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賛美奉仕者の系図(1歴代誌6:31-47)
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モーセの時代、主は礼拝における奉仕を定め、レビ族の子孫、ゲルショム、ケハテ、メラリ族それぞれに、幕屋を運んだり、設営したり、解体したりする奉仕者を定められ、幕屋の奉仕や聖所での奉仕が定められた。
しかしダビデの時代以降、レビ族の奉仕の形態は変わり、神殿において主に向かって賛美の歌を捧げる歌うたいや門衛、また、人々に律法を教える役割を担うようになった。
6:31 契約の箱を安置したのち、ダビデが主の宮で歌をうたう事をつかさどらせた人々は次のとおりである。
6:32 彼らは会見の幕屋の前で歌をもって仕えたが、ソロモンがエルサレムに主の宮を建ててからは、一定の秩序に従って務を行った。
モーセ律法では、もっぱら動物を主に捧げるいけにえについては記されていたが、賛美については記されていない。
せいぜい出エジプト記で、主がエジプトの軍勢を海に沈めた時に、モーセやミリヤム、イスラエルの会衆が主に賛美の歌を歌ったくらいであるが、規定として賛美を捧げるようには、記されていない。
しかし、主に賛美を捧げる事は、御胸にかなった事である。
ヘブル13:15 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。
今、この時代、イエス様がただ一度、まことの聖所に入り、真に傷のない小羊として捧げられた事により、もはや旧約のような動物のいけにえを捧げる事は不要となった事がヘブル書に記されている。
そして今、私達はそのイエス様ゆえに、このからだを、きよい、生きた供え物として捧げる事、そして、世と妥協せず、心を新たにし、主に捧げられた者として聖なる生活をして行くことが私達・神の民の生き方である。
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
天においてはもはや犠牲のいけにえは存在せず、常に、絶えず、永遠に、賛美が主に捧げられている有様が、黙示録に記されている。
だから神の宮において賛美が捧げられる事は非常に理に適った事であり、ダビデは心から主に賛美を捧げる聖歌隊を組織し、ダビデ自ら主に捧げる詩篇を記したのだろう。
神殿において賛美が捧げられていた時代、その奉仕者はレビ人と定められていた。
まずは詩篇でも登場する、賛美を中心的に導いたヘマンの系図である。
6:33 その務をしたもの、およびその子らは次のとおりである。コハテびとの子らのうちヘマンは歌をうたう者、ヘマンはヨエルの子、ヨエルはサムエルの子、
6:34 サムエルはエルカナの子、エルカナはエロハムの子、エロハムはエリエルの子、エリエルはトアの子、
6:35 トアはヅフの子、ヅフはエルカナの子、エルカナはマハテの子、マハテはアマサイの子、
6:36 アマサイはエルカナの子、エルカナはヨエルの子、ヨエルはアザリヤの子、アザリヤはゼパニヤの子、
6:37 ゼパニヤはタハテの子、タハテはアシルの子、アシルはエビアサフの子、エビアサフはコラの子、
6:38 コラはイヅハルの子、イヅハルはコハテの子、コハテはレビの子、レビはイスラエルの子である。
この中に、サムエルがおり、コラがいる。そして、ヘマンはケハテ族の一族である事が、この系図で明らかにされている。
さらに、ヘマンの右に立ってサポートするアサフと、左に立つエタンの系図とが、39節以降に記されている。
それによると、アサフはゲルション族、エタンはメラリ族である事が系図に記されており、こうして、当時の賛美奉仕者がレビの一族、ゲルショム、ケハテ、メラリ族の子孫である事がここに明記されている。
かつては何々族であるかが奉仕者として大事であったが、今や、全てイエス様にあって召し出された者すべてが、主を賛美し、主の奉仕者となり、主にあって祭司のつとめをする事が求められている。
1ペテロ2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
2:11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
レビの系図 - 主の奉仕者として登録される人と、登録されない者の違い(1歴代誌6:1-30)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1歴代誌
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- pastor 2017-8-8 7:15
レビの系図 - 主の奉仕者として登録される人と、登録されない者の違い(1歴代誌6:1-30)
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第一歴代誌の系図の第一の主人公は王族であるユダ族であったが、第二の主人公は、神の御前に仕える事を主に定められたレビ族である。それが6章に詳細に記されている。
6:1 レビの子らはゲルション、コハテ、メラリ。
6:2 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエル。
6:3 アムラムの子らはアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマル。
6:4 エレアザルはピネハスを生み、ピネハスはアビシュアを生み、
・・・
6:10 ヨナハンはアザリヤを生んだ。このアザリヤはソロモンがエルサレムに建てた宮で祭司の務をした者である。
・・・
6:15 ヨザダクは主がネブカデネザルの手によってユダとエルサレムの人を捕え移された時に捕えられて行った。
1−15節で、族長レビからモーセ・アロンの時代、ソロモン神殿の時代、そしてバビロン捕囚の時代へとつながった。
アロンやモーセに関しては、彼らが為した事からすれば他の誰よりも文面を割くべきと思うかもしれないが、ここでは、名前が列挙されているだけである。
トーラ(モーセ五書)を暗唱するユダヤ人にとって、彼らは書くまでもない存在であり、これら僅かな節の名前の列挙を見るだけで、モーセ五書に記された祭司一族が一瞬で走馬灯のように頭によぎるのである。
6:16 レビの子らはゲルション、コハテおよびメラリ。
6:17 ゲルションの子らの名はリブニとシメイ。
6:18 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエルである。
6:19 メラリの子らはマヘリとムシ。これらはレビびとのその家筋による氏族である。
16節以降は、レビの3人の子達の簡単な系図である。
この3人の子孫達は、神を礼拝する所である幕屋において、いかなる奉仕をするのか。その明確な役割分担や、その人数、また、彼らはどこに住むべきか、民数記3章において、詳細に定められている。
ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる奉仕が割り当てられており、ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる奉仕が割り当てられており、メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる奉仕が割り当てられた。
そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)
主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。
教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。
『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。
実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。
民数記16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。
歴代誌の系図の中に、知られた名前もちらほら登場するが、その名前の中に、聖書それぞれの場面のドラマがある。
6:22 コハテの子はアミナダブ、その子はコラ、その子はアシル、
・・・
6:27 その子はエリアブ、その子はエロハム、その子はエルカナ。
6:28 サムエルの子らは、長子はヨエル、次はアビヤ。
コラは、レビ族で重要な役割を担っておりながら、神が定めた指導者モーセに逆らい、神が定めた大祭司アロンの職を奪おうと、著名な有力者を大勢従えて反乱を起こした。
しかし彼らが人々の前で尋常ならざる死に方をする事によって、神の定められた指導者や祭司に逆らうとはいかなる事かを、神は示された。
しかしながら、そのコラの子孫からは、あの有名な預言者でありキングメーカーであるサムエルが生まれ、さらには、コラの子達は素晴らしい詩篇の数々を生み出した。
結局大切なのは、どのように生まれついたのかではなく、また、どこに住んでいるのかでもなく、その人がいかに主に従順し、主が定められた指導者に従順し、そしていかに心に主を住まわせているか、である。
主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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- pastor 2017-8-7 6:49
主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所であり、祝福の明細よりも呪われる事の明細のほうがはるかに多い。
レビ記26章の特徴的な事は、主を敬わない事を続けるなら、その刑罰としての呪いがさらに7倍重くなり、それでも主を敬わない事を続けるなら、さらに7倍重くなる、と、段階的に、主を敬わない事の呪いが重くなっていく事である。
その、最も基本的な事は、次の事である。
26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
これは十戒の中でも最も基本的な事である。十戒のうち、第1−4戒は神との関係の戒め、第5-10戒は人との関係であるが、ことばの分量的には、神との関係のほうがはるかに多い。(出エジプト記20章)
偶像礼拝は、神以外のものを神とする事だが、礼拝よりも御言葉よりも、それ以外のものを大事にするなら、それは偶像礼拝となり、呪われるための条件となってしまう。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
すなわち、主を覚え主を敬うべき時、場所をわきまえ、主を恐れよ、という事である。
列王記を見ると、主を礼拝するべき聖所を軽んじ、主を敬うべき時である安息日や祭りの日を軽んじた王達は、必ず衰退して来た。
しかし、主を重んじて礼拝を守り、聖所を建て直した王は、必ず栄えた。
主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。
『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。
主の御言葉を守り行うのであれば、全ての獣の危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。
また、敵への勝利の約束が与えられている。(7-8)
さらに、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。(9-10)
そして、何よりの祝福は、主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。それこそ、何にもまさる祝福である。(11-13)
14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)
第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、まず訳の分からない恐怖に襲われ、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。
あわて者となり、物を落としてこわしたり、なくしやすくなる。
怒りっぽく成り、病がちになる。
いじめられやすくなり、常に何かから逃げる生活となる。
それが第一段階だが、それでも主に聞き従わないなら、さらに7倍罰が重くなってしまう。
「作物の不作」が来(レビ記26:18-20)、「野獣」が横行し(レビ記26:21-22)、戦争と疫病、食料不足の災いが降りかかる。(レビ記26:25-26)
この災いでも、なお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、食料不足は最悪の状態になり、自分の息子や娘の肉を食べるまでになる。(27-29節)
『しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。』(レビ記26:40-42)
人々はどうして、愚かにも、呪いへとまっしぐらに進む事を止めないか。それは「心に割礼が無いから」だと書いてある。
すなわち、心が「あれをやりたい」「これをやりたい」という肉の思いで覆い尽くされていて、それを取り除ける気が、一切無いからである。
その無割礼の心が砕かれ、取り除かれて、主が与えられた罰を正当とし、その罰を甘んじて受けようとする人達に、主は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こす、と言っておられる。
受けている呪いや罰を乗り越えるには、自分に罪がある事を認め、それを正直に主に告白する必要があるのだ。
そして、その向こう側で、主は、恵みと憐れみをの手を広げて待っておられるのだ。
主はなぜ、この章に記されているほどの災いを用意されるか。
それは、愛しているからであり、死のパターンに陥らないようにと、懲らしめを与えられるからだ。
『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5-11)
神の民の系図に入れられるかどうかの鍵(1歴代誌5:1-26)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
5章はルベン、ガド、マナセの半部族の系図が記されている。
系図と言っても、必ずしも長男、次男の順ではないし、先祖とのつながりが不明なものも多い。
