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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

エゼキエル書講解説教

神殿から流れ出すいのちの水の川(エゼキエル47:1-12)

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47章以降は、イスラエルの新しい相続地が定めれている。
その相続地は、神殿が中心であり、神殿から主のいのちと祝福が流れ出して相続地に住む民を潤し、さらには、全世界を潤すものとなって行く事が今回の箇所で示されている。
 
 
47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
 
水が、神殿の敷居の下から流れ出した。
その水の源は、聖所である。(12節)
それは新約において、イエス様にあって成就し、新天新地において完成する。
 
Rev 22:1  御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 
Rev 22:2  都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
 
もし今、すぐにでもそのいのちの水を享受したいというなら、今すぐにでも、イエス様の名前を呼んで、イエス様に求めるべきである。
なぜなら、まことの神殿は、今生きておられるイエス様だからだ。
 
 
ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
 
「イエス様のからだ」というまことの神殿は、この時点では、まだ壊されていなかったが、十字架において破壊された。
しかし、三日の後、イエス様は復活し、そのいのちの水の川が流れ出て、まず弟子たちを潤し、そしてユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、その川が流れ出て行った。
 
現代の私達も、イエス様を信じた時、湧き出たはずである。
かわきを潤す、いのちの水が。
イエス様は、言われる。
 
ヨハネ7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
 
イエス様が、まだ栄光を受けておられなかった時、すなわち、十字架と復活を経る前は、イエス様を証しイエス様を栄光化する聖霊は、まだなかった。
それはただ、イエス様の中にだけ閉じ込められていた。
 
しかし、イエス様が一粒の麦として地に落ち、死なれ、復活され、天の御父の元に昇られた事によって、助け主・聖霊が与えられるようになった。
その聖霊が、全ての事を教え、またイエス様が話しておいた事を、全て思い起させて下さるのである。(ヨハネ14:26)
 
だから、聖霊を受けると、受けないとでは、大いなる違いが出てくる。
もし聖霊を受けないまま、とするなら、この、いのちを潤す生ける水は出てこないのだ。
だから、聖霊を留めて置いてはならず、聖霊は流れるままに、流しだして行くべきなのだ。
 
 
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。
47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
 
その水は、遠くへ測って行けば行く程、どんどん大きくなって行った。
最初は、足で立つ事が出来て潤される、くらいだったのが、どんどん大きく、広く、深くなって行って、ついには、足では立てない、その流れを泳ぐしかない程までになっていった。
 
この川は、渇いた地を潤して行くに従って、水量は減るのではなく、逆に、もっと増えていく。
これは、イエス様から流れ出てくるいのちの水の特徴を表している。
聖霊に満たされて行くなら、行くほど、そうなっていくものである。
 
最初は、その水に潤された、という感覚的なものから、その流れを足で感じるようになり、さらにどんどん強くなって、ついには、自分で制御できるものではない、流れの中を泳ぎながら、聖霊の流れるままに、任せるまでになって行く。
 
サマリヤの女は「その水をわたしにください」とイエス様に言って、イエス様はその水をくださった。
すなわち、メシヤであられるイエス様ご自身を彼女に示して下さった。
すると彼女は、居ても立っても居られず、もはや、水を溜める水がめなどは置いて、サマリヤの人々へと、その水を流し出して行った。
そして彼女は、その地方の人々をごっそり救い、潤し、いのちの実りが豊かに実った。
 
私達も、イエス様にあって聖霊をいただくなら、流しだして多くの人を潤す者となるのである!
 
 
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。
 
創世記2:10-14では、エデンの園を源とする水が世界へと広く流れ出して行った記述があるが、その事の回復を示している。
 
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
 
アラバはヨルダン渓谷であり、エン・ゲディは、死海の西岸の、南北のちょうど中間に位置し、ダビデはかつて、サウルの手を逃れてエン・ゲディの要害に留まった。
つまり、ここの「海」とは、死海の事である。
 
その死海へ、この生ける水が流れ込むなら、その水は良くなり、生き物が群がるようになって非常に多くの魚がいるようになる、というのだ。
そして、その川の両岸は、漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
まさに、死海のようだったサマリヤの女さえも、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。
私達も、イエス様にあって、そうなるのである!
 
 
47:11 ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。
 
「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」のように、水の流れが無い所、あるいは、人為的に水を貯めて留まらせているの水所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。
私達も、どんなに良質の御言葉が流れて来ても、また、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで流し出さない、とするなら、塩のまま残って、死海のように、いのちがいなくなってしまうのだ。
 
だから、いのちの潤いがともなった御言葉が、流れこんで来たのなら、あるいは、聖霊の促しが流れて来たのなら、それをそのまま留め置いてはならない。
それらは、賞味期限の早い生鮮食品のように、「旬」があるのだ。
それを流しだすべき相手へ、すなわち、それを受けるべき人へと、あるいは、為すべき仕事へと、すぐに流し出して行くべきなのだ。
もし、旬を過ぎてしまうなら、腐ってしまう。
天から与えられた食物であるマナは、拾っても食べないまま器に保管して置いたら、どうなっただろうか。
翌日になると腐って、虫が湧いてしまった。
その事を、思い起こすべきである。
 
 
47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
 
毎月、新しく実がなる。
一体どれだけいのちに溢れみなぎっているのだろうか。
黙示録22章には、その完成形があるが、この地上においても、イエス様を信じた私達は、それを霊的に体験する。
 
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、なにも、頑張らずとも、御霊の実を絶える事なく自然と実らせ続けるものである。
そしてそれは、自分を潤すのみならず、周囲をも潤し、癒やすものなのだ。
 
これらを得るコツは、エゼキエル40章以降に、既に示されている。
すなわち、主から示された神殿(イエス様)を、正しいものさしで計り、きよさに立って、主の教えを自分自身に当てはめて行く事。
人の建てた神殿を測っても、あるいは間違ったものさしで測っても、それはただ渇くだけである。
しかし、まことの神殿・イエス様を、正しい物差しである「御言葉」に従って、正確に測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん湧き出し、溢れ、流れて行くようになるのだ。
 
そのようにして豊かにいのちの水を湧き出させ、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇講解説教

主に聞かれる祈り(詩篇86篇)

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ダビデの祈
86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
 
詩篇86篇は、詩篇の第3巻のうち、唯一、「ダビデ」による詩篇である。
この詩篇は、日本語の「主」という表現が11回で、その内、アドナイ(主)が7回、神聖4文字のYHWH(新改訳での太文字の主)が4回。
また、「神」という表現は6回。(8節の神々は除く)
 
その回数を見るだけでも、彼がいかに、神なる主を呼び求めているかが分かる。
 
彼の呼び求め方は、主よ、主よ、と、「数撃ちゃ当たる」の祈りではない。
イエス様は言われた。
 
『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイ7:21)
 
ダビデは、父の御心を行ったゆえに、彼の祈りは、聞かれたのだ。
御心とは御言葉である。
その御言葉に、従順に従う人こそ、主はその祈りを聞かれる。
 
ダビデはこの祈りの中で、自分自身のことを、「あなたのしもべ」と呼んでいる。
彼は、神様との主従関係において、まことに正しい位置関係に自分を置いたゆえに、主は彼の祈りを聞かれたのだ。
 
この詩篇からは、彼の、神様に対する信頼と服従の気持が、強く示されている。
 
 
86:2 わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。
 
2節の「神を恐れる者(新改訳)」「神を敬う者(口語)」「holy(KJV)」と訳された原語は、「חָסִיד ハスィード」。
意味は、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人であり、このハスィードは、5、13、15節の「ヘセド(חֵסֵד恵み)と関連がある。
 
神様の恵みは、神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人と、深く関連があるのだ。
 
 
86:3 主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。
 
昼も夜も、いつも主を呼ばわる人に、主は近い。
町を歩く時、人を見た時、状況を見聞きした時、いつも「主よ」と呼ばわり、主に祈り求める人と。
 
 
86:4 あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
 
主の御心は、彼の愛される聖徒が、しかめっ面をしながら清貧を我慢する事ではなく、聖徒が「喜ぶ事」である。
主は、人を創られた時、真っ先にエデン(喜び)の園に置かれた。
パウロもまた、何度も「喜びなさい」と書いている。
 
主にあって満ち足りて喜ぶ事は、大いに結構である。
しかし、たとえ貧しい中にあったとしても、主にあって喜びがある事は、信仰者の特権である。
 
 
86:5 主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に/いつくしみを豊かに施されます。
 
1-4節までは「主よ。**してください」と、願い求める祈りが続いたが、6節からは、「願い」の色合いから、「神はどういうお方であるか」というような、「信仰告白」と「宣言」の色合いに変わる。
 
