア」、意味は「主は救い」である。
このイエス様の御名を、信仰をもって呼び求める時、「神は救い」だと告白して呼び求めているのだ。

詩篇38:16 私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」
38:17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。
38:18 私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。

ダビデは、自分の罪を言い表した。
自分の罪を認め、それを表明する時、不安になるかもしれない。
そこでダビデは主に願う。

詩篇38:21 私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
38:22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。

ここでも「主(エホバ)よ」「わが神」「主(アドナーイ)よ」「私の救いよ」と、4つの主を呼び求める言葉がある。
ダビデは罪を犯した時でも、どんな時でも、積極的に主を色々な呼び名で呼び求めた。
このように、いつでも絶えず主を呼び求め、主と関わる「交わり」の中にこそ、罪や汚れが清められる源がある。

1ヨハネ1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

使徒ヨハネは、交わりへの参加を促している。
なぜなら主は、二人でも三人でも主の御名がある交わりの中におられ、そのイエス・キリストの血潮の中に、罪のゆるしがあるからだ。

1ヨハネ1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

使徒ヨハネも、罪の告白を説いた。
自分の罪を告白し、悔い改めるなら、神はその罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。
そのような罪を告白した人に対して、主は弁護者となり、告発者・サタンに立ち向かって下さる。

ゼカリヤ3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシ3:1 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。
3:2 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
3:3 ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、
3:4 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。
3:5 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。

大祭司ヨシュアは、バビロン捕囚から戻ってきた時代の人である。
バビロン捕囚という罰を受け、しっかりと悔いて改めたなら、主が弁護者として立ってくださるのだ。

罪のゆるしは、ダビデのように悔い改め、そして正直に告白し、主との交わりの中へ入っていく人のものである。
アダム・エバのように、神から逃げ隠れ、自分の罪を隠す間は、のろいの中に留まり続けるしか無いのだ。

エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
召命の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 6/9:エレミヤ28:15 (エレミヤ28章)
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義人が受ける報酬の法則(詩篇37:21-40)
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詩篇37:21 悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし「正しい人」は寛大で、施し与える。
37:22 主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。

今回の箇所では特に「正しい人(ヘ:ツァディーク 英:righteous、義人とも訳せる)」が受ける報いを知る事ができる。
では聖書的に、「義人」とは一体何なのだろう。
パウロは「義人」を、次のように定義した。

ローマ1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる(エック ピステオス エイス ピステイン)」と書いてあるとおりである。

ここの原意は、信仰(ピスティス)は、「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
つまり「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から始まり、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事である。
つまりイエス様を信じた瞬間がゴールではない。それはスタートであって、その瞬間から、信仰を所有しつつ、信仰の目的地である天国へと向かって歩み続けて行く「状態にある人」が、義人なのだ。
だから、昨日までは義人だったけれど今日は義人ではないという事が、起こりうる。
それでヤコブは、次のように言った。

ヤコブ2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

アブラハムは75歳の時、神に召され、その言葉通り父の家を離れて神の示す地に言った。
すなわちその時、初めて信仰を所有したのである。
しかし、それを途中で投げ出してしまう可能性は、十分にあった。父テラは目的途上で、投げ出してしまった。

この時期、アブラハムの信仰は全うされていない状態だったが、ヤコブ書二章によると、イサクを捧げたとき、その信仰が全うしたのである。
こうして、神へ捧げられたイサクから生まれる子孫・イスラエルを通して、神に贖われた者、神の所有の民として、神のみわざが全人類に介入できるようになり、さらに彼の子孫からイエス・キリストが出て、この世界を救う事ができるに至った。

以上のように、信仰の完成に至るまで、すなわち、義人とされるに至るまでに必要なのは、忍耐である。
次のように書いてある。

ヘブル10:35 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
10:36 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
10:37 「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
10:38 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。
10:39 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

以上、詩篇37篇後半における「正しい人」「義人」とは、信仰を所有し続けながら、神の目に完成と認められる時至るまで、忍耐をもって歩み続ける人である。

詩篇37:23 人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
37:24 たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。

ここの「人」はゲベル、勇士という意味である。
主は誰も彼もの手をささえ助けるわけではない。信仰を持ち続ける「勇士」をこそ、主は、その人の歩みを定め、その道を喜ばれるのだ。
人が思う勇士と神の目に見える勇士は、違う。信仰を持ち続ける人こそ、神の目に勇士である。
ペテロはイエス様を三度知らないと言って、信仰において倒れてしまったかのように見えても、しかし主は予め、ペテロのために祈っておられた。