マタイ福音書1章の系図でもそうだが、神の民の系図は、先祖がどのような血筋であるかどうか、長男・次男の順序はどうであるかより、むしろその本人自身が「主の御前に正しく歩む」事が重要であり、そうでないなら、系図から容赦なく除外されてしまうし、また、そうであるなら、いかに先祖とのつながりが不明であろうと、系図に載せられるのである。
以下の御言葉がそれを証明している。
5:1 イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。
5:2 またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――
ルベンは血筋的には長男であるが、その長子の権は奪われ、歴代誌の系図も、わずか10節にも満たない。それはルベンが御前に悪を行い、親を汚すような事をしたからだ。
かといって、父が祝福したヨセフの子ら(エフライム、マナセ)が実際的に祝福されたかというと、そうでもない。
結局のところ、兄弟達の長となり王達が生まれたのは、ユダ族だった。
聖書では、長男が衰え、末っ子が栄える、というパターンが多いが、だからといって、長男は宿命的に祝福を受けられない、とは限らないし、末っ子なら自動的に祝福されるわけでもない。
かといって、父が特別えこひいきして祝福した子が必ずしも祝福されるとも限らない。
結局のところ、その人が実際に祝福されるかどうかは、神の民としてどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかによりけりなのだ。
5:11 ガドの子孫はこれと相対してバシャンの地に住み、サルカまで及んでいた。
5:12 そのかしらはヨエル、次はシャパム、ヤアナイ、シャパテで、ともにバシャンに住んだ。
ここに出てくる系図は、創世記や民数記のガドの息子たちとはつながらず、むしろ彼らの居住地や有力者たちの情報について記されている。
血筋的な順序や前後関係が重要なのではなく、主の御前に正しく歩んで祝福されたかどうかが、系図に記載される上で重要であるからだ。
5:18 ルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族には出て戦いうる者四万四千七百六十人あり、皆勇士で、盾とつるぎをとり、弓をひき、戦いに巧みな人々であった。
5:19 彼らはハガルびとおよびエトル、ネフシ、ノダブなどと戦ったが、
5:20 助けを得てこれを攻めたので、ハガルびとおよびこれとともにいた者は皆、彼らの手にわたされた。これは彼らが戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれたからである。
5:21 彼らはその家畜を奪い取ったが、らくだ五万、羊二十五万、ろば二千あり、また人は十万人あった。
5:22 これはその戦いが神によったので、多くの者が殺されて倒れたからである。そして彼らは捕え移される時まで、これに代ってその所に住んだ。
ここに、ルベン・ガド・マナセの半部族が信仰をもって戦いを仕掛け、勝利した記述が挿入されている。
彼らはこの時、「戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれた」と、わざわざ記している所に、神の民の歩むべき道筋を歴代誌の記者の意図を伺う事ができる。
5:23 マナセの半部族の人々はこの地に住み、ふえ広がって、ついにバシャンからバアル・ヘルモン、セニルおよびヘルモン山にまで及んだ。
5:24 その氏族の長たちは次のとおりである。すなわち、エペル、イシ、エリエル、アズリエル、エレミヤ、ホダヤ、ヤデエル。これらは皆その氏族の長で名高い大勇士であった。
マナセの半部族の系図も、むしろ氏族の長達についての記述である。
しかし、次に記されている通り、いかに先祖たちが素晴らしい事を行ったとしても、子孫が主に悪である事を行うなら、それらを台無しにしてしまう。
5:25 彼らは先祖たちの神にむかって罪を犯し、神が、かつて彼らの前から滅ぼされた国の民の神々を慕って、これと姦淫したので、
5:26 イスラエルの神は、アッスリヤの王プルの心を奮い起し、またアッスリヤの王テルガテ・ピルネセルの心を奮い起されたので、彼はついにルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族を捕えて行き、ハウラとハボルとハラとゴザン川のほとりに移して今日に至っている。
結局、この章に記されていたルベン、ガド、マナセの半部族は、アッシリアに捕らえ移されてしまった。
今日に至っている、とは、何も歴代誌の時代に限らない。21世紀の現代でも、彼らがどこにいるのか、未だわかっていない。
箴言13:13 み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。
ヨハネ 1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
主を恐れ敬い、みことばを守り行うかどうかが、結局、神の民の系図に入れられるかどうかの鍵となるのだ。
シメオン族の系図 - 御声を聞く人の幸いと、欲望の声に聞く人の災い(1歴代誌4:24-43)
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- pastor 2017-7-31 7:04
シメオン族の系図 - 御声を聞く人の幸いと、欲望の声に聞く人の災い(1歴代誌4:24-43)
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今まではユダ族の系図だったが、今回の箇所から、他の部族の系図に入るが、これら部族の系図は、バビロン捕囚後に残ったユダ族やレビ族ほど詳細には記されない。
その中で真っ先に記されたのは、シメオン族の系図であった。
4:24 シメオンの子らはネムエル、ヤミン、ヤリブ、ゼラ、シャウル。
シメオンの名の意味は「聞く(シェマー)」、申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
彼の母レアが彼を産んだ時、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、つけた名である。
4:27 シメイには男の子十六人、女の子六人あったが、その兄弟たちには多くの子はなかった。またその氏族の者はすべてユダの子孫ほどにはふえなかった。
4:28 彼らの住んだ所はベエルシバ、モラダ、ハザル・シュアル、
4:29 ビルハ、エゼム、トラデ、
4:30 ベトエル、ホルマ、チクラグ、
4:31 ベテ・マルカボテ、ハザル・スシム、ベテ・ビリ、およびシャライムである。これらはダビデの世に至るまで彼らの町であった。
シメオンは、旧約聖書の中ではあまりぱっとしない部族である。
シメオンは色々な地方に散って、ユダ族ほどには増えなかった事が記されているが、この事は、実は彼の父ヤコブによって預言されていた。
族長時代、シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)
また、エジプトを出た荒野にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受け、皆が自分達の中から悪を取り除こうと悲しみながら悔い改めの集会をしている真っ最中、彼らの目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む事をした。(民数記25章)