主は、祈りに答えてくださるお方(7節)。
神々のうちで並ぶ者はなく、みわざに比ぶべきものは無いお方(8節)。
主が造られたすべての国々は、御前に来て伏し拝み、御名があがめられる(9節)。
主は大いなる方、奇しいわざを行なわれる方。ただ主だけ神(10節)。
 
そのように、ダビデは告白した。
私達も、主はいかなるお方であるのかを告白するなら、祈りに、確信させる力を帯びるようになってくる。
 
ただ「ください、ください、」の祈りは、味わいが無い祈りである。
この詩篇86篇のように、主はどういうお方であるのか、自分はどういう信仰を、主に持っているのか、という告白や、また、感謝や、御言葉の宣言や、賛美があるなら、味わい豊かな祈りとなる。
 
 
86:11<願い> 【主】よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
 
「私の心を一つにしてください」とは、自分の中から二心が取り除かれるように、という祈りであろう。
「二心の者」については、ヤコブ書に書かれてある。
 
 
ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
 
ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
 
このような、不安定に揺れ動く「二心」の者ではなく、ただ主を確信した「一つ心」になれるように、私達も、ダビデのように祈るのだ。
 
 
86:12<表明> わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13<告白> それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
 
12-13節には、ダビデの表明と告白がある。
自分は、心を尽くして主に感謝し、とこしえに御名をあがめます、と。
なぜなら主は、彼のたましいをよみの深みから救い出してくださったから。
 
14節は、逆らい立つ横暴な者について主に訴えている。
そのような者に対して、ののしったり、仕返しをしたりするなら、ただの喧嘩である。
しかし、その人を主に訴えるなら、それは祈りに変わり、その案件は主に移って、主がその者を取り扱ってくださる。
 
 
そして16-17節は、再び「願い」で閉じられる。
 
86:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれみ(ハナン)、あなたのしもべにみ力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
 
神様の恵み(ハナン)は、「神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人」、すなわち、ハスィードの人と、深く関連があった。
私達も、その資格ある者となる事を、目指すべきだ。
 
 
86:17 わたしに、あなたの「恵み(トーブ)」の「しるし(オート)」を/あらわしてください。そうすれば、わたしを憎む者どもは/わたしを見て恥じるでしょう。主よ、あなたはわたしを助け、わたしを慰められたからです。
 
「トーブ」には、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
「オート」は、よく「しるし」と訳されるが、信号、記号、マーク、標識などの意味である。
 
つまり、主からのパーフェクト、ビューティフル、グッドのマーク付け、お墨付きを、わたしに付与してください、そうすれば、敵は恥じ入ります、と祈っている。
 
ダビデは、いつでも、どんな時でも、主を呼び求め、主と自分自身の「主従関係」をはっきりさせ、主はいかなるお方であるのかを正しく告白し、これから主に対してどのように生きるのかを表明した。
私達も、そのように信仰において努力し、実行して行くなら、ダビデのように守られ、用いられ、主によって人々の上に高く上げら、時代に御国をもたらすために用いられるのだ。

エゼキエル書講解説教

聖なる礼拝を捧げる者であれ(エゼキエル46章)

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かつて、礼拝を軽んじたイスラエルによって、めちゃめちゃにされてしまった礼拝制度の回復すべき事が、40章以降に命じられていた。
この章では、特に、君主(ナーシー:上に立つ者。王ではない。)が、民に代表して捧げる礼拝について、示されている。
 
 
エゼキエル46:1 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、またついたちにはこれを開け。
エゼキエル46:2 君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。しかし門は夕暮まで閉じてはならない。
エゼキエル46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
 
神殿は、外庭の門と内庭の門があるが、外庭の東向きの門は、ただ、君主だけが出入り出来、一般の人は出入りしてはならないため、通常は閉じておく。(エゼキエル44:1-3)
君主は、民に代表してささげ物を祭司へと渡して、祭司は、それを神に捧げる事が役割であるが、そのささげ物の内訳が、以下に示される。
 
 
エゼキエル46:4 君たる者が、安息日に主にささげる燔祭は、六頭の無傷の小羊と、一頭の無傷の雄羊とである。
エゼキエル46:5 また素祭は雄羊のために麦粉一エパ、小羊のための素祭は、その人のささげうる程度とし、麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
ここでは、7日ごとに来る安息日にささげるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示された。
なお1エパは約22リットル、1ヒンは約3.7リットルである。
 
礼拝には、必ず、犠牲が必要である。
 
創世記4章にカインとアベルの礼拝が記されているが、カインが捧げたものは、ヘブライ語「ペリー」の単数形、すなわち「一つのフルーツ」、対してアベルは、(複数形の)羊の群れの、初子たちの中から、最上ものを選びに選んで捧げた。
 
カインは、農業で暮らしていたので、彼自身は日毎、フルーツをふんだんに食べていたのに、主にたいしては、たった一つのフルーツしか捧げなかった。
何万円もある財布の中から、ワンコインを賽銭箱に投げたような感覚だろう。
 
神が、カインの捧げものに、見向きもしなかった理由は、彼の、主の御前にささげる礼拝には、主を敬う心も、犠牲も、なかったからだ。
 
神がそれを見向きもせず、アベルのささげ物にリスペクト(NKJV)を払ったのを見たカインは、怒った。
その怒りはつまり、カインの心の中では、「カインのほうが、神よりも偉大」だったという事を表している。
だから、彼のささげ物は受け入れられなかったのだ。
 
今ここエゼキエル書では、主を敬う礼拝の回復が指示されている。
私達は、神をリスペクトする心をもって、犠牲を捧げるべきであり、そうするなら、神からリスペクトされる。
 
 
エゼキエル46:6 ついたちには無傷の雄牛の子一頭、六頭の小羊および一頭の雄羊をささげよ。これらはすべて無傷のものでなければならない。
エゼキエル46:7 素祭は雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供えよ。また麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
月ごとに来る新月の祭りに捧げるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示されている。
それは安息日に捧げるささげ物に、若い雄牛が追加されている。
 
 
また、8-10節には、礼拝する者たちが、神殿の中で進むべき順路が示されている。
 
エゼキエル46:8 君たる者がはいる時は門の廊の道からはいり、またその道から出よ。
エゼキエル46:9 国の民が、祝い日に主の前に出る時、礼拝のため、北の門の道からはいる者は、南の門の道から出て行き、南の門の道からはいる者は、北の門の道から出て行け。そのはいった門の道からは、帰ってはならない。まっすぐに進んで、出て行かなければならない。
エゼキエル46:10 彼らがはいる時、君たる者は、彼らと共にはいり、彼らが出る時、彼も出なければならない。
 
君主は東向きの門から出入りするが、一般の人は、北の門か、南の門から出入りできる。
その際、出る時は、入る時と同じ門を通ってはならない。
 
礼拝へと向かう足、宮から出ていく足には、規律の正しさ、混乱のなさが要求されるのだ。
 
続いて、君主が民を代表してささげるべきささげ物が規定される。
 
エゼキエル46:11 祭日と祝い日には、素祭として、若い雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供え、麦粉一エパには油一ヒンを加えよ。
 
祭日と祝日は、過越祭や仮庵祭などである。
 
 
エゼキエル46:12 また君たる者が、心からの供え物として、燔祭または酬恩祭を主にささげる時は、彼のために東に面した門を開け。彼は安息日に行うように、その燔祭と酬恩祭を供え、そして退出する。その退出の後、門は閉ざされる。
 
東向きの門が開かれるのは、君主が礼拝を捧げる時だけである。
 
 
エゼキエル46:13 彼は日ごとに一歳の無傷の小羊を燔祭として、主にささげなければならない。すなわち朝ごとに、これをささげなければならない。
エゼキエル46:14 彼は朝ごとに、素祭をこれに添えてささげなければならない。すなわち麦粉一エパの六分の一に、これを潤す油一ヒンの三分の一を、素祭として主にささげなければならない。これは常燔祭のおきてである。
エゼキエル46:15 すなわち朝ごとに常燔祭として、小羊と素祭と油とをささげなければならない。
 
礼拝と犠牲は、毎朝、捧げられるべき事が示されている。
現在、私達には、私達の身代わりにほふられ、血を流してくださったまことの子羊、イエス・キリストがおられるので、私達は、動物を捧げるのではなく、日ごと、週ごと、月ごとに、私達に身代わりにほふられてくださったイエス・キリストを覚えつつ、日々、霊的な礼拝を捧げるのだ。
 
 
エゼキエル46:16 主なる神は、こう言われる、君たる者が、もしその嗣業から、その子のひとりに財産を与える時は、それはその子らの嗣業の所有となる。
エゼキエル46:17 しかし彼がその奴隷のひとりに、嗣業の一部分を与える時は、それは彼の解放の年まで、その人に属していて、その後は君たる人に帰る。彼の嗣業は、ただその子らにだけ伝わるべきである。
エゼキエル46:18 君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである」。
 
