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詩篇講解説教
主のタイミングで主の御旨を実行せよ(詩篇89:19-52)
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この詩篇89篇は、永遠であり普遍なる神が、ダビデと契約を結ばれた事、そして、その契約を結ばれた主は、はじめから終わりまで真実であられた事を歌っている。
主は永遠に真実なお方であるのに対し、人の側は、誠実な時もあれば、不実な時もある。
人が誠実な時には、主は誠実への報いとして大きな祝福を与えられるが、不実な時には、懲らしめとして苦難を与えられる。
この詩篇の後半は、将来のダビデの子孫たちが不従順ゆえに災いに遭っている姿を見せられたエタンによる、とりなしの叫びである。
そのような叫びが出来るのは、主は義であると同時に、憐れみ深く、恵み深い方である事を、彼が知っていたからだ。
18節までは、王の王であられる神の栄光を賛美していたが、19節以降では、特に、ダビデ契約の性質を詳しく示している。
89:19 昔あなたは幻をもってあなたの聖徒に告げて/言われました、「わたしは勇士に栄冠を授け、民の中から選ばれた者を高くあげた。
神はダビデを選んで、その王国を固く建て、その子孫に、永遠の支配をゆだねられた。
その子孫とは、イエス・キリストである。
さらに20節以降に、主がダビデに与えてくださった真実と恵みの数々が、記されている。
89:20 わたしはわがしもべダビデを得て、これにわが聖なる油をそそいだ。
89:21 わが手は常に彼と共にあり、わが腕はまた彼を強くする。
89:22 敵は彼をだますことなく、悪しき者は彼を卑しめることはない。
89:23 わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、彼を憎む者どもを打ち倒す。
89:24 わがまことと、わがいつくしみは彼と共にあり、わが名によって彼の角は高くあげられる。
89:25 わたしは彼の手を海の上におき、彼の右の手を川の上におく。
89:26 彼はわたしにむかい『あなたはわが父、わが神、わが救の岩』と呼ぶであろう。
実際、ダビデは、神に助けられ、サウル王やペリシテ人から守られ、そしてサウルに代わる王とされた。
そうして向かうところ敵なしの状態となって、イスラエルに敵対していた国々を平定した。
それは、26節にある通り、ダビデは神を父とし、「わが神」「わが救いの岩」としたゆえであった。
続く節で、神は応答される。
89:27 わたしはまた彼をわがういごとし、地の王たちのうちの最も高い者とする。
89:28 わたしはとこしえに、わがいつくしみを彼のために保ち、わが契約は彼のために堅く立つ。
89:29 わたしは彼の家系をとこしえに堅く定め、その位を天の日数のようにながらえさせる。
神はダビデを「ういご」として扱われた。
実際、ダビデの子孫、イエス・キリストは、全て神に召された者たちの長子である、と、ローマ8:29に書かれてある。
ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
そう、召し出された私達・教会は、全ての事が働かされて、益とされる者たちである。
たとえ世の中が、どのような情勢となったとしても。
なぜなら神は、召し出された人々を、御子キリストと同じ姿へと、あらかじめ定められていたからである。
詩篇89篇30節以降には、もし、ダビデの子孫たちが、神様の真実に対し、「不真実」で返したら、どうなってしまうのか、あらかじめ警告されていた内容が示されている。
89:30 もしその子孫がわがおきてを捨て、わがさばきに従って歩まないならば、
89:31 もし彼らがわが定めを犯し、わが戒めを守らないならば、
89:32 わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。
89:33 しかし、わたしはわがいつくしみを/彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。
89:34 わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
89:35 わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。
89:36 彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
89:37 また月のようにとこしえに堅く定められ、大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ
確かに、主との契約を破って、主から離れるとするなら、懲らしめと刑罰が待っている。
しかし同時に、主は、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない、と言われた。
「わたしは決して捨てない」という、素晴らしい主の恵みが、あらかじめ表明されていたのだ。
確かにダビデの王家は、代々、主に逆らってきた。
にもかかわらず、主は、ダビデの家を覚えておられ、その子孫から、救い主イエス・キリストをお建てになった。
38節以降を見ると、エタンが見せられた刑罰の厳しさがわかる。
89:38 しかしあなたは、あなたの油そそがれた者を/捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られました。
89:39 あなたはそのしもべとの契約を廃棄し、彼の冠を地になげうって、けがされました。
89:40 あなたはその城壁をことごとくこわし、そのとりでを荒れすたれさせられました。
89:41 そこを通り過ぎる者は皆彼をかすめ、彼はその隣り人のあざけりとなりました。
89:42 あなたは彼のあだの右の手を高くあげ、そのもろもろの敵を喜ばせられました。
89:43 まことに、あなたは彼のつるぎの刃をかえして、彼を戦いに立たせられなかったのです。
89:44 あなたは彼の手から王のつえを取り去り、その王座を地に投げすてられました。
89:45 あなたは彼の若き日をちぢめ、恥をもって彼をおおわれました。〔セラ
ここの「彼の若い日を短くし」とは、エホヤキン王の事を指すと思われる。
彼は18歳(2歴代誌36:9のヘブル語本文では8歳)で王となりエルサレムで3か月間王であった。
ソロモンの時代を生きていたエタンは、そのような暗い遠い将来を、「琴と立琴とシンバルをもって預言する者(1歴代誌25章)」として、預言の内に見せられ、この詩を書いたのだろう。
46-51節は、その悲惨な状況に対する主への叫びである。
89:46 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか。あなたの怒りはいつまで火のように燃えるのですか。
89:47 主よ、人のいのちの、いかに短く、すべての人の子を、いかにはかなく造られたかを、みこころにとめてください。
89:48 だれか生きて死を見ず、その魂を陰府の力から/救いうるものがあるでしょうか。〔セラ
89:49 主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた/昔のいつくしみはどこにありますか。
89:50 主よ、あなたのしもべがうけるはずかしめを/みこころにとめてください。主よ、あなたのもろもろの敵はわたしをそしり、あなたの油そそがれた者の足跡をそしります。わたしはもろもろの民のそしりを/わたしのふところにいだいているのです。
悲惨な現状が到来してしまう原因は、ほぼ、私達の側にある。
私達・神の民が、主の御旨に沿った管理を、し損ねると、管理しなかった分の解決すべき問題の山々が、こちらを強制的に支配しにかかって来る。
すなわち、管理しなかった人間関係、管理していなかった勉強時間、管理していなかった、その他もろもろが。
それらがやがて、牙をむいて、こちらを強制的に支配しにかかって来るのだ。
それは法則ではあるが、しかし主は、「無感情な法則」のようなお方ではなく、恵み深いお方である。
それだからエタンは訴えているのである。
私達も、個人的に主に訴え祈ることができる。
エタンは、そのような訴えをしはしたけれども、最後は頌栄と、アーメン、アーメンでこの詩を終え、詩篇第三巻を閉じた。
89:52 主はとこしえにほむべきかな。アァメン、アァメン。
私たちの生活も、もしかすると、エタンが見たような葛藤の中にあるかもしれない。