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだが、シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であったのだろう。
事実、シメオン族は、荒野の40年で、イスラエル12部族中最も減少率の激しい一族であった。
4:34 メショバブ、ヤムレク、アマジヤの子ヨシャ、
4:35 ヨエル、アシエルのひこ、セラヤの孫、ヨシビアの子エヒウ。
4:36 エリオエナイ、ヤコバ、エショハヤ、アサヤ、アデエル、エシミエル、ベナヤ、
4:37 およびシピの子ジザ。シピはアロンの子、アロンはエダヤの子、エダヤはシムリの子、シムリはシマヤの子である。
4:38 ここに名をあげた者どもはその氏族の長であって、それらの氏族は大いにふえ広がった。
この名前を連ねた人達は、シメオン族であるものの、主流の系図との関わりは不明である。
しかし、ここに名を連ねた理由は、彼らが信仰をもってカナンの地を占領して行ったためだ。
4:39 彼らは群れのために牧場を求めてゲドルの入口に行き、谷の東の方まで進み、
4:40 ついに豊かな良い牧場を見いだした。その地は広く穏やかで、安らかであった。その地の前の住民はハムびとであったからである。
4:41 これらの名をしるした者どもはユダの王ヒゼキヤの世に行って、彼らの天幕と、そこにいたメウニびとを撃ち破り、彼らをことごとく滅ぼして今日に至っている。そこには、群れのための牧場があったので、彼らはそこに住んだ。
4:42 またシメオンびとのうちの五百人はイシの子らペラテヤ、ネアリヤ、レパヤ、ウジエルをかしらとしてセイル山に行き、
4:43 アマレクびとで、のがれて残っていた者を撃ち滅ぼして、今日までそこに住んでいる。
シメオン族の中にも、それぞれの役割を正統に果たそうとする人達がおり、そしてその通り実行した結果、彼らは「今日まで」そこに住むという幸いを得ている。
今日まで、とは、歴代誌が記された時代、エズラの時代まで、という事だ。
シメオン族は、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもない部族だったが、新約では、シメオンの名を持つ人には良い人物が多い。
イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊の言う事を聞く事が出来、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。
シメオン、その名の意味は「聞く」であった。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。
主の御声に聞くのでなく、怒りという声、性的欲望という声に聞いた結果、呪われ、減らされ、モーセの祝福からも除外されてしまった事で、シメオン族はあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。
出所不明でありながらも祝福された人達の系図(1歴代誌4:1-23)
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4章前半は、ユダ族の補足的系譜が記されている。
3章は、ダビデ王家という非常に立派な血筋であるにもかかわらず、呪われてしまった暗い歴史を連想させる系図であったが、4章のユダ族の系図は、それとは全く対照的である。
4章の系図に名を連ねる人達は、系譜的つながりが不明な人達が大部分を占める。
しかし、信仰によって進み出て、祝福された人達が、名を連ねている。
この3章につづいて4章のタイミングに、この出所不明な人達の名が載せてある事には、いかに血筋がしっかりした人であっても、主を軽んじ御言葉を疎かにするなら呪われるが、いかに出所が不明であろうとも、神である主に信頼する者には、主は豊かに報いて下さるのだ、という、歴代誌記者の意図を垣間見るかのようである。
4:1 ユダの子らはペレヅ、ヘヅロン、カルミ、ホル、ショバルである。
4:2 ショバルの子レアヤはヤハテを生み、ヤハテはアホマイとラハデを生んだ。これらはザレアびとの一族である。
4:3 エタムの子らはエズレル、イシマおよびイデバシ、彼らの姉妹の名はハゼレルポニである。
4:4 ゲドルの父はペヌエル、ホシャの父はエゼルである。これらはベツレヘムの父エフラタの長子ホルの子らである。
ペレツ、ヘツロンまでが系図的には主流であるが、ヘツロンの子カルミ以降は傍流である。
4:5 テコアの父アシュルにはふたりの妻ヘラとナアラとがあった。
4:6 ナアラはアシュルによってアホザム、ヘペル、テメニおよびアハシタリを産んだ。これらはナアラの子である。
4:7 ヘラの子らはゼレテ、エゾアル、エテナンである。
4:8 コヅはアヌブとゾベバを生んだ。またハルムの子アハルヘルの氏族も彼から出た。
これらの節の系図の父祖であるアシュルは、ユダ族のどの家から出たのかは、見出だされてはいない。
ただユダ族から出たという事以外、分からないのである。
なぜ彼らが記されたかは不明であるが、続く節の、そのような出所不明であっても敢えて系図に記された人達を見るなら、大体予想が出来る。
すなわち、現代は記録は残っていないものの、信仰において優れた人達であったか、当時のユダヤ人たちにとって重要な部族の父祖であったか。
4:9 ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。その母が「わたしは苦しんで(オーツェブ)この子を産んだから」と言ってその名をヤベヅと名づけたのである。
4:10 ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみ(オーツェブ)をうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。
ヤベツも、出所の説明なく唐突にこの箇所に現れたが、彼が祈った内容と、そして、神が彼の求めるところをゆるされた事が記されているのは、歴代誌の系図の中でも異例である。
彼の母は、彼を苦しみ(オーツェブ)の中で産んだゆえに、ヤベツという名をつけた。ダビデ(愛された者)の名からすればかなり名前負けしているが、しかしヤベツはその名前、その家系、その出生にかかわらず、彼は神に祝福された。
なぜなら、彼が神に祈り求めたからだ。
いかなる出生であっても、主は信頼する者には報いてくださる、と信じて呼び求めるなら、主はその人に目を留めて祝福して下さるのだ。
彼の祈りの内容は、「わたし」が栄えるように、という内容の「幼い信仰者」の祈りではあるが、少なくとも、彼の主と交わりを持とうとする信仰が、からしだねほどでもあるから、主はその信仰を受け取って下さったのだろう。
しかし、いつまでも幼い祈りばかりしていてはならない。信仰において練達し、生活も安定して来たなら、祈りの主人公は「わたし」から「主キリスト」にシフトし、求める事も、自分の事よりも御国の拡大する事を願い求めて行くべきなのだ。次のように記されている。
ピリピ2:21 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
2:22 しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。