ルカ22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

信仰者は、倒れる時もある。しかし七度倒れたとしても、八度目に起き上がる。
それは、主がその手を助け、ささえられるから、と詩篇に書いてある。
イエス様はシモン・ペテロが倒れる事を知っておられ、だからあらかじめ祈って支えておられたのだ。
私達・現代の信仰者たちも、主は支えてくださるのだ。

37:25 わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が/食物を請いあるくのを見たことがない。
37:26 正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。

そうである。
信仰を所有し続けながら歩み続ける人の中に、捨てられて食物を乞い歩く者を、ダビデは見たことは無かったし、私達も、無い。
信仰者は、貧困や不足、困難の時、主に助けを求め、主が彼らに答えて助けるからだ。

37:27 悪をさけて、善を行え。そうすれば、あなたはとこしえに住むことができる。
37:28 主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。
37:29 正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる。

とこしえに住む事ができる人、それは正しい者であると書いてある。
その人は、どのような性質の人であるか。続く節に書いてある。

37:30 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。
37:31 その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。

正しい人は、口にも、心にも、神の御言葉がある。
それを昼も夜も口ずさみ、心に刻みつけている人は、正しい者が受ける祝福を得て、とこしえに神の用意してくださった国に住まうのだ。

37:32 悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。
37:33 主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
37:34 主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。

ここにも記されている。
主が国を継がせてくださる人とは、主を待ち望み、その道を守る人である。
信仰には忍耐が必要である。
信仰を所有し、忍耐をもって、信仰の完成を目指して進み続ける人に対し、主は必ず引き上げてくださる。
そして、悪しき者のわざが滅びる事を、見るのだ。

37:35 わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
37:36 しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37:37 全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
37:38 しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。

書いてあるとおり、私達は、悪を行う者に目を向けてはならない。
そのような者の悪に、目を留め続けていると、心煩わされ、怒り、妬み、あらゆる良くないものをもたらすだけで、どんどん病んでいってしまう。
書いてある。そのような者達は、主が、過ぎ去らせてくださるのだ。
私達がむしろ目を向けるべきは「全き人」であると書いてある。
聖書の中には、信仰における全き道を歩んだ信仰者がたくさん登場し、彼らがどんなに報いを受けたか、が書いてある。
私達もそれらにならう者となり、彼らが受けた報いに私達もあずかる者と期待しつつ、進んでいくべきなのだ。
何よりの全き人とは、イエス・キリストの事である。
私達は彼から目を離さずに歩んで行くべきなのだ。

37:39 正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。
37:40 主は彼らを助け、彼らを解き放ち、彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。彼らは主に寄り頼むからである。

以上のように、悪を行う者は決して長く永らえる事はない。
むしろ、信仰を保ち、忍耐して主の御言葉を守り行う「義人」こそ、永遠にながらえる事が出来る、という法則を、この詩篇37篇から見いだせる。
この法則にしっかり立って、その幸いを豊かに受ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

悪人と相対した時に立ち振る舞うべき法則(詩篇37:1-20)
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詩篇37篇も、25篇と同様、それぞれの節の冒頭がヘブライ語アルファベット順に並んだ詩篇である。
アルファベット順に並んでいる理由は、覚えやすくなっているから「覚えなさい」という事であり、もしこの詩篇を覚え、この詩篇に記されている通りの思考パターンで生きるなら、人生の途上で、たとえ悪人と相対した時でも、煩わせられる事なく、効果的に立ち振る舞う事が出来るのだ。

『ダビデの歌』(詩篇37篇表題)
詩篇37:1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。

これを覚えているなら、自ら悪の道に入る事はできない。
もし御言葉にそぐわない悪をを行うなら、主に敵対され、草のように衰えるという法則が、御言葉を通して、身に沁みているからだ。
悪人達とは逆に、水路のそばに植わった木のごとくに、何をしても栄える人とは、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人である。(詩篇1篇)

詩篇37:3 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
37:6 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

