メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
エリフの登場(ヨブ記32章)
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31:40b ヨブの言葉は終った。
32:1 このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。
ヨブも、友人たちも、言葉を終えた所で、一人の若者が声を上げる事になる。エリフという若者である。
4章から31章までの間、長きに渡って、ヨブと3人の友人たちの弁論で埋め尽くされいたが、32章から37章までは彼の弁論に入る。
エリフの名前はヘブル語で「彼は私の神」という意味であり、彼はこの以前も、また以後も、彼の存在を伺わせる記述が一切なく唐突に現れるため、このエリフの弁論は、後代に追加されたのではないかと言う学者も多くいる程であるが、それはギリシア思考的な解釈である。
なぜエリフが突然現れ言葉を語りだしたのか。記されているからには、神の意図がある。私達はそれを探って行きたい。
32:2 その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。
32:3 またヨブの三人の友がヨブを罪ありとしながら、答える言葉がなかったので、エリフは彼らにむかっても怒りを起した。
32:4 エリフは彼らが皆、自分よりも年長者であったので、ヨブに物言うことをひかえて待っていたが、
32:5 ここにエリフは三人の口に答える言葉のないのを見て怒りを起した。
エリフが声を上げた動機は、怒りであった。
彼はまずヨブに向かって怒りを燃やし、3人の友人たちにも怒りを燃やすのだが、ヨブに対して怒った理由は、ヨブが神よりも自分を正しいとしたから、また、友人たちに対して怒りを燃やした理由は、彼らがヨブを罪ありとしながら答える言葉が無くなり、ヨブを「罪あり」として論破できなかったからだ。
ヨブ記全体は、崇高な言葉に満ちているようでも「怒り」と「罪さだめ」に溢れているような、荒んだ雰囲気であるが、エリフの言葉はそれにさらに拍車をかけている。
32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
エリフがそれまでずっと鳴りを潜めていたのは、年長者を敬い、彼らが言葉を発するべきだと思っていたからだ。
歳を経た人は確かに知恵がある。生きた分だけ、経験があるからだ。
しかし集団の中の最年長者が、必ずしも最も知恵深い、とは限らない。
経験によって身につく知恵は、過ぎ去っていく世の知恵であり、完全なものではないからだ。
32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。
確かに、人に知恵を与えるお方は、神である。
神から知恵が与えられ、歳を経た人にまさる者になる人は、どのような人か。
ダニエル1:17 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。
神はダニエルとその友人たちに知識を与え、全ての文学を悟る力と知恵を与えてくださったが、彼らは世の食物、汚れた食物によって自分自身を汚すまいと心に定め、いのちの危険を顧みずに、神に喜ばれる者として自らを清めようとした。(ダニエル1:8、3:16-18)
それだから神は彼らを知恵深い者とされ、バビロンという当時の罪深い世代の中でも栄、神は彼らを通して神の栄光をあらわされたのだ。
ダニエル2:27 ダニエルは王に答えて言った、「王が求められる秘密は、知者、法術士、博士、占い師など、これを王に示すことはできません。
2:28 しかし秘密をあらわすひとりの神が天におられます。彼は後の日に起るべき事を、ネブカデネザル王に知らされたのです。あなたの夢と、あなたが床にあって見た脳中の幻はこれです。
知恵が与えられ、神に用いられる器とは、自らをきよくする器である。
ヤコブの子ヨセフもまた、エジプトという罪深い時世の中でも、自らをきよく、正直に保った故に、後にはエジプトの総理大臣になり、イスラエルの全家族を救う事に用いられた。
32:11 見よ、わたしはあなたがたの言葉に期待し、/その知恵ある言葉に耳を傾け、/あなたがたが言うべき言葉を捜し出すのを/待っていた。
32:12 わたしはあなたがたに心をとめたが、/あなたがたのうちにヨブを言いふせる者は/ひとりもなく、/また彼の言葉に答える者はひとりもなかった。
32:13 おそらくあなたがたは言うだろう、/『われわれは知恵を見いだした、/彼に勝つことのできるのは神だけで、/人にはできない』と。
32:14 彼はその言葉をわたしに向けて言わなかった。わたしはあなたがたの言葉をもって/彼に答えることはしない。
32:15 彼らは驚いて、もはや答えることをせず、/彼らには、もはや言うべき言葉がない。
32:16 彼らは物言わず、/立ちとどまって、もはや答えるところがないので、/わたしはこれ以上待つ必要があろうか。
32:17 わたしもまたわたしの分を答え、/わたしの意見を述べよう。
32:18 わたしには言葉が満ち、/わたしのうちの霊がわたしに迫るからだ。
主の霊に導かれる者は、心の傷ついた者を癒やすもの(イザヤ書)である。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
主なる神の霊に導かれるなら、このような実があるものだが、しかしエリフもまた「怒り」に導かれて言葉を発し、ヨブ記全体が「怒り」に溢れているような雰囲気に、さらに拍車をかけている。
32:19 見よ、わたしの心は口を開かないぶどう酒のように、/新しいぶどう酒の皮袋のように、/今にも張りさけようとしている。
32:20 わたしは語って、気を晴らし、/くちびるを開いて答えよう。
32:21 わたしはだれをもかたより見ることなく、/また何人にもへつらうことをしない。
32:22 わたしはへつらうことを知らないからだ。もしへつらうならば、わたしの造り主は直ちに/わたしを滅ぼされるであろう。
主が言葉を与えて下さる時、与えられた人は、その言葉を伝えずにはいられないものである。
預言者エレミヤもまたそうだった。
エレミヤ20:9 もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。
ただ、エリフの言葉の全部が、神の霊から来たものであるかどうかもまた、怪しい。
彼の弁論の内容には、ヨブの言葉を果たして本当に理解しているのかどうか怪しい面もあるし、また、3人の友人達のように、彼の言葉の始終に主エホバの御名が無いからだ。
いずれにしても彼は、ヨブが神に出会うための橋渡しの役割を果たしている。
エリフの言葉から、私達も養いを得たい。
ヨブの鉄壁な「自己義主張」(ヨブ記31章)
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ヨブ記31章は、ヨブの最後の弁論であるが、彼は、自分がいかに潔白であるのかという主張を、40節にわたって並べ立てる事によって、その弁論を終える。
この章において、彼は”十数の罪を挙げ,その一つ一つについて,自分がもしそんなことをしたことがあるのなら,しかるべき罰を受けてもよいと言う.これは一種の誓いである.その罪は,姦淫から,偽り,不正,盗み,弱い者の軽視,偶像礼拝やのろいに及び,行った罪ばかりでなく,慈善を怠ったことや,心の中の情欲や敵意まで問題としている.山上の垂訓にも通じる最高の道徳水準である.そして,もし自分を訴える者があれば,その告訴状を掲げて堂々と神の前に出たいと言う.神が無実を証明して下さると確信するからである.”(実用聖書注解より)
31:1 わたしは、わたしの目と/契約を結んだ、/どうして、おとめを慕うことができようか。
彼は目と契約を結び、目においても心においても罪を犯さないよう細心の注意を払ってきたようだ。
そして確かに、彼は他の人達よりも段違いに罪を犯さないようにして来た事だろう。
しかし彼の主張には「?」が残るものもある。
31:16 わたしがもし貧しい者の願いを退け、/やもめの目を衰えさせ、
31:17 あるいはわたしひとりで食物を食べて、/みなしごに食べさせなかったことがあるなら、
31:18 (わたしは彼の幼い時から父のように彼を育て、/またその母の胎を出たときから(ウミベテン・イミ・アンケナー:母の胎から)彼を導いた。)
ヨブは、母の胎にいた時から、やもめを養った、というのだ。
それはありえない事だ。
ヘブライ詩は、よくそのような誇張表現がなされるものだが、いずれにせよ、この章での彼の主張は、自分の義を過大に誇張する所がある事は明らかである。
万が一、たとえ、彼が本当に母の胎にいた時から善行を行っていた、と譲ったとして、果たして彼はそれで義を主張できるのだろうか?
