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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

友人達の論議の土俵へと降りていくヨブ(ヨブ記21章)
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ツォファルに対するヨブの答えが21章であるが、今までの様相とは若干異なる。
今までは、友人に対する反論というよりも、むしろ、神様に対する叫びのような祈りのほうで、紙面が割かれていた。
しかし、今回のヨブの返答には、神様に向けられた言葉はなく、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達の議論の土俵に降りてきて、彼らが金科玉条としているその法則が、現実では、必ずしもそんなに単純に行われていない事をつきつけており、自分の問題は、そんなに単純ではない事を友人達に分からせようとしているふしがある。

21:1 そこでヨブは答えて言った、
21:2 「あなたがたはとくと、わたしの言葉を聞き、/これをもって、あなたがたの慰めとするがよい。
21:3 まずわたしをゆるして語らせなさい。わたしが語ったのち、あざけるのもよかろう。
21:4 わたしのつぶやきは人に対してであろうか。わたしはどうして、いらだたないでいられようか。
21:5 あなたがたはわたしを見て、驚き、/手を口にあてるがよい。

ヨブにとって最も友人にしてもらいたかった事は、ヨブの話を聞いてもらう事だ。
ひどい災いを受けている、しかし、それを受けるような事をした事が、身に覚えがない。
このいらだちを理解してもらいたかった。
それなのに彼らは、こんな災を受けているヨブを、単純に悪人と決めつけ、単調に因果応報、悪因悪果のお仕着せばかりして、ヨブを苦しめるので、ついにヨブは友人の土俵に立ち、議論を仕掛ける。
はたしてそんなに因果応報、悪因悪果が単純に行われるのか、と。そして、単調に因果応報、悪因悪果ではない現実の事例を並べ、「驚き、手を口にあてるがよい」と言う。

21:6 わたしはこれを思うと恐ろしくなって、/からだがしきりに震えわななく。
21:7 なにゆえ悪しき人が生きながらえ、/老齢に達し、かつ力強くなるのか。
21:8 その子らは彼らの前に堅く立ち、/その子孫もその目の前に堅く立つ。
21:9 その家は安らかで、恐れがなく、/神のつえは彼らの上に臨むことがない。
21:10 その雄牛は種を与えて、誤ることなく、/その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
21:11 彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、/その子らは舞い踊る。
21:12 彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、/笛の音によって楽しみ、
21:13 その日をさいわいに過ごし、/安らかに陰府にくだる。
21:14 彼らは神に言う、『われわれを離れよ、/われわれはあなたの道を知ることを好まない。
21:15 全能者は何者なので、/われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。

神を恐れ敬わず、悪ばかりを為して、何の罰らしい罰を受けないまま栄えている者が確かにいる現実、それをどう思うのか、と、ヨブはつきつけている。
ヨブは神をないがしろにする悪人ではないが、そんなヨブが逆に、こんなにもひどい災いを受けているという、この現実はどうなのか。

21:27 見よ、わたしはあなたがたの思いを知り、/わたしを害しようとするたくらみを知る。
21:28 あなたがたは言う、『王侯の家はどこにあるか、/悪人の住む天幕はどこにあるか』と。
21:29 あなたがたは道行く人々に問わなかったか、/彼らの証言を受け入れないのか。
21:30 すなわち、災の日に悪人は免れ、/激しい怒りの日に彼は救い出される。
21:31 だれが彼に向かって、/その道を告げ知らせる者があるか、/だれが彼のした事を彼に報いる者があるか。
21:32 彼はかかれて墓に行き、/塚の上で見張りされ、
21:33 谷の土くれも彼には快く、/すべての人はそのあとに従う。彼の前に行った者も数えきれない。

友人達は、因果応報を金科玉条のごとく突きつけるが、現実を見ると、必ずしもそうではない、という事を、ヨブは突きつけた。
だから、友人達が自分に向かって突きつける因果応報ばかりを単調に突きつけるのは、「むなしいことば」だと、逆に突きつけた。

21:34 それで、あなたがたはどうしてむなしい事をもって、/わたしを慰めようとするのか。あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

ヨブは今回、神に向かずに、友人達の議論とう低レベルな土俵へと降りてゆき、彼らに、「それでは違うのだ」という”ゆとり”が出てきたのかもしれない。
それは、彼が神に向かって叫びのような祈りをし、ついに、彼のなかだちとして立って下さるお方、弁護し購って下さるお方を知るに至ったからだろう。

アサフもまた、悪人が何の災いに遭わず栄えている様を見て、心を痛めていたが、しかし彼が神の聖所へと至った時、彼らの最後を悟ることができた。
そして、それまで神に向かって叫んでいたその獣のような荒んだ心に恥じ入り、いただいた平安を感謝し、賛美するに至った。

詩篇73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

私達が世の中の現実に目を向ける時、悪人の栄えている様に目を向ける時、ただ獣のようになる以外に無い。
ヨブの友人達は、ことわざや哲学ばかりを吠える獣のような有様であるが、しかし神に心を向けるなら、アサフのように、ヨブのように、物事が見えて来る。
そして後には、栄光の内に受け入れられ、平安と賛美が戻ってくるのだ。

詩篇73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

ツォファルによる二回目の弁論 - ただ人を苛立たせるだけの「思い込み」の殻を抜け出せていない知恵(ヨブ記20章)
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20章は、ナアマ人ツォファルによる第二回目の論議であるが、その内容もまた、前回と全く同様、「悪人はこうなる」という容赦ない決めつけに基づいた攻撃である。

20:1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
20:2 「これによって、わたしは答えようとの思いを起し、/これがために心中しきりに騒ぎ立つ。

ツォファルから発せられて行く言葉は、「しきりに騒ぎ立つ」思いが由来である。
そのようないらだちに由来する言葉の多くは、害しか生み出さない事のほうが多い。

20:3 わたしはわたしをはずかしめる非難を聞く、/しかし、わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる。

ツォファルは、ヨブが、自分を侮辱する訓戒をしていると思い込んでいる。
誤解がさらに誤解を産んで、怒りを燃焼させて行っている状態だ。

彼は「わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる」と自称しているのだが、しかしその「悟りの霊」の出処は一体どこだろう。
イエス様は言われた。

ヨハネ16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

真理の御霊は、人をあらゆる真理へと導くものだが、ツォファルの言葉には、主エホバの御名はなく、また、ヨブが前章で叫び求めた「あわれみ」の提供もなく、ヨブが告白した「贖うお方」についての言及もなく、ただ怒り、叫び、そしりという肉の実を結んだだけであった。

私達は、いらだちや怒りから来る衝動を「悟りの霊」にあふれていると勘違いしてはならない。
人の怒りは、神の義を実現させるものではないからだ。

20:4 あなたはこの事を知らないのか、/昔から地の上に人の置かれてよりこのかた、
20:5 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、/神を信じない者の楽しみは/ただつかのまであることを。

ツォファルのヨブに対する論議の前提は、結局、ヨブを「悪人」「神を信じない者」と決めつけた上でのもので、しかも、いらだちに支配された思いから発せられたものなので、彼の言葉は、ひたすらひたすら悪人が受ける報いはこうだ、という多くの言葉で塗りつぶされている。

20:6 たといその高さが天に達し、/その頭が雲におよんでも、
20:7 彼はおのれの糞のように、とこしえに滅び、/彼を見た者は言うであろう、『彼はどこにおるか』と。
20:8 彼は夢のように飛び去って、再び見ることはない。彼は夜の幻のように追い払われるであろう。
20:9 彼を見た目はかさねて彼を見ることがなく、/彼のいた所も再び彼を見ることがなかろう。
20:10 その子らは貧しい者に恵みを求め、/その手は彼の貨財を償うであろう。
20:11 その骨には若い力が満ちている、/しかしそれは彼と共にちりに伏すであろう。

確かに悪人はそのようになる。
しかし、ヨブの状況をよく知らず、ヨブの言葉を聞いた上でなおもこの事を言うのは、時宜に適っていない、的外れな事である。
その「時宜に適っていない」事が、幾度、繰り返されているだろう。

