メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
「演歌の祈り」と「下さいの祈り」、そして「ダビデの祈り」(詩篇13篇)
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表題: 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
詩篇13篇もダビデの賛歌で、彼に悩みがある時の祈りである。
短い祈りではあるが、三つの段階があって、段を進んで行くごとに、成熟した祈りへと発展して行く。
13:1 主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。
13:2 いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。
まず、第一段階目の祈りは、主に対する感情的な訴えで始まる。
そしてこの段階では、「いつまでですか」という訴えが四回出てくる。
最初の訴えは、「とこしえにわたしをお忘れになるのですか」というものだが、主は、主の民を決して忘れたり見捨てたりする事の無いお方であると書いてあるので、それは真理ではない。
ただこの時、ダビデは主から「とこしえに」忘れられているかのような気分になっているのだ。
2つ目の訴えは、「み顔をわたしに隠されるのですか」である。
もし主が御顔を隠される、とするなら、主の恵みと平安が、全く無い状態である。
民数記6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。
6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」』。
ダビデは、主があたかも御顔を隠していて、恵みも平安も一切無いかのように思えている状態なのだ。
以上のように、1つ目と2つ目の訴えは、真実に基づいていない訴えであるが、それらの原因は、以下の3つ目の訴えから見出す事が出来る。
13:2 いつまで、わたしは魂に「痛み(アツァー:アドバイス、カウンセル、プラン)」を負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。
ここは、KJVでは「How long shall I take counsel in my soul」、すなわち言い換えてみるなら、この3つ目の訴えは、私はいつまで、自分で自分の魂にカウンセリングをし続けなければならないのですか、というものである。
つまり彼は、心の中でぐるぐると思い巡らせている状態なのだ。
井の中の蛙大海を知らず、ということわざがあるが、ダビデはこの時、悩みの井戸の中でぐるぐると周り、自分で自分にマイナスのカウンセリングをひたすらし続けていて、主の恵みの大海には全く目を向けていない状態だ。
4つ目の「いつまでですか」の訴えは、敵が彼の上にあがめられている状態を訴えるものである。
自分の思いの中でぐるぐるとマイナス感情を巡らせていると、敵が大きく見えてしまうものである。
クリスチャンの中に、この、2節までの祈りで終わらせてしまう人がいるが、これはただ自己悲哀の「演歌の祈り」である。
捨てられた、どうして、いつまで、という悲哀にどっぷりと浸って酔っていて、信仰を奮い立たせる気色が全く無いとするなら、逆に主のほうから「いつまで」と訴えられてしまう。
しかし3節以降、ダビデの祈りが変わる。
13:3 わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
13:4 わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、わたしのあだは、わたしの動かされることによって/喜ぶでしょう。
ダビデはここで、わたしに目を注いで答えて下さい、死の眠りに陥ってしまう前に、わたしの目を明らかにして(輝かせて)ください、と、願い求めている。
私達はどうする時、目が輝くか。
1サムエル記14:29 ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。
ヨナタンは、蜜を少しなめただけで、目がはっきり輝いた。
まことの蜜は御言葉であり、もし御言葉に対する完成が曇っているなら、死の眠りへと陥ってしまう。
父サウル王は目が曇っており、本来、力を蓄えて戦うべき時に断食を布告してしまうような、かなりの「死の眠り」に陥ってしまっていた。
1サムエル記14:24 しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。
14:25 ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。
14:26 民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。
14:27 しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。
14:28 その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。
14:29 ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。
14:30 まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。
サウル王が、時でない時に無駄な断食布告をしてしまったのは、主に聞かず、人や状況だけを見て右往左往し続けたから、目の輝きを失い、霊的に曇らされて、このような迷走を続けたのだ。
それはやがて、死の眠りへと、陰府(シェオル)へと、落ち込んで行ってしまう。
サウルとシェオルは、ヘブライ語で同じスペルであり、それは、もし私達もサウルの道をたどるなら、シェオル(陰府)へと落ち込んでしまう、という警告である。
私達は御言葉を求めるべきである。
それこそあらゆる物事に対して目が開かれ、為すべき事と為してはならぬ事の見分けがつき、的を射た歩みが出来るのだ。
ダビデは3-4節において、何々して下さい、という「くださいの祈り」をした。
クリスチャンの多くはこの「下さいの祈り」で終わってしまい、信仰告白や感謝、賛美へと至っていない場合が多い。
しかしダビデは5節以降、さらに進んで、信仰告白と賛美と感謝の祈りをする。
13:5 しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。
13:6 主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。
ダビデは主に信頼し、主の救いを喜び、主に感謝の賛美を捧げた。
いつまでも悲しんでいてはならない。なぜなら、主を喜ぶ事こそ、力の源なのだから。
ネヘミヤ記8:10 そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
ダビデは祈る時、決して演歌節で終る事なく、あるいは「下さい」の祈りで終る事もなく、いつも、感謝と賛美を捧げる所までしている。
たとえ最初はいかに演歌節であったとしても、最後は賛美と信仰告白で終る祈りこそ「ダビデの祈り」であり、「上等の祈り」である。
詩篇を読んでいると、ダビデはいつも弱気で悩んでいるかのように見えるが、サムエル記のダビデはいつも連戦連勝で、勇者としての輝かしい実績が記されている。
ダビデの連戦連勝の影には、彼の心に抱えていた悩みや不安、恐れを、全部神様に持っていき、そして御言葉宣言と信仰告白という、「上等の祈り」があったのだ。
それで彼は、信じたとおりになったのだ。
イザヤ55:10 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。
55:11 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。
2節までの演歌の祈りで終わる人は、小さい悩みの井戸の中を、いつもぐるぐる廻る生活をしている。
4節までの「下さい下さい」の祈りで止まっている人は、感謝、賛美へと至らない不完全燃焼の祈りであり、あまり実を結ばせない人生である。