しかし、人の目に見える時間があると同時に、人の目には見えない「神の時間」がある。
私達が見える時間は、政治家、社長、株主など、この時代の強者が支配している。
しかし神は、見えない時間を管理しておられ、神の民に、神の時を告げ知らせ、神の経営を実行させるために、御言葉を下さる。
私達は、その「時」を悟り、時にかなった事をする「時間マスター」になるべきである。
私達が、主のタイミングで主の御旨を実行するなら、主の大いなるわざをもたらす「歴史の主人公」となれる。
しかし、もしそれが与えられているにもかかわらず、実行しないなら、大きなチャンスをみすみす逃すだけではない。
エタンが見せられたように、後々の自分や子々孫々へと、大きな災いを残してしまう事になる。
今、私達は、与えられている時間を自分の好き勝手にする時間としてではなく、主の御旨を悟り、主が仕組んだ時間として正しく管理し、主の御旨を実行させるために、用いられるべきである。
詩篇講解説教
神の民による永遠の賛美(詩篇89:1-18)
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詩篇89篇表題:エズラびとエタンのマスキールの歌
この詩篇の作者はエタンで、彼は、前章の作者・ヘマンと同じく、ソロモンと比べられる程の知恵者で(1列王記4:31)、また、聖歌隊指導者の1人として記されている。(1歴代誌15:19)
エタンの名の意味は、「永遠の」「恒久的な」で、その名前どおり、彼はこの詩篇において、永遠的に主の栄光をあらわしている。
この詩篇では、特に、神様がダビデと結んで下さった契約において示された主の恵みと真実を賛美している。
エタンはまず、1-2節において、彼の信仰を告白し、宣言した。
詩篇89:1 主よ、わたしはとこしえにあなたのいつくしみを歌い、わたしの口をもってあなたのまことを/よろずよに告げ知らせます。
詩篇89:2 あなたのいつくしみはとこしえに堅く立ち、あなたのまことは天のように/ゆるぐことはありません。
いつくしみ(ヘセド)は「恵み」、まこと(エムナー)は「真実」とも訳されるが、それらキーワードがこの詩篇で繰り返され、神様の恵みと真実が強調されている。
詩篇89:3 あなたは言われました、「わたしはわたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓った、
詩篇89:4 『わたしはあなたの子孫をとこしえに堅くし、あなたの王座を建てて、よろずよに至らせる』」。〔セラ
ここは、2サムエル記7章にて主がダビデと結ばれた契約を指している。
主はダビデに、「あなたの子孫(単数形)」をとこしえに堅くし、王座を建てて、よろずよに至らせる、と約束された。
その、ダビデから出る「単数形の」子孫は、私達の救い主イエス・キリストである。
私達はなぜ、エタンが言ったごとく、「永遠に」主を賛美できるのか。
それは、ダビデの子孫として来られたイエス・キリストの、十字架の贖いのゆえである。
イエス様が、私達の身代わりとなって処罰を受け、私達のいのちを買い戻して下さった。
それを信じる者は、聖別され、永遠のいのちが与えられる。
それゆえに、私達・聖徒は、とこしえに主を褒め称えるのである。
5節以降には、主が為して下さったくすしいわざへの賛美が捧げられている。
詩篇89:5 主よ、もろもろの天/にあなたのくすしきみわざをほめたたえさせ、聖なる者のつどいで、あなたのまことをほめたたえさせてください。
そう、天は、主を賛美しているのだ。
太陽も、月も、星々も。
そして、御使いたちも。
そして、地においては、「聖なる者のつどい(直訳:聖なる集会)」の中で、賛美が捧げられている。
聖徒の集会における賛美は、天における御使い達の賛美に匹敵する、すばらしい体験なのである。
詩篇89:6 大空のうちに、だれか主と並ぶものがあるでしょうか。神の子らのうちに、だれか主のような者があるでしょうか。
詩篇89:7 主は聖なる者の会議において恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって/大いなる恐るべき者です。
詩篇89:8 万軍の神、主よ、主よ、だれかあなたのように/大能のある者があるでしょうか。あなたのまことは、あなたをめぐっています。
そう、天でも、地でも、私達の主に、比べうるものはいない。
啓示録においても記されている。
天の御使いが、こぞって賛美する、のみならず、天と地と、地の下と、海の上の、あらゆる造られたものが、さらに、その中に生息している全生物が、賛美するのだ。
黙示録5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
この、天的な賛美においては、父なる神と、ほふられた小羊とに、賛美が向けられている。
神の小羊キリストが、その十字架の血潮をもって、全被造物を贖って下さったからである。
9-13節においては、被造物に見られる主のみわざの栄光が、賛美されている.
詩篇89:9 あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められます。
詩篇89:10 あなたはラハブを、殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある腕をもって散らされました。
ラハブは、前章でも見たように、エジプトを象徴的に表している。
エジプトは、神の民イスラエルを束縛し、奴隷化し、虐げた。
しかし主が、それを打ち砕き、神の民を解放して下さった。
同じように主は、神の民である私達キリスト者を束縛し、奴隷化し、虐げるような、あらゆる勢力を打ち砕き、そこから解放して下さる。
詩篇89:11 もろもろの天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、世界とその中にあるものとは/あなたがその基をおかれたものです。
詩篇89:12 北と南はあなたがこれを造られました。タボルとヘルモンは、み名を喜び歌います。
詩篇89:13 あなたは大能の腕をもたれます。あなたの手は強く、あなたの右の手は高く、
ここに、2つの山がでてくる。
1つ目のタボル山は、いわゆる変貌山と呼ばれる山で、また、アブラハムが戦争で勝利した際、メルキゼデクが彼に現れ、アブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げた山である。
現在、メルキゼデクの記念碑と、イエス様の変貌記念教会がある。
2つ目のヘルモン山は、豊かに水をもたらす山としてよく聖書に出てくる。
2000m級の非常に高い山々で、サタンはイエス様をそこに連れて行って、全ての国々の栄光を見せた所(マタイ4章)、また、人間を捕獲し、バベルの塔を建てた、ニムロデの城が発掘されている。
しかし主は、悪い者に高慢な事に用いられた所であっても、変わらず、力ある御腕を現して下さる(13節)。
詩篇89:14 義と公平はあなたのみくらの基、いつくしみと、まことはあなたの前に行きます。
義(ツェデク)と公正(ミシュパート)は、主のご性質である。
しかし、私達・罪ある人間は、義と公正なる主の前に立てない。
しかし、主が「恵みとまこと」(ヘセドとエメス)を先立せて下さった。
それで私達は、おりにかなった助けをいただくために、大胆に御前に進み出る事ができるのだ。
15-18節には、主を賛美する民の幸いが語られている。
詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、
詩篇89:16 ひねもす、み名によって喜び、あなたの義をほめたたえます。
「主の御顔の光」は、主の恵みと平安の祝福である。(民数記6:21-27)
主を賛美する民は、その祝福の中を歩む。
詩篇89:17 あなたは彼らの力の栄光だからです。われらの角はあなたの恵みによって/高くあげられるでしょう。
詩篇89:18 われらの盾は主に属し、われらの王はイスラエルの聖者に属します。
主のご恩寵によって、私たちの角(力と勢いの象徴)が、高く上げられる。
そして、ダビデもよく言っているように、主が、私達・主の民の「盾」となって下さるから、私達は守られる。
それゆえ私達も、とこしえに、主を賛美するのである。
詩篇講解説教
鬱々としてオチが無い詩篇、か?(詩篇88篇)
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この詩篇88篇は、はじめから終わりまで、鬱々として暗い雰囲気に終始しており、他の詩篇のように、「しかし」つきのV字回復や、感謝、賛美なしに終わる。
