メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
愛する方の手を握って奥の間へと導くまで(雅歌3:1-5)
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この箇所では、花嫁たる女性が、夜床についても、それでもなお、彼女の愛する方、花婿を探し求める姿がある。
雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。
原文では、「私の魂が愛する方」を、私は探しています、とある。
彼女は、夜、床についているが、魂が愛し慕い求め、安息できるお方が、すぐとなりにいない状態である。
この状況は、今、私達が魂が愛するお方・イエス様を慕い求める姿勢にも似ている。
私たちは、夜眠れない時、平安を求めてもなかなか見つからない時、どうすべきか。
雅歌3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
彼女は実際に、探しに出かけて行ったが、行った先は「町をまわり歩き、街路や広場」で、そこを探しても、見つからなかった。
私達もまた、御言葉の根拠なしに、あるいは聖霊の助けなしに、真理を探し求めても、見つからない。
彼女のように、ただ通りや広場をフラフラさまよい歩いているようなものである。
そしてもし、イエス様以外に目を向けて、安息を求めようとしても、過去のあの事この事が思い出され、怒りがこみ上げて来たり、悲しい思いを繰り返したり、自分の至らなさを繰り返し見たり、あるいは将来の不安が大きくなったりと、とにかく夜、イエス様以外を思いめぐらすなら、必ず良くない思いが、湧き立っていく。
詩篇63篇に、夜における「正しい思い巡らし方」が記されている。
詩篇ユダの野にあったときによんだダビデの歌
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
ダビデはこの時、ユダの荒野にいたが、彼の人生の闇夜の時、慕い求めたのは、主だった。
彼は、何を求めて気を失うばかりだったかと言うと「あなたを慕い求めて」気を失うばかりだった、と告白した。
詩篇63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:6 (5節に合節)
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
雅歌の女性が、夜、たましいが慕い求めるお方を探しに行ったように、ダビデもまた主をあえぎ求め、慕い求め、聖所という礼拝の奥の場へと進んだ結果、彼の渇きは癒やされ、不安は取り除かれ、喜びの賛美が溢れるようになった。
そしてダビデは、女性が男性の懐の中で腕にくるまれている時のような安心感を得た。
私達も、夜闇の不安な時は、主を慕い求めるのである。
彼女は慕わしい方を探し求める行動をした結果、町を行き巡る夜回りに見つけられる。
雅歌3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
街を行きめぐる夜回りが私を見つけました。私の愛してる人を見かけになりませんでしたか?
普通ここで夜、夜回りに見つけられたなら、不審者として捉えられるところでしょうけれども、しかし彼女は、正当な探し求め方をしていた。彼女が夜回りに行き当たった後、まもなく、彼女は見つけることになる。彼女の慕い求めている人。この夜回り、見張り人は、一体何者だろうか。
イザヤ書62章の6節から。
"エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。
主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。
取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」"
イザヤ書 62章6〜9節
ここにも、見張り人がいた。
彼らに対する命令は、昼も、夜も、決して黙っていてはならない。主に覚えられている者よ、黙り込んではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない、というものだった。
主に覚えられている者であり、主が慰めて建て上げ栄誉を回復させるまで、決して黙り込まず、主に叫び続ける者。それは、取り成す者である。
現代の私達にとって、私達が建て直され回復するまで昼も夜も休まずに主に叫び続ける者は、聖霊である。
そして私たちも、黙っていてはならない。この時代の、この国の、見張り人として。
この時代が、この国が、霊的なはずかしめを受けている状況から回復し、建て直されるまで取り成し祈り続けるべきである
3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、「わたしを産んだ者のへや(ヘデル・ホラティ)」にはいった。
彼女は、その夜回りの見張り人に会った直後、彼女の慕い求めるお方をついに見つけた。
私達も、主をしたい求めて歩くなら、いつも見張っておられる聖霊が私たちを見つけ、そしてまことの夫であられるキリストの元へと導いてくださる。
主は、全て慕い求めるたましいがいないかどうかを、夜昼見張り、そして彼らに聖霊を遣わして、真の救い主の元へと導いて下さるのだ。
そのようにして、まことのたましいの救い主、イエス様の所へと導かれた私達は、安息を得、さらに私達自身も働き人となって、この国のために、この時代のために、昼となく夜となく、主に祈り求め、執り成して行く祭司となっていくのだ。
彼女は、この御方をつかんで手放さず、ついに「わたしを産んだ者の部屋(ヘデル・ホラティ)」へと導いた。
ヘデルは「(最奥の)小部屋」、ホラティ(原形ハラハ)は「妊婦になる」「身ごもる」の意味である。
彼女は愛する花婿を、女性の最奥の小部屋、いのちを産み出す小部屋へと導いて、そして言う。
3:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
(KJV: I charge you, O ye daughters of Jerusalem, by the roes, and by the hinds of the field, that ye stir not up, nor awake my love, till he please.)