しかし「ダビデの祈り」、感謝、賛美へと至る「上等な祈り」をする人は、多くの実を結び、信じた通りになり、信仰においても実際の生活においても連戦連勝の有意義な人生を送るのだ。
頑として自分の計画に従い、悪い頑なな心のままを行う者(エレミヤ書18:11-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エレミヤ書
- 執筆 :
- pastor 2018-9-5 20:54
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頑として自分の計画に従い、悪い頑なな心のままを行う者(エレミヤ書18:11-23)
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主により頼む者に与えられる保証(詩篇11篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
11:1 わたしは主に寄り頼む。なにゆえ、あなたがたはわたしにむかって言うのか、「鳥のように山にのがれよ。
詩篇11篇は、ダビデがサウル王から逃れていた時のものとされている。
ダビデにアドバイスする人は言う。「鳥のように山にのがれよ。」と。なぜなら、以下のたくらみがあるからだ。
11:2 見よ、悪しき者は、暗やみで、心の直き者を射ようと弓を張り、弦に矢をつがえている。
11:3 基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか」と。
無垢な人と悪をたくらむ人とが相対する時、どうしても正しい者のほうが弱く見られがちである。
ことさら、闇からひそかに正しい者を狙い撃ちするような、卑怯な手段を取る場面を想定させられてしまうなら、人は結局、何の為す術もないかのように思わされてしまう。
しかし、このアドバイスをする人の根底に流れているのは「恐怖」であり、この言葉を受けた人に恐怖生み出させ、それに従うなら、根本解決無き、ただ悪者に振り回される生き方を送る以外に無い。
ダビデは、既に結論を出している。
「わたしは主に寄り頼む。」と。
暗闇由来の矢を防ぐために、ダビデは、最善の方法をとったのだ。
エペソ6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
6:14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
6:15 平和の福音の備えを足にはき、
6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
暗闇からの火矢を消すのは、信仰の大盾であり、そして矢を放つ者に対する攻撃の武具は、御霊の剣、すなわち神の言葉である。
ダビデは4節以降、神はいかなるお方であるかを告白し、闇に対して御言葉の剣を差し突きつける。
11:4 主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。
ダビデがより頼む主は、聖なるご性質であり、天に御座を据えておられる。全宇宙も、この御方をお入れする事はできない。
神こそ、全宇宙が存在する前から存在し、これらを創造したお方だからだ。
その神が、全地をあまねく見渡し、心が主に向かっている人を探し求められる。
11:5 主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
11:6 主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。
主は確かに悪者の上に災いを降り注がれる。(詩篇105:32; 創世記19:24; 出エジプト記9:23-24; エゼキエル38:22)
ダビデは御言葉を信仰を混ぜて宣言し、敵に剣を差し伸べ、そして信仰の大盾をかかげ、心が刺し貫かれる事が無いよう防御を張った。
すると実際、その通りになり、ゆえなくダビデを追い回したサウル王は倒れ、代わりにダビデが王となった。
11:7 主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。
「直き者」が受け継ぐ分と、悪しき者が受け継ぐ分について、ダビデは37篇でも記している。
37:35 わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
37:36 しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37:37 全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
37:38 しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。
一見すると、悪しき者と直き者が相対した時、悪しき者のほうが強いように見えても、実際、残って子孫が増えていくのは直き者で、悪しき者は絶たれて子孫も残らない。
もし世界が、邪悪な者の卑劣と悪辣さが強い者が勝ち残って行く法則であったとするなら、とうの昔に人類はいなくなっている。
ところが今なお人類が生きているのは、悪しき者が必ず滅びるように、そして正しい者が必ず報われるように、世界の均衡を保っておられ法則を定めておられるお方が、正しく力をもって統治をしておられるからだ。
御言葉の法則によるなら、正しい者や柔和な者が地を相続し、彼らは永遠に主と共に統べ治める事になっている。
黙示録2:26 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
2:27 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
ダビデにアドバイスした人は、悪者の強大な罠から、ただ逃れるようにと言った。
しかしダビデは、全てを支配しておられる主を拠り所とし、御言葉の剣を差し出した。
その結果、ダビデが宣言した通りになった。
全てを見ておられる主の御前で、主により頼み助けを求める者に対し、闇から矢を射掛けようなどと思う者は、牝熊を目の前にしながら子熊をさらって行こうとするような者である。
その者は確かに打たれ、主により頼む者は確かに助けを得るのである。
悪者の人生の前提条件=「神はいない」(詩篇10篇)
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詩篇9編では、国々への正統なさばき、即ち、主の慰めが宣言されていたのに対し、10編は、神の民の間に入り込んでいる悪者を訴える祈りが記されている。
詩篇10編は表題が無く、9編と形式・用語に共通点が見られるためか、70人訳では、9編と10編が1つの詩篇とされている。
そうだとするなら、10編もダビデが記したものである。
この詩篇10篇は、きれいな「起承転結」を形成しており、その「起」の部分、すなわち1-2節は、主に対する訴えによって始まる。
10:1 主よ、なにゆえ遠く離れて/立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。
10:2 悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます。どうぞ彼らがその企てたはかりごとに/みずから捕えられますように。
悪しき者が、貧しい者を激しく攻め立てていて、何ら裁かれる事なく、のさばっている。
彼らはいかなる者で、どんな事をしているか。
続く「承」にあたる3-11節に記されている。
10:3 悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる。
10:4 悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて「神はない」という。
「神はない。」
これこそ、悪者の行動規範であると言って、過言ではない。
つまり全能者への恐れや、神の正しいさばきの概念が、欠如しているのだ。
高慢が顔面にそのまま凝り固まってしまったような人がいるが、彼らがいつも自信たっぷりであるのは、恐れを克服するために鍛錬したからではない。
彼らにはそもそも、主を恐れるという感覚が欠如しているのだ。
10:5 彼の道は常に栄え、あなたのさばきは彼を離れて高く、彼はそのすべてのあだを口先で吹く。