4:13 ケナズの子らはオテニエルとセラヤ。オテニエルの子らはハタテとメオノタイ。
4:14 メオノタイはオフラを生み、セラヤはゲハラシムの父ヨアブを生んだ。彼らは工人であったのでゲハラシムと呼ばれたのである。
ケナズの子オテニエルはヨシュア記15章や士師記1章で、信仰によって進み出て祝福を勝ち取った事が記されているが、彼もまた、系図的に出所不明なのである。
彼は信仰によって巨人の住む土地を真っ先に攻め取り、カレブの娘アクサを勝ち取ったのみならず、アクサをそそのかして、泉をも得る事が出来た。(ヨシュア記15章)
ヤベツと同じで、求める者には主は豊かに与えて下さり、探す者は見つけ出し、叩く者には開いて下さるものなのである。
4:15 エフンネの子カレブの子らはイル、エラおよびナアム。エラの子はケナズ。
あの有名なエフネの子カレブも、系図的に出所不明なのである。しかもカレブの名は、犬という意味である。
それでも彼は、信仰によって祝福を勝ち取った。
イスラエル60万もの男子が、すべて不信仰に陥って「エジプトに帰ろう」と言った時も、ヨシュアとカレブの二人は、断固主を信頼してあの約束の地に行こう、と言って信仰を貫き通した。
それで彼には、ヘブロンという信仰の父祖達が住んだ土地を得る事ができた。
4:21 ユダの子シラの子らはレカの父エル、マレシャの父ラダおよびベテアシベアの亜麻布織の家の一族、
4:22 ならびにモアブを治めてレヘムに帰ったヨキム、コゼバの人々、ヨアシおよびサラフである。その記録は古い。
4:23 これらの者は陶器を造る人で、ネタイムおよびゲデラに住み、王の用をするため、王とともに、そこに住んだ。
ここは出処元ははっきりしている。この子孫たちは、ユダの3人息子、エル、オナン、シラのうち、長男エルと次男オナンは主に忌み嫌われる事を行ったゆえに主に打たれたが、三男のシェラはこうして生き延びた、その彼の系図である。
おそらく、兄たちが主に打たれるのを次々と見て、主を恐れ、そうして子孫が残され祝福され、その子孫は亜麻布織や陶器を造る職人として、また、王の用をする者として栄えたのだ。
今回の系図が物語る事は何か。
それは、いかに出処元が不明であろうとも、あるいは、卑しい出であろうとも、主を敬い主に呼び求める者には、主は祝福の扉を開いて下さる事、そして、いかに高貴な出であろうとも、主を軽んじ御言葉に従わない者は、呪われてしまう、という事を語ってはいないだろうか。
ちょうど、異邦の遊女ラハブやルツが信仰によって栄光の家系へと入ってきたように、また、ちょうどダビデの血を引く王家であっても不信仰によって災いに遭ったように。
私達は、主を敬い、御言葉どおり行い、主に祝福された子孫を残していくものでありたい。
栄光のダビデ王家、その没落して行ってしまった理由(1歴代誌3:1-24)
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- pastor 2017-7-20 21:52
栄光のダビデ王家、その没落して行ってしまった理由(1歴代誌3:1-24)
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第一歴代誌3章は、特に、ダビデ王家の家系が記されており、1−4節はダビデがヘブロンで王であった期間に生まれた子達、5-8節はエルサレムで王であった期間に生まれた子達が記されている。
10節以降、16節まではダビデの子ソロモン以降、歴代の王達が記されており、17節以降は、バビロン捕囚以降の王家の家系が記されている。
3:1 ヘブロンで生れたダビデの子らは次のとおりである。長子はアムノンでエズレルびとアヒノアムから生れ、次はダニエルでカルメルびとアビガイルから生れ、
3:2 第三はアブサロムでゲシュルの王タルマイの娘マアカの産んだ子、第四はアドニヤでハギテの産んだ子、
3:3 第五はシパテヤでアビタルから生れ、第六はイテレアムで、彼の妻エグラから生れた。
3:4 この六人はヘブロンで彼に生れた。ダビデがそこで王となっていたのは七年六か月、エルサレムで王となっていたのは三十三年であった。
・・・
3:9 これらはみなダビデの子である。このほかに、そばめどもの産んだ子らがあり、タマルは彼らの姉妹であった。
この、ヘブロンで生まれた子達で、サムエル記などに特筆されている子達は長子アムノン、三男アブシャロム、四男アドニヤであるが、いずれも災いの物事を起こし、剣で殺された者達であった。
アムノンは三男アブシャロムの妹であるタマルを力づくで犯し、その日、ダビデは一度に、強姦の罪を犯した息子の父親・強姦被害者の娘の父親になってしまった。
しかしその後、アムノンは何のお咎め無しのまま過ごし、ついにはアブシャロムによって殺されてしまった。
アブシャロムは父に歩み寄ろうと多くの努力をするも、父はのらりくらりとかわし続け、ついにはアブシャロムは父王に反逆してクーデターを起こした。
父ダビデ王はそんなアブシャロムに対しても憐れみをもって対応するが、しかし父に反逆して王権ご強奪し、また性的な面で父を嘲ったアブシャロムは、主に呪われた形で殺されてしまった。
四男アドニヤは、ソロモンが次の王になると知らされていたにも関わらず、自分で勝手に王になろうとした。
しかしダビデははっきりとソロモンが王であると宣言し、彼は謹慎処分を受けたにもかかわらず、バテ・シェバをそそのかしてなおも王になろうとしたゆえに、殺されてしまった。
このように見ると、あの偉大な王ダビデの子どもたちは、災い続きであるように見える。
その理由は、ひとえに、ダビデ王自身の罪の刈り取りであるといえる。
主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)
ダビデが犯した「姦淫」は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。
ダビデ自身は、彼が犯した姦淫と殺人の報いをその身に受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまい、ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなったのだ。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレミヤ31:18-22)
3:5 エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。
この4人は、バテ・シュアから生まれた。サムエル記ではバテ・シェバであるが、なぜ歴代誌ではバテシュアと記されているのか。
たまに、歴代誌の名前の記述と、列王記など他の書の記述が違う事があるのには、それぞれの理由があるであろうが、その理由の一つに、「読み替え」がある。
読み替えとは、似た発音であるけれども、言葉の中の意味付けを違える、言葉遊び的な行為である。
たとえば、サムエル記における「バテ・シェバ」の名前の意味は「誓いの娘」、歴代誌における「バテ・シュア」の名前の意味は「豊かさの娘」である。
もしかすると、歴代誌記者は、ダビデが不当な形であるにせよ妻にしたこの女性が、かえって豊かな子孫の源となった事を示すために、そのような読み替えを行ったのかもしれない。
3:10 ソロモンの子はレハベアム、その子はアビヤ、その子はアサ、その子はヨシャパテ、
