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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

アサ - 御言葉に従う事の莫大な報酬(2歴代誌15章)
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主に頼って戦いに勝利したアサに、主は預言者を遣わして御心を示される。

2歴代誌15:1 時に神の霊がオデデの子アザリヤに臨んだので、
15:2 彼は出ていってアサを迎え、これに言った、「アサおよびユダとベニヤミンの人々よ、わたしに聞きなさい。あなたがたが主と共におる間は、主もあなたがたと共におられます。あなたがたが、もし彼を求めるならば、彼に会うでしょう。しかし、彼を捨てるならば、彼もあなたがたを捨てられるでしょう。

主が人の味方になるか、敵対者になるかは、結局、本人次第なのである。

2歴代誌15:3 そもそも、イスラエルには長い間、まことの神がなく、教をなす祭司もなく、律法もなかった。

このように書いてあるものの、主が「存在しなかった」わけではなく、律法すなわち御言葉が存在しなかったわけではない。
主は、有りて在られるお方であり、御言葉は世が終わった後も残るものである。
ただ、3節にあるとおり、本人自身に主を求める心が無いなら、本人自身の中に、その家庭に、その職場に、その国に、主がいないかのようになってしまうのだ。
本人自身が御言葉を無視し、全く信仰を働かせずに歩むなら、御言葉が存在しないかのようになってしまう。
あたかも、家の中には多くの札束があるのに、それを使わず、あたかもお金が全く無いかのように生きたまま、寿命が尽きてしまうように。

それは、まことにもったいない事だ。

2歴代誌15:4 しかし、悩みの時、彼らがイスラエルの神、主に立ち返り、彼を求めたので彼に会った。
15:5 そのころは、出る者にも入る者にも、平安がなく、大いなる騒乱が国々のすべての住民を悩ました。

平安がなく、騒乱と悩みがある。それは、御言葉に従わない事の報いである。
その逆は喜びと楽しさ、平安であるが、それらは、御言葉の知恵を求める人に与えられる報酬だ。

箴言3:13 知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。
3:14 知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、その利益は精金よりも良いからである。
3:15 知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。
3:16 その右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある。
3:17 その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である。

2歴代誌15:6 国は国に、町は町に撃ち砕かれた。神がもろもろの悩みをもって彼らを苦しめられたからです。

主を恐れ敬わない期間は、根拠不明な恐怖や不安に悩まされ、やる事なす事全て失敗し、敵にかすめ奪われてしまうものである。
そして、根拠不明な怒りや憎しみが沸き起こるゆえに、味方同士・身内同士で必要の無い争いや喧嘩があって、いらないエネルギーロスがあり、消耗し合い、共に砕かれてしまう。
『あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。』(レビ記26:36-37)
それまではそういう時代だった。

15:7 しかしあなたがたは勇気を出しなさい。手を弱くしてはならない。あなたがたのわざには報いがあるからです」。

繰り返すが、御言葉を守り行う事には、大きな報いがある。

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。

書いてある通り、主の御言葉は、魂を生きかえらせ、賢くされ、心を喜ばせ、眼を明らかにする。
御言葉は慕わしく、甘く、いましめを受け、そして守るなら、大きな報いがある。

2歴代誌15:8 アサはこれらの言葉すなわちオデデの子アザリヤの預言を聞いて勇気を得、憎むべき偶像をユダとベニヤミンの全地から除き、また彼がエフライムの山地で得た町々から除き、主の宮の廊の前にあった主の祭壇を再興した。
15:9 彼はまたユダとベニヤミンの人々およびエフライム、マナセ、シメオンから来て、彼らの間に寄留していた者を集めた。その神、主がアサと共におられるのを見て、イスラエルからアサのもとに下った者が多くあったからである。

御言葉を守り行う事によって祝福されるなら、人々が集まって来る。

15:12 そして彼らは契約を結び、心をつくし、精神をつくして先祖の神、主を求めることと、
15:13 すべてイスラエルの神、主を求めない者は老幼男女の別なく殺さるべきことを約した。
15:14 そして彼らは大声をあげて叫び、ラッパを吹き、角笛を鳴らして、主に誓いを立てた。
15:15 ユダは皆その誓いを喜んだ。彼らは心をつくして誓いを立て、精神をつくして主を求めたので、主は彼らに会い、四方で彼らに安息を賜わった。

主を求めない者は老幼男女の別なく殺さる、一見きびしい契約に見えるが、しかし人々は、それを「喜んだ」とある。喜んだ、のだ。
なぜなら主に従う事が、こんなにも大きな報いがもたらされるのだ、と、彼らは経験したからであり、従わなかった今までがいかに損であったのかが分かったからである。

15:16 アサ王の母マアカがアシラのために憎むべき像を造ったので、アサは彼女をおとして太后とせず、その憎むべき像を切り倒して粉々に砕き、キデロン川でそれを焼いた。

アサは、母であろうと、退ける事に躊躇しなかった。

15:17 ただし高き所はイスラエルから除かなかったが、アサの心は一生の間、正しかった。
15:18 彼はまた、その父のささげた物および自分のささげた物、すなわち銀、金並びに器物などを主の宮に携え入れた。
15:19 そしてアサの治世の三十五年までは再び戦争がなかった。

このように、主と主の言葉に従う事には喜び、楽しみ、祝福の報いがある。
しかし従わない事には、災が、呪いがある。
一体どちらの道が得な道だろうか。

エレミヤ書 講解説教メッセージ
妻に裏切られてしまった夫のようにむせぶ主(エレミヤ2:1-19)
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アサ - 主から助けをいただける人の性質とは(2歴代誌14章)
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14:1 アビヤはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町に葬られ、その子アサが代って王となった。アサの治世に国は十年の間、穏やかであった。
14:2 アサはその神、主の目に良しと見え、また正しと見えることを行った。

アサは、ソロモン以降初めての「良い王」である。
良い王とは、主を恐れ敬い、主に聞き従い、努めて主に喜ばれる事を行う王である。

14:3 彼は異なる祭壇と、もろもろの高き所を取り除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、
14:4 ユダに命じてその先祖たちの神、主を求めさせ、おきてと戒めとを行わせ、
14:5 ユダのすべての町々から、高き所と香の祭壇とを取り除いた。そして国は彼のもとに穏やかであった。

祝福の条件は、まず、主に忌み嫌われるもの、事を除き去る所から、である。
先代のアビヤは確かに主に求めて戦いに勝利したが、あいにく神殿男娼を取り除かないままだった。
男と男が汚らわしい事を行うようなものを取り除かなかったままに、戦いに出て、一時的に主に求めて勝利を得たアビヤだったが、相変わらず忌み嫌われるものを残したままだった故に、彼は王になってから3年目にして死んでしまい、次の代に王権を譲らなければならなかった。
私達も、酒とか、怒り癖とか、努めて忌み嫌い、除き去るべきである。