10:6 彼は心の内に言う、「わたしは動かされることはなく、世々わざわいにあうことがない」と。
平気で万引きができる人は、「見つからない」「裁かれる事は無い」という、根拠なき思い込みがあるからだが、悪しき者が持っているその「自信たっぷり感」は、正しいさばきをされる神という概念が存在しない事に拠る。
それだから彼らは、躊躇なく、罪の大海へとダイブできてしまうのだ。それは実に愚かな事である。
主を知っている人は、主は全能であり、いつも見ておられ、正しく裁かれる、という前提がその心にあるから、罪の大海へおいそれとダイブなどできない。
10:7 その口はのろいと、欺きと、しえたげとに満ち、その舌の下には害毒と不正とがある。
条件反射的に口汚い言葉、下品な言葉、のろいの言葉、人をしいたげる言葉を発する人は、舌の下という隠れた所に害毒と不正を潜ましているのが原因である。
10:8 彼は村里の隠れ場におり、忍びやかな所で罪のない者を殺す。その目は寄るべなき者をうかがい、
10:9 隠れ場にひそむししのように、ひそかに待ち伏せする。彼は貧しい者を捕えようと待ち伏せし、貧しい者を網にひきいれて捕える。
彼らは、神の民の集会の真ん中には決して入って来ない。
いつもはずれの方、ひそかな所に座し、そこで「貧しい者(アニィ:悩む人、落ち込んだ人)」を捕らえようと、うかがっている。
彼らが神の民の中に入り込んでいるのは、一緒に礼拝したり賛美したりするためでなく、弱っている人、悩みに落ち込んだ人を食い物にするため、すなわち、獅子が獲物となるべき弱い獣を待ち伏せするのと同じ動機をもって、じっくり「人」をうかがうのである。
10:10 寄るべなき者は彼の力によって/打ちくじかれ、衰え、倒れる。
10:11 彼は心のうちに言う、「神は忘れた、神はその顔を隠した、神は絶えて見ることはなかろう」と。
このようにサタンに類する人は、悩む人、落ち込んだ人をいつも探し回り、その人を見つけたなら闇の自分の所に引き寄せ、食い物にしてしまう。
だから私達は、不安や悩みを思い巡らして心に場所取りしないように、祈りによって対処すべきだ。
ダビデは心配ごとをよく主に申し立て、彼を追求する敵を主に訴えていた。
12節から15節が、起承転結の「転」の部分で、主に対するの訴えの祈りが綴られている。
10:12 主よ、立ちあがってください。神よ、み手をあげてください。苦しむ者を忘れないでください。
10:13 なにゆえ、悪しき者は神を侮り、心のうちに/「あなたはとがめることをしない」と言うのですか。
10:14 あなたはみそなわし、悩みと苦しみとを見て、それをみ手に取られます。寄るべなき者はあなたに身をゆだねるのです。あなたはいつもみなしごを助けられました。
10:15 悪しき者と悪を行う者の腕を折り、その悪を一つも残さないまでに探り出してください。
主は、みそなわされるお方、見ておられるお方である。悪者は、主は見ていない、というが、いや、生きておられる神は、全ての物事を見ておられるのだ。
密室で話されたことも、人の心の内のめぐらされた言葉も、全部知っておられる。
そして主は、正しくさばきを行われ、悩み苦しむ人を見て御手を差し伸べられる。
寄るべなき者は主に身をゆだね、いつもみなしごを助けられる。
そして結論部分は、主が正当にさばいて下さる事の確信の祈りである。
10:16 主はとこしえに王でいらせられる。/もろもろの国民は滅びて/主の国から跡を断つでしょう。
10:17 主よ、あなたは柔和な者の願いを聞き、その心を強くし、耳を傾けて、
10:18 みなしごと、しえたげられる者とのために/さばきを行われます。地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう。
こうして、祈りによって悪人に対する患いは解消された。
私達も、心配ごとが頭の周りを飛び回っている時、祈りによって対処すべきだ。
ピリピ4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
思い煩いは、私達の頭と心を、そして体を傷つける。
それを守る、唯一の方法が、祈る事なのだ。
国々を正当にさばかれる主と、「言いつけ上手」「訴え上手」なダビデ(詩篇9篇)
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- 執筆 :
- pastor 2018-8-31 9:10
国々を正当にさばかれる主と、「言いつけ上手」「訴え上手」なダビデ(詩篇9篇)
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9編の表題は「聖歌隊の指揮者によってムツラベンのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌」である。
ムツラベンのしらべは、どのようなメロディだったのだろう。
ムトは「死」、ラ・ベンは「息子の」の意味であり、また16節には「ヒガヨン・セラ」という、聖書中ここにしかない「セラ」があるが、ヒガヨンの意味は「荘厳な」「瞑想」の意味である。
以上を考えると、ムツラベンのしらべは、荘厳で重々しいメロディだったのだろう。
その荘厳な雰囲気の中でダビデが歌わせた詩篇9編のテーマは、主は正当に裁かれるお方である、という内容である。
9:1 わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざを/ことごとく宣べ伝えます。
9:2 いと高き者よ、あなたによって/わたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名をほめ歌います。
ダビデはまず最初に、主への感謝と賛美で始める。
彼を憎んで滅ぼそうとする者達や国々があるのだが、それを訴える前に、主の素晴らしい御業と正当なさばきをほめたたえている。
9:3 わたしの敵は退くとき、つまずき倒れてあなたの前に滅びました。
わたしの敵、イコール神の敵である。
ダビデはいつも、主の御言葉が成る事、御胸の成る事を求めていたからだ。
9:4 あなたがわたしの正しい訴えを/助け守られたからです。あなたはみくらに座して、正しいさばきをされました。
ダビデはここでも自分の訴えを「正しい」としているが、その根拠はどこにあるのか。それは、彼が主に寄り頼んでいる事である。
主に尋ね求める者こそ、正しいとされる。
子供が人の家のガラスを割ってしまった場合、子供は親に泣きついて訴える時、親は代理で謝罪し、償いをし、そして子供のガラスを割ってしまった事は、相手の前で赦される。
同様に神は、罪を犯してしまった人類のためにイエス・キリストを遣わし、彼が代理で罰を受け、償いをし、父なる神をなだめた。
だから、イエス様に泣きついてくる人々、すなわち、イエス様を主とする人を、神は赦し、義として下さるのだ。
親の助けをよく呼び起こす子供とは「言いつけ上手」「訴え上手」の子であるが、ダビデはまったく主に対して「言いつけ上手」「訴え上手」である。
悩んだ時も、喜んだ時も、家庭の問題も、国家の問題も、なんでもかんでも主に持って行った。
9:5 あなたはもろもろの国民を責め、悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。
9:6 敵は絶えはてて、とこしえに滅び、あなたが滅ぼされたもろもろの町は/その記憶さえ消えうせました。
歴史の闇へと葬り去られた国や民族、人々は、多々ある。
特に、主に従わない者、御民をいじわるする者は、そのようにされる。アッシリヤやバビロン、ペリシテ人、イドマヤ人などはまさにそうだった。
主は正当なさばきをされる事が、7-9節に記されている。
9:7 しかし主はとこしえに、み位に座し、さばきのために、みくらを設けられました。
9:8 主は正義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9 主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。
さばきは恐ろしげに聞こえるかもしれないが、正しい人にとっては、神の正しいさばきは、実は慰めである。
ナホム書という書が聖書にある。
ナホムの名前の元は「ナハム(慰め)」、そのまま「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのだろう?