KJVで見ると、「愛」が人格を持っているかのようで、愛なるお方が目覚めたいと思うその時まで、かきたてたり、目覚めさせたりしないで、ずっとそのままで置いてください、というようなニュアンスも感じる。
男性と女性とは、このように愛の営みをし、いのちを生み出す営みをして、代々、いのちを繋いで行って、今、こうして私達がいる。
これは霊的な面においても、そうである。
私達キリスト者にも、かつて、私達を霊的に産み出した霊的な”母”がいて、彼女がイエス様を自分の最奥の間へと導き、そこでイエス様との親密な交わりと祈りによって、私達・新しいキリストにあるいのち達が生み出されていった。
そして私達もまた、イエス様との愛の交わりの内に、また、うめきの祈りによって、さらに新しい霊的ないのちを生み出して行くのだ。
イエス様は言われる。
黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
今回の箇所では、女性の側が一方的に主人である男性を求め、行動し、そしてついに出会い、奥の間へとお連れして、そこで親密な交わりに至った。
私たちも彼女のように、あるいはダビデのように、真の夫であられるお方を熱心に求め、探し、この御方を見つけたなら、決して手放さず、いのちを生み出す親密な交わりへと導き、いのちを生んで増えて地に満たしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
罪を犯した時の詩篇(詩篇51篇)
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詩篇第二巻で最初のダビデによる詩篇で、あの偉大な王・ダビデが信じられないような罪を犯した時、すなわち、忠実な部下・ウリヤの妻を寝取って、ウリヤを謀殺するという罪を犯した時、その悔い改めをした時の詩篇として有名である。
キリスト者の中にも、自分の罪について、この詩篇を用いて悔い改めの祈りへ導かれた方は多いのではなかろうか。
詩篇51篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの」
この表題の事件が、2サムエル記12章である。
12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。
12:2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、
12:3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。
12:4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。
12:5 ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。
12:6 かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。
私達にもまた、このときのダビデのように、人の悪いところはよく見えて、それをを裁き、罪定めする性質を持っており、そして、実は、自分は主の御前では、死刑に値するような罪人である事を忘れているものである。
しかしダビデに対してナタンが遣わされた時のように、私達にも聖霊が来る時、私達に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせるのだ。(ヨハネ16:8)
12:7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、
12:8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。
12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。
12:10 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。
ダビデは、ナタンの言葉によって、ようやく、自分こそ罪を犯した者だったと告白した。
実は彼は、罪を犯したという事が、目の前にずっと、ちらついていたのだ。
詩篇51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
御前において告白していない罪がある時、なるべくそれを隠そうと、忘れ去ろうとして、いつも心が騒ぎ、平安がないものだ。
12:11 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。
12:12 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
ダビデは罪を指摘された時、それを知らんぷりしたり、あるいは多くの王がしてきたように、逆ギレして、その預言者を口封じしようと抹殺するような事はせず、彼自身、心刺され、正しく告白する。
12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。
12:14 しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。
ダビデは、今まで彼が黙っていて、自分の中に隠して取り扱っていなかった罪を、詩篇51篇の中で告白しはじめる。
51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
ダビデは、彼自身の赦しは、自分の頑張りではなく、一方的に神のいつくしみと憐れみによるものだ、と告白している。
動詞に着目すると、「あわれみ、拭い去って下さい」(1節)、「洗いさり、きよめてください」(2節)、「(自分のとがを)知っています、あります」(3節)と願い求めている。
彼は、罪のきよめは、一方的に主の恵みによるのだと知っていたのだ。
そして彼は、誰に対して損害を与えたのか、明確に告白している。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
彼は言った。ただ主に対して罪を犯し、主の前に悪い事をした、と。そして、主のさばきこそ正しいと告白した。
聖書的な謝罪とは、このように「誰に対して」「何をしたのか」を明確に表明する事であり、そして主に対して「何をしてほしいのか」を申し上げるのである。
日本語で「ごめんなさい」という五文字をお母さんに言えば、お母さんがうるさいのが止まる、と思いこんでいる子供がいるかもしれない。
もし「ごめんなさい」を、なんでもかんでも許してもらえる魔法の五文字だと思いこんでいる節があるとするなら、その「ごめんなさい」は一体、誰に対しての、また、何をした事についてのごめんなさいなのか、ちゃんと自分自身で表明させ、その事についての償いや報いを受け入れる事も表明させる所までをするべきだ。
インターネットには、ビジネス文書のテンプレートが沢山あり、特に謝罪文や始末書、顛末書には、必ず自分がトラブルやミスを行った事を認める内容が記され、そのミスの詳細内容と、それを防止する策を、また、犯した内容によっては、ペナルティや懲罰を謹んで受け入れる意思も表明しなくてはならない。
こうしたテンプレートは、社会人生活をする上で大いに役に立つが、私達には、聖書こそ、テンプレートである。
私達が罪を犯した時、この詩篇51篇にのっとって主に告白し、悔い改めるなら、それは主の前に強力な謝罪文となる。
主は罪を赦して下さるお方であるが、罰を受け入れ、また賠償すべき事はその責務を果たさなくてはならない。
ダビデは人生の長い間、彼の罪ゆえの苦々しい代償を、ずっと支払い続けなくてはならなかった。
51:5 見よ(ヘン)、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
ダビデは、自分が生まれながらに持っている、ありありと明確に存在する罪を認めた。
そう、私達・全ての人間には、罪がある。
赤ちゃんは生まれたばかりの時は、あどけない顔をしているが、もう2,3年もして、言葉が喋れるようになり、人とコミュニケーションをするようになると、嘘をつくようになったり、相手を虐げたり、怒ったりする。
誰にも教えられていないのに、罪をするようになるのだ。
ダビデはそれを嘆いている。
51:6 見よ(ヘン)、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
主は、心の内の真実を見られる。
人は罪を犯す時、神は見えないお方なので、あたかも、誰も見ていないかのように罪を犯すが、その時、主はその行動や立ち居振る舞いのみならず、心の動きさえも見ておられる。
その人が、心から罪を犯したか、それとも罪ある自分に悲しみながら犯したかも、ご存知である。
ダビデは求めた。心に知恵を教えてください、と。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
ヒソプは、過越祭の時に、ほふられた羊の血を、門のかもいと門柱につける時に用いられ、すなわち、罪の処罰が及ばないようにするために用いられる。(出エジプト記12:22)
また、人がツァラアトからきよめられた時、きよめの宣言の時にも用いられ(レビ記14:4)、また、死体に触れた際の汚れからきよめられる時にも用いられる。(民数記19:18)
ダビデはヒソプでもって罪からのきよめを求めているのだ。
罪からのきよめには、必ず犠牲の血が流される。
ダビデもまた、犠牲なしには、彼の犯した罪からのゆるしは、なかった。
それでダビデがバテ・シェバとの間に生まれた子は、死んでしまった。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
今、私達も、罪をきよめてくださいと、救いの喜びと楽しみを返して下さいと、主イエス様の名前によって、祈り求める事ができる。
み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってくださいと。
それは、イエス様が十字架の上で流された血のゆえ、イエス様が犠牲となってくださった故である。