20:12 たとい悪は彼の口に甘く、/これを舌の裏にかくし、
20:13 これを惜しんで捨てることなく、/口の中に含んでいても、
20:14 その食物は彼の腹の中で変り、/彼の内で毒蛇の毒となる。
20:15 彼は貨財をのんでも、またそれを吐き出す、/神がそれを彼の腹から押し出されるからだ。
20:16 彼は毒蛇の毒を吸い、/まむしの舌は彼を殺すであろう。
20:17 彼は蜜と凝乳の流れる川々を見ることができない。
20:18 彼はほねおって獲たものを返して、/それを食うことができない。その商いによって得た利益をもって/楽しむことができない。
20:19 彼が貧しい者をしえたげ、これを捨てたからだ。彼は家を奪い取っても、/それを建てることができない。
20:20 彼の欲張りは足ることを知らぬゆえ、/その楽しむ何物をも救うことができないであろう。
20:21 彼が残して食べなかった物とては一つもない。それゆえ、その繁栄はながく続かないであろう。
20:22 その力の満ちている時、彼は窮境に陥り、/悩みの手がことごとく彼の上に臨むであろう。
20:23 彼がその腹を満たそうとすれば、/神はその激しい怒りを送って、/それを彼の上に降り注ぎ、彼の食物とされる。

あたかもヨブが、貧しい者からかすめ奪い、不当に私服を肥やした事を前提とした言葉だが、ヨブはそんな事をしていない。
怒りやあせりを持ちながら議論しだすと、相手に対する「決めつけ」が起こり、その的を外した実態の無い「決めつけ」に対する無益な攻め立てと防御の応酬に陥るものだ。

20:24 彼は鉄の武器を免れても、/青銅の矢は彼を射通すであろう。
20:25 彼がこれをその身から引き抜けば、/きらめく矢じりがその肝から出てきて、/恐れが彼の上に臨む。
20:26 もろもろの暗黒が彼の宝物のためにたくわえられ、/人が吹き起したものでない火が彼を焼きつくし、/その天幕に残っている者を滅ぼすであろう。
20:27 天は彼の罪をあらわし、/地は起って彼を攻めるであろう。
20:28 その家の財産は奪い去られ、/神の怒りの日に消えうせるであろう。
20:29 これが悪しき人の神から受ける分、/神によって定められた嗣業である」。

このように、時宜にかなわない的外れな助言は、長ければ長いほど、感情的で語尾が強ければ強いほど、また、この詩文体のように体裁が立派であればあるほど、人をうんざりさせるものである。
人間の思い込みという殻を抜け出せていない以上、人をうんざりさせる以外に無い。

ヨブ記で展開される長大な人間議論が、全て立派な「詩文体」で表現されているのは、もしかすると、主の御名も愛も除かれてしまっている人間の箴言や哲学が、どんなに無益で、うんざりさせ、ただ傷つけるものであるのかという事を示すための、長大なアイロニーなのかもしれない。

私達は、絶望の底にある人を助けるには、どうすれば良いか。
それは、人の心を探り極めるお方に聞く以外に無い。

1コリント2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
 2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
・・・
 2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
 2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

人の思いを知る者は、本人自身と、人の心を深みまで探り極める御霊以外にはありえない。
それゆえ、私達が御霊に満たされる時、真に必要で適切な言葉が与えられる。真理の御霊が来る時、それは、自分の思い込みや世の知恵で語るのではなく、その聞くところを語るからだ。

そして、最もすぐれた道は、愛である。

1コリント13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

ヨブ記の3章から今まで読んでいると、まことに立派なやかましい鐘、騒がしい鐃鉢が鳴り響いているような様である。
主エホバの御名の無い人間ことば、愛の無いことば、主の霊によるのではない人間の知恵は、みな、そうだ。

私達は御霊に満たされる事を求めるべきであり、そして、愛を身に着けるべきである。

わが友よ、わたしをあわれめ!わたしをあわれめ!(ヨブ記19章)
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ビルダデに対するヨブの答えが19章である。

ヨブ記19:1 そこでヨブは答えて言った、
19:2 「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3 あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、/わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。

ビルダデはただ罪の指摘をしたが、この時ヨブにとって必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
ヨブは友人達が来るまでは、くちびるで罪を犯さなかったが、友人達が来てひたすら罪定めしてしまったために、ひねくれてしまった。

19:4 たといわたしが、まことにあやまったとしても、/そのあやまちは、わたし自身にとどまる。

そう、罪は、留まるのだ。
ヨブは当時の誰よりも罪を犯すことが少ない人だったかもしれない。しかしアダム以来、生来持った罪が、本人を責め立て、その罪から来る報酬である死を、誰も避けられない。

全ての人には罪がある。そしてその報いを受けなければならない。
ヨブは、たまたま他の人よりも罪が少なく、たまたま祝福されていたにすぎないが、実は彼さえも、罪の報酬をいつ受けてしまっても文句が言えない存在なのだ。

しかし、ヨブはそれを「不当」だと叫ぶ。

19:5 もしあなたがたが、/まことにわたしに向かって高ぶり、/わたしの恥を論じるならば、
19:6 『神がわたしをしえたげ、/その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
19:7 見よ、わたしが『暴虐』と叫んでも答えられず、/助けを呼び求めても、さばきはない。

ヨブは神に、「暴虐(カァマァス:間違っている, KJV:wrong)」と叫んだ。神よ、あなたが暴虐だ、間違っている、と。
そしてあなたは、何も答えない、沈黙している、と。
神は確かにこの時は沈黙していたように見えるかもしれないが、神は、いつまでも沈黙しておられるようなお方ではない。必ず正当なさばきをし、報いて下さるお方だ。

しかしヨブは、6節から13節まで、ずっと「彼(神)は」で始まる言葉で叫んでいる。
すなわち、神がわたしを塞がれ、わたしを苦しめた、という訴えがなされ、そして13節から20節までは、彼の周りにいた人間が、ことごとくヨブを厭い、嫌い、侮り、あざけり、そむいたという事を、訴えている。

19:13 彼はわたしの兄弟たちを/わたしから遠く離れさせられた。わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。
19:14 わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、
19:15 わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、/わたしのはしためらはわたしを他人のように思い、/わたしは彼らの目に他国人となった。
19:16 わたしがしもべを呼んでも、彼は答えず、/わたしは口をもって彼に請わなければならない。
19:17 わたしの息はわが妻にいとわれ、/わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。
19:18 わらべたちさえもわたしを侮り、/わたしが起き上がれば、わたしをあざける。
19:19 親しい人々は皆わたしをいみきらい、/わたしの愛した人々はわたしにそむいた。

このようにヨブは、神から打たれ、友から身内から、妻からいとわれ、嫌われ、無視されてしまった事を嘆いた。
のみならず、ヨブ自身のからだそのものも、ヨブに敵対してしまっている。

19:20 わたしの骨は皮と肉につき、/わたしはわずかに歯の皮をもってのがれた。

このような状況のヨブに、一体、何が必要だろう。
それは、あわれみである。
ヨブはそれを求めて叫んだ。

19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。

ハヌイはハナン(憐れむ)の命令形)である。
わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ。
これこそ、ヨブが最も欲していたものである。

しかしこの言葉は、友人達にはむなしく響いた。
友は、憐れみではなく、相変わらず罪定めと空しいことわざで返したからだ。

神に打たれ、人にさげすまれ、あわれんでくれる友が、誰もいない事。
これこそ人にとって最も深刻な事態であり、人類の誰しもが最も恐れるべき事である。

神は、そんな人類に、何も助けずにただ沈黙しておられるだけなのだろうか?
否!
神は、そんな絶望でうめいている人間のために、まことの友となって下さる、神のひとり子であられるイエス様を遣わして下さった。

イエス様は、38年もの間病気で動けず、もはや誰も彼を助けず、誰も彼を訪ねなくなってもう久しくなってしまったしまったような人に、友となって下さるために、訪れて下さった。

ヨハネ5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
5:9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

イエス様は彼をいやし、床を取り上げて歩かせて下さった。
同じように、ヨブも、やがて床を取り上げて歩き出す時が来る。
神は決して沈黙しっぱなしではないのだ。

この、38年臥せっていた人にとって、最も深刻な「よくない事」は、病気ではなく、友がいない事だった。
彼はそれを訴えたが、イエス様は、まことの友となって下さった。
しかも、友のために、いのちを捨ててくださった。

ヨハネ15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

ヨブの友人達は、ヨブの様を見て、ありもしない罪定めをした。
しかし、まことの友であられるイエス様の場合は、人の罪の身代わりとなっていのちを捨てて下さった。

ヨブは、あわれんでくれる友を求めたが、その叫びは、友人達に対してむなしく響いた。
しかし、私たちには、いるのだ!
弱く、罪の責め苦の中であえいでいる私たちを、知っておられ、叫びに耳を留め、いのちを投げ出すほどの素晴らしい友となって下さり、弁護者となって下さり、覆い、あがない、救って下さるお方、イエス・キリストが!