アッシリヤは、残虐さを売り物に、各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。
一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、神に挑戦する程になった(イザヤ36-37章)。
それで神はアッシリヤを処罰する。アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は手を叩いて喜んだ。
誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたから、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。
9:10 み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨てられたことがないからです。
ここが9扁の中で重要な節である。
ダビデは、主に寄り頼み、主に尋ね求める事によって、正しいとされた。
主をより頼む者の幸いについて、詩篇34編に記されている。
34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。
ダビデは、主に求めた。
すると主は答え、彼を全ての恐れから助け出された。
34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
34:9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
34:10 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。
主を尋ね求める者は、ますます主の恵み深きことを味わい、乏しい事はなくなり、良いものにかける事は無い。
主を仰ぎ見るなら、光を得、恥じる事はなくなる。
苦しむ時、主を仰ぎ見て呼ばわるなら、主は聞いて、悩みから救い出して下さり、主は御使いに命じて、その人の周りに陣営を巡らし、助け出される。
このように、主を尋ね求める人、仰ぎ見る人は幸いを得るのだ。
それでダビデは、御前に大胆に進み出て、賛美し、礼拝できたのだ。
ダビデは11節以降、賛美している。
9:11 シオンに住まわれる主にむかってほめうたい、そのみわざをもろもろの民のなかに宣べ伝えよ。
9:12 血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。
ダビデは連戦連勝の王、強く富んだ王の中の王、というイメージがあるかもしれない。
しかし詩篇を見ていると、どうも彼は貧しくて弱くて、悩み苦しみが多い人なのではないか、と思えるような記述がたくさんある。
ダビデについて何の前知識もない人が、はじめて詩篇を読んだとするなら、彼は貧しくて弱い者ではないか、と思われるかもしれない。
しかし、それ程彼はいつも「心の貧しさ」を覚えていた、という事の証左であり、それこそ、ダビデが偉大でありつづけた所以である。
以下のように書いてある。
マタイ5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
「こころの貧しい人」とは、直訳的には「霊がこじきである者」「霊がからっぽな者」である。
彼は、主なくしては何も出来ない「霊の貧しさ」を、いつも覚えていた。
他の王達は、神から祝福され、富や力を持ち始めると、それを誇って神から遠ざかって行ったが、ダビデは違った。
彼も確かに王として栄えたその頂点で罪を犯したが、しかしその罪を指摘された時、すぐに悔い改め、しばらくは涙の日々を送って行った。
彼は生涯、霊における貧しさをいつも覚えており、いつも神に求めていたからこそ、彼は主から愛され、主によっていつも高められていたのだ。
9:13 主よ、わたしをあわれんでください。死の門からわたしを引きあげられる主よ、あだする者のわたしを悩ますのを/みそなわしてください。
9:14 そうすれば、わたしはあなたのすべての誉を述べ、シオンの娘の門で、あなたの救を喜ぶことができましょう。
シオンとはエルサレムの神殿の丘、すなわち神を礼拝する場所である。
彼の心はいつも、そこにあった。だから彼は、いつでも主との交わりを持っていた。
9:15 もろもろの国民は自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕えられる。
9:16 主はみずからを知らせ、さばきを行われた。悪しき者は自分の手で作ったわなに捕えられる。〔ヒガヨン、セラ
16節には「ヒガヨン、セラ」という、聖書中ここにだけ出現する言葉が記されているが、ヒガヨンは「荘厳な、瞑想」である。
セラはモードチェンジのサインだが、「荘厳にムードチェンジせよ」という意味であろうか。
だから17節以降は、厳かな心持ちで読むべきである。
17節以降は、神と人との、そして神と国々との、恒久的な法則が記されている。
9:17 悪しき者、また神を忘れるもろもろの国民は/陰府へ去って行く。
9:18 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。
現代に至るまで、数多の国々・民族が栄えては衰え、ある国や民族は、歴史の闇へと葬り去られて行ってしまった。
どんなに大国と呼ばれる国であっても、弱く貧しい者や苦しむ者を顧みず、神の御胸に反する事を続ける国は、必ず長続きせず、歴史の闇に葬り去られてしまうのだ。
アッシリヤのように、暴力や残虐さを売りにして他を恐れさせ君臨する国は、一時期栄えても、必ず滅んでいった。多くの人々の叫びが沸き起こるから、神が栄えさせないのである。
そして主は、神の御胸どおり歩もうとする国を祝福し、栄えさせて下さる。
ローマ帝国は、聖書の教えに忠実に歩んでいる内はどんどん祝福され栄えて行ったが、欺瞞がはびこり、聖書では明らかに悪と見える事が蔓延しだした時から暗黒時代に突入した。
アメリカも建国当初、聖書を中心として国家運営を成そうとして行ったため、建国以降の短期間にキリスト教国として大いに栄えたが、しかし1960年代以降、色々な宗教を取り入れて当初のスピリットを忘れてしまったため、その栄えに黒雲が立ち込めてしまっている。
9:19 主よ、立ちあがってください。人に勝利を得させず、もろもろの国民に、み前でさばきを受けさせてください。
9:20 主よ、彼らに恐れを起させ、もろもろの国民に/自分がただ、人であることを知らせてください。〔セラ
19,20節の「人」はエノーシュ、「死ぬべき人間」という意味である。
人は、覚えるべきである。自分がはかない存在である事を。
主こそ王であり、正しくさばきをし、この主により頼む者こそが、幸いである事を覚えるべきだ。
ダビデは歴史を支配しておられ、正当にジャッジされる主を覚えよ、と、国々に警告した。
キリストにあって王とされ、祭司とされた者として、王のため、国々のために執り成し、祈るべきだ。
世の中のあらゆる事を、ダビデのように、何でも主に言いつけ、主との交わりを深めつつ、身の回りを正当に治めつつ歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
人とは一体何者なのでしょうか(詩篇8篇)
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詩篇8編もまたダビデの作で、新約聖書の各所で引用されている。
彼はこの詩篇で、神の創造の素晴らしさを見るに、自分たち人間にこれらのものを委ねられたとは、いかに驚くべき事だろう、と、驚嘆を記している。
聖歌隊の指揮者によってギテトにあわせてうたわせたダビデの歌
8:1 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
8:2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
イエス様は宮清めをした時、この箇所を引用した。
マタイ21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
祭司長や律法学者達が憤慨したのは、彼らはイエス様をメシヤだと認めていないから、というのもあるが、彼らは、賛美は信仰が熟練した者にこそふさわしい、未熟な者がおいそれと口にするべきものではない、と思っていたからだ。
もし彼らが考えるように、お金持ちや力ある者にしか主を讃えられない、とするなら、どんなに空しいだろう。
しかし書いてある。主は、幼子の口を通して栄光をお受けになるのだ。
8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
私達が、今こうして目で見、触れるられるすべてのものは、神の指のわざである。
天にある月や星も、また、地上において触れられるものも。すべて生きているものも、生きていない物質も。
これらはよく見て調べ、分析する程に、なんとうまく出来ていて、精巧につくられているのかに驚嘆し、創造主の素晴らしさを讃えずにはおられない。