イザヤ55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

努力をして主に求める時、アサ王の時のように、主は助けてくださり、そして豊かな繁栄を返して下さるのだ。

14:6 彼は国が穏やかであったので、要害の町数個をユダに建てた。また主が彼に平安を賜わったので、この年ごろ戦争がなかった。
14:7 彼はユダに言った、「われわれはこれらの町を建て、その周囲に石がきを築き、やぐらを建て、門と貫の木を設けよう。われわれがわれわれの神、主を求めたので、この国はなおわれわれのものであり、われわれが彼を求めたので、四方において、われわれに平安を賜わった」。こうして彼らは滞りなく建て終った。
14:8 アサの軍隊はユダから出た者三十万人あって、盾とやりをとり、ベニヤミンから出た者二十八万人あって、小盾をとり、弓を引いた。これはみな大勇士であった。

主に嫌われるものを取り除き、主に喜ばれる事を選択して行うなら、平安が与えられる。
そうするとゆとりが生まれ、さらに生活の防備を固められるのだ。

14:9 エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。
14:10 アサは出て、これを迎え、マレシャのゼパタの谷に戦いの備えをした。

ここに戦いが起こるが、兵力も装備もユダが不利な戦いである。

14:11 時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」。

アサは、主を呼び求めた。
主を呼び求める事、それは霊の世界を揺り動かし、真理の世界を揺り動かし、結果、現実世界が揺り動く。

14:12 そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った。
14:13 アサと彼に従う民は彼らをゲラルまで追撃したので、エチオピヤびとは倒れて、生き残った者はひとりもなかった。主と主の軍勢の前に撃ち破られたからである。ユダの人々の得たぶんどり物は非常に多かった。
14:14 彼らはまた、ゲラルの周囲の町々をことごとく撃ち破った。主の恐れが彼らの上に臨んだからである。そして彼らはそのすべての町をかすめ奪った。その内に多くの物があったからである。
14:15 また家畜をもっている者の天幕を襲い、多くの羊とらくだを奪い取って、エルサレムに帰った。

主に聞き従う者が、主に助けを求めるなら、主は答えてくださる。
聖書の中に、例外は無い。

ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
34:1 わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。
34:2 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。
34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。
34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。

戦争の時だけ主の御名を持ちだして大義名分を主張する者(2歴代誌13章)
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2歴代誌13:1 ヤラベアム王の第十八年にアビヤがユダの王となった。
13:2 彼は三年の間エルサレムで世を治めた。彼の母はギベアのウリエルの娘で、名をミカヤといった。

レハブアムの子アビヤ。彼の統治は3年、列王記における評価は「悪い王」であった。
しかし歴代誌では、彼の良い面、すなわち、主に依り頼んで戦いに勝利した事を記している。

13:3 ここにアビヤとヤラベアムとの間に戦争が起り、アビヤは四十万の精兵から成る勇敢な軍勢をもって戦いにいで、ヤラベアムも大勇士から成る八十万の精兵をもって、これに向かって戦いの備えをした。

戦いを仕掛けたのは、彼の側であった。
それに対して迎え出たヤロブアムの側は、こちら側の二倍の戦力、不利な戦いとなりそうな所を、アビヤの側が舌戦を開く。

13:4 時にアビヤはエフライムの山地にあるゼマライム山の上に立って言った、「ヤラベアムおよびイスラエルの人々よ皆聞け。
13:5 あなたがたはイスラエルの神、主が塩の契約をもってイスラエルの国をながくダビデとその子孫に賜わったことを知らないのか。

塩の契約とはレビ記2:13で規定されている、穀物の捧げ物においては塩を欠かせてはならない、という規定である。
自分達の側こそ主に従っている、という事を、御言葉で引用するなら、もっと他にもあったであろうにとも思える。

13:6 ところがダビデの子ソロモンの家来であるネバテの子ヤラベアムが起って、その主君にそむき、
13:7 また卑しい無頼のともがらが集まって彼にくみし、ソロモンの子レハベアムに敵したが、レハベアムは若く、かつ意志が弱くてこれに当ることができなかった。
13:8 今また、あなたがたは大軍をたのみ、またヤラベアムが造って、あなたがたの神とした金の子牛をたのんで、ダビデの子孫の手にある主の国に敵対しようとしている。
13:9 またあなたがたはアロンの子孫である主の祭司とレビびととを追いだして、他の国々の民がするように祭司を立てたではないか。すなわちだれでも若い雄牛一頭、雄羊七頭を携えてきて、自分を聖別する者は皆あの神でない者の祭司とすることができた。

アビヤは、ヤロブアムが主に従っていない、という事を痛烈に批判する。
ヤロブアムが卑しい無頼のともがらが集まって来たかどうかはともかくとして、金の子牛をたのみ、アロンの子孫でない者であっても、若い雄牛一頭、雄羊七頭で祭司になれるような、御言葉に反する事をしてきた事は、主の御前に反論の余地は無い。

13:10 しかしわれわれにおいては、主がわれわれの神であって、われわれは彼を捨てない。また主に仕える祭司はアロンの子孫であり、働きをなす者はレビびとである。
13:11 彼らは朝ごと夕ごとに主に燔祭と、こうばしい香をささげ、供えのパンを純金の机の上に供え、また金の燭台とそのともしび皿を整えて、夕ごとにともすのである。このようにわれわれはわれわれの神、主の務を守っているが、あなたがたは彼を捨てた。
13:12 見よ、神はみずからわれわれと共におられて、われわれのかしらとなられ、また、その祭司たちはラッパを吹きならして、あなたがたを攻める。イスラエルの人々よ、あなたがたの先祖の神、主に敵して戦ってはならない。あなたがたは成功しない」。

アビヤは、自分達には正当な祭司がおりレビ人がいる、彼らは朝ごと夕ごとに主に仕えて、これこれの事をしている、それに引き換えあなた方は祭司はいない、それら主の規定を守り行っていない、と言っているが、あいにくアビヤ自身が主に従っているというわけではなさそうだ。

1列王記15:1 ネバテの子ヤラベアム王の第十八年にアビヤムがユダの王となり、
15:2 エルサレムで三年世を治めた。その母の名はマアカといって、アブサロムの娘であった。
15:3 彼はその父が先に行ったもろもろの罪をおこない、その心は父ダビデの心のようにその神、主に対して全く真実ではなかった。
15:4 それにもかかわらず、その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。
15:5 それはダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかったからである。

アビヤは、その父が先に行ったもろもろの罪をおこない、その心は父ダビデの心のようにその神、主に対して全く真実ではなかった、という事は、アビヤは、主に従う面のあるけれど、同時にレハブアムが行ったような偶像礼拝も同時に行うような事を行っていたのだろう。
あるときには主の御名を呼ぶ、でも一難去ったら別の神にも拝む、ような。