3:11 その子はヨラム、その子はアハジヤ、その子はヨアシ、
3:12 その子はアマジヤ、その子はアザリヤ、その子はヨタム、
3:13 その子はアハズ、その子はヒゼキヤ、その子はマナセ、
3:14 その子はアモン、その子はヨシヤ、
3:15 ヨシヤの子らは長子ヨハナン、次はエホヤキム、第三はゼデキヤ、第四はシャルムである。
3:16 エホヤキムの子孫はその子はエコニア、その子はゼデキヤである。
以上の名前は、列王記でも学んだ、南ユダ王国の歴代の王達である。
敬虔なユダヤ人であれば、それぞれの王達のそれぞれのドラマをよく知っているため、この「人名の羅列」を読む時も、一人一人に込められたドラマ、すなわち主に従って祝福されたドラマ、あるいは、主を軽んじて呪われたドラマを、この僅か7節の中に、走馬灯のように見えるのである。
3:17 捕虜となったエコニヤの子らはその子シャルテル、
3:18 マルキラム、ペダヤ、セナザル、エカミア、ホシャマ、ネダビヤである。
バビロン捕囚以降のダビデの血筋の者が、17節以降に記されている。
22節に登場するハトッシは、エズラと共にバビロン捕囚から帰還した、ダビデ王家のものであることが、エズラ8:2に記されている。
歴代誌は、エズラの時代に記されたものと思われるが、3章後半において、いよいよ、リアルタイムに生きる人々の名前が記述されるに至ったわけである。
ダビデの代は姦淫によっていのちが汚され、そして、子どもたちに御言葉伝授をしっかりして来なかった事によって、災い多くしてしまい、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。
エズラは、自分たちは御言葉がなかったから、御言葉を子どもたちに教える事をして来なかったから滅びた、と分かり、テフィリン教育、すなわち、御言葉暗唱教育を始めた。
それが現代に至り、ユダヤ人は13歳までにモーセ五書を暗唱できるようになり、今日、ユダヤ人は金銭的に、権力的に祝福されているのである。
私達クリスチャンも、御言葉教育にこそ力を入れるべきである。
ペレツの子ヘツロンの系図から読む、御国の祝福を強奪した子孫の祝福(1歴代誌2:18-55)
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- pastor 2017-7-19 9:19
ペレツの子ヘツロンの系図から読む、御国の祝福を強奪した子孫の祝福(1歴代誌2:18-55)
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歴代誌の系図の主人公は、ダビデ王家や祭司の家系であり、前回、それの直系の系図をダビデまで見た。
今回の箇所は、ダビデ王家の父祖・族長ユダが、嫁のタマルとの間に生まれたペレツの子、ヘツロンのいわば傍系の系図である。
ヘツロンの父ペレツは、彼の母タマルの胎にいた時、先に手首だけ出したのに、再び母の胎に入ってしまったゼラフを出し抜いて、先に生まれ出てきた故に、ペレツ(割り込むの意味)という名がつけられた。
母の胎の中のほうが肉的には心地よいかもしれないが、肉の心地よさに浸り込んで、長子の権利を割り込まれてしまったゼラフの系図は、わずかしか記されなかった。
このように、御国は積極的に攻めて勝ち取るものの手によって、奪われるものである。
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。(マタイ11:12)
私達も、御国の事については、貪欲に勝ち取って奪いとって行くべきだ。
歴代誌の系図は、現代の私達の目から見れば、よくわからない名前の羅列で、読んでいるだけでも飽々して来る人もおられるかもしれない。
しかし今回の箇所には、イスラエルにおける重要な地名が幾つか登場し、その地を建て上げた父祖たちが記されているゆえに、当時のユダヤ人にとっては「ああ、あの地は、このような人達が建設したのか」という示唆を与えるものであり、またここは現代を生きる私達に対しても、主を敬う人の子孫はこんなにも数多くなって、読んでいるだけで飽々して来るほどになる、という事が、少なくとも実感できるだろう。
2:18 ヘヅロンの子カレブはその妻アズバおよびエリオテによって子をもうけた。その子らはエシル、ショバブ、アルドンである。
2:19 カレブはアズバが死んだのでエフラタをめとった。エフラタはカレブによってホルを産んだ。
2:20 ホルはウリを生み、ウリはベザレルを生んだ。
ヘツロンの子・ラムが、その後につづくダビデ王家に至る直系であるが、ラムの兄弟・エラフメエルとラムの子々孫々が、18節から55節に至るまで、多数記されている。
2:25 ヘヅロンの長子エラメルの子らは長子ラム、次はブナ、オレン、オゼム、アヒヤである。
エラフメエルの子孫の中には、子がないままで死んだ人もいたり(30,32節)、娘しかいなくてエジプト人の奴隷に娘をめとらせて子孫を産んでいった人もいるが(34節)、それでも多くの子達がエラフメエルから生まれた。
2:42 エラメルの兄弟であるカレブの子らは長子をマレシャといってジフの父である。マレシャの子はヘブロン。
ここに登場するヘツロンの子カレブは、ヨシュア記に登場する有名な信仰者、約束の地をヨシュアと共に信仰によって勝ち取ったあのカレブとは別であると考えられる。
なぜならヨシュア記のカレブは、「エフネの子カレブ」であり、その系図が4:15に記されているからである。
このカレブは、正妻・妾あわせて、多くの子達が生まれ出た。
しかも、その子達には、有力者が多数生まれた。
2:50 これらはカレブの子孫であった。エフラタの長子ホルの子らはキリアテ・ヤリムの父ショバル、
2:51 ベツレヘムの父サルマおよびベテガデルの父ハレフである。
2:52 キリアテ・ヤリムの父ショバル子らはハロエとメヌコテびとの半ばである。
2:53 キリアテ・ヤリムの氏族はイテルびと、プテびと、シュマびと、ミシラびとであって、これらからザレアびとおよびエシタオルびとが出た。
2:54 サルマの子らはベツレヘム、ネトパびと、アタロテ・ベテ・ヨアブ、マナハテびとの半ばおよびゾリびとである。
2:55 またヤベヅに住んでいた書記の氏族テラテびと、シメアテびと、スカテびとである。これらはケニびとであってレカブの家の先祖ハマテから出た者である。
このカレブの子孫からは、ベツレヘムやベテガデル、キルヤテ・ヤリムなど、諸地方の「父」が出、また、氏族の元となる人が出た。
母の胎にいる時から争ってでも御国の祝福を勝ち得たいと行動したペレツの子孫は、とても祝福されている事が、系図からも分かる。
彼らの父祖ヤコブもそうだった。
主は、兄のかかとを掴んで生まれてきたヤコブ、長子の祝福を騙しとってでもつかみとりたいと願ったヤコブが、長子エサウから命を狙われた時、ひとりぼっちで旅しているヤコブに現れて下さった。
28:13 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。
28:15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
この時のヤコブは、杖一本の他は何も持たず、着の身着のまま逃げてきた状態だったが、後に、主は彼を大いに祝福し、二つの陣営を引き連れて帰って来る恵みに与らせてくださった。
まことに、天の御国は行動して奪うものであり、決して口をあけて待っていれば落ちてくるものではない。