もしこれらを目の当たりにしておきながら、「偶然の産物」だと言う者は、よほど、神には居てほしくない者、創造主を認めたくない者である。
8:5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
8:6 これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
8:7 すべての羊と牛、また野の獣、
8:8 空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
ダビデは、創世記の記述を思い起こしていただろう。
そこには書いてある。全被造物は、全て、人間に委ねた、と。
創世記1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
太陽や月、星が創られた目的は、「季節(モエド:約束、祭り、しるし)のため、日のため、年のため」である。(創世記1:14)
すなわち、天にあるあの巨大なスケールの全ての光明体は、人が神との約束された年、日、時間に、「祭り(モエド)」という交わりを行うのに役立てるために、わざわざ創られたのだ。
まさにダビデが告白している通りである。
8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
8:4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
これら何億光年というスケールの品々は、なんと、神の「指のわざ」である。神はそれを創るのに、指一つで出来てしまう。
しかしそれに引き換え、人の贖いのためには、イエス様は神の座を降りて、人となられ、人のために手足を釘付けにされ、自らのいのちを差し出してまで、救おうとされた。
まことに人とは、一体、何者だろうか。このような者に、そこまで顧みられるとは。
私達は、自分で自分の評価を降して、勝手に自分の通信簿をつけるべきでない。
必要なのは、神様が、キリストにある私達を、どのように評価をしてくださっているのか、すなわち、まことの通信簿である聖書を通して、自己評価すべきだ。
通信簿はギリシア語で「エレグコス」、この言葉はヘブル11:1で次のように記されている。
ヘブル11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を「確認(エレグコス)」することである。
聖書に記されている内容は、私達がまだ見たことも聞いたことも、経験した事も無いことばかりかもしれない。しかし私達が聖書の内容を確信し、確認する時、それら真理のことばが、目の前の現実を揺り動がし、信じた通りに成り、救われるのである。
それは、目の前で起きている現実よりも、書かれてある真実のほうが強いからであり、世の中の目に見えるものは、見えないことばの実体化だからである。
言われている。
1コリント3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
私達は、キリストにあるなら、神を宿している「歩く神殿」である。
キリストを受け入れた人、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権が与えられた(ヨハネ1:12)、と書かれてある通りである。
目の前に起きている現実は、必ずしも御言葉の通りではない。
ヘブル2:6 聖書はある箇所で、こうあかししている、/「人間が何者だから、/これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、/これをかえりみられるのだろうか。
2:7 あなたは、しばらくの間、/彼を御使たちよりも低い者となし、/栄光とほまれとを冠として彼に与え、
2:8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。
確かに私達は、「万物が人間の支配下で服している状況」は、見てはいない。
実際のところ、被造物は人間に牙をむき、地震や津波、台風など、諸々の自然災害に対して、人は無力である。
それはなぜか。それは、人が神の言葉に反した故、地は呪われてしまい、地は人間に対抗して「いばら」を生じさせるからだ。
救いは、ただ、イエスによるのみである。だから続いて次のように書いてある。
2:9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。
2:10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。
人が創世本来の支配権を回復できるのは、ひとえに、イエス様が人の罪を負って身代わりに死んで、よみがえられたゆえである。
万物を服従させるお方が、贖って下さったゆえである。
2:16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。
神が助けて下さるのは「アブラハムの子孫」である、と書いてある。
アブラハムの子孫とは誰か。
ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
アブラハムの子孫とは、イエス様を信じて義とされた私達である。
それで私達は、正当な支配権を得たものとして、この地を正当に支配して行くべきだ。
キリストにあって歩む人、御言葉に忠実な人だけが、この「正しい支配」が出来る。
神の子とされたキリスト者は、どんどん悪い者達の支配権を奪回してゆくべきであり、そうして多くの人と全被造物に慰めをもたらすべきだ。
被造物は、神の子達、すなわち、イエス様を信じるキリスト者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放され、神の子たちによる正当な支配に入る事、すなわち、アダム以来の呪いから解放される事を、切望している。(ローマ8:19)
ダビデは、神の素晴らしい御業を、ほめたたえずにはおれなかった。
8:9 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。
いつもキリストに留まり、正しく支配権を行使し、地上に慰めと平和を届ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
心が直ぐな人の幸い(詩篇7篇)
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ベニヤミンびとクシのことについてダビデが主にむかってうたったシガヨンの歌
7:1 わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、わたしをお助けください。
7:2 さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。
クシ(クシュ:黒、エチオピア人)と言われている人について、聖書の他の箇所には記述が無い。
彼はベニヤミン人とあるので、おそらくサウルに属する者で、主に油注がれて王となったダビデを妬んで彼を攻撃しているのかもしれないが、ダビデのほうは、彼から攻撃されるような思い当たるふしは、全く無い。
それでダビデは、殺意を持って彼が追い迫っているこの状況から救って下さい、と祈る。
7:3 わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、
7:4 もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、
7:5 敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。〔セラ
ダビデは、攻撃され追い回されたりされるいわれは全く無いにしても、このように宣言できるのはすごい、と思われるかもしれない。
人間は誰しも、叩けばホコリが出る存在である。この肉に、罪の棘が刺さっているからだ。
ダビデはなぜこんなに自信たっぷりに告白できたのだろう。
7:6 主よ、怒りをもって立ち、わたしの敵の憤りにむかって立ちあがり、わたしのために目をさましてください。あなたはさばきを命じられました。
7:7 もろもろの民をあなたのまわりにつどわせ、その上なる高みくらにおすわりください。
7:8 主はもろもろの民をさばかれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。
7:9 どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。
ダビデは「わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください」と言ったが、それは、根拠なしの「自分は義だ」という誇大妄想ではない。