ここでは特に、君主たる者は、相続地を、相続以外の形で他人に譲渡してはならない、という規定が定められている。
君主たるものに求められる事は、正しさであり、「虐げないこと」なのだ。
 
 
エゼキエル40章以降にて示されて来た、君主たる者への指示は、政治的な命令はほとんど無かった。
ただ、一般人に代表して礼拝を捧げる、捧げ方だけが、細かく指示されており、唯一、君主に要求された政治的な命令といえば、以下だけであった。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
君主たる者に、最も要求されるのは、政治手腕よりもむしろ、誰より主に対して正しく礼拝を捧げるたしなみなのだ。
元々、イスラエルには人間の王は、本来、いらない。
主だけが唯一、王であり、そして人の上に立つ君主の役割は、人々に代表して、主に礼拝を捧げる事だ。
 
 
エゼキエル46:19 こうして彼はわたしを連れて、門のかたわらの入口から、北向きの祭司の聖なる室に、はいらせた。見ると、西の奥の方に一つの場所があった。
エゼキエル46:20 彼はわたしに言った、「これは祭司たちが愆祭および罪祭のものを煮、素祭のものを焼く所である。これは外庭にそれらを携え出て、聖なるべきことを、民にうつさないためである」。
 
19-20節で示された、内庭にある料理場は、祭司だけが食べることが出来る罪のためのいけにえと、罪過のためのいけにえを料理する場所である。
 
 
エゼキエル46:21 彼はまたわたしを外庭に連れ出し、庭の四すみを通らせた。見よ、庭のこのすみにも庭があり、また庭のかのすみにも庭があった。
エゼキエル46:22 すなわち庭の四すみに小さい庭があり、長さ四十キュビト、幅三十キュビトで、四つとも同じ大きさである。
エゼキエル46:23 その四つの小さい庭の内部の四方には、石の壁があり、周囲の壁の下に、物を煮る所が設けてあった。
エゼキエル46:24 彼はわたしに言った、「これらは宮の仕え人たちが、民のささげる犠牲のものを煮る台所である」。
 
外庭にある料理場(21-24)は、民が食べることの出来るいけにえを料理する料理場である。
 
なお、23節の「物を煮る所」、すなわち「料理場(新改訳)」と訳された「メバシェラー」は、旧約聖書ではここに1度しか登場しない。
モーセの幕屋や、ソロモン神殿で示されなかった、この神殿のユニークな特徴の一つとして、神殿の敷地内に、調理場が示された事も、挙げられる。
 
「食べる事」もまた、礼拝の中の大切な要素である事が、強調されているのだ。
 
旧約においては「和解のいえにえ」が、神と祭司と礼拝者の3者が、共に同じいけにえを食べるものであり、新約でも、共に同じパンを割いて食べる事が、礼拝のひとつである。
私達は、食べるにしても飲むにしても、キリストを覚え、感謝していただくものである。
パウロは、教会を単なる飲み食いの場としてしまった者たちを叱責した。
 
 
エゼキエル40章以降に示されたこの神殿で、特徴的な事は、きよさにおいて、また汚れを持ち込まない事において、特に注意すべきだった。
かつてイスラエルは、神殿に汚れを持ち込んでしまった故に、バビロン捕囚の憂き目に遭って、豪華絢爛な神殿は、破壊されてしまった。
新約を生きる私達もまた、イエス・キリストにあって、聖である事が求められているのだ。
 
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 

詩篇書講解説教

主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)

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「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌」
 
この詩篇の状況は、バビロン捕囚から帰還して、それ程経っていない時期と考えられる。
 
イスラエルが、バビロンに捕囚された事は、確かに、身から出た錆であった。
彼らは御言葉に背き続け、預言者を通しての主からの警告も聞かずに、罪と欲の道を邁進した結果、バビロン捕囚という憂き目に遭ったのだ。
 
しかしその70年の後、主の恵みと憐れみの故に、彼らは再び祖国に帰る事ができた。
 
確かに、バビロンという「刑務所」から出所できた喜びはあるけれど、しかし、帰って来ても、住む家が残っていたわけではなく、礼拝する神殿が残っていたわけでもない。
それらは相変わらず崩壊したままで、これから、建て直さなくてはならない。
 
国は相変わらず荒廃したままで、強力な敵や、嘲る者がのさばっているままであった。
それで主に向かって回復を祈り求めているのが、この詩篇である。
 
私達ももし、生活が乏しいままでひもじい思いをしている、とするなら、この詩篇の祈りを自分自身に当てはめて、主に呼び求めるのだ。
 
詩篇85:1 主よ、あなたはみ国にめぐみを示し、ヤコブの繁栄を回復されました。
詩篇85:2 あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。〔セラ
 
私達が神様に対して犯した罪は、到底、償いきれるものではない。
それで主は、罪の「赦し」と、罪を「覆うこと」を、私達のほうに提唱しに来られる。
 
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
 
雪が大地を覆えば、どんなに地が汚い状態であったとしても、全部覆われて、一面、銀世界になる事ができる。
しかし、ただ単に覆われただけでは、もとの状態が変わるわけではない。
雪が溶けてしまえば、再び汚い大地が現れるだけである。
 
そこで、本質が変わる必要がある。
「たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる・・・。」
主は、根本的に変える事ができるお方である。
 
そうなるための条件は、18節にある通り、主と論じあう事。
自分の足で主を探し、主の元へと行って、主と論じあうのだ。
 
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
 
主と論じあったなら、主のことばに、喜んで聞き従う。
そうするなら、具体的な、物理的な祝福が帰って来て、地の良き物を食べることができる。
しかし、主と論じ合う事を拒み、また、聞いても背いたままであるなら、剣が待っている事が書かれてある。
 
 
続く4-7節には、不安と混乱の中にある神の民に、主の憐れみが注がれるように、祈り求めている。
主に祈り求めるための根拠は、聖書の御言葉である。
主が約束された回復の御言葉を楯にして、祈り求めるのだ。
 
詩篇85:4 われらの救の神よ、われらを回復し、われらに対するあなたの憤りをおやめください。
詩篇85:5 あなたはとこしえにわれらを怒り、よろずよまで、あなたの怒りを延ばされるのですか。
詩篇85:6 あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。
 
主が生き返らせて下さる約束の預言は、エゼキエル書37章にもある。
 
エゼキエル37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
 
主は、枯れた骨さえも生き返らせる事ができるお方。
しかし、主がそれを成して下さるかどうかは、エゼキエルが言った通り、「主こそご存知」なのである。
私達がするべきは、ただ、主の約束の御言葉を信じて、祈り求める事だ。
 
詩篇85:7 主よ、あなたのいつくしみ(ヘセド)をわれらに示し、あなたの救(イエシャー)をわれらに与えてください。
 
ここの「救い」はヘブライ語でイエシャー、イエス様の御名イエシュア(彼は救い)と親類である。
救いは、ただ一方的な恵みであり、それは、主イエス様から来る。
 
詩篇85:8 わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
詩篇85:9 まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。
 
この詩篇の作者は、「神の仰せを聞こう」と願っていた。(8節)
彼には、主に対する恐れと、主への敬いがあり、主と論じあおうという意欲がある。
主の「救い」は、このように主と関わり合おうと「心意気」のある人に対して近く、救いの御手を伸ばして下さる。
 
主は、人格ある御方である。
異邦人が、祈り文句を何度も繰り返すのは、彼らにとっての「神」が、人格があるとは思っておらず、ただ呪文的に、同じ言葉を念じれば、超能力のようにそれが成る、と思っているのだ。
しかし私達は、生きておられる主と論じ合い、語り合おうとする心意気を、主に見せるべきだ。
 
詩篇85:10 いつくしみ(ヘセド)と、まこと(エメット)とは共に会い、義(ツェデク)と平和(シャローム)とは互に口づけし、
詩篇85:11 まこと(エメット)は地からはえ、義(ツェデク)は天から見おろすでしょう。
 
ヘセドは「良いこと」「誠実」「いつくしみ」の意味があり、エメットには「真理」「確かさ」「信頼できること」の意味がある。
 
私達には元々、真理(エメット)は無い。
義(ツェデク)も無い。
ただ裁かれると滅びる以外に無い、罪ある存在であった。
 
しかしイエシュア、すなわち、その名が「救い」というイエス様が、罪ある私達の身代わりに、十字架にかかってくださり、ヘセド(いつくしみ)をほどこしてくださった。
 
それ故、私達はイエス様にあって義(ツェデク)とされ、神との和解(シャローム)がもたらされた。
ヘセド(恵み)とエメット(心理)を出会わせ、ツェデク(義)とシャローム(平和)を互いに口づけさせて下さったお方が、イエス・キリストである。
 