私達は、イエス様の流された血潮の故にゆるされた事、罪が、この御方の犠牲ゆえに成り立った事を、決して忘れたり、ないがしろにしてはならない。
神との関わりの中で生きるべき私達(詩篇50篇)
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詩篇50篇の表題は、「アサフの歌」であるが、アサフは73‐83篇にも出て来る。
彼はダビデの時代の音楽家として有名であり、彼が作る詩篇はいずれも教訓的な内容である。
50:1 全能者なる神(エール・エロヒーム・ヤーウェ)、主は詔して、日の出るところから日の入るところまで/あまねく地に住む者を召し集められる。
50:2 神は麗しさのきわみであるシオンから光を放たれる。
荘厳な栄光の言葉で始まるこの詩篇は、特に、出エジプト記において十戒が与えられた場面を彷彿させる。
詩篇第二巻はトーラーの中の出エジプト記に相当するが、詩篇は、トーラーの内容を生活の中に具体的に適用させる「生活適用篇」である。
50:3 われらの神は来て、もだされない。み前には焼きつくす火があり、そのまわりには、はげしい暴風がある。
十戒が与えられた日も、激しい地震と濃い黒雲、火といなずまの中、角笛が吹き渡り、圧倒的な主の臨在の中、主はモーセを通して十戒を授けられた。(出エジプト記19-20章)
しかしアサフの時代は、主は麗しさの極み、シオンの聖所から現れ、そして今、イエス・キリストにあるエクレシア(教会、召し出された者達)を通して現れる。
50:4 神はその民をさばくために、上なる天および地に呼ばわれる、
50:5 「いけにえをもってわたしと契約を結んだ/わが聖徒をわたしのもとに集めよ」と。
主がイスラエルの民と契約を結ばれた時、民は、いけにえをもって主との契約を結んだ。
出エジプト記24:1 また、モーセに言われた、「あなたはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい。そしてあなたがたは遠く離れて礼拝しなさい。
24:2 ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。
24:3 モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。
24:4 そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、
24:5 イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。
24:6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。
24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。
24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
イスラエルはこのように、血によって神との契約を締結した。
現代の私達も、血による契約と、深い関わりがある。
そもそも聖書は、旧契約聖書と、新契約聖書という、2つの神との契約の書であって、あまた世にある道徳本や宗教本、哲学本の中の一つなどではない。
契約とは、甲と乙の、相手と自分の双方の約束であり、それは個人的な関わりが求められるものだ。聖書は、全人類にとって、そういうものである。
聖書は、神と全人類の間における、双方の約束ごとであり、人は知っても知らずしても、その書かれている内容に従って、祝福を受けるべき事をする人は祝福を受け、あるいは、呪いを受けるべき事をした人は、呪いを受ける。
50:6 天は神の義をあらわす、神はみずから、さばきぬしだからである。〔セラ
神が創造された天は、神の義を告げ知らせる。
天にある太陽や月、星々は、なんと、地球上の人のために役立つように、と、創られたのだ。(創世記1:14-19)
続く7節から15節は、十戒の前半部分に該当する事柄、すなわち、神との関係については、このように気をつけなさい、と、教訓的に語られている。
50:7 「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である。
50:8 わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
偶像礼拝では、大地の実りや食べ物を神棚に供えて、神に食べていただこうとするが、あいにく、まことの神は、そのようなお方ではない。
主が求められるのは、いけにえではなく、むしろ「聞くこと」である。
50:9 わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない。
50:10 林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
50:11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。
50:12 たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとは/わたしのものだからである。
50:13 わたしは雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
主は、お腹がすいたから、人が所有している家畜や動植物を求めて、それを食べるのではない。その考え方は、偶像礼拝の考え方である。
まことの神は、大地の実りを実らせるのも、人を富ませるのも主であり、そして主は、大自然の中に生きる全ての動物に食物を与えるお方。
50:14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。
50:15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。
結局、主が求めておられるのは「感謝(トダー:ヘブライ語のありがとう)」と、「誓い(ネダー:約束)」を神に果たす事だ。
つまり主は、人が神と積極的に関わり、人が神との間に締結された契約を守り行い、そうして神から祝福をいただくようになる事を望んでおられる。
主は「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と言われた。
主は日頃から主を呼ぶ事を求められる。もし人が、あまりに主に求めないなら、わざわざ悩みの日をもうけてでも、主に呼び求めるようにさせる。
16節以降、悪しき者への言葉である。
ここで言われている悪しき者とは、神の言葉を知っておりながら、それをないがしろにする者達である。
50:16 しかし神は悪しき者に言われる、「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、わたしの契約を口にするのか。
「わたしの」おきて、「わたしの」契約、と主は言っている。悪しき者が主の言葉を引用したり、知ったかぶりする所に、主の憤りを見る。
50:17 あなたは「教(ムーサール)」を憎み、わたしの言葉を捨て去った。
ムーサールは訓戒・懲らしめで、体罰も含む。(箴1:8,13:24,22:15,23:13)
それを「(うしろに)投げ捨てた」とは、それを自分の目に入らないようにする事である。
つまり彼らは、御言葉を聞いて主の御胸を知らされても、知りません、聞きません、存じませんなどなどと、とぼけるのである。
50:18 あなたは盗びとを見ればこれとむつみ、姦淫を行う者と交わる。
50:19 あなたはその口を悪にわたし、あなたの舌はたばかりを仕組む。
ここには、十戒の第五戒以降の、対人関係の戒め(父母を敬え、盗むな、姦淫するな等)に違反している彼らに対する追求がある。
彼らは神の民であると自称し、神の言葉を引用しておりながら、盗人や姦淫を行う者と同じことを行っているのだ。
50:20 あなたは座してその兄弟をそしり、自分の母の子をののしる。
主にある兄弟姉妹の交わりが、中傷や悪口によって破壊されるのは、あってはならない事であるが、その大きな原因は、神の戒めを無視する所にある。
50:21 あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った。しかしわたしはあなたを責め、あなたの目の前にその罪をならべる。
50:22 神を忘れる者よ、このことを思え。さもないとわたしはあなたをかき裂く。そのときだれも助ける者はないであろう。
悪しき者は、悪辣な事をしても、なかなか罰せられないので、神はいないと見なし、そして自分を神とひとしい者だと思っているが、主は、必ず正当なさばきをされるお方である。
50:23 感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。自分のおこないを慎む者にはわたしは神の救を示す」。
最後に、再び「感謝(トダー)のいけにえ」が登場した。
結局、人は神と関わり神とコミュニケーションを取りながら生きるように出来ており、神に「ありがとう」を捧げ、神に喜ばれる事を進んでする人を、また、上の前に自分のおこないを慎む人を、神は助けて下さるのだ。
愛される花嫁の性質(雅歌2:8-17)
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8節は女性の歌で始まる。
雅歌2:8 わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。
2:9 わが愛する者はかもしかのごとく、若い雄じかのようです。見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている。
かもしかは、がけや丘など人が通るのに難儀な所も、平気で飛び跳ねて、元気に乗り越えて、行き来しているが、そのように、男性は、愛している女性の所へは、どんな山も飛び越え、どんな困難も飛び越えて行くもである。
花婿にとっての慰めは、花嫁である。イサクは、リベカを自分の天幕に引き寄せて、慰めを受けた(創世記24:67)。