確かに世の中には、罪を犯しても平然として、心に何の良心のとがめを感じず、やたら「わたしは悪くない」という根拠なき自信が強い人もいるが、そのように良心が麻痺した人は、真の義に至っていない。なぜならその人は、主の御言葉を前に自分を降ろしていないし、心を主に向けてもいないからだ。
しかしダビデは、主に対して「誠実」であった。
主に対して誠実な人とは、主の言葉を前に自分を降ろし、もし自分のしたい事と、御言葉とが競合するなら、自分を降ろし、御言葉のほうを優先させる人である。
その時、その人は主に対して心に責められる所が無いし、思い出してもいない罪をわざわざほじくり返す必要も無い。
自分を低くし、御言葉を信じて、信じた御言葉に誠実である人は、主の義がその人を覆う。(ルカ18:14、ロマ3:28)
ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
つまり、ダビデが言った「わたしの義」は、ダビデのがんばりや行い由来の義ではなく、ダビデの、神に対する信仰と誠実から来る義、すなわち、神に由来する義なのだ。
以下のように告白している。
7:10 わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。
私達は、大いに、神様に盾になってもらいたいと願う。
しかしそれには条件がある。それは、「心が、直ぐ」である事だ。
マタイ5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
ここの「清い(カサリオス)」とは直ぐな、単一な、ピュアな、純粋な、という意味である。
心が直ぐな人は、誤ちを指摘されたら、すぐに謝る。外面と内面が一致していて、裏表が無いから、何をするにもシンプルで、疲れない。
それとは逆に、心が複雑な人は、誤ちを指摘されると2,3秒の間、頭をフル回転させ、言い訳を考え出す。そういう人はいつも内面と外面が一致せず、複雑で疲れやすい。
ダビデは心が実にシンプルだったので、感謝にしても怒りにしても、全部そのまま主に持って行った。
主もまたそんな彼を、親が子に接するように、親密に接して下さった。
彼は、別の詩篇でも告白している。
35:23 わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。
35:24 わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき、わたしの事について彼らを喜ばせないでください。
彼はここで「主の義」に従って、わたしをさばいてください、と願い求めている。
ダビデの義の主張ではないから、シンプルに、大胆に、いつでも主に求める事ができるのだ。
35:25 彼らにその心のうちで、「あはぁ、われらの願ったことが達せられた」と/言わせないでください。また彼らに「われらは彼を滅ぼしつくした」と/言わせないでください。
35:26 わたしの災を喜ぶ者どもを/ともに恥じ、あわてふためかせてください。わたしにむかって誇りたかぶる者どもに/恥と、はずかしめとを着せてください。
35:27 わたしの義を喜ぶ者をば/喜びの声をあげて喜ばせ、「そのしもべの幸福を喜ばれる主は大いなるかな」と/つねに言わせてください。
ダビデはここでも、敵を恥じ入らせて下さるようにと、実に正直にシンプルに求めている。
さらに「わたしの義」を共に喜ぶ者と共に、主をほめたたえさせて下さい、と祈っている。
35:28 わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう。
ここをヘブライ語で見ると、
ウ・レショニ: そして私の舌は
テ・ハガー: 思い巡らす、互いに語る、つぶやく
チズケカー: あなたの義を
コール・ハ・ヨム: 一日中
テヒラーテハ :(ほめたたえる、賛美)します
ここの「ハガー」と「テヒラー」は詩篇の中でも重要なキーワードである。
ダビデは日夜、彼の舌から「主の義」を思いめぐらし(あるいは口ずさみ:ハガー)、一日中、主を思い、主をほめたたえて(テヒラー)いるのだ。
日夜主の言葉を口ずさんでテフィリンしている人は、主の言葉が宿り、それはすなわち主の義が宿り、それ故、御前に何の呵責なく進み出る事が出来、主と交わりができる。
テフィリンしている人は、その内に宿った御言葉が両刃の防護壁となり、誘惑や罪が潜入して来ようものなら、陣を組んでそれを追い出す。
そのような人は、主から「義」が与えられ、それがすなわち「わたしの義」となる。
だからダビデは、あれだけ大胆な事を言う事ができたのだ。
7:11 神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。
7:12 もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、
7:13 また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。
主が災いをくだされるのは、「悔い改めない」人にである。
悔い改めるべき事を先延ばしにすればするほど、その人を刺し貫く剣はどんどん研ぎ澄まされ、彼を射抜く弓矢は、ますますしぼられる。
いつ、彼を死に至らしめる火矢が放たれるのか、分からない状態であるが、悔い改めるなら、その張られた弓は、ゆるくなる。
7:14 見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、害毒をやどし、偽りを生む。
7:15 彼は穴を掘って、それを深くし、みずから作った穴に陥る。
7:16 その害毒は自分のかしらに帰り、その強暴は自分のこうべに下る。
悪人は、策略をめぐらしながら、うまく生きているかのように見え、そのうまさが巧みであるならあるほど、人生うまく渡り歩いているかのように見えるかもしれない。
しかし御言葉に照らし出すと、実はその者は、そうする毎に自分の頭に害毒を蓄えている事だと分かる。(詩篇137編)
だました事によって受けなくてはならないさばきは、正確に、だました側のほうへと行くのだ。
7:17 わたしは主にむかって、その義にふさわしい感謝をささげ、いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。
主は、義なるお方である。
その主から与えられた義によって、感謝のほめ歌を主に捧げるのが、私達キリスト者の姿なのだ。
罪を悔い改めの涙で寝床を漂わせたダビデ(詩篇6篇)
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ダビデが、ウリヤの妻・バテシェバと性的な罪を犯し、夫であり忠実なしもべであるウリヤを謀殺した後、預言者ナタンからその罪が指摘された時に祈った祈りが、詩篇51篇だった。
詩篇51篇は、彼の罪を悔い、悲しみ、罪に対してどうしようもない自分に恵みを施し、造り変えてくださるよう祈った祈りであるが、この詩篇6篇は、その続編とも言える。
彼はあのただ一度の祈りによって救いの喜びが返って来たのではなく、相変わらず、夜ごと、良心を責めさいなまされたのだ。
聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌
6:1 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。
6:2 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
ダビデは正しい良心を持っていた。それで、自分が犯した罪の重さ、大きさをずっと感じ続けていた。
ダビデは、人に対してのみならず、主に対して罪を犯したのだ。
預言者ナタンが来た時、彼は「主の言葉を軽んじ、主の目の前に悪事を行った」事を責めた。
2サムエル記12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。
そしてダビデ自身も告白している。
詩篇51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
まず、正しい良心が無ければならない。良心が無いなら、罪に対する悔いて悲しむ心は芽生えないからだ。
そして、一体誰に対して、どんな罪を犯したのかを告白しなくてはならない。
聖書には「ごめんなさい」という対象不明・宛先不明の謝罪は登場しない。聖書的謝罪とは、罪を犯して損害を与えた相手と、どんな罪を自分が犯したのか、明確にしているものなのだ。
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
私達も知っている。自分は、母の胎にいた時から既に罪を持っていたことを。
そしてその罪が、私達の内であばれてどうしようもない時、私達は自分の力では何も為す術が無い。
それでダビデは、ただ、主から与えられる一方的な恵みを求めている。
すなわち、ヒソプをもって清められる事、洗われる事、御顔を自分の罪から隠し、不義をぬぐい去って下さる事。自分にきよい心をつくり、新しい正しい霊を与えて下さる事。御前から捨てず、聖なる霊を取り去らない事、救いの霊を返し、自由の霊をもって、支えて下さる事。(詩篇51:7-13)