このイエス様の友となるためには、条件がある。それは私達が、イエス様が命じる事を行う事である。
『あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。』(ヨハネ15:14)

そして、イエス様の命じられる事は、以下である。

ヨハネ15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
・・・
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

互いに愛し合う事。
これこそ、イエス様が友となって下さる条件であり、幸いが戻って祝福が返ってくる条件だ。
実際、ヨブは最終的に、彼の友人達のために執り成し祈った。
すると、祝福が倍になって帰ってきた。

ヨブ記42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

しかし、19章時点では、激しい罪定めの糾弾し合いが、変わらずに展開されている。

ヨブ記19:22 あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、/わたしの肉をもって満足しないのか。
19:23 どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
19:24 鉄の筆と鉛とをもって、/ながく岩に刻みつけられるように。

ヨブは自分の言葉が、永遠に書き記される事を、求めている。
求めずとも、神の御前において、私達の行いもそうであるし、心の動きも、全て、書き留められている。
そして、終わりの日に、申し開きをしなくてはならない。

マタイ12:34 おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
12:35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

私達が地上でしたあらゆる行いが、あらゆる言葉が、あらゆる心で描いた事が、永遠に記録されるとしたら、それは絶望以外の何者もない。

しかし、私達が友となって下さるイエス様に助けを求め、彼が私達の弁護者となって下さるなら、私達が犯してきた罪の記録は、御前からなくされ、神はもはやその罪を思い出さないのだ。

旧約を見ると、アブラハムもサラもヤコブもダビデも、かなりえぐい罪を犯した事が詳細に記録されている。
しかし、新約においては、その罪は記録されておらず、ただ彼らが少しでも為した信仰に基づく良い行いを、大いに取り上げ、信仰の偉人に仕立て上げている。
私達も、そうなのだ。
キリストを信じて救われ、眠りについた者は、この地上における諸々の罪は思い出されず、むしろ、この地上において行った、ちょっとした信仰のわざが永遠に賞賛され、天国において永遠に生きる恵みが与えられている。
これこそ、莫大なあわれみである。
ヨブは友人達に、わたしをあわれめ!と叫んだが、神はそのまことの友・イエス様を通して、莫大なあわれみを注いで下さったのだ。

ヨブの時代、イエス様はいないはずなのに、しかし、どうもヨブは、この御方を知っているかのようである。

19:25 わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

本当に不思議である。
ヨブはかつて言った、彼の保証となって下さるお方がいると。また、その彼が、弁護してくれる、と。
さらには、彼をあがなう方は、生きておられ、そして後の日、その方は、地の上に立たれる、と言った。
確かにイエス様は、そのようなお方である。

エペソ1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

イエス様こそ、その血によって贖って下さったお方。そしてその血によって、罪のゆるしを得た。
まさにヨブが望んだ通りのお方である。

19:26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。
19:27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。

ヨブはさらに、彼自身が地上の肉の身体を離れた後、神を見る事になると言った。
それも、他の誰かではなく、わたしが直接、見る、と。

19:28 あなたがたがもし『われわれはどうして/彼を責めようか』と言い、/また『事の根源は彼のうちに見いだされる』/と言うならば、
19:29 つるぎを恐れよ、/怒りはつるぎの罰をきたらすからだ。これによって、あなたがたは、/さばきのあることを知るであろう」。

確かにヨブが言った通り、人は死んだ後、他の誰でもなく、「わたし自身」が神の御前に立たなければならない。
人を責め立て、あざけり、さばく者の座にいる者は、そのさばきの座においては逆にさばきにあうという事を、ヨブは、あたかも預言しているかのようである。

ヨブは、イエス様を知らないけれども、その心は、イエス様のご性質を求め、そのお方へと向かって行った。
彼の時代、当然イエス様は現れていないが、しかし彼は、イエス様の正確なご性質を持っておられるお方を求め、そしてその御方は「おられる」とはっきり告白した。
全て真理を求める人は、この御方を知らなくても、この御方を求めるようになるのだ。

ガラテヤ3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

旧約の全ては、キリストへと導く養育係である。
ヨブは、諸々の苦難を通して、キリストを求めるように導かれたのだ。
そして今、私達は、キリストを知った以上、もはや養育係の元にはいない。

ガラテヤ3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

今や、ヨブが切に求めた、救いの実体であられるキリストがおられ、この御方にあって、私達はあがないを受け、保護されている。
そしてさばきの日には、彼は弁護者として、私達の側に立って下さる。
このようにお膳立てしてくださった神の恵みは、なんと計り知れないものだろう。

ビルダデによる二回目の弁論 - 物事をややこしくしてしまう「目の中の梁」(ヨブ記18章)
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18章は、シュアハ人ビルダデによる第二回目の論議であるが、その内容は、実に単純明快、すなわち、悪人に対する因果応報である。

18:1 そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
18:2 「あなたは?「いつまで」?「言葉にわなを設けるのか」。?「あなたはまず悟るがよい」、/それからわれわれは論じよう。

?「いつまで」という言葉。ビルダデによる第一回論議(8章)も、その言葉で始まった。
ビルダデは、ヨブの論議および彼の友人達による、この不毛と見える議論に、さっさと終止符を打ちたいようである。
さっさとこの忌まわしいやり取りを終わりにしたいと、結論を急ぐあまり、語調を荒げ、単刀直入に相手を切るような言葉を発してしまい、しかし逆にそうやってもっと議論を白熱化させてしまう事は良くあるが、ビルダデは、まさにその罠に陥っている。

?「言葉にわなを設けるのか」、この「わな」と訳された語はヘブライ語でケネツ、「終わり」という意味であるが、アラビヤ語では「わな」という意味である故に、訳され方が分かれている。
新改訳では「けりをつける」、KJVでは「make an end」と訳されており、つまり、さっさとこの罠のような論議を脱したい、さっさと終わりにさせたいような雰囲気である。
そこでビルダデは、次の言葉を発する。
?「あなたはまず悟るがよい」
相手に悟る事を要求しているが、有用な議論は、まず聞く事から始まるはずである。

ビルダデは、ヨブが神に「これでもか」とばかりに向き合っているのに「神を知らない者」よばわりし、ヨブが神が認めている義人であるにもかかわらず、5節以降で、悪人が受ける因果応報について、とうとうと語っている。
結局、聞いていないのだ。そして、口走りが過ぎるのだ。それゆえ、この長い不毛な論議が続いている。

ヨブ記18:3 なぜ、われわれは獣のように思われるのか。なぜ、あなたの目に愚かな者と見えるのか。
18:4 怒っておのが身を裂く者よ、/あなたのために地は捨てられるだろうか。岩はその所から移されるだろうか。

ビルダデはヨブを「怒っておのが身を裂く者」としている。
本当に、人は、見えないものである。自分こそが、そのことをしている者であり、そして自分こそが、相手を怒らせている事を。
彼らに、以下の御言葉を知って行うたしなみがあったら、状況は変わっていたかもしれない。