だから花婿は、どんなに山や崖が横たわっていても、それらを若い鹿やかもしかのように飛び超えて、愛する花嫁のところに勇んで帰って来る。
そして彼女の元に帰ってきたら、憩いを得、慰めを受けるのだ。
サムソンは、憩ってはならぬ異邦の女の膝元で憩い、そして、決して手放してはならぬものを、すなわち、神に捧げれた者の印であり力の源である「髪」を明け渡してしまった。
それで彼は、力を奪われ、人生の終わりを残忍な者の手に渡してしまった。
箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。
キリストは、私達・花嫁である教会を「わが愛する美しいひとよ」と愛の言葉をかけ、窓の隙間や格子越しからのみならず、天から、至る所から、四六時中、うかがっておられる。
だから私たちは、イエス様の目に「慰め」となるために、いつでもイエス様の好まれる飾りを身に帯びるべきである。
私達がイエス様の好まれる飾りを、すなわち、御霊の実である愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を「飾り」として身に帯びるのであるならば、彼は私達を格子窓の隙間からうかがい、「わが愛する者、美しいひとよ、出ておいで」と言われる。
雅歌2:10 わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。
2:11 見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、
2:12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。
私達は、雨の季節や冬の季節を、通って行かなくてはならない時がある。
この世界は1度、ノアの時代の大洪水によって滅びた。そしてその雨が過ぎ去った後、オリーブの若枝が萌え出て、鳩が飛んだ。
私たちもまた、古い、以前の性質は全部、水によって過ぎ去らせなくてはならない。以前の、肉欲に従って歩んでいた生き方、また、罪深い性質を。それが、水のバプテスマである。このような「冬の季節」雨の季節」を通った後に、主は私達に「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」と呼びかけられる。
主にあって、麗しい、甘い実を結ばせるようになっていく。
雅歌2:13 いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。
ノアの洪水の時、雨が止んでから、「方舟から出てきなさい」と呼び出したのも、主だった。
主が「出て来なさい」というタイミングがある。「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」と。
その時、主の呼び声に応じ、主の所へと出ていくべきである。
雅歌2:14 岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。
2:15 われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。
私たちの人生は、いつもが順風満帆とは言えない。
危険な時もあるし、悪い者がはびこっている時もある。そういう時こそ私たちは、岩の裂け目に宿るのだ。
私達が鳩のように、危険の最中で岩の裂け目からうめく時、それがどんなに小さい声であっても、聞いてくださる。
どんなにか細い声でも。鳩が岩の裂け目にいるのは可愛らしい姿であるが、私達がキリストと言う岩の裂け目に囲まれている時、主は愛の守りの中で、かくまってくださる。
そして山々を乗り越え、若い鹿やかもしかのように丘の上をはねて、私下のところに飛び込んできてくださり、躍り上がるような力をもって、敵を打ち倒して下さり、危険が過ぎ去ったなら、「さあ岩の裂け目にいる私のはとよ、出てきておくれ」と、呼び出して下さるのだ。
2:15 われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。
ぶどう畑を荒らす狐や子狐をとらえる分が、私たちの側にある。
狐や子狐は、花盛りの時に来て荒らす。それは単にお腹がすいていて花を食べたいからではなく、実を実らせないようにするための、嫌がらせ目的であり、それはまさにサタンの性質である。
私たちは、それを捕えなくてはならない。そして私たちの葡萄畑は、しっかりガードするべきである。それは、花婿がそうしなさいと言われたからである。
雅歌2:16 わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの。彼はゆりの花の中で、その群れを養っている。
2:17 わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください。
私の愛する方は、私のもの・・・これは、私達のイエス様に対する呼び声でもある。
男女の間で、本当に相手を愛しているのであるならば、「私はあなたのもの」「あなたはわたしのもの」と言い合う時、本当に喜びとうるわしさを伴う言葉である。
パウロが言っている。夫婦の間柄は、自分の体に関する権利は自分にはなく、伴侶が持っている、と。
だから、私たち教会の所有権は、全部、イエス様にあって、私達教会の目的も動機も全部、イエス様の喜びのためになるべきである。
そうするなら、イエス様は私たちのものであり、イエス様もまた私たちのものであると宣言して。イエスさまとの愛と喜びの麗しい関係をますます築き上げて行くのである。
雅歌2:17 わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください。
彼女は、日が落ちて夜になる前までに帰ってきて下さい、と言う。
私たちも、あの方が帰ってくるまでに、しっかりと、この心と体を整えておかなくてはならない。
賢い花嫁とは、花婿が来る前に、いつ来ても良いように、灯を燃やし油を整えて、用意しておくものである。
しかし主はまだ来るまい、と思いこんで、子狐を放置しておくと、愛する方が来た時、慌てふためく事になってしまう。
どうか、キリストとの関係が、新婚の若い男女のように、うるわしく、喜びに満ちた関係でありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
新しい契約の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 7/9:エレミヤ31:31 (エレミヤ31:23-40)
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- pastor 2019-2-13 17:16
新しい契約の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 7/9:エレミヤ31:31 (エレミヤ31:23-40)
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新しい契約は、イスラエルの家とユダの家とに立てる、と言っている。
モーセを通して与えられたイスラエルの民への「旧契約」と、教会との間に結ばれた「新契約」とは、互いに「別個の」「無関係」のものではない。
31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
ここでエレミヤが言っている言葉は驚愕である。新契約は、イスラエルの家とユダの家と結ぶ??
それでは、私達異邦人には、新契約は関係ないのか?
その疑問に答えるのが、次の聖句である。
ローマ2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
コロサイ2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
だから、
「ユダヤ人 対 異邦人(私達)」
という外面的な考え方で見るのではなく、むしろ、
「神の民(私達キリスト者。ユダヤ人も異邦人も関係なし) 対 異邦人(キリストを受け入れないユダヤ人、その他諸々)」
という霊的な見方で見ると、わかりやすい。
つまり、イエス・キリストを通してアブラハムの子孫へと加えられた私達にも、旧契約に記された祝福の法則・呪いの法則は、そのまま引き継がれる。
もちろん、救いはイエス・キリストによるのみで、旧契約をいくら守り行った所で、救いには関係ないが、、、しかし旧約の祝福の法則は、私達・神の民が生きるべきスタンダードとして生きるようにと記されており、呪いの法則は、その道に歩まないようにと警告の意味で受け取るべきなのだ。
1コリント10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
31節で「新しい契約」と訳された単語、ベリット・ハダシャーは、旧約とは全く違った、斬新な契約である。
ギリシア語で「新しい」には2つある。
1,ネオス:若い、新鮮な、生じてから時間的にさほど経っていない。
2,カイノス:これまでになかった、今までに経験したことのない、目新しい、新奇な。
「新契約」とは、このカイノスに当たる新しさであり(ルカ22:20、ヘブル9:15,10:11-22)、新契約は、古いものをアレンジする類のものではなく、全くもって新しい、斬新な契約だ。
新天新地もまた、今までに存在したものの上塗りではない、全く新規な、目新しい世界なので、うまく説明できないものである。
エレミヤ31:23 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、「わたしが彼らを再び栄えさせる時、人々はまたユダの地とその町々でこの言葉を言う、『正義のすみかよ、聖なる山よ、どうか主がおまえを祝福してくださるように』。
31:24 ユダとそのすべての町の人、および農夫と群れを飼って歩き回る者は共にそこに住む。
31:25 わたしが疲れた魂を飽き足らせ、すべて悩んでいる魂を慰めるからである」。
31:26 ここでわたしは目をさましたが、わたしの眠りは、ここちよかった。