罪にどうしようもない自分のために、これらを与えて下さいと、ダビデは祈り、そして心責められる所一切なく再び御前で感謝が捧げられるようにして下さい、と祈った。(同14−19節)
6:4 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたを/ほめたたえることができましょうか。
彼は死を意識するほど、重い罪責感に押し潰されそうになっていた。
悔い改めるべきリミットがある。それを超えても悔い改めず、リミットを超えてしまうなら、もはや何も通じない死の時に入ってしまう。
ダビデはそこに、底知れぬ恐ろしさを覚えたのかもしれない。
ダビデは、滝のように涙を流して祈る。
6:6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。
6:7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。
ダビデは、彼の流した涙によって寝床がただようほどだった、と言っている。
いったい幾晩、その涙の夜々を過ごして来たのだろう。それは分からない。
私達も主から「祈りが聞かれた」という確信と平安が与えられるまで、祈るべきである。その時は、いずれ、必ず来るのだから。
6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。
6:10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。
ダビデは、祈りが聞かれた、という確信を得た。
それで彼は、悪を行う者達に離れていけ、と言う。
彼が自分の罪にしおれていた時、彼をよってたかってののしり、悪を行う者達もいたのだ。
罪責感に悩まされている間は、サタンの「罪定め攻撃」に対し、何の為す術も無い。
しかし悔い改めの祈りをし、主に聞き届けられた、という平安が与えられたなら、再び敵に立つ事ができるようになる。
主は詩篇を通して、私達に示している。
ダビデの罪を犯した様、悔いた様、そこから立ち直った様を。
これを通して、私達にも悔い改めによって立ち直る事ができる事を、教えている。
あんな事してしまって取り返しがつかない、という牧師や聖徒がいるとしても、その人が悔いて改めた様がはっきりしているなら、彼らを抱きしめ、交わりへと戻してやるべきである。
もちろんそれは、仲がいいからといって罪を見なかった事にするのではない。
聖書と照らし、悔い改める方法へと導き、その人がその方法に歩めるように、それを教える必要がある。
さばきは、神のみの権限であって、私達がする事ではない。
私達には、互いに勧め合い、教え合い、励まし合い、養い合い、助け合う事こそ、命じられているのだ。
朝明けの祈り(詩篇5篇)
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聖歌隊の指揮者によって笛にあわせてうたわせたダビデの歌
5:1 主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。
5:2 わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。わたしはあなたに祈っています。
5:3 主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのために/いけにえを備えて待ち望みます。
詩篇5篇は、朝明けの祈り(Dawn Prayer)と言われている。
夜番をする羊飼いにとって、夜明けの時は、待ち遠しいものである。
元々羊飼いだったダビデはは、その時から夜明け前に御前で祈る習慣を持っていたのだろう。
3節の「いけにえを備えて(アーラフ)」は、「準備する」の意味、「待ち望みます(ツァーファー)」は「前方に向く」「じっと見つめる」の意味である。
すなわちダビデは、一日の一番最初の時を主に捧げるために自分を整え、主をじっと待ち望んだのだ。
彼はこの時、彼を憎み、悪をたくらむ者によって、脅かされていた。
5:4 あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。
5:5 高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。
悪を行う者は、聖徒の集いに、そして神の御前に、立つ事ができない。
しかし主の民は、いつも御前を歩むようにと主から命じられている。
創世記17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
「主と共に歩む」事、これこそ、御前において全き者である。それは何も、罪を犯さない状態を続ける事ではない。
たとえ肉の情欲に飲まれ、まさに罪を犯しそうな瞬間でも、あるいは、犯してしまっている真っ最中であったとしても、心を主へと向け、神に喜ばれない罪を犯さざるを得ない自分を悲しみ、御前に憐れみを請い求める人こそ「主と共に歩む人」である。詩篇51篇は、ダビデがまさに罪を犯した時でも主と共に歩んだ結果生まれた詩篇と言える。
神と共なる歩みを積み上げれば積み上げるほどに、主はその人をますますきよい霊によってきよめ、喜んで仕える霊を送って、その人を支えて下さる。
逆に、いかに悪い事を「していない」状態が続いたとしても、あるいは、どんなに素晴らしい善行をしているとしても、心を主に向けない人は「主と共に歩まない人」、すなわち、義とはされない人である。
5:6 あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。
5:7 しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみ(ヘセド)によって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。
ダビデが宮に出て礼拝を捧げられるのは、まさに、神の豊かなヘセド(恵み、憐れみ、慈悲)によってである。
なぜなら、ダビデ自身も、人間である事には変わりなく、すなわち、罪人である事には変わりはないからだ。
5:8 主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
5:9 彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。
5:10 神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。彼らはあなたにそむいたからです。
ダビデはこの時、彼に悪をたくらむ人によって脅かされている状態で、その彼らに「その罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください」と祈っている。
それは決して高潔な祈りとは言えないかもしれないが、ダビデはいつもこのように、心の内を御前に正直に注ぎだしたからこそ、ダビデは敵を前に、実際的には高潔に振る舞う事が出来たのだ。
ダビデのいのちを追い回してきたサウルに対しても、善を悪で返したナバルに対しても、また、ダビデがアブシャロムの前から逃げていた時、盛んに呪いの言葉を吐きながら石を投げてきたシムイに対しても、ダビデは彼らを殺そうとする部下達を制し、彼らのいのちを助けてやった。
ダビデは、怒りをそのまま人にぶつけるのではなく、その気持ちをそのまま神へと持って行き、全てを神の正しいさばきを委ねたのだ。
もし相手が、ダビデがかけた「憐れみ」にふさわしいなら、主が憐れんで下さるが、しかし最終的には、サウルも、ナバルも、アブシャロムも、主ご自身が正しく裁かれた。
5:11 しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。また、み名を愛する者があなたによって/喜びを得るように、彼らをお守りください。
5:12 主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。
主の喜びに預かれる者は、主と共に歩む者、主により頼む者、主の御名を愛する者である。
ダビデは最後、全て主に寄り頼む者を喜ばせて下さい、正しい者を祝福して下さい、と祈っている。
しかし元来、正しい者も、義人も、ひとりもいない。
ローマ3:10 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
3:12 すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。
3:13 彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
3:14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