その答えは残念ながら、NOである。
ローマ書に「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)と書いてあるが、さらに、次のようにも書いてある。
ローマ3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
つまり、全律法613の決まりごとのうち、365の「してはならない」と、248の「しなさい」のチェックリストを、全部クリアしたところで、人は、義と認められない。
「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」と書いてある通りだ。
なぜなら、完全であり、聖であり、義であられる神の前に、人が罪を犯さなかった所で、それは当然であり、また義を行ったからと言って、それもまた神の前に当然だからだ。
では、人は何によって義とされるのか。
それは、続く節に書いてある。
ローマ3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
人はただ、神の恵みにより、購って下さるお方にの購いのわざを通してのみ、義とされるのだ。
だから、ヨブのように自分が義を行って来た事・悪を行わなかった事を主張して、自分を正しいとする事には、何の意味も無いどころか、むしろ神の義から遠ざかる行為である。
次のように書いてある。
ルカ18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ヨブは、自分が他の人のような罪人でないと主張し、また、あの罪この罪を犯してきた人間のようでない事も主張しているが、まさに、このパリサイ人の罠に陥っているわけだ。
イエス様は「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と言われたが、まさにヨブは高ぶったゆえに、38章以降で神から徹底的に低くされる事になる。
このたとえの中の取税人は、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と求めた。
ヒラスコマイ。この派生語にヒラステリオンがある。ヒラステリオンは「贖罪蓋」、すなわち、契約の箱を覆う蓋である。
もし、契約の箱が蓋が無く開いたままであるなら、罪ある人間は、神の圧倒的な聖に打たれ、死んでしまう。
しかし、贖いの蓋がある故に、人は、罪はあれど打たれずに済んでいた。
かの取税人が、義とされて帰れたのは、彼がヒラスコマイ、すなわち、神の憐れみと神の贖いを求めたから、そして神が彼の願いを聞き届け、彼を購ってくださったからである。
人はただ、神に対し、愛と憐れみ、贖いを求める以外に無いのだ。
ダビデは詩篇51篇で、自分こそ罪人である事を告白し、ただ神の憐れみを求めているが、それは全くヨブと逆である。
詩篇51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
ヨブは、自分には罪がない、神の前に出てぜひ討論したいものだ、とまで主張した。
それに対しダビデは、自分には罪がありありと存在するどうしようもない存在だと告白し、どうか、あなたのいつくしみによってあわれみ、豊かなあわれみによって諸々のとがを拭い去って下さい、と懇願した。
まことにダビデは、義とされた取税人の祈りを細かく祈っているわけである。
詩篇51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
ヨブは、母の胎にいた時から自分は義の行いをしていた、と主張した。
それに対しダビデは真逆で、自分は、母の胎にいた時から、既に蠢く罪を宿していた、と告白した。
そうである。母の胎にいた時から義人だった人間など、イエス・キリスト以外には存在しない。
ダビデは正直に告白した故に、彼が犯した罪ゆえに苦々しい刈り取りをする事となったものの、主のあわれみを受けたのだ。
詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
ヨブは散々な災いにあっても、なお心砕かれず頑として自分の義を主張した。
結局、神に受け入れられるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。
理解できない苦しみ、悩みを負わされる時(ヨブ記30章)
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前章とは対象的に、30章で、ヨブは現在の悲惨な状況を嘆いている。
30:1 しかし今はわたしよりも年若い者が、/かえってわたしをあざ笑う。彼らの父はわたしが卑しめて、/群れの犬と一緒にさえしなかった者だ。
30:2 彼らの手の力からわたしは何を得るであろうか、/彼らはその気力がすでに衰えた人々だ。
30:3 彼らは乏しさと激しい飢えとによって、/かわいた荒れ地をかむ。
30:4 彼らは、ぜにあおいおよび灌木の葉を摘み、/れだまの根をもって身を暖める。
30:5 彼らは人々の中から追いだされ、/盗びとを追うように、人々は彼らを追い呼ばわる。
30:6 彼らは急流の谷間に住み、/土の穴または岩の穴におり、
30:7 灌木の中にいななき、いらくさの下に押し合う。
30:8 彼らは愚かな者の子、また卑しい者の子であって、/国から追いだされた者だ。
この時、ヨブには、彼にひっきりなしにまとわりついて、いじめている”悪童ども”がいたようである。
その彼らは元々、人々から賤しめられ、軽んじられ、貧しい者達、国から追い出された者たちであるが、なぜ彼らがそうなったのか、それは、彼らの低劣な性質ゆえである事が、ヨブの言葉から伺い知れる。
30:9 それなのに、わたしは今彼らの歌となり、/彼らの笑い草となった。
30:10 彼らはわたしをいとい、遠くわたしをはなれ、/わたしの顔につばきすることも、ためらわない。
30:11 神がわたしの綱を解いて、/わたしを卑しめられたので、/彼らもわたしの前に慎みを捨てた。
30:12 このともがらはわたしの右に立ち上がり、/わたしを追いのけ、/わたしにむかって滅びの道を築く。
30:13 彼らはわたしの道をこわし、わたしの災を促す。これをさし止める者はない。
30:14 彼らは広い破れ口からはいるように進みきたり、/破壊の中をおし寄せる。
30:15 恐ろしい事はわたしに臨み、/わたしの誉は風のように吹き払われ、/わたしの繁栄は雲のように消えうせた。
彼らは、神から低められているヨブを笑いぐさとし、ヨブの顔につばきをし、ヨブにつきまとっていじわるをした、とヨブは告白している。
かつては町の長老達さえヨブに起立して敬意を払い、彼の言葉に聞き入ったものだった。
しかし今や、彼はこのような低劣な者たちから、落ちぶれてしまった事を「ねた」にされ、からかわられてしまっている。
それのみならず、瞬間瞬間悩まされている全身にできた腫物の問題もある。
30:16 今は、わたしの魂はわたしの内にとけて流れ、/悩みの日はわたしを捕えた。
30:17 夜はわたしの骨を激しく悩まし、/わたしをかむ苦しみは、やむことがない。
30:18 それは暴力をもって、わたしの着物を捕え、/はだ着のえりのように、わたしをしめつける。
30:19 神がわたしを泥の中に投げ入れられたので、/わたしはちり灰のようになった。
ヨブは、悪性の腫物によって、ひっきりなしに痒みに悩まされ、その様はもはや着物のようにまとわりついてしまっているほどの有様だ。
そこで彼は、再び、神に向かってつぶやく。
30:20 わたしがあなたにむかって呼ばわっても、/あなたは答えられない。わたしが立っていても、あなたは顧みられない。
30:21 あなたは変って、わたしに無情な者となり、/み手の力をもってわたしを攻め悩まされる。
30:22 あなたはわたしを揚げて風の上に乗せ、/大風のうなり声の中に、もませられる。
30:23 わたしは知っている、あなたはわたしを死に帰らせ、/すべての生き物の集まる家に帰らせられることを。
ヨブは災難が降された時、神に向かって不平不満をぶちまけた。それを私達は責められない。
なぜなら私達はヨブほどの災難に遭ったことは無いし、私達も、ヨブほどの災難は経験していないにしろ、神に向かって不平不満をぶちまけた事が無きにしもあらず、だからだ。
ただ、心と思いが神に向かっているのは、まだ良い。一番良くないのは、本人の神との関係を自ら断つ事だ。イスカリオテのユダが、自らの命を断ったように。
30:24 さりながら荒塚の中にある者は、/手を伸べないであろうか、/災の中にある者は助けを呼び求めないであろうか。
30:25 わたしは苦しい日を送る者のために/泣かなかったか。わたしの魂は貧しい人のために/悲しまなかったか。
ヨブは神を責めている。
人でさえ、貧しい人や災難に遭っている人に助けの手を差し伸べるのに、そしてヨブ自身、貧しく苦しい人たちに今まで助けの手を差し伸べて来たのに、それなのに神様、あなたときたら、憐れみの手を差し伸べなどころか、あなたに向かって叫び求めても、全くもって沈黙しておられるではないか、と。
30:28 わたしは日の光によらずに黒くなって歩き、/公会の中に立って助けを呼び求める。
30:29 わたしは山犬の兄弟となり、/だちょうの友となった。
30:30 わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、/わたしの骨は熱さによって燃え、
30:31 わたしの琴は悲しみの音となり、/わたしの笛は泣く者の声となった。
ヨブは受けている賤しめと苦しみについて、不平不満をぶちまけた。
こんなになっても、神に対して全くしおれてしまわない。本当に強いと思う。
しかし、その「強さ」が実は、仇になっているのだ。
次章でヨブは、怒涛のごとく自分の正しさを主張するが、結局その自己義が、神の知識を暗くし、神との関係を貧しいままにしてしまっている。
それにひきかえ、ダビデはすぐに自分の側に非がある事を告白して赦しを求めた。
ヨブはなかなか、それをしない。それだから神は彼を取り扱っておられるのだ。
私達も、私達の中の高慢や、あるいは硬く強い思い込みが、主との関係を邪魔する時、主から厳しい扱いを受け、賤しめられる時もある。
そのように賤しめられた場合、どういう態度でいるべきか。
エレミヤが、哀歌の中で示唆を与えている。
哀歌は、神の民・イスラエルが自身の罪ゆえに酷い災難に遭って悲惨になっている様を嘆いている歌である。
哀歌の3章1節から19節を読んでいくと、全くヨブと同じような状況で悩んでいる事が分かる。
しかしエレミヤは、そのどん底の苦しみの中でも、なお主に望みを置いている。
哀歌3:20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
3:21 しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
3:22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
絶望のどん底に陥った時こそ、主を呼び求めるべき時である。