暗い雰囲気で始まる詩篇は沢山あるが、ほぼ、「希望のオチ」で終わる。
けれども、この詩篇には、そうした「オチ」が無い。
世のブルースや演歌は、はじめから終わりまで恨み節、という曲は多いが、しかしこの詩篇が、それらと違うのは、はじめから終わりまで、主を呼び求める「祈り」で終始している事である。
人生の価値は、順境か逆境か、楽しいか苦しいか、喜んでいるか悲しんでいるか、などで計れるものではない。
「主と向き合っているか、いないか」
それによって、計られる。
どんなに順境で、楽しく、喜びの毎日であっても、主と向き合っていないなら、その人生には価値は無く、逆に、どんなに逆境が続いて、苦しくて、悲しんでいても、主と向き合っているなら、偉大な価値を持った人生なのだ。
いつも喜んでいなさい、と書かれてあるけれども、悲しむべき事が降り掛かってしまう時も、人生の中では、ある。
だから、絶えず祈りなさい、と書いてあるのだ。
絶えず主に祈るなら、どんな場面でも、どんな状況でも、いのちの主、光の主、そして、全てを益と創り変えて下さる主と、出会うことができるからだ。
詩篇88篇表題:聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
この詩篇の作者はヘマンである。
彼は、預言者サムエルの子孫で(1歴代誌6:33)、またダビデの時代、琴と立琴とシンバルをもって預言する者とされた。(1歴代誌25章)
彼の名前の元のヘブライ語は「エムナー」、その意味は、忠実、誠実、堅実、安定、また信仰。
それが、彼の性質である事は、この詩篇のはじめから終わりまで終始されている祈りの中から分かる。
88:1 わが神、主よ、わたしは昼、「助け(イエシュア)」を呼び求め、夜、み前に叫び求めます。
88:2 わたしの祈をみ前にいたらせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
彼は、昼も、夜も、主の御前に「祈り」をもって向かっている。
まさに、主を待ち望む「アドベント」の人である。
そして彼は、主を「イエシュア(救い)の神」と呼んでいる。
イエシュア、すなわちイエス様の御名を呼び求める者は、その救いにあずかる事ができるのだ。
88:6 あなたはわたしを深い穴、暗い所、深い淵に置かれました。
88:7 あなたの怒りはわたしの上に重く、あなたはもろもろの波をもって/わたしを苦しめられました。〔セラ
彼の祈りは、ヨナを彷彿させる。
ヨナのように、深淵の底に降り、また、波が次々と襲いかかっているかのような状況である。
ヨナは、魚の腹の中から主に祈った。
「救は主にある(イエシュアーター・ラ・アドナイ)」と。
ヨナは、「救(イエシュア)は主にある」と言って、イエシュアの名を呼ぶと、三日目の復活を経験し、多くの人々を主に立ち返らせる偉大な働きをした。
私達の希望はイエシュア、イエス様であり、彼に向き合い続けるなら、三日目の復活を私達も経験するのである。
88:8 あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9 わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10 あなたは死んだ者のために/奇跡を行われるでしょうか。なき人のたましいは起きあがって/あなたをほめたたえるでしょうか。〔セラ
彼も、ヨブのように、友人からも難癖つけられているが、しかし少なくとも、彼は日ごと、主を呼んでいる。
主に向かって両手を差し伸べている。
彼は実に、その名のとおり、誠実また忠実である。
主は、主に向かって誠実を貫いて、いつも主に手を差し伸べているる人には、必ず、報いて下さる。
88:11 あなたのいつくしみは墓のなかに、あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。
88:12 あなたの奇跡は暗やみに、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13 しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
(NKJV: And in the morning my prayer comes before You.)
彼には、希望がある。
その根拠は、彼は日夜主に叫んでおり、また、朝明けには、自分の祈りは、あなたの御前に行く、と、信仰をもって宣言している所である。
ユダヤ人の世界観は、「夕があり、朝があった」である。
それにひきかえ、世の中の思考は、「朝」があって「夕」になる、である。
はじめは希望、後には絶望。
それが、世の思考であるが、神の民は、絶望の後に、永遠の希望があるのだ。
イエス様も、復活の「朝」の前に、十字架という闇夜を経験した。
しかしイエス様は、復活の朝を迎え、今や、光に満ちた天において、永遠に統治しておられる。
私達も、イエシュア、すなわちイエス様にあって、そうなのである。
88:14 主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15 わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。あなたの脅かしにあって衰えはてました。
88:16 あなたの激しい怒りがわたしを襲い、あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。
88:17 これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、わたしを全く取り巻きました。
88:18 あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました。(新共同訳「わたしに親しいのは暗闇だけです」)
彼は、若い時から苦しみ続けていた。
主の脅かしや怒りに、ずっと襲われ続けているかのようだった。
友人たちも、彼から遠ざかり、親しいのは、暗闇だけ。
こうして、この詩篇は終わる。
「希望のオチ」が、一切無い。
一見すると。
しかし、彼の人生は、そこで終わった訳ではない。まだまだ続く。
私達も、「今」という瞬間、暗闇と絶望のどんぞこで、「光のオチ」が永遠に無いかのような状況が、あるかもしれない。
もしかすると、若い時から、今まで、ずっとそうだったかもしれない。
では、ヘマンは一体どこに落ち着いたのか。。。
実は、他の箇所から、彼が落ち着いた先を探る事ができる。
彼は、ソロモンと比べられる程の知恵者となり(1列王記4:31)、
次のように呼ばれるようになる。
「神がご自身の約束にしたがって高くされた王の先見者ヘマン」
また神は、彼に、男の子十四人、女の子三人を与えられた、と記されている(1歴代誌25章)。
彼の誠実も、彼の祈りも、全部主に聞かれ、神様は彼に大いに報いられた、という事である。
主は、いつまでも責めておられるわけではない。
主は、祈り求める民には、必ず、闇から光へ、悲しみから喜びへチェンジさせて下さる。
イエス様は言われた。
Joh 16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
Joh 16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
Joh 16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
Joh 16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
Joh 16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
「救い(イエシュア)」であられるイエス様を呼び求め続ける者は、やがて、イエス様の十字架の御手によって、全ての涙はすっかり拭われ、もはや死もなく、悲しみ、叫びの無い、永遠の光と喜びに満ちた天国で、彼と共に住むのである。
詩篇講解説教
全世界の救われた人々の本籍地シオン(詩篇87篇)
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コラの子の歌、さんび
詩篇87:1 主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。(NKJV: His foundation is in the holy mountains.)