そんな南ユダを主があわれんだのは、ひとえにダビデのゆえであった。ダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた、と書いてある通りである。

ヤロブアムはアビヤの言葉に対し、何も答えず、兵をまわした。

2歴代誌13:13 ヤラベアムは伏兵を彼らのうしろに回らせたので、彼の軍隊はユダの前にあり、伏兵は彼らのうしろにあった。
13:14 ユダはうしろを見ると、敵が前とうしろとにあったので、主に向かって呼ばわり、祭司たちはラッパを吹いた。
13:15 そこでユダの人々はときの声をあげた。ユダの人々がときの声をあげると、神はヤラベアムとイスラエルの人々をアビヤとユダの前に打ち敗られたので、
13:16 イスラエルの人々はユダの前から逃げた。神が彼らをユダの手に渡されたので、
13:17 アビヤとその民は、彼らをおびただしく撃ち殺した。イスラエルの殺されて倒れた者は五十万人、皆精兵であった。
13:18 このように、この時イスラエルの人々は打ち負かされ、ユダの人々は勝を得た。彼らがその先祖の神、主を頼んだからである。

兵力的にも戦略的にも劣っていたアビヤが、主を呼び求めた時、主は答えてくださり、大いなる助けを与えてくださった。
いかに、主に対してまっすぐでない者であっても、いかに付け焼き刃的に御言葉を盾にとっても、相手が明らかに御言葉に従わず、また主の御名を呼ぶなら、主は救いを与えてくださる。

13:19 アビヤはヤラベアムを追撃して数個の町を彼から取った。すなわちベテルとその村里、エシャナとその村里、エフロンとその村里である。
13:20 ヤラベアムは、アビヤの世には再び力を得ることができず、主に撃たれて死んだ。
13:21 しかしアビヤは強くなり、妻十四人をめとり、むすこ二十二人、むすめ十六人をもうけた。
13:22 アビヤのその他の行為すなわちその行動と言葉は、預言者イドの注釈にしるされている。

確かに主の御名を呼ぶなら、主は救いを与えてくださる。
しかし、彼の統治はわずか3年で、死んでしまった。
彼は悪い王であったと列王記には記されている。
もし彼が、あの大勝利の後、なお主に従う良い王へとなっていたなら、もっと統治は長かったであろうが、そうではなかった。

結局彼は、戦争の時だけ主の御名を持ちだして大義名分を主張する者だったのだ。
戦争の時だけ「神」を持ち出し、自分達に大義名分があるかのようにアピールする者は昔も今もいるが、そのような時だけ御言葉を持ち出し、主の御名を持ち出すのではなく、普段から、御言葉を「行う」人こそ、主は祝福し守り、統治を長くして下さるのだ。

わずか5年でダビデ・ソロモンの蓄えた富を台無しにしてしまったレハブアム(2歴代誌12章)
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レハブアムは主の御声に従い、3年間、主に従い祝福されたが、4年目以降、そうでなかった。

2歴代誌12:1 レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。
12:2 彼らがこのように主に向かって罪を犯したので、レハベアム王の五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきた。

「主に向かって罪を犯した(マアール)」、このマアールの元々の意味は「覆いかぶせる」、主な意味は、罪だと知りながらにして罪を犯す、である。覆い隠しは、それが罪だと「知って」いないならしない行為ょある。
レハブアムは、罪だと知りながらにして犯した。それに対する主の側の回答は「災い」という形で早く訪れた。

12:3 その戦車は一千二百、騎兵は六万、また彼に従ってエジプトから来た民、すなわちリビアびと、スキびと、エチオピヤびとは無数であった。
12:4 シシャクはユダの要害の町々を取り、エルサレムに迫って来た。

前回の箇所でせっかくレハブアムが固めた防備の町々は、いともあっさりと攻め落とされ、しかもエルサレムという堅固な町までも迫って来られてしまった。
神の民は、兵器や力を蓄える事には、救いは無い。主に従う事こそ、最も堅固な防備となるのだ。
詩篇127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
 127:2 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。

12:5 そこで預言者シマヤは、レハベアムおよびシシャクのゆえに、エルサレムに集まったユダのつかさたちのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたがたはわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨ててシシャクにわたした』と」。
12:6 そこでイスラエルのつかさたち、および王はへりくだって、「主は正しい」と言った。

自らの罪ゆえに災いを被った時、最も賢明な対応は、主の前にへりくだる事、悔い改める事である。
彼は、それをした。
それに対する主の側の回答もまた、早い。

12:7 主は彼らのへりくだるのを見られたので、主の言葉がシマヤにのぞんで言った、「彼らがへりくだったから、わたしは彼らを滅ぼさないで、間もなく救を施す。わたしはシシャクの手によって、怒りをエルサレムに注ぐことをしない。
12:8 しかし彼らはシシャクのしもべになる。これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである」。

人は、主の前に悔い改めて立ち返るなら、確かに主はその罪を赦してくださるが、その、本人が犯した罪の刈り取りは本人自身がしなくてはならない。
それも、主に仕える事と、人間の王に仕える事との違いを、思い知るためである。

12:9 エジプトの王シシャクはエルサレムに攻めのぼって、主の宮の宝物と、王の家の宝物とを奪い去った。すなわちそれらをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をも奪い去った。
12:10 それでレハベアム王は、その代りに青銅の盾を造って、王の家の門を守る侍衛長たちの手に渡した。
12:11 王が主の宮にはいるごとに侍衛は来て、これを負い、またこれを侍衛のへやへ持って帰った。

こうして、ソロモンがせっかく南方貿易をして、年月と多くの苦労をして蓄えた多くの金は、わずか5年にしてあっさりエジプトに奪い去られてしまった。

12:12 レハベアムがへりくだったので主の怒りは彼を離れ、彼をことごとく滅ぼそうとはされなかった。またユダの事情もよくなった。
12:13 レハベアム王はエルサレムで自分の地位を確立し、世を治めた。すなわちレハベアムは四十一歳のとき位につき、十七年の間エルサレムで世を治めた。エルサレムは主がその名を置くためにイスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町である。彼の母はアンモンの女で、名をナアマといった。