3:15 彼らの足は、血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
3:17 そして、彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
人間の中には、義人はひとりもいない。
ダビデは、彼に災いをもたらす者を「そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言う」と言ったが、実は、ダビデ自身もそうだったのだ。
それでは、ダビデはどうして自分を「正しい」と言うことができるのか。ロマ書には、次のようにも書いてある。
ローマ10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
いかに人の口が「開いた墓」のようであったとしても、御言葉を口にして、信仰告白を口から出すなら、その口の告白によって救われるのだ。
信仰を混ぜ込んだ御言葉のテフィリンによって、人はどんどん清められていく。
ダビデは主により頼むと告白し、朝の明ける前から主と交わっているので、彼はあらゆる願いを祈る事ができたのだ。
私達も、イエス・キリストにあって常に神と交わりを持っているなら、いつでも大胆に御前に進み出て、時期を得た助けを願い出る事ができるのだ。
ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
安らかな眠りにつくために(詩篇4篇)
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詩篇4篇は、ユダヤでは夜、寝る前に捧げるテピラー(תפלה:祈り)である。
これもまたダビデが作者であり、おそらく、3篇の祈りを捧げた後に平安が与えられ、その時に祈った祈りだと思われる。
4:1 聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
ダビデは少年の時も、青年の時も、壮年の時も、今までの人生で何度も主が助けて下さり、ゆとりを与えて下さった事を経験をして来ただろう。
まだ羊を飼っている少年で、王になるとは思ってもみなかった時からも、彼は、獅子や熊から守られた。彼が命の危険も顧みず、自分の羊を守ろうとする性質だったから、主は、彼を王として見出したのだ。
ダビデは、苦しみの時にゆとりが与えられた事を告白している。
きっと、3篇の状況が少し改善したか、あるいは改善しないままでありながらも、主からゆとりが与えられたのだろう。
4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ
人の子達、すなわち人間達は、ダビデの栄誉を辱めている。
なぜわざわざ「人の子達」という呼び方をしたのか。
それは、どんなに勇士でも、強者でも、知恵者であっても、ダビデが救いの根拠を置いている主の前には所詮、何者でもなく「人から生まれた者達」だという事だ。
彼らは、むなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めている。
たぬきが人を化かして、枯葉をお金に見せて、化かされた人は、お金持ちになったと喜び沸き立つが、目が覚めてみるとそれはお金ではなく、枯葉だった、という話があるが、サタンのやり口も同じである。
価値あるものに見せかけて、掴ませ、それで滅びへと導くのだ。
むなしい言葉を愛し、偽りを慕い求める時、その者は実はむなしい道、滅びの道へ向かっているのだ。
そこでダビデは、この1節と2節の状況は、危機的な状況に「セラ」を宣言し、ムードチェンジする。
4節と5節は、2つの「セラ」にサンドイッチされており、キアズム構造上、ここがサンドイッチの中身部分、最も味わうべき中心部分である。
4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために「聖別(פָּלָהパーラー:区別、特別扱い)」されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。
主は、神を敬う人を、ご自分のために「聖別(פָּלָהパーラー:区別、特別扱い)」して下さる。
主から特別扱いされる民とは、何と幸いな事だろうか。
しかし、その特別扱いされるためには、それなりの条件がある。そしてそれは、シンプルである。
申命記26:16 きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。
26:17 きょう、あなたは主をあなたの神とし、かつその道に歩み、定めと、戒めと、おきてとを守り、その声に聞き従うことを明言した。
26:18 そして、主は先に約束されたように、きょう、あなたを自分の宝の民とされること、また、あなたがそのすべての命令を守るべきことを明言された。
26:19 主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」。
ここに、「主の宝の民」となる事と、また主から誉れと良き名と栄えとが与えられて、全ての国民に勝るものとされる、という素晴らしい約束がある。
まさに主からの特別扱いであるが、そうなるための条件が前後に挟まれている。
すなわち、主の御声に聞き従い、心をつくし、精神をつくして御言葉を守り行う事である。
シンプルに言えば、主は、主の御言葉を特別扱いする人をこそ、特別扱いされるのだ!
4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ
4:5 義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。
ダビデは、怒り狂ってダビデに反逆する者を諭す。
怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい、と。
むしろ、主に義のいけにえを捧げ、主により頼みなさい、と。
エペソ4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27 また、悪魔に機会を与えてはいけない。
闇の時間に入る前に、しっかり心を整えておくべきである。
そうでないと、夜、床の上で怒りや憎しみ、恨みを思い巡らせながら悶え過ごす「眠れぬ夜」を過ごす事になってしまう。
平安に安らかな眠りに入れる人とは、7節のこころざしを持って祈る人で、その人が8節の安らかな眠りに入れるのだ。
4:6 多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光を/わたしたちの上に照されるように」と。
4:7 あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。
多くの人々は、求めている。誰が私に良い目を見させてくれるだろうか、と。しかし、私達が求めるべきは、主が、御顔の光を私達へと照らして下さる事。
それは、豊かに穀物やぶどう酒があり、お金がふんだんにある事をはるかに凌ぐ祝福である。
民数記 6:24 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
6:25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
6:26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
6:27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」
主が大祭司にこの祝福で祈るようにと命じられた祈りには、モノやカネが豊かになるように、などという、異邦人がよく祈るような祈りは、一切無い。
この「主の御顔の光こそ、モノやお金が大量にあるより、はるかに勝る祝福だ」という感性を持っている人こそ、幸いな人である。
私達は日々、その幸いに、ときめいているだろうか。
主のことばによって心に平安が与えられ、その喜びが、穀物とぶどう酒の豊かな時の喜びにまさる、という感性を、失ってはいないだろうか。
ルカ24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
イエス様が御言葉を解き明かして下さる時、あらゆる危機が迫っている中でも決して奪われることのない喜びにときめくのである。
ときめきを忘れた夫婦にならないように、とはよく言われるが、私達は、ときめきを忘れないイエス様との関係、ときめきを忘れない御言葉との関係でありたい。
この、世の何者にもまさる御言葉からくる平安に満たされた人にこそ、安らかな眠りが与えられるのだ。
4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。
この何者にも奪われない平安がいつでも与えられ、安らかな眠りに就いている皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!