詩篇87篇は、シオンが全世界の本籍地になるという預言的なシオン賛歌であり、シオン(צִיּוֹן)とはエルサレムの別名で、特に、神殿のある町、聖なる神の都を意識する時、この呼び名が用いられる事が多い。
本篇の1節では、この都を「聖なる山」と呼び、3節では「神の都」と呼んでいる。
主はシオンを、イスラエルの他の町々よりも、特別扱いし、もろもろの栄光ある事を、語られた。
87:2 主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
87:3 神の都よ、あなたについて、もろもろの栄光ある事が語られる。〔セラ
シオン、すなわち、エルサレムの城門を通って、諸国の人々や王たちが都へと入って来る事が、黙21章にも記されている。
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
確かに、全世界にとって、イスラエル十二部族は「門」であり、十二使徒は「土台」である、といえる。
なぜならイスラエルを通して、この世界に神の法則(律法)が入って来たのだし、また彼らを通して、イエス・キリストがこの世に送り出され、そして使徒たちを通して、福音が全世界へ伝えられたのだから。
神は、イスラエル十二部族の名が記された「門」を愛され(詩篇87:2)、そして、イエス・キリストの十二使徒を、愛しておられる。
私達も、福音を宣教し、救った人達にとって「使徒」となるなら(1コリント9:2)、主は私達を「救いの門」とし、主からこよなく愛され、その宣教の働きを守り、導いて下さるのだ。
詩篇87:4 わたしはラハブとバビロンを/わたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。
ラハブとは、エジプトの事である。(イザヤ30:7、51:9)
これらの国々は、以前はイスラエルの敵として、罪深い者として、歩んできた。
しかし神は、そんな彼らとも和解し、「神の都で生まれた者」として数え、「ここで生まれた者」として登録し、市民権を得させて下さる、というのである。
それはまさしく、イエス・キリストの福音である。
主は、諸々の国民に対して、和解の手を差し伸べるが、シオンについては、特別扱いされる。
詩篇87:5 しかしシオンについては「この者も、かの者もその中に生れた」と言われる。いと高き者みずからシオンを堅く立てられるからである。
87:6 主がもろもろの民を登録されるとき、「この者はかしこに生れた」としるされる。〔セラ
この者も、かの者も、シオンで生れた、と言われるようになる。
すなわち、シオンが、全世界の母のような存在となることを表している。
それは、「シオン」という名のヘブライ文字から、霊的意味を導き出すと、納得できる。
シオンのヘブライ語はצִיּוֹןであるが、最初の字のツァディצは「釣り針」、次のユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、最後のヌンןは「魚」を意味する。
すなわち、シオンの霊的意味は、イエス様の十字架の「釘」打たれた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、意味する。
イエス様の十字架という釣り針に引っかかった魚たち、、、それはまさしく、私達キリスト者の事である。
エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
ただし、この都には、誰も彼もが無条件で入れるわけではない。
入る権利のある者が、黙示録22:14にあり、そして都から追い出されてしまう者が、黙示録22:15にある。
黙示録22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
いかに以前は罪深い者であったとしても、イエス様を信じ、自分の着物を洗った者、すなわち、その行いをきよくした人々を、主は「この民はここで生まれた」(詩篇87:6)とし、天国の市民権に登録されるのだ。
ヘブル12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
詩篇87:7 歌う者と踊る者はみな言う、「わがもろもろの泉はあなたのうちにある」と。
泉(マヤーン)は、「源」とも訳せる。
救われた人にとって、喜びと幸いの源は、神の都にある。
私達も、救われた者にふさわしく、天のエルサレムに入る日、すなわち、キリストの花嫁として小羊の婚姻に入る日まで、自分の行いという「着物」をきよくし、多くの人々を十字架の釣り針で、釣って、救いへと入れて行くべきである。
黙示録19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
エゼキエル書講解説教
祝福の相続地を得る人の性質(エゼキエル47:13-23)
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エゼキエル書43章13節以降には、イスラエル12部族の新しい相続地が示されている。
エゼキエル47:13 主なる神は、こう言われる、「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、嗣業として土地を分け与えるには、その境を次のように定めなければならない。ヨセフには二つの分を与えよ。
まず、相続地について、真っ先に宣言された事は、ヨセフには、二倍の領分が与えられた事だった。
二倍の相続地を得たヨセフは、柔和で、正直で、不正や悪を行う者に対して腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養った。
まさにイエス様が言われた、地を相続する人の性質である。(マタイ5:5)
ヨセフは、そのような性質だったから、父ヤコブに愛され、そして、神から愛された。
それで父ヤコブは、臨終の時、ヨセフに素晴らしい祝福を与えている。
創世記49:22 ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。
創世記49:26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
ヨセフは、父の祝福のとおり、垣根(境界)を超えた領土を得、他の兄弟にまさる祝福を得た。
ヨセフの偉大な点は、エジプトの宰相(総理大臣)になった事、ではない。
総理大臣という地位は、最終目標ではなく、手段に過ぎない。
最終目標とは、神の国を建て上げる事。
すなわち、70名ほどだったイスラエル一家が、一つの国家へと成長するために、彼らに肥沃な地・ゴシェンの地を備え、そこで、安心して大いに産んで増えて行くための「システムづくり」を、彼にさせるため、神様はヨセフを総理大臣にしたのだ。
エジプトの総理大臣という役職は、たまたま、与えられたに過ぎない。
ちり一つ拾うような奉仕さえ、イエスキリストのために為すなら、神の国の建てあげの尊い奉仕である事には変わりない。
ヨセフのように、尊い事に用いられる器もあれば、卑しい事に用いられてしまう器も、厳然として存在する。
自らをきよい器として整えるなら、尊い事に用いられ、汚れに任せたままなら、卑しい事に用いられてしまうのだ。
だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
この地において、莫大な経済や地位を得る事が第一ではない。
神の国とその義が為される事を、まず第一に求め、日々、柔和と誠実を養うべきだ。
エゼキエル47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。
神はアブラハムに、この地を永遠に得させる、と、約束しておられた。
その実現を、主は、今回の幻で見せておられる。
続く節では、具体的に領地の境界が示されている。
エゼキエル47:15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、
エゼキエル47:16 ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。
エゼキエル47:17 海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
エゼキエル47:18 東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。
エゼキエル47:19 南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。
エゼキエル47:20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。
エゼキエル47:21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。
これはおよそ、ダビデ・ソロモンの時代の領土に相当する。
相続地は、無条件に与えられるものではない。
その領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いを続けているなら、かつて土地がイスラエルを吐き出したように、吐き出されてしまう。
この、新しく示された相続地では、意外な人々も相続が許可されている。
エゼキエル47:22 あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。
エゼキエル47:23 在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。――神である主の御告げ。――
なんと、異邦人にも、領土が割り当てられるのだ。
それはモーセ五書では考えられない事で、新約的といえる。
しかし、この主が聖別された領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
エゼキエル書40章以降で、示されていた事は、人間のものさしで計る事ではなく、神が示された聖なるものさしではかる事、そして、聖なる立ち位置を堅固に守り(40章)、聖と俗とをしっかり区別し(42章)、主の聖にならって、聖なる者となり(43章)、礼拝を中心としたきよい生活を送る事(45-46章)だった。
そうするなら、生活の中央に位置する神殿から、いのちの水が川となって流れ出した。(47:1-12)
だから、相続地が与えられ住む事のできる異邦人とは、きよい信仰を持っている異邦人だけである。