マタイ7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

ヨブ記において、物事をややこしくしている「梁」とは、自分が正しいという思いと、怒りの二つであろう。
それは、私達にも言える事だ。
相手はどうしてこうなのだろう、どうしてみんなは、私だけに態度が違うのだろう、と感じた時、自問自答すべきである。
自分の目に、梁があるのではなかろうか、と。
相手が100%悪い、自分は100%正しい、という思い込み。その無意識的な前提条件こそ、やっかいな梁である。

どうしたら、この梁を取り除く事が出来るだろうか。
ヤコブは言っている。

ヤコブ1:19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

まず、聞く事。語るにおそい事。怒るに、おそい事。
ヨブ記の4人は、まさにこれに欠けている。
そして私達も、これらに欠ける者であるとするなら、行く先々で波乱を起こし混乱を起こし、面倒くさい人だと嫌煙されてしまう。

ヤコブ1:20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

もし私達の目に、人の怒りという「梁」が入ったままであるなら、誰も神の義へと導けるものではない。
もし、人を「神の義」が支配する状態へと導きたいなら、または、自分を取り巻く状況に「神の義」の支配をもたらしたいなら、まず、自分の中にある「人の怒り」を取り除く事から始まり、そして「語るにおそく、怒るにおそく」する努力が必要なのだ。

1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

御言葉こそ、救う力がある、と書いてある。
自分がどのような霊的状況にあるのか、そのような立ち位置にあるのかは、御言葉というものさしで計ってこそ、正しく導き出せる。
そして御言葉こそ、自分の中にある梁の正体を照らしだす光なのだ。

1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

完全な自由の律法、とわざわざ表現されている。なぜ単に「御言葉」ではなく、完全な自由の律法と表現したのか。
律法(トーラー)は613のするな・せよの命令集であり、聞くだけでも堅苦しく思えがちだが、それを守り行う先には、完全な自由があり、大きな祝福があるのだ。

1:26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ヨブと友人達を見ていると、思えてくる。
彼ら、信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いている、と。
しかし私達自身こそ、この罠に陥らないよう、よくよく戒めるべきである。

ヨブ記18:5 悪しき者の光は消え、/その火の炎は光を放たず、
18:6 その天幕のうちの光は暗く、/彼の上のともしびは消える。
18:7 その力ある歩みはせばめられ、/その計りごとは彼を倒す。
18:8 彼は自分の足で網にかかり、/また落し穴の上を歩む。
18:9 わなは彼のかかとを捕え、/網わなは彼を捕える。
18:10 輪なわは彼を捕えるために地に隠され、/張り網は彼を捕えるために道に設けられる。
18:11 恐ろしい事が四方にあって彼を恐れさせ、/その歩みにしたがって彼を追う。
18:12 その力は飢え、/災は彼をつまずかすために備わっている。
18:13 その皮膚は病によって食いつくされ、/死のういごは彼の手足を食いつくす。
18:14 彼はその頼む所の天幕から引き離されて、/恐れの王のもとに追いやられる。
18:15 彼に属さない者が彼の天幕に住み、/硫黄が彼のすまいの上にまき散らされる。
18:16 下ではその根が枯れ、/上ではその枝が切られる。
18:17 彼の形見は地から滅び、/彼の名はちまたに消える。
18:18 彼は光からやみに追いやられ、/世の中から追い出される。
18:19 彼はその民の中に子もなく、孫もなく、/彼のすみかには、ひとりも生き残る者はない。
18:20 西の者は彼の日について驚き、/東の者はおじ恐れる。

ビルダデは5節からとうとうと「悪い者はこうなる」「悪い者はこんなに酷い目にあう」と述べたてており、そして結論は以下の言葉である。

18:21 まことに、悪しき者のすまいはこのようであり、/神を知らない者の所はこのようである」。

彼は、悪人と決めてかかって、とうとうと語ったが、最終的に神からよしと認められたのは、ヨブのほうだった。
私達はこの事から戒めを受けるべきである。
自分の目に、梁がないか。
すなわち、人の怒りや自己義という梁によって見えない状態になっていないかを。

保証となって下さるお方が無いゆえに絶望するヨブと、そのお方がおられる故に希望がある私達(ヨブ記17章)
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ヨブは引き続き、神からも友人達からも見捨てられた心情を吐露する。

17:1 わが霊は破れ、わが日は尽き、/墓はわたしを待っている。
17:2 まことにあざける者どもはわたしのまわりにあり、/わが目は常に彼らの侮りを見る。
17:3 どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために/保証となってくれる者があろうか。

この3節の「保証となられるように」は、原文は「保証する」の命令形であり、直訳は「どうか置いて下さい。私を保証して下さい。あなたと共に」となる。
ヨブははっきりと、神に、自分の保証を求めている。
しかしその声は虚しく響き、ヨブの身を担保して下さる方が誰もいないので、ヨブの心は再び闇の中へ落ち込んで行く。

いかにヨブのような義人であったとしても、神と人との間に立って弁護し、執り成してくれるお方がいないなら、ただ絶望の闇に落ち込んで行く以外に無いのだ。

17:6 彼はわたしを民の笑い草とされた。わたしは顔につばきされる者となる。
17:7 わが目は憂いによってかすみ、/わがからだはすべて影のようだ。
17:8 正しい者はこれに驚き、/罪なき者は神を信ぜぬ者に対して憤る。
17:9 それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、/潔い手をもつ者はますます力を得る。

ここのヨブの叫びを見ると、あたかもイエス様が十字架の受難の中で叫んでいるかのような内容だ。
そう、イエス様は私達人間の代わりに、つばきかけられ、その目は憂いによってかすみ、そのからだは影のようになり、弁護される事なく、容赦なく十字架上で裁かれたのだ。

本来、私達こそ罪人であり、どんなに義人ぶったとしても、罪がある。
元々は、ヨブが絶望したように「神に捨てられた」「保証となってくれる人がいない」と言って絶望しなくてはならない者である。
しかし、イエス様が身代わりになって、十字架上で神に捨てられ、「父よ、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれた。
だから私達は、ヨブのように絶望する必要は無い。
イエス様が、私達の身代わりとなって捨てられて、死んで下さり、陰府へと下り、そしてよみがえり、今や、栄光の父の右に立って、私達の事を執り成しておられるのだから。

1ヨハネ2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために「助け主(パラクレートス:弁護者)」、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
2:2 彼は、わたしたちの罪のための、「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖罪蓋)」である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

「贖罪蓋」とは、契約の箱を覆う蓋であり、それが無いなら、契約の箱は外界へ開かれっぱなしであり、そうすると、罪有る人間は、神の「聖」に打たれて死んでしまう以外に無い。(1サムエル記6:19)
今や、イエス様が贖罪蓋となり、私達の罪を覆い、神と人との間の仲保者となって下さったゆえに、私達はイエス様ゆえに、自分の罪に打たれる事がないのだ。
ヨブには、それが無いという事で、絶望するしかなかった。

さらに私達を弁護して下さるパラクレートスが、ほかにおられる。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

イエス様が復活後、御父のところに上り、そこからペンテコステの日に送って下さった助け主、聖霊が、私達に留まり、それも、いつでも私達のうちにいて下さる。

ヨハネ14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

聖霊は私達と共におられ、そしてイエス様を証し、御父を証しして下さる。
だから、聖霊を否定する者は、御子も、御父をも否定する者であり、それは決して赦されないのだ。

こうして聖霊は、私達の弁護者となり、助け主となり、御子キリストを証するお方、御父を証するお方、である。
聖霊は私達が御国を受け継ぐ保証であられ、いつまでも共におられ、私達を生かし、導いて下さるお方である。

このように、私達はヨブのように、自分を保証して下さるお方がいないと言って絶望する必要が、全くなくなった。私達を保証して下さるお方、すなわち、私達の身を担保するために、身代わりになって十字架につけられ復活された主イエス様がおられ、そして、私達を弁護する助け主・聖霊がおられるからである。
この助けが得られている私達キリスト者は、どれほど素晴らしい中を、生かされていることだろう。

ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
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16-17章は、ヨブによるエリファズへの回答なのだが、といっても、彼の友人に向けられた言葉はわずかで、多くの言葉は、主に向けられている。

16:1 そこでヨブは答えて言った、
16:2 「わたしはこのような事を数多く聞いた。あなたがたは皆人を慰めようとして、/かえって人を煩わす者だ。
16:3 むなしき言葉に、はてしがあろうか。あなたは何に激して答をするのか。

ヨブは、エリファズの15章の1節から35節にわたっての論説を、わずかな言葉でばっさり切った。
状況を見極めず、ただ自分の思い込みによって相手を計り、その誤った動機から発せられた格言が、立派であればあるほど、また長々としていればいるほど、煩わしいものだ。

16:4 わたしもあなたがたのように語ることができる。もしあなたがたがわたしと代ったならば、/わたしは言葉を練って、あなたがたを攻め、/あなたがたに向かって頭を振ることができる。
16:5 また口をもって、あなたがたを強くし、/くちびるの慰めをもって、あなたがたの苦しみを/和らげることができる。

ヨブは、もし自分と友人達の立場が逆転したら、言葉を練って友人達を攻め、友人達に向かって頭を振る(すなわち、あざけりばかにする)事が出来、そして言葉でもってあなた方を強くし、苦しみを和らげる事が出来る、と、批判とも嫌味とも取れる事を言ったが、いずれにしてもヨブは、人も神からも何の助けを得られない事を嘆いている。

16:6 たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。

ヨブは、以上の言葉をもって、友人達への言葉は終わりにし、そして7節以降の言葉は、再び神に向けられる。
彼は再び吐露し始める。友人達から、そして神から、自分が苦しめられている事を。

16:7 まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。
16:8 彼はわたしを、しわ寄らせた。これがわたしに対する証拠である。またわたしのやせ衰えた姿が立って、わたしを攻め、/わたしの顔にむかって証明する。

彼は、自分に今ありありと現れている、このやつれ果てた自分の外見が、その証拠だ、と主に申し上げる。

16:9 彼は怒ってわたしをかき裂き、わたしを憎み、/わたしに向かって歯をかみ鳴らした。わたしの敵は目を鋭くして、わたしを攻める。
16:10 人々はわたしに向かって口を張り、/侮ってわたしのほおを打ち、/ともに集まってわたしを攻める。
16:11 神はわたしをよこしまな者に渡し、/悪人の手に投げいれられる。
16:12 わたしは安らかであったのに、/彼はわたしを切り裂き、/首を捕えて、わたしを打ち砕き、/わたしを立てて的とされた。
16:13 その射手はわたしを囲む。彼は無慈悲にもわたしの腰を射通し、/わたしの肝を地に流れ出させられる。
16:14 彼はわたしを打ち破って、破れに破れを加え、/勇士のようにわたしに、はせかかられる。
16:15 わたしは荒布を膚に縫いつけ、/わたしの角をちりに伏せた。
16:16 わたしの顔は泣いて赤くなり、/わたしのまぶたには深いやみがある。

ヨブは、神から敵対され、友人達から敵対され、もはや自分には何の助けも見いだせない事を告白し、絶望の暗闇に閉じ込められた心情を神に吐露している。
それでもヨブは、自分の潔白を主張する。

16:17 しかし、わたしの手には暴虐がなく、/わたしの祈は清い。
16:18 地よ、わたしの血をおおってくれるな。わたしの叫びに、休む所を得させるな。

血は、叫ぶ。義人アベルの血が神に叫んだように。
ヨブは、たとえ自分が死んだとしても、その血が覆われる事がないように、すなわち、自分の血がずっと潔白を叫び続けるように、と願う。

このように、神から捨てられ、人から捨てられ、ただ絶望しかない状況に追い込まれた、と感じているヨブは、驚くべき告白をする。

16:19 見よ、今でもわたしの証人(エド:証人、記録者)は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。
16:20 わたしの友はわたしをあざける、/しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
16:21 どうか彼が人のために神と弁論し、/人とその友との間をさばいてくれるように。

ヨブは、彼を見ておられ、彼を記録し、彼を保証しておられるお方の存在を告白しており、そしてその方が、自分と神との間に立って弁論してくださるように、と願っている。
さらに彼は、17:3においても、「どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれる者があろうか。」と言っている。

神と人との間に仲保者は、唯一、キリストであるが、ヨブはキリストを知らないはずである。
一体どうして、彼は、このような仲保者の存在をはっきりと告白し、願う事が出来たのだろう。

旧約において、アブラハムは自分達を導いて下さる御使いがいた事を意識しており(創世記24:7)、ダビデも、自分の前にはいつも主がおられた事を意識しており、それ故彼は揺るがず、心は楽しみ、望みがある事を喜んだ。
使徒2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。

モーセも、荒野で、彼らについて来た岩、すなわちキリストを意識し(1コリント10:4)、モーセの後に現れる指導者を預言した。
イザヤも、とりなして下さるキリストを預言した。(イザヤ53:12)
このように、旧約の信仰者達は、聖霊によってキリストを知り、意識し、預言したのである。

ヨブがはっきりと自分の保証となって下さるお方を告白しているからには、彼もまた、霊的に、そのお方の存在をさとったのかもしれない。
いずれにせよ、今、はっきりしている事は、私達には確かに、おられるのだ!
私達を神の御前で弁護し、保証して下さる御方、イエス・キリストが。

ローマ8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

私達の身代わりに死んで下さった方、そして、よみがえって下さった方・キリストが、私達のために、とりなして下さる。
のみならず、聖霊も言いようのない深いうめきによって、とりなしておられる。
ローマ8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように私達は、御子にとりなされ、御霊にとりなされ、そうして父なる神のみ前に大胆に進み出る事が出来、さばきにあう事がなく、永遠に生きるのである。
そして、キリストに繋がれたその”つながり”は、世の何者も奪う事が出来ない。

8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ヨブは、神から捨てられ人から捨てられたように思えた時、自分をとりなし弁論して下さるお方を叫んだが、私達にはいつでも仲保者キリストに助けを求める事が出来る。
私達が彼と共に歩むなら、彼があらゆる悪魔サタンの訴えから弁護し、私達の罪は覆われ、そのように救われた状態・祝福の状態のうちに、この世の旅路を歩んで行けるのである。

エリファズによる二回目の弁論 - 本質を外した格言の押し売り(ヨブ記15章)
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15:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、

テマン人エリファズの第二回目の論議である。
第一回目はまだ理性的であったが、しかしこの度の彼の言葉は、幾分ヒートアップしている。
自分達は知恵の言葉を披露した、その披露に対し、聞いた者は、ありがたさと尊敬をもっていただくものだ、と、期待していたのに、ヨブはそうではなかった。
その事のいらだちが、言葉の節々に現れ始める。

15:2 「知者はむなしき知識をもって答えるであろうか。東風をもってその腹を満たすであろうか。
15:3 役に立たない談話をもって論じるであろうか。無益な言葉をもって争うであろうか。

エリファズは、自分達は知恵がある者達である、それなのに、その私達の言葉を、あたかも作物を干からびさせる東風のようにあなたは見做すのか、と、彼をたしなめる。

15:4 ところがあなたは神を恐れることを捨て、/神の前に祈る事をやめている。

ヨブは祈っていなかったのだろうか?
いや、直前の13章後半から14章まではずっと神に対しての祈りだった。
ヨブは神を恐れていなかったのだろうか?
いや、祈りのはじまりである13章後半は、神に対する恐れだった。

エリファズにとって「祈り」は、理性的に、良い言葉だけを並べ立てる事だという決めつけがあったのかもしれない。
それだから、ヨブの、あまりに自由な、そして獣のような勢いで御前に言葉をぶちまけるものは、祈りではなく、神に対する暴言だと見えたのかもしれない。