レハブアムの母は、アンモン人である、と記されている。
ソロモンがイスラエルで王であった期間は四十年、その子レハブアムは四十一歳で王になった、という事は、ソロモンは王になって間もない時期にアモン人の妻をめとり、レハブアムが産まれたという事であろう。もしかすると、長男だったのかもしれない。
しかし、アモン人は主の集会に加わってはならない、と定められている。(申命記23:3)
ダビデの曾祖母はモアブ人ルツだったが、それとは全く趣きが違う。ルツはイスラエルの神、主を自分の神として、何もかも捨ててイスラエルに来たのだが、ソロモンは、ただ女を快楽の対象として、信仰の動機は一切なかった。
どうして、よりによって、アモン人との間に生まれた者を、王として継がせなくてはならなかったったのか、それは書いていないが、ソロモンが「わなのような女は死よりも苦い」(伝道者の書7:26)事を書いており、また、自分の財産を後に来る者に継がせなくてはならない事を絶望している(伝道者の書2:18-21)事からすると、もしかしたら彼は、アモン人の女に何かしらの形で心縛られ、その子供に王権を継がせなくてはならなくなってしまったのかもしれない。
ソロモン自身、異邦の女について、以下のように箴言で勧告している。

箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

皮肉にもソロモンは、まさに、この箴言の通りになってしまった。

12:14 レハベアムは主を求めることに心を傾けないで、悪い事を行った。
12:15 レハベアムの始終の行為は、預言者シマヤおよび先見者イドの書にしるされているではないか。レハベアムとヤラベアムとの間には絶えず戦争があった。
12:16 レハベアムはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町に葬られ、その子アビヤが彼に代って王となった。

レハブアムは、ダビデの孫である。
ダビデからわずか3代目で、こんなにも早く、こんなにも落ちぶれてしまうものか、と思うかもしれない。
そうである。
親がいかに、信仰において優れていても、その子が主を敬わず、主の忌み嫌われる事を続けるなら、あっという間にその人の財は奪われ、落ちぶれてしまうのだ。
だから、御言葉教育が大事なのである。
いかにダビデのような信仰者であれ、御言葉教育をしないと、たった3代で一族が落ちぶれてしまうのは、現代のクリスチャン界を見れば一目瞭然である。

主は、子供に御言葉教育を伝授して行く事を命じておられる。
『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツと刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバール:論じ合う)。またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(申命記6:7-8)
主の御旨は、神のいのちを持った神の子が、生んで増えて満ちて行く事である。だからこれらの事を命じられたのだ。
こうしていつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に、御言葉と一体化して行く事で、天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて生き、神のかたちが出来上がっていくのだ。
 

主に聞き従ったレハブアムの統治の初期(2歴代誌11章)
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2歴代誌11:1 レハベアムはエルサレムに来て、ユダとベニヤミンの家の者、すなわち、えり抜きの軍人十八万人を集め、国を取りもどすためにイスラエルと戦おうとしたが、

レハブアムは、新しく王となった時、荒々しく威張り散らした故に、人々から見限られ、イスラエル10部族が、彼の元を離れて行ってしまったが、それに対して取った行動は、軍隊を招集して、離れて行った彼らを、さらに強制力をもって従えようとした事だった。
それは、神の民がする事ではない。愛なる神は、愛をもって人を従えようとされる。
主は彼の行動にストップをかける。

11:2 主の言葉が神の人シマヤに臨んで言った、
11:3 「ソロモンの子、ユダの王レハベアムおよびユダとベニヤミンにいるすべてのイスラエルの人々に言いなさい、
11:4 『主はこう仰せられる、あなたがたは上ってはならない。あなたがたの兄弟と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰りなさい。この事はわたしから出たのである』」。それで人々は主の言葉を聞き、ヤラベアムを攻めに行くのをやめて帰った。

レハブアムは、この時、預言者を通した主の御言葉に従った。
動き出した18万の軍隊を途中で止め、それぞれ帰らせるのは並々ならない事だ。
その、主の御言葉に従った事によって、彼は祝福を受ける。

11:5 レハベアムはエルサレムに住んで、ユダに防衛の町々を建てた。
11:6 すなわちベツレヘム、エタム、テコア、
11:7 ベテズル、ソコ、アドラム、
11:8 ガテ、マレシャ、ジフ、
11:9 アドライム、ラキシ、アゼカ、
11:10 ゾラ、アヤロン、およびヘブロン。これらはユダとベニヤミンにあって要害の町々である。
11:11 彼はその要害を堅固にし、これに軍長を置き、糧食と油とぶどう酒をたくわえ、
11:12 またそのすべての町に盾とやりを備えて、これを非常に強化し、そしてユダとベニヤミンを確保した。

これらの町々は北との境目付近ではないので、国全体を引き締める効果があっただろう。
こうして軍事面においては強固になったが、それは主の言葉に従った故だ。
従わなくなってしまうなら、いかに軍事面を強化しても無駄である。

11:13 イスラエルの全地の祭司とレビびとは四方の境から来てレハベアムに身を寄せた。
11:14 すなわちレビびとは自分の放牧地と領地を離れてユダとエルサレムに来た。これはヤラベアムとその子らが彼らを排斥して、主の前に祭司の務をさせなかったためである。
11:15 ヤラベアムは高き所と、みだらな神と、自分で造った子牛のために自分の祭司を立てた。

さらに祭司やレビ人が集まって来るのだが、それは北のヤロブアムが主から離れたゆえである。
ヤロブアムがなぜそうしてしまったのか、列王記に詳しく記されている。

『しかしヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。』(1列王記12:26-27)

彼は恐れたが、その恐れは、的外れである。なぜなら、主は彼に預言者を通し、彼の家はダビデのように長く続く事が約束されているからだ。
ただし、彼が主の道に歩むならば、である。
だから、彼が為すべきは、ダビデにならい、主の道に歩みつつ統治する事であるのに、彼はこの後、身勝手な「自分を救う方法」を編み出し、主の御旨に反する事をするようになってしまう。
『彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した。またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。』(1列王記12:31-33)

現代風に言うなら、勝手に新しい教義を編み出し、その中ではイエス・キリストを救い主の座から引き降ろし、自分が造った偶像を「救い主」として拝ませ、牧師としての召命も訓練も無い人を任命して、主日でない別の日を礼拝する日にしてしまったようなものである。
それも、自分自身の「保身」のために。
「保身」とは元々、何か脅威がある時に自分の立場を守るために為すものであるが、ただ、彼の頭の中に「恐れ」があっただけで、そもそも脅威など実存していなかったのだ。
私達は、御言葉よりも心の恐れのほうを優先させてはならない。それでは逆に呪われて、恐れていた事が実現してしまう事になってしまう。

11:16 またイスラエルのすべての部族のうちで、すべてその心を傾けて、イスラエルの神、主を求める者は先祖の神、主に犠牲をささげるために、レビびとに従ってエルサレムに来た。
11:17 このように彼らはユダの国を堅くし、ソロモンの子レハベアムを三年の間強くした。彼らは三年の間ダビデとソロモンの道に歩んだからである。