その時、たとえ言葉がきれいでないとしても、主に正直に申し上げる叫びを主は聞いていてくださり、その心が真実であればあるほど、主はとても近く親しく臨んで下さるからだ。
3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
理解のできない苦しみ、悩み。それを負わされる時、主は無意味にその事をしておられるのではない。
その理由を、人は、知らないかも知れない。
しかし、主からきびしく扱われている、と思えるような時、いかに振る舞えば良いかが、次に続く節に記されている。
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。
ちり、それは人間の組成である。
ヨブは賤しめられた時、卑しい人たちから、理不尽な仕打ちを受けた。
ヨブは、自分は正しいと主張したが、結局、その人達も、ヨブも、組成はちりである。
人からの理不尽な仕打ちを受ける時、ちりの味を味わうのだ。
そしてその時、自分の中にも同じ卑しい性質がある事を学ぶのであり、そして、そんな人間を憐れんでくださる神の恵み深さを知るのだ。
主は、愛する者がいつまでも卑しいまま捨て置かれる事を、お許しにならないお方である。
3:34 地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
3:35 いと高き者の前に人の公義をまげ、
3:36 人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。
3:37 主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
3:38 災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。
3:39 生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。
ヨブは、自己義が強すぎた。自分は、あくまで、悪くない、と、友人が黙ってしまう程に強く主張した。
それ故、そのプライドを砕くためのハンマーも、また強かった。
塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵は、自分の罪の告白する事と、悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
ダビデはすぐにしおれて自分の罪をゆるして下さいと求めたので、救いもすぐだった。
「自分は正しい」「自分には罪がない」という前提条件は、速やかに捨てて、主の赦しと憐れみと慰めを速やかに得る者でいたい。
ヨブが神から特別扱いされた理由(ヨブ記29章)
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ヨブはこの28章では、祝福されていた昔の日々を思い返している。
29:1 ヨブはまた言葉をついで言った、
29:2 「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、/神がわたしを守ってくださった日のようで/あったらよいのだが。
29:3 あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、/彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。
29:4 わたしの盛んな時のようであったならよいのだが。あの時には、神の親しみが/わたしの天幕の上にあった。
29:5 あの時には、全能者がなおわたしと共にいまし、/わたしの子供たちもわたしの周囲にいた。
29:6 あの時、わたしの足跡は乳で洗われ、/岩もわたしのために油の流れを注ぎだした。
彼は、昔の日々が祝福されていた事の根拠を、神に置いている。
「神がわたしを守ってくださった」「彼(神)のともしびがわたしの頭の上に輝き」「彼(神)の光によってわたしは暗やみを歩んだ。」「神の親しみが/わたしの天幕の上にあった」「全能者がなおわたしと共にいまし」、と。
もしヨブが、昔の繁栄の原因を、神に見出しておらず、自分の力がそうしたのだと思って、過ぎし日々を懐かしんでいただけなら、ただの落ちぶれた元お金持ちに過ぎない。
しかし、ヨブがそうでないのは、彼は過ぎた日々の繁栄の中に、いつも神を見ていた事であり、彼のように、神に祝福の根拠を置く者が、神から特別扱いを受ける者のたしなみである。
続いてヨブは、かつて人々から尊敬されていた事を述懐する。
29:7 あの時には、わたしは町の門に出て行き、/わたしの座を広場に設けた。
29:8 若い者はわたしを見てしりぞき、/老いた者は身をおこして立ち、
29:9 君たる者も物言うことをやめて、/その口に手を当て、
29:10 尊い者も声をおさめて、/その舌を上あごにつけた。
29:11 耳に聞いた者はわたしを祝福された者となし、/目に見た者はこれをあかしした。
ヨブはかつて、町の長老たちからも若者たちからも尊敬され、ヨブが語ると皆だまり、ヨブの口から出て来た言葉を、皆、尊敬の念を込めて見た。
このようにヨブが受けた繁栄の理由は、続く節にある。
29:12 これは助けを求める貧しい者を救い、/また、みなしごおよび助ける人のない者を/救ったからである。
29:13 今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。
29:14 わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。わたしの公義は上着のごとく、/また冠のようであった。
29:15 わたしは目しいの目となり、/足なえの足となり、
29:16 貧しい者の父となり、/知らない人の訴えの理由を調べてやった。
29:17 わたしはまた悪しき者のきばを折り、/その歯の間から獲物を引き出した。
寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことである。(箴言19:17)
ヨブには沢山の主への「貸し」をつくったから、それだけ祝福されたのであり、もしヨブがそういう人でなければ、あの祝福はあり得なかった。
29:18 その時、わたしは言った、/『わたしは自分の巣の中で死に、/わたしの日は砂のように多くなるであろう。
29:19 わたしの根は水のほとりにはびこり、/露は夜もすがらわたしの枝におくであろう。
29:20 わたしの栄えはわたしと共に新しく、/わたしの弓はわたしの手にいつも強い』と。
ヨブは、彼が死んだ後も、彼の日は多くなる、と言った。
ヨブは、死んだ後の報いも見据えていたのだ。
それは新約的な思想に見えるかもしれないが、旧約にも書いてある。
詩篇112:1 主をほめたたえよ。主をおそれて、そのもろもろの戒めを/大いに喜ぶ人はさいわいである。
112:2 その子孫は地において強くなり、正しい者のやからは祝福を得る。
112:3 繁栄と富とはその家にあり、その義はとこしえに、うせることはない。
112:4 光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。
112:5 恵みを施し、貸すことをなし、その事を正しく行う人はさいわいである。
112:6 正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。
112:7 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。
112:8 その心は落ち着いて恐れることなく、ついにそのあだについての願いを見る。
112:9 彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。その義はとこしえに、うせることはない。その角は誉を得てあげられる。
112:10 悪しき者はこれを見て怒り、歯をかみならして溶け去る。悪しき者の願いは滅びる。
ヨブはまさに、この詩篇にある通り、恵みを施し、貸すことをなし、その事を正しく行った。彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。
その義はとこしえにうせることはなく、その角は、誉を得てあげられる、と書いてある通りである。
ただヨブは、喜びによって主に仕えていたのではなく、恐れによって仕えていた(1:5)のであり、心は常に祝福が奪われる事を恐れていた(3:25)。
29:21 人々はわたしに聞いて待ち、/黙して、わたしの教に従った。
29:22 わたしが言った後は彼らは再び言わなかった。わたしの言葉は彼らの上に/雨のように降りそそいだ。
29:23 彼らは雨を待つように、わたしを待ち望み、/春の雨を仰ぐように口を開いて仰いだ。
29:24 彼らが希望を失った時にも、/わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。
29:25 わたしは彼らのために道を選び、/そのかしらとして座し、/軍中の王のようにしており、/嘆く者を慰める人のようであった。
以上のように、かつてのヨブは大いに祝福されていた理由は、主への愛や喜びによってというより、むしろ彼の行いによるものだった。
主はそんなヨブを、さらに深い神との関係へと、導いて下さる。
現代のキリスト者は、ヨブとは逆に、主との愛と喜びの関係は重視しても、主への恐れと御言葉の実行にうとい所がある。
御言葉を実行する所には、祝福がある。
事実、現代のユダヤ人は、イエス様を救い主として受け入れていないにもかかわらず、律法の行いがある故に、頭脳においても支配権においても大いに祝福されているではないか。
私達は、イエス様を信じて、それで満足する所にとどまらず、御言葉の実行をもって大いに祝福されるものでありたい。
イザヤ58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。
知恵の性質(ヨブ記28章)
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ヨブはこの章で、知恵の性質について語っている。
いささか唐突に見えるが、ヨブの目に友人たちがあまりにも知恵も品性もなくひたすら因果応報ばかりを説くので、知恵とはこういうものだ、と示したかったからかもしれない。
この章の結論は、28節の言葉である。
28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。
この結論へと導くために、ヨブは長い説明の回り道をしなくてはならず、まず、人が金銀や銅、鉄を得るために多大な努力をしている様からはじめる。
28:1 しろがねには掘り出す穴があり、/精錬するこがねには出どころがある。
28:2 くろがねは土から取り、/あかがねは石から溶かして取る。
しろがねは銀、こがねは黄金、くろがねは鉄あかがねは銅である。
それらを得るために、人は多くの労を費やす。