 
そして、イエス様を信じて、神様と和解する結果、地は、良いものが生じるようになる。
 
詩篇85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
詩篇85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
 
御言葉であられる主は、生きておられ、人格ある御方である。
この主と積極的に論じ合い、語り合おうと心意気ある人、すなわち、「イエシュア(彼は救い)という名前のイエス」の名によって求める事こそが、救いと祝福の最短ルートなのだ。

エゼキエル書講解説教

神様を中心とした土地と支配、生活(エゼキエル45章)

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神の民は、聖であるべき事、神様を中心とした歩みをするべき事が、続いて示される。
 
エゼキエル45:1 あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。
エゼキエル45:2 そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。
 
ここでは、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保しなさい、という事であるが、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
 
まず、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、聖所と至聖所のため、そして、そこで仕える祭司のためのものとし(3-4節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、はその周辺で奉仕をするレビ人のものとし(5節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅0.5万キュビトの地を、イスラエルの全家のものとして(6節)、
それらの土地を聖別し、確保するべき事が命じられている。
 
神の民にとって、聖として確保された地の中心は、聖所、すなわち礼拝である。
神の民たる私達が、ここから学ぶべき事は、私達も、主のために聖別された時間、空間を確保し、礼拝を中心にした歩みをするべきだ、という事である。
 
 
エゼキエル45:7 また君たる者の分は、かの聖地と町の所有地との、こなたかなたにある。すなわち聖地と町の所有地に沿い、西と東に向かい、部族の分の一つに応じて、地所の西から東の境に至り、
 
君たる者(ナーシー:上に立つ者、王ではない)のための土地も、確保されている。
それは、この聖別された土地の西側と東側、どちらも、国境に至るまで延びる広大な土地である。
 
エゼキエル45:8 その所有の地所はイスラエルの中にある。わたしの君たちは、重ねてわたしの民をしえたげず、部族にしたがってイスラエルの家に土地を与える。
 
以上のように、主の聖所と、祭司やレビ人、イスラエルの全家に割り当てるべき、聖別された地が、そして、君主に対する土地が定められた。
 
地は、本来、主のものであって、主から人々へゆだねられたものとして、割り当てられる。
それ故、人は土地を勝手に自分のものとするべきものではない。
この地上で、旅人である私達が、仮の住まいとして生きるべき、主からの借地なのだ。
 
9-17節に、君主たる者のつとめが示されている。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
それまでの、イスラエルの歴代の王たちは、暴虐と暴行によって人々を支配し、重税で追い立てていた。
その取り立てて集めた富を、王たちが、わがものとし、おのおのの欲望のままに使うためであった。
しかし、そのような汚れた暴虐の行いゆえに、主はバビロンを通して、全て破壊してしまった。
だから、このエゼキエルに示された神殿や、定められた定めは、ことさら、きよめに立つこと、汚れを持ち込んではならない事が、重点的に示されているのである。
 
神の民は、主から土地を相続地としてゆだねられているからには、主の聖さを汚すことはあってはならない。
また、民の上に立つべき者には、主の聖さを保ちつつ、正しく治める責任が、任されている。
 
上に立つ者は、確かに民から物品を集めるが、それは、君主たちの欲の赴くままに使い込むためではない。
民に代表して、それを、神様の元へと持って行って捧げるためである。
 
エゼキエル45:10 あなたがたは正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを用いよ。
エゼキエル45:11 エパとバテとは同量にせよ。すなわちバテをホメルの十分の一とし、エパもホメルの十分の一とし、すべてホメルによって量を定めよ。
エゼキエル45:12 一シケルは二十ゲラである。五シケルは五シケル、十シケルは十シケルとせよ。一ミナは五十シケルとせよ。
 
ここでは、正しいはかりを基準にしなくてはならない事が、あらためて示されている。
以前は、異なるはかりを用いて、社会に不正や混乱をもたらしていたが、相手や状況によって異なる秤を用いる事を、主は忌み嫌われる。
 
箴言20:10 互に違った二種のはかり、二種のますは、ひとしく主に憎まれる。。
 
 
さらに13-15節には、民が君主に納めるべき割合が示されているのだが、民から集めたそれらは、君主が代表して主にささげるものである、という事が、重要である。
 
主の民には、本来、人間の王は、無いはずである。(1サムエル記8章)
神が王であり、人々の上に立つ君主は、人々が「主にささげる」という行いを促すために人々から集め、人々に代表してそれを主に捧げる、という役割をする者に過ぎない事が分かる。
だから、ここでは「王」ではなく「君主」という言葉が使われているのである。
 
 
18節以降、イスラエルの祭りに関する規定が続く。
 
エゼキエル45:18 主なる神は、こう言われる、正月の元日に、あなたは無傷の雄牛の子を取って聖所を清めよ。
エゼキエル45:19 祭司は罪祭の獣の血を取って、宮の柱と祭壇のかさねの四すみ、および内庭の門の柱に塗れ。
 
まずは年初に、礼拝場所のきよめをしなくてはならない。
 
エゼキエル45:20 月の七日に、あなたがたは、過失や無知のために罪を犯した者のために、このように行って宮のためにあがないをなせ。
 
あやまって罪を犯した者や、わきまえのない者がいる。
彼らは、それを罪とは知らず、意図せずに罪を犯すのだが、しかし、「知りませんでした」で済むものではない。
その贖い・償いを、きっちりしなくてはならず、そのために、犠牲の血が流されなくてはならない。
 
イエス様は、知らずに罪を犯した私達のために、十字架上で血を流し、「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と言って、執りなし祈って下さった。
 
21-25節では、過越祭や種無しパンの祭り、仮庵の祭りの規定が示されるが、そこでも、君主が民に代表して捧げるべき事が書かれてある。
 
以上のように、人の上に立つ者は、神と人との間に立って、民に代わって主に捧げる事、そして、神から託された御言葉を、民に守り行わせるべき事が使命である事が示された。
神の国における「偉い人」「人の上に立つ者」は、世のそれとは違う。
決して、世の王たちがしているように、むさぼりの心をもって民草を虐げてはならない。
 
マタイ20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
マタイ20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
マタイ20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 
 
神の民は、聖である事が、きよさを中心に生活する事が、要求されている。
 
1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1ペテロ1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
2コリント6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
2コリント6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
2コリント6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
2コリント6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
2コリント7:1 愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。

エゼキエル書講解説教

聖なる任務を帯びる祭司に求められること(エゼキエル44:15-31)

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エゼキエル44:15 しかしザドクの子孫であるレビの祭司たち、すなわちイスラエルの人々が、わたしを捨てて迷った時に、わが聖所の務を守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血とをわたしにささげるために、わたしの前に立てと、主なる神は言われる。
エゼキエル44:16 すなわち彼らはわが聖所に入り、わが台に近づいてわたしに仕え、わたしの務を守る。
 
通常のレビ人は、もはや、この新しい神殿の聖所での奉仕には預かれない事が、前回示された。
その理由は、彼らは本来、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を、教えなければならなかった、はずなのに、彼らはそれを教えず、むしろ、民の罪、民の俗っぽさに、染まってしまかったからだ。
 
しかし、ツァドクの祭司の子孫は、そのようでなく、主の前に誠実を尽くした。
それで、ツァドクの子孫が永遠に、主の御側近くで祭司の務めをするものとして、栄光の任務が与えられた。
 
今回の箇所は、ツァドクの子孫が、祭司として、聖所で仕える際に気をつけるべき事が定められている。
ここに記されている規定は、出エジプト記やレビ記からいくつかピックアップされているが、その内訳は、特に、祭司たる者は、きよさと聖を保つべき事、汚れを帯びないようによく気をつけるべき規定に、特化されている。
 
なぜなら、祭司たるものは、主の最も近くで奉仕する者であり、人々の前で、主の聖であられる事を表し、主の栄光を示さなければならないからである。
彼らはもはや、以前、レビ人達が犯した過ちを、もう繰り返さないようにしなくてはならない。
 
エゼキエル44:17 彼らが内庭の門にはいる時は、麻の衣服を着なければならない。内庭の門および宮の内で、務をなす時は、毛織物を身につけてはならない。
エゼキエル44:18 また頭には亜麻布の冠をつけ、腰には亜麻布の袴をつけなければならない。ただし汗の出るような衣を身につけてはならない。
 
祭司が務めに入るために、聖なる領域に足を踏み入れる際、その聖なるつとめ専用の服に着替えてから入るべき事が示されている。
そこでは、毛織物を、すなわち、世の方法で血が流されて作られた着物を、身に着けてはならない。
 
動物の血が流されるようになったのは、エデンの園において、人が主のたった一つの戒めを破って以来だった。
また、人が、汗を流して土地を耕さなければならなくなった、というのも、人が神のことばに逆らい、女の言葉に従った故だった。
 