いずれにせよ、エリファズは、ヨブの言葉の内容を結局聞いておらず、ヨブの状況を理解しておらず、ただ、ヨブの「激しさ」だけを見て、彼は神に逆らったのだ、罪を犯したのだ、と思い込み、そして、その思い込みの偏見がかかったまま、ヨブを諭す言葉を始める。
つまり、この15章のエリファズの諭しもまた、偏見というフィルターがかかった状態での言葉なので、ヨブに対しては全く空虚なことわざになってしまった。

15:5 あなたの罪はあなたの口を教え、/あなたは悪賢い人の舌を選び用いる。
15:6 あなたの口みずからあなたの罪を定める、/わたしではない。あなたのくちびるがあなたに逆らって証明する。

ヨブに対し、あなたはかなり偉そうで知恵があるかのように振舞っているが、私達もまたそれに引きを取らない者だぞ、と主張をする。

15:7 あなたは最初に生れた人であるのか。山よりも先に生れたのか。
15:8 あなたは神の会議にあずかったのか。あなたは知恵を独占しているのか。
15:9 あなたが知るものは/われわれも知るではないか。あなたが悟るものは/われわれも悟るではないか。
15:10 われわれの中にはしらがの人も、/年老いた人もあって、/あなたの父よりも年上だ。
15:11 神の慰めおよびあなたに対するやさしい言葉も、/あなたにとって、あまりに小さいというのか。

つまり、エリファズにとっての優れた知恵とは、先祖伝来の知恵であり、また白髪の年老いた人であればあるほど、その知恵に長けているものだ、というものである。
ひいてはヨブ、あなたはどれほどの知恵があるというのか、自分達はあなたよりも年上の者がいるではないか、と主張し、その上で、どうしてあなたの心は激しく波打って逆らうのか、と聞く。

15:12 どうしてあなたの心は狂うのか。どうしてあなたの目はしばたたくのか。
15:13 あなたが神にむかって気をいらだて、/このような言葉をあなたの口から出すのはなぜか。
15:14 人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生れた者は、どうして正しくありえよう。
15:15 見よ、神はその聖なる者にすら信を置かれない、/もろもろの天も彼の目には清くない。
15:16 まして憎むべき汚れた者、/また不義を水のように飲む人においては。

この言葉の内容は、4:17-19とほぼ同じである。
このように、ヨブを悪者、罪有る者に仕立て、彼が前に言ったのと全く同じように、悪者の行く道がどのようなものかを、くどくどと説き聞かせていく。

15:17 わたしはあなたに語ろう、聞くがよい。わたしは自分の見た事を述べよう。
15:18 これは知者たちがその先祖からうけて、/隠す所なく語り伝えたものである。

人の言葉を聞いていない人から「聞け」と言われても、ますます耳を塞ぎたくなるものであり、自分が知者の知恵を語るものだ、と言われても、相手の状態を正しく理解していない者がひけらかす知恵は、ただ人をうんざりさせるものでしかない。

15:19 彼らにのみこの地は授けられて、/他国人はその中に行き来したことがなかった。
15:20 悪しき人は一生の間、もだえ苦しむ。残酷な人には年の数が定められている。
15:21 その耳には恐ろしい音が聞え、/繁栄の時にも滅ぼす者が彼に臨む。
15:22 彼は、暗やみから帰りうるとは信ぜず、/つるぎにねらわれる。

エリファズは、悪人の道はこうだ、という論議を展開しているからには、暗に、ヨブ、あなたは悪者だと指摘しているのだ。


15:27 また彼は脂肪をもってその顔をおおい、/その腰には脂肪の肉を集め、
15:28 滅ぼされた町々に住み、/人の住まない家、荒塚となる所におるからだ。
15:29 彼は富める者とならず、その富はながく続かない、/また地に根を張ることはない。
15:30 彼は暗やみからのがれることができない。炎はその若枝を枯らし、/その花は風に吹き去られる。
15:31 彼をしてみずから欺いて、/むなしい事にたよらせてはならない。その報いはむなしいからだ。
15:32 彼の時のこない前にその事がなし遂げられ、/彼の枝は緑とならないであろう。
15:33 彼はぶどうの木のように、/その熟さない実をふり落すであろう。またオリブの木のように、その花を落すであろう。
15:34 神を信じない者のやからは子なく、/まいないによる天幕は火で焼き滅ぼされるからだ。
15:35 彼らは害悪をはらみ、不義を生み、/その腹は偽りをつくる」。

このように、状況を見極めないで、自分の思い込みによって相手を計り、その誤った計りによって格言と箴言を調合し、相手に無理やり飲ませようとする時、私達もただ相手を苦しめ、病状をもっと悪化させてしまうことになる。

 

旧約では開示されていなかった、人の死んだ後の有り方(ヨブ記14章)
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14:1 女から生れる人は/日が短く、悩みに満ちている。
14:2 彼は花のように咲き出て枯れ、/影のように飛び去って、とどまらない。
14:3 あなたはこのような者にさえ目を開き、/あなたの前に引き出して、さばかれるであろうか。

ヨブはさらに、神に向かって疑問と願いを投げかける。
こんな花のようなはかない自分にさえ目を留めて徹底してさばかれるのですか、と。

14:4 だれが汚れたもののうちから清いものを/出すことができようか、ひとりもない。

イザヤも告白している。自分はくちびるの汚れた民の間に住んでおり、くちびるの汚れた者だ、と。
そしてヨブ自身、自分が汚れた者であり、どう考えても、どう転んでも、自分の中から良いものをひねり出す事は出来ない。
今まで多大な努力をしたけれども出来なかった、と。
ヨブのような義人でさえ、そうなのだ。人間、誰もが、どう転んでも罪の中にある。
しかし神は、この時ヨブが考えているような、すなわち、人間の罪を事細かにつまんで、裁いて、苦しみのまま放置されるようなお方ではない。
神は実に、その、人の罪と死という問題を扱うために、ひとり子キリストをお与えになる程の愛をもって愛し、創世記3章から黙示録20章までの膨大な贖いと救いのご計画を発動されたのだ。
それは、信じる者が誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持ってほしいと、願っておられるからである。

14:5 その日は定められ、/その月の数もあなたと共にあり、/あなたがその限りを定めて、/越えることのできないようにされたのだから、
14:6 彼から目をはなし、手をひいてください。そうすれば彼は雇人のように、/その日を楽しむことができるでしょう。

ヨブは願っている。限り有る人生、死んだらおしまいなのだから、せめて、罪有る人間にそんなに目を留めず、手を引いて下さい、かまわないでください、そうすれば、人はそのはかない人生の中、はかない楽しみができるでしょう、と。
あいにく聖書は、そのようなはかない現世利得を提供して、せいぜい生きている間は楽しみなさい、というようなものではない。
ヨブは、私から目をそらして下さい、かまわないでください、と言ったが、とんでもない。
イエス様の十字架の場面で、二人の強盗も刑罰を受けていたが、その内の一人の言葉に注目したい。

ルカ23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

この強盗の人生は、ヨブに比べ、圧倒的に義人とは遠い生き方をして来た、にもかかわらず、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行った。なぜだろうか。
それは、強盗はイエス様に「御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言った。
そう、「わたしを思い出してください」と、関わりを求めて行ったから、彼はパラダイスに行けたのだ。
ヨブは義人であったが「かまわないでください」と言って、苦しみが続いた。
しかし強盗は、自分の罪ゆえの刑罰から来る痛みの中でも、自分の罪を認め、自分には到底及ばない御国の王位に着かれるイエス様に「思い出してくださ」と関わりを求めたからこそ、彼はパラダイスに行けたのだ。

14:7 木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。
14:8 たといその根が地の中に老い、/その幹が土の中に枯れても、
14:9 なお水の潤いにあえば芽をふき、/若木のように枝を出す。
14:10 しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。
14:11 水が湖から消え、/川がかれて、かわくように、
14:12 人は伏して寝、また起きず、/天のつきるまで、目ざめず、/その眠りからさまされない。
14:13 どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。
14:14 人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。