28:3 人は暗やみを破り、/いやはてまでも尋ねきわめて、/暗やみおよび暗黒の中から鉱石を取る。
28:4 彼らは人の住む所を離れて縦穴をうがち、/道行く人に忘れられ、/人を離れて身をつりさげ、揺れ動く。
28:5 地はそこから食物を出す。その下は火でくつがえされるようにくつがえる。
28:6 その石はサファイヤのある所、/そこにはまた金塊がある。
人はこれら鉱物を得るために、人里離れた鉱山に穴を掘り、暗闇の中、苦労して得る。
現代のように、重機が発達した現代でさえ多くの危険と労力が必要だが、ヨブの時代であれば、なお多くの危険と労が必要だったろう。
28:7 その道は猛禽も知らず、たかの目もこれを見ず、
28:8 猛獣もこれを踏まず、ししもこれを通らなかった。
28:9 人は堅い岩に手をくだして、/山を根元からくつがえす。
28:10 彼は岩に坑道を掘り、/その目はもろもろの尊い物を見る。
28:11 彼は水路をふさいで、漏れないようにし、/隠れた物を光に取り出す。
金属類を得るために地下を掘って行く事には、地下水の危険があり、地の下の火、すなわちマグマの危険もある。
それは、動物にはできないし、得ようとした事も無い。
ただ人間だけが、この労を負って見出そうとする。
しかし、それらのあらゆる労をもってしても、得られないのが、知恵である。
28:12 しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。
28:13 人はそこに至る道を知らない、/また生ける者の地でそれを獲ることができない。
28:14 淵は言う、『それはわたしのうちにない』と。また海は言う、『わたしのもとにない』と。
金属類は、多くの努力を払えば、なんとか見出す事ができるものである。
しかし、知恵は、どう探しても、どう努力をしても、人みずからが見いだせるものではない。
28:15 精金もこれと換えることはできない。銀も量ってその価とすることはできない。
28:16 オフルの金をもってしても、/その価を量ることはできない。尊い縞めのうも、サファイヤも同様である。
28:17 こがねも、玻璃もこれに並ぶことができない。また精金の器物もこれと換えることができない。
28:18 さんごも水晶も言うに足りない。知恵を得るのは真珠を得るのにまさる。
28:19 エチオピヤのトパズもこれに並ぶことができない。純金をもってしても、その価を量ることはできない。
知恵は、人が多くの努力をして得た金銀をもってしても、購入できるようなものではない。
28:20 それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。
28:21 これはすべての生き物の目に隠され、/空の鳥にも隠されている。
28:22 滅びも死も言う、/『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。
この章では幾つかの擬人化された表現がある。14節では淵や海が、また22節では滅びや死が、人間のように言葉を発する。「(知恵は)我々の中には無い」と。
知恵は、人からも、動物からも、あるいは死や滅びの中からさえも、隠されている。
そこでヨブは結論づける。
28:23 神はこれに至る道を悟っておられる、/彼はそのある所を知っておられる。
28:24 彼は地の果までもみそなわし、/天が下を見きわめられるからだ。
28:25 彼が風に重さを与え、/水をますで量られたとき、
28:26 彼が雨のために規定を設け、/雷のひらめきのために道を設けられたとき、
28:27 彼は知恵を見て、これをあらわし、/これを確かめ、これをきわめられた。
28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。
神こそが、知恵をもって天地を組み立てられた。
箴言に記されている。
箴言9:10 主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。
そして特に、箴言8章に、知恵が天地を建てた様が、記してある。
箴言8:22 主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
8:23 いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。
8:24 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、
8:25 山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。
8:26 すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。
8:27 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。
8:28 彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、
8:29 海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、
8:30 わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、
8:31 その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。
知恵によって天地は立てられ、そしてそれは、現代に至るまでずっと維持し続けている。
知恵は物理法則であり、人の歩むべき道であるが、イエス・キリストこそ、世の始まる前から御父と共に世界をつくり、維持しておられるお方、あらゆる知恵と恵みが充満されたお方であり、この方を得る事こそ、その全ての知恵を得たと同じである。
ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここの、「言」と訳された言葉はギリシア語でロゴス、それはあらゆる知恵、知識に通じる法則である。
これは物理法則でもあり、人との間の法則であり、宇宙万物の理(ことわり)である。
理(ことわり)は人となってこの地上に降りて来られ、わたしたちの中に仮宿を取って、住まわれた。
その御方は、すなわち、父のひとり子キリストである。
その理は、感情の無い冷酷な法則ではなく、恵みと真理とに充満しておられるお方である。
次のように書いてある。
ヨハネ1:14 そして言(ロゴス:理)は肉体となり、わたしたちのうち(エン:中に、間に)に宿った(スケノー:仮宿を取って住む)。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
この、究極の知恵なるお方、イエス・キリスト、すなわち御言葉を私達の内に宿らせ、住まわせる時、私達は、世界を創造したお方の知恵、知識、富、力を得るのである。
すなわち、御言葉を守り行う事、それがすなわち、知恵に満たされる源であり、金や銀に遥かにまさる栄光の富を得るコツである。
申命記4:5 わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。
4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。
低レベルな言い争いの土俵へと飛び込んでしまったヨブ(ヨブ記27章)
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27:1 ヨブはまた言葉(マーシャール:ことわざ、箴言)をついで言った、
ヨブ記の今までのパターンからすれば、この章は、ナアマ人ツォファルの出番となるはずである。
しかし、この章から31章までは、ずっと、ヨブが彼の「ことわざ(マーシャール)」を、怒涛のように吐き出し続ける事となる。
やはり友人たちの浅はかな、人間由来の知恵の押し付けに、そして何より、友人の最後の言葉、「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」(25:6)に、ついに怒りを爆発させたのだろう。
25章が、わずか6節で終わってしまったのは、もしかすると、「うじのような人・・・」の言葉に、ヨブが怒りのあまり、言葉を遮ったからなのかもしれない。
27:2 「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。
ヨブは、神は生きておられる、と言った。
「主は生きておられる」とは、ユダヤ人が「これから自分が言う事は真実です」というような時に用いる表現で、ダビデ以降よく用いられていく言葉だが、ヨブは神を「自分の義を奪い去り、悩まされたお方」として表現している。
ひねくれた言い方、といえるかもしれないが、それでもヨブの神に追求していこうとする心、神と論じ合おうという志が現れている。
27:3 わたしの息がわたしのうちにあり、/神の息がわたしの鼻にある間、
27:4 わたしのくちびるは不義を言わない、/わたしの舌は偽りを語らない。
ヨブは、神の息が自分の鼻にあり、そして、その間は自分は正しい、と自認している。
そして彼は、言い放つ。
27:5 わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。
27:6 わたしは堅くわが義を保って捨てない。わたしは今まで一日も心に責められた事がない。
ヨブは、断じて、友人たちを正しいと認めず、しかも、死ぬまで自分の潔白を主張して止めない、と言い放った。
そして、自分は義である、という主張をはじめる。
せっかくそれまで、自分の義を全面に主張する所から離れ、むしろ、自分の保証となって下さる方を求め、とりなして下さる方、購って下さる方を拠り所とし始めていたのに。
それなのに、この章では、再び「自分の義」を主張する事に戻ってしまった。
信仰がバックスライドしてしまった感じである。
ヨブが主張している自分の義、すなわち人間の義は、いかにヨブのように正しい事を貫いてきた者であれど、汚れた衣のようでしかない。(イザヤ64:6)
義人はいない。ひとりも、いない。
だからこそヨブはかつて、自分の保証となって下さる方を求め、神にとりなして下さる方を求め、神と論じ合おうとしていた。
それなのに、彼の祈るくちびる(たとえそれが激しい口調であっても)を止めて、友人たちのほうこそ間違っている、という、激しい糾弾のためにそのくちびるを用いるようになってしまう。
27:7 どうか、わたしの敵は悪人のようになり、/わたしに逆らう者は/不義なる者のようになるように。
27:8 神が彼を断ち、その魂を抜きとられるとき、/神を信じない者になんの望みがあろう。
27:9 災が彼に臨むとき、/神はその叫びを聞かれるであろうか。
27:10 彼は全能者を喜ぶであろうか、/常に神を呼ぶであろうか。
27:11 わたしは神のみ手についてあなたがたに教え、/全能者と共にあるものを隠すことをしない。
27:12 見よ、あなたがたは皆みずからこれを見た、/それなのに、どうしてむなしい者となったのか。