実際、エゼキエルがこの幻が示された後の、エズラ・ネヘミヤの時代、その土地に住んでいた外国人達は、排斥された。
なぜなら、ネヘミヤ記を読めば分かるが、そこの外国人たちは、信仰を持った「きよい異邦人」でなくて、イスラエルの神を拝む、と口では言いつつも、実際に行った事といえば、神殿再建を邪魔し、不正や汚職をイスラエルの指導層に持ち込んで、イスラエルを悩ました事だった。
その、異邦人と混じり合って産まれた子どもたちは、ユダヤの言葉がわからなかった。(ネヘミヤ13:24)
ユダヤの言葉が分からない、という事は、律法が読めない、という事であり、早速その代から霊的な汚れが入り込んで、かつての、バビロン捕囚へと突き進んでしまった先祖の、二の舞になってしまう。
それを大いに憂いたエズラやネヘミヤは、痛みの改革を断行し、彼らを追い出した。
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の民に加えられた。
それに安住する事なく、神が聖であられるように、私達も、聖を保つべきである。
エゼキエル書講解説教
神殿から流れ出すいのちの水の川(エゼキエル47:1-12)
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47章以降は、イスラエルの新しい相続地が定めれている。
その相続地は、神殿が中心であり、神殿から主のいのちと祝福が流れ出して相続地に住む民を潤し、さらには、全世界を潤すものとなって行く事が今回の箇所で示されている。
47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
水が、神殿の敷居の下から流れ出した。
その水の源は、聖所である。(12節)
それは新約において、イエス様にあって成就し、新天新地において完成する。
Rev 22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
Rev 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もし今、すぐにでもそのいのちの水を享受したいというなら、今すぐにでも、イエス様の名前を呼んで、イエス様に求めるべきである。
なぜなら、まことの神殿は、今生きておられるイエス様だからだ。
ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
「イエス様のからだ」というまことの神殿は、この時点では、まだ壊されていなかったが、十字架において破壊された。
しかし、三日の後、イエス様は復活し、そのいのちの水の川が流れ出て、まず弟子たちを潤し、そしてユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、その川が流れ出て行った。
現代の私達も、イエス様を信じた時、湧き出たはずである。
かわきを潤す、いのちの水が。
イエス様は、言われる。
ヨハネ7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
イエス様が、まだ栄光を受けておられなかった時、すなわち、十字架と復活を経る前は、イエス様を証しイエス様を栄光化する聖霊は、まだなかった。
それはただ、イエス様の中にだけ閉じ込められていた。
しかし、イエス様が一粒の麦として地に落ち、死なれ、復活され、天の御父の元に昇られた事によって、助け主・聖霊が与えられるようになった。
その聖霊が、全ての事を教え、またイエス様が話しておいた事を、全て思い起させて下さるのである。(ヨハネ14:26)
だから、聖霊を受けると、受けないとでは、大いなる違いが出てくる。
もし聖霊を受けないまま、とするなら、この、いのちを潤す生ける水は出てこないのだ。
だから、聖霊を留めて置いてはならず、聖霊は流れるままに、流しだして行くべきなのだ。
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。
47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
その水は、遠くへ測って行けば行く程、どんどん大きくなって行った。
最初は、足で立つ事が出来て潤される、くらいだったのが、どんどん大きく、広く、深くなって行って、ついには、足では立てない、その流れを泳ぐしかない程までになっていった。
この川は、渇いた地を潤して行くに従って、水量は減るのではなく、逆に、もっと増えていく。
これは、イエス様から流れ出てくるいのちの水の特徴を表している。
聖霊に満たされて行くなら、行くほど、そうなっていくものである。
最初は、その水に潤された、という感覚的なものから、その流れを足で感じるようになり、さらにどんどん強くなって、ついには、自分で制御できるものではない、流れの中を泳ぎながら、聖霊の流れるままに、任せるまでになって行く。
サマリヤの女は「その水をわたしにください」とイエス様に言って、イエス様はその水をくださった。
すなわち、メシヤであられるイエス様ご自身を彼女に示して下さった。
すると彼女は、居ても立っても居られず、もはや、水を溜める水がめなどは置いて、サマリヤの人々へと、その水を流し出して行った。
そして彼女は、その地方の人々をごっそり救い、潤し、いのちの実りが豊かに実った。
私達も、イエス様にあって聖霊をいただくなら、流しだして多くの人を潤す者となるのである!
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。
創世記2:10-14では、エデンの園を源とする水が世界へと広く流れ出して行った記述があるが、その事の回復を示している。
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
アラバはヨルダン渓谷であり、エン・ゲディは、死海の西岸の、南北のちょうど中間に位置し、ダビデはかつて、サウルの手を逃れてエン・ゲディの要害に留まった。
つまり、ここの「海」とは、死海の事である。
その死海へ、この生ける水が流れ込むなら、その水は良くなり、生き物が群がるようになって非常に多くの魚がいるようになる、というのだ。
そして、その川の両岸は、漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
まさに、死海のようだったサマリヤの女さえも、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。
私達も、イエス様にあって、そうなるのである!
47:11 ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。
「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」のように、水の流れが無い所、あるいは、人為的に水を貯めて留まらせているの水所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。
私達も、どんなに良質の御言葉が流れて来ても、また、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで流し出さない、とするなら、塩のまま残って、死海のように、いのちがいなくなってしまうのだ。
だから、いのちの潤いがともなった御言葉が、流れこんで来たのなら、あるいは、聖霊の促しが流れて来たのなら、それをそのまま留め置いてはならない。
それらは、賞味期限の早い生鮮食品のように、「旬」があるのだ。
それを流しだすべき相手へ、すなわち、それを受けるべき人へと、あるいは、為すべき仕事へと、すぐに流し出して行くべきなのだ。
もし、旬を過ぎてしまうなら、腐ってしまう。
天から与えられた食物であるマナは、拾っても食べないまま器に保管して置いたら、どうなっただろうか。
翌日になると腐って、虫が湧いてしまった。
その事を、思い起こすべきである。
47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
毎月、新しく実がなる。
一体どれだけいのちに溢れみなぎっているのだろうか。
黙示録22章には、その完成形があるが、この地上においても、イエス様を信じた私達は、それを霊的に体験する。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、なにも、頑張らずとも、御霊の実を絶える事なく自然と実らせ続けるものである。
そしてそれは、自分を潤すのみならず、周囲をも潤し、癒やすものなのだ。
これらを得るコツは、エゼキエル40章以降に、既に示されている。
すなわち、主から示された神殿(イエス様)を、正しいものさしで計り、きよさに立って、主の教えを自分自身に当てはめて行く事。
人の建てた神殿を測っても、あるいは間違ったものさしで測っても、それはただ渇くだけである。
しかし、まことの神殿・イエス様を、正しい物差しである「御言葉」に従って、正確に測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん湧き出し、溢れ、流れて行くようになるのだ。
そのようにして豊かにいのちの水を湧き出させ、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇講解説教
主に聞かれる祈り(詩篇86篇)
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ダビデの祈
86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
詩篇86篇は、詩篇の第3巻のうち、唯一、「ダビデ」による詩篇である。
この詩篇は、日本語の「主」という表現が11回で、その内、アドナイ(主)が7回、神聖4文字のYHWH(新改訳での太文字の主)が4回。
また、「神」という表現は6回。(8節の神々は除く)
その回数を見るだけでも、彼がいかに、神なる主を呼び求めているかが分かる。
彼の呼び求め方は、主よ、主よ、と、「数撃ちゃ当たる」の祈りではない。
イエス様は言われた。
『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイ7:21)
ダビデは、父の御心を行ったゆえに、彼の祈りは、聞かれたのだ。
御心とは御言葉である。