エレミヤは今までずっと災いのメッセージしかして来なかった。しかしイスラエルがエレミヤの警告を一切受け付けず、無視し続けたため、その時代に、イスラエルの破壊が確定してしまった。
「旧契約は、人々が破ってしまった」、という主の宣言が、エレミヤ31:32にある。
しかし、これが確定してしまった直後、時を移さずに主が発せられた約束が、この新契約が与えられるという約束である。
ちょうどアダムとエバが堕落してしまった直後、時を移さず、女の子孫が蛇を破壊する預言を発せられたように。
エレミヤ31:27 「主は言われる、見よ、わたしが人の種と獣の種とをイスラエルの家とユダの家とにまく日が来る。
31:28 わたしは彼らを抜き、砕き、倒し、滅ぼし、悩まそうと待ちかまえていたように、また彼らを建て、植えようと待ちかまえていると主は言われる。
旧契約は、主が目を皿にして破らないか、破らないかを見張っているかのような恐怖があったかもしれないが、新契約は、いのちを植え、建てあげようと、待っておられる。
エレミヤ31:29 その時、彼らはもはや、『父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく』とは言わない。
31:30 人はめいめい自分の罪によって死ぬ。すっぱいぶどうを食べる人はみな、その歯がうく。
主の約束は、本人自身がその報いを受けるものである。
エレミヤ31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
旧契約は、契約者と契約書は、別存在であるが、なんと新契約は、契約者と契約書が同一である、というのだ。
これは聖霊によって心の板に書き記されるからである。(2コリント3:3)
31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
旧契約は、頭で文字を記憶して、脳に刻みつける必要があったが、新契約は、聖霊によって主を「知る」のである。
新約聖書には、この新契約の記述が何箇所も登場し、特にヘブル書にその記載が多くある。(ヘブル8-10章)
ヘブル10:11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
10:12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
10:13 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
10:14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
10:15 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、
10:16 「わたしが、それらの日の後、/彼らに対して立てようとする契約はこれであると、/主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、/彼らの思いのうちに書きつけよう」/と言い、
10:17 さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。
10:18 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
10:21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
新契約の締結は、主イエス様が流された血潮によってであり、イエス様の十字架で裂かれた肉体を通して、私達は新契約に入り、天国へと入っていく事ができるのである。
ルカ22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
幸いの地に入ったなら為すべきこと(申命記6:20-25)
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申命記6:20 後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。
6:21 その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
6:22 主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、
6:23 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。
6:24 そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。
6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。
出エジプト記13:8 その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。
13:9 そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。
13:10 それゆえ、あなたはこの定めを年々その期節に守らなければならない。
13:11 主があなたとあなたの先祖たちに誓われたように、あなたをカナンびとの地に導いて、それをあなたに賜わる時、
13:12 あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。
13:13 また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。
13:14 後になって、あなたの子が『これはどんな意味ですか』と問うならば、これに言わなければならない、『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。
13:15 そのときパロが、かたくなで、われわれを去らせなかったため、主はエジプトの国のういごを、人のういごも家畜のういごも、ことごとく殺された。それゆえ、初めて胎を開く男性のものはみな、主に犠牲としてささげるが、わたしの子供のうちのういごは、すべてあがなうのである』。
13:16 そして、これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとしなければならない。主が強い手をもって、われわれをエジプトから導き出されたからである」。
人の富が増し加わるとなぜ恐れが生じるか? - その貧乏ぐせと奴隷根性に対する勝利(詩篇49篇)
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- pastor 2019-2-11 23:00
人の富が増し加わるとなぜ恐れが生じるか? - その貧乏ぐせと奴隷根性に対する勝利(詩篇49篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌
49:1 もろもろの民よ、これを聞け、すべて世に住む者よ、耳を傾けよ。
49:2 低きも高きも、富めるも貧しきも、共に耳を傾けよ。
49:3 わが口は知恵を語り、わが心は知識を思う。
49:4 わたしは耳をたとえに傾け、琴を鳴らして、わたしのなぞを解き明かそう。
この詩篇もコラの子たちによる教訓的な歌だが、その教訓のターゲットは「もろもろの民、すべて世に住む者」「低きも高きも、富めるも貧しきも」である。
これは神の聖徒達も、そうでない人にも、全ての人に当てはまる事である。
49:5 わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。
49:6 彼らはおのが富をたのみ、そのたからの多いのを誇る人々である。
この詩篇のテーマとして、富んでいる人が、その富をもって弱い人達を虐げる、どの時代や国においてもありがちな問題に対する教訓にはとどまらず、もっと、主にあって普遍的な真理を私達に示している。
この詩篇の結論は、20節である。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。(理解するところが無ければ)滅びうせる獣にひとしい。
49:20 A man who is in honor, yet does not understand,Is like the beasts that perish.
人は、「理解するところ(understand)」があるか、無いかによって、大いに違う。
この「理解するところ(understand)」のヘブライ語はビーン、この箇所ではQal(能動態)が用いられている。
ビーンは特に箴言によく出てくる重要なキーワードである。その詳細な意味は、「知覚する、認識する、理解する、知る(心で)、観察する、マークする、注意を促す、区別する、考慮する、分別、洞察力、理解を得る」であり、これらのものを「能動的に」求めない人は、滅びうせる獣に等しい。
実際、人の気持ちを理解しようとしない人、ものの道理を観察し知ろうとしない人、神の言葉に対して耳を閉ざし、心を閉ざしているような人、勉強において「どうしてだろう」という気持ちが起こらない人、学習意欲がない人、物事を注意しない人など、ビーンを積極的・能動的に求めない人は、すべて、社会的な地位を得られず、上にあがれず、滅んでいくパターンに陥っているのではないだろうか。
その逆に、積極的なビーンを持っている人は、どんどん能力が開かれ、成長がはやく、人との間でもどんどん重んじられた者になっていくし、年老いても頭脳明晰だが、学ばない人、同じ失敗を何度も繰り返す人には、それが無い。
49:7 まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
49:8 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
49:9 (8節に合節)
人のたましいは、高価すぎて、誰にも買い戻すことはできない。それは真理である。