むしろ、御国の祝福を得るためにもがかない人は、もがく人によって奪い取られてしまうのだ。
イスラエル-ユダ-ダビデに至る系図のドラマ(1歴代誌2:1-18)
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2:1 イスラエルの子らは次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、
2:2 ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アセル。
以上はイスラエル12部族の父祖たちであり、黙示録に至るまでも残る系図の本流中の本流である。
そして歴代誌では、この中から特にユダ族、レビ族について多くの紙面が割かれ、ユダ族の本流・傍流の系図が、2:3から4:23に至るまで記されている。
2:3 ユダの子らはエル、オナン、シラである。この三人はカナンの女バテシュアがユダによって産んだ者である。ユダの長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺された。
2:4 ユダの嫁タマルはユダによってペレヅとゼラを産んだ。ユダの子らは合わせて五人である。
ユダとタマルは、夫婦ではない。タマルは、ユダにとっては、息子の嫁、という関係である。
ユダはイスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系の家長だが、その大切な一族の初期の段階から、既に人の罪が渦巻くドラマがある。一体なぜ、このような事になってしまったのか。
『そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名を「シュアというカナンびとの娘」を見て、これをめとり、その所にはいった。』(創世記38:1-2)
事の発端は、ユダが、神に召された家族の元を離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を見て、それを妻とした所に始まる。
そのカナンの女・バテシュアは「シュアの娘:叫びの娘」という意味で、ようするに、女の名前は分からない。名前すら記される程のものではなかったのだ。
この異邦人の女との間に最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けたようである。(同3-5節) 異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなり、異邦人の娘の影響力がますます大きくなって行ったのだろう。
長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺されたのみならず、創世記を見ると、次男オナンもまた主の目に悪を行ったので、彼も主に打たれて死んでしまった。
息子が二人死んでしまったので、ユダはタマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、書いてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男シェラも、主に打たれて死ぬ要素が、十分にあった事を、ユダ自身認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠ざけるよりも、自分達の内にある神に嫌われる性質を遠ざけるべきだったのに、それをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやって、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとした。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神へ果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に神と人の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
主は、ユダの家系を神の民へと整えるために、まず、家の清めから始める。すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。
『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
「叫びの娘」という妻が死ぬ事によって、夫であるユダは、慰めを受けた。。。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。
嫁のタマルは、バテ・シュアと違って出生元は記されていない代わりに、名前は記されている。
彼女は、この神の民の家系の恐ろしさ、そして、素晴らしさを思い知っただろう。それで彼女は、いのちを賭けて、子を得るための行動に出る。
ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)
ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、二人は交渉し、そしてペレツとゼラフを産む。
ユダとタマルという父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。(ルツ4:12)
いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。
2:5 ペレヅの子らはヘヅロンとハムル。
このペレツが、正統なダビデ王家の本流となる。
ペレツは、元々、弟になるはずで、ゼラフが兄となるはずだった。しかし、この双子が母のタマルから生まれる時、ゼラフは手首だけ先に出たので、赤い印を手首につけられたのに、再び母の胎に戻ってしまい、ペレツが先に出てきたので、ペレツが長男となった。
母の胎から出てくる、その数時間の「競争」が、永遠の栄光の家系に入れたか、入れなかったかを切り分けた。
そう、私達も、この世という、永遠の目から見たら「わずか数時間の競争」が、永遠を決定するのだ。
栄光を手にするために努力するか、それとも、肉の心地よさに戻ってそれを逃してしまうか。
まことに系図をみる時、その連続ドラマを、またたく間に見せてくれる。
傍流であるゼラフの系図は、6-8節の3節にしるされている。しかも、悪い意味の教訓のために、である。
2:6 ゼラの子らはジムリ、エタン、ヘマン、カルコル、ダラで、合わせて五人である。
2:7 カルミの子はアカル。アカルは奉納物について罪を犯し、イスラエルを悩ました者である。
2:8 エタンの子はアザリヤである。
このアカルは、ヨシュア記で言う所のアカンである。
彼は、滅ぼしつくすべきものを自分の手元に保持したため、彼のみならず、イスラエル全体が戦いに勝てなくなってしまい、結局、彼のみならず、彼の子達もすべて滅ぼし尽くされてしまった。
神の民の系図の枝から、子々孫々とも、切って捨てられてしまったのだ。
私達も、まことのぶどうの木であるイエス様につながり、神の民の枝とされた。
その私達は、実を結ばないで切って捨てられるものではなく、キリストに繋がり続け、豊かな実を結ぶものとなるべきだ。
2:9 ヘヅロンに生れた子らはエラメル、ラム、ケルバイである。
2:10 ラムはアミナダブを生み、アミナダブはユダの子孫のつかさナションを生んだ。