その御言葉に、従順に従う人こそ、主はその祈りを聞かれる。
ダビデはこの祈りの中で、自分自身のことを、「あなたのしもべ」と呼んでいる。
彼は、神様との主従関係において、まことに正しい位置関係に自分を置いたゆえに、主は彼の祈りを聞かれたのだ。
この詩篇からは、彼の、神様に対する信頼と服従の気持が、強く示されている。
86:2 わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。
2節の「神を恐れる者(新改訳)」「神を敬う者(口語)」「holy(KJV)」と訳された原語は、「חָסִיד ハスィード」。
意味は、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人であり、このハスィードは、5、13、15節の「ヘセド(חֵסֵד恵み)と関連がある。
神様の恵みは、神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人と、深く関連があるのだ。
86:3 主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。
昼も夜も、いつも主を呼ばわる人に、主は近い。
町を歩く時、人を見た時、状況を見聞きした時、いつも「主よ」と呼ばわり、主に祈り求める人と。
86:4 あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
主の御心は、彼の愛される聖徒が、しかめっ面をしながら清貧を我慢する事ではなく、聖徒が「喜ぶ事」である。
主は、人を創られた時、真っ先にエデン(喜び)の園に置かれた。
パウロもまた、何度も「喜びなさい」と書いている。
主にあって満ち足りて喜ぶ事は、大いに結構である。
しかし、たとえ貧しい中にあったとしても、主にあって喜びがある事は、信仰者の特権である。
86:5 主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に/いつくしみを豊かに施されます。
1-4節までは「主よ。**してください」と、願い求める祈りが続いたが、6節からは、「願い」の色合いから、「神はどういうお方であるか」というような、「信仰告白」と「宣言」の色合いに変わる。
主は、祈りに答えてくださるお方(7節)。
神々のうちで並ぶ者はなく、みわざに比ぶべきものは無いお方(8節)。
主が造られたすべての国々は、御前に来て伏し拝み、御名があがめられる(9節)。
主は大いなる方、奇しいわざを行なわれる方。ただ主だけ神(10節)。
そのように、ダビデは告白した。
私達も、主はいかなるお方であるのかを告白するなら、祈りに、確信させる力を帯びるようになってくる。
ただ「ください、ください、」の祈りは、味わいが無い祈りである。
この詩篇86篇のように、主はどういうお方であるのか、自分はどういう信仰を、主に持っているのか、という告白や、また、感謝や、御言葉の宣言や、賛美があるなら、味わい豊かな祈りとなる。
86:11<願い> 【主】よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
「私の心を一つにしてください」とは、自分の中から二心が取り除かれるように、という祈りであろう。
「二心の者」については、ヤコブ書に書かれてある。
ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
このような、不安定に揺れ動く「二心」の者ではなく、ただ主を確信した「一つ心」になれるように、私達も、ダビデのように祈るのだ。
86:12<表明> わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13<告白> それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
12-13節には、ダビデの表明と告白がある。
自分は、心を尽くして主に感謝し、とこしえに御名をあがめます、と。
なぜなら主は、彼のたましいをよみの深みから救い出してくださったから。
14節は、逆らい立つ横暴な者について主に訴えている。
そのような者に対して、ののしったり、仕返しをしたりするなら、ただの喧嘩である。
しかし、その人を主に訴えるなら、それは祈りに変わり、その案件は主に移って、主がその者を取り扱ってくださる。
そして16-17節は、再び「願い」で閉じられる。
86:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれみ(ハナン)、あなたのしもべにみ力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
神様の恵み(ハナン)は、「神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人」、すなわち、ハスィードの人と、深く関連があった。
私達も、その資格ある者となる事を、目指すべきだ。
86:17 わたしに、あなたの「恵み(トーブ)」の「しるし(オート)」を/あらわしてください。そうすれば、わたしを憎む者どもは/わたしを見て恥じるでしょう。主よ、あなたはわたしを助け、わたしを慰められたからです。
「トーブ」には、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
「オート」は、よく「しるし」と訳されるが、信号、記号、マーク、標識などの意味である。
つまり、主からのパーフェクト、ビューティフル、グッドのマーク付け、お墨付きを、わたしに付与してください、そうすれば、敵は恥じ入ります、と祈っている。
ダビデは、いつでも、どんな時でも、主を呼び求め、主と自分自身の「主従関係」をはっきりさせ、主はいかなるお方であるのかを正しく告白し、これから主に対してどのように生きるのかを表明した。
私達も、そのように信仰において努力し、実行して行くなら、ダビデのように守られ、用いられ、主によって人々の上に高く上げら、時代に御国をもたらすために用いられるのだ。
エゼキエル書講解説教
聖なる礼拝を捧げる者であれ(エゼキエル46章)
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かつて、礼拝を軽んじたイスラエルによって、めちゃめちゃにされてしまった礼拝制度の回復すべき事が、40章以降に命じられていた。
この章では、特に、君主(ナーシー:上に立つ者。王ではない。)が、民に代表して捧げる礼拝について、示されている。
エゼキエル46:1 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、またついたちにはこれを開け。
エゼキエル46:2 君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。しかし門は夕暮まで閉じてはならない。
エゼキエル46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
神殿は、外庭の門と内庭の門があるが、外庭の東向きの門は、ただ、君主だけが出入り出来、一般の人は出入りしてはならないため、通常は閉じておく。(エゼキエル44:1-3)
君主は、民に代表してささげ物を祭司へと渡して、祭司は、それを神に捧げる事が役割であるが、そのささげ物の内訳が、以下に示される。
エゼキエル46:4 君たる者が、安息日に主にささげる燔祭は、六頭の無傷の小羊と、一頭の無傷の雄羊とである。
エゼキエル46:5 また素祭は雄羊のために麦粉一エパ、小羊のための素祭は、その人のささげうる程度とし、麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
ここでは、7日ごとに来る安息日にささげるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示された。
なお1エパは約22リットル、1ヒンは約3.7リットルである。
礼拝には、必ず、犠牲が必要である。
創世記4章にカインとアベルの礼拝が記されているが、カインが捧げたものは、ヘブライ語「ペリー」の単数形、すなわち「一つのフルーツ」、対してアベルは、(複数形の)羊の群れの、初子たちの中から、最上ものを選びに選んで捧げた。
カインは、農業で暮らしていたので、彼自身は日毎、フルーツをふんだんに食べていたのに、主にたいしては、たった一つのフルーツしか捧げなかった。
何万円もある財布の中から、ワンコインを賽銭箱に投げたような感覚だろう。
神が、カインの捧げものに、見向きもしなかった理由は、彼の、主の御前にささげる礼拝には、主を敬う心も、犠牲も、なかったからだ。
神がそれを見向きもせず、アベルのささげ物にリスペクト(NKJV)を払ったのを見たカインは、怒った。
その怒りはつまり、カインの心の中では、「カインのほうが、神よりも偉大」だったという事を表している。
だから、彼のささげ物は受け入れられなかったのだ。
今ここエゼキエル書では、主を敬う礼拝の回復が指示されている。
私達は、神をリスペクトする心をもって、犠牲を捧げるべきであり、そうするなら、神からリスペクトされる。
エゼキエル46:6 ついたちには無傷の雄牛の子一頭、六頭の小羊および一頭の雄羊をささげよ。これらはすべて無傷のものでなければならない。
エゼキエル46:7 素祭は雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供えよ。また麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
月ごとに来る新月の祭りに捧げるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示されている。
それは安息日に捧げるささげ物に、若い雄牛が追加されている。
また、8-10節には、礼拝する者たちが、神殿の中で進むべき順路が示されている。
エゼキエル46:8 君たる者がはいる時は門の廊の道からはいり、またその道から出よ。
エゼキエル46:9 国の民が、祝い日に主の前に出る時、礼拝のため、北の門の道からはいる者は、南の門の道から出て行き、南の門の道からはいる者は、北の門の道から出て行け。そのはいった門の道からは、帰ってはならない。まっすぐに進んで、出て行かなければならない。