祭司は、人の前には神の代理として立ち、また、人の代表として神の前に立つ故、エデンで犯した神の言葉に対する違反の刈り取りを、身に帯びて、その務めに入ってはならない。
彼らは、罪のいけにえによって、贖われ、清められた状態で、つとめに入るからだ。
 
エゼキエル44:19 彼らは外庭に出る時、すなわち外庭に出て民に接する時は、務をなす時の衣服は脱いで聖なる室に置き、ほかの衣服を着なければならない。これはその衣服をもって、その聖なることを民にうつさないためである。
 
神の民は、確かに聖なる民ではあるが、この祭司の服は、さらに聖なるものである。
「聖」とは「切り分けられた」事の意味がある。
神の民は、世から切り分けられた者たちであり、そして祭司は、その中からさらに切り分けられた者たちであり、特に、聖所における働きは、そうである。
 
その、聖なる服を身につける事によって、聖所に入ることが出来るほどの「切り分けられた」服を着たままで、世の、俗なる者たちの前に出て、民を聖なるものとしてしまうなら、どうなるか。
祭司のように、聖と俗をわきまえない者たちが、聖別されてしまったとしたら、彼らがその身で俗なる所に行き、罪を犯し、その聖さを冒すなら、彼らが咎を負う事になってしまう。
 
 
エゼキエル44:20 彼らはまた頭をそってはならない。また髪を長くのばしてはならない。その頭の髪は切らなければならない。
 
男子が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであると、自然自体が教えている。(1コリント11:14)
また、頭を剃る行為は、死人を悼む行為と直結している。(後述)
エゼキエル44:21 祭司はすべて内庭にはいる時は、酒を飲んではならない。
 
アロンの子ナダブとアビフは、おそらく、ぶどう酒に酔った状態で聖所に入って、主の前に異なる火を焚き、主の前で焼き殺されてしまった事が、レビ記10章から見る事ができる。
 
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。
10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。
10:5 彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。
10:6 モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。
10:7 また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。
10:8 主はアロンに言われた、
10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。
 
以上のように、祭司は、聖なるつとめに入る際、「死ぬ事の無いように」、ぶどう酒や濃い酒を飲んではならない。
主は、「わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現す」と言われたからだ。
祭司は、聖なる油注ぎを受けた故、聖なる場、聖なる位置を離れてはならないし、また、死んだ行いや、死んだ者に、関わってはならない事が、レビ記10章に書かれてある。
 
エゼキエル44:22 また寡婦、および出された女をめとってはならない。ただイスラエルの家の血統の処女、あるいは祭司の妻で、やもめになったものをめとらなければならない。
 
この事は、レビ記21:7にも書かれている。
『彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。』
 
祭司は、神に対して聖(切り分けられた者)であるので、きよさを保たなければならない。
一般のやもめや、一般の離婚された女は、既に、以前の「一般の男」を知っており、すなわち、既に世俗と結合されてしまっているので、「聖」である事が要求される祭司には、嫁ぐ事はできない。
だから、もしそれが祭司のやもめであるなら、めとってもよい、と言われている。
 
祭司はなぜ、ここまで、きよさを追求しなければならないのか。
その理由が以下に示されている。
 
エゼキエル44:23 彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない。
 
ここでは「教えなければならない」というキーワードが、2回繰り返し強調されている。
そう、祭司たるものは、神の言葉、律法を「教え」なくてはならないからだ。
 
祭司こそ、一番、聖なるものと俗なるものを切り分け、汚れたものときよいものとの区別しなくてはならない存在である。
前回の所では、それをしなければならないはずのレビ人が、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせ、そうして聖なる領域に汚れを持ち込んでしまった故に、彼らにはペナルティが課せられた。
 
本来、聖と俗を切り分け、汚れたものときよいものの切り分けを、教えるべき立場の者が、俗物となり、また汚れていたなら、会衆全体が、聖さを見失い、俗物となってしまう。
だから、祭司は、特に、きよさと聖を身に着けなくてはならないのだ。
 
エゼキエル44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭の時は、彼らはわが律法と定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない。
 
祭司が、世の裁判官の役割をする理由は、彼らが神の法律を一番知っているからである。
神の民は、世の仕方、世の裁判、人間の思考で、世の裁判官にさばきを委ねてはならないのだ。(1コリント6章)
 
エゼキエル44:27 彼は聖所に入り、内庭に行き、聖所で務に当る日には、罪祭をささげなければならないと、主なる神は言われる。
 
祭司は、罪のためのいけにえを捧げて、罪の問題を解決したからこそ、聖なる務めに入ることができるのだ。
 
エゼキエル44:28 彼らには嗣業はない。わたしがその嗣業である。あなたがたはイスラエルの中で、彼らに所有を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。
 
祭司が受け継ぐ、相続の土地は、この地上には、無い。
主ご自身が、相続地であるからだ。
彼らは畑を耕したり、海に出て漁をして食料を得るものではない。
神の働きをして、食を得る者である。
 
エゼキエル44:29 彼らは素祭、罪祭、愆祭の物を食べる。すべてイスラエルのうちのささげられた物は彼らの物となる。
エゼキエル44:30 すべての物の初なりの初物、およびすべてあなたがたのささげるもろもろのささげ物は、みな祭司のものとなる。またあなたがたの麦粉の初物は祭司に与えよ。これはあなたがたの家が、祝福されるためである。
 
ここに、「あなたの家に祝福が宿るため」と書いてある。
祭司の食物を絶やさないなら、祭司は立派に務めあげる事が出来、心置きなく祝福を祈る事ができるからである。
イサクが心置きなく祝福できたのは、おいしい食で満腹したからだった。
 
エゼキエル44:31 祭司は、鳥でも獣でも、すべて自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べてはならない。
 
祭司が食べて良い動物は、ただ、主に捧げられるためにほふられたもの、である。
世の方法で血を流し、殺したものは、祭司は食べてはならない。
 
以上、主の御そば近くで仕えるべき者の標準は、世の標準とは全く違っていた。
私達もまた、王族の祭司とされた者として、自らをきよめ、聖別するべきである。
 
1ペテロ
1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
 
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

 

エゼキエル書講解説教

主の働き人として採用される人と、そこから除外されてしまう人(エゼキエル44:1-14)

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前回までの所で、主は、新しい神殿の寸法や構成を示し、聖と俗とを切り分けるべき事を、示された。
その、聖と俗とを切り分ける領域は、外庭のさらに外側の、縦横五百さおの正方形の領域であった。(エゼキエル42:20)
それが定められると、東向きの外門から、神の栄光が入ってきた。(43章)
 
エゼキエル44:1 こうして、彼はわたしを連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった。
エゼキエル44:2 彼はわたしに言った、「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれもはいってはならない。イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ。
エゼキエル44:3 ただ君たる者だけが、この内に座し、主の前でパンを食し、門の廊を通ってはいり、またそこから外に出よ」。
 
東向きの門(外庭の東向きの門)を、閉じたままにしておかなければならない理由は、イスラエルの神・主が、ここから入られたから、である。
そこでは、ただ、君主(民の上に立つ者)だけが特別に、主の前でパンを食べるために座る事ができる。
 
エゼキエル44:4 彼はまたわたしを連れて、北の門の道から宮の前に行った。わたしが見ていると、見よ、主の栄光が主の宮に満ちた。わたしがひれ伏すと、
エゼキエル44:5 主はわたしに言われた、「人の子よ、主の宮のすべてのおきてと、そのすべての規定とについて、わたしがあなたに告げるすべての事に心をとめ、目を注ぎ、耳を傾けよ。また宮にはいることを許されている者と、聖所にはいることのできない者とに心せよ。
 
神殿には、主の栄光が満ちている。
主の臨在があり、主の栄光がある神殿における「おきて」と「規定」について、主は、「心」に留め、「目」を注ぎ、「耳」を傾けて、「心せよ」、と言われたからには、私達も心するべきである。
 
続く節から、その内訳を要約すると、その神殿において、念入りに注意すべき事とは、汚れが入り込まないように、という事であり、その宮に入って奉仕ができる者と、宮に入れても、聖所には入れない者の区別が示されており、そして、なぜ「入れない」者が出たのかの理由が、以下に示されている。
 
エゼキエル44:6 また反逆の家であるイスラエルの家に言え。主なる神は、こう言われる、イスラエルの家よ、その憎むべきことをやめよ。
エゼキエル44:7 すなわちあなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とがささげられる時、心にも肉にも、割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った。
 
イスラエルの家全体は、神殿の中に、あらゆる忌み嫌うべき事を持ち込んで、主の怒りを引き起こした。
その様は既に、8章で示されていた。
そして、それらを持ち込んだ者とは、「心にも肉にも割礼を受けていない異邦人」であった。
 