こうして南のレハブアムは、当初、主に従う幸いな期間がしばし続いたが、しかし三年しか続かなかった。
三年の後、レハブアムは主から離れてしまったからである。

11:18 レハベアムはダビデの子エレモテの娘マハラテを妻にめとった。マハラテはエッサイの子エリアブの娘アビハイルが産んだ者である。
11:19 彼女はエウシ、シマリヤおよびザハムの三子を産んだ。
11:20 彼はまた彼女の後にアブサロムの娘マアカをめとった。マアカはアビヤ、アッタイ、ジザおよびシロミテを産んだ。
11:21 レハベアムはアブサロムの娘マアカをすべての妻とそばめにまさって愛した。彼は妻十八人、そばめ六十人をめとって、男の子二十八人と女の子六十人をもうけた。
11:22 レハベアムはマアカの子アビヤを立ててかしらとし、その兄弟の長とした。彼はアビヤを王にしようと思ったからである。
11:23 それで王は賢くとり行い、そのむすこたちをことごとく、ユダとベニヤミンの全地方にあるすべての要害の町に散在させ、彼らに糧食を多く与え、また多くの妻を得させた。

彼はソロモンほどではなかったが、妻を多くした。
聖書で、多くの妻を持って、その一家が平穏だったケースは見いだせない。

妻と子は多くなり、彼らを賢く扱い、こうして、内政においても軍事においても充実して行くも、こうして祝福されて強くなった時こそ、気をつける事が必要である。
それは、これから後のレハブアムの歩みを見れば分かる。

エレミヤ書 講解説教メッセージ
エレミヤの召命(エレミヤ1:4-19)
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イスラエル王国分断という重大事件と、そのまことにくだらなかった発端(2歴代誌10:3-19)
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今回の箇所で、イスラエルは大きな暗転を迎える。
現代も、今回の箇所の影響が、ずっと続いている。
その暗転とは、イスラエル王国の分裂であり、そのきっかけは、まことにくだらないものであった。

10:3 人々は人をつかわして彼を招いた。そこでヤラベアムとすべてのイスラエルは来て、レハベアムに言った、
10:4 「あなたの父は、われわれのくびきを重くしましたが、今あなたの父のきびしい使役と、あなたの父が、われわれに負わせた重いくびきを軽くしてください。そうすればわたしたちはあなたに仕えましょう」。
10:5 レハベアムは彼らに答えた、「三日の後、またわたしの所に来なさい」。それで民は去った。

ソロモンは、その統治の前半すなわち主に聞き従っていた間は、とても祝福されていた。
1列王記4:20 ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。
4:21 ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。
4:22 さてソロモンの一日の食物は細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、
4:23 肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥があった。
4:24 これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。

王宮で1日で費やされる食料は膨大なものだが、しかしそれでもなお国民は潤い豊かだったので、王宮に貢ぐ税金は膨大であったとしても、全然問題にならなかった。
しかしソロモンの人生の後半、彼は主に聞き従わなくなり、当然、産物はとれなくなり、しかし重税だけは変わらず、そうして民は、重税にあえいでいたのだ。
それで、人望の厚いヤロブアムを通して、人々はその税金を下げてもらおうと思って来たのだ。

10:6 レハベアム王は父ソロモンの存命中ソロモンに仕えた長老たちに相談して言った、「あなたがたはこの民にどう返答すればよいと思いますか」。

レハブアムはまず、ソロモンの存命中にソロモンに使えていた長老たちに聞いた。
この後のレハブアムの記述を見るとわかるが、彼は色々と問題のある者だった。なぜ彼が王になってしまったのか。おそらく、ソロモンが亡くなったのがキュウで、彼が王として選ばれたのも、慌ただしかったのかもしれない。あるいは、ソロモンに沢山いたであろう子供達の中で、彼がもっともまともだったのかもしれない。
ともかく、偶像礼拝に走ってしまったソロモンは、多くの災いを国にもたらしてしまった。

10:7 彼らはレハベアムに言った、「あなたがもしこの民を親切にあつかい、彼らを喜ばせ、ねんごろに語られるならば彼らは長くあなたのしもべとなるでしょう」。

列王記の並行箇所では、長老たちはレハブアムに、「民のしもべとなって彼らに仕えるなら、彼らは永遠にあなたのしもべとなる」と助言している。(1列王記12:5-7)
この長老たちの助言は、非常に正しい。なぜならイエス様も同じ事を言っているからだ。

『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。』(マルコ10:42-45)
暴力や荒々しい言葉で人を威圧し制するのは、異邦人の手法である。神の民の王たる者は、みなに仕える姿勢であるべきなのだ。
しかしレハブアムは、それ良しとはしなかった。

10:8 しかし彼は長老たちが与えた勧めをすてて、自分と一緒に大きくなって自分に仕えている若者たちに相談して、
10:9 彼らに言った、「あなたがたは、この民がわたしに向かって、『あなたの父上が、われわれに負わせたくびきを軽くしてください』と言うのに、われわれはなんと返答すればよいと思いますか」。
10:10 彼と一緒に大きくなった若者たちは彼に言った、「あなたに向かって、『あなたの父は、われわれのくびきを重くしたが、あなたは、それをわれわれのために軽くしてください』と言ったこの民に、こう言いなさい、『わたしの小指は父の腰よりも太い、
10:11 父はあなたがたに重いくびきを負わせたが、わたしはさらに、あなたがたのくびきを重くしよう。父はむちであなたがたを懲らしたが、わたしはさそりであなたがたを懲らそう』」。

「わたしの小指は父の腰よりも太い」とは、自分は父なんかよりもっと大いなる者だ、という事である。
「若者たち(イェラーディーム)」は子供達、ボーイ、といった意味で、ようするに未熟者である。レハブアムは長老達の言葉を退け、彼らに相談した。
彼らはこの言葉から分かる通り、思慮も知恵も無い、ただノリと勢いだけの直情的な者達であった。レハブアムとしては、彼らと話すほうが楽しかったのだろう。
レハブアムが彼らの意見のほうを採用する、という事は、レハブアムの気質もまた彼らと同じなのである。

10:12 さてヤラベアムと民は皆、王が「三日目にわたしのところに来なさい」と言ったとおりに、三日目にレハベアムのところへ行った。
10:13 王は荒々しく彼らに答えた。すなわちレハベアム王は長老たちの勧めをすて、
10:14 若者たちの勧めに従い、彼らに告げて言った、「父はあなたがたのくびきを重くしたが、わたしは更にこれを重くしよう。父はむちであなたがたを懲らしたが、わたしはさそりであなたがたを懲らそう」。

彼は、新しい王として、荒々しく大上段から言い放った瞬間は、さぞやスカッとしただろう。
しかし、その一瞬のスカッとする爽快感の代償は、とてつもなく大きなものだった。