エゼキエル46:10 彼らがはいる時、君たる者は、彼らと共にはいり、彼らが出る時、彼も出なければならない。
君主は東向きの門から出入りするが、一般の人は、北の門か、南の門から出入りできる。
その際、出る時は、入る時と同じ門を通ってはならない。
礼拝へと向かう足、宮から出ていく足には、規律の正しさ、混乱のなさが要求されるのだ。
続いて、君主が民を代表してささげるべきささげ物が規定される。
エゼキエル46:11 祭日と祝い日には、素祭として、若い雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供え、麦粉一エパには油一ヒンを加えよ。
祭日と祝日は、過越祭や仮庵祭などである。
エゼキエル46:12 また君たる者が、心からの供え物として、燔祭または酬恩祭を主にささげる時は、彼のために東に面した門を開け。彼は安息日に行うように、その燔祭と酬恩祭を供え、そして退出する。その退出の後、門は閉ざされる。
東向きの門が開かれるのは、君主が礼拝を捧げる時だけである。
エゼキエル46:13 彼は日ごとに一歳の無傷の小羊を燔祭として、主にささげなければならない。すなわち朝ごとに、これをささげなければならない。
エゼキエル46:14 彼は朝ごとに、素祭をこれに添えてささげなければならない。すなわち麦粉一エパの六分の一に、これを潤す油一ヒンの三分の一を、素祭として主にささげなければならない。これは常燔祭のおきてである。
エゼキエル46:15 すなわち朝ごとに常燔祭として、小羊と素祭と油とをささげなければならない。
礼拝と犠牲は、毎朝、捧げられるべき事が示されている。
現在、私達には、私達の身代わりにほふられ、血を流してくださったまことの子羊、イエス・キリストがおられるので、私達は、動物を捧げるのではなく、日ごと、週ごと、月ごとに、私達に身代わりにほふられてくださったイエス・キリストを覚えつつ、日々、霊的な礼拝を捧げるのだ。
エゼキエル46:16 主なる神は、こう言われる、君たる者が、もしその嗣業から、その子のひとりに財産を与える時は、それはその子らの嗣業の所有となる。
エゼキエル46:17 しかし彼がその奴隷のひとりに、嗣業の一部分を与える時は、それは彼の解放の年まで、その人に属していて、その後は君たる人に帰る。彼の嗣業は、ただその子らにだけ伝わるべきである。
エゼキエル46:18 君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである」。
ここでは特に、君主たる者は、相続地を、相続以外の形で他人に譲渡してはならない、という規定が定められている。
君主たるものに求められる事は、正しさであり、「虐げないこと」なのだ。
エゼキエル40章以降にて示されて来た、君主たる者への指示は、政治的な命令はほとんど無かった。
ただ、一般人に代表して礼拝を捧げる、捧げ方だけが、細かく指示されており、唯一、君主に要求された政治的な命令といえば、以下だけであった。
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
君主たる者に、最も要求されるのは、政治手腕よりもむしろ、誰より主に対して正しく礼拝を捧げるたしなみなのだ。
元々、イスラエルには人間の王は、本来、いらない。
主だけが唯一、王であり、そして人の上に立つ君主の役割は、人々に代表して、主に礼拝を捧げる事だ。
エゼキエル46:19 こうして彼はわたしを連れて、門のかたわらの入口から、北向きの祭司の聖なる室に、はいらせた。見ると、西の奥の方に一つの場所があった。
エゼキエル46:20 彼はわたしに言った、「これは祭司たちが愆祭および罪祭のものを煮、素祭のものを焼く所である。これは外庭にそれらを携え出て、聖なるべきことを、民にうつさないためである」。
19-20節で示された、内庭にある料理場は、祭司だけが食べることが出来る罪のためのいけにえと、罪過のためのいけにえを料理する場所である。
エゼキエル46:21 彼はまたわたしを外庭に連れ出し、庭の四すみを通らせた。見よ、庭のこのすみにも庭があり、また庭のかのすみにも庭があった。
エゼキエル46:22 すなわち庭の四すみに小さい庭があり、長さ四十キュビト、幅三十キュビトで、四つとも同じ大きさである。
エゼキエル46:23 その四つの小さい庭の内部の四方には、石の壁があり、周囲の壁の下に、物を煮る所が設けてあった。
エゼキエル46:24 彼はわたしに言った、「これらは宮の仕え人たちが、民のささげる犠牲のものを煮る台所である」。
外庭にある料理場(21-24)は、民が食べることの出来るいけにえを料理する料理場である。
なお、23節の「物を煮る所」、すなわち「料理場(新改訳)」と訳された「メバシェラー」は、旧約聖書ではここに1度しか登場しない。
モーセの幕屋や、ソロモン神殿で示されなかった、この神殿のユニークな特徴の一つとして、神殿の敷地内に、調理場が示された事も、挙げられる。
「食べる事」もまた、礼拝の中の大切な要素である事が、強調されているのだ。
旧約においては「和解のいえにえ」が、神と祭司と礼拝者の3者が、共に同じいけにえを食べるものであり、新約でも、共に同じパンを割いて食べる事が、礼拝のひとつである。
私達は、食べるにしても飲むにしても、キリストを覚え、感謝していただくものである。
パウロは、教会を単なる飲み食いの場としてしまった者たちを叱責した。
エゼキエル40章以降に示されたこの神殿で、特徴的な事は、きよさにおいて、また汚れを持ち込まない事において、特に注意すべきだった。
かつてイスラエルは、神殿に汚れを持ち込んでしまった故に、バビロン捕囚の憂き目に遭って、豪華絢爛な神殿は、破壊されてしまった。
新約を生きる私達もまた、イエス・キリストにあって、聖である事が求められているのだ。
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
詩篇書講解説教
主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)
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「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌」
この詩篇の状況は、バビロン捕囚から帰還して、それ程経っていない時期と考えられる。
イスラエルが、バビロンに捕囚された事は、確かに、身から出た錆であった。
彼らは御言葉に背き続け、預言者を通しての主からの警告も聞かずに、罪と欲の道を邁進した結果、バビロン捕囚という憂き目に遭ったのだ。
しかしその70年の後、主の恵みと憐れみの故に、彼らは再び祖国に帰る事ができた。
確かに、バビロンという「刑務所」から出所できた喜びはあるけれど、しかし、帰って来ても、住む家が残っていたわけではなく、礼拝する神殿が残っていたわけでもない。
それらは相変わらず崩壊したままで、これから、建て直さなくてはならない。
国は相変わらず荒廃したままで、強力な敵や、嘲る者がのさばっているままであった。
それで主に向かって回復を祈り求めているのが、この詩篇である。
私達ももし、生活が乏しいままでひもじい思いをしている、とするなら、この詩篇の祈りを自分自身に当てはめて、主に呼び求めるのだ。
詩篇85:1 主よ、あなたはみ国にめぐみを示し、ヤコブの繁栄を回復されました。
詩篇85:2 あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。〔セラ
私達が神様に対して犯した罪は、到底、償いきれるものではない。
それで主は、罪の「赦し」と、罪を「覆うこと」を、私達のほうに提唱しに来られる。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
雪が大地を覆えば、どんなに地が汚い状態であったとしても、全部覆われて、一面、銀世界になる事ができる。
しかし、ただ単に覆われただけでは、もとの状態が変わるわけではない。
雪が溶けてしまえば、再び汚い大地が現れるだけである。
そこで、本質が変わる必要がある。
「たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる・・・。」
主は、根本的に変える事ができるお方である。
そうなるための条件は、18節にある通り、主と論じあう事。
自分の足で主を探し、主の元へと行って、主と論じあうのだ。
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
主と論じあったなら、主のことばに、喜んで聞き従う。
そうするなら、具体的な、物理的な祝福が帰って来て、地の良き物を食べることができる。
しかし、主と論じ合う事を拒み、また、聞いても背いたままであるなら、剣が待っている事が書かれてある。
続く4-7節には、不安と混乱の中にある神の民に、主の憐れみが注がれるように、祈り求めている。
主に祈り求めるための根拠は、聖書の御言葉である。
主が約束された回復の御言葉を楯にして、祈り求めるのだ。
詩篇85:4 われらの救の神よ、われらを回復し、われらに対するあなたの憤りをおやめください。
詩篇85:5 あなたはとこしえにわれらを怒り、よろずよまで、あなたの怒りを延ばされるのですか。
詩篇85:6 あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。
主が生き返らせて下さる約束の預言は、エゼキエル書37章にもある。
エゼキエル37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
主は、枯れた骨さえも生き返らせる事ができるお方。
しかし、主がそれを成して下さるかどうかは、エゼキエルが言った通り、「主こそご存知」なのである。
私達がするべきは、ただ、主の約束の御言葉を信じて、祈り求める事だ。
詩篇85:7 主よ、あなたのいつくしみ(ヘセド)をわれらに示し、あなたの救(イエシャー)をわれらに与えてください。
ここの「救い」はヘブライ語でイエシャー、イエス様の御名イエシュア(彼は救い)と親類である。
救いは、ただ一方的な恵みであり、それは、主イエス様から来る。
詩篇85:8 わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
詩篇85:9 まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。