その異邦人は、何が聖であり、何が俗であるのかもわきまえず、何が主に忌み嫌われるのか、という知識も無いため、主への恐れも無く、また御言葉に違反しているということも気づかないまま、大盤振る舞いして、神の忌み嫌うものを持ち込み、忌み嫌うべき事を行ったのだ。
しかも、異邦人が神殿で仕事をしてよいと許可したのは、最も神殿のきよさを守らなければならないはずの、レビ人だった。
 
現代の教会で、罠に陥りやすい事として、世の中では有能であっても、聖書の内容を知らず、神を恐れるという事を知らない人を、教会の要職につけてしまう、という事がある。
私達は、心の割礼を受けていない、肉に従って判断し行動する人を、教会の要職に据えてはならない。
そうでないと、なまじ「できる人」の説得力ある言い分によって、御言葉が阻害され、どんどん霊的にあさってな方向へ進ませ、気づいた時にはエゼキエル8章の状態になりかねないからだ。
 
神の国の事柄において、重要な事は、仕事のできる・できないではなく、神を恐れる心を持っているか・いないかである。
パウロは、肝心なのは「御霊による心の割礼」である、と書いている。
 
ローマ2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
 
現代の教会における奉仕において重要な事は、肉に従うのではなく、御霊によって突き動かされる奉仕である。
その誉れは、人に依らず、神から来る。
 
エゼキエル44:8 あなたがたは、わが聖なる物を守る務を怠り、かえって異邦人を立てて、わが聖所の務を守らせた。
 
本来、レビ人、すなわち、主の働き人が、果たさなければならない聖なる務めを、彼らは果たさず、その代わり、割礼を受けていない異邦人を、働きに据えてしまったのだ。
 
エゼキエル44:9 それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、心と肉とに割礼を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない。
 
現代、私達は、御霊による心の割礼が無い人を、奉仕者に立てたりして、礼拝を汚してはならない。
 
以上のように、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせて、聖なる領域に汚れを持ち込ませたレビ人に対してのペナルティが、続く節に記されている。
 
エゼキエル44:10 またレビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪を負わなければならない。
 
本来、神から迷い出た人を、真っ先に連れ戻すべきは、レビ人たちなのに、彼ら自身が、主から迷い出て、離れて行ってしまったのだ。
それでレビ人たちは、その罪を負わなければならなくなってしまった。
 
エゼキエル44:11 すなわち彼らはわが聖所で、仕え人となり、宮の門を守る者となり、宮に仕えるしもべとなり、民のために、燔祭および犠牲のものを殺し、彼らの前に立って仕えなければならない。
エゼキエル44:12 彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって、罪のつまずきとなったゆえ、主なる神は言われる、わたしは彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない。
 
彼らは本来、11節のとおり、主の宮の門を、汚れた者からガードしなければならない、はずだった。
しかし彼らはガードせず、汚れた者・無割礼のものを素通りさせ、その結果、主の宮は偶像礼拝だらけになり、8章のような惨憺たる有様になってしまったのだ。
 
私達は、教会という「主の宮」を、ガードしなければならない。
もし、ある兄弟姉妹が、教会や交わりに、汚れを持ち込もうとするなら、主の働き人である私達は、ガードするべきである。
そして、私達自身という「神殿」を、私達自身が、ガードしなければならない。
主の宮である私達自身の家庭や職場に、人間関係に、また、私達の電子機器の中に、汚れを持ち込ませてはならない。
 
そのガードをしないで、神殿を魑魅魍魎の温床にしてしまったレビ人に対するペナルティ内容が、以下にある。
 
エゼキエル44:13 彼らはわたしに近づき、祭司として、わたしに仕えることはできない。またわたしの聖なる物、および最も聖なる物に、近づいてはならない。彼らはそのおこなった憎むべきことのため、恥を負わなければならない。
エゼキエル44:14 しかし彼らには、宮を守る務をさせ、そのもろもろの務と、宮でなすべきすべての事とに当らせる。
 
レビ人は、主の宮の雑務に当ることは許されるが、祭司として、聖所で仕えることは出来ない。
私達も、汚れをガードしないままであるなら、主の働きの主要部分を任される事は、決して、無い。
たとえ人がそれを許しても、主が、その人を跳ね除けてしまわれるのだ。
 
神の国で、重要な働きを許可される人とは、たとえ、周囲がどんなに堕落したとしても、本人自身は、主に誠実を尽くし、忠実を尽くした人、のみである。
ツァドクの子孫であるレビの祭司が、まさにそうだった。
彼らは、イスラエル全体がいかに堕落しても、忠実に主に仕えたため、彼らだけは、聖所に入って重要な奉仕をする事ができる。(エゼキエル44:15-16)
 
私達は、時代がどうあれ、ツァドク一族のように、御言葉に記されている事を誠実に守り行うべきだ。
そうするなら、この終わりの時代、神の国を建て上げるために大いに、用いられる器として、用いられる用意が整うからだ。

 

詩篇講解説教

心底、主を慕い、あえぎ求めた、コラの子による詩篇(詩篇84篇)

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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
 
コラといえば、荒野で人々を扇動してモーセに逆らい、クーデターまがいの事をした者だった。
彼は巧みに多くの有力者を味方につけ、多くの人々が彼になびいた。
しかし、コラの天幕の下の地面は避け、彼は、天幕や持ち物もろとも、生きたまま地の底に下ってしまった。
結局、神ご自身が直接、彼らを退けた事を明らかにされたのだ。
 
しかし、コラの子たちは、生き残った。
なぜ、生き残れたのか?
いかに父親が、人々をそそのかす者であったとしても、彼らは心底、主を慕い求める心を持っていたため、その天幕に近づかなかったからである。
 
それで、コラの子の子孫からは、あの有名な預言者であり、キングメーカーであるサムエルが生まれた。
さらにコラの子たちは、素晴らしい数々の詩篇を生み出す。
鹿が水の流れを慕うごとく、私のたましいは主を慕います、という詩篇42篇や、
この舌は麗しき主をなめらかに語り告げる「巧みな書記の筆」です、という詩篇45篇、
また、「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と、ガールズ・ソプラノに歌わせた、力強い信仰告白の詩篇46篇など。
彼らが作った詩篇には、心の底から主をあえぎ、慕い求める事を歌ったものが多い。
 
この84篇も、彼の主を慕いあえぐ心が、ふんだんに表されている。
 
詩篇84:1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
詩篇84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
 
彼は、魂、心、身をもって、すなわち、全身全霊で、主を慕い、喜び、賛美する志を持っている。
パウロは、これこそ私達も為すべき「理に適った礼拝」だ、と言っている。
 
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な(ロギコス:理に適った)礼拝である。
 
私達も、主の宮・教会に行く時、自分の思い・心・からだ・意思・感情、全てを、聖なる捧げものとして、携えて行く時、主はその礼拝者を、喜んで受け取ってくださる。
 
詩篇84:3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。
詩篇84:4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。〔セラ
 
彼は、雀やつばめが、主の家に巣を作っている様子を、うらやんでいる。
今も、嘆きの壁に行くと、アマツバメや鳥たちが巣を作っているのを見る事ができる。
嘆きの壁は、かつての神殿の壁の一部であった。
現在も、ユダヤ人は、その壁の修復工事において、アマツバメの巣の位置を損なわないよう考慮して、修復するようにしている。
 
つばめは、神殿の壁の隙間に巣作りして、卵を産み、子育てし、やがて成長すると、南国へと旅立って行き、そして、季節が巡って来ると、彼らが育った神殿に再び戻ってきて、巣作りし、卵を産み、、、という営みを、数千年も繰り返して来た。
コラの子たちは、そんなつばめを心底、羨ましい、と思った。
私達も、主の宮に巣作りし、子を産んだら、主の宮で育て上げ、そして成長したなら、遠くで身を立たせ、成功し、そして再び主の宮に戻ってきて、いのちの育みをする、そのような営みを、世々限りなく続けて行くべきなのだ。
 
詩篇84:5 その力があなたにあり、その心がシオン(צִיּוֹן)の大路にある人はさいわいです。
 
シオン(צִיּוֹן)とは、エルサレムの別名であり、特に神殿のある町を意識する事が多い。
 
なお、ヘブライ語から導き出される霊的意味は、私達・イエス様を信じる者である。
A צִיּוֹןのツァディצは「釣り針」、ユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、ヌンןは「魚」を意味する。
A’ すなわち、イエス様の十字架の「釘」づけられた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、イエス様を信じる者と言う。
 
心にシオンへの大路がある人は、主の宮に礼拝に行こう、主の宮に戻りたい、と切望する思いが開通している。
すなわち、力の源を主に置いている人で、そのような人は、どんな時代になっても、どんな状況に置かれたとしても、大丈夫である。
 
詩篇84:6 彼らはバカ(בָּכָא)の谷を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨(モーレ:秋の雨)は池をもってそこをおおいます。
詩篇84:7 彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。
 