荒々しい暴言のたった一言が、長年築き上げて来た信頼関係を壊し、家庭を壊し、国を壊してしまう。
ヤロブアムの、このたった一言が、イスラエルを二分し、現代も、彼のこの言葉の影響ゆえに、イスラエルは今なお失われた10部族がどこにいるのか分からない状態にある。

10:15 このように王は民の言うことを聞きいれなかった。これは主が、かつてシロびとアヒヤによって、ネバテの子ヤラベアムに言われた言葉を成就するために、神がなされたのであった。

主は、無意味に人の心を操作して国を分断したりはしない。そのような事を主は望んでおられない。
ただ、主に立ち返らないダビデの家を懲らしめ、主に立ち返るようにするために、あえてこの事を起こされたのだ。
ただ、人が欲望を遂げるために、人を何とも思わないような人間に対し、また、忠告を何度しても聞かないような人に対して、主はさらに良くない思いへと引き渡し、自滅して行くに任せられるのだ(ローマ1:28-31)。

10:16 イスラエルの人々は皆、王が自分たちの言うことを聞きいれないのを見たので、民は王に答えて言った、/「われわれはダビデのうちに何の分があろうか。われわれはエッサイの子のうちに嗣業がない。イスラエルよ、めいめいの天幕に帰れ。ダビデよ、今あなたの家を見よ」。そしてイスラエルは皆彼らの天幕へ去って行った。
10:17 しかしレハベアムはユダの町々に住んでいるイスラエルの人々を治めた。
10:18 レハベアム王は徴募人の監督であったアドラムをつかわしたが、イスラエルの人々が石で彼を撃ち殺したので、レハベアム王は急いで車に乗り、エルサレムに逃げた。
10:19 こうしてイスラエルはダビデの家にそむいて今日に至った。

今日に至った、と記されているが、その今日はエズラの時代のみならず、エズラの時代からさらに2000年以上経った今さえも、そうである。
その発端は、状況だけを見るなら実にくだらない事であったが、その根底には、主に従わないソロモンの頑なさ、欲望への執着が元だった。

私達は御言葉に従う者、仕える者の姿勢を取って、さいわいな、祝福された人生を歩む者でありたい。

イスラエルを分断するために主から用いられたヤロブアム(2歴代誌10:1-2)
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10:1 レハベアムはシケムへ行った。すべてのイスラエルびとが彼を王にしようとシケムへ行ったからである。
10:2 ネバテの子ヤラベアムは、ソロモンを避けてエジプトにのがれていたが、これを聞いてエジプトから帰ったので、

王権はソロモンからその子レハブアムへ移った。
この、レハブアムの時代にイスラエルは重大な転換点を迎える。すなわち、南北王国への分断である。
そのために主に用いられた重要な器が、ネバテの子ヤロブアムである。
今回はこのヤロブアムについて見ていきたい。

彼がどういうわけで用いられたのかについては、列王記のほうに記されている。


『ゼレダのエフライムびとネバテの子ヤラベアムはソロモンの家来であったが、その母の名はゼルヤといって寡婦であった。彼もまたその手をあげて王に敵した。彼が手をあげて、王に敵した事情はこうである。ソロモンはミロを築き、父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。ヤラベアムは非常に手腕のある人であったが、ソロモンはこの若者がよく働くのを見て、彼にヨセフの家のすべての強制労働の監督をさせた。』(1列王記11:26-28)

エフライムは、イスラエルが特に祝福したヨセフの子孫であり、北イスラエル王国の代表的な民族であるが、そのヨセフ一族の監督として立てられたヤロブアムを、主は、イスラエルを分断する者として用いるため、預言者アヒヤを彼に遣わされた。
彼は「手腕家」と記されている。政治的にも、人望的にも優れた人だったのだろう、だからこそ人々から選ばれたのだ。
そして彼に、主は、ダビデに並べて語っているからには、きっと彼は主に聞き従って大成するポテンシャルを持った人であったのだろう、それで主に選ばれたのだ。

『そのころ、ヤラベアムがエルサレムを出たとき、シロびとである預言者アヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい着物を着ていた。そして彼らふたりだけが野にいた。』(1列王記11:29)
彼らは野原で二人だけの状況で、誰も彼らの会話を聞いていないが、アヒヤはそこで、象徴的な言葉を与える。

『アヒヤは着ている着物をつかんで、それを十二切れに裂き、ヤラベアムに言った、「あなたは十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる、『見よ、わたしは国をソロモンの手から裂き離して、あなたに十部族を与えよう。(ただし彼はわたしのしもべダビデのために、またわたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだ町エルサレムのために、一つの部族をもつであろう)。』(1列王記11:30-32)

外套を引き裂く事は、王権が引き裂かれる事を暗示する。
かつて、サウル王が主の御言葉を二度目に退けた時、サムエルはサウルに愛想を尽かし、出て行こうとしたが、その時サウルはサムエルを引き留めようとして上着のすそを掴んで、引き裂いたが、その時、サムエルは言った。
「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。」(1サムエル15:28)
結局、王権はサウルの元を離れ、ダビデのものとなった。(1サムエル記24:4)

主に特別な油注がれた人が、主から警告が与えられてもそれを退け、御心にそぐわない事をあくまで続けるなら、その人はちょうどサウルやソロモンのような事が起こってしまう。
すなわち、与えられている支配権は主によって取り上げられ、別の人がそれを得るのだ。

『それは彼がわたしを捨てて、シドンびとの女神アシタロテと、モアブの神ケモシと、アンモンの人々の神ミルコムを拝み、父ダビデのように、わたしの道に歩んで、わたしの目にかなう事を行い、わたしの定めと、おきてを守ることをしなかったからである。』(1列王記11:33)

モアブの神ケモシュは、自分の子供を火で焼いて捧げるような邪教の偶像神である。
ソロモンはそのような神々に平伏すような愚かな事を行い、二度の警告にも聞き従わず、その道を進んでしまった。

『しかし、わたしは国をことごとくは彼の手から取らない。わたしが選んだ、わたしのしもべダビデが、わたしの命令と定めとを守ったので、わたしは彼のためにソロモンを一生の間、君としよう。そして、わたしはその子の手から国を取って、その十部族をあなたに与える。その子には一つの部族を与えて、わたしの名を置くために選んだ町エルサレムで、わたしのしもべダビデに、わたしの前に常に一つのともしびを保たせるであろう。』(1列王記11:34-36)

彼が生きている間にその分断が起きなかったのは、決してソロモンに何か良い分がかったからではない。
ソロモンは、サウルの場合と違い、彼の父・ダビデが示した忠実の故に、また、主の御名が置かれたエルサレムの故に、生きている間は王権は取り上げられなかったのだ。