ヨブの哲学は、人はひと度死んでしまったら、もう生き返らない、というものだった。
旧約においては死んだ後の概念が新約ほどはっきりしたものではなかった。
最高の知恵が与えられたソロモンでさえ、次のように言った。

伝道者の書3:20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
3:21 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
3:22 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。

こういうわけで、旧約は、死後の概念があいまいで、地上で生きている限りの幸いこそ全てだと思われていた所もあり、死人の復活を信じないサドカイ派もあれば、復活を信じるパリサイ派もあった。
しかし主は、新約において、死後どのようになるのかを、はっきりさせて下さった。

黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

このように、死後、必ずよみがえらされ、おのおの「しわざ」に応じてのさばきがあり、そして、死も、よみも、火の池へと投げ込まれる。
善人も悪人も同じところに行く、というのは、誰もが訪れる「第一の死」においては、そうだろう。
しかしその後にさばきがあり、主の前に悪と見られた人は、永遠の死、「第二の死」に入るのだ。

2コリント5:1-10
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

私達には、キリストにあってさばきを免れ、永遠のいのちに至る望みがある。

ヨハネ5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
5:26 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
5:27 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

ある人は、さばきのためによみがえらされ、ある人は、生命を受けるためによみがえらされる。
その分岐点は、キリストの御声を聞いて善をおこなうか、それとも悪をおこなうか、である。

神と論じ合う(ヨブ記13章)
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ヨブは友人達に対し、さらに語る事を止めない。

ヨブ記13:1  見よ、わたしの目は、これをことごとく見た。わたしの耳はこれを聞いて悟った。
ヨブ記13:2  あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。わたしはあなたがたに劣らない。
ヨブ記13:3  しかしわたしは全能者に物を言おう、わたしは神と論ずることを望む。

ヨブは、友人達のあまりに的を外した心なしの格言に飽々して怒り、ついに、神に挑戦したい事を表明する。
彼は今まで、ここまではっきりと「神と論ずる事を望む」と言い切った事は無かった。いわば友人達の心なしの格言の応酬が、ヨブをそのように引き出したのだ。
友人達からすれば、なんと恐れ多い言葉を神に発してしまったのか、と思う所かもしれないが、実を言うと、「神と向き合って論じあおう」としたその時点が、その人にとっての重要な転換点となる。

神と論じ合おうとする事は、とても重要である。
イザヤ1:18  主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
イザヤ1:19  もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
イザヤ1:20  しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

イザヤ書では、主が「互いに論じよう」と言っており、それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていく、というのだ。
人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事である。それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。

旧約の偉人・エノク、ノア、アブラハムに共通しているキーワードは、神と共に「歩む(ハーラフ)」である。(創世記5:22-24, 6:9,12:1-2)
彼らは、罪深い時代・罪深い人々の中に住んでは居ても、周囲の愚かさや思想とは一つにならなかった。それは主と共に歩み、主の御言葉を守り行い、そうして「全き者」(創世記17:1)となって行ったからだ。

神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、呪われるための近道は、祝福の源なる神との密接な関わりと解く事、神から離れる事である。ちょうどカインのように。

ヨブはこの時点、主に対して怒っていたものの、主に対して激しく論じて行き、そして主は彼と激しく論じて下さり、そうして後、倍の恵みを施して下さった。
ちょうどヤコブが、神と取っ組み合いの相撲を取り、その後に祝福が与えられ、新しい名イスラエルが与えられたように。
私達も進んで、神と関わり合うべきである。

ヨブ記の結論は、ヤコブ5:11である。
ヤコブ5:11  忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

多くの人々は、ヨブ記を、なんにも悪い事をしていない正しい人に、なぜ災いが起きるのか、という「神の不条理」を扱った文献と思っているが、その解釈は、中途の災いにしかフォーカスしていない人間の解釈である。
ヨブ記の結論、それはヤコブ書に書いてある通り、「忍耐した人は幸いである」「主はいかに慈愛とあわれみとに富んだ方か」という事だ。
実際ヨブ記を全部読んでみると、ヨブが災いに遭っていた日々に比べ、祝福と幸いに満ちた年数の方が、圧倒的に多いではないか。

ただ、このヨブ記13章という時点では、彼は激しく怒っており、神と論じ合あおうという勢いだが、その前に彼は友人達をこてんぱんにこき下ろす。

ヨブ記13:4  あなたがたは偽りをもってうわべを繕う者、皆、無用の医師だ。
ヨブ記13:5  どうか、あなたがたは全く沈黙するように。これがあなたがたの知恵であろう。
ヨブ記13:6  今、わたしの論ずることを聞くがよい。わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。

ここまで言われてしまっては、友人達もさらにヒートアップせざるを得ない。

ヨブ記13:7  あなたがたは神のために不義を言おうとするのか。また彼のために偽りを述べるのか。
ヨブ記13:8  あなたがたは彼にひいきしようとするのか。神のために争おうとするのか。
ヨブ記13:9  神があなたがたを調べられるとき、あなたがたは無事だろうか。あなたがたは人を欺くように彼を欺くことができるか。
ヨブ記13:10  あなたがたがもし、ひそかにひいきするならば、彼は必ずあなたがたを責められる。
ヨブ記13:11  その威厳はあなたがたを恐れさせないであろうか。彼をおそれる恐れがあなたがたに臨まないであろうか。

ヨブは、彼らが自分達を教え諭す者、「高い者」として位置づけ、「低められているヨブ」「間違っているヨブ」を教え諭し、正しい方向に導こうとして、実際は的を外した格言を並べ立てている事を、ヨブは、「神に成り代わっている」「傲慢だ」と非難し、神がそんなあなた方に現れるならあなた方は耐えられるのか、とまで言っている。

ヨブ記13:12  あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は土の盾だ。
ヨブ記13:13  黙して、わたしにかかわるな、わたしは話そう。何事でもわたしに来るなら、来るがよい。

彼はもはや、友人達には黙っていてほしい、自分はただ、神と関わりたい、という願いを叫びの中で打ち明けた。
人は、人生の中でどうしようも超えられない苦難や悲しみに直面した時、何かの慰めや解決を求めて、誰か「人」に行くなら、大体、もっと失望するものだ。
苦難や悲しみの度合いが深ければ深い程、なお、そうである。
そのような時、ヨブのように、人にではなく、神に向かうべきなのだ。

ヨブ記13:14  わたしはわが肉をわが歯に取り、わが命をわが手のうちに置く。
ヨブ記13:15  見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。
ヨブ記13:16  これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。
ヨブ記13:17  あなたがたはよくわたしの言葉を聞き、わたしの述べる所を耳に入れよ。
ヨブ記13:18  見よ、わたしはすでにわたしの立ち場を言い並べた。わたしは義とされることをみずから知っている。
ヨブ記13:19  だれかわたしと言い争う事のできる者があろうか。もしあるならば、わたしは黙して死ぬであろう。

ヨブは何もかも失い、瞬間瞬間、ひどい”かゆみ”に悩まされ、さらには、友人達にも悩まされている状態である。
もう自分は失う者は無い、どころか、瞬間瞬間ただ苦痛だ、もうどうなってもいい、ともかく、ここまでなったからには神と論じ合いたい、と求めるようになった。
それで20節以降、神との論議に入るのだが、しかし最初の論調は、友人達に示したような凛々しく激しい態度ではなく、まずは、恐る恐るのお願いから始まる。

ヨブ記13:20  ただわたしに二つの事を許してください。そうすれば、わたしはあなたの顔をさけて隠れることはないでしょう。
ヨブ記13:21  あなたの手をわたしから離してください。あなたの恐るべき事をもってわたしを恐れさせないでください。
ヨブ記13:22  そしてお呼びください、わたしは答えます。わたしに物を言わせて、あなたご自身、わたしにお答えください。

つまり、神の圧倒的な力と圧倒的な正しさでわたしを圧迫しないで下さい、この痛手を取り除いてください、そして、わたしが話せるように、お膳立てして下さい、というのだ。
神に論じ合いたい!と激しく迫っておきながら、神に憐れみを求めているのである。
なんと調子の良い、と思えるかもしれないが、私達も神にお願いする時、調子よくお願いするものである。
ヨブはさらに、調子の良い申し出をする。