27:13 これは悪人の神から受ける分、/圧制者の全能者から受ける嗣業である。
27:14 その子らがふえればつるぎに渡され、/その子孫は食物に飽きることがない。
27:15 その生き残った者は疫病で死んで埋められ、/そのやもめらは泣き悲しむことをしない。
27:16 たとい彼は銀をちりのように積み、/衣服を土のように備えても、
27:17 その備えるものは正しい人がこれを着、/その銀は罪なき者が分かち取るであろう。
27:18 彼の建てる家は、くもの巣のようであり、/番人の造る小屋のようである。
27:19 彼は富める身で寝ても、再び富むことがなく、/目を開けばその富はない。
27:20 恐ろしい事が大水のように彼を襲い、/夜はつむじ風が彼を奪い去る。
27:21 東風が彼を揚げると、彼は去り、/彼をその所から吹き払う。
27:22 それは彼を投げつけて、あわれむことなく、/彼はその力からのがれようと、もがく。
27:23 それは彼に向かって手を鳴らし、/あざけり笑って、その所から出て行かせる。
これらは、ヨブの言葉というより、あたかも、友人たちの側の言葉のようである。
だから、学者の中には、ここがナアマ人ツォファルの言葉ではないか、する人もいる。
しかし12節で「あなたがたは皆みずからこれを見た」と言っているので、一人で3人を相手にしているヨブの側の言葉、と見るほうが妥当だろう。
ヨブは、友人たちの言ってきた悪人必罰の言葉をもって、友人たちこそ悪人であり、必罰を受ける、と、糾弾をしているかのようである。
つまりヨブは、怒りのあまり、神との論じ合いという高尚な土俵を降りて、人間同士で糾弾し合う低レベルな土俵へと降りて行ってしまったのだ。
パウロはコリントの聖徒があまりに低レベルな視点でパウロを批判しているので、彼らの土俵に降りていって、愚か者ののような自慢話をしなければならなかったが、そのような高尚な動機ではなく、単に、怒ったからだ。
人の怒りは、神の義を実現しない。
せっかく、自分を弁護して下さる方、購って下さる方へと、望みを置き始めていたヨブ。なんで、こんなに、ひねくれてしまったのか。
もし、ある親が、子供が風邪をひいた時に、「どうして風邪なんか引くの!」と言って打ち叩くだけで、何の看病もしないなら、ひねくれてしまわないだろうか。
ヨブの友人たちがしたのは、そのような事だったのだ。
ヨブはかつて、言った。
19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。
ヨブにとって本当に必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
しかし、友人たちがあまりに罪定めをして、愛の無い格言ばかり言ってきたために、ついに、ここまでなってしまったのではないだろうか。
愛の無い知識の言葉、異言、預言、奉仕は、やかましいどらや、うるさいシンバルであり(1コリント13:1-3)、あまりにやかましく付き纏いすぎるなら、せっかく立ち直ろうとしている人を絶望させ、不義へと引きずり落としてしまう。
私達は、傷ついた魂と接する時、よく気をつけて、御霊によって精錬された愛の言葉を語るべきである。
秩序崩壊 - 引き金は「人はうじのよう、虫けらのよう」という言葉(ヨブ記25-26章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2018-6-8 10:48
秩序崩壊 - 引き金は「人はうじのよう、虫けらのよう」という言葉(ヨブ記25-26章)
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25章は、ヨブの3人の友人たち最後の弁論であり、そしてヨブ記中、最も短い章である。。
25:1 そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
25:2 「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
25:3 その軍勢は数えることができるか。何物かその光に浴さないものがあるか。
25:4 それで人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生れた者がどうして清くありえようか。
25:5 見よ、月さえも輝かず、/星も彼の目には清くない。
25:6 うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」。
今までのヨブの友人たちの弁論と比べるなら、不自然にも思える程短いが、今までの友人たちの言葉を、端的にまとめている。
すなわち、神は崇高なるお方、絶対的なお方であり、それに比べ人間は汚れた、虫けらのような存在だ、と。
しかしそれはひどい災難に遭って悩んでいる人に、すなわち、一日にして子供達全部と財産を失い、今も、絶え間ないかゆみに苦しんでいるヨブに対しては、何の足しにもならない。
ビルダデの言う事は、一定の真実である。しかしサタンさえ人を滅ぼすために、御言葉を引用する。
ようするに、時と場合をわきまえない心なしの真実の乱用は、人を滅ぼす事もある、という事である。
昔の誘拐犯人は、自分の筆跡を隠すために、新聞の文字を切り貼りして脅迫文を作り上げたが、同じようにサタンは、真理の御言葉を巧妙につぎはぎして自分の筆跡を隠し、人を滅ぼす事に御言葉を用いるのだ。
3人の友人たちの弁論の、最後に放った言葉は、「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」であった。
人はうじのよう、虫けらのよう・・・そうかもしれない。
しかし、神の似姿である人間の生は、重いものである。
人同士が互いに大切にしあい、愛し合い、結婚し、子供を産んで、育み育て、時に喜び、時に悩みつつ叱り、楽しみ、悲しみ、そうして一生が織りなされて行く。
それら全てを、一瞬にして奪われてしまった事について、「うじのような、虫のような人の子」という一言で片付け納得させようとした友人たちに、ついにヨブは怒りを爆発させる。
この章を機に、今まではある一定の規律の元になされていた「やりとり」の秩序は崩壊し、ナアマ人ツォファルが第三回目の弁論をする余地もなく、ヨブの弁論の独壇場となる。
26:1 そこでヨブは答えて言った、
26:2 「あなたは力のない者をどれほど助けたかしれない。気力のない腕をどれほど救ったかしれない。
26:3 知恵のない者をどれほど教えたかしれない。悟りをどれほど多く示したかしれない。
26:4 あなたはだれの助けによって言葉をだしたのか。あなたから出たのはだれの霊なのか。
ヨブは早速糾弾する。
一体あなたは、どれほど、弱い立場の人を救って来たのか。
どれほど、知恵のない人や弱い人を忍耐深く接し、教え、諭し、立ち直らせてきたのか。
結局友人たちの言葉の根拠は、人間の知恵であって、神の霊由来ではなかった。
ヤコブは言っている。
ヤコブ1:26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
御前に清く汚れのない信心は、困っている孤児や、やもめを見舞うものであり、ヨブのような困っている人に対し、信心深そうでありながら愛の欠けた言葉で封じ込めようとする事ではない。
そんな事をしたら、ヨブのように怒って、信心深そうな言論にかみつき、全能なる神にかみつくように、けしかけるようなものである。
ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
ヨブの友人たちは、確かに格調高い宗教的・哲学的な言葉を並べ立てる事は長けていても、しかし、困っている孤児ややもめに一体どれほどの事をしてきたのか。
少なくともヨブは、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出しやもめの心を喜ばせて来た。(ヨブ記29:12-13)
結局、聞いた知恵知識をそのままひけらかすだけで、行いが無いとするなら、それはむなしいものである。
ヨブは、彼らの茶坊主的な知識の受け売りに対し、彼らより、もっと深く深淵な「知識のひけらかし」を、口から怒涛のように溢れさせていく。
26:5 亡霊は水およびその中に住むものの下に震う。
26:6 神の前では陰府も裸である。滅びの穴もおおい隠すものはない。
26:7 彼は北の天を空間に張り、/地を何もない所に掛けられる。
26:8 彼は水を濃い雲の中に包まれるが、/その下の雲は裂けない。
26:9 彼は月のおもてをおおい隠して、/雲をその上にのべ、
26:10 水のおもてに円を描いて、/光とやみとの境とされた。
26:11 彼が戒めると、天の柱は震い、かつ驚く。
26:12 彼はその力をもって海を静め、/その知恵をもってラハブを打ち砕き、
26:13 その息をもって天を晴れわたらせ、/その手をもって逃げるへびを突き通される。
26:14 見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所は/いかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、/だれが悟ることができるか」。
神は、生けるものの世界も、死んだ者の世界をも、全てごらんになられ、統治しておられる神であり(5−6節)、地を、天を、全宇宙を支配し管理しておられるお方であり(7-11)、神に逆らって高ぶるサタンを打ち砕くお方である。
この後、ヨブは、友人たちに弁論する機会を与えず、今まで友人たちがしてきた事に対し一気に反論に転じ、そしてまた神に対しても鬱積した思いを怒涛のように吐き出して行く。
それは「自分を正しい」という思い込みが元であるが、今までのヨブと友人たちとのやり取りから私達が得るべき戒めは、どんなに深い奥義に通じていたとしても、またどんなに素晴らしい知識をひけらかしたとしても、愛が無いなら、それは何の役にも立たない、という事である。
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
1コリント13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
第一コリント13:4-7の内容を、逆にすると、次の真理が浮かび上がって来る。
すなわち、愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。
高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び真理を喜ばない。
愛が無い人は、すぐに投げ出す。自分の子や伴侶・友人を、信用せず、期待せず、忍耐できない。
いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、山を動かす程の信仰であっても、身を焦がすために身を渡しても、そうした「すごさ」は、むしろうるさい鐘であり、すぐにでも止めて欲しい騒音だ。
すごい知恵や、すごい不思議、すごい献身を見て、それに心惹かれてついて行くような人は、そんなにいない。
すごい奇跡が起きたね、それが何?