この箇所は、多くのキリスト者の聖書に印がついている所ではないだろうか。
主に信頼する事、主を喜びとする事、人生の道を主にゆだねる事、それは、ユダヤ人の多くも遵守する所であり、キリストにある老若男女全ての聖徒が生きる人生の基準である。
この基準に従って歩む人に対し、主は、彼らの全ての物事を成し遂げさせてくださり、また、彼らが世にさばきの場に立つ時、主からの軍配が上がって、主の栄光の光に輝かされるコツである。(6節)

詩篇37:7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
37:8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

主は、悪人に対しては悪で報いられる故に、私達も、悪人が悪をしたからと言って、悪で返してはならない。

詩篇37:9 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。

この「国を継ぐ」というキーワードは、詩篇37篇で5回出てくる重要キーワードである。(9,11,22,29,34節)
どのような人が、地を相続するか。

1ペテロ3:9 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
3:10 「いのちを愛し、/さいわいな日々を過ごそうと願う人は、/舌を制して悪を言わず、/くちびるを閉じて偽りを語らず、
3:11 悪を避けて善を行い、/平和を求めて、これを追え。
3:12 主の目は義人たちに注がれ、/主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。

さばきは主のものであり、私達が報復する者ではない。
私達は、悪に対しては悪で返さず、善で返すべきである。悪で返すなら、悪人の報いを受けてしまうからだ。
なぜなら私達が召されたのは、祝福を受け継ぐためであるからだ。

詩篇37:10 悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
37:11 しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。

柔和な者は、地を相続する。(マタイ5:5)
この「柔和(アナーブ:謙遜な、貧しい)」は、モーセの性質でもある。

民数記12:3 モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。

この民数記12章の場面では、彼の姉ミリヤムが、モーセがクシュ人の女をめとっていた事を責め立てて、「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」、と言ったが、主の軍配はモーセのほうに上がった。ミリヤムはこの高ぶりが元で、ツァラアトになった。
なぜなら主が立てた権威は、ミリヤムにではなく、モーセのほうにあったからだ。
地上においては、弁論達者な者、多少うそをついても物事をうまく進めて行く者が栄えてくかのように見えるが、主が目を留めて偉大な指導者とされる人とは、多少口下手であっても謙遜な人なのだ。

詩篇37篇の12節以降は、悪者は決して栄え続けないという法則が記されている。

詩篇37:12 悪しき者は正しい者にむかって/はかりごとをめぐらし、これにむかって歯がみする。
37:13 しかし主は悪しき者を笑われる、彼の日の来るのを見られるからである。
37:14 悪しき者はつるぎを抜き、弓を張って、貧しい者と乏しい者とを倒し、直く歩む者を殺そうとする。
37:15 しかしそのつるぎはおのが胸を刺し、その弓は折られる。

主は、御前において誠実に正しく立とうとする人が、悪人の手の中で滅びるような事を、黙ってはおかない。
悪人は主の目にかなった人に罠を張ろうとしても、その墓穴は自分で入るように、主はなされる。

詩篇37:16 正しい人の持ち物の少ないのは、多くの悪しきの者の豊かなのにまさる。
37:17 悪しき者の腕は折られるが、主は正しい者を助けささえられるからである。
37:18 主は全き者のもろもろの日を知られる。彼らの嗣業はとこしえに続く。
37:19 彼らは災の時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる。

ボアズはききんの時代にあっても、彼の畑は豊かに満ち足りていた。
それは、彼が貧しい人をかえりみ、自分の事業所では祝福のあいさつを交わし合う、主の御言葉を忠実に守り行う、御前で正しく歩む人だったからだ。
主はそのような人に対して、恥をこうむらせる事なく、その嗣業を、永遠に続かせて下さる。

詩篇37:20 しかし、悪しき者は滅び、主の敵は牧場の栄えの枯れるように消え、煙のように消えうせる。

牧場が草で生え盛っているとするなら、それは、羊たちに食べ尽くされる。
同様に、悪人の蓄えたものは、主の羊たちが、それを食べて行くものなのだ。

伝道者の書2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

悪人は、いかに悪で蓄えても、それは悪人がいつまでも持つものではない。
それらは主を羊飼いとする主の羊たちへと、渡されていくのだ。

この詩篇37篇に従い、悪人がした事には、いつまでも心煩わせる事なく、主を喜びとし、主に信頼し、主が成し遂げて下さる事にまかせるという、ただ平安の日々を歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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