イエス様のたとえ話で、罪の借金を負った者にたとえられた金額は、一万タラント(およそ18万年分の給料)という、人には到底支払いきれない額だった。(マタイ18:22-35)
しかし、私達には希望がある。イエス様の十字架の贖いによって、神は永久に私達の魂を買い戻してくださった。
だから私達は、富を誇りとする彼らを恐れる事は無い。
49:14 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。
49:15 しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ
結局、この世の資力・財力では、自分を救えない。
大事なのは、贖って下さるお方であり、私達を購って下さるお方・イエス様は、力強い。
エレミヤ50:34 彼らをあがなう者は強く、その名は万軍の主といわれる。彼は必ず彼らの訴えをただし、この地に安きを与えるが、バビロンに住む者には不安を与えられる。
49:10 まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。
49:11 たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである。
49:12 人は栄華のうちに長くとどまることはできない、滅びうせる獣にひとしい。
49:13 これぞ自分をたのむ愚かな者どもの成りゆき、自分の分け前を喜ぶ者どもの果である。〔セラ
・・・
49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。
この詩篇の中では、幾度か、人の富が増し加わっても恐れてはならない、と書いてあるが、そもそも、誰かの富が増し加わった事を聞いたり、お金持ち達の集まりの中に入れられたりすると、なぜ恐れが沸き起こってくるのだろう。
それは、ひがみや奴隷根性、貧乏ぐせがついているためだ。
民数記13:27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。
13:29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。
イスラエルの民が、いよいよ約束の地を目前にした時、この報告を受けて、反応は真っ二つに別れた。
民数記13:30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。
カレブは、自分達は必ず勝ってその神様が約束して下さった地を獲得し、その素晴らしい地を自分のものにして行く気で満ち満ちていた。
民数記13:31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。
13:32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。
13:33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。
この、マイナス思考で勘定した者達は、「彼らはわたしたちよりも強い」と言った。
つまり彼らは、自分と相手を比較したのである。彼らと共におられる主を、全く度外視して。
これが、ひがみ精神、奴隷根性、貧乏ぐせである。
それに引き換え、カレブは、確かに他の斥候達と一緒に、あの巨大な、力強く戦いに長けたアナク人達を見てきた。その者達が守っている城壁の町々も見てきた。
しかし、カレブの評価は「必ず勝てる」であった。
彼は神がエジプトに対して為された10の災いと、そして紅海の水を割り、イスラエルの民は渡らせ、エジプトの軍隊は水に飲み込ませた様も見た。
その神様と、あのアナク人達を見比べて、必ず勝てる、と評価したのである。
主は何故に、エジプトに10もの災いをもって、これでもか、これでもか、と災いを示されたのか。
イスラエルの民に、この力強い主がおられるのだから恐れてはならない、と教え込むためではなかったか。
なぜ水のない荒野で、マナをもって養われたか。主が彼らの水も食料も全て備えて下さるお方だと教え込むためではなかったのか。
私達は、主のご性質と教えようとする心を、積極的に理解し汲み取らなくてはならない。
もし主から約束の御言葉があたえられたのなら、人間の節穴の目のままでは、偵察にさえ行ってはならない。
もし私達が本当に富んだ者になりたいのなら、奴隷根性や貧乏ぐせをまずとりこにして、キリストへ服従させ、カレブのように、神の御言葉に自分をしっかり当てはめ、約束を握りしめ続けて行くべきである。
永遠の救いのやぐらであられる主(詩篇48篇)
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詩篇42篇から始まった詩篇第二巻の主題は「開放と贖い」で、トーラーの「出エジプト記」に相当するが、詩篇第二巻はまさに、出エジプト記の内容と同じような進行の仕方で進んでいる。
最初の42篇は、礼拝を妨げる敵によって苦しみに遭っている人の、主に対する渇きの祈りで、また43篇では、その敵に対して正当な裁きを求める祈りであった。
それが44,45篇へと進んでいくにつれ、徐々に、救いと開放の喜びの歌へと変わって行き、この48篇は47篇と同様、主が敵に正当に報復して下さった事の喜びの賛美に満ちている。
コラの子の歌、さんび
詩篇48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。
エルサレムは海抜790mの高さにあり,3つの丘からなっている.その北の丘に神殿があり,シオンの丘は西側にある.(実用聖書注解)
彼ら主の民、すなわち、主を礼拝する民は、主によって敵から救い出される。
その拠り所とする所が、彼らが麗しいとほめ讃えるシオンの丘、すなわち、主を礼拝する所である。
詩篇48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを/高きやぐらとして現された。
やぐらとは、高く建てられている見張り台のような建物で、矢や武器をもって敵に対し強硬に対抗できる所であるが、聖書の中では特に、見張りに立つ所、逃げ込む所として記されており、ダビデも好んで主をわがやぐらと言って告白している。
神は、聖徒たちが礼拝を捧げる場所において、自らを「高きやぐら」として、ご自身を示された。
私達も、主を礼拝の場所に行って主に求める時、主は私達の「やぐら」としてご自身を示され、主の民にとっては力強き助けであり、主に敵対する者には恐るべきものであると示される。
さらに4節から8節では、神の民に敵対する地の王達が来た際の有様が記されている。
詩篇48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。
主の敵・サタンに属する者達は、主の民が、やぐらと城壁に囲まれた中で、主を正しく礼拝している有様を見ると、おののいて逃げ出す以外に道はない。
逆に主の民の城壁がくずれていて、主を正しく礼拝していない様をみると、我が物顔で出入りして、好き放題にぶんどったり虐げたりする。
ネヘミヤが来る前のエルサレムがちょうどその状態だった。(ネヘミヤ1章)
主の民の敵は、まだエルサレム城壁が崩れっぱなしだった時、城壁の破れ口から出入りして、分捕り放題だったのが、ネヘミヤが来て以降、城壁が速やかに出来て、がっしりとした門が立てられたのを見て大いに面目を失った。
詩篇48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。〔セラ
主は「タルシュシュ」の船を東風をもって打ち破られたと告白している。
タルシュシュは地中海の向こう側の国で、現在でいうスペインだと思われているが、ツロとの海洋貿易で大いに繁盛し、富み、力を増した国である。(イザヤ23章)
しかし、エゼキエル書28章のツロに対する預言の中では、ツロはサタンの象徴として示されており、彼らの商売が繁盛した時、傲慢になった故に神が彼らを打たれる様が出てくる。
エゼキエル28:16 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から/汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを/火の石の間から追い出した。
28:17 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。
28:18 あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によって/あなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前で/あなたを地の上の灰とした。
タルシュシュはツロと取引して繁盛するが、サタンのように不正な流儀で富と権力を得て弱者を虐げるような者達は、主が東風を起こして取り除かれる。
詩篇48篇に記されているように、主の敵にとって、主が、主の民のやぐらとなられている様は恐ろしく、驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去る以外に無い。
しかしそれは、聖徒にとっては、救いと喜びのしるしである。
詩篇48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちで/あなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。
主の宮の中に入り、主を思う時、それは麗しい時、喜び楽しみの時だ。
そして主のさばきは、不正な者、主の敵に対しては恐怖の一時であるが、義に飢え乾く者にとっては、慰めの時である。
ナホムの名前の意味は「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は、名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。
実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのか?