あなたはすごい信仰だね、だから何?
わたしの渇いた人生に一体何の足しになるの?
で、終わってしまう。
私達キリスト者は、何故にイエス様に心惹かれ、イエス様について行くようになったか。
それは、イエス様が私達を、愛してくださったから、ではなかったか。
それも十字架の上で、自分のいのちを投げ出す程の愛で。
キリスト者は、愛をこそ振りまいていくべきであって、「すごいアピール」を振りまいていく者ではない。
イエス様は言われた。
ヨハネ13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
ヨブ記の最後で、神は、3人の友人たちを怒った。わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ、と。(42:7)
だから、神を伝える時、神のご性質である愛、憐れみを伝えないとしたら、それはまことに片手落ち、むしろ神の栄光を貶めることになってしまうのである。
悪人が裁かれもせず、いつまでも弱者を虐げている現実。これいかに?(ヨブ記24章)
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- pastor 2018-6-7 20:13
悪人が裁かれもせず、いつまでも弱者を虐げている現実。これいかに?(ヨブ記24章)
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前章では、ヨブはエリファズへまともな回答はせず、ただ神に心を向け、神と論じ合いたいと切に求めたが、この章では、ヨブは友人たちの議論に真っ向から向かい、彼らが口を酸っぱくして主張している「因果応報」に対して、現実は必ずしもそんなにも単純には行かない事を指摘する。
24:1 なにゆえ、全能者はさばきの時を/定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。
ヨブの友人たちは口を酸っぱくして「悪人はさばきにあう、善人は報われる」というような事を言って来た。
ヨブもそんな事は百も承知である。
それなのに、なぜ主は正当なさばきをしないまま、神の民は、日の目を見ることがないのか、と指摘する。
24:2 世には地境を移す者、/群れを奪ってそれを飼う者、
24:3 みなしごのろばを追いやる者、/やもめの牛を質に取る者、
24:4 貧しい者を道から押しのける者がある。世の弱い者は皆彼らをさけて身をかくす。
24:5 見よ、彼らは荒野におる野ろばのように出て働き、/野で獲物を求めて、その子らの食物とする。
24:6 彼らは畑でそのまぐさを刈り、/また悪人のぶどう畑で拾い集める。
24:7 彼らは着る物がなく、裸で夜を過ごし、/寒さに身をおおうべき物もない。
24:8 彼らは山の雨にぬれ、しのぎ場もなく岩にすがる。
24:9 (みなしごをその母のふところから奪い、/貧しい者の幼な子を質にとる者がある。)
24:10 彼らは着る物がなく、裸で歩き、/飢えつつ麦束を運び、
24:11 悪人のオリブ並み木の中で油をしぼり、/酒ぶねを踏んでも、かわきを覚える。
24:12 町の中から死のうめきが起り、/傷ついた者の魂が助けを呼び求める。しかし神は彼らの祈を顧みられない。
力あるものが弱い者を搾取し虐げている現実を、ヨブは細かく指摘する。
時代のひと時を輪切りにし、その「時」を瞬間風速的に見るなら、確かにそう見える事がある。
しかし神は、そんな有様を見ておられ、彼らの辛さを知っておられる事が、聖書には書いてある。
出エジプト記3:7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。
3:8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
3:9 いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。
3:10 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。
神は見ていないのではない。聞いていないのではない。知らないのではない。
主を敬う民の叫びを聞き、幸いな地へと導いて下さるお方である。
ただ、人の時間と、主の時間は、違うのである。
ヨブ記24:13 光にそむく者たちがある。彼らは光の道を知らず、光の道にとどまらない。
24:14 人を殺す者は暗いうちに起き出て/弱い者と貧しい者を殺し、/夜は盗びととなる。
24:15 姦淫する者の目はたそがれを待って、/『だれもわたしを見ていないだろう』と言い、/顔におおう物を当てる。
24:16 彼らは暗やみで家をうがち、/昼は閉じこもって光を知らない。
24:17 彼らには暗黒は朝である。彼らは暗黒の恐れを友とするからだ。
ヨブはひるがえって強い者が弱い者を虐げている事と、その悪行が裁かれもせず成功している様を指摘している。
24:18 あなたがたは言う、/『彼らは水のおもてにすみやかに流れ去り、/その受ける分は地でのろわれ、/酒ぶねを踏む者はだれも/彼らのぶどう畑の道に行かない。
24:19 ひでりと熱さは雪水を奪い去る、/陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。
24:20 町の広場は彼らを忘れ、/彼らの名は覚えられることなく、/不義は木の折られるように折られる』と。
口語訳では、18節は「あなたかたは言う」とあり、そしてカギカッコの言葉を友人たちの言葉としているが、原文はそうではなく、18節から20節の「あなたがたは言う」を除いた言葉を、ヨブが言った言葉としている。
ヨブが、悪人が栄えている様を言って友人たちに反論しているのに、その悪人が裁かれる事をヨブのこの論議の中で言うのはおかしい、と訳者が判断して加えたものと思われる。
ヨブは、悪人が栄えている現実を指摘し、同時に、悪人が裁かれる事もまた忘れずに加えているのだ。
24:21 彼らは子を産まぬうまずめをくらい、/やもめをあわれむことをしない。
24:22 しかし神はその力をもって、/強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。
24:23 神が彼らに安全を与えられるので、/彼らは安らかである。神の目は彼らの道の上にある。
24:24 彼らはしばし高められて、いなくなり、/ぜにあおいのように枯れて消えうせ、/麦の穂先のように切り取られる。
悪人の最終的に行く所がどこであろうが、ともかく、この地上において、悪人が裁かれないままはびこっている現実がある。
ヨブはしかも、神が彼らを安全にし、やすらかにし、その悪人の道を守っておられるかのように言っている。
しかし同時に、彼らは結局、消えてなくなる、ということも忘れずに加えている。
24:25 もし、そうでないなら、/だれがわたしにその偽りを証明し、/わが言葉のむなしいことを示しうるだろうか」。
以上のように、ヨブは、神は悪人さえ守り、安全に支えているではないか、という指摘をした。
一体これはどういう事だろう。多くの人も疑問に思う所である。
友人たちの回答を見る前に、聖書の他の箇所を見てみたい。
この疑問への答えは、第二ペテロ3章にある。
2ペテロ3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
すなわち神は、悪人であれ善人であれ、誰一人として滅びる事を望んでおられず、わざとさばきを遅くしておられるのである。
ある人には、おそい、と思える。
ヨブは、あたかも神は悪人のサポートさえしている、と思ったが、しかし、神のご性質は「あわれみ」であり、そのあわれみの故に、さばきを遅くしているのである。
人は、永遠の視点には立てない。
しかし、永遠の視点に立たれる全能者が、正当なさばきをされる。
ルカ16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
死後の世界が、あるのだ。
ラザロは生前、悪いものを受けたが、その後彼は慰められ続け、ラザロにあわれみを施さなかった金持ちは、死後、苦しみを受け続けている。
人は、死後の世界も、永遠の観点も、持っていない。
しかし永遠なる神は、人が生きている100年そこらの年数のみならず、その後につづく永遠をもひっくるめて、正しいさばきをなさるのである。
ここで勘違いしてはならない事は、生前は金持ちだったら自動的にハデスに落とされるという訳ではないし、生前貧乏なら自動的にパラダイスに行くわけでもない。
実際アブラハムは、生前、金持ちだった。
では、パラダイスに行くか、ハデスに落とされるかの分かれ道は、一体何だろう。
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
パラダイスに行くか、ハデスに落とされるかの分かれ道、それは「モーセと預言者」である。
すなわち、神の言葉だ。
神の言葉を信じ、それに耳を傾け、それを行う人は、誰でも、信仰の父・アブラハムの元に行き、神の言葉を軽んじ、それを行わないなら、金持ちが行ったところへと行くのである。
金持ちは、たくさんの言葉でアブラハムを説得しようとしたが、人間の議論は、死んだ後に来てしまった場所を変える事はできないし、自分の救いに対して、何の足しにもならない。
ヨブと友人たちの議論、すなわち、主の御名の無い膨大な「人間言葉」の応酬が、神の御前で何の足しにもならなかったのと、同じである。
結局、価値があるのは、神の言葉のみだ。
神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)
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- pastor 2018-6-4 10:46
神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)
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前章において、エリファズは神の絶対性、全能性をとうとうと語り、神をなにか、無感覚・無感動な「冷たい神」であるかのように思わせられる言葉で言ったが、ヨブはこの章では、エリファズに反論しない。
むしろ、神はそういう「冷たさ」があるという神観を、彼もある程度持っており、その「冷たさ」に、どうにも我慢ならないので、なんとしても神と論じ合いたいと願っている。
23:1 そこでヨブは答えて言った、