バカ(בָּכָא)の元の意味は「バルサムの木(バーカー)」であるが、樹脂や水分をしたたらせる性質があるので、「泣く者」とも呼ばれるため、文語訳や古代訳(70人訳、シリヤ語訳)は、涙と訳している。
 
私達の人生も、涙の谷を通るような、つらい時期があるかもしれない。
しかし、心の中に、主の宮への、すなわち礼拝への直通通路がある人は、涙の谷さえ、泉が湧く所とし、そこを主が雨で潤して下さり、そして、力から力へと進まされ、ついには、シオンにおいて神とまみえるようになるのだ。
 
詩篇84:8 万軍の神、主よ、わが祈をおききください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ
詩篇84:9 神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。
 
「われらの盾」「油そそがれた者」とは、王の事であり、ユダヤにおける王とは、神から権威を代行して行う者として、油注がれた者である。
その自分たちを統治する王が、神様の御心にかなった、祝福された統治をしますように、という願いがある。
 
私達にとって王とは、イエス様であり、私達の王であるイエス様の名前によって祈る祈りを、主は、聞いてくださる。
 
詩篇84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
 
コラの子たちの主な奉仕は、門衛であるが、門衛は神殿の中にではなく、ずっと外に立ち続ける奉仕ではある。
しかし、少なくとも主の近くにおり、そして、主の宮と礼拝者を守る役に立っている。
そうであるからには、世のいかなる所にいるよりも、遥かに有意義である。
 
彼は、「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」と言った。
つまり、主を慕い焦がれる心をもって、主の宮・教会にいる一時間は、世にいる千時間にまさるのだ。
私達は、どれくらい、主を慕い焦がれ、どれくらい、教会で過ごして来ただろうか。
 
ちなみに私は、10年以上、教会に入り浸って奉仕をして来たので、私は既に、一万年にまさる充実した日々を生きている、と、自負している。
 
彼は言った。
「わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」
そう、悪の天幕には、災いがつきものである。
コラの天幕は、彼もろとも地面が裂け、落ちていってしまった。 
しかしコラの子たちは、父の悪に加担せず、その天幕から離れていたから、生き残った、という事を、忘れてはならない。
 
詩篇84:11 主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。
 
日は、全ての生き物に恩恵をもたらしており、私達は、太陽が無ければ、生きられない。
主は太陽のように、私達を光で照らし、暖かさで照らし、必要を満たし、健やかにして下さるお方である。
 
そして主は、私達の盾である。
盾が無いなら、敵の攻撃をすぐに受けて、やられやすい。
しかし、主は完全な盾で、この御方に依り頼むなら、決してやられる事は無い。
 
詩篇84:12 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
 
主の民、主の奉仕者である事の「幸い」とは、何だろう。
確かに、主の民・主の奉仕者は、世において成功し、物質的・経済的にも祝福を受けるが、それにまさる幸いがある。
それは、主の御側近くにいる事、主ご自身がわたしの相続である事である。

詩篇講解説教

主の救いが来るまで黙っていてはならない(詩篇83篇)

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歌。アサフの賛歌
83:1 神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください。
 
状況としては、イスラエルに敵する者たちが、共に連合してイスラエルを包囲している状況である。(5-8節)
最も助けが必要な状況なのに、神様はあたかも「沈黙」を続けているような。
 
もしも、神が沈黙しているかのように感じるとしたら、ます私達の側に何か過ちは無かったかを探るべき時である。
神を慕い求めていない、という事が、ずっと続いていなかったか?
私達の中に、神との隔てとなっている罪が無かったか?
もし「罪」だと示されている事があるにもかかわらず、それをそのまま放置したままであるなら、どんなに「下さい、下さい」と連発しても、無駄である。
しかし、もし思いあたる罪は何もなく、御前で何ら”やましさ”が無いのに、突然、攻撃する者が襲って来たような時は、黙っていてはならない。
そのような時は、神様に、しきりに祈り求めるのだ。
イザヤも言った。
 
イザヤ62:1 シオンの義が/朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。
・・・
62:6 エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。
62:7 主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ。
 
イザヤが主に祈り続けると、主からんお答えがあって、その答えは、とても素晴らしい内容だった。
すなわち、もはや彼らが労して得た産物は、敵によって、決して奪われる事はなく(同8節)、確かに主の救いが来て、そして今までの働きの報いが確かに報われ(11節)、彼らは『聖なる民、主に贖われた者』ととなえられ、『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられるようになる(12節)。
 
人は、何か、危機的な状況に陥った時、条件反射的に、人や事、物に、頼りどころを探すものだが、私達・神の民は、そうあるべきではない。
真っ先に、主に求め、主の前で誠実であるべきだ。
 
アサフもまた、この危機敵状況を、主に訴えた。
 
83:2 見よ、あなたの敵は騒ぎたち、あなたを憎む者は頭をあげました。
83:3 彼らはあなたの民にむかって巧みなはかりごとをめぐらし、あなたの保護される者にむかって相ともに計ります。
83:4 彼らは言います、「さあ、彼らを断ち滅ぼして国を立てさせず、イスラエルの名を/ふたたび思い出させないようにしよう」。
 
主の民に敵対する者達は、悪賢いはかりごとを巡らし、主の民を消し去ろうとしている。
5-8節に、その色々な民族の名が出て来るが、それらに記されている者達は、まさに、イスラエルの東、西、南、北に位置する者達であり、彼らは心ひとつにしてイスラエルを破壊しようと、たくらんでいる。
まさに、四面楚歌の状態である。
なお、8節をみると、ロトの子ら(モアブとアモン)が、指揮を取っていたようである。
 
ヨシャパテ王の時代も、ロトの子らが共謀し、海の砂のような大軍を率いて攻め込んできた。
ヨシャパテ王は、当初、主の目に適う政治を行っていた。(2歴代誌17章)
しかし、北イスラエル王国と和を結ぶことを急ぐあまり、主の目にはなはだ悪を行っていたアハブ王の娘と、自分の子とを、結婚させてしまった。
 
神の民は、悪辣な者と、決して婚姻関係を結んではならない。
なぜなら婚姻とは、相手とひとつになる事であり、そして息子、娘、子孫たちは皆、その相手の血を半分いただいていく事になるからだ。
 
結局ヨシャパテは、アハブの身勝手な思惑に利用されて、散々目にあった後(同18章)、おびただしい大軍が彼の王国に攻め寄せて来る事になる。(20章)
彼はその時、断食の集会を開いて、信仰告白し、そして御言葉を盾にして祈った結果、主は救って下さり、しかも、ぶんどりに3日もかかる程、多くのものを得て、彼の名声は周辺諸国に鳴り響いた。
 
確かに、自分の罪ゆえに、災いに遭う事はある。
しかしその時、悔い改めて、主に切に祈り続けるなら、主はその災いを、幸いへと転じてくださった事例が、聖書には多々ある。
 
詩篇83:9 あなたがミデアンにされたように、キション川でシセラとヤビンにされたように、彼らにしてください。
83:10 彼らはエンドルで滅ぼされ、地のために肥料となりました。
83:11 彼らの貴人をオレブとゼエブのように、そのすべての君たちを/ゼバとザルムンナのようにしてください。
 
これらの出来事は、いずれも、士師記4‐8章に記された出来事である。
アサフは、かつての士師記の時代、主がなさったわざに思いを馳せ、その出来事をイメージしつつ、祈ったのだ。
私達も、聖書の出来事に、思いを馳せ、その御言葉と自分とを信仰によって結びつけて、祈るなら、その時代に起きた主のわざを、救いを、信仰によって今の私達へと引っ張ってくる事ができるのだ。
 
詩篇83:12 彼らは言いました、「われらは神の牧場を獲て、われらの所有にしよう」と。
 
昔も今も、「神の牧場」に汚い手を伸ばし、わがものにしようとする者たちは、確かに存在する。
神の民は、祝福される故に、妬まれて、その祝福を奪おうとして、企む者たちが。
そのような時、私達も、信仰の先人にならって、主が救いをもたらして下さるまで、黙ることなく、主を呼び続けるのである。
 
詩篇83:13 わが神よ、彼らを巻きあげられるちりのように、風の前のもみがらのようにしてください。
83:14 林を焼く火のように、山を燃やす炎のように、
83:15 あなたのはやてをもって彼らを追い、つむじかぜをもって彼らを恐れさせてください。
 
アサフは、風や火、炎、疾風などの、自然を支配される神が、敵にさばきを下してくださるように、と祈っている。
しかし、単に「敵を滅ぼして下さい」という事で、祈るべきではない。
 
詩篇83:16 彼らの顔に恥を満たしてください。主よ、そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう。
 