アッシリヤは、残虐さを売り各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。
一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、イスラエルの神に挑戦するまでになった(イザヤ36-37章)。
それで神はアッシリヤを裁かれる。
アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は皆、手を叩いて喜ぶ。それは、誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたからだ、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。
詩篇48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。
私達もここに書いてある事にならって、主を礼拝する場所を歩きめぐり、主ご自身の救いであられる「やぐら」を数え、「城壁」に心をとめ、調べるべきである。
今まで生きて来た中で、御言葉がなかった時、やられっぱなしになっていた所に、主がやぐらとなり、防護壁となって戦ってくれた。
その主の恵みの数々を、数えるべきである。
私達は主の恵みを数え、そして主を礼拝する事によって、どんどん城壁が、やぐらが、神殿が、建てなおって行く。
私達が数えるべきは、それであって、決して過去の自分や今ある弱さではない。そんな事をしていると、再建は進まないどころか、サタンはその自己卑下した所を突いてきて、ますます破れがひどくなってしまう。
やぐらは防備をする所と同時に、見張りをする所である。
しっかり自分を見張って、過去の自分に思い耽る事や、敵が投げかけてくるあざけりや責め立てから、自分を守るのである。
あるいは教会の中で、凛として立っている「やぐら」のような人を見て、数えて、わたしもああいうふうに主が立たせてくださるのだ、と、ますます主に信頼するのである。
詩篇48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。
主は世々限りなく、とこしえに導かれる神。
私達は、この御方のためにこそ働き、この御方からとこしえに変わることのない完璧な防備を得、完璧な必要の満たしを得るのだ。
ヨハネ 6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。
(Do not labor for the food which perishes, but for the food which endures to everlasting life)
私達は朽ちる食べ物やなくなるお金のために労するのではなく、永遠に残る働きをするべきである。
人目に隠れた王達 - 主をほめ讃える民(詩篇47篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌
詩篇47:1 もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ。
47:2 いと高き主は恐るべく、全地をしろしめす大いなる王だからである。
「しあわせなら手をたたこう」という有名な歌があるが、それは、この詩篇47篇が元になってできた歌である。
この歌の作詞者は、木村利人さんというクリスチャンで、彼がフィリピンの農村でボランティアとして働いた1954年、第二次世界大戦で日本兵により親や家族を殺された経験を持つ人達がまだ多く、冷たく厳しい態度を木村さんに向ける人達が多くいた中、唯一、友好的な態度をとってくれていたランディという青年との交わりを通じ、国のした悪に関わりなく、全ての国民は主に向かって手をうち鳴らし、喜びの声をあげよ、という御言葉が元で生まれた歌だった。
私達が、人のした悪を思わず、自分の国という概念を超えて、同じ主を喜び、褒め称える時、奇跡が起こされる。
この曲はやがて日本で有名になり、東京オリンピックの時には世界的に有名になり、多くの国の言葉で歌われるようになって行く。
たとえ、国同士では敵対関係にあっても、同じ主に共に向かい、主の御胸である「愛し合う事、赦しあう事」を、態度をもって示して行った時、人が行った悪のわざは薄れ、ただ主の栄光が大きくなって行く。
詩篇47:3 主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。
私達は、神と人との間に立つ者、全ての国民をこの神へと引き寄せるべき王であり、祭司であり、預言者である。
私達が国の指導者、上に立てられた権威のために祈る結果、悪しき統治者達は降ろされ、良き統治者が与えられ、それによってもたらされる神の国の良き統治が及んで行く。
その時、「主はもろもろの民をわれらに従わせ」という言葉が成就する。
詩篇47:4 主はその愛されたヤコブの誇を/われらの嗣業として、われらのために選ばれた。〔セラ
ヤコブといえば、押しのける者、かかとを掴むものとして生まれてきた。
しかし彼は、やがて、主と格闘した時、主から「去らせなさい」と言われても「去らせません、祝福して下さるまでは」と言って去らせず、ついに、イスラエルという名をいただいて祝福を受けた。
どんな状況にいるとしても、祝福をいただくまでは去らせません、と、強い意志をもって祝福を勝ち取る。それが、主が愛されたヤコブの誇りである。
そのヤコブの誇りを持つ聖徒たちに、主は、嗣業を量って与えられる。
詩篇16:6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。
16:7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
16:8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
16:9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。
私達が受けるべき嗣業、すなわち私達が受けるべき仕事、家庭、行くべき道は、主が測りなわをもって測っておられ、私達の準備が整えられた時に与えられる。
詩篇47:5 神は喜び叫ぶ声と共にのぼり、主はラッパの声と共にのぼられた。
主は賛美の中におられ、人々の喜びの賛美と叫びと、楽器の音の中、共に上って行かれる。
イエス様がエルサレム入城する時、弟子たちは大声で神を賛美した。
ルカ19:37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、
19:38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
19:39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。
19:40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。
人々の賛美と共にイエス様は上って行かれたが、パリサイ人たちはそれに憤慨し、賛美した人達を叱るように言ったが、イエス様が言われたのは、もし彼らが黙れば、石が賛美する、と言った。
賛美は、神の似姿として創造された人の口にこそふさわしい。しかしもし人が賛美しないとしても、太陽は、地球は、星々は、主を褒め称えている。(詩篇19篇)
それ故、6節以降は、賛美で満ちている。
詩篇47:6 神をほめうたえよ、ほめうたえよ、われらの王をほめうたえよ、ほめうたえよ。
47:7 神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。
まことに賛美は、聖徒たちに相応しい。
もし聖徒たちが賛美を止めてしまったら、石が主を褒め称える。神の子が主を褒め称えるのではなく石が褒め称えるとしたら、神の子として恥である。
詩篇47:8 神はもろもろの国民を統べ治められる。神はその聖なるみくらに座せられる。
47:9 もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。地のもろもろの盾は神のものである。神は大いにあがめられる。
(The princes of the people have gathered together,The people of the God of Abraham.For the shields of the earth belong to God;He is greatly exalted.)
英語の聖書(KJV)では、私達アブラハムの神の民は「地の王子達(あるいは王女達)」と言っている。
事実、私達はイエス様を信じた事によって、アブラハムの子孫とされ(ガラテヤ3:29)、王族の祭司、聖なる国民とされた。(1ペテロ2:9)
その身分である私達が、イエス様と共に治める故に「主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。」と書いてある。
世においては、国民の上に立つ王や統治者があるが、しかし霊的には、私達が、王であり、祭司であり、預言者、そして神の目には、そのような者達のほうが、権威的には上なのだ。
神は若きエレミヤを召し出した時、言った。
エレミヤ1:5 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
1:6 その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。
1:7 しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。
1:8 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。
1:9 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