23:2 「きょうもまた、わたしの「つぶやき(苦い祈り)」は激しく、/彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。
ヨブはエリファズの冷たい神観に共感したのか、この章では、苦々しい思いに満たされた状態である
23:3 どうか、彼を尋ねてどこで会えるかを知り、/そのみ座に至ることができるように。
23:4 わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、/口をきわめて論議するであろう。
23:5 わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、/わたしに言われる所を悟ろう。
23:6 彼は大いなる力をもって、/わたしと争われるであろうか、/いな、かえってわたしを顧みられるであろう。
23:7 かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。そうすれば、わたしはわたしをさばく者から/永久に救われるであろう。
ヨブはここにおいて、神と論じあうなら、神は自分の正しさを見出してくれるだろう、という思い込みがあった。
その思い込みは後で粉々に砕かれるのだが、ここにおいてヨブは、とても重要な願いが起こされている。それは、「神と論じ合いたい」という願いだ。
神と論じ合う、すなわち、神と交わりたいという飢え渇きこそ、神の前において義とされて行くための重要な踏み出しである。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
私達の側に、義は一切無いが、唯一「義なるお方」である主と論じ合い、主と交わっていくうちに、人は、緋のような赤い罪も、白くされて行く事が可能なのだ。
23:8 見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。
23:9 左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。
ヨブは、主と論じ合いたいと望んでいる。けれども、見いだせないでいる。
確かに、求めている探している段階は、何も見えずに辛いが、しかし求め続けているなら、やがて与えられる。
ヨブは主を求め続け、後にはついに、主と出会うことになる。
23:10 しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。
23:11 わたしの足は彼の歩みに堅く従った。わたしは彼の道を守って離れなかった。
23:12 わたしは彼のくちびるの命令にそむかず、/その口の言葉をわたしの胸にたくわえた。
ヨブは、もし主と論じ合うなら、神は彼を「金」のように見てくれるだろう、という思い込みがある。
彼は、自分はずっと主の道を守って離れなかった、その命令に背かず、御言葉を蓄えてきた、という自信がある事をここで告白しているからだ。
確かにヨブは、まわりと自分とを比べれば、自分のほうが遥かに正しいので、自分を、神の御前でも黄金のような自分として通用すると見たのかもしれない。
事実、神もサタンに、ヨブ以上の人物はいない、と言った。
しかし残念ながら、人は、人と比較して義となるのではなく、神の基準において義と認められなくては意味がなく、さらに残念な事に、すべて「人の義」は、神の御前においては「汚れた衣」に過ぎない。
イザヤ64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
このイザヤ書の「汚れた衣」を直訳すると、(女の)月のもので汚れたもの、である。
人間がいくら頑張ったところで、人の義、私達の正しい行いとは、神の前ではそんなものでしかない。
そう、義人はいない、ひとりも、いないのだ。
預言者イザヤは、それを絶望して終わるのではなく、主に食らいついて行った。
イザヤ64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
64:9 主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。
イザヤは主に申し上げた。
主よ、あなたは我々の父ですよね、そして我々は、あなたの民ですよね、と。
あなたは陶器師で、我々はあなたの御手の内で作られる粘土ですよね。そうであるからには、あなたは我々人間の弱さ、罪に傾く性質を、知っておいでになられます。
どうかそんな私達の様を知り、私達に憐れみをかけてください、と。
このように、主に食らいついていき、主と「論じ合う」事、主との交わりへ入って行く事こそ大事なのだが、ヨブは、神を「崇高すぎるお方」「言っても聞きはしないお方」だという認識で、無気力になってしまっている。
たとえ万一こんな自分の声が、神に届いたところで、神はそんな願いをバーンと撥ね退けてしまうのではないか、と。
それで、次のように告白する
ヨブ記23:13 しかし彼は変ることはない。だれが彼をひるがえすことができようか。彼はその心の欲するところを行われるのだ。
23:14 彼はわたしのために定めた事をなし遂げられる。そしてこのような事が多く彼の心にある。
結局、「みこころ」だけが成就するのだったら、祈っても、願っても、論じても無駄だ、こんなにひどい目に遭わされているのに、神は、何の答えもくださらない。
こんな目に遭っているのかという理由さえも教えてくれない、という思いで満たされている。
23:15 それゆえ、わたしは彼の前におののく。わたしは考えるとき、彼を恐れる。
23:16 神はわたしの心を弱くされた。全能者はわたしを恐れさせられた。
23:17 わたしは、やみによって閉じこめられ、/暗黒がわたしの顔をおおっている。
ヨブは、かなり弱気になっている。
19章の強気とは、打って変わって。
ヨブは、霊の中で、なんとなく悟っていたのだ。
自分の義は、結局、汚れた衣に過ぎない、と。
それではヨブは、なぜ、19章では強気になっていたのか。
それは、彼をあがなって下さるお方が生きておられる、と高らかに宣言したからだ。
結局、自分の義は、汚れた衣に過ぎない。しかし、私達を購って下さるお方を拠り所とするなら、私達は強いのである。
私達にとって、購って下さるお方、それは、私達の主、イエス・キリストである。
このお方に依り頼むなら、私達は強いのである。
全くもって義を持ちあわせていない私達が、義とされるには、私達を義として下さる主の元に行く他に無い。
自分の義は、月のもので汚れたものだ、とイザヤは言ったが、それでもイザヤは主に食らいついて行った。同じように、ペテロも主に自分の弱さを告白し、ただ「あなたがそんな弱いわたしをご存知です」、と、主にすがりに行った。
ヨハネ21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
ペテロは、自分には主を完璧な愛で愛し尽くす愛が無い事を、イエス様の十字架と復活を通して思い知らされた。
しかし、ペテロのこの告白、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」という告白が、彼にとって転機となる。
ヨハネ21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
ペテロはこれまで、自分の好む帯をしめ、自分の好む方へと、気ままに歩んでいた。
しかし、イエス様と交わり、関わっていくうちに、より優れた道を、主イエス様の中で見出して行った。
ペテロは後に、聖霊が与えられ、力強い大胆な主の働き人となり、そして最後には、イエス様の御名ゆえに、殉教して行く。
多くの人を、イエス・キリストにある永遠のいのちへと導きながら。
この出来事の後の彼の道は、彼の望む道ではなかった。
もっと優れた、神の国を拡大して行く道、栄光の道である。
ヨブは、自分の願いや思う事が聞き届けられないと思って、怒り、主の「みこころ」だけが成って、この圧倒的全能者を前に、自分は何を言っても無駄なのだ、と、無気力になった。
主は、聞いておられないのではない。
知っていないのではない。
私達の思い、願いを、十分に知り、そして知った上で、主が備えて下さる私達の最善・最良・最高の道へと歩ませるために、あえて、私達が願う道(罪と弱さに満ちた不完全な道)を、閉ざし、主が用意された最良の道に、取って代わらせようと、愛をもって導いておられるのだ。
それは、ヨブ記をわずか一節でまとめた、次の新約の言葉に現れている。
ヤコブ5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
結局、人は主を抜きにしては、何も分からないし、何もできない。
ただ、人を義にしてくださる事がおできになる主と、論じ合い、主に知っていただき、主と交わりながら生きていく他、ないのである。
エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)
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- pastor 2018-6-1 8:38
エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)
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20章は、エリファズによる三回目の、そして、最後の弁論である。
前章では、ヨブが、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達に真っ向から反論して、現実では悪人が平然と栄えているではないかと指摘した。
そのため、それに真っ向から反対する形で答えるのだが、その答えの中に、エリファズの貧しい神観があらわにされる。
22:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、
22:2 「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。
22:3 あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。
エリファズは言う。
「全能者」の前に、いくらがんばったところで、何の益があるだろうか、と。
全能者(シャッダイ)という言葉がヨブ記には何度も出てくる。