2:11 ナションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、
2:12 ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生んだ。
9-12節は、ダビデ王家の本流が、ヘツロンからエッサイまで直接記されている。
マタイの系図には遊女ラハブやモアブ人ルツの名も記されているが、ここにはそれは無い。
2:13 エッサイは長子エリアブ、次にアビナダブ、第三にシメア、
2:14 第四にネタンエル、第五にラダイ、
2:15 第六にオゼム、第七にダビデを生んだ。
2:16 彼らの姉妹はゼルヤとアビガイルである。ゼルヤの産んだ子はアビシャイ、ヨアブ、アサヘルの三人である。
2:17 アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシマエルびとエテルである。
2:18 ヘヅロンの子カレブはその妻アズバおよびエリオテによって子をもうけた。その子らはエシル、ショバブ、アルドンである。
エッサイの子たち、すなわちダビデの兄弟姉妹たちが記されている。
特にツェルヤの子ヨアブは、有能な将軍であったが、王であるダビデの言葉に何度もそむき、むしろダビデに意見するような傲慢と、罪のない人の血を流し続けたゆえに、殺されてしまった。
以上のように、主を敬い、その御言葉を大切にする人は、主から大切にされ、祝福の子々孫々を得ていくが、主を軽んじ、その御言葉をないがしろにするものは、せっかく栄光の家系に生まれても、その系図という木からは切り離され、火に投げ込まれてしまうのだ。
イシュマエルの子孫とエサウの子孫(1歴代誌1:28-54)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
1:28 アブラハムの子らはイサクとイシマエルである。
アブラハムの子、イサクの子孫が、神の民の直系子孫であるが、今回の箇所は傍系の系図、すなわち、イシュマエルやエサウの子孫の系図が挿入されている。
1:29 彼らの子孫は次のとおりである。イシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、
1:30 ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、
1:31 エトル、ネフシ、ケデマ。これらはイシマエルの子孫である。
イシュマエルの子孫がここに記されている事は、将来のイスラエルにとって重要である。
なぜなら今、まさに現代、イスラエルはこのイシュマエルの子孫であるアラブ人によって苦しめられているからだ。
イシュマエルの子孫はどのような性質になって行くのかは、母の胎にいる時に決まっていた。
創世記16:11 主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。
16:12 彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。
イシュマエルにしても、エサウとヤコブにしても、母の胎にいる時から主はその子がどのようになるかを予告しているが、母がどのように胎教するか、それはとても重要である。
多くの国々では義務教育はだいたい5-6歳から始まるが、イスラエルの律法では、いのちが母の胎に宿った時から既に始まっており、母は、胎児に向かってトーラーを毎日聞かせる。
それで、彼らは生まれた時から既に御言葉の耳が開かれており、13歳の少年になる頃には、モーセ五書全部を暗記しており、大人になる頃には天才となっているのである。
結婚と子育て過ちや、性的な過ちは、後々の子々孫々に、致命的な災の根を残す事となってしまう事を、おそらくエズラは警告し、傍系子孫の系図も記しているのだろう。
1:34 アブラハムはイサクを生んだ。イサクの子らはエサウとイスラエル。
イサクの子、イスラエルの子孫が神の民の直系だが、エサウという「傍系」の系図を、詳細に載せている。
1:35 エサウの子らはエリパズ、リウエル、エウシ、ヤラム、コラ。
1:36 エリパズの子らはテマン、オマル、ゼピ、ガタム、ケナズ、テムナ、アマレク。
テマン人は知恵深い人々として他の箇所に記されている(ヨブ2:11、オバデヤ9)が、アマレクは暴虐な民として神が徹底的に絶ち滅ぼすように命じている。
エサウは俗悪な者としてヘブル12:16に記されており、俗悪な子々孫々を産んでいった。
1:43 イスラエルの人々を治める王がまだなかった時、エドムの地を治めた王たちは次のとおりである。
1歴代誌1:37-54には、エサウの子孫の系図と、その中から出た王達、首長たちが、大勢記されている。
それは、イスラエルにはまだ王がいなかった時、であると書いてあるので、イスラエル(ヤコブ)はエサウの祝福をだまし取ったものの、栄えたのはエサウのほうだったようである。
エサウの子孫が王をつくり、増えていったその時期に、イスラエルはエジプトで奴隷生活を430年も送っていたからだ。
しかし、歴史的視点から見ると、エドムは最終的には滅び、イスラエルは栄え祝福されている。
エドム人(イドマヤ人)はバビロン捕囚の時までは栄えていたのに、イエス様の時代になると少なくなり、最終的に、民族としては歴史から姿を消している。
エドムはなぜ絶滅してしまったのか。
その原因は、オバデヤ書に記されている。
エドムは、他国人がエルサレムを攻めた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、戦禍から逃げようとするイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)
詩篇137篇は、バビロン捕囚されたあるユダヤ人が詠んだ詩で、バビロン人が余興でユダヤの歌を歌うよう言われた時、悲しくて歌えなかった様が記されている。
彼は7節でこう詠んでいる。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』
このように、兄弟が困っている時に、敵の側に立って一緒にいじめるのが、エドム人の特徴であり、その態度が主を怒らせた。
その時以来、主は周辺の国々を用いて、エドム人を立て続けに攻め立て、最後には滅ぼされる。
『オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。』(オバデヤ1節)
『見よ、わたしはあなたを国々のうちで/小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。』(2節)
『主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。』(15節)
私達にももしかしたら、エドムのように、困っているのに逆に苦しめるような、凶悪な身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを必ず守られる。
そしてもし、エドムのように、兄弟姉妹が困っているのに、敵の側に立って一緒に攻め立てたりするなら、主はその者に敵対される。
『肉の物、高ぶる者は、主の御前に長く存続できない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。』(詩篇37:32-38)