この詩篇の作者は、「神の仰せを聞こう」と願っていた。(8節)
彼には、主に対する恐れと、主への敬いがあり、主と論じあおうという意欲がある。
主の「救い」は、このように主と関わり合おうと「心意気」のある人に対して近く、救いの御手を伸ばして下さる。
主は、人格ある御方である。
異邦人が、祈り文句を何度も繰り返すのは、彼らにとっての「神」が、人格があるとは思っておらず、ただ呪文的に、同じ言葉を念じれば、超能力のようにそれが成る、と思っているのだ。
しかし私達は、生きておられる主と論じ合い、語り合おうとする心意気を、主に見せるべきだ。
詩篇85:10 いつくしみ(ヘセド)と、まこと(エメット)とは共に会い、義(ツェデク)と平和(シャローム)とは互に口づけし、
詩篇85:11 まこと(エメット)は地からはえ、義(ツェデク)は天から見おろすでしょう。
ヘセドは「良いこと」「誠実」「いつくしみ」の意味があり、エメットには「真理」「確かさ」「信頼できること」の意味がある。
私達には元々、真理(エメット)は無い。
義(ツェデク)も無い。
ただ裁かれると滅びる以外に無い、罪ある存在であった。
しかしイエシュア、すなわち、その名が「救い」というイエス様が、罪ある私達の身代わりに、十字架にかかってくださり、ヘセド(いつくしみ)をほどこしてくださった。
それ故、私達はイエス様にあって義(ツェデク)とされ、神との和解(シャローム)がもたらされた。
ヘセド(恵み)とエメット(心理)を出会わせ、ツェデク(義)とシャローム(平和)を互いに口づけさせて下さったお方が、イエス・キリストである。
そして、イエス様を信じて、神様と和解する結果、地は、良いものが生じるようになる。
詩篇85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
詩篇85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
御言葉であられる主は、生きておられ、人格ある御方である。
この主と積極的に論じ合い、語り合おうと心意気ある人、すなわち、「イエシュア(彼は救い)という名前のイエス」の名によって求める事こそが、救いと祝福の最短ルートなのだ。
エゼキエル書講解説教
神様を中心とした土地と支配、生活(エゼキエル45章)
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神の民は、聖であるべき事、神様を中心とした歩みをするべき事が、続いて示される。
エゼキエル45:1 あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。
エゼキエル45:2 そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。
ここでは、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保しなさい、という事であるが、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
まず、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、聖所と至聖所のため、そして、そこで仕える祭司のためのものとし(3-4節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、はその周辺で奉仕をするレビ人のものとし(5節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅0.5万キュビトの地を、イスラエルの全家のものとして(6節)、
それらの土地を聖別し、確保するべき事が命じられている。
神の民にとって、聖として確保された地の中心は、聖所、すなわち礼拝である。
神の民たる私達が、ここから学ぶべき事は、私達も、主のために聖別された時間、空間を確保し、礼拝を中心にした歩みをするべきだ、という事である。
エゼキエル45:7 また君たる者の分は、かの聖地と町の所有地との、こなたかなたにある。すなわち聖地と町の所有地に沿い、西と東に向かい、部族の分の一つに応じて、地所の西から東の境に至り、
君たる者(ナーシー:上に立つ者、王ではない)のための土地も、確保されている。
それは、この聖別された土地の西側と東側、どちらも、国境に至るまで延びる広大な土地である。
エゼキエル45:8 その所有の地所はイスラエルの中にある。わたしの君たちは、重ねてわたしの民をしえたげず、部族にしたがってイスラエルの家に土地を与える。
以上のように、主の聖所と、祭司やレビ人、イスラエルの全家に割り当てるべき、聖別された地が、そして、君主に対する土地が定められた。
地は、本来、主のものであって、主から人々へゆだねられたものとして、割り当てられる。
それ故、人は土地を勝手に自分のものとするべきものではない。
この地上で、旅人である私達が、仮の住まいとして生きるべき、主からの借地なのだ。
9-17節に、君主たる者のつとめが示されている。
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
それまでの、イスラエルの歴代の王たちは、暴虐と暴行によって人々を支配し、重税で追い立てていた。
その取り立てて集めた富を、王たちが、わがものとし、おのおのの欲望のままに使うためであった。
しかし、そのような汚れた暴虐の行いゆえに、主はバビロンを通して、全て破壊してしまった。
だから、このエゼキエルに示された神殿や、定められた定めは、ことさら、きよめに立つこと、汚れを持ち込んではならない事が、重点的に示されているのである。
神の民は、主から土地を相続地としてゆだねられているからには、主の聖さを汚すことはあってはならない。
また、民の上に立つべき者には、主の聖さを保ちつつ、正しく治める責任が、任されている。
上に立つ者は、確かに民から物品を集めるが、それは、君主たちの欲の赴くままに使い込むためではない。
民に代表して、それを、神様の元へと持って行って捧げるためである。
エゼキエル45:10 あなたがたは正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを用いよ。
エゼキエル45:11 エパとバテとは同量にせよ。すなわちバテをホメルの十分の一とし、エパもホメルの十分の一とし、すべてホメルによって量を定めよ。
エゼキエル45:12 一シケルは二十ゲラである。五シケルは五シケル、十シケルは十シケルとせよ。一ミナは五十シケルとせよ。
ここでは、正しいはかりを基準にしなくてはならない事が、あらためて示されている。
以前は、異なるはかりを用いて、社会に不正や混乱をもたらしていたが、相手や状況によって異なる秤を用いる事を、主は忌み嫌われる。
箴言20:10 互に違った二種のはかり、二種のますは、ひとしく主に憎まれる。。
さらに13-15節には、民が君主に納めるべき割合が示されているのだが、民から集めたそれらは、君主が代表して主にささげるものである、という事が、重要である。
主の民には、本来、人間の王は、無いはずである。(1サムエル記8章)
神が王であり、人々の上に立つ君主は、人々が「主にささげる」という行いを促すために人々から集め、人々に代表してそれを主に捧げる、という役割をする者に過ぎない事が分かる。
だから、ここでは「王」ではなく「君主」という言葉が使われているのである。
18節以降、イスラエルの祭りに関する規定が続く。
エゼキエル45:18 主なる神は、こう言われる、正月の元日に、あなたは無傷の雄牛の子を取って聖所を清めよ。
エゼキエル45:19 祭司は罪祭の獣の血を取って、宮の柱と祭壇のかさねの四すみ、および内庭の門の柱に塗れ。
まずは年初に、礼拝場所のきよめをしなくてはならない。
エゼキエル45:20 月の七日に、あなたがたは、過失や無知のために罪を犯した者のために、このように行って宮のためにあがないをなせ。
あやまって罪を犯した者や、わきまえのない者がいる。
彼らは、それを罪とは知らず、意図せずに罪を犯すのだが、しかし、「知りませんでした」で済むものではない。
その贖い・償いを、きっちりしなくてはならず、そのために、犠牲の血が流されなくてはならない。
イエス様は、知らずに罪を犯した私達のために、十字架上で血を流し、「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と言って、執りなし祈って下さった。
21-25節では、過越祭や種無しパンの祭り、仮庵の祭りの規定が示されるが、そこでも、君主が民に代表して捧げるべき事が書かれてある。
以上のように、人の上に立つ者は、神と人との間に立って、民に代わって主に捧げる事、そして、神から託された御言葉を、民に守り行わせるべき事が使命である事が示された。
神の国における「偉い人」「人の上に立つ者」は、世のそれとは違う。
決して、世の王たちがしているように、むさぼりの心をもって民草を虐げてはならない。
マタイ20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
マタイ20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
マタイ20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
神の民は、聖である事が、きよさを中心に生活する事が、要求されている。
1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1ペテロ1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
2コリント6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
2コリント6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
2コリント6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
2コリント6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
2コリント7:1 愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。