1:10 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。
・・・
1:17 しかしあなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。
1:18 見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。
1:19 彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。
神がエレミヤに与えた権威は、なんと、「万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」というものだった。
さらに、「この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と言われた。
一見すると、エレミヤは一人で活動する預言者のようであっても、万軍の主がついておられ、主の言葉を忠実に伝えたエレミヤに対して、それを良しとしない者達によって諸々の陰謀が計られたが、エレミヤはその全てから守られ、また、一見すると彼が今にも死にそうになっても、必ず救われた。
それにひきかえ、エレミヤを通して語られた主の言葉に逆らった王達、偽預言者達は、ことごとく滅んで行った。
権威が与えられた者に要求されるのは、最上の権威であられる主への忠実さである。
私達は与えられた権威を、主の御胸に従って行使し、地の権威者達をとりなし、祈り、あるいは、主の御胸を忠実にそのまま語るべきであって、決して職権乱用してはならない。
結局、神から尊い者とされるのは、世の首相や総理大臣、大統領ではなく、私達・主から王として、祭司として、預言者として任命された者達であり、その私達こそ、人には見えない首相や総理大臣、大統領なのだ。
あの方の喜びとなるために(雅歌書2:1-7)
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ここは、互いに愛し合っている男女が、相手の麗しさ、慕わしさを喜び讃え合っているところ。
2:1 わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。
ここは男性が言ってるのか、女性が言ってるのか、意見が分かれているが、はっきりしている事は、イエス・キリストはまことに私たちにとってのシャロンのサフランであり、谷の百合である。
ゆりの花、サフランは香りを放つ。キリストの香りを放っている。
本当にこのお方のもとにいつまでもいたい、実側近くで香りをいつまでも描き続けていたい、と言う、慕わしさを持って、キリストの御側近くへと近づくものである。
2節は、男性が女性を褒めそやしている。
2:2 おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。
前回の1章で、この女性は、パロの戦車の雌馬になぞらえられ、またカスタムメイドの飾りをもって、飾られた。
男性は、愛する女性を、美しい飾りで飾らせてあげよう、と、さらに美しいしつらえ品を作らせる。
その飾りは、男性が好む飾りであり、女性の好む飾りではない。
女性が男性が贈った男性好みの飾りを身に付ける時、その女性は、娘たちの間にいるとしても、周りの娘たちは、いばらに見えて、自分の愛する女性だけが、百合の花のように、際立って慕わしく、美しく見えるのだ。
棘はキリストの頭を刺したが、世の者達はキリストにとって、とげとげしている。しかし、私達は、キリストの飾りを身に帯びるなら、私達こそ茨の中の百合になるのだ。
私達も、キリストが与えて下さる御言葉の飾りを、あるいは、時には試練という飾りが与えられる時があるが、それも受け入れて身に帯び、しっかりと自分のものとして、主とともにいくなら、キリストの目には、ますます、いばらの中の百合の花のように見えていく。
イエス様を愛していない人は、イエス様がくださる飾りを好まない。でも、本当にイエス様を愛しているなら、その人はどんどんどんどんキリストがくださる飾りをもっと身に纏いたい、あなたの喜びになりたい、と思うようになっていく。
さらに乙女の言葉が続く。
2:3 わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。
2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。
私たちは、大きなものの陰に宿る時、安心感を、居心地の良さを感じるが、女性にとって、男性は大きい存在で、女性の方が体のサイズが小さい。
主がそのように造ったのだが、彼女は、愛する方は林の木の中のリンゴの木のようです、と言っている。
りんごは体に良く、病気になっている人は、りんごを食べる。おいしくて、甘い、そして少しすっぱい。私にとって、相手の男性は、この、おいしくて、甘くて、少しすっぱいリンゴのようだ。その木陰に座って、直射日光から守られ、甘酸っぱい実を得たいと願っている。
イエス様が私たちに与える良きもの、イエス様が私たちに送ってくださる言葉は、私たちの口に甘い。
詩編91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
詩編は格調高く聞こえるが、雅歌書のほうはそれにプラスして甘さが、麗しい感情が込められている。
盾の中の盾、やぐらの中のやぐらである私達の主は、リンゴの木のよう。うるわしく、慕わしいお方。その全能者は、私たちをいばらの中の花のようだと見てくださる。
イエス様が私たちのことを、いばらの中の百合の花のようだと言っていただくためには、条件があった。
それは私達が、キリストが飾らせてくださる御言葉を、身に飾ること。
もし身勝手な飾りを身に帯びるなら、イエス様は見向きもしてくれない。しかしイエス様がくださるものを、その身に帯びるなら、女の中で最も美しい、いばらの中にいる百合の花の上に見えると言ってくださる。
ゼパニヤ3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。
もし私たちが、イエス様が送ってくださる飾り、試練の飾り、私が皆さんにこうなって欲しいと言う通りに、自分が飾られるママに飾られるのであれば、上は喜び楽しみ、高らかに歌って、喜ばれる。
このゼパニア三章の後半は、本当に素晴らしい愛の歌であるが、一章から三章の中盤までは、実は、懲らしめに満ちている。
3章1節では、懲らしめという飾りを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近付こうとしなかった事を責め立てており、それ故、強制的に懲らしめが与えられ、7節において、あなたはただわたしを恐れ、懲らしめを受け入れよ、そうすれば彼らが行った悪事にもかかわらず滅ぼされるような事はしない、と。そうして9節以降、幸いな預言へと切り替わる。
だから私達も、主の前に「懲らしめ」という飾りが与えられたなら、受け入れるべきである。
そして主の御胸のままに身を委ねるのであれば、さらに素晴らしい飾りを飾らせて下さり、その時、主は高らかに歌って喜ばれる。
2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。キリストの旗印は、愛。
旗印、とある。イギリスの王家がどこかに行くときには必ず端を持っていく。だから、林の木陰に置いて、バンケットを持つときに、イギリス王家の旗を掲げて、ここにはおうがおられる、と示しその領域は王が宿る所だ、と示すのだ。
キリストは、荒野においても宴を設ける時がある。私たちのために酒宴の席へと導かれる時、旗を掲げられる。ここは、キリストの王子王女がおられると。そしてその旗印は、愛である。
ルツはボアズの衣の裾をまくって、その中に入った。
あなたは、家を絶やさない責任のある方です、どうか私を買い取ってください、と求めた。私たちも同様に、キリストの愛の旗印の下に、足のまくって入り、キリストの下にぴったりとよりそって入るべきだ。
そしてわたし達が愛の旗印の下に宿るならば、イエス様が守り、私たちも潤っていく。
2:6 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。
女性は求める。本当にこの麗しいお方の、懐深くに宿り、彼の腕の中に抱きしめられ、守られる、ということを。
私たちも、ルツのように、キリストの懐に飛び込んで、愛の旗印に包まれて、その腕の中に宿ることを、求めるべきだ。
そのように慕い求めていくなら、どんどんキリストとの愛の関係に入り込んでいく。
さらに、この6節から、聖書的な男女のポジションがわかる。
女性は、男性の左の腕の下で、男性の右の手で抱っこされる事を求めた。
女性はもともと、男性の脇腹のところに収まっていた。(創世記2章)
だから女性にとっての本来の居場所は、男性の心臓の所に、男性の腕にくるまれている状態であり、女性はそれを求めている。
これをイエス様との関係に適用するなら、私達は、男性女性に限らず、本来いるべき場所は、キリストの懐の中である。
そこは、十字架上で、槍が突かれた時、水が流れていた。
キリストが、十字架上で死んだ時、私たちも一緒に死んだ。そして復活の時、私達もキリストにある永遠の命が生まれた。
アダムは、深い眠りに落ちていた時に、脇腹から骨がとられて、神さまに整えられて、そしてアダムのところに連れてこられたのと同様である。
私たちも、そのホームポジション、キリストの脇腹のところを求めて、そこに宿るなら、詩篇91にあった通り、昼くる矢を恐れず、夜歩き回る疫病を恐れず、1000人、10000人が右手左手に倒れようとも、恐れることはない。
ルツのように、イエス様の贖いの衣をまくってその中に入り、その中で守られ、ますますキリストの慕わしさ、麗しさの中に浸しこまれて行く皆さんでありますように。
イエス様のお名前に行って祝福します!