神をあらわす言葉には、色々あるが、特にこの全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記の登場人物が非常に頻繁に用いている。
全能者(シャッダイ)という言葉は、旧約全体で48回用いられているが、そのうち、31回も、ヨブ記で使われている。
だから全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記における神観をあらわす特徴的な言葉であるといえる。
そして、その「全能」が強調されるあまり、人の側が何を努力しても無駄に感じるような雰囲気ある言葉だ。
もし神の「全能」な面だけを見続けて、それにひきかえての自分と比較するなら、無気力になってしまう言葉である。
エリファズは「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。」と言った。
実に、神と相対しようとする人を、無気力にさせる言葉である。
神は、愛である、と、聖書に書いてある。
親という存在は、子供に正しく完璧である事を求めるばかりだろうか。
完璧にできないなら、ただつっぱねるだけが親だろうか。
親は子供をかわいく思い、なんとか助けようと思うものだが、世の親子関係は、まことの父なる神と私達との、真の親子関係の、影にすぎない。
イエス様は、罪の泥沼でもがき苦しんている私達を、「かわいそう(スプランキニゾマイ:はらわたがちぎれる思い)」に見て下さる。
イエス様は、神を父と呼び、そして信じる私達を、神様との父子関係へと、招いて下さる。
イエス様は私達を友と呼び、十字架を通して兄弟姉妹の関係へと、さらには、雅歌書のように、甘い花婿と花嫁の関係へと導いて下さる。
それはひとえに、人が神と関わる事によって。神と、ともに歩む事によって成就して行く。
エリファズには、そして災いが起きる以前のヨブには、その神感がなく、ただ、シャッダイなる神の神感しか無かった。
だから、主の御名が無い彼らの議論を聞いていると、救いが無いので、どんどん心が渇いて行くのだ。
それは、因果応報・現世利益を求める世の宗教全般も同じであり、だから、ヨブ記を読むと、なにか世の宗教に似た雰囲気が流れているのだ。
ヨブ達の議論の中に、エホバなる主の御名は、ただ一度、ヨブの口から出ただけだったが、主「エホバ」の御名にこそ、救いがある。
主の御名「エホバ」はヘブライ語では「יהוה(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)」である。
ヘブライ文字にはそれぞれ意味が込められているが、この4文字のそれぞれの意味は、まず「ユッド」は「手」が関係する文字であり、「ヘー」は「見よ」という意味があり、また「ヴァヴ」には「釘」の意味があり、すなわち、主の御名 ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーは「手を見よ、釘を見よ」という意味があるのだ。
これは実に、十字架上で釘うたれるイエス様あらわしており、その御方を見よ!と語られている文字だ。
つまり、主エホバの御名が人に知らされた時以来、何百年、何千年も、主の御名が宣言される度に「あの手を見なさい、釘打たれたあの手を見なさい」と、語り続けて来たわけである。
エリファズは、全能者という神観のみで、人には崇高すぎて手がとどかないような、あるいは、無感情なお方という、不完全な神観を持っていた。
そして、前章において、ヨブが「悪人でも栄えている者がいるではないか」と反論した事を受け、やっぱりヨブは悪人を養護した、やっぱりヨブは隠れて悪の行いをしていたのか、と、勘違いしたのか、エリファズの想像上のヨブの悪行の数々を、具体的に並べ始める。
22:4 神はあなたが神を恐れることのゆえに、/あなたを責め、あなたをさばかれるであろうか。
22:5 あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は、はてしがない。
22:6 あなたはゆえなく兄弟のものを質にとり、/裸な者の着物をはぎ取り、
22:7 疲れた者に水を飲ませず、/飢えた者に食物を与えなかった。
22:8 力ある人は土地を得、/名ある人はそのうちに住んだ。
22:9 あなたは、やもめをむなしく去らせた。みなしごの腕は折られた。
22:10 それゆえ、わなはあなたをめぐり、/恐怖は、にわかにあなたを驚かす。
22:11 あなたの光は暗くされ、/あなたは見ることができない。大水はあなたをおおうであろう。
22:12 神は天に高くおられるではないか。見よ、いと高き星を。いかに高いことよ。
神はあまりに高くおられる。。。それがエリファズの神観だが、悪人はそれを逆用し、調子にのって悪を行う。
彼は、ヨブがそうだと決めつける。
22:13 それであなたは言う、『神は何を知っておられるか。彼は黒雲を通して、さばくことができるのか。
22:14 濃い雲が彼をおおい隠すと、/彼は見ることができない。彼は天の大空を歩まれるのだ』と。
22:15 あなたは悪しき人々が踏んだ/いにしえの道を守ろうとするのか。
22:16 彼らは時がこないうちに取り去られ、/その基は川のように押し流された。
22:17 彼らは神に言った、『われわれを離れてください』と、/また『全能者はわれわれに何をなしえようか』と。
22:18 しかし神は彼らの家を良い物で満たされた。ただし悪人の計りごとは/わたしのくみする所ではない。
22:19 正しい者はこれを見て喜び、/罪なき者は彼らをあざ笑って言う、
22:20 『まことにわれわれのあだは滅ぼされ、/その残した物は火で焼き滅ぼされた』と。
これら言葉の節々に、かつてヨブが言った事の言葉のいくつかが混じっている。
彼は言葉じりを捉えて、責めているようであるが、それは、(ヨブが)悪を捨てて、神に立ち返るように、という、次につづく言葉へつなげるためだ。
22:21 あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。
22:22 どうか、彼の口から教を受け、/その言葉をあなたの心におさめるように。
22:23 あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、/あなたの天幕から不義を除き去り、
22:24 こがねをちりの中に置き、/オフルのこがねを谷川の石の中に置き、
22:25 全能者があなたのこがねとなり、/あなたの貴重なしろがねとなるならば、
22:26 その時、あなたは全能者を喜び、/神に向かって顔をあげることができる。
22:27 あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。そしてあなたは自分の誓いを果す。
22:28 あなたが事をなそうと定めるならば、/あなたはその事を成就し、/あなたの道には光が輝く。
22:29 彼は高ぶる者を低くされるが、/へりくだる者を救われるからだ。
22:30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、/救われるであろう」。
確かに、それは間違いではない。
主に立ち返るなら、主は栄光を、富を、健康を返して下さる。
主に聞き従う人は、あらゆる面で祝福される。
しかし、そうした現世的な祝福が来るから、神に立ち返れ、と勧めるだけなら、それは、世のご利益宗教と何ら変わる所がない。
確かに信仰の初心者に対しては、それで良いかもしれないが、何年も信仰生活を続けた人が、ずっとそこに留まっているとするなら、何ら信仰が成長していなかった事になってしまう。
もしも、富が与えられるから神を信じなさい、と言う信仰だけだったとするなら、すぐさまサタンにやられてしまう。
そもそものヨブ記の始まりにおいて、サタンがヨブを攻める口実が、まさにそうだった。
それなら、世的な祝福それが取り上げられたなら、神を呪いながら捨て去る以外に無い。
ヨブ記1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
サタンさえ誘惑してくる。
ルカ4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
なぜヨブ記が記されたのか。
それは、全ての信仰者達を、そのような「貧しい神観」から、脱却させるためではないだろうか。
神は、単に崇高な高いだけのお方ではない。
近くにいまし、私達を知っておられるお方である。
神は、単に全能者であられるばかりではない。
愛なるお方である。
そして神は、無感情・無関係なお方では、決してない。
神は、愛の関係を求めておられるお方であり、そして私達が神と関係する事によって、義とし、ますます神に近い者へと造り変えて下さるお方である。
ヨブは、以前は、神に何か物申しても無駄だ、たちまちにその全能なる御腕で、こんな私の訴えはいとも簡単にへし折られてしまうのだ、という神観だった。(9章)
しかし神は、ヨブに災いの中を敢えて通らせ、そして、友人達の主の御名なき因果応報・ご利益宗教に、カラカラに渇きを覚え、その末に彼は、神と論じ合いたいという思いが起こされた。(13:3)
さらに彼は、神と人との間に立って下さるお方、それも、彼の保証となり、彼の弁護者となって下さるお方を、求めるに至った。(19章)
そしてヨブ記の最後、彼は、神に関する知識を深め、神との深い交わりによる祝福にあずかる事となって行く。
イザヤ書において、主は「互いに論じよう」と言っておられる。
それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていくのだ。
結局、人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事なのだ。
それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。
神は、因果応報・ご利益宗教の、無感覚・無感動・無関係の、マシンのような神ではない。
私達のところに降りて来てくださり、相撲を取ってでも関わる神であり、熱烈に愛し、もし別の神に浮気するなら激情に駆られて妬む神である。
雅歌書で表現されているように、花婿が花嫁を愛し慕い求めるような、甘い愛をもって慰めてくださる神である。
キリストは私達を救うために、天を押し曲げて降りて来てくださり、人となり、十字架の上で苦しみを受けるパッションの神である。
そして、罪人の一人が悔い改めるなら、天で大宴会を起こすほどの神なのだ。
この神との関わり、それこそ、人が求めるべき事である。