ヨブ記13:23  わたしのよこしまと、わたしの罪がどれほどあるか。わたしのとがと罪とをわたしに知らせてください。
ヨブ記13:24  なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか。
ヨブ記13:25  あなたは吹き回される木の葉をおどし、干あがったもみがらを追われるのか。
ヨブ記13:26  あなたはわたしについて苦き事どもを書きしるし、わたしに若い時の罪を継がせ、

ヨブは、自分が罪を犯した者であると自覚している。
そして、自分が若き時に犯した罪は、ほんの木の葉ほどだ、そんな小さな一つ一つの罪さえも詳細に記録して、ご覧になられるのか、と、申し上げている。

ヨブ記13:27  わたしの足を足かせにはめ、わたしのすべての道をうかがい、わたしの足の周囲に限りをつけられる。
ヨブ記13:28  このような人は腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれる。

昔、奴隷を持っていた主人は、奴隷の足型を取るか、あるいは足の裏に焼き印を押す。それは万一奴隷が逃げたとしても、その足あとから、どの奴隷が、どこに逃げたのかを特定するためだった。
ヨブは神に対し、自分の足あとの記録を、良しも悪しもつぶさに記録し、その一つ一つを入念に調べつくされているような気がしたのだ。
現在インターネット上で、人々がネット上で行った物事が全部、ウェブログ上に記録されているように。
ヨブは、神よ、あなたはそんな足あとの一つ一つも記録しておられるのですか、そんな事をしたら、誰も彼も、腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれてしまいますよ、と申し上げている。
そう、そんな事をされたら、人は、ひとたまりもない、と思う。しかし神は、ウェブログよりもさらに詳細に一人一人の記録をしておられ、それによって終わりの日、裁かれる事になる。

人は人生の内で、一体いくつ、主に打たれても仕方がない罪を犯して来ただろうか。ヨブでさえ、そうなのだ。
一体なぜ人は、主の御前に死罪に値するような事を何遍も犯しているのに、主に打たれずに、こうして生きながらえているのか。

それは、「神の恵み」故である。
私達は今、恵みの中で生かされている。
神は、悪は即処罰と機械的に処断するお方ではなく、情状酌量して下さるお方であり、私達はこの恵みの日、救いの日の内に、キリストの十字架の贖いの覆いへと、飛び込んでいくべきである。救われるために。
神と積極的に関わっていくべきである。
ダビデは積極的に、神に情状酌量を求めて祈った。

詩篇25:6  主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
詩篇25:7  わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。
詩篇25:8  主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
詩篇25:9  へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
詩篇25:10  主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである。
詩篇25:11  主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

積極的に神と関わり、時にはヨブのように神と論じ合い、時にはヤコブのように神と相撲を取り合い、神と仲良く共に歩みつつ、造り変えられ続け、祝福の実りを豊かに実らせていく皆様の人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ヨブの応答 - 善悪判断の応酬という不毛な牢獄へ落ち込んで行くヨブ達(ヨブ記12章)
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ナアマ人ツォファルの言葉に対してヨブが答えるが、その答えは、ツォファルへの返答というより3人の友人達の論説に対するヨブの辛辣な総評となり、さらには、神と論じ合いたい(13:3)とまで、論調がエスカレートして行ってしまう。

12:1 そこでヨブは答えて言った、
12:2 「まことに、あなたがたのみ、人である、/知恵はあなたがたと共に死ぬであろう。

ヨブは、あなた方が広げた知恵は人の知恵、死ねば一緒に無くなる息のような知恵だという酷評から始まる。
ツォファルは、ヨブを口達者なおしゃべりで、それもそのおしゃべりの内容は、「むなしい(バド:うそ)」、「あざけり」だと決めつけてかかって来た(11:3)が、ヨブはまさに売り言葉に買い言葉で返し、自分も知恵ある者だ、と主張する。

12:3 しかしわたしも、あなたがたと同様に悟りをもつ。わたしはあなたがたに劣らない。だれがこのような事を知らないだろうか。
12:4 わたしは神に呼ばわって、聞かれた者であるのに、/その友の物笑いとなっている。正しく全き人は物笑いとなる。

ヨブ自身、自らを悟りある者、あなた方に劣らない者である、わたしは神を呼んで神に聞かれた者である、それなのにあなた方ときたら、わたしを物笑いにしている、と批判し、あなた方が開帳したそんな知恵など、知らない者があろうか、と、こきおろす。
感情が高ぶって発せられた言葉とはいえ、一応、ヨブを思いやって訪ねて来た友人達である。傲慢な言葉であるが、以下に続く言葉は、もっと論調がヒートアップして行く。

12:5 安らかな者の思いには、/不幸な者に対する侮りがあって、/足のすべる者を待っている。
12:6 かすめ奪う者の天幕は栄え、/神を怒らす者は安らかである。自分の手に神を携えている者も同様だ。

ヨブは、友人達が、自分達は安泰な者、不幸に落ちぶれたヨブを、高い位置にある自分達が教え導かなければならない、というような立場にしている、と指摘し、しかも、「かすめ奪う者」「神を怒らす者」「自分の手に神を携えている者」という言葉を発したからには、暗に、ヨブの友人達はそのような者だ、と批判しているのだろう。

義人ヨブ。なぜここまでねじ曲がってしまったのか。
パウロは言う。

1コリント3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、
3:20 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。

ヨブと友人達は、自分をこの世の知者だと思っており、それを曲げずにいるが、ヨブのように大いに苦しんでいる友人と相対した時には、むしろ自分の知者である事を降ろし、愚かになるべきだ。
もし自分をあくまで知者だと貫くなら、「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある通りである。

もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていないのである。(1コリント8:2)
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てるからだ。(同1節)
むしろ、「自分は正しい」という思い込みは、ヨブのような義人さえも腐らせてしまうのだ。

ヨブはさらに言う。
12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/主の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。

全ての生き物のいのち(ネフェシュ:生物的な命)も、神の似姿である人間の息(ルアッハ:神の霊)も、全て神の御手が下さるものである。
そのような事は、何も、あなた方が言わなくても、獣でも、鳥でも、地も、海の生き物さえ、みんな知っている事だ、とヨブは言う。
ちなみに、ヨブ記3章から37章の、詩文体の討論の中で、唯一、主エホバの御名があるのは、この12章9節のヨブの言葉のみである。
それ程、この討論には、主エホバの御名の無い、人間の知恵、人間の正しさばかりがはびこっている、不毛なものなのだ。

12:11 口が食物を味わうように、/耳は言葉をわきまえないであろうか。
12:12 老いた者には知恵があり、/命の長い者には悟りがある。
12:13 知恵と力は神と共にあり、/深慮と悟りも彼のものである。

友人達の言葉は、ヨブには全く響かなかった。味わいが無かった。
知恵は、人が年を取れば自動的に身につけるものではない、神が下さるものである、それに引き換えあなた方の知恵は人間由来で、死んでしまえば無くなるものだ、とヨブは主張している。

友人達は、因果応報的な神観を打ち出したが、続く14節以降から読み取れるヨブの神観は、神は何か専制君主のように、思いのままに人を高くし、あるいは引きずり下ろす圧制者のようなお方であるかのような感じが、にじみ出ている。
それはねじ曲がった神観であるが、ヨブをそのようにしてしまったのは、結局、ヨブと友人達の「自分は正しい」という、頑として曲げない前提条件と、「自分は知者だ」という驕り高ぶりである。
自分は善、あれは悪。
そのような善悪判断こそ、全てのものに死をもたらす毒薬である。

創世記2:16  主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17  しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

ヨブと友人達を、主エホバの御名の無い、不毛な人間の議論という「死」へと導いてしまったものは、飽くなき善悪主張なのだ。
結局、この12章から学ぶべき言葉、この不毛な善悪応酬の牢獄から解放される鍵は、以下の御言葉であろう。

ローマ12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
12:16 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

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