主はヤロブアムに、王として統治するに、自由裁量を与えられる。
『わたしがあなたを選び、「あなたはすべて心の望むところを治めて(KJV: thou shalt reign according to all that thy soul desireth)」、イスラエルの上に王となるであろう。』(1列王記11:37)

このように、主が特別な任に召しだされる人に、主は、それを遂行するに必要な能力(賜物)と、全て必要な手はずの整えと、そして「自由裁量」が与えられ、それに従って、御旨を遂行していくものだ。
しかし、その自由裁量の中で、与えられた能力や手はずを、主のためではなく、自分の欲望を満たすためにのみ用いて事を為し続けるなら、主から特別扱いされているだけに、ペナルティもまた大きい。それは、ヤロブアムがこの後、どう歩み、どうなってしまうのかを見て行くと、よくわかる。

続く言葉は、驚くべき言葉である。
『もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。わたしはこのためにダビデの子孫を苦しめる。しかし永久にではない』」。』(1列王記11:38-39)
なんと主は、このヤロブアムに、ダビデのように、長く続く堅固な家を立てる、と、ダビデに準じるような約束を与えられている。

ヤロブアムには、これ程の約束が与えられている、というのに、彼の名を知らないクリスチャンは、多いと思う。
なぜなら、彼の家は、たったの二代で断たれてしまったからだ。
なぜなら彼は、祝福の条件である次の言葉、「もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば」、という点を全く守らず、警告を受けても改めなかったからだ。
もしヤロブアムが主の命令に聞き従い、主の目にかなう事を行っていたのなら、ヤロブアムの名は、ダビデに次ぐ栄光の名前になっていた可能性も有り得たわけであり、もし、ダビデが戒めを受けてもなお心頑なにし罪を犯し続けていたなら、彼の名はここまで大きくはならなかったのだ。
彼にしても、ソロモンにしても、そしてダビデにしても、主を恐れ敬い、主の御言葉に従って歩むという「祝福の条件」を満たす人に、主は大いに報いて祝福を下さるが、もしその逆の道を歩むなら、その人には約束の祝福は成就しないばかりか、悲惨な目に遭ってしまう。

私達にも全く同様である。
主から素晴らしい祝福の約束をいただき、預言の御言葉をいただいているにもかかわらず、主を軽んじ、御言葉に反して身勝手な道を歩み続けるなら、主はそのことについて警告を与えられる。
それでも聞かないなら、与えようとしていた祝福は取り上げられ、それでも悔い改めないなら、聖書の中でそのように歩んだ人達と、同じ末路になってしまう。
一体、幾人の人達が、主から素晴らしい召命をいただいておきながら、不従順によって、その特別な地位を奪われ、歴史の闇へと消えて行ってしまったのだろう。

『ソロモンはヤラベアムを殺そうとしたが、ヤラベアムは立ってエジプトにのがれ、エジプト王シシャクのところへ行って、ソロモンの死ぬまでエジプトにいた。』(1列王記11:40)
ソロモンは、主に対して不実だった自分を悔い改める事なく、また、その結果もたらされた「新展開」を素直に受け入れず、ヤロブアムを抹殺しようとしたのだ。
しかし、彼の計らいは叶わなかった。

主の御旨に従わない悪い王が、主の御旨に適う新しい王が誕生したのを聞いた時、悪い王は、その新しい王をあらゆる権力を行使して殺そうとするも叶わず、彼にはエジプトへ逃げられてしまう。
どこかで聞いたことのある話である。
そう、イエス様が誕生された時、ちょうど同じ事が起きた。

当時、ユダヤを治めていた悪い王・ヘロデは、ユダヤの新しい王が誕生したうわさを聞いた時、その赤子を殺害しようとしたが、主はその子をエジプトへ逃れさせ、ヘロデ王が死ぬまで、エジプトでかくまわれた。(マタイ2章)
ソロモンがヘロデ王と同じ行動を取ったのは、情けない話であるが、主がひと度「成す」と定められた事には、いかに強い王が権力を駆使して抹殺しようとしても、無駄なのだ。

これを境に、イスラエルの歴史は暗転する。
王国は北と南に分裂し、悪い王と良い王の交錯する混乱した時代へと突入する。
そして、その中で一貫して貫かれている法則は、主に従う王は栄え、主に従わない王は災いに満ちている、という点だ。

人はみな、罪があり、間違った方向へ行く事もある。
そんな自分の罪を悲しみ、悔い改めて主に立ち返る人に対して、主は憐れみ深く赦して下さるが、指摘された自分の罪を悲しまずに、むしろ楽しみ、主から戒められても、なお改めないなら、災いに満ちてしまう。

私達はダビデのように、素直に悔い改める性質でありたい。
彼はそのような性質だったからこそ、大いなる栄誉が与えられたのだ。

力、女、金 vs 御言葉 - 王たる者が求めてははらぬものと求めるべきもの(2歴代誌9:13-31)
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前回の箇所では、シェバの女王が来訪し、ソロモンに与えられた知恵と栄誉、イスラエル栄えている有様を目の当たりにして息をのんだ。
今回の箇所でも、ソロモンがいかに栄華を極めていたかが記されている。

9:13 さて一年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は六百六十六タラントであった。
9:14 このほかに貿易商および商人の携えて来たものがあった。またアラビヤのすべての王たちおよび国の代官たちも金銀をソロモンに携えてきた。
9:15 ソロモン王は延金の大盾二百を造った。その大盾にはおのおの六百シケルの延金を用いた。
9:16 また延金の小盾三百を造った。小盾にはおのおの三百シケルの金を用いた。王はこれらをレバノンの森の家に置いた。

毎年、外国から膨大な金がもたらされ、ソロモンはそれを用いて宮殿をきらびやかに飾る。
盾は武具であるが、純金は重く、また金属として柔らかいので、戦闘では役に立たない。
だから、これらは武器庫にではなく、宮殿のきらびやかさを示す「飾り」として置かれた。

9:17 王はまた大きな象牙の玉座を造り、純金でこれをおおった。

象牙は今も貴重であるが、それが純金で覆われた王座にソロモンは座して執務を行った。

9:18 その玉座には六つの段があり、また金の足台があって共に玉座につらなり、その座する所の両方に、ひじかけがあって、ひじかけのわきに二つのししが立っていた。
9:19 また十二のししが六つの段のおのおのの両側に立っていた。このような物はどこの国でも造られたことがなかった。
9:20 ソロモン王が飲むときに用いた器はみな金であった。またレバノンの森の家の器もみな純金であって、銀はソロモンの世には尊ばれなかった。
9:21 これは王の船がヒラムのしもべたちを乗せてタルシシへ行き、三年ごとに一度、そのタルシシの船が金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せて来たからである。