確かに、神の民を蹂躙し、神の民の畑を奪おうとするような者達は、恥に満たされ、打たれて、然るべきである。
しかし主は、彼らが打たれた後、悔い改めて、主に立ち返る事をこそ、望んでおられる。
 
ヨシュアの時代も、滅ぼされるべきギブオン人が、主に立ち返った時、主は、彼らを救われた。
むしろ主は、彼らを救うために、太陽や月さえも止めて、敵を滅ぼし、そうして主の栄光が、大いにあらわれた。(ヨシュア記9-10章)
 
詩篇83:17 彼らをとこしえに恥じ恐れさせ、あわて惑って滅びうせさせてください。
83:18 主という名をおもちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者であることを/彼らに知らせてください。
 
今の時代も、主を恐れない者たちや、まことの神に敵対する国、王たちは、多い。
私達は、主の御名が侮られないために、また、神の民を蹂躙する罪を犯させないために、彼らが主の前で恥を見、懲らしめを受け、そうして、主はあなどられるようなお方ではない、という事を思い知り、そして、救いに導かれるように、と、祈る事も、また必要である。

詩篇講解説教

「あなたがたは神々(エローヒム)である。」これいかに?(詩篇82篇)

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この詩篇は、不正や悪を行っている権威者や指導者たちに対する警告であり、真の裁判官であられる神が真のさばきを行う事を示す内容である。
しかしこの箇所は、異端が「人も神になる」という強引な解釈をするための裏付けとするために引用される事も多々あるため、詳しく見て行きたい。
 
82:1a 「神(1)」は「神(2)」の会議のなかに立たれる。「神(3)」は「神々(4)」のなかで、さばきを行われる。
 
(1)の「神」の原語は、エロヒーム(אֱלֹהִים)である。
あの天地を創造した三位一体のまことの神、として用いられるのがメインだが、崇高な者達の意味があり、時には、行政を行う人に対し尊敬を込めて「エローヒム」と呼ぶ事もある。(ストロング辞書)
つまり、ユダヤでは、裁判する人が「エローヒム」(いわば「神々」)と呼ばれる事があるのだ。
 
なお、KJVでは、エローヒムをジャッジ(士師、裁判官)と訳した箇所は、5回ある。(Exo_21:6, Exo_22:8, Exo_22:9, Exo_22:9, 1Sa_2:25)
 
(2)の「神」の原語は、エル(אֵל)。元々は、力、強さ、という意味だが、そこから天地を創造した三位一体のまことの神と訳される。
(3)の「神」は、原文には無くて、日本語聖書の補助的意訳である。
(4)の「神々」は、エロヒームである。
 
つまり、ここで用いられているエローヒムという語は、全能の神の事をあらわすものではないし、天使たちや神に似た霊的存在の事でもない。
 
もしここのエロヒームが、そうした超人間的・霊的崇高な存在なら、7節の内容と矛盾する事になる。
そもそも、そのような存在は、3−4節に書かれてあるような、人の間で裁判なぞ、していない。今までの歴史で、人の裁判に、超人間的・霊的崇高な存在が裁判したなぞ、聞いた事は無い。
 
だから、1節のエローヒムは、必然的に「人間の裁判官」の事を言っており、1節は、次のように訳す事が妥当であろう。
「崇高な者達は、力強き集会の中に立ち、裁判官たちの間で裁判を行う。」
 
2節以降では、そのような「エロヒーム(裁判官)」と呼ばれている人間達が、不正な裁判をしている現状を、詩篇の作者が責めているのだ。
 
82:2 「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ
82:3 弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。
82:4 弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。
 
ここでは「さばき(シャファット)」が頻出している。
すなわち、ここはエロヒーム(裁判官達)と呼ばれる者達に対する指摘である。
 
あなた方は、いつまで不正な裁判をしているのか、神の民をさばく裁判官たる者は、むしろ、公平な裁判をし、弱い人達を救い出すのが仕事ではないか、と。
 
82:5 彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。
 
彼らは、自分が悟りがなく、暗闇の中をさまよっている事さえ知らない。
しかし、彼らがしている不正な裁判によって、地は、揺れ動いているのだ。
 
 
82:6 わたしは言う、「あなたがたは「神(5)」だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。
82:7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。
 
(5)の「神」もエローヒムであるが、前後の内容から、人間の裁判官たちが自分たちはエロヒーム、いと高き者たちであるかのように振る舞ってはいても、結局は人のように死んで倒れる、という事を言っている事がわかる。
 
イエス様は、この7節を引用された事があり、その事も、異端がよく勝手な解釈している箇所である。
その箇所は、ヨハネ10章である。
 
ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
10:34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
10:36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
 
上記、34,35節で「神々」と訳されたギリシア語は、セオス(神)の複数形であるが、セオスの複数形の特殊用法として、「神の代理者、神を代表して裁きを行うさばきびと」と訳す事がある。(織田昭著 新約聖書ギリシア語小辞典)
 
この箇所は、イエス様の痛烈な皮肉が込められている。
そしてその皮肉の内容は、ヘブライ語・ギリシア語ではわかるが、日本語ではわかりにくく、訳し方によっては、多くの人の誤解を招きかねない内容である。
その「皮肉」とは、「エロヒーム」や「セオス」には、「神」と「裁判官」という二つの意味があるヘブライ語・ギリシア語圏の人にしか分からない「当て字的皮肉」であり、それ以外の原語では、その皮肉は通じにくい。
 
紐解いていこう。
 
イエス様は、まごう事なき、全能の父なる神の御子であり、「わたしと父は一つです」と、30節で示された。
そう、私達クリスチャンは、イエス様は生ける神の御子、キリストであると認め、信じている。
 
しかし、ユダヤ人の主だった人たちは、イエス様をキリストとは認めず、「自称」神の御子だと言って冒涜している、と言った。
 
そんな彼らに対し、イエス様は、くだんの詩篇82篇を引用して、痛烈に批判したのである。
すなわち。
 
あなたたちの「裁判官」でさえ、エローヒム(神々)と言われて、神扱いもされもしているが、それでいてあなたたちは、裁判の中においては、不正も働いている。
そんな現状なのに、あなたたちは、彼らエロヒームと呼ばれている裁判官には、「冒涜している」とは言わずに、かえって、何も悪い事をしていないわたしに、さらには、キリストである証拠のしるしや奇跡を示した、このわたしに対しては「冒涜」と言っている、と。
 
事実、イエス様は石打にされるような悪い事は何一つ行っていない事を、彼らは認めているし(33節)、またイエス様は、キリストである事を示すために、多くの証拠のしるしや奇跡を起こし、多くのよいわざを為した。
 
そういうわけで、イエス様は、まさに今この場面において、彼らが行っている「不当な裁判」について、
そのまんまの事が書かれてある詩篇82篇を引用し、彼らの欺瞞を暴いたのだ。
 
彼ら自身は、神に代わって正当な裁判をしなくてはならない、というのに、自分たちの不正には目をつぶっていて、それでいて、真に神の御子・キリスト・イエスには、冒涜罪を着せようとしている!と。
 
 
ところで、今までの歴史で、多くの異端は、これらの記事を自由に解釈し、人は神になる、と言って来たが、果たして聖書は、人間は、神と同等、あるいは同質になれる、という事が、言いたいのだろうか?
全く逆である!
 
聖書が、より多くの分量を割いて、命じている事は、そのように高ぶってはならない、という事だ。
むしろ、自分を低くし、神の御前にへりくだるように、という趣旨のほうが、多く書かれてある。
 
そのような中から、このような、わずかな箇所をフォーカスし、つまみ上げて、「人は神になる」と高々に言う者は、どこから来た者達であるのか。
聖書は指摘している。
自分を高く上げ、自分を神のようにしようとする者、賛美と栄光を自分に集めようとする者は、サタンに類する者である事を。
 
エデンにおいて、蛇(サタン)がエバを誘惑した内容は、「あなたは神のようになれる」だった。
サタンはまた、「自分は天に登ろう、はるか上に王座をもうけ、いと高き方のようになろう」と、心の中で言った故に、投げ落とされた。(イザヤ14:13-15)
パウロも言っている。
終わりの日には、背教を起こす者が起こり、その者は自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言するから、誰も騙されないようにしなさい、と。(2テサロニケ2:3-4)
 
私達は確かに、イエス様を信じて神の子とされた。
それは、私達が神のように高くなって、ふんぞりかえって、栄光と賛美を自分へ集めるため、では決してない。
 
むしろ、神の代理として、正しいお方から権威が与えられ、それを行使して、正しく世をさばき、弱い人達を救い出すのが、私達の仕事である。
神の子になる、とは、きよさにおいても、誠実においても、柔和さにおいても、キリストらしくなる、という事である事を、忘れてはならない。
 
ルカ6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
 
エペソ5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
5:2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
5:3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
5:4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
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