ソロモンの時代、いかに金が、国々の珍しい動物が集められて来たか、いかに栄光ある時代であったかが伺える。
かつてどの国にも造られた事の無かったような贅を凝らした王座に座し、金の器物が惜しみなく大量に使用された宮殿に住み、どの国も、かつてなかった程のごちそうが毎日宮殿で振る舞われ、そのような豪勢な暮らしをしていた。

9:22 このようにソロモン王は富と知恵において、地のすべての王にまさっていたので、
9:23 地のすべての王は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。
9:24 人々はおのおの贈り物を携えてきた。すなわち銀の器、金の器、衣服、没薬、香料、馬、騾馬など年々定まっていた。

国々の王達が、全世界より、陸路からも海路からも栄光を携え上って来る。。。まさに啓示録22章のような有りさまではある。確かに主の道を歩む者に、神はそのような祝福を与えて下さるが、結局それは彼の信仰が正しい形で貫き通されたからではなく、父ダビデの信仰の「七光り」であった。

神の国とその義とをまず第一に求めれば、必要なものは、加えて、全て与えられ、自然と富も栄光も追いかけてくるのだが、しかし彼は、途中からそれが逆転してしまった。
すなわち彼はいつしか、富や栄光を優先して追いかけるようになり、神の国とその義を追い求める道を捨て去ってしまった。
そのような者は、富や栄光を追いかけても、それらに逃げられてしまうようになる。
彼は人生の後半、贅沢な暮らしを続けるために、人々に重税を課した。(2歴代誌10:4)
統治の初期は、食料も富もふんだんに追いかけてきたイスラエルだったのに、いつしかソロモンが信仰を離れてから、それらは途絶えてしまったのだ。

9:25 ソロモンは馬と戦車のために馬屋四千と騎兵一万二千を持ち、これを戦車の町に置き、またエルサレムの王のもとに置いた。
9:26 彼はユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでのすべての王を治めた。
9:27 王はまた銀を石のようにエルサレムに多くし、香柏を平野のいちじく桑のように多くした。
9:28 また人々はエジプトおよび諸国から馬をソロモンのために輸入した。

ソロモンはエジプトから馬を大量に輸入した。
モーセは、神をおそれる国の王たるものが、してはならない事を、3つ示している。

申命記17:16 王となる人は「自分のために(KJV: to himself)」馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
17:17 また妻を(KJV: to himself)多く持って心を、迷わしてはならない。また「自分のために(KJV: to himself)」金銀を多くたくわえてはならない。

王たる者が集めてはならないものは、すなわち、力と、女と、金である。
馬は、戦争で用いる動物であり、当時の軍事力の指標であるが、神は馬の力を喜ばれない。
なぜ馬を多く得るために「再び」「エジプトへの道を帰ってはならない」と主は言われたのか。

エジプトはかつて、イスラエルの子・ヨセフによって、世界一の強国となったにもかかわらず、後には、イスラエルの民を奴隷として搾取し、それによって得た富をイスラエルには還元せず、ただ自分のために蓄えた。
エジプトは、馬や戦車などの軍事的強制力でもって他人を抑え、奴隷として搾取し、さらには、イスラエルの民が増えて脅威となったならもっと過酷な労働を課して減らそうとし、それでもだめなら、男子が生まれたらナイル川に捨ててまで、減らそうとした国である。

そのように、馬を増やして強制力を強くする事や、自分のために金銀を増やす事は、エジプトの流儀であり、そのような流儀に「戻って」はならないのだ。
これは、クリスチャンも同じである。
人々を強制力で縛り、搾取し、自分のために富を蓄える事は「世のやり方に戻る事」であり、そこに戻るとするなら、主がエジプトを撃って神の民を救われたように、主は、そのような事をする者達を撃ち、搾取されてあえいで苦しんできた人々を、救って下さるのだ。
だから「その道に帰ってはならない」と言われたのだ。

神を主とする国の王たる者は、軍事力を積み上げる事に、やっきになってはならない。
ダビデも自国の兵力を数えるという罪を犯し、イスラエルに災いを招いてしまった。力を頼みとする者は、おごり高ぶったり、神をないがしろにしかねないのだ。

また、してはならない事の二つ目は、妻を多く持つ事である。
それによって心迷うからであり、また、主は元々、人を男と女とに創造され、「ふたりは一体となる」と言われた通り、多くの伴侶を持つのは、本来あるべき姿ではないのだ。
実際、聖書を見ると、多くの妻を持っている家庭は必ずと言っていい程、争いがあり、子育てに失敗している。

してはならない事の三つ目は、金銀を多く蓄える事である。
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』(1テモテ6:9-10)

力、女、金。それらを追求するのは、世の男の常であり、多く持つ事がステータスであるが、しかし、神の民は、それらを第一に追求するものではない。
神の民は、御言葉をこそ追い求めるものであり、神の国とその義を求めるなら、それらのものは、ついてくるものである。
モーセは、王たる者が求めてはならない三つのものを示した後、求めるべきものを以下のように示した。

申命記17:18 彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、
17:19 世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。
17:20 そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。

そう、王たる者は、御言葉をこそ第一に目を留め、そこから右にも左にも離れること無く統治して行くべきなのだ。

9:29 ソロモンのそのほかの始終の行為は、預言者ナタンの書と、シロびとアヒヤの預言と、先見者イドがネバテの子ヤラベアムについて述べた黙示のなかに、しるされているではないか。
9:30 ソロモンはエルサレムで四十年の間イスラエルの全地を治めた。
9:31 ソロモンはその先祖たちと共に眠って、父ダビデの町に葬られ、その子レハベアムが代って王となった。

こうして、ソロモンの統治は、40年で終わった。
もし彼が主の道に歩んでいたなら、その日数は増し加えられていたのに、そうではなかったのは、彼の本心が、主から離れてしまったからだ。

『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。』(1列王記11:11:9-11)

主はソロモンに立ち返るようにと、2回、現れた。
王国の分裂を止めるために、神はたった2回しか現れなかったのか、と思う人がいるかもしれないが、主は「これがあなたの本心」と言われた。そう、主は本心をご存知であるので、ある人には10回でも20回でも現れてその人が滅びに向かうのを止めることはあるだろう。
しかしソロモンの「本心」は、2回でも20回でも変わらないものだと主はご存知だったのだ。

私達は、ソロモンの道に歩むべきではない。
彼は、してはならないと言われていた事を止めず、戒められても、もう改心する余地が心の中に残っていなかった。
私達はソロモンのように、力や異性、お金を第一に追いかけるものではなく、王族の祭司らしく神の国とその義を第一に求めるべきであり、そして御言葉にのみこそ目をとどめ続けるべきだ。
そしてもし、道を誤っている事が主から示されたなら、ダビデのようにすぐに悔い改め、方向性を御言葉へと修正するべきだ。
そうするなら、必要なものは全て「加えて」与